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医師たちは何故足止めされたのか?−−阪神大震災の時、厚生省は何をしたか    西岡昌紀
http://www.asyura2.com/14/jisin20/msg/390.html
投稿者 西岡昌紀 日時 2015 年 1 月 17 日 11:20:26: of0poCGGoydL.
 

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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7760795.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1937717326&owner_id=6445842

医師たちは何故足止めされたのか?−−阪神大震災の時、厚生省は何をしたか

1.寒い朝


 寒い朝だった。明け方、神奈川県の私の家が揺れた時、何か、とてもいやな予感がした事を覚えて居る。間も無くつけたテレビが伝えたニュースは、私のその厭な予感を裏付けて居た。阪神大震災(1995年1月17日)の朝である。

 その大地震が、東日本ではなく、関西の神戸で起きたと言う知らせに、私は、意外の念を覚えた。関西は地震が少ないと思って居たからだ。だが、やがて、テレビを通して伝えられる神戸の状況に、私は、その常識を破る大地震が起きた事を知らされた。それでも、その日は、連休明けの平日で、自分が勤務する病院に行かなければならないので、私は、早々に家を出た。駅の売店で雑誌を買い、その寒い朝の空気の中、いつもの様に、私は、病院に向かった。

 病院に着くと、医局のテレビは、神戸で起きた地震の続報を次から次へと伝えて居た。後に、その神戸で起きた地震で、病院の同僚の一人が肉親を失う事を知るのであるが、その時は、まだ、そんな事は知らなかった。とにかく、神戸と言う予想もしなかった土地で起きた大地震の報に、その日は、心を奪われて仕事をする事と成ったが、その日の夕方、私は、院長室に足を運んで、或る申し入れをした。それは、自分の年休を使って行くので、神戸の医療活動にボランティアとして赴く事を許可して欲しいと言う要望であった。私のその言葉に、院長はうなずいた。だが、年休を取って神戸に行きたいと言った私に対して、院長は、「まあ待て」と言って、即答を避けたのだった。私には、その意味が呑み込めた。当時私が職員であったその病院は、厚生省(当時)直轄の国公立の病院であった。院長は、何か重要な事を決定する時には、常に、厚生省の判断を仰がなければならなかった。だから、この時も、院長は、はっきりそうとは言わなかったが、厚生省の判断を仰がなければ、大地震が起きた神戸に自分の病院の医者を行かせていいかどうか、即答できない事を、私はすぐに理解する事が出来た。だから、私は、「わかりました」と言って、院長室を引き上げたのだった。それは、その日(1995年1月17日)の夕方の事であった。

 その日(1995年1月17日)の夜であったと記憶する。私は、都内で或る人に会った。神戸に深い関わりを持つ高名な作家である。神戸の空襲を生き延びた後、肉親の一人を神戸で失ったその人と私は、偶然にも、阪神大震災が起きた直後、都内で会う約束をして居た。その前年に知己を得て懇意にして居た人と、約束通り都内で会い、食事を共にした際、その人は、驚くべき事を口にした。当時、その作家は、或る雑誌にコラムを連載して居た。その連載されて居たコラムで、その作家は、神戸に大地震が起こったらどうするか?と言う趣旨の事を書いて、警鐘を鳴らして居たのだと言う。その人は、その「偶然」に自分自身が驚き、「あれは虫の知らせだったんだ」と、私に向かって、興奮した口調で語り続けた。私は、そんな事が有るものなのだ、と思いながら、その作家の言葉を黙って聞いた。そして、それから、自分は、なるべく早く、神戸に行って医療活動に参加したいと言ったと記憶する。私のその言葉に、その作家は、是非行って欲しい、そして、帰って来たら、現地の状況について聴かせてほしいと言った。
 だが、私は、神戸に行く事は無かった。そして、私以外の私の病院(当時)の職員達の中で、医療従事者として神戸に駆け付けたいと希望した職員たちは、皆それを許されず、その日から永い間、神戸からの悲惨な報道をただテレビを通じて傍観する事を強いられたのである。


2.何故、厚生省職員は足止めされたのか?

 地震発生から日を経るに連れて、神戸からの報道は、この震災が、尋常の震災ではない事を明らかにして行った。そうして、震災発生から1日、2日と日を経るに連れて、私は、震災発生の当日、院長室で院長に申し出た神戸での医療活動参加に対する許可を早く得たいと切望する様に成った。だが、院長にそれを尋ねると、「待て」の一言しか聞けない状況が続いた。震災発生から数日が経って、私は、一体、何故、神戸に行くことが許されないのだろうと?いぶかしく思い始めて居た。

 1週間経っても、私の希望に対する答えは、なしの礫(つぶて)のままであった。その一方で、阪神大震災の被害の拡大は続き、神戸からは、悲惨な光景が連日報道され続けた。そうした現地からの報道の中で、私が、特に胸を痛めたのは、震災地神戸における医療状況の深刻化であった。震災直後から、神戸では、震災による多数の負傷者の発生と、医療機関自身が受けた被害から、医療活動は、困難を極めて居た。それは、日を経て、益々深刻化して居る様に思われた。現地の病院では、おびただしい数の負傷者、被災者が次々に医療機関にかつぎ込まれる一方で、医者や看護師が足りず、医師や看護師たちの疲労が、極限に達して居ると言う報道も聞かれる様に成って居た。そんな報道を毎日聞きながら、私は、苛立ちを覚えた。神戸でそんな状況が続いて居るのに、震災発生当日に神戸行きの希望を上司に伝えた私に、病院上層部が返す言葉は「待て」の一言だけで、ただ、空しく日が重ねられて行くばかりだったからである。しかも、神戸行きが許されない理由の説明も全く無いのである。一体、病院上層部とその更に上に在る厚生省は、何を考えて居るのか?私はいぶかしんだ。だが、10日以上が経っても、その状況は変わらなかった。
 その内に、私は、私と同様に、多くの国立病院及び国立療養所の職員が、私と同様、神戸に急行して医療活動に加わりたいと希望して居る事を知った。病院の同僚たちから、そう聞かされたのである。私が勤務するその病院にも居た。ところが、皆、許可が下りず、神戸に急行する事が出来ないで居ると、私は、聞かされたのだった。私は、更に苛立ちを覚えた。だが、状況は変わらず、院長からは、何も説明を聞かされず、2月が目の前にやって来て居た。

 そうして、1月は終わりに近づいた。その頃に成って、私自身は、予期せぬ個人的な事情から、神戸に行く事が難しく成ってしまった。そして、2月と成った。2月に入ってからは、記憶では、自分の同僚の中に、神戸に行く事を許されて、自分の職域での活動をする為に成った。だが、震災発生(1月17日)から、既に2週間以上が経って居た。もちろん、その時点では、その時点にすべき事が多々有った。だから、2週間以上が経ってからでも、厚生省職員である国立病院・国立療養所の職員達が、神戸に駆け付け、医療活動に参加した事は大いに意義が有った。だが、それでも思わずに居られなかった事は、何故、震災発生(1月17日)直後に、国立病院や国立療養所の医療従事者たちが、いの一番に神戸に急行する事が許されなかったのか?と言う疑問である。その疑問を、私は、20年間、考え続けて来た。

3.或る外科医の悔い


 阪神大震災から、4年くらい経った頃と記憶する。私が勤務して居たその厚生省直轄の病院で、或る外科医による講演会が催された。その外科医は、関東地方の或る厚生省直轄の病院に長年勤務し、退職して間も無い整形外科医であった。臨床家として、尊敬を集めて来たその外科医は、退職を機会に、私が勤めた居た病院を訪れ、外科医としての自分の歩みを私たち病院職員に聴かせてくれたのであった。講演の内容は、その外科医の優れた力量と温厚な人柄を反映して、非常に有意義な物であったが、講演の最後に、質疑応答の時間が設けられた。そこで、私は手を挙げ、その外科医に質問をした。私の質問は、阪神大震災の際の医療活動についてであった。


 私は、阪神大震災の際、厚生省直下の国立病院・国立療養所で、多くの医師たちが、直ちに被災地に行く事を希望したものの、すぐに神戸に行く事が許されず、その一人であった自分は、とても悔しい思いをしました。先生は、あの時の事をどうお思いに成りますか?と言う意味の質問をしたのだった。

 
 すると、その外科医は、「私も、悔しい思いをしました」と答え、文字通り、唇をかみしめる様な悔しさにあふれた表情を浮かべた。そして、質問した私の顔をじっと見つめてくれた。ところが、その時、予期せぬ事が起こったのである。私のその質問に、その外科医が答えて居る最中に、講演の司会をして居た当時の私の病院の院長(阪神大震災当時とは別の医師)が、大きな声で、「それでは、これで終わりに致します」と言って、その質疑応答を打ち切ったのである。


 それ切りであった。その経験豊かな優れた外科医の阪神大震災時の医療に関する言葉を更に聞きたかった私は、司会者である院長(当時)に質疑応答を中断されて、それ以上、何もその外科医の言葉を聞けない事と成ったのである。私は驚いた。そして、驚くと同時に、その時、三つの事を確信した。それは、やはり、阪神大震災の際、厚生省直轄化の国立病院・国立療養所の医師たちは、震災直後に被災地に行きたいと切望して居た事、それにも関わらず、何らかの理由で、医師たちは震災直後に神戸に急行する事を許されなかった事、そして、司会者であったその当時の院長の反応が示した様に、この問題は、厚生省直下の医療機関では、「触れてはならない」事柄に成って居ると言う事であった。その時の司会者であったその院長が、質疑応答を中断させた時の強い口調と表情を、私は今も良く覚えて居る。


4.厚生省は、何を恐れたのか?

 私は、ジャーナリストではない。だから、阪神大震災の時、厚生省直下の病院で働く医療従事者たちが、震災直後に神戸に行く事を許されなかったと言うこの不可解な対応の理由をジャーナリズムの手法で調査した事は無い。本当はするべきなのかも知れない。だが、とにかく、その理由を厚生省(当時)に問い正すとか、情報公開を求めるとか言った「調査」をした事は無い。それでも、私は、あの時の悔しさを忘れる事は出来なかった。その悔しさを出来ないまま、その後の20年間を医師として生きて来た。

 東日本大震災(2011年)発生の時、私は、もう別の病院で勤務して居た。そこでは、そこに居る自分の患者が余りに多く、しかも医師が足りない状況であった為、東日本大震災の被災地に行く事は、始めから不可能であった。だが、当然のことながら、東日本大震災が起きた時、私の脳裏には、阪神大震災の時の、あの苦い思い出が浮かんだ。そこで、東日本大震災が起きて間も無い頃、厚生省直轄の或る国公立病院で高い位置に在った在る医師に電話をして、厚生省とその下に在る国立病院・国立療養所がどう震災に対応して居るかを尋ねてみた。(正確に言えば、2011年には、国立病院・国立療養所は、独立行政法人・国立病院寄稿と言う名の組織に変わって居た)
 すると、その医師は、電話の向こうで、「あの時とは違います。」と言う答えをしてくれた。少し嬉しかったが、この医師が電話で言ったこの答えは、裏を返せば、その医師も、阪神大震災の時の厚生省及びその管轄下の病院の対応がまずかった事に同意して居る事を意味して居た。

 矢張り、阪神大震災の時、厚生省直下の国立病院・国立療養所に居た医師たち及び他の医療従事者たちは、私と同じ事を感じて居たのである。一体、あの時、阪神大震災発生直後に、私たちは、何故、神戸に急行する事が許されなかったのだろうか?私などは、もちろん、非力な医者である。しかし、震災発生直後、神戸の医療機関では、殺到する負傷者に対する医師、看護師の数が足りず、その人手の足りなさから救えなかった命も有った筈である。そこに、たとえ私の様な非力な医者をも含めて、少しでも多く、医師や看護師やその他の医療従事者が投入されて居たら、救える命は有ったに違い無いのである。それなのに、あの時、何故、厚生省直下の国立病院・国立療養所の医師たちは、直ちに神戸に急行する事が許されなかったのだろうか?

 私のその問いに対して、或る推測を述べた人が居る。厚生省関係者ではない。又、医師でもない人だが、阪神大震災から数年が経った或る時、私のこの話を聞いて、その人が、こんな事を言ったのである。「それは、労災が発生するのを恐れたんじゃないでしょうか。」多分そうですよ、とその人は言った。あくまでも推測である。しかし、その人は、私の話を聞いて、厚生省(当時)は、厚生省職員である国立病院・国立療養所の職員を震災直後の神戸に行かせた場合、労災が発生する事を恐れて、震災直後に神戸に行く事を認めなかったのではないか?と言ったのであった。


 「そうだったのだろうか」と私は思った。一つの推理に過ぎないが、その可能性は有ったと、私は思って居る。だが、そんな事を言い出したら、災害医療など不可能ではないか?消防署や警察や自衛隊の職員は、震災発生から間も無い時期に神戸に行って居る筈だ。それなのに、厚生省職員である国立病院・国立療養所の医師や看護師が、直ちに動かなかったとしたら、こんなおかしな事は無いのではないか?私はそう思ったし、今もそう思って居る。本当の理由は、当時の厚生省幹部しか知らないのであるが。


5.厚生省と災害医療

 私は、1990年から2000年までの11年間、その厚生省直下の病院で医師として働いた。素晴らしい同僚たちに恵まれて働いたその11年間は、自分の人生の宝である。そして、誤解をして頂きたくないので言うが、厚生省の末端職員として働く中で、厚生省(当時)と言う官庁について、立派だと思う点も有ったのである。しかし、時として、厚生省とその管理下に在る国立病院・国立療養所を運営する管理者たちの行為に強い疑問を持つ事や、或いは納得できないと思う事も少なからず在った事は事実である。ここで語って居る阪神大震災の際の厚生省およびその管理下に在った病院の対応はまさにその一つであるが、他にも、類似して居るとも言える事例が在った。

 その一つが、湾岸戦争(1991年)の際の対応である。1991年に湾岸戦争が勃発し、これが短期間で終結した後、日本政府は、「国際貢献」の一つとして、国立病院の医師たちをクウェートなどに派遣する事を検討した事が有った。私は、湾岸戦争終結直後に、この事をラジオのニュースで知った。そして、そう言う事が在るのならば、自分もそうした医療活動に参加したいと考え、院内でそうした告知と募集が有ると予想し、それを待った。ところが、ラジオで聞いたその話について、院内では、いつまで経っても何も話が出なかった。不思議に思った私は、当時の院長に「湾岸戦争後の医療活動に国立病院の医者を派遣すると言う話が有りましたが・・」と言って、この話がどう成ったのかを尋ねてみた。すると、驚いた事に、院長は、「ああ。あれは断った」と一言言って、その話がとっくに終わって居る事を私に告げたのだった。


 湾岸戦争後の医師派遣については、私だけではなく、私の同僚にも、可能ならば参加したいと言って居る医師が居た。ところが、私やその医師には一言も打診をしないまま、院長は、「うちは出せません」と言って、それを断って居たのである。病院業務に比較的ゆとりが在ったあの時(1991年春)ならば、私の居たその病院は、海外の医療活動に医者を出す事は出来た。
 だが、現場の医者には一言も相談しないまま、管理職である院長は、医師の派遣を一言で断って居たのである。これは、厚生省の本省ではなく、各病院の管理者の問題であったかも知れない。だが、こうした「面倒な事には関わりたくない」と言う姿勢は、それから4年後の阪神大震災の際、神戸への医師の派遣が遅れた事と通じる厚生省とその管轄下の病院の負のエートスではなかったかと、私は思うのである。


 更に、1990年代後半に、日米防衛協力のガイドライン見直しが行なわれた際にも、同様の事が在った。この際は、全国の国立病院・国立療養所に、有事の際の医療に協力できるか?と言うアンケートの様な調査が行なわれたのだが、例えば、「英語の診療は出来るか?」と言った設問に対して、アメリカ留学の経験も有り、英語に堪能な筈の病院幹部が、「こう言うのは、出来ないと言っておくに限る」と言って、「出来ない」と回答すると言ひ、「うちは何も出来ない」事を強調しようとして居た事を良く覚えて居る。要するに、災害医療を始めとする「有事」の医療に対して、少なくとも私が勤務していた時代の厚生省直下の医療機関は、全く持ってやる気が無かったのである。これには、当時進行して居た国立病院の縮小、独立行政法人化も、何らかの形で影響して居たのかもしれないが、とにかく、管理職達の間にこうした「文化」が在ったからこそ、阪神大震災の時の医師派遣の遅れも起きたのだと、私は思って居る。


 阪神大震災に話を戻せば、この医師派遣の遅れが、厚生省の高いレベルの意向による物だったのか、それとも、厚生省管理下の各病院で、院長レベルの管理者たちが及び腰だった結果、派遣が遅れたのかは私には分からない。だが、誰の決定であったにせよ、神戸への厚生省職員の派遣が遅れた事だけは事実である。


 こうした厚生省(当時)の対応の悪さを思い起こすと、私には、東日本大震災の際、意思決定のまずさが一因と成って、多くの子供たちを津波の犠牲にした大川小学校の教員たちと阪神大震災の際の厚生省が重なって見えてしまうのが、この比較は不公平であろうか?


6.災害医療の向上を願って

 公平に言おう。阪神大震災直後には、それでも、一部の厚生省職員が、早い時期に神戸に急行して居る。それが、上司の許可を得た物だったのか、或いは独断で行ったものかは分からないが、例えば。早い時期に、神戸に急行した放射線技師などが、厚生省管理下の病院職員の中に居た事は把握して居る。又、医師の派遣が遅れたとは言え、厚生省はもちろん、手をこまねいて居た訳ではなく、震災に対して対策を講じて居る。更には、阪神大震災の反省を踏まえて、DMATと呼ばれる災害医療チームを立ち上げる事に厚生省が努力した事ももちろん評価されるべきである。その後の日本の災害医療は、確かに、阪神大震災当時よりも改善された点が多く、そこに厚生省(当時)と厚労省の努力が在った事は認める。

 だから私は、決して、厚生省及びその後の厚生労働省が阪神大震災後にして来た事を全否定して居る訳ではない。繰り返すが、阪神大震災の後、厚生省(及び厚生労働省)が、災害医療の在り方について、一定の努力をして来た事は認める。

 だが、改善されて居ない事も有る。又、更に言えば、当時よりも悪化して居ると思う事柄も有る。先ず、改善されて居ないと思う事は、意思決定の在り方が、当時も今も定まって居ないと言う事である。これは、私個人の意見ではなく、私が知る災害医療に精通した医師などが阪神大震災と東日本大震災に共通した問題として指摘して居る問題である。この医師は、過去に、阪神大震災と東日本大震災の双方において、震災直後の医療の裏側を垣間見た人である。そして、現在、非常に高い地位に在る医師であるが、この医師は、東日本大震災においても、阪神大震災の時と同様、意思決定の在り方が全くなって居なかったと、私が阪神大震災の際の私の体験を語った際に言って居る。思えば、私を含めた厚生省直轄化の医療機関の医師たちが、直ちに神戸に行く事が許されなかったのも、この「意思決定の混乱」の一つであったと言う事が出来そうである。更に、阪神大震災と東日本大震災の双方での日本の災害医療の裏表を熟知するこの高い地位に在る医師は、東日本大震災での自らの経験を踏まえて、「病院を建てるとか、ヘリコプターを活用するとか言う事より、もっと大事な事は、コミュニケーションなんだ。コミュニケーションの在り方が、全然成って居ないんだ。」と言って、日本の災害医療の在り方を批判する。

 そして、阪神大震災当時よりも悪化して居ると思う事は、日本の医療の質が、全般的に劣化して居る事である。医学は進歩して居る。だが、現実を無視した医療費抑制政策と様々な社会状況から、全国的に、内科や外科の医師が減って居る事、高齢化の影響も有り、全国的にベッド数が不足して居る事、医療制度の複雑化により、医師や看護師が書類作成などの雑用に追われて居る事など、日本の医療状況は、20年の時を経て、阪神大震災当時(1995年)より明らかに劣化して居るのである。それが、大震災を始めとする災害発生時にどの様に影響するか、私は心配でならない。
 更には、これは意外に聞こえるかもしれないが、私は、電子カルテの普及が、大地震などの災害時にどう影響するか、懸念を抱いて居る。電子カルテの普及をはじめおする医療のIT化は、確かに、一面において医療に良い影響は与えて居る。膨大な紙カルテやレントゲン・フィルムなどを電子化する事でコンパクトにし、更に、情報の共有化を可能にした点などで、電子カルテは大いに貢献して居る。しかし、その反面、入力操作の煩雑さなど、カルテの電子化が、実は、医療現場の非効率化を招いて居る面が有る事を、一般の皆さんは知らない事と思う。更には、大地震などでコンピューター・システムが機能しなくなった場合、それを紙カルテに切り替えて救急医療を行なう事が、スムーズに行えるかどうかは、未知数である。そうした意味で、電子カルテの普及が、大災害発生時には、意外に医療活動に負の影響を与える可能性を私は、密かに心配して居る。
 もう一度言うが、私をは、厚生省及びその後の厚生労働省が阪神大震災後にして来た事を全否定して居る訳ではない。そして、あの時、不眠不休で震災に対応した官僚が沢山居たであろう事も疑わない。しかし、あの時、テレビの映像を通じて、神戸の人々が悲痛な思いをして居る状況を目のあたりにしながら、足止めをされ、すぐには神戸に行く事を許されなかった医者の一人として、それを「何故」と問わずには居られないのである。そして、あの時、国立病院・国立療養所の医療従事者たちの悔しさを封じ込めたまま、阪神大審査20周年の日を迎えたくはない。この小文を書く動機も、その悔しさを厚労省の若い職員を含めた多くの人々に共有してもらう事で、日本の災害医療を少しでも改善、向上させたいと言う私の願いである。決して、他意は無い。私は、それが、私に出来る阪神大震災の犠牲者たちへの供養だと思うのである。


この小文を阪神大震災の犠牲者達の霊に捧げる。

平成27年(2015年)1月17日(土)
阪神大震災20周年の日に

西岡昌紀(内科医)

(転載歓迎:全文をコピペして転載、拡散して頂けたら幸いです)


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コメント
 
01. 2015年1月17日 17:31:03 : w3M1BHSquE
西岡先生
医師としての、医療に対する真摯な姿勢と 融通の利かぬ硬直した官僚支配に憤るその姿勢には敬服いたします
震災の犠牲者たちへの思いは 十分に伝わっており、この投稿については 全く何の異論も有りません

正し あくまでも、“この投稿については”です

残念ながら、過去の投稿 特に歴史認識の考察における投稿では、貴方の見識には 眉をひそめざるを得ません
軍国主義日本やナチスドイツを擁護するかのような、ウヨ的な歴史認識としか言い様は有りません

阪神大震災や東日本大震災は数多くの犠牲者を出し、それを悼む気持ちが有るのならば
それらの震災など問題にならぬほど、遥かに多大な犠牲者を出してしまったのが 第二次世界大戦なのです
なぜその主要な加害者である日本とドイツを擁護するのでしょうか

もちろん、日本やドイツにも それなりの言い分は有った事は否定はしません
だがそれは、「盗人にも三分の理」 でしかないのです あくまでも三分なのです
アメリカを始めとする連合国陣営の 思惑や策略が有った事も事実ではありましょう
しかしそれは、日本やドイツの“拡大戦略”“侵略路線”を、アメリカが上手く利用したに過ぎません

阪神や東日本の大震災の犠牲者を悼む気持ちが有るのなら
なおさらの事、第二次世界大戦の 膨大な数の犠牲者を悼まなければ 嘘っぱちです
たった一発の原爆で 犠牲者は、二つの大震災を遥かに上回っているのですから

例えどんなに巧妙な策略が欧米諸国に有ったとしてもやはり、主犯は日本とドイツである事に変わりないのです

そして、戦争の歴史など、【二度と繰り返してはならぬ愚かな行為】なのですから
震災は あくまでも天災ですが、戦争はすべてこれ【人災】なのですから。


02. 2015年1月18日 13:21:43 : DKhwYBOUus
福島原発事故の時、現地には原子力を所管する文科省、厚労省、そして後に環境問題として所管する環境省、保安委員会等々の政府関係者は誰一人として行かなかった。

一番大変な時に行ったのは、自衛隊、消防、警察だったし、それは地震被災地も同じ。

非常時に制服組以外は全くあてになりません。
もっと言えば、決断する責任逃れで対応が遅くなり邪魔になるだけなので、非常事態宣言が出されたときは指揮命令系統を制服組に移すべきです。


03. 2015年1月18日 14:12:37 : FfzzRIbxkp
震災当時、神戸港に停泊していた空母インディペンデンスからの医療支援の申し出を神戸市がなぜ断ったのかずっと疑問なままです。

なぜ空母インディペンデンスがいたのかというのも疑問ですが。

311の時に、なぜ線量が高い所にわざわざロナルド・レーガンがトモダチ作戦に赴いたのかも疑問です。 横須賀の空母は長崎に避難したのに。

阪神淡路大震災の震源が10キロ。
10キロが事実なのかはわかりませんが、採掘業者の人に話を聞いたら、当時からすでに10キロの採掘技術はあったそう。
ブルース・ウィルスが隕石を爆破するシーンを見て、調べてしまった。

阪神淡路大震災や中越地震において、原発事故の危険を国民に広く周知できなかったというのが、政府とマスコミのすばらしい成果でしょう。

原発事故もひどいけれど、海上保安庁は津波被害に全く対応できないというのを忘れないようにしましょう。
あれだけの津波被害を出したのは、海上保安庁の怠慢です。


04. 2015年1月19日 10:42:42 : ZIkmoG2Fvc
長文につき、読解能力のない私は割愛します。
もっと端的に自分の意見をまとめる訓練をして下さい。

05. 2015年1月19日 12:15:02 : nJF6kGWndY

>厚生省(当時)は、厚生省職員である国立病院・国立療養所の職員を震災直後の神戸に行かせた場合、労災が発生する事を恐れて、震災直後に神戸に行く事を認めなかったのではないか

そうではないだろう」

ちゃんとした制度や仕組みがない状況で、無秩序に、公的医療者が行くことで、

国家全体の医療システムが非効率化したり、医療者が戻れなくなって持続不可能化を恐れた可能性は高いな


http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/data/detail/1-4-2.html
05.救護所など震災直後の医療体制の確立には、医療ボランティアの力も大きかったが、行政側との連携の重要性が指摘された。

01) 震災直後は、救護所など公的な災害医療体制の整備はほとんど行われなかった。

02) 震災初期の医療活動には、日赤やAMDAをはじめとする医療ボランティアも活躍した。

03) 1月23日より、厚生省の現地対策本部が設置され、全国の自治体や国立病院、大学病院からの医療支援チームの派遣先などが一元的に管理されるようになり、常設救護所が増設された。

04) 行政から医療ボランティアへの情報、活動拠点の提供など、行政とボランティアの連携の必要性が指摘された。

05) 被災地に派遣される医療救護班の役割について、疑問の声もあった。▼


http://www.janu.jp/report/2012-shosasshi-shinsai-all.pdf
一 般 社 団 法 人   国 立 大 学 協 会
THE JAPAN ASSOCIATION OF NATIONAL UNIVERSITIES
国立大学の東日本大震災復興支援


 平成 23 年 3 月 11 日、地震発生の一報を受けて、国立大学の教職
員は一斉に行動を開始します。「救える命のために」国立大学の医師、
看護師、薬剤師、事務職員などは、医療支援チームを編成し被災地
へ向かいました。混沌とした状況の中、懸命に医療活動を展開しま
した。第1章では、国立大学の医療支援活動、学生ボランティア活動、
義援金・緊急物資支援・被災学生への対応、特色のある取組をまと
めました。


 平成23年3月11日の東日本大震災発生後、翌12日に院
内で直ちに対応を協議し、救援準備を整えました。同月16
日に徳島県との連携のもと東北大学病院からの救援依頼に
応える形で宮城県への医療支援を決定しました。第一次医
療支援チームは、医師3名、看護師2名、薬剤師1名、事務
職員2名の計8名で構成し、翌17日午前10時、被災地で不
足している医薬品や食料品などの救援物資を大型バスに積
み込んで、公用車と2台編成で本院を出発しました。本チー
ムの課題は、診療だけでなく、後続チームが今後どこでどう
活動するかを決定することでした。当初は宮城県登米市立
佐沼病院への物資配付や周辺の小中学校へ避難している被
災者の健康診断を行いました。その後、徳島県と協調して
活動する基本方針がまとまり、宮城県石巻市立万石浦中学
校にある避難所を中心に、平成23年3月から5月までの約
3ヶ月間、医療支援を行いました。徳島県の医療救護班の一
員として、一人あたり約5日間の行程で、医師1〜2人、看
護師1〜2人、薬剤師及び事務担当0〜1人の計3〜6人を
1つのチームとし、交代で計20チームが被災者の診療に当た
りました。被災地
では、仙台市内の
宿 泊 所 か ら 数 時
間 か け て 診 療 に
日 参 す る 本 院 職
員に対し、多くの
方 か ら 感 謝 の 言
葉を頂きました。
 その声に逆に励まされ、少しでもお役に立てたらと、物資が不足し十分な診療
が行えない中、携帯用エコーを使って胎児の状態を調べるなど、職員それぞれに
創意工夫を凝らした診療を行い、一方で被災者の方々とのコミュニケーション
にも気を配りました。この長期支援を達成させた要因は、本院からの後方支援が
万全であったこと、徳島県との協調が功を奏したこと、何より全職員が一致団結・
協力をしたことがあげられます。今回の医療支援で学んだ点や反省点を今後の
災害対策医療に生かすことができたらと思います。


震災発生直後からの
被災地への緊急的な支援活動
被災地復興のための
中長期的な支援活動
医師、看護師、薬剤師、事務職員を派遣
大震災における東北大学病院の活動について
東日本大震災被災地へ医療支援チームを派遣
筑波大学附属病院の東日本大震災急性期対応
様々な職種の大学職員が医療支援を実施
一丸となった医療支援活動
気仙沼市への医療救護班の派遣
医師・看護師などの派遣、歯科医師・歯科衛生士
の派遣、現地での医療活動など
震災後の多様な医療支援活動
岡山大学病院の被災地での医療支援活動
被災地への医師などの派遣及び緊急物的支援
ICT を活用した
 仮設住宅居住者への遠隔健康支援
岩手県立宮古病院及び高田病院への医療支援
小児保健医療体制の再構築支援プロジェクト
ICT を用いた被災住民の遠隔ヘルスケア
東海北陸地区リレー方式による医療支援活動
遠隔医療技術を用いた医療再生プロジェクト
カイコ( 養蚕 )が再び福島を救う
オオムギ・野生植物を用いた被災農地の修復
SANRIKU 海洋産業復興研究・教育拠点形成
除染済み農地の再汚染防止に関する研究
福島県の畜産復興支援事業
岩手県陸前高田市の農地の復興支援事業
震災地域の環境修復と水産業復興支援
水産分野における福島県への支援
養殖漁場の津波影響モニタリングと底質改善
避難所開設から災害ボランティアセンターへ
宮城県立石巻支援学校での支援活動
復興支援兵教大 ツナグ〜そして〜ツタエル
東日本大震災に係る継続的な学生ボランティア
学生による被災地におけるボランティア活動
東日本大震災で避難した児童への支援活動
和歌山大学ボランティアバスプロジェクト
福島の子どもたちへのメンタルヘルス支援
被災者へのメンタルヘルスケアに関して
高知県こころのケアチーム
被災者へのこころの支援「 ほっとひろば九大 」
東日本大震災被災地へ心のケアチームを派遣
福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト
県外避難家族のサポート活動( アナナス )
学校における児童生徒・教職員の心のケア
スクールカウンセラーの緊急派遣事業
他機関と連携したこころのケア活動
「 日本一美しい漁村 」雄勝町復興まちづくり
集団移転計画に計画策定の指導役として参加
復興拠点施設「 小さな積み木の家 」協働建設
牡鹿半島復興支援活動
津波被災集落図作成プロジェクト
東日本大震災復興計画構想スキーム提案
練習船「 長崎丸 」、被災地へ向かって出港 !
全国の大学生が被災地の聴覚障害学生を支援
山形大学被災学生支援基金設立と奨学金支給
震災支援を学生が企画し実践する授業の取組
ASPUnivNet 事務局大学としての復興支援
被災地への物資支援
 〜物資輸送のハブとしての取組〜
救援物資を「 かごしま丸 」で輸送
被災高専への緊急支援
被災地への緊急物資支援と復興支援金寄附
義援金・緊急物資支援・被災学生への対応
放射能に汚染された環境の回復を目指して
東日本大震災に係る緊急時
 被爆スクリーニングへの継続的な支援
線量マップ作製と除染活動支援
放射線・除去に関する講習会等に教員を派遣
福島県民の健康管理と放射線防護講演
放射性物質モニタリングと海洋生物の調査
福島県放射線健康リスク管理アドバイザー
吸着繊維ガガを用いた放射性セシウムの除去
放射線汚染に対する除染技術開発の推進
除染技術の実証試験事業
放射線汚染検査機材
 (GM サーベイメータ )の貸与
多言語翻訳・通訳支援と
 ウェブサイトによる情報提供
「 災害後の心のケアハンドブック 」の活用
被ばく状況調査チームなどの派遣
コミュニティケア型仮設住宅
対災害ロボティクス・タスクフォース
福島県への学長調査団派遣
ミラー・サーバを用いた情報発信機能の代替
被災建物および港のロボットを用いた探査
文化財の再生プロジェクト
宮城県北部の歴史的建造物の修理復原支援
大震災復興アーカイブ支援プロジェクト
「 ワンにゃん号 」による移動診療
緑化活動を通じた被災地の支援
ノートを2万冊作って被災地に送ろう
被災地の子ども達が大学サッカー部と熱戦!
被災地の高校生の声を伝える
被災地学生との共同フィールドワーク
避難所や仮設住宅での被災弱者調査
減災と災害復旧に有効な情報通信技術の開発
総研大フォーラム「 震災、原発、エネルギー」
寒冷地の複合災害を考えるシンポジウムを開催
徳島大学
東北大学
秋田大学
筑波大学
香川大学
北海道大学
旭川医科大学
東京医科歯科大学
群馬大学
岡山大学
琉球大学


06. 2015年1月19日 12:19:30 : nJF6kGWndY

1月から、既に入っている公的医療者もいたから

この人がウソを言っているのでなければ

一番ありそうなのは、この人が所属している病院が、派遣による自分の病院での人員不足を心配して許可しなかったということだろうな


07. 2015年1月20日 11:49:32 : EAkIk2fULU
被ばくしないようにじゃないかな。

あのころ散々アスベストがどうのって誤魔化してたよな。

もちろん阪神大震災の話。やっぱり一発目が一番でかいという自然の
地震の揺れではなかったな。空も光ったし。まさにピカドンだった。


08. 2015年1月21日 21:20:33 : ZIkmoG2Fvc
今になって神戸の蒸し返しは何故なのよ。
神戸は市民の協力体制で助かった人が多かったのだ。
でなければ東日本大震災で怪我した人はどうなのよ。

09. 2015年1月21日 22:09:11 : b9XWdBY3yk
投稿も、コメントも意味不明な部分多すぎ。

10. 2018年3月02日 10:04:53 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-3301]
2018年3月2日(金)

東日本大震災 福島原発事故7年

待望の診療開始

岩手 県立高田病院が新築移転

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-02/2018030201_07_1.jpg
(写真)田畑潔院長の診察を受ける女性患者=1日、岩手県陸前高田市

 東日本大震災の津波によって壊滅的な打撃を受け、病院機能が失われた岩手県の三つの県立病院で唯一、仮設病院における診療態勢が続いていた県立高田病院(陸前高田市)。被災から7年を前に高台への新築移転が完了し、地域住民に待ち望まれていた新病院での診療が1日、開始されました。

 診療受け付けが始まる前から多くの外来患者が訪れ、待っていました。

 腰痛の持病を抱え、診療が始まる約2時間前から待っていた女性(68)。

 震災前は同病院でリハビリテーションなどの治療を受けてきましたが、手狭でリハビリの体制が十分ではなかった仮設病院では、リハビリの機会がありませんでした。

 「これから月に1回は通って、体を動かすようにして、寝たきりにならないようにしたい」とほほ笑みました。(関連記事)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-02/2018030201_07_1.html

2018年3月2日(金)

東日本大震災 福島原発事故7年

岩手県立高田病院の新築移転 本格開院 住民も安心

“入院治療もできる”

共産党も尽力

 東日本大震災の津波によって壊滅的な打撃を受けて仮設病院での診療から1日、高台に新築して診療を開始した岩手県立高田病院―。地域住民が待ちわびたオープンです。

 (岡素晴)


http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-02/2018030215_01_1.jpg
(写真)看護師(右)から簡単な問診を受ける患者ら=1日、岩手県陸前高田市

 「これまで移転作業で多忙を強いられましたが、きょうが病院として本格開業になります。外来の患者さんが安心して診療を受け、帰っていけるように、とにかく安全な医療を心がけて頑張っていきましょう」。午前9時の診療開始を前に、田畑潔院長が医師や看護師らを前にのべました。震災により地域コミュニティーが弱まっている中で、地域のつながりを作りながらの医療活動が課題になっています。

 同病院は、精神科を除いて陸前高田市内で唯一の入院設備をもった総合病院として、被災前から長く地域医療を担ってきました。7年前の3月11日、大津波は海岸のそばにあった病院の4階まで達し、職員と患者を合わせ20人以上が亡くなりました。


http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-02/2018030215_01_1b.jpg
(写真)石木幹人前院長

 被災当時の院長だった石木幹人さん(70)は、一般住民も含め160人余りが屋上に逃れ、いてつく寒さに震えながら一夜を明かしたことを振り返りました。ヘリで救助されたのち、被災の翌々日から避難先のコミュニティセンターの一角を間借りし、救護所として訪れた患者に医療行為を始めたという石木さん。震災から4カ月後の7月に仮設病院が高台に開設して以降も含め、「薬の確保など、前の病院の時から医療の質を落とさないためにはどうするか、当初から努めてきました。その意味では、同じ被災者であり、家族を亡くした職員たちがみんな本当によく頑張ってくれた」。

 石木さんは、新たな県立病院に期待する役割について、「入院患者をしっかり診てほしい。今後、超高齢社会を迎える中で、短期でも入院して治療したほうが良いケースが増えてくると思います」と指摘します。

 同病院を退職後、市内の過疎地域で国民健康保険診療所に勤務し、訪問診療などに取り組んでいますが、「私の診療所では、入院させたくてもどうしてもできません。高田病院が入院をしっかり診てくれると、すごく安心感があります」

 病院の再建や仮設病院での入院機能の再開に向け、日本共産党も大きな力を発揮しました。当初、県の復興基本計画案には病院再建が盛り込まれず、入院機能の整備についても国の費用負担がないなどの壁が存在していました。党市議団や県議団が議会で問題を提起したことによって、県知事も病院再建を決意し、国会でも党国会議員団が入院機能の整備に向けて国の助成を要求し、政治を前に動かしました。

 開業当日のこの日、党市議団は同病院を訪問。藤倉泰治団長らが知り合いの外来患者に声をかけていました。藤倉市議は「70代の夫妻が『家から近くなっていがった(よかった)。いつでも通える』と話していました。陸前高田の住民にとってはある意味、復興のシンボルともいえる病院の再建です」と話していました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-02/2018030215_01_1.html


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