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学校における「平等」と「自主性」教育の問題点
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投稿者 天橋立の愚痴人間 日時 2014 年 8 月 04 日 09:33:39: l4kCIkFZHQm9g
 


「お話 その1」

 京都府のある小学校の四年のクラスには、教育に非常に熱心な先生がおられまして、その先生は、テストのとき、生徒の全部に90点以上を取らせたいと思い、試験が近づくと、黒板に問題と解答を書き出し、何回も何回も生徒に覚えさせていました。 結果は聞いておりませんが、その父兄の一人は、先生の努力を奇異なものと感じておられました。

「お話 その2」

 私の子供が小学生のおり、「学級通信」なるプリントを殆ど毎日の様に持って帰ってきました。 始めは、先生も大変と思いながら、少しは目も通しておりましたが、そのうち、捨てる訳にもならす、ただ集積するに任したものです。 日常化した膨大な量のプリントは子供にとって本来の連絡紙の意味を感じなくなり、本当に必要な内容を含んだものも含めて親に確実に手渡す事の大切さがだんだんとわからなくなってしまいました。

 知り合いの小学校教諭に聞きますと、そのプリントの作成に毎日時間を取られて、また、毎日なので書く内容に神経を使うため大変らしいです。 費用対効果の意味で先生方に同情するだけではすまされない問題が内在していると思います。

「お話 その3」

 最近小学校での運動会では、1等・2等・3等と順位をつけない学校があるらしい。 幸いに、私の子供の学校では経験しなかったが、早く走れるのにふざけて走らない子供、玉入れでは相手の籠に玉を入れる子供、またそれを観戦する父兄のしらけた表情など、想像するに耐え難い光景を現実のものとしている小学校が少なからずあるようです。

「お話 その4」

 私がPTAの地区の役員をしていた中学校で、毎年夏休みに行われている、生徒による古紙回収の行事での話し。
準備の為の役員会が開かれ、教務担当の先生からは以下のように説明されました。 「この行事は生徒の社会学習の一つとして、生徒が自主的に計画して行うものです、父兄の方には、回収の為の車両を提供していただき、また行事が安全に行われるように指導してやって下さい」
行事当日の事 ・・・

行事後のPTAの役員会(反省会)の発言集

ある父兄 
今年は生徒達が非常に協力的でスムースにできて、本当に助かりました。
(私のところでもそうだった、との同調意見あり)

教務担当の先生  
有難うございました、また来年も宜しく・・・

私の発言
皆さん、少し待って下さい。 私の地区では以下のようでした。
集合時間を厳守できていない、特に上級生に目立つ。
集合して後、上級生からは、父兄に何の挨拶もなく、また、下級生にたいして何の指示もしない。
様子を見ていると、班分けは出来ているらしく、ぞろぞろと出発する気配なので、回収道順等について車両を運転する父兄に説明をする様に注意をしたところ、明確に説明する何の資料も持っていない。
回収前に、協力を依頼する文書を各家庭に配布していたようだが、そのリストも持っていない。 回収作業が始まってからは、トラックの荷台に乗せろと上級生ほど要求する。

 以上の内容であり、先日、先生から言われていた、生徒が自主的に行う社会学習の観点から見ると、その目的からは、かけ離れた状態であった。 それでも結果として、市からの助成金を含めて50数万円の収入が見込め、それで教材及びクラブ活動の資金が手に入り、生徒が自分達の力でこれを達成したと思うことは、教育上ゆゆしき問題であり、来年からは取り止めていただきたい。 資金が必要ならPTA行事として行い、生徒に協力させればよい。 (皆さん、しらけてシーン ・・・ )

「お話 その5」

今度は私が地区の公民館で文化委員をしているときのお話です。
小学校の夏休みを目前に、公民館の関係委員・小学校の担当の先生・市の教育委員会からも課長が出席して、地区の子供たちの夏休みの過ごし方を指導する為の会合でした。

学校の先生からは、海水浴の時の安全確保、交通事故に巻き込まれない様に注意させるとか、規則正しい生活に留意させるとかの一般的注意を学校の夏休み中の行事とも関連させて発言しておられました。

次に教育委員会の課長は次のように発言されました。 「学校では子供が自主性を発揮するように常に指導を行っております、夏休み中も、先生が言われたことを子供が自主的に出来る様に、指導してやってください」
何気ない発言に議事は順調に進むはずでしたが、その場にふさわしくない者が今年は紛れ込んでおりました。


私の発言 
最近、教育の場でよく自主性が言われていて、修学旅行の行先も子供の意見を聞かれているそうです。 何事でも自主的に出来ると言うことは、その事に関しては、すでに人間として完成できている事ではないでしょうか。 我々社会人におきましても、簡単なことから難しい事までそれぞれに任しきるには、慎重な考慮を必要とされます。

その人が結果の責任を取れる範囲において、本人にまかす(自主性にまかす)様にしないと、事業などは維持出来ません。 もちろん自主性は大切な内容ですが、それを身に付けさせるのは、成人も含めて大変なことです。 また自主性を発揮する為の自身の判断力を醸成させる為に、人は、広く他の意見を取り入れる習慣を身に付けないと出来るものではありません。

生まれながらにして社会的に有効な自主的な判断力を持った子供などいるはずがありません。 正しい自主性などは、その内容に応じて(簡単な事例から複雑な内容のものまで)教導されねば育つはずはないし、年少のころより、そういった、指導をきっちりされる方が、子供はより早く、正しい自主性を身につけることになるのではないでしょうか。

子供達に正しい判断力が育っておれば自然に自主的にものを行うことが出来、結果として我々父兄が喜ぶことであります。 真に子供の成長を願うならば、自分のことでも責任の取れもしない子供の判断の自由にまかせて、成り行きを見ているような悠長なことは、日々成長を繰り返すべきこの時期に適切では無いはずです。

子供の判断の誤りはその都度きっちりと指摘してやる事の連続が教育であり、その必要がなくなった部分に比例して自主性が芽生えたと思うべきです。 しかるに、最初に自主性ありきの今の発言が子供の成長にどの様な意味で有効かを、具体的な根拠を示して説明していただきたいものです。 (またまた一同 シーン ・・・  )

これらは私の子育ての過程での出来事を中心に述べてきました。 その中によく出て来た、表題の「平等」と「自主性」について考えることにします。

広辞苑を引きますと「平等」とは「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」その用例としては「・・・に扱う」とか「男女・・」のように、あるものとあるものの関係において平等の概念を当てはめることが正しい使い方であり、また「平等に分ける」の場合のように、平等の概念が適用できる対象について可能な言葉であります。

しかるに、我々人間の能力・環境など、それ自体が平等になりえないものに、平等の概念を適用しようとする行為は、愚劣を通り越していて、このような概念を教師が持っているとすれば、直ちに矯正すべき内容であります。 我々人間は、与えられた環境・身体・能力に応じて精一杯生きてゆく事が大切なのです。

年少者の教育の場での神様になるような教育は、子供達が長じて社会生活に入って行く上に、大変な弊害をきたす以外のなにものでもありません。 頭の良い子はそれを生かし・身体の頑丈な子はそれを利用するもよし、成長と共に、自分に応じた生き方を身に付けさせること、自分の長所を認識させることが義務教育時点での重大な課題ではないでしょうか。

民主主義の世の中で、機会とか情報とか、社会的各種差別に対して平等を主張するのは結構ですが、人間自身が平等に生きられると思い込ませかねない教育は、この世ではやって欲しくないものです。

同様に「自主性」について、広辞苑では「他人の干渉を受けないで、自分で決定して事を行うさま」とあります。 子供でも、成人でも、自らを成長させるにおいて、一番大切な心がまえは、見習うことです。 その昔、我々老人の時代には、親は生活に追われていて、我が子の教育などは、ただ叱り付けることでした。 その中で子供達は、やってならない事、善い事を自然に習ってきました。 成人に達してからも、先輩達の仕事を盗むようにして覚えていったものでした。 年少のころから、少しずつ確実なものを身に付けて、それが自信になり、判断力の根拠となって、他の人からも信頼されるようになりました。

自主性などは、その過程で無意識のうちに醸成されてゆく、責任感を伴った自我に基づくものでなければなりません。 自我とは、これも広辞苑によりますと哲学的には「認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別して言う語」、また心理学的には「意識や行動の主体を示す概念」、精神分析の世界では「イド」(注)から発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする」とあります。 自我の発育は心理学で言っておりますように、思春期に反抗期を伴って顕著になってくるものであり、個人の心的体験等によりそれぞれに差異があるものです。

発育途上の子供に対して、択一的に、他動的に、まず先に、自主性の概念を教え込む等の手法によって、正常な自我を醸成させることが出来ると思っているのでしょうか。 自主性と言う言葉を自我と置き換えて考えればそんなに単純に、教えて身につけさせられることではないはずです。 自我の未成熟のまま自主性の概念のみが発達した、能力も責任感もない多くの人間が社会に出た時、社会の秩序が崩壊するのは目に見えております。

教育の場で「自主性」を云々するのは、如何にして正当な自主性を身に付けさせることが出来るかを、教育者自身が己に問う問題であり、子供に自主性を安売りするものではありません。 まして、事例を与えて子供に実験させて悦に入っているのみの教育現場のあり方は、もってのほかの状況と考えます。 「自主性」にたいする考え方が逆立ちしている様です。

最近発表された教育基本法のなかにも「自主性を育てる教育」が方針として盛り込まれておりますが、その抽象的概念をかかげるだけで、教育現場の現状に対して余りにも無責任な対応といえます。 子供の内面を伴わない自主性の意識を発揚させる教育が、それだけが全てと申しませんが、やたらと親や教師に反抗し、物事に責任を取れない子供が氾濫している原因となっていると思います。

以上、申し上げました様に、多くの教育関係者様におかれましては、広辞苑等をひも解かれまして、まず自らの語学力の再教育をされた方が、よいのではないでしょうか。 従来の認識を変えられたほうが、自らの教員生活にゆとりも出来、崇高なる職業意識の満足にも効果のある事と、御提案申しあげます。

(注) id = 精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉。快を求め不快を避ける快楽原則に支配される。 エス(es)ともいう。 精神分析の用語。

(以上転載終わり)
http://www.kyudan.com/toukou/amano03.htm


ここでいう自主性教育の結果が、現代社会を蝕んでいる。
あるものは自分の個性に自信を持って社会へでたものの、その未熟さゆえに、自分の位置を確保するに至らず逃避行動に移る。

あるものは、自分が培ってきた狭い了見での能力では現実の困難に対処できず、否、問題点も認識できず人間としての成長を停止する。

社会の現実に対する対応力がないのである。
現実の問題に素直に対応することができないのである。
結局、そういう人間は他力本願にすがるか、言い訳に終止する人生を送る。
このような状況は、むしろ知的能力があると思い込んでいる人たちに蔓延しているのであるが、当人は、それも自覚できない。

まあ、無気力は良いとして、その中からトンでもなく自暴自棄に陥る人間も出てくる。
誤った自主性、平等の概念は、結果として人間は誰でも同じことが出来るはずと言う認識から自分を見る。
だから、社会の先人、賢人の諭しを受け入れることが出来ない。

そうしたことが現代社会の混沌を生み出している。

・・・

1億人のソクラテスが
1億の国家を語り
百家争鳴の中にある。

そのとき、国もなく、家もなかった、
正義もなく、希望もなかった。
人生を庇護したのはだれか、社会を包んできたのは何か。
人々の謙虚さはどこにいったのか、あの心はどこに。

無限の自由は不自由となり、
無限の欲望は希望を奪い、
かの唯一者は、息なく呼吸し、
人々の心には何も存在しなかった。

全世界は混沌におおわれ、
正義もなく、悪もなかった、
自由もなく、拘束もなかった、
新しい創造がどこから生じるかを、だれが宣言するのか

そのとき、おおいの中に隠れていたもの、
かの(唯一者)が灼熱の力によって生まれる。

これから出て、はじめに現れたのが、
知の種子なる意欲であった。
有の根底を無のなかに見いだしたのは、
心の動きにしたがい、探し求めた啓蒙であった。

・・・

一体、我々は何の教育をしてきたのか。
それが民主主義なのか!  

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コメント
 
01. 2014年8月04日 09:54:07 : lWAf7PfQ9c
天の橋立愚痴人間さん

世論誘導、捏造世論調査等

日本政治の諸悪の根源である『日本メディア』及びそれを懐柔する
広告会社等問題提起し投稿してほしい

                   


02. 天橋立の愚痴人間 2014年8月04日 10:05:00 : l4kCIkFZHQm9g : APei2AcP2w
01 さん

コメントありがとうございます。

メディアの問題をまともに取り上げるのですか。

この投稿は実は8年前のもので、このような記事も阿修羅で扱って欲しいと言う意味のデモンストレーションですが、

メディアの件も頑張って考えてみましょう。


03. 2014年8月04日 13:18:11 : jP1izroj2w
何が言いたいのかよく解らん投稿

04. 天橋立の愚痴人間 2014年8月04日 14:57:10 : l4kCIkFZHQm9g : APei2AcP2w
>何が言いたいのかよく解らん投稿

阿修羅の住人には、この手の記事の意味が理解できない人がいることは承知。

要するに戦後の自主性、平等を重んじる教育は、各人が中途半端に出来上がり、結果、誰も彼もが自己主張することばかりに主体を置き、大きな社会のシステムなど目に入らない。

そうして出来た社会は、1億人のソクラテスを生み出し、喧々囂々何をやってもまとまらず、ただ個性を尊重する風潮ばかりが蔓延ってしまっている。

しかし、よく考えてみよ、我々の歴史を作ってきたものは、先人の知恵を拝借し、できるだけ高みへ登ろうとする意識、共に手を携えて大きな困難に打ち勝とうとする共生意識が連綿と続いた結果である。

その様な互いに取って社会に取って価値あるものを見出す事を忘れ、自己主張にばかり走る現代社会は、それによって社会の目標を見失い、個性を尊重しあうその心も、互の個性の谷間の中で小さく萎縮せざると得なくなって本当の自由、権利を享受出来てないことが解らない。

そういう教育で良いのかと言う事を述べている。
しかしながら、そんなことは緊急の課題でもなく、また間違った平等、自主性の観念の中で慣れ親しんだ人たちには、具体的に何を言われているか解らない人もいる。

だから冒頭の物語で始め、巻末のリグベーダの真似事で終わっている。
まあ、解らないなら、大した事を言っている訳でもないので、パスされることである。



05. 2014年8月04日 18:04:21 : 61BqBBFXiU
>そうして出来た社会は、1億人のソクラテスを生み出し、喧々囂々何をやってもまとま>らず、ただ個性を尊重する風潮ばかりが蔓延ってしまっている。

その対極にあるのが、ある種の宗教団体なわけだ。
オウムとかね。

まとまってしまう社会の害悪というものも
考えなければいけないのさ。


06. 2014年8月04日 21:06:07 : XUQmMkdG4c
自主性を重んじるというより、自分の頭で考える能力を養うことが必要だ。
愛国心を強要し自己犠牲が最高の道徳と刷り込まない教育が必要だ。
刷り込みたいのは安倍晋三、その追随者、石原慎太郎、橋下徹。それに彼らが選んだ百田以下NHK経営委員、公募校長のたぐい。

それは、何でも平等がよいということではない。各分野で個人の能力は異なる。ただしそれぞれの個人は譲ることのできない権利がある。自主的に自分の意見を持つ権利はある。


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