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「イスラム国(IS)」に関する論稿をご紹介いたします@ (古村治彦の酔生夢死日記)
http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/312.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 8 月 22 日 01:34:37: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://suinikki.blog.jp/archives/11419769.html

古村治彦です。

 今回から2回にわたり、イラクとシリアのイスラム国についての論稿をご紹介します。分かりやすい内容となっています。お読みいただければ、状況が少しは理解できると思います。

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イラクとシャームのイスラム国(ISIS):その短い歴史について

―情熱的な空想から殺人集団になるまでのテロリスト・グループの進化

ボビー・ゴウシャウグ(Bobby Ghoshaug)筆

2014年8月14日

『ジ・アトランティック(The Atlantic)』誌

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/2/

イラク全土の掌握という危機を招来させたスンニ派武装勢力であるが、2014年7月初めにモスルに殺到した時、突然地上に出現したように人々には思われた。しかし、「イスラム国(Islamic State)」という簡単な名前に最近変えたグループは、1990年代初めから、様々な名前と様々な形で存続してきたのだ。その歴史は、政治的、宗教的な理想主義者たちが殺人集団になるまでの、現代のテロリズムがどのように進化してきたかを語るもの勝ちなのである。

●「タウヒードとジハード集団」(Jama'at al-Tawhid wal-Jihad、JTJ):初期段階

 このグループは、20年以上前に、ヨルダン生まれのアブー・ムスアブ・アル=ザルカウィ(Abu Musab al-Zarqawi 1966〜2006年)の情熱的な空想から生まれた。ザルカウィは町のチンピラであったが、1989年にムジャヒディーン(mujahideen)に参加すべくアフガニスタンに向かった。しかし、ソ連と戦うためには時期が遅すぎた。彼はヨルダンに戻り、それ以降数十年にわたり、国際的な「聖戦(jihad)」暴力運動における指導者として活動した。彼はアフガニスタンに戻り、テロリスト養成のための訓練キャンプを作った。1999年にはオサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden 1957〜2011年)に会ったが、彼のテロ組織アルカイーダ(al-Qaeda)には参加しなかった。


ザルカウィ

ビン・ラディン

 2001年にアフガニスタンのタリバン(Taliban)政権が崩壊し、ザルカウィはイラクへの避難を余儀なくされた。ブッシュ政権がアルカイーダがイラク国内にいてサダム・フセイン(Saddam Hussein 1937〜2006年)大統領とつながっていることの証拠として使われるまで、ザルカウィの存在はほとんど知られていなかった。 実際には、ザルカウィは組織に属しておらず、自分自身でテロ組織を構築しようとしていた。2003年にアメリカはイラクに侵攻した。その直後、現在のイスラム国の前身となる組織を作った。それがタウヒードとジハード集団(Jama’at al-Tawhid w’al-Jihad、英語で直訳すると、一神教と聖戦の党[the Party of Monotheism and Jihad])である。この組織のメンバーのほとんどがイラク人ではなかった。

 ザルカウィの発言内容なビン・ラディンとよく似ていいたが、彼の攻撃対象は全く別であった。そのスタートの時点から、ザルカウィの愛情はイスラム教徒同胞、特にイラクの人口の多数を占めるシーア派に向けられた。ビン・ラディンとアルカイーダはシーア派を異端(heretics)と見なしていた。しかし、シーア派を殺害対象とすることはほとんどなかった。

 ザルカウィの意図は、イラク国内でシーア派にとって最も神聖な祈りの場所であるイマーム・アリ・モスクを爆破することであった。爆破事件が起きた時、私はその現場にいた。 多くの生存者たちは「どうして私たちなのだ?アメリカ人がそこら中にいるというのに、どうして私たちなのだ?」と言っていたことを記憶している。

 一つの理由、それは「とても簡単にできたから」である。シーア派は反撃する能力を持っていなかったために、攻撃対象にされやすかった。また、そこには政治的な計算もあった。サダム・フセインの失脚後、長年イラクの権力構造を支配したスンニ派の政治家たちに代わって、シーア派の政治家たちが権力を掌握した。ザルカウィはシーア派に対するスンニ派の憎悪を利用して、協力者を作り上げ、自分たちのグループにとっての安全な隠れ家を探そうとしたのだ。それはうまくいった。ザルカウィは、シーア派が多く住む地区や町にあるモスク、学校、カフェ、市場で自爆攻撃を繰り返した。

●アルカイーダ:その勃興と衰退

 2004年までには、ザルカウィは国際「聖戦」運動におけるスーパースターとなった。それは、イラク国内で自爆攻撃を繰り返し行っていたからだ。そして、オサマ・ビン・ラディンの信認を得た。ザルカウィは自分が率いる組織をビン・ラディンのアルカイーダに合流させた。この組織は、「メソポタミア・アルカイーダ(al-Qaeda in Mesopotamia)」と呼ばれる。これとアフガニスタンの類似組織「マグレブ・アルカイーダ(al-Qaeda in the Maghreb)」と混同してはならない。

 しかし、ザルカウィの参加後すぐに、アルカイーダの幹部たちは、ザルカウィの一般人を攻撃対象にすることに不安を持つようになった。2005年、ビン・ラディンの右腕アイマン・ザワヒリ(Ayman al-Zawahiri, 1951年〜)はザルカウィに手紙を送り、その中で彼の戦術を窘めた。しかし、ザルカウィはそれを無視した。昨年、ザワヒリはISISの新しい指導者アブー・バクル・アル=バグダーディ(Abu Bakr al-Baghdadi 1971年〜)の過度な残忍性に苦しめられた。そして、そのことを注意したのだが、今回もそれは無視された。


バグダーディ

 2006年春頃までに、ザルカウィは自分ことを「アミール(Emir イスラム教国の首長)」や反乱軍の司令官以上の存在だと考えるようになっていた。彼は精神的な指導者にもなりたいと思うようになっていた。ザルカウィの「首長」としての後継者バグダーディも同じ考えに取り憑つかれた。そして、モスルを奪取した後、自分自身を「カリフ(教皇)」に任じた。ザルカウィは自分の協力者たちに対してだけでは飽き足らず、女性はヴェイルを必ず着用することや犯罪者には斬首刑で臨むことなど、イスラム宗教法シャーリア(sharia)のザルカウィによる厳しい解釈にスンニ派の人々は従うべきだと主張するようになった。これに抵抗する場合、たとえスンニ派の指導的な立場にある人でも処刑された。

 しかし、ザルカウィの野望は2006年6月に突然幕を閉じることになった。アメリカ空軍の戦闘機が2発の500ポンド爆弾を、バクダッドから北に20マイル行ったところにあったザルカウィの隠れ場所に落としたのだ。

(つづく)  

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