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21世紀のイスラム国(ISIS)建国は20世紀のサウジアラビア建国と同一<資料>2014年09月15日 ( 逝きし世の|
http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/823.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 21 日 19:32:38: ulZUCBWYQe7Lk
 

21世紀のイスラム国(ISIS)建国は20世紀のサウジアラビア建国と同一<資料>2014年09月15日 (逝きし世の面影)

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/e1004702eda0dab817f5fd4ee04fcc0f

第一次世界大戦でオスマントルコと戦争をしていたイギリスの諜報機関(映画アラビアのロレンスの神話でよく知られている)の支援でアラビア半島を武力制圧した初代サウジアラビア国王のイブン・サウード(在位:1932年 - 1953年)はイスラム教の聖地メッカとメジナの守護者としてアブドゥルアズィーズ1世とも呼ばれる。
サウジアラビアの国名は『サウード家によるアラビアの王国』の意味であるが、アラビア半島中央高原地帯のナジュド地方の新興の弱小豪族だったサウード家はイスラム原理主義運動のワッハーブ派に共鳴して周辺部族を次々と征服して恐怖と暴力で支配する。(日本の400年以上前の戦国乱世の英雄譚)
1931年にはナジュド及びヒジャーズ王国の建国を宣言して、自らマリク(王)となり、翌1932年には現在のサウジアラビア王国と国名を変えている。
イブン・サウードは1953年に狭心症により74歳で死去したがサウジアラビアの500リヤル紙幣に肖像が使用されている。
イブン・サウードは征服した部族との政略結婚を100回以上繰り返して89人の子供が生まれている。男子だけで52人。王位継承権を持つ王子は36人。
現在の90歳程度の高齢の現アブドラ国王(1922年あるいは1924年生まれ)は、第6代国王だがサウジアラビア初代国王のアブドルアジズ・イブン・サウードの息子(第二世代)である。初代イブン・サウード王の王子たちの異母兄弟同士で王位を順送りで継承している。絶対王政の政府要職も同じ構造であるがサウジアラビア建国から82年が経過して極限まで超高齢化した弊害は目も当てられない有様。サウジアラビアが最早『限界に来ている』のは明らかな事実である。

『アメリカ(オバマ大統領)の右往左往』

『イスラム国(ISIS)とは何か』
一年前にはシリア政府を打倒しようとNATOや米軍による空爆を主張していたアメリカですが、何と今回は逆にISIS(イスラム国)を打倒するために、イラクだけでは無くてシリアも空爆すると言い出した。もう無茶苦茶です。
(アメリカの唐突な方針転換に対してイラクやシリアと国境を接するNATO加盟国のトルコはISIS空爆用の基地の提供などの協力を拒否して抵抗している)
サウジアラビアや湾岸諸国とNATOコネクションが一生懸命に育てた正体不明のISIS(イスラム国)ですが、これは1世紀遅れて21世紀の現在に彷徨い出て来た『サウジアラビア』の事だったのである。
アラスター・クルーク(Alastair Crooke) 元イギリス秘密情報部(MI6)中東担当幹部の『イスラム国を理解するには、サウジアラビアの過激主義「ワッハービズム」を知らなければならない』では、恐るべきサウジアラビア建国の顛末が書かれている。
理不尽なパレスチナの不幸の原因が欧米の白人ユダヤ教徒(ユダヤ原理主義のシオニスト)によるイスラエルの建国であったように、イスラム教の全ての疑問の出発点はイギリスの支援したイスラム原理主義のワッハーブ派によるサウジアラビアの建国だったのである。

『イスラム原理主義(サウジアラビア)とキリスト教根本主義(アメリカの福音派)の悪夢』

クルークの『イスラム国を理解するには、サウジアラビアの過激主義「ワッハービズム」を知らなければならない』は記事もタイトルも長いが、一言で要約すればこの記事のタイトルと同じで『21世紀のイスラム国(ISIS)建国は20世紀のサウジアラビア建国と同一』だと言っているのです。
逆らうものを皆殺しにして見せしめに首を切断するISISが『イスラム国』の建国宣言をしたが、同じことが実は1世紀前のアラビア半島で起きており、今のサウジアラビアが出来上がっていた。
大観衆をあっと言わせるイリュージョンでは、どれ程奇怪に見えても摩訶不思議に思われても、所詮は『手品のネタ』は単純な子供騙しであり、分かってしまえば余りの阿呆臭さに呆れ返るばかりである。
『自由と民主主義』の看板を掲げるアメリカの中東世界の最大の同盟国であるイスラムの盟主サウジアラビアのワッハーブ派とは、丸々ISIS(イスラム国)そのものだったのである。
アメリカが9・11事件の犯人と断定した大部分がサウジアラビア人だったことからも明らかなように、アルカイダの正体とはサウジアラビアの国教であるワッハーブ派のことだった。
オサマ・ビン・ラディンを9・11の犯人だとして引渡しを要求したアメリカに対してアフガニスタンのタリバン政権は『具体的な証拠の提示』との当然の正当な要求をしている。
ところがブッシュ政権は即座に『問答無用』と泥沼のアフガン空爆を開始して、永久に終わらない『対テロ戦争』を始めているのである。


『イスラム国を理解するには、サウジアラビアの過激主義「ワッハービズム」を知らなければならない』(資料)ハフィントンポスト日本版

イスラム国の劇的な出現は西側の多くの人々に衝撃を与えている。そして多くの人が困惑して、恐怖を感じている――その暴力と、イスラム教スンニ派の若者たちへの明らかな求心力にだ。さらに、この出現に直面したサウジアラビアの迷走を厄介に、また不可解に感じ、首をかしげている。「サウジはイスラム国が自分たちをも脅かしていることに気付いていないのだろうか?」と。

今でさえ、サウジアラビアの支配階級のエリートたちは分裂しているように見える。ある者たちは、イスラム国がイランのシーア派の"武力"にスンニ派の"武力"で対抗するのに拍手喝采だ。新しいスンニ派国家が、まさに彼らがスンニ派の歴史的遺跡とみなす中心地で具体化しているからだ。そしてそれらはイスラム国の厳格なサラフィスト(サラフと呼ばれる初期イスラムの時代を理想とするサラフィー主義の一派)・イデオロギーにより出現している。

他のサウジ人たちはもっと恐れており、ワッハーブ派(18世紀半ばにアラビア半島に起こった復古主義的なイスラム改革運動)のイフワーン(サウジアラビアの建国を支えた民兵組織)によるアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(サウジアラビア初代国王)への反乱の歴史を思い出している。(お断り:このイフワーンはイスラムの兄弟関係を意味するイフワーンとは無関係である。――今後のすべての言及はワッハーブ派のイフワーンに関するもので、イスラムの兄弟関係のイフワーンについてではないことにご注意いただきたい)。イフワーンは1920年代末に、ワッハーブ派とサウド家をほぼ崩壊寸前まで追い込んだ。

多くのサウジ人はイスラム国の急進的教義に深く困惑している――そして、サウジアラビアの方向性と論理のある部分に疑問を投げかけ始めている。

『サウジの二重性』

イスラム国をめぐるサウジアラビアの内的不調和と緊張は、この王国の教義上の構造やその歴史的起源のまさに核心に存在する、固有の(また持続する)二重性を知ることで初めて理解できる。

サウジのアイデンティティーの1つの支配的な鎖は、ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(ワッハーブ派の創始者)と、イブン・サウードにより示された急進的で排他的なピューリタニズムの採用に直接つながる(後者は当時、非常に乏しい灼熱のネジド砂漠でベドウィン部族たちを襲い続ける多数の指導者たちにまぎれた、目立たないリーダーの一人に過ぎなかった)。

この複雑な二重性への2つ目の鎖は、1920年代の、アブドゥル・アジズ王に続く国家体制へのシフトに正確に結びつく。彼がイフワーンの暴力を抑制したこと(イギリスやアメリカに対し国家として外交的立場を取るため)、ワッハーブ派の元来の衝動を制度化したこと、そして続く1970年代の、絶好のタイミングで押し寄せてきたオイルマネーの蛇口を捕らえたこと、変化しやすいイフワーンの流れを内側から外側へ向けさせたことだ。それらはイスラム世界全体に、暴力革命よりも文化革命を拡散させることによって実現した。

しかしこの"文化革命"は穏やかな改革主義ではなかった。それはアブドゥル・ワッハーブが自らの内に知覚した、腐敗と逸脱へのジャコバン派に似た憎悪に基づく革命であり、すべての異端と偶像崇拝を粛清するよう求めるものだった。

『イスラムの詐欺師たち』

アメリカの作家でジャーナリストでもあるスティーブン・コールは、14世紀の厳格なイスラム法学者イブン・タイミーヤの厳しくて口やかましい弟子、アブドゥル・ワッハーブが、"上品さ、芸術家気取り、喫煙、大麻吸引、太鼓を叩くエジプト人、そしてアラビアを縦断してメッカへ祈りに行くオスマン貴族"をいかに軽蔑していたか書いている。

アブドゥル・ワッハーブの思想によれば、彼らはイスラム教徒ではない。イスラム教徒の仮面をかぶった詐欺師だ。もちろん、地元のベドウィン・アラブ人の振舞いを、もっとましだと思ったこともない。彼らは聖人をあがめ、墓石を建て、"迷信"(たとえば墓や、特に神聖とみなされる場所をあがめたりすること)に従うことで、アブドゥル・ワッハーブを怒らせた。

これらの振舞いすべてを、アブドゥル・ワッハーブは異端――神により禁止されている、として非難した。

昔のタイミーヤのように、アブドゥル・ワッハーブは預言者ムハンマドがメディナ(イスラム教の聖地)にいた期間こそ、すべてのイスラム教徒が倣おうとすべき理想的なイスラム社会("最良の時代")だったと信じていた(本質的に言って、これがイスラム教の最も保守的な思想であるサラフィズムにほかならない)。

タイミーヤはシーア派、スーフィズム(イスラム教の神秘主義思想)、そしてギリシャ哲学に対し宣戦布告した。彼はまた預言者の墓を訪れて誕生日を祝うことにも反対し、そのような振舞いはすべて、イエスを神として崇拝(つまり偶像崇拝)するクリスチャンのまねごとにすぎないと宣言した。アブドゥル・ワッハーブはこれら初期の教義すべてを吸収し、こう言った。イスラム教義のこの特定の解釈を受け入れる面で、信者の側に「なんであれ疑いや躊躇」があれば、「その者は財産や命を免除される権利を奪われる」べきだ。

アブドゥル・ワッハーブの主要な教義のひとつがタクフィール(不信仰者の宣告)の主要な考えとなった。タクフィールの教義のもとでアブドゥル・ワッハーブと彼の追随者たちは、何であれ絶対の権威(すなわち王)の主権を侵害するような活動に携わった仲間のイスラム教徒を異端者とみなすことができた。アブドゥル・ワッハーブは、死者、聖人、天使をあがめたイスラム教徒すべてを非難した。そのような感情は、神に対し、また神にのみ示されるべき完全な服従を損なうと考えたのだ。よってワッハーブ派のイスラム教義は、聖人や死んだ愛する人に祈ることや、墓や特別なモスクへの巡礼、聖人をたたえる宗教的祭り、イスラムの預言者ムハンマドの誕生日を祝うこと、そして死者を葬る際に墓石を使用することさえ禁じた。

この考えに従わない者は殺されるべきであり、その妻や娘たちは犯されるべきであり、その財産は没収されるべきだと彼は書いている

アブドゥル・ワッハーブは服従を要求した――物理的、具体的に示される服従だ。彼は、イスラム教徒すべては1人のイスラム指導者(カリフ、もし存在するならば)に個人的に忠誠を誓う必要があると論じた。
この考えに従わない者は殺されるべきであり、その妻や娘たちは犯されるべきであり、その財産は没収されるべきだ、と書いている。
死に処されるべき背教者のリストには、シーア派、スーフィー派、そして他のイスラム宗派、すなわちアブドゥル・ワッハーブが決してイスラム教徒であるとは考えなかった人々が含まれていた。

ここにはワッハービズムとイスラム国を区別するものは何もない。裂け目は後に現れることになる。後の、ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブの教義を制度化した"1人の支配者、1つの権威、1つのモスク"―― これら3つの柱のそれぞれがサウジ王、すなわち正統ワッハービズムにおける絶対的権威を現す、そして"言葉"を支配することだ(つまりモスクだ)。

これが裂け目――イスラム国による、スンニ派が全権を振るうこれら3つの柱の否定――、すなわち他のすべての要素についてはワッハービズムを受け入れるイスラム国を、サウジアラビアの深刻な脅威としているものだ。

『ワッハービズム小史』
1741年―1818年

こうした超急進的思想をアブドゥル・ワッハーブが擁護したことは、必然的に彼自身が町から追放されることにつながった。そして1941年、放浪を繰り返したあげく、イブン・サウードと彼の部族の保護の元に避難することになる。イブン・サウードはアブドゥル・ワッハーブの高潔な教えがアラブの伝統と慣習を覆す手段になると考えた。それは権力掌握への道だった。

彼らの戦略は、現代のイスラム国と同様、征服した人々を服従させることだ。恐怖を植え込むことがねらいだった

アブドゥル・ワッハーブの教義を手中に収めたイブン・サウードの一族は今や、いつも行っていること、すなわち近隣の村を襲って財産を奪うことができた。
ただし今回はただアラブの慣習の範囲で行うのではなく、ジハードの旗の下にだ。イブン・サウードとアブドゥル・ワッハーブはさらに、ジハードの名の下に殉教という考えを持ち込んだ。それら殉教者たちはそのまま楽園へ行くことが保証されるというのだ。

当初、彼らはいくつかの小さな地元コミュニティを征服して自分たちのルールを課した(征服された人々には限られた選択肢しかなかった。ワッハービズムへの改宗、もしくは死である)。1790年までに、この連合はアラビア半島の大半の地域を支配しており、メディナ、シリア、イラクを繰り返し攻撃した。

彼らの戦略は、現代のイスラム国と同様、征服した人々を服従させることだ。恐怖を植えつけることがねらいだった。1801年、この連合はイラクの聖都カルバラを攻撃した。女性や子供を含む何千人ものシーア派を虐殺した。預言者ムハンマドの殺害された孫であるイマーム・フセインの寺院を含め、シーア派の寺院の多くが破壊された。

イギリスの役人、フランシス・ウォーデン中尉は当時の状況を観察し、「彼らはそこ(カルバラ)のすべてを略奪し、フセインの墓を・・・略奪した。その日の、独特の残酷な状況の中で、5000人以上の住人を殺害した・・・」と書いている。

オスマン・イブン・ビシャール・ナジ、第一次サウード王国の歴史家は、イブン・サウードが1801年のカルバラの大虐殺に関わったことを記している。彼は誇らしげにその虐殺を記録していた。「われわれはカルバラを制圧し、その民を殺し、(奴隷として)捕らえた。アラーが賛美されますように、世界の主が。われわれは謝罪しない、そして言う、『不信者たちへも、同様の扱いを』」。

1803年、アブドゥル・アジズは、恐怖とパニックにより降伏した聖都メッカに入った(同様の運命がメディナにも間もなく訪れることになる)。アブドゥル・ワッハーブの追随者たちはメッカにある歴史的建造物やすべての墓、寺院を破壊した。1803年末までに、彼らはグランド・モスク近くの何世紀もの歴史を持つイスラム建築物を破壊した。

しかし1803年11月、シーア派の暗殺者がアブドゥル・アジズを殺害する(カルバラの大虐殺の報復だ)。彼の息子、サウド・ビン・アブドゥル・アジズがその後を継ぎ、アラビアの征服を継続した。しかしオスマンの支配者たちはもはや、指をくわえて自分たちの帝国が少しずつ削り取られていくのを見ていることはできなかった。1812年、エジプト人で構成されたオスマンの軍隊はこの連合をメディナ、ジェッダ、そしてメッカから追い出す。1814年、サウド・ビン・アブドゥル・アジズは熱病により死亡した。しかし彼の不運な息子、アブドゥラ・ビン・サウードはオスマン人によりイスタンブールへ連れてゆかれ、陰惨な方法で処刑された(イスタンブールを訪れたある人は、彼がイスタンブールの通りで3日間にわたって辱められ、その後つるされて首を切られ、切断された頭部はキャノン砲で吹き飛ばされ、心臓は切り出されて体の上に突き刺されたと報告している)。

1815年、ワッハーブの軍は決定的な戦いでエジプト人(オスマンのために行動していた)と衝突する。1818年、オスマン人はワッハーブの首都ディルイーヤを制圧し破壊した。ここに第一次サウード王国は消滅した。ワッハーブ派の少数の生き残りが再起のため砂漠に逃げ、19世紀の間のほとんど、そこで沈黙を貫いた。

『イスラム国により歴史は繰り返す』

現代のイラクにおけるイスラム国によるイスラム国設立が、歴史を思い出す人々の間でどのように共振するかを理解するのは難しくない。確かに、18世紀のワッハービズム思想はネジド(サウジアラビア中央部の高原地域。ワッハーブ派の発祥地)において枯渇しなかった。それは第一次世界大戦の混乱のさなかにオスマン帝国が崩壊した時、唸り声を上げて舞い戻ってきた。

アル・サウードは、この20世紀のルネッサンスにおいて簡潔で政治的に抜け目のないアブドゥル・アジズに導かれた。気難しいベドウィン部族たちを統一し、先に述べた通り、アブドゥル・ワッハーブとイブン・サウードによる改宗者たちとの戦いの思想に基づいたサウジの"イフワーン"を創始した。

イフワーンは、初期の激しい半独立の急進的運動から派生したものだ(そのために自ら進んで武装したワッハーブ派の"道徳者たち"は、1800年代初頭にアラビア半島をほぼ掌握した)。当初と同じように、イフワーンは再び1914年から1926年の間にメッカ、メディナ、そしてジェッダの制圧に成功する。しかしアブドゥル・アジズは、イフワーンによって掲げられる革命的な"ジャコバニズム"が、自分のより広範な関心事にとって脅威になると感じ始めた。イフワーンは反乱し、内戦が始まった。内戦は1930年代まで続いた。アブドゥル・アジズが彼らをマシンガンで射殺し、終結させたのだ。

この王(アブドゥル・アジズ)にとって、それまで数十年間続いていたイスラムの純粋な真理は価値のないものとなってしまった。アラビア半島で石油が見つかったからだ。イギリスとアメリカは、アブドゥル・アジズに言い寄りつつも、なおアラビアの唯一の正当な支配者としてメッカの太守シャリフ・フセインを支持することに傾いていた。サウード家は、もっと洗練された外交的姿勢を示す必要があったのだ。

ワッハービズムは強制的に変換させられた。革命的ジハードと神学的なタクフィールの純化運動から、保守的、社会的、政治的、神学的、宗教的ダワ(イスラム布教活動)と、サウード家と王の絶対的権力への忠誠を掲げる制度を正当化する運動へである。

『オイルマネーがワッハービズムに広がる』

石油資源が掘り当てられ(フランスの学者ジャイルズ・ケペルが書いているように、サウジの目標は、ワッハービズムを、"ワッハービズ"[ワッハービズム・ビジネス]イスラム国家へ向けてイスラム世界全体に広め、この宗教内部での異なる思想を退けて"単一の信条"にすることだ)、この運動は国家的分裂を克服するはず、だった。このソフトパワー(その社会の価値観、文化的な存在感、政治体制などが他国に好感を持って迎えられ、外交に有利に働くこと)の表明に対して何十億ドルもの富が投資されており、さらに投資されるはずだった。

それは魅力的な何十億ドルもの富、そしてソフトパワーの投影だった。サウード家が推し進めようとした、イスラム教スンニ派を管理しアメリカの利益を促進しようとする意図は、教育的、社会的、文化的にイスラム世界全体へワッハービズムが付随的に埋め込まれた。その結果、西側世界の政策がサウジアラビアに依存するようになった。1945年2月、アブドゥル・アジズが(ヤルタ会議から大統領を連れ戻す)アメリカの戦艦クインシー号でルーズベルトと会談したときから今日までずっと続いてきた。

西側の人々はこの王国を見た。彼らはその富を、見かけだけの近代化を、公言されたイスラム世界のリーダーシップを凝視した。そしてこの王国が近代社会の要求に屈服することになるだろうと予測していた。そしてスンニ派イスラムの指導部も、近代社会のために、王国に屈服するだろうと。

「一方では、イスラム国はワッハーブ派が深く根ざしている。他方で、違った意味で超急進的だ。それは現代ワッハービズムへの是正運動に本質的に見ることができる」。

しかしイスラム教へのサウジ・イフワーンのアプローチは1930年代に断絶していなかった。イフワーンは衰退したが、システムのさまざまな場所に影響力を残していた――だから今、我々はサウジのイスラム国への姿勢に二重性があると見ている。

一方では、イスラム国は深く根ざしたワッハーブ派だ。他方で、異なる意味で超急進的だ。それは現代ワッハービズムへの是正運動に本質的に見ることができる。

イスラム国は"ポスト・メディナ"運動だ。闘争の旗印として預言者ムハンマド自身よりも、2人の正統カリフ(初期イスラム国家の最高権威者)カリフに目を向けており、サウード家の支配権を強く否定している。

サウード家の支配者たちが石油時代に花開き、かつてないほど隆盛したのに伴い、原理主義的なイフワーンのメッセージは主張の拠り所を得た(第3代国王ファイサル王の近代化キャンペーンにもかかわらず)。"イフワーン・アプローチ"は多くの裕福な男女とシャイフ(アラブの族長)たちの支持を得たし、今も得ている。ある意味で、オサマ・ビン・ラディンは、まさにこのイフワーン・アプローチが遅まきながら花開いた象徴であった。

現在、イスラム国が王権の正当性を弱めようとする動きは問題ないとみられている。むしろ、サウード家―ワッハービズムへの原点回帰だと言える。

西側のプロジェクト推進のため、サウード家と西側諸国がこの地域の共同管理(社会主義、バーシズム、ナセリズム、ソビエト、そしてイラクの影響力に対抗して)を行っている。西側の政治家たちは、彼らがサウジアラビア(富、近代化、影響力の拡大)の選択を担ったことを強調している。しかし彼らは、ワッハーブ派の動きは無視することにした。

結局のところ西側の諜報機関は、もっと急進的なイスラム原理主義がアフガニスタンからソ連を追い出すために――また好まれない中東の指導者たちや国家との戦いに、より効果的だと認識していた。

であれば、サウジの情報機関トップであるバンダル王子のサウジ―西側コネクションがシリアのアサド大統領への反乱を指揮するよう命じ、現代のイフワーン的な暴力、恐ろしい急進的活動、すなわちイスラム国を出現させたことに驚きはない。
ワッハービズムについていくらか知っているなら、シリアの"穏やかな"抵抗勢力が神話のユニコーンよりも珍しい存在だということに驚くこともないだろう。急進的なワッハービズムが穏健派を生み出すなどと、どうして想像できるだろう。
あるいはどうやって"1人の指導者、1つの権威、1つのモスク:服従させよ、さもなくば殺せ"という教義が、最終的に中庸、譲歩につながると想像するのだろうか。

あるいは、多分、想像したこともないだろう。
(投稿日: 2014年09月12日)アラスター・クルーク 元イギリス秘密情報部(MI6)幹部 中東担当  

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コメント
 
01. 2015年1月21日 19:59:01 : gOL2w1nHMI
ワッハーブ運動

本来は、18世紀のアラビア半島でハンバル学派」の法学者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブの唱えた急進的イスラム改革思想(ワッハーブ主義)を、同地の豪族サウード家が軍事的に支援し、その普及を試みた宗教・政治運動をさす。
ワッハーブ派と呼ばれることもあるが、独立した分派・学派ではない。
*
なお”ワッハーブ主義 ”という言葉は他称である。
自称は”ムワッヒドゥーン ”(一神論の徒たち)であり、この命名から、彼らが批判していたムスリムたちを”多神教徒 ”に近いものとまなしていることが分かる。
その一方、運動の外部にいる者(西洋人も含む)たちが付けた”ワッハーブ主義 ”という名称は”狂信者 ”などといった否定的なニュアンスが付与されがちである。
そして、サウード家の運動と連携したものはもとより、直接これとは結びつかないイスラーム改革運動(とくに反植民地主義、反体制の志向をもつもの)もこの名で呼ばれ、オリエンタリズム的言説のもとで否定的に評価される傾向がしばしばみられる。
*
以上 岩波イスラーム辞典(2002年)「ワッハーブ運動」の項から一部抜粋


02. 2015年1月21日 20:09:18 : gOL2w1nHMI
転載投稿者が同記事を投稿するにあたり関連性を念頭においた記事;

・イラクの都市を制圧し始めたISISの黒幕はサウジの王子だが、資金の提供者は巨大石油資本との情報 (櫻井ジャーナル)
http://www.asyura2.com/14/kokusai8/msg/863.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 6 月 24 日

>>1の「直接これとは結びつかないイスラーム改革運動(とくに反植民地主義、反体制の志向をもつもの)もこの名で呼ばれ、オリエンタリズム的言説のもとで否定的に評価される傾向がしばしばみられる。」で連想した記事

・Iranian Jews (you tube)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/679.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 7 月 31 日

・現代国際政治を動かすゾロアスター教の遺産 (JOGMEC)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/655.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 6 月 19 日


03. 晴れ間 2015年1月21日 21:43:00 : FhUYgDFvAt2/E : xni5yVaf3k
私は中東のことはほとんど何も知らないし、イスラムのこともよく知らない。

ただ、二点だけ指摘すれば、

@ 西洋の植民地支配者・帝国主義列強は、植民地支配に当たっては、つねに分断支配を旨とした。
一部の部族に特権的な地位を与え、それ以外の部族を支配するための道具として使った。
アラビア半島では、それがサウド家。

A イスラム原理主義者の原点回帰は、イスラムの創成期を「理想」とみなすことで、社会発展を許さない運動になった。
植民地支配された地域では、イスラムは帝国主義列強に抵抗する唯一のイデオロギーであったため、帝国主義・植民地主義への抵抗がますますこの地の社会発展を押しとどめることになった。


西洋式の近代化や、西洋の価値観(自由、民主主義etc.)を拒否すれば拒否するほど、近代的な社会発展との距離が開いていく。
「宗教的蒙昧」が、この地の人々の不運を増すことになる。
従って、「宗教的蒙昧」を盲目的に肯定することは、正義ではない。
しかし外からは、内政干渉も文化干渉もできないことであるから、放置するしかない。(この地の人々の自主的な選択に任せるしかない。)
ただし、西洋社会の内部で、「宗教的蒙昧」の中にいる人々に「宗教的蒙昧」を指摘することは何の問題もない。むしろ同化の可能性がある人々にとっては有益である。今回シャルリエブドがやったのは、そういうこと。


04. 2015年1月21日 22:27:49 : gOL2w1nHMI
>>3

私も中東のことをよく知らないし西欧のこともよく知りません。
が、ご指摘は理解出来ます。

私は、どうしてイランとイラクは交互に西欧に叩かれるのかな?サウジはそうじゃないのかな?みたいなのに関心があったんですね。
(といっても、例えばこういうミーハーなものですがhttp://www.asyura2.com/10/senkyo96/msg/621.html#c1
で、どうしても自分の関心に沿ってものを見てしまうわけで。


05. 2015年1月21日 22:57:27 : gOL2w1nHMI
でもって、>>3の見方に肯首しますね。

06. 晴れ間 2015年1月22日 00:13:28 : FhUYgDFvAt2/E : xni5yVaf3k
>>05

各地の正確な情報をもっているわけではないのですが、20年くらい前にルワンダで大虐殺があったとき、フランスが植民地時代にツチ(少数派)を優遇していたことを知り、そうではないかと想像するようになりました。独立後、フツとツチの力関係が逆転し、フツ(多数派)がツチを圧迫するようになったのではないか、と。
でも、この点に関して、専門的な文献を読んだわけではありません。

旧植民地って、ネポティズムが酷いんですよ。
政権を握った集団が、自分の一族郎党や部族の間で公職を独占してしまう。それ以外の者は公職にも就けない。勢い、締め出された者は反政府活動をしたり、フランスに政治亡命せざるを得なくなる。

皮肉なのは、フランスに協力的であった集団の方が容易に「フランス化」「西洋化」するので、女性の状況はよくなります。
イスラムの戒律に押しつぶされる程度が軽いです。

移民の第二世代というのは、まず故国には帰れなくなります。見かけはアラブ人でも、中身は半分フランス人です。伝統主義的な社会には適合できません。
今回のテロ犯は第三世代になります。

フランスは文化的な支配力が強いので、旧イギリス植民地だった人から見れば「精神的に不安定」だといいます。でも、同化さえすれば、相当にいい位置に行けます。
イギリスでは、旧植民地人はいつまでも白人とは別の人種扱いされ、決して受け入れられないそうです。ただ、階級的な同化はありそうです。イギリスのことはよく知りません。


07. 晴れ間 2015年1月22日 06:28:12 : FhUYgDFvAt2/E : xni5yVaf3k
>>06

別の投稿記事にも、関連するコメントを入れています。

http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/818.html?c17#c17


08. 2015年1月23日 19:34:53 : LBtbDXFoS6
そういえば、サウジアラビアと現在の「イスラム国」には類似点がありますね。
女性の抑圧と残酷な公開処刑です。
同じコーランにのっとっているとは言え、他のイスラムの国々ではあそこまでの傾向はないようです。
そのお陰で「イスラム文明=遅れた、野蛮な文明」という図式が、その他の諸国民に広まり、イスラムには馴染みのない日本人などもすっかりその先入観に染まりました。
中世まではヨーロッパ以上の科学や芸術を誇ったのイスラム文明圏のことなど、世界史の教科書でもチラっと習うか習わないかなので、人はすぐ忘れます。

結局、それで誰が得したかということですが。



09. 2015年1月23日 20:24:42 : LBtbDXFoS6
サウジ建国と言えばアラビアのロレンスですね。
昔、評伝を読んで、憧れたものですが、あの人って、つまりは英国の有能なスパイだったということですね。

トルコの首相が今こんなこと言ってますけど。

トルコのトピックス エルドアン大統領が“現代のロレンス”に対する団結を呼びかけた
http://blog.goo.ne.jp/sachiko-lale/e/d05661432ed25e28fc5dd5f303085788?fm=rss


10. HIMAZIN 2015年1月24日 02:42:23 : OVGN3lMPHO62U : Armdk3Y4sQ
>>08

>そういえば、サウジアラビアと現在の「イスラム国」には類似点がありますね。

なるほど、共通点ですか。
恥ずかしながらサウジとの共通点まで思いが至りませんでした。

>「イスラム文明=遅れた、野蛮な文明」という図式

これがISISに対して抱いた疑念ですね。
ツイッターを使いこなし、十分に対外を意識した人間がいるはずなのに、
わざわざ「西洋がそのように見たがる典型的な悪役としてのアラブ人」という振る舞いを
見せるという、西洋からすると都合の良い悪役なんですよね。

誰かが言っていたように、
おかげでイスラエルの悪事が霞んでしまうという結果になっているという。

>イスラムには馴染みのない日本人なども

そもそも日本にはモスクすら碌に無いですからね。

代々木上原には東京ジャーミイという立派なモスクがありますが、
ここまでの施設は他には無いのではないでしょうか。

http://www.tokyocamii.org/ja/


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