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擬装循環型包囲網 リスク拡充社会(2)
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/261.html
投稿者 金十字架 日時 2015 年 11 月 01 日 01:26:54: mfAWtS4GF8MpY
 

とある神社のご神木にまつわる話でこういう話が在った。


ある地区を代表する区長が、"神木"である落葉樹の枝の剪定を業者に頼んだ。

訊けば、近接する個人所有の住居内敷地領空に、神木の枝が伸びてしまい、
落ち葉が溜まって苦情を受けたのが原因だそうだ。

庭師は頼まれるがままに、小さい敷地にしては"大きくなり過ぎた"「御神木」の枝を切った。

「基本、樹木は枝葉を切れば養分を取れなくなり、その事で枯れるかもしれませんよ」と断り置きをしたと言う。

すると、当然のことなのだが、しばらくして、
みるみるうちに木は弱り果て、予想された通り枯れ木同然になってしまった。

すると、次に区長は、「なんとか蘇らせて欲しい」と再び庭師に頼みにきた。

「代々続いた歴史ある神木が、自分たちの代で枯れてしまったらどうなるのか」
それ迄そうした考えがなかったのかわからないが、
今度は別の住民からの問い合わせに不安になったようだ。

なるほど、区長は、それぞれの住民の不安を解消しなければならない訳である。

だが、時、既に遅し。

住民も、もう少し地区の為に知恵を貸したら良かろうに、
それぞれは何とも後味の悪い、
のちに誰かしらの責任問題に発展しそうな、意識的リスクを抱えてしまった。

業者である庭師は、再び樹木活性剤の薬を根に注入しに再び神社に出向いた。

見ればもういくら施しても枯れてしまう事は明らかだった。

だが、区長もそのくらいの事は知らない筈も無く、
その時点で、再び蘇る事のない事を理解していた筈である。

住民が集められて、業者によって"蘇生薬"が撒かれる。
ほぼ半日をかけて、たっぷりと"費用をかけた"液体で、神木の根を浸した。

その様子は近隣住民の眼に焼き付いた。

つまりこれは、「出来ることは尽くした」と云う既成事実をつくる為の、
「リスク回避の為のパフォーマンス」でしかなかった。

こうして氏子、業者、地区の代表者の責務は果たされ、
意識的なリスクは最小限に留められたように見えた。

だが、その場で何ら問題が解決した訳ではない。

唯一そこで黙殺されたのは「神木」と云う存在だが、
人間社会に於いてそれは、"無口な者"でしかない。

やがて三たびそれは近隣住民に「隣接する民家に倒れる」と云う新たなリスクを抱えさせるだろう。
そしてまた、次に同じ業者がきっと呼ばれて、
「リスク回避」と云う正当性なる回転刃で、切り倒されてしまうだろう。


この話はまた、盲従的な「信心深さ」が、何かしらのリスクを孕んでいる事を告げ、
いつから人間社会の中に不可解な「重責」と云うものが居座り、
心理的リスクをただ代々引き継ぐだけの作業が続けられて来たのか、
その事を私に考えさせた。

最終的には、きっと何も残らないだろうに。


現行の社会性の中に於けるそれぞれの個人は、
自己防衛を第一の優先事項にすることを考える。

なんとも矛盾した話のようだが、互いを簡単には信用しないということは、
逆にこうした社会では信頼性を勝ち取るとの考えが在る。

一定の社会的位置づけとしての距離を保つ事で、
改めて互いの協調性の中に緊張感を維持し、リスク軽減、または回避を促す協定を結ぶのである。

勿論それもそれぞれの保身の為のリスク回避の為のテクニックである。

しかし、どんな場所でも、そのようにリスクを孕んだ関係性の中では、
最も"もの静か"で、かつ、"自分に素直"な"観察者"が苦汁を呑むのかもしれない。

こうしたリスク回避に余念なく、
誰もが得するように循環しているように見える社会に於いても、挫折し、離脱していく者がいる。

「何事にも向き不向きが在るものだ」と確かに言えるのなら、
こうした社会で自分をなんらかの"ポスト"としての位置づけに置かれる事に、
非常に難色を示す者がいても、何らおかしな事とは言えないだろう。

決してその者は何かに従順で居られないとする訳ではない。
逆に何かを強く信じるが為に、自分と云う存在を利用してそこに表現しようとする。


例えばこの社会性もまた、ある視点から見れば、異質なものであるかもしれない。
ともかく、現行の社会性もまた、何か特殊な信仰形態を通して、人々を統率しているものだとは言える。

「立て前」としてのものとは、全体性の組織構築の為、
またその統率の為に必要な考え方として存在する。

それはまた、それぞれの本音としての言い分を包込み、妥協、
納得の上で優先すべき意見だとされる。
よってそこにこそ、人々は纏められるものだとする。

だがこの「リスクに拠る支配統制の取れた宗教」にも、祭祀の為の祭壇があるようだ。

誰もがすべて、社会に於いて非常に重要な役回りを持っているが、
祭壇に上がれるのは、基本、徹底して自分の生き方に純粋な者だけである。

つまり、そこに捧げられるのは、生け贄となるポスト(地位)にあたる者である。

昔からそうかもしれないが、生け贄として祀りあげられる者とは、
存在自体がその社会観への痛烈な批判、そして風刺そのものと成りうる。

つまり私の目から見て、彼らはとりわけ、「非常に重要なポスト」に就いている。

"ポスト"に空きができれば、そこには淡々と"替え"が用意される。
(だが、実際の我々は、それを黙って見ている事が出来ない存在でもある筈である)

人々は何より社会のため、全体のためと、所属する企業、または社会の、
「統率の取れた組織構築の為の理念(立て前)」に沿って動く、とする。

企業も政府も個人も、社会的な責務(道義)と云う、
「大多数に支持された"正当性"」と云うものを利用して、それから物事を考える。

それは当然リスク回避の為である。

あらゆる社会的地位を失墜させるのは専ら、
そうした世間の"正当性"によって推進される、圧倒的な団結力であるのだから。

そこでの個人とする者は、そうした繋がりをどこか敬遠した判断力を自身に強いている。

先ずは何を打ち出すにも、自己保身の為。

リスク回避の為の"安全弁"として、"信頼出来る何か"を常に確保しておかなければ、
誰とも安心して繋がる事は出来ない、と考えるらしい。

自身の肩書き、役職、社会的立場を守ろうとする事は、
社会性に鑑みて容認、また昨今は、とみに奨励されている。

我々は先ず、自分が安心出来る場所を「安心出来る立ち位置」として確保したいのである。
そうした場が自分側にあると判断すれば、途端に人は、
当たりが強く、リスクを感じずどこにでも抗議する事が出来るようになる。

だが、そうした盾前に対して「個人の本音」は実際はどうなのだろうか。

どこかで、また別の新たなリスクが生まれて頭を悩まさないとも言えない。
しかし、最終的には誰かの責任、誰かの意見に押し流されている事が、
やっぱり楽だと感じてしまう。

何故なら、周囲の人間、友人、愛する家族も皆一様に同じ生き方をしているし、
そうした大多数の中に自分は居たい、と。

「利用出来るもの」は利用する。
確かにそれで軽やかに居られるのなら、それに越した事は無い筈だ。

しかし、そこにはどうしたって、
遠く知らない誰かの「生け贄」もまた必要とされつづけると云う事なのかも知れない。


この社会は、一体どんなリスクの上に成り立っているというのだろうか。

リスクの無い社会へ移行する為に、
誰がどんな危険性を冒さなければならないと言うのだろうか。

そもそも我々の知る正しさと云うもので、何を果たそうとしてここにいるのだろう。
 

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コメント
 
1. 2015年11月01日 02:12:32 : kGGJfyyTd2
やはりリスクは個人の判断によると思う。例えば社会組織の与えるポストを妥当だと判断すれば社会上の立場を命を懸けて守ろうとするだろうし、受け入れ難いと判断すれば社会上の立場など気にもかけずに反社会的な行動に出るだろう。当然「生け贄」という身分が気に入らなければ反抗すればよいだけである。しかし反抗しても勝てる見込みがなく、かと言って受け入れるのもできない者が引きこもりになるのではないか。これは自分にとって有利な戦略を模索しているだけだと思う。しかし社会にとってみれば貢献もせずに負担ばかりかけるような者は害であり、ゆえに引きこもりは悪としてたたかれるのである。

もちろん社会制度を支持する者の方が強い場合でも、放射能を浴びせられたり重い社会負担を押し付けられれば自分が「生け贄」にされている事に気づくだろう。やがて支持する方がリスクが大きいのか離反する方がリスクが大きいのか、判断を迫られる時が来るのではないか。


2. 2015年11月01日 08:58:22 : z21ZXlbTkk
抑々リスクがない完全な社会のもとに、態々リスクを冒してまで
生まれてくる者がいるのだろうか。
「時計仕掛けのオレンジ」みたいな話だ。

リスクとは、冒されるべくして(侵す、犯すではない)冒すものだ。

故に生命にとってのチャレンジ、即ち意義があると見做す。


3. 2015年11月01日 10:08:10 : YaegIPKLG2
気になったんだけど。
枝で養分とってる?そのせいで枯れちゃう?
枝を落としたせいじゃなく、他に理由があるんじゃ?
毎年一回、実家の狭い庭にも植木屋さん来てもらうけど。
落葉樹なんてびっくりするほど切っちゃうよ。その方がいいらしいよ。
イチジクの木なんて、太い幹だけ残して切っちゃうよ。
私はマンション住まいだけど、ベランダから見える街路樹は落葉樹、剪定されてすっかすかだよ。。
種類によるのか?

4. 2015年11月09日 13:23:57 : q931E3NW4E
>01,02,03
コメント有り難うございます。

どうした事も決まりきった形をとる必要はありません。
ですが、問題定義をするにあたっては、その為の一応の枠組みは必要とすることになります。

それぞれの認識に於いて、根本に立ち返った自身の力と結びつく事が何よりも重要である事を申し上げております。
そして、基本、誰にとっても「必要とするもの=求めるもの」が得られるような社会生活が望ましい事は言う迄もありません。
我々は幾つもの試みを経て、そのように感じる心と云うものを持つことに至ったように思います。
私たちはただ争いの中にのみ何かを勝ち取る事を求めている存在ではないのですから。


5. 2015年11月09日 13:45:59 : q931E3NW4E
>01
その場合、あなたの言うように、その者は「生け贄」となる事を拒否出来る者、と言うことが出来ます。

ここで指す「生け贄」とは、そのポスト(位置づけ)そのものを示しています。

誰かが必ずそうした位置づけに立たされてしまうと云うのは、
単純に言えば、かけっこ競争して一位が生まれれば、ビリもまた生まれるという、
極端な発想をそのままシステムとして採用に至った事によります。

そうした競合性とは基本、それを求める者だけがそこに収まればよいものです。
万民がそこに収まらなくてはならないとする事に対して、意義を申し立てる必要が在ると思います。
学校の教育現場で、それを不服とする考えを持つならば、その時点ではっきりとその意思を示す事が何よりも大切な事です。

有無を言わさず、その申し立ても出来ないままに、
そこに半ば強引に収められてしまうとする時、
純粋な性質は歪な形に変形されてしまいます。

それを最後迄拒む時、狂気とは発症を見せ、そのシグナルは大人達に向けられるのではないでしょうか。

ここで既に人々は変革の意思と云うをもまた植え付けることになっていると私は思います。

何世代にも渡って、その種はようやく発芽を見せているのです。


6. 2015年11月09日 19:01:26 : q931E3NW4E
05に脱字が在ります。
以下です。

>この時点で既に人々は変革の意思と云うものをもまた植え付けることになっていると私は思います。


>01
(続き)

"生け贄"と云う言葉を使用したのには、かつてそうした言葉が実際に使われた時代と今を比較してみても、
本質的な人間性と云うものは、当時と何ら変わり映えしていないとの想いからです。

そしてまた、誰もが入る事を望まないポストがある限り、そこに誰かしらは必ず入れられてしまうのですから、それは生け贄です。

そこに圧し込められる者は、単に悲観的で消極的な者を指すかも知れません。

あなたも仰るように、抵抗する力はあっても、既存の社会性に迎合しない、
またそこに協調性を見せない態度を取る限り、短絡的にも、
そこに在るのは反社会的な思想を持つ立場だと看做されることになります。

その事には、沖縄に対する国家的DVというべき現場が、この国の本質と云うものを物語っています。

そうすることは、現行の政治体制と社会性に正当性を与える為に必要とされる、
"必要悪"、または見せしめとしてのポストと言えます。
しかし逆の視点から見ればそのポストは、現行社会の消極的体質を際立たせるもので、
謂わば現行政治の"社会的悪"を人々に気付かせる為の"必要善"であるとも言えます。

かつて姥捨て山というものが存在しましたが、その頃と何ら現在の社会性は変わり映えしていません。
この国の社会的道義と云うものの出鱈目さと、皮を被った真の姿を物語っています。
故にそうしたポストには、ある思想から、果敢に自らそのポストを引き受ける人々も当然居ると言えます。

そして常識と云った社会的通念上に必要とされる役回りである限りに於いて、
そうしたポストは政治的主張に匹敵し、存在するだけで常に社会性に対して重要な立ち位置として疑問を呈し続けます。

それは紛れも無く、物事を改善へと導こうと促す全体性としての働きの一助を担うものだと言えます。

つまり、現行の社会に於いて生け贄となる人々とは、
現行の社会の不備な点を指摘する重職であるとも言えるのです。

警察がこの世界に潜在的な犯罪者が沢山存在すると信じているように、
医者もまたそのように病気を根絶するどころか、ますますその事で、
新たな病気が多くの患者を必要とするように、
常に誰からも求められていない筈のものが「不可欠」とされる限り、
"不要なポスト"、そして問題定義は無くならず、ますます増え続けます。

その原因となるものは、人々の観念的な眼差しであり、
そうした視線の先に問題とは生み出されつづけているのだと云う事です。


7. 2015年11月10日 02:47:34 : q931E3NW4E
(続き)

>01

>精神病、鬱病、ひきこもり

これは自分を包込む社会性に対する反発と怒りにより、自己否定に陥る事によるものです。

単純にそれらは、自分の価値を理解する事で解消します。
自分が認めたく無いものをすべて認める、つまり受容と寛容さを養う訓練によって解消されます。
あらゆる問題意識は自意識が齎すものだと云う事に気付けば、
それをコントロールする事が必要だと云う事になります。
つまりコントロールする側に立つ事によって、自身の力を感じられるのです。
自分の力を感じられれば、自分に不安な要素は解消されます。
新たな不安が生まれても、その都度取り込んで、認め、受け容れ、そして手放す事が出来ると信じる事によって、自分を信じる事が出来るようになります。
抵抗が消え、痛みが消え、不安な要素は消えて行きます。
それはその都度、気付いた時やれれば良く、そしてまた、いつでも常時、自分の力に気付き続けるようになる事が望ましい訳です。
それは繰り返す事によって自ずと掴めてくる事です。

しかし、私はそれら社会性に対して憤る彼らの在り方は自然なものだと云う気がします。
自然な彼らの感性を損なわせる社会性の方が本来変わるべきだと考えます。
その為の知恵や行動力は、既に我々は持ち合わせる段階に至ったと考えられるからです。


8. 2015年11月10日 16:25:48 : q931E3NW4E
社会経済に於いて政府に奨励される競合性、
特にその中で推進される徹底した合理主義とは、
基本的に社会全体にとっては非合理的なものでしかありません。

では何故それが推進されるかと言えば、単純にそこにあるのは「支配社会であるからだ」と言えます。

支配社会とは比較が齎すあらゆる不安材料をそのまま、その社会推進の原動力とします。

本来、比較することにより生まれる非平等的な違いはあってなんら間違いなど無いものです。
それぞれが互いに見て特異である事が自然です。
しかし、社会は違っていて良い筈のものを違いがあるのはおかしい事であるように巧みに印象操作します。
全体である人々はその印象の(不安の)解消に向けて、つまり自己の安心と生存の為に自らを不必要な迄に動かそうとします。

この自ら不安を煽ることによる人の行動の推進原理こそは、
謂わば、社会的性質としての犯罪心理を人の中に目覚めさせることにも繋がるものです。
(勿論そのような犯罪性などと云う性質は人単体に存在するものではありません)

そこでは、あらゆる循環すべき機能は、絶えず不活性な状態を維持すると言えます。
不安が基調で在る限りに於いて、そこに齎される報酬もまた、基本、不安を維持するだけの働きとなります。

けして消費経済活動自体が誤りだと云う事は在りません。
それが循環型と言えるシステムの特徴をきちんと取り入れていないと云う事が問題なのです。

薄利多売と云った原価をきった商品の転売が行なわれることや、
生産過多で日々廃棄される商品を処分する為だけにも、莫大な投資が必要な事自体は異常です。
基本的に、必要なものを必要とする人に届くと云った事や、
そして必要とされるものを必要な数だけ生産すると云った事が、
国と国民との間であってしかるべき繋がりであり、それが守られた上で、
それ以外の嗜好品の開発、生産で、企業家らは利益を挙げられれば良く、
経済資質としてのギャンブルはその範囲で遊ばれれば良いだけだと考えます。

経済が上手く回らないと嘆くよりすべきことを把握せぬまま、
勝つものが居れば負ける者が居て当然だと云うしがない発想によって、
社会全体が単なるハイリスクハイリターンと云ったギャンブル的な要素に毒され続けるのは、もはやそこに人々が国として存在する目的があるとは思えません。

単に勝ち残りをかけた生存競争の為の所有合戦の奪い合いです。

それが全体性にどうした影響を落とすか、
資材と人材を湯水の如く投資してきた挙げ句、ただ浪費しただけで、
その成果を何も挙げていないと云うのは、現行の人類社会が、
未だなんの軌道にも乗っていないと云う事を表しています。

どうしたことがどれだけ全体にとって、また環境そのものにとっても、損失を齎すかと云う事を判っていない訳です。

単純にあってしかるべき循環型のシステムがなく、
不活性型の非循環型システムをいつまでも採用し続け、
全体性に対しての合理性と云うものが機能しなければ、
単純に現行の社会はシステムとしては欠陥品であると言わざるをえません。


9. 2015年11月10日 23:50:45 : pEdN1c3VYQ
>>07

そうですね。社会規範を受け入れ、それに従うのも生き方の一つです。しかしそれができない人もいる。私の父親がそうでした。敗戦によって社会が激変し、新しい社会規範(ニューワールドオーダーとでも呼びましょうかw)を受け入れる事ができずに逃げました。逃げた先の社会で親ができなかった事を子供の私に要求されても、できるわけがありません。

大都市の中心部で治安や環境が悪化すると金持ちを先頭にして中心部から逃げ出し郊外に引っ越す事をドーナッツ化現象と呼びます。悪化した環境の中で磨耗するくらいなら逃げ出す事自体は悪い事だとは言えないと思います。しかし、問題は自分や家族が郊外の高級住宅地で生活できるほどセレブなのかどうか見極める事ではないのでしょうか。

生前父親は私に「こんなハズではなかった」と言っていました。私に言わせれば「あなたには選択できる余地があったが、私には選択する権利すら与えてくれない」のです。まぁ、親は自分では選べないけど、自分で選べる部分は失敗したくはないですね。


10. 2015年11月18日 16:12:03 : q931E3NW4E
>09

子供時分には選択権があるとは感じられませんが、
そこに生まれてくる以前に環境を、また親を自身の経験の為に選ぶとする、
魂の選択権は在ります。
私はそのような考え方をする事で、絶対的な自分の尊厳を得る、
つまり、自己の絶対的な責任=自己の自然な行動原理に繋がると云う認識を得ています。

あなたの親がとった選択は、単にあなたはそれを自分に利用できるものとして提供されます。
「何も出来ない」と判断、感じたときには既に、それを利用していると言えます。

あらゆる考え方、価値観、観念、一般論も全て利用できるもの、です。

あらゆる発想が自由に飛び交う中に、互いに気付けなかったものを与えあう事が出来れば、互いを認めあう事に繋がると思います。

私の11年前の古い投稿に、
「パパラギ ミュータント・メッセージ <真実の人>族の教え」
と云う本を薦著したものが在ります。

今一度それをここに転載したいと思います。

転用ここから
=============
書名: 『ミュータント・メッセージ<真実の人>族の教え』

書誌:
原題  Mutant Message Dawn Under (c)1991
発信  アボリジニ(オーストラリア原住民)<真実の人>族
著者  マルロ・モーガン
訳者  小沢 瑞穂
発行  角川書店(1995年6月30日初版発行)


私評:
 大きなサイクルの仕上げを図る最終調整のこの時期、地球上にはあらゆる文化伝統からのメッセージが出揃う。
 これは地球を最終的に立ち去ろうとする最古の先住民族オーストラリアのアボリジニ族が、私たち突然変異族メミュータントモに遺して行く最後のメッセージだ。
 宇宙からはじめて地球を訪れる訪問者たちは、まず地球の長老格であるアボリジニ族と鯨族に挨拶すると聞いたことがある。これ以上この星に貢献できないことを知ったアボリジニの真の中核<真実の人>族は、永久に地球を後にすることを決断し、地球の後継者たちにメッセージを遺そうとする。著者のマルロ・モーガンは、<真実の人>族の族長<王者の黒鳥>との特別の約束を果たすためにミュータントの世界"アメリカ"に生を享けていたらしい。
 『パパラギ』のツイアビ酋長の場合は"最初は生徒の目で、ついで疑問の目で、最後に告発の目でメパパラギモの世界に対した"とすれば、この本のトーンは最初からメ永遠の旅人モの自覚を持つ長老の慈悲の目でメミュータントモの世界に対している。
 この本の中では、何度か「永遠」という言葉が印象深く語られる。


引用:
 この部族によれば、人生とは動くこと、進むこと、変化することだ。彼らは生きている瞬間と生きていない瞬間のことを話してくれた。怒りや失望、自己憐憫や恐怖を感じるとき人は生きていない。呼吸しているからといって生きているとはかぎらない。呼吸の有無は埋葬の時期がきたかどうかを告げるにすぎない。息をしている人がすべて生きているわけではない。ネガティブな感情がどんなものかを知るために試すのはいいが、そこにずっと留まりたいとは思わないはずだ。魂が人の形をとったとき、人は幸せや悲しみ、感謝や嫉妬がどんな感情なのかを知るように定められる。だが、その経験を生かしてどの感情がつらいか、どれが楽しいかを学ばなければならない。

 つぎに私たちはゲームやスポーツについて話した。私はアメリカ人のスポーツ好きについて話し、野球選手が教師よりずっと高い給料を取っていることを話した。野球がどんなスポーツかを説明しようと私は言い、みんなで一列になって全力で駆けっこをしようと提案した。いちばん速い人が勝つと言ったとき、彼らは黒くて大きな目で私をじっと見つめたあと互いに見つめ合った。ついにだれかが言った。「だけど、ひとりが勝ったら残りはみんな負けるんだろう。それは楽しいのか? ゲームは楽しむためにあるんだよ。どうしてみんなでそんな競争をするんだろう。それで勝者が本当に強いと思うんだろう? その習慣はよくわからないよ。あなたの国ではうまくいくのか?」 私はただほほ笑み、「ノー」というかわりに首をふった。(p139)

===========

転載ここまで。


自然な力とは、無理に「ねじ曲げたり、抑え込んだり、溜め込むことをせず、そのまま流用する」事によって得られるもの、と理解する事が大切です。

これは人間が無駄の無い自然性を体現する上でもっとも効率よく、
抵抗の無い動きを描くのに必要な動作理論でもあります。

自然の運動の法則性を理解するには、ヴィクトルシャウベルガー関連の本がオススメだと言えます。

あらゆる自然の法則性は燃焼に関する発明品や、社会に取り入れる事が可能です。
そしてそれら法則性は、自然と一体性を実現した社会を創り出す上で不可欠だと言えます。

自然観を基礎に置いた社会性が実現すれば、そこからは、全体にとって互いに不益になる発想など生まれないことでしょう。

大人として一度社会に出てしまうと、どこかそれ以降は、
既存の社会性を維持運用して行く以外の考え方を採用しなくなる嫌いが在ります。
それはより優れた考え方に触れる事を何故か拒み続けているようにも思えます。

子供たちは、大人達が口を出す事をせずとも、それぞれ自身に見合うものを自分達でつかみ取ります。

経済観念にしても、既に決まっているとする形を与えてその扱いをただ教え込むのではなく、
本来は、彼らが自ら考え、組み立てる事を期待するだけであるべきだと思います。

「闘争本能」とは言葉を変えれば何の事は無い、
生物的なアクティヴさ、つまり自然な攻撃的性質を秘めた積極的感性を示すものです。

誰もがそうした性質を持っています。
ただそれが慢心に繋がらなければ良いだけのものです。
それ自体は建設的な方向性へと流用できるエネルギーと見るのが自然です。

そうした本能的性質を何も、一度、不活性な状態に落とし込む必要はない訳です。
効率的に見ればそれは非生産的でしかありません。

劣等感と云うものを与えて、それを敢えて逆手にとって奮い立たせ、
不協和音で軋む歯車を回す社会性へと誘導する必要など無い訳です。

大人はただ考える材料だけをきちんと用意、提供できればよいだけです。

彼らは自分達が必要とする事には率先して取り組み、
純粋に世界を見つめ、考え、大人が理解できない事を平然とやってのけます。

大人は、彼らが如何に社会に適合するかを見届けるのではなく、
彼らが自分達の見て来た枠に填まらない事を望む事です。

彼らが拡大して行く事を抑えつける資格など誰も有していません。


11. 2015年11月19日 14:09:19 : D76sU4mrCw
>>10

私の父親は旧家の長男で、祖父は戦前に商売で成功し大きな工場を経営していました。だから父親は家庭の中でも外でもストレスを与えられた事がありませんでした。

戦争に負けた後、祖父の財産は没収され社会の支配者は代わりました。しかしお坊ちゃま育ちの父親は環境の変化について行けずに逃げ出しました。

10さんのコメントでいろいろな説を唱えていますけど、私の人生経験から言わせてもらえれば人類社会は複雑そうに見せかけていても本質は単純なチンパンジーのそれと大して変わりません。要するに利害を共にする仲間がいて縄張りがあり、そこで家庭を築き次の世代を育てていくのです。それができない個体ははぐれ者として攻撃されるか奴隷として使役されるのです。人間社会とチンパンジーの違いは奴隷制度があるか無いかの一点のみです。

どのような状況であろうとも自分と立場を共にする仲間がいる縄張りから逃げ出してはいけません。なぜならばそれは次の世代がまともに育たないという大変な禍根を残すからです。欧州に逃げ出した中東難民などがテロや暴動を起こすのもそういった背景があるからでしょう。

人間は組織化すると強くなります。しかし利害を共にする仲間がいないと組織化できません。組織化できないと何時までも社会的な弱者のままです。他人の縄張りで育つのは自分と利害を共にする仲間に巡り合う機会が極端に少ないか全くないという事です。そのような環境で育った者は最初から勝ち目のない競争を強いられているようなもので、結局何もしないのがもっとも有利な選択になってしまいます。

私は親に言いたかったですね。逃げるくらいなら家庭など築くな。侵略者と戦う覚悟がないのなら一人異郷で人生を楽しめばよい。あなたに巻き込まれたおかげで私は望みもしない環境で人生を送るハメになった。悪条件が重なっていれば家族の構成員が増えるはずもなく、結局死ぬ者は死に、逃げ出す者は逃げ出して家庭は消滅しました。

昔の人が一所懸命と言っていたのには、こんなに深い意味があったのかとしみじみと思いましたよ。


12. 2015年11月20日 03:11:28 : q931E3NW4E
>11

あなたの境遇は理解します。
それぞれの時代の生き方があったことでしょう。それは認める事が出来ます。
そして、あなたはあなたの活きた時代を持ち、そこで得た考え方を手にし、そこに従って生きてきた。
そのあなたの言うことに対して、私は一定のレベルで賛同し、また尊重することは可能です。

あなたと私は少しだけ境遇が似ているかもしれません。
そしてまたその時代、同じような経験をした人も居たことでしょう。
しかし、それ自体は別段、何かしら評価基準として社会的に利用出来るものとして存在する訳では在りません。

そして、私はあなたのお父上がとった行動も、一定の評価に値すると云う考えです。
あなたもまたそれをいつか一定のレベルで賛同し、何も間違った事ではなかったと認める事が出来ます。
もし認める事が出来ないままだとしても、それはそれで何も問題は無い筈です。
何故なら、そこに巻き込まれ、多くの混乱の中、あなたはご「自分の考え」と云うものを手に入れたと仰っているからです。

そして、今やそこから自由になった筈のあなたが、
今だにあなたのお父様のとった行動に対して、遺恨を残しているというのは理解出来ません。

個人的な見解で失礼ながら、そこにあるのは理想の生き方に対する羨望と執着、
また、理想の父親像へ対する郷愁に似た想いと、甘えを引きずっているような気が致します。
あなたの長らく反発してきた想いを生前の父親へぶつける事が叶わなかったとする事に対してのものでもあるのではないでしょうか。
それは現在、「対象を変えて」そこにあった晴れぬ憤りをいつまでも解消できぬまま持ち歩いておられるような気がしてなりません。
それはさぞ苦しい事だろうと思います。

つまり、あなた自身はまだ、ご自身の手にした考えと云うものをお認めになってはおられないのでは無いでしょうか。
あなた自身を心から信頼できて居らず、その原因をご自身に求めず、
しいてはあなたをそのような境遇に合わせ続けて来たとして、
そして人間社会を、そして人間の性質そのものを理解出来ずに、敵視し続けている。

あなたの抱えているテーマ、そして解消すべき課題は実はそれだけなのではないのでしょうか。

あなたがその心にある考え方を全て綺麗さっぱりとさせる時が来るのを私は望んでいます。
そうした時、あなたから今と同じ言葉はでてこないように思います。

そうしながらも私はあなたに対してどうする事も出来ません。
あなたの問題を片付けるのはあなたご自身の力だけです。
これは単なる批判では無いと云う事とお受けとり願いたいものです。

まるで見当違いであったなら、それはそれで愚か者の言う事と看做して頂ければ結構です。

それから、組織化の利点を述べておられるのでしょうが、
しいては団結力と共闘力と云ったものをさすのでしょう。
しかし、その組織の中でそれぞれの個人が活きてこなければ、その組織はただのしがらみともなります。
猿と人とは同系列とも言え、類似点を挙げればキリがないでしょうが、
そうした問題をどう乗り越えるのか、人間とは未だ未知数であらねばなら無い筈です。

あなたは単に父親と同じ事をしたくはないと思った。
けれど、組織を得て、そこからどう動くのか、どう利用するかと云うのはまた別の話ではないでしょうか。

どこに達するか、その場所次第で、あなたは迷いつづける事になります。
あなたは他の誰でもない。あなたはあなたです。
私はあなたと云う人間の強さを知っているつもりでありたいと願います。


13. 2015年11月20日 21:03:40 : D76sU4mrCw
>そして、今やそこから自由になった筈のあなたが、
今だにあなたのお父様のとった行動に対して、遺恨を残しているというのは理解出来ません。

何者も、過去から自由になれる者はおりません。例えば日本人は戦争中の事を忘れてしまいたい、しかし中国韓国は虐殺や慰安婦の問題をしつこく提起してきます。アメリカ人だって毎年アリゾナ記念館で追悼を行っています。日本人で元寇が攻めて来た事を知らない人はいないでしょう。しかし中国人で元寇の日本侵攻を知っている者はほとんどいません。

人は自分にとって都合の良い事は永遠に忘れないし、都合の悪い事は早く忘れたい。しかし皮肉な事に自分にとって都合の良い事は他人にとっては都合が悪く、逆もまたしかりです。つまり、過去を忘れて自由になると困る者がおり、彼らは常に自らの利益のために過去を提起し続けます。

また、本来大人の世界に甘えはありません。手持ちのコマでリスクを計算して行動する。成功すれば財産と地位が手に入り、失敗すれば全てを失い惨めに死んでいく、甘えが入れる隙間などないのです。

泣く子も黙るカイザーもツァーも戦争に負ければ退位するしかなかった。しかし実際の世の中では戦争に負けても在位し続け天寿を全うした天皇がいる。

世界を二つに分けた軍事大国、東側陣営の盟主だったソ連邦は原発事故後に崩壊しました。50万人を動員して石棺まで建てて処理したにも関わらずにね。しかし
同じ原発事故でも事故後の処理もできずに汚染水を垂れ流し続ける某国。

世界に名だたる強国でさえ2度も崩壊するほどの事件を起こしておきながら、未だに旧態依然とした国家運営を行っている。これなんかは究極の甘えだと思うのですが。なぜこのような甘えを許すのか不思議でなりません。


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