★阿修羅♪ > 雑談・Story41 > 462.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
横暴かつ欲に飢えた官僚とはどうしてつくりだされるか。国政に対してどうした思惑を中心に行動しているのか。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/462.html
投稿者 Air−Real 日時 2016 年 12 月 03 日 08:20:55: dsfJ1hAY0z6VI gmCCiYKSgXyCcYKFgoGCjA
 

(回答先: <拡散!!>1977年度成蹊大学法学部政治学科卒業生、安倍晋三さんへ 成蹊大学後輩一同より 投稿者 Air−Real 日時 2016 年 12 月 01 日 02:33:41)

そもそも官僚、政財界とはどうした人間の集まりか。

それは下記の投稿にある安富氏の公演「マイケル・ジャクソン革命」の中で、「心の壊れた大人」としての理解が的を得ているだろう。

そこで私が思うのは、彼ら、そして各政党の政治家、そして支持者たちもそうだが、ある意味、「この社会に対する復讐」といった意味合いを強く思いとして内に隠しているのではないかという気がする。

それらは、生まれてすぐエリートとしての選択肢しか与えられなかった境遇がある。長島一茂氏はそうしたつらさで自身の性格を歪ませていった事を告白している。彼は自己分析による内省とその告白によって社会的に互いの信頼を取り戻していった。

エリートである(結果そうはならなかったものたちもまた同様に)彼らは心を壊して、劣等感を抱かざるを得ない状況下に常に押し込められてきたということである。

今現在国政の地位に就いている彼らのほとんどはその歪んでしまった自分を作り出したこの国のしくみ、そして国民たちを救おうと懸命になるという立場を選んではいないということである。

むしろ、これまでの自己の感じてきた苦しみを周囲にただわからせようとして<結果的に復讐という形となって>そのことでより自分に苦しみを与える結果となっているということだと理解する。そして、そのことでますます、そこに苦しみを与えるものすべてのものを滅ぼそうとしかねない場所にいるのではないかと考えるに至った。

私が思うに、いじめによる自殺の本質も、親、そして学校との板ばさみにあった子供が、あまりにも善良な考えに閉じ込められてきたために、その自然なはずの自己防衛による攻撃性が、自分以外のものへと向けられることなく、結果的に自分(内側)へと向けられてしまったことによると考える。

もちろん彼ら官政財にいる連中はしっかりとした防御幕を張っているために、そのようなことに至ることは考えられもしないが、しかしながら、本質的に抱えているものは同じものだと考えることができるだろう。

つまり、まったく誰からも自分の価値を求められていない、望まれていないということを確信しているはずだからである。そしていつまでもその満たされない欲求を抱え込んでより強烈さを増していくために、権力の地位に就くほどにその欲求が隠し通せなくなり、そこに横暴さとしてのものが姿を現すことになるのである。

いじめに苦悩する子供たちに対しては、本質的な価値というものをまず自らの中に認めることが必要である。

それを周囲の大人、また親たちが「勝ち取れ、戦え」と攻め立てるのだろうが、反して「誰にでも思いやりを持つことが人間だ」といった真逆の指南書も与えているわけである。

何が正しいかの判断が難しい環境の中で、子供たちは自らの性質を人工的な心の働きへと作り変えていってしまう。

「強くなければやさしくもなれない」、といった訳のわからない場所へと落ち着いて心を閉ざすほかなくなるのである。

本来ならば誰もがすべて、この社会という中では、ありのままの生き方が認められるということでなくてはならない。

発達障害と差別的に呼ばれる人たちが本来の人の姿だと私は感ずるのである。

今の世であるからこそ、もうそうしたことは、それぞれの価値だと正しく認識されるべきであると考える。

そのため、私は社会の基礎的な保障改革として、まずは意識的なインフラ事業が必要だと考えるのである。そしてまた当然、そこにあらゆる不安の原因、悩みの原因を解消する手はずが整っていくと理解している。

であるならば、われわれがやはりすべきは、まずこの国を救うために何をすべきかということに重点を置きつつ、国民である全体に対してそれらすべての欲求をまず満たすことのできる社会提案を考えるべきだとの見解に至るのである。

つまり、この状況を機に、これまでの資本社会、そして外交はこれまでのままと仮定した中に、優先して、国内の需要、物価安定、インフラの維持、生産性の維持、自給率の上昇を実現した社会主義的な全体性をもった健全な循環社会へと基盤を作り変えるということが必要だと提案したいのである。

それが可能か可能でないかを判断する前に、まずは社会基盤の発案者として誰もが参加できる枠組みをみなが持つべきだと私は考える。

すなわち、子供のような無邪気さと発想の転換によって、誰もが求める夢を全体に対して要求するといったやりとりが必要なのである。

ただ漠然と描くよりも、具体的に必要なもの、そして誰もが共有できる夢を提案していただきたい。そのことで誰もが未来に、前向きな希望と期待を持ってもらいたい。

そうでなければ、これは運動としてはけして広がりを生まない。

考えるというより、まずは何が社会に必要かを感じたことを言葉にしてほしい。

表現する場所はどこでもいい。迷惑にならない場所で、それは自分のブロクでも、ツィートでも、SNSでも、好きなところで表現していただきたい。

そして同様の価値観を持つ人々とつながってほしい。

何が必要かわからないとするなら、まず社会に違和感を感じるという部分から初めてほしい。そこになぜ不都合さ、不便さ感じてしまうのかを考えるというより、ただ「感じ」てみてほしい。

何かを「察する」というところからはじめてほしいと思っている。

他人の考え、既存の考えにとらわれることなく、ただ「それが必要だ」「人が生きるためにそれを要求してあたりまえだ」と思えることを淡々と人前に披露できるなら、それは共感を集めるものとなるだろう。

そして他人の言っていることを闇雲に排他的に捉えたりしないということも肝心なこととなる。

価値観によるぶつかり合いは必要ない。
あらゆる立場のものが望んでいることを可能な限りすべて実現できる社会つくりが目的なのだから。

そうすることで互いに侵害しあう必要性もなくなり、余計な不安も次第に消えて、本当に望むものだけが残っていくはずだ。

そして革命とは、すでに意識的な部分からはじまっているのであり、それはけして恐れに対峙して勇気を持てということを伝えてはいない。その必要なくして、社会を変えるのである。

ただ、ただ、もっともなこと、そして当たり前のことを誰もが当たり前に口にし、それを適えるために全体で考え、動き出すということを誰もが望んでいるのである。

それが人間の社会と呼べる唯一の形態ではないだろうか。

だから、人を思ってそうするというのではなく、何を自分は叶えたいかを主体に、そして他人の願いの中からも自分の想いに近いもの、共有できるものを探していく。

それだけでも十分人々の意識が変わっていくには効果があるはずだろうと考えている。

そしてそれがもっとも効果的で、誰もができることが「運動」となるにちがいないと考えるのである。

私はすべての存在の背後にある本質的な世界の自浄的働きというものをもっとも信頼している。つまり、根本的には人、そして自分というものを期待して、この個人的な野望をここに話すのである。

そして人の心というものも当然のごとく、人のなんら自身に望まぬ思惑、そして価値観に汚染されぬままに存在できるというのなら、そこから本当にすがすがしい思いの力だけを得るだろうと考えるのである。

自分が望んでもいないのにいつのまにか社会に出るまでに持たされていたとする価値観というもので、何かを無意識に差別的に捉えていたり、自分が気分の優れなくなる望まない感情に囚われ、気づいたらそこに振り回されていたということに気づくのなら、そこから少し離れて、己の本来の素の状態、「本当になりたい自分とは何か」を探るのがいいのではないだろうか。

価値観ですべてを捉えるのではなく、「ただ何にも捉われない自分を感じてみよう」、とすればいいのである。そこに見えなかった価値、人として生きている安心感もなんとなく見えてくるだろうか。

何にも捉われない素の心の状態を本来の自分の価値、その輝きを放つ場所だと見て、その状態のまま、人と接することで、自然の本質的な働きを味方につけることができるのだと信じてほしいのである。

もちろんこれはゆくゆく自然とそうなっていけばいいことである。

まずは、暴走をし続ける連中に対して、それを容認できない旨を伝えることはまったく正しいことだといえる。彼らは現在実質的に独裁政治そのままの様相を呈している。
ここにはしっかりとわれわれ全体の責任を持って自浄作用を生み出すことになるだろう。

われわれは「人としてなり行く」立場にある。

人として生まれているのであれば、人としてすべきことに集中すること、それ以外ない。

社会全体が生きるための基盤を壊す作用があるなら、それを改善補修すべきなのは当然である。

ただし、上記にあるように本質的には、彼らをも救うという立場にそれぞれはある。でなければ、歴史に望まない禍根を残すことともなるだろう。

窮鼠猫を噛むのことわざにあるように、敗走するものに退路を断たせてはいけない。

敢えて逃げ道を残すことで最後まで追い込みをかけられるというもの。
殲滅を図るための戦法として源平合戦以降、合戦では特に意識してこれが用いられたものと記憶する。

そもそも彼らは自らの悪あがきでおのずと崩壊することは間違いない。
横暴な力を振るうものの末路はいつの時代も同じ。ただ衰退して終えることとなる。

われわれ全体が彼ら同様、力任せになって、そのように落ちていかなければよいのである。
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > 雑談・Story41掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
雑談・Story41掲示板  
次へ