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ヘイトスピーチがもたらすものは「沈黙」〜第二回「もの言えぬ社会をつくるな」集会(レイバーネット日本)
http://www.asyura2.com/14/senkyo172/msg/112.html
投稿者 gataro 日時 2014 年 9 月 28 日 09:50:08: KbIx4LOvH6Ccw
 

ヘイトスピーチがもたらすものは「沈黙」〜第二回「もの言えぬ社会をつくるな」集会
http://www.labornetjp.org/news/2014/0926hokoku


http://www.labornetjp.org/news/2014/0926hokoku

 権力に対して意見すると弾圧され、沈黙させられる。戦争が近づくと最初に奪われるのは言論の自由だ――。そんな懸念を言葉にする集会「もの言えぬ社会をつくるな Part2〜戦争をする国にしないために」では、言論を封鎖しようとするうごきに対して臆してはならないことを参加者が確認しあった。


 2回目になる9月26日の集会は参院議員会館で開かれ、文化学園大学の助教授の白井聡さんやジャーナリストの安田浩一さんなど10人の表現者がそれぞれの分野から発言し、ヘイトスピーチや、慰安婦強制連行についての吉田証言を報道した朝日新聞批判、麻生太郎元首相の自宅を見に行って逮捕された事件などについて触れた。


http://www.labornetjp.org/news/2014/0926hokoku


 元読売新聞記者でジャーナリストの山口正紀さん(写真)は、朝日新聞の一連の報道にマスメディア各社から批判が集まるなか「言論の自由を守ろうとする人たちが弾圧を受け、権力と一体化したメディアがそれを後ろから煽っている」と語り、権力をチェックするという本来のメディアの責任を果たすと叩かれるというおかしさを指摘した。


 報道機関だけでなく、デモ規制など最近の言論に対する圧力を、講談師の神田香織さんは「戦争のにおいがする」と話した。


http://www.labornetjp.org/news/2014/0926hokoku


 大阪や東京で続く在日韓国朝鮮コミュニティーに対するヘイトスピーチについては、ジャーナリストの安田浩一さん(写真)が発言。言論規制の力が強まっている一方で、特定マイノリティーに対しての差別的発言は野放しにされていると語った。ヘイトスピーチがもたらす最大の効果は沈黙させること。安田さんは、本当に表現を必要としている人たちが沈黙を強いられる社会を容認してはならないと訴えた。


動画(安田浩一発言 11分)


http://www.labornetjp.org/news/2014/0926hokoku


 複数の発言者が「戦争はすでにはじまっている」と言及したことには、目が覚める思いだったが、それだけ事態は深刻だということだ。「(弾圧に負けず)ひたすら発言し続けること。私たちは発言を止めてはならない。決して黙ってはいけない」という中原道子さん(写真・「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター VAWW RAC共同代表)からのメッセージを多くの人に伝えたい。(松元ちえ)


<発言者は以下のとおり>

・木村広(出版労連書記長)

・山口正紀(ジャーナリスト)

・白井聡(文化学園大学助教)

・神田香織(講談師)

・雨宮処凛(作家)

・安田浩一(ジャーナリスト)

・前田朗(東京造形大教授)

・中原道子(VAWW RAC共同代表)

・杉浦ひとみ(弁護士)

・白石孝(プライバシーアクション代表)


<国会議員>

・福島みずほ

・有田芳生

・神本美恵子
 

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コメント
 
01. 2014年9月28日 09:58:55 : KzvqvqZdMU
逆だな、ヘイトスピーチを弾圧する、これってスターリンや毛沢東の言論の不自由を思わせるものだ。
 国際的には普通の保守系の言動を極右だのいうて弾圧する、まさに左翼の言論の
不自由のなにだ。左翼が本質的に持ってる統制主義がみえる。


[32削除理由]:削除人:アラシ
02. 2014年9月28日 10:37:58 : K60jqt8Kdk
>>01 ばかこけ。

ヘイトスピーチは徹底弾圧あるのみ。ただし、権力を批判するスピーチはその範疇にあらず。

これが正解。


03. 2014年9月28日 10:54:47 : okgCVPMn1Q
ヘイトの国で果たして五輪が開催出来るのか?

Zaitokukaiは世界中にニュースとして配信されており
そい言う議論が出てくるのは時間の問題

何よりヒトラーがオリンピックを
国威発揚に政治利用した事を
世界はまだ覚えている


04. 2014年9月28日 11:43:17 : MSnUZktq62
>>01
> 国際的には普通の保守系の言動を極右だのいうて弾圧する

普通じゃないから問題なわけだ。
いいかげんなんでも人のせいにするのはよせ。
幼稚園児のほうがまだマシだ。


05. 2014年9月28日 12:41:38 : UrOU3XhRSo
01 はヘイトスピーチ大好き人間。
お前のどこが韓国人より優れているのだ。少なくともお前のその思考法は最低レベルだ。

06. 2014年9月28日 17:17:35 : yy7D5jhcis
ヘイトスピーチについては常に自作自演の可能性を疑う必要がある。ホンモノの右翼は「朝鮮人殺せ」など下品なことは叫ばない

07. 2014年9月28日 19:32:03 : j2EOPrepI2
弾圧どころか業務妨害しているしばき隊の工作が判明

書泉グランデが書店で売っている愛国本を紹介したら、しばき隊に炎上させられ謝罪させられる 背後に有田芳生の影も

1 :ニライカナイφ ★@\(^o^)/:2014/09/27(土) 19:33:45.61 ID:???0.net
◆書泉グランデが公式ツイッターで嫌韓本をPR→ヘイトスピーチと批判→謝罪

大型書店・書泉グランデのTwitter公式アカウントが、嫌韓本を薦める投稿を
ヘイトスピーチと批判され、公式サイトで謝罪文を公開した。

書泉は神田の書泉グランデ、秋葉原の書泉ブックタワーなど、複数の大型店舗を展開する
老舗の書店だが、23日に、書泉グランデの公式アカウントで政治活動家・桜井誠氏の新刊
「大嫌韓時代」(青林堂)のPR(現在は削除されている)を投稿したことから炎上してしまった。
https://pbs.twimg.com/media/Byco3o_CYAEnNlI.jpg

Twitterに投稿された「大嫌韓時代」のPR文には「隣国が嫌いな方、なぜ嫌われているのか
気になる方や、植民地支配、戦勝国気取り、領土問題、反日、それらについて疑問を
お持ちの方にオススメです」と記されており、確かにこれだけ目にすると、
いわゆるアジア諸国に対する「ヘイトスピーチ」を嫌う層からは反感を呼びそうな文面だ。

26日にはTwitter上で炎上がおこり、批判の返信やリツイートが増えた結果、
書泉グランデはこの投稿を削除した。

そんな炎上や批判を受けてか、書泉側も、公式サイトに
「弊社ツイッターアカウントにご意見をいただきました件につきまして」と題された
謝罪ページが追加された。

謝罪文には「新刊書籍のご紹介をさせていただいた内容に、特定の主張を支持するかの
ような表現がありましたことは、様々な思想を扱う知識の場である一書店として、
決してあってはならないことと考え深く反省しております。

また、そのような誤解をお客様に与えてしまいましたことにつきましては、
決して弊社の意図するところではなかったため、
恐縮ながら該当ツイートはすでに削除させていただいております。」と、書かれている。

しかし、この炎上がきっかけとなったのか、現在Twitter上では、書泉が展開していた
POPなどをネタに同書店への批判ツイートが、まだまだ複数見受けられる状況だ。
なお、今回の騒動について、著者の桜井氏は、民主党の参議院議員、有田芳生氏らが
背後で関係していると主張しつつ、書店への応援を呼びかける投稿している。

"おはようございます。昨日の有田ご一統・しばき隊による書店への脅迫、
出版妨害については既に警察が乗り出しており、出版側も威力業務妨害で
警視庁に被害届を提出する方針です。
なお書店側は脅迫には屈せず拙著『大嫌韓時代』の販売を続けるとのことでした。
書泉グランデへの応援宜しくお願いします。"

トピックニュース 2014年09月27日17時45分
http://news.livedoor.com/article/detail/9298489/

6 名前:名無しさん@0新周年@\(^o^)/:2014/09/27(土) 19:35:35.05 ID:pnSkeySZ0.net

とうとう暴力で言論弾圧するまでになったか

367 名前:名無しさん@0新周年@\(^o^)/:2014/09/27(土) 20:20:45.25 ID:LKdQXVpS0.net

自民は写真だけであんだけ叩かれるのに、ズブズブの民主有田とかだとマスコミダンマリなんだよなー


390 名前:名無しさん@0新周年@\(^o^)/:2014/09/27(土) 20:23:28.70 ID:1DJPuZzG0.net

>>367
マスゴミは朝日を始め、在日朝鮮人の支配下ですから

マスコミを支配する「電通」の正体 
http://webt3skytl.blogspot.jp/2009/03/blog-post.html

電通の成田豊会長 韓国出身
https://twitter.com/perfumekawaee/status/398003399989284864/photo/1


378 名前:名無しさん@0新周年@\(^o^)/:2014/09/27(土) 20:21:57.08 ID:YBM/Z7l2i.net

何かさー、暴力で言論を封じるって嫌だよね


505 名前:名無しさん@0新周年@\(^o^)/:2014/09/27(土) 20:40:26.96 ID:YKZnL/eAO.net

>>378
暴力ふるいながら皆仲良くを訴える奴は一番理解しがたいわな

http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1411814025


08. 2014年9月28日 19:33:09 : j2EOPrepI2
>>02

それでも在日コリアンは祖国へ帰るべき

これ真理


09. 2014年9月28日 19:34:50 : j2EOPrepI2

>>03

>ヘイトの国で果たして五輪が開催出来るのか?

中国だって開催できたんだから日本で妨害される筋合いはないわな


10. 2014年9月28日 21:03:54 : 0lhkDNxhxg
木卯正一、必死すぎてキモいよ♪

11. 2014年9月29日 02:53:57 : mkUjNQ8rVA
もう言っちまえばいいじゃね。

山谷は統一教会だと。
高市も安倍首相夫妻もだと。


12. 2014年9月29日 03:14:52 : mkUjNQ8rVA
>>10

木卯正一は、そのうち三面記事に本名が出るんじゃね。


13. 2014年10月03日 14:42:33 : j2EOPrepI2
>>12 国籍人種不明の五月のおっさん

 ↓これでも在日コリアンと共生しろとほざくんですか?


神奈川税務署員殉職事件・五所川原税務署襲撃事件 

在日コリアンによる戦後の悪行、在日コリアンの密造酒の取締りした税務署員に殴る蹴る リンチして死亡させる

http://www.asyura2.com/14/senkyo171/msg/224.html#c15

長田区役所襲撃事件・下里村役場集団恐喝事件

在日コリアンによる戦後の悪行、在日の「市民税 免除」や「生 活保護」獲得の為、また「強制送還反対」の為 

役所を襲撃した事件
http://www.asyura2.com/14/senkyo171/msg/224.html#c16


14. 2014年10月06日 01:56:15 : xSk6YIeyxC
【東成警察署襲撃事件・親子爆弾事件・王子朝鮮人学校事件・枚方事件・高田事件】在日朝鮮人の戦後の悪行、日本人を襲撃した事件

東成警察署襲撃事件
東成警察署襲撃事件(ひがしなりけいさつしょしゅうげきじけん)とは、
1951年(昭和26年)12月1日に、大阪府大阪市東成区で発生した事件。

東成警察署襲撃事件を報じた毎日新聞(1951年11月17日付)
Mainichi_Shimbun_newspaper_clipping_(17_December_1951_issue)
http://ja.wikipedia.org/wiki/東成警察署襲撃事件


事件の発端

1951年11月10日午後6時頃、大阪市警視庁東成警察署の警察官が
泥酔している在日朝鮮人男性を発見、保護した。

保護後、男性の容態が急変し、治療の甲斐なく午後7時30分死亡が確認された。
司法解剖の結果、死因は肝臓が破裂したことによる多臓器不全であった。

彼は泥酔しながら自転車に乗り、誤って転倒した時に身体を強く打ち、
動けなくなったところを警察官に保護されたのであった。

翌日、署長は面会に訪れた遺族に、事の次第を詳細に説明したが、
朝鮮人は男性の死を警察官のリンチによる殺害と決め付けて、一方的なデマを流し、
東成警察署に抗議するようになった。


事件の概要

1951年12月1日午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校
(今の大阪朝鮮第四初級学校)に集まり、東成警察署までデモ行進した。

その後、気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊は
それを阻止した。その際デモ隊は、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。
この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された。


参考文献

大阪府警察史〈第3巻〉
大阪府警察本部


親子爆弾事件
親子爆弾事件(おやこばくだんじけん)とは、
1951年(昭和26年)12月16日に大阪府大阪市で発生した事件。
在日朝鮮人によって、工場・民団襲撃、集団暴行などが起こされた。


事件の発端

朝鮮戦争勃発後、日本経済は特需景気に沸き、大阪市東部の町工場では
「親子爆弾(現在の用語ではクラスター爆弾)」を製造していた。

そんな最中、ある朝鮮人の事故死をきっかけに東成警察署襲撃事件が起きるなど、
東成区一帯が緊迫した空気に包まれ始めた。


事件の概要

1951年12月16日午後、前述の事故死した朝鮮人の慰霊祭が執り行われた。
慰霊祭には遺族などの関係者だけでなく、生前に何の縁のない朝鮮人が赤旗や
プラカードを持って多数参列した。

生野警察署は不穏な空気を察して解散命令を出したが、群衆はそれを無視し
三つの部隊に分かれてデモ行進した。

第一部隊は、生野区にある工場を襲撃しようとしたが、大阪市警視庁機動隊に
阻まれて解散させられた。別働隊が某工場の侵入に成功し、親子爆弾を撒き散らした。

第二部隊は、中河内郡巽町(現在は生野区内)方面に向かい、2ヶ所の工場を襲って、
従業員を暴行したり施設を破壊したりした。 第三部隊は、東成区方面に向かい、
2ヶ所の工場を襲った後、民団鶴橋分団長の自宅を襲撃した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/親子爆弾事件


参考文献

大阪府警察史〈第3巻〉
大阪府警察本部


王子朝鮮人学校事件
王子朝鮮人学校事件(おうじちょうせんじんがっこうじけん)とは、
1951年(昭和26年)3月7日に東京都北区で発生した事件である。


事件の発端

1951年2月23日、蒲田警察署は占領目的阻害行為処罰令違反容疑で、
東京都立朝鮮人中高等学校(今の東京朝鮮中高級学校)の生徒1人を検挙した。

捜査の結果、当時のGHQが禁止していた「新朝鮮」「前進」「朝鮮女性」等の
いわゆる反占領軍的な印刷物を作成していたことが判明し、2月28日に同校を
家宅捜査し、証拠物件を押収した。

しかし、翌日3月1日は三・一独立運動記念日であったため、朝鮮人たちは「不当弾圧」と
激昂し、所轄の王子警察署に300人、隣の板橋警察署に400人、赤羽警察署に40人が
押しかけて抗議した。そして3月7日に「真相発表大会」と称する集会を学校内で
開催、抗議デモを行うことになった。


事件の概要

1951年3月7日当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の
群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。

集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や
唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。

しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。

応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を
負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。

警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。
群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に
排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った。


その後の顛末

警察は、事件の関係者12名を公務執行妨害罪、傷害罪、暴力行為等
処罰ニ関スル法律違反で逮捕し、うち6名が検察により起訴された。
最終的には最高裁まで争われたが、5名が有罪となり確定した。
(残りの1名は保釈中に逃亡した。)


参考文献

警視庁史〈〔第4〕〉昭和史編
警視庁史編さん委員会

日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実 (1980年)
日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実
李 瑜煥
洋々社


枚方事件
枚方事件(ひらかたじけん)とは、
1952年6月24日から6月25日にかけて、大阪府枚方市で発生した公安事件。


事件の発端

第二次世界大戦後、陸軍工廠枚方製造所は閉鎖され、その大半が
連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の賠償物件となった。

大蔵省近畿財務局が管理していたが、荒れるにまかせ、タヌキが
出没する有様であった。 1952年4月28日にGHQによる占領が終わり、
小松製作所に9億4285万円で払い下げられた。

小松製作所は既にアメリカ軍より大量の砲弾を受注しており、正式な
払い下げに先だって工廠の使用許可を得て、砲弾の生産を開始した。
そのため、日本共産党や北朝鮮系の在日朝鮮人が反対運動を起こしていた。


事件の概要

1952年6月24日未明、実行犯が陸軍工廠枚方製造所に侵入、
第四搾出工場にあった水圧ポンプに時限爆弾を取り付けて爆破させた。

この日の午後8時頃より、ひらかたパーク裏の鷹塚山(通称「一本松の丘」)で
「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」が開催され、約100人が集まった。

前夜祭終了後、小松製作所の関係者と目された人物の自宅を襲撃することになり、
竹槍や棍棒を作るために付近の山に入り竹や木を伐採した。

6月25日午前2時頃に被害者の自宅に到着、玄関に火炎瓶を投げ込み家屋の一部を焼いた。
そして車庫にも火炎瓶を投げ入れて車庫や乗用車の一部を焼いた後、逃走した。

枚方市警察は被害者の通報を聞いて、直ちに警察官12人を現場に急行させた。
警察は周辺の山林を捜索し12人を検挙、最終的には98人を検挙した。


その後の顛末

大阪地方検察庁は、事件の関係者65人を放火未遂、公務執行妨害罪、
爆発物取締罰則違反で起訴した。裁判の結果、6人については無罪としたが、
それ以外については全員有罪となり確定した


被害者について

自宅を襲撃された人物は、大阪市都島区に本社を置く運送会社の社長で、
枚方工廠払い下げの受け皿となるべき会社を設立しようとしていたが、
設立準備中の会社は払い下げの対象外であったため断念せざるをえなかった。

ところが、この人物の姓が「小松」であったため、払い下げが内定した
小松製作所の関係者と目され、この事件の標的にされてしまった。

小松製作所は、吉田茂の実兄である竹内明太郎が創業したもので、
「小松」の名称は発祥の地である石川県小松市に由来する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/枚方事件


参考文献

吹田・枚方事件について (1954年) (検察研究特別資料〈第13号〉) [−]
横幕 胤行
法務研修所
1954

小松製作所五十年の歩み―略史 (1971年) [−]
小松製作所
小松製作所 エディト
1971

大阪府警察史〈第3巻〉 (1973年) [−]
大阪府警察本部
1973

日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実 (1980年)
日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実 (1980年) [−]
李 瑜煥
洋々社
1980-03


高田事件 (法学)

高田事件(たかだじけん)とは、1952年5月25日から5月26日にかけて、
愛知県名古屋市瑞穂区で発生した公安事件。

瑞穂警察署管内の高田派出所を襲撃した事件と、その直前に起きた
同時多発事件の総称である。裁判において、日本国憲法第37条1項に
定める迅速な裁判を受ける権利が問題となった。


事件の発端

1952年頃から、民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を
受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。


事件の概要

1952年5月26日午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、
ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、
名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。

まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、
備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。

顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より
用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った。


付随の事件

北朝鮮系朝鮮人は、5月25日から5月26日にかけて名古屋市内の各所において
同時多発事件を起こした。

PX事件
名古屋市のメインストリートで無許可デモを敢行し、
アメリカ軍のPX駐車場のあった乗用車を破壊した事件。

中村県税事務所襲撃事件
中村区の中村県税事務所を襲い、火炎瓶を投げ込んだ事件。

民団愛知県本部襲撃事件
東区にあった民団愛知県本部を襲い、火炎瓶を投げ込んだ事件。

米軍宿舎襲撃未遂事件
東区にあった米軍宿舎を襲って、火炎瓶を投げ込もうとした事件。


焼き討ちにあった高田派出所
Takada_Incident


事件の捜査と犯人の検挙

警察は直ちに捜査を開始したが、朝鮮人は捜査員を尾行し監視していた。
そして捜査員が聞き込みに行った家を後で尋ねて、
脅迫したり深夜に雨戸を叩くなどの嫌がらせを行った。

そのため、周辺の住民は警察に非協力的になり、捜査は困難を極めた。
その後、北朝鮮系朝鮮人がらみの大須事件が発生し、中警察署に
特別捜査本部が設置された。本事件もこの特別捜査本部のもとで
捜査が行なわれ、多くの朝鮮人が検挙された。


事件の裁判 一・二審判決

約40名の被告人らは起訴されたが、うち20名はやはり同時期に起こった
大須事件の被告人でもあった。被告人は、両方の裁判を同時に受けることは
耐えられないので、大須事件の審理を優先して、高田事件の審理を待ってほしいと訴えた。

そのため、高田事件の審理は1954年を最後に中断され、1969年5月の
大須事件の結審を待って再開されるまで15年にわたって放置され続けていた。

一審は刑事訴訟法第337条4項の公訴時効の完成により免訴の判決をし、
被告人の救済を図った(名古屋地方裁判所昭和44年[1969年]9月18日判決)。

これに対して二審は、憲法第37条1項の規定はプログラム規定に過ぎないとして、
一審を破棄した(名古屋高等裁判所昭和45年[1970年]7月16日判決)。被告人が上告。


最高裁判所判決

最高裁判所1972年12月20日大法廷判決では、
免訴の判決をした第一審を支持し、第二審を破棄し、検察官の上告を棄却した。

「審理の著しい遅延の結果、迅速な裁判の保障条項によつて
憲法がまもろうとしている被告人の諸利益が著しく害せられると
認められる異常な事態が生ずるに至つた場合には、

さらに審理をすすめても真実の発見ははなはだしく困難で、
もはや公正な裁判を期待することはできず、いたずらに被告人らの
個人的および社会的不利益を増大させる結果となるばかりであつて、

これ以上実体的審理を進めることは適当でないから、
その手続をこの段階において打ち切るという非常の救済手段を
用いることが憲法上要請されるものと解すべきである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/高田事件_(法学)


参考文献

名古屋市警察史 (1960年) [−]
名古屋市
名古屋市総務局調査課
1960

愛知県警察史〈第3巻〉 (1975年) [−]
愛知県警察本部
1975

日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実 (1980年)
日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実 (1980年) [−]
李 瑜煥
洋々社
1980-03


戦後政治裁判史録〈2〉 (1980年) [−]
田中 二郎
第一法規出版
1980-10




[12削除理由]:管理人:無関係長文多数のアラシ

15. 2014年10月06日 02:00:04 : xSk6YIeyxC

【血のメーデー事件・吹田事件・大須事件】在日朝鮮人と日本共産党・左翼団体による大規模襲撃・テロ事件

血のメーデー事件
血のメーデー事件(ちのメーデーじけん)は、1952年(昭和27年)5月1日(木曜日)に
東京の皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件である。

事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている。
戦後の学生運動で初の死者を出した。
300px-Bloody_May_Day_Incident2

http://ja.wikipedia.org/wiki/血のメーデー事件


概要

GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、
第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての
「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。

本来のデモ隊の解散予定であった日比谷公園から
北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊がそのまま
皇居前広場に乱入するなど暴徒化して混乱は午後5時半ごろまで続いた。

この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は
その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民
およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、

交差点における警察官の阻止を突破して北に向い、
その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して
窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、

馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して
使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ。

これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じた。

乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に
対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で
執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落とし、
他の多くの警察官も負傷する状態に至り警察部隊は止むを得ず後退を始めた。

応援の予備隊が到着してその総数は約2,500名となったがデモ隊は数を増して
約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなった。

警察部隊は催涙弾を使用したが効果は上がらず、警察官の負傷者が
増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、
ようやくデモ隊は後退を始めた。

この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ
外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石した。

同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、
石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させた。

デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となった。

デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名
(重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名。さらに1956年1月に
頭部打撲の後遺症で法政大学学生1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及んだ。

当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、
出動を命じられるには至らなかった。出動した警視庁予備隊は後の機動隊であり、
警察予備隊とは異なる。

デモ隊によって転倒させられた自動車
300px-Bloody_May_Day_Incident

その後の経過

デモ隊からは1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴された。

裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したため長期化し、1970年(昭和45年)1月28日の
東京地裁による一審判決は、騒擾罪の一部成立を言い渡したが、

1972年(昭和47年)11月21日の東京高裁(荒川正三郎裁判長)による
控訴審判決では、騒擾罪の適用を破棄、16名に暴力行為等の有罪判決を
受けたほかは無罪を言い渡し、検察側が上告を断念して確定した。

国会では事件直後から事件の責任をめぐり与野党間で激しい応酬があり、
6月には相次ぐ騒乱事件の対処不手際や破壊活動防止法案・集団示威運動等の
秩序保持に関する法律案の制定企図に反対する立場から衆議院で
木村篤太郎法務総裁の不信任案が提出されたが、否決された。

なお、同時期に起こった公安警察による事件でっち上げ(菅生事件)などの煽りを受け
事件発生の5ヵ月後に行われた総選挙で日本共産党は全議席を失った。
同水準の議席数を回復したのは1970年代のことであった。

メーデー裁判―闘いの記録 (1958年) [−]
岡本 光雄
メーデー事件被告団
1958

吹田事件

吹田事件(すいたじけん)とは、
1952年6月24日(火曜日)から6月25日(水曜日)にかけて、
大阪府吹田市・豊中市一帯で発生した吹田騒擾事件と、
その裁判で起きた事件(吹田黙祷事件)の両方を指して吹田事件という。

ただし吹田騒擾事件のみを指して吹田事件とする場合もあり、定まっていない。
同年に起こった血のメーデー事件、大須事件と並んで三大騒擾事件の一つとされている。

騒乱罪(そうらんざい)とは、多衆が集合して暴行・脅迫を行うことにより
公共の平穏を侵害することを内容とする犯罪類型である(刑法106条)。
1995年(平成7年)改正前には騒擾罪(そうじょうざい)とも呼ばれた。

火炎瓶攻撃を受けた警察官
Suita_Incident


事件の背景

1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。当初戦況はソビエト連邦が支援する
北朝鮮が優位であったが、韓国軍とそれを支援するアメリカ軍やイギリス軍などを
中心とした国連軍による仁川上陸作戦で戦局が一変、逆に韓国優位となり、

韓国軍と国連軍の一部は鴨緑江に到達したが、急遽参戦した中国人民志願軍に
よって38度線に押し戻され、一進一退の膠着状態が続いていた。

当時の日本は、アメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍の占領下にあり、
朝鮮戦争に国連軍の1国として参戦していたアメリカ軍は日本を兵站基地として
朝鮮半島への軍事作戦を展開していた。

またアメリカ政府は、日本政府に対し飛行場の利用や軍需物資の調達、兵士の
日本での訓練を要請した。首相の吉田茂は「これに協力することはきわめて当然」
と述べ、積極的にアメリカへの支援を開始した。

吹田事件の舞台となった大阪大学豊中キャンパス周辺には
アメリカ軍の刀根山キャンプがあり、アメリカ軍兵士が駐留していた。

また吹田市では国鉄吹田操車場から連日、国連軍への支援物資を乗せた
貨物列車が編成された。

北朝鮮系の在日朝鮮人は、北朝鮮軍を支援すべく、日本各地で
反米・反戦運動を起こしていた。当時、武装闘争路線を掲げていた
日本共産党は、こうした在日朝鮮人の動きに同調していた。


事件の概要

1952年6月24日夕方、大阪府豊中市にある大阪大学豊中キャンパスで
「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」が大阪府学生自治会連合によって開催された。

学生、労働者、農民、女性、在日朝鮮人など約1000人
(参加者数には800人から3000人まで諸説ある)が参加した。

集会では「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、
軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」などの
アピールが採択された。

集会終了後、国連軍用貨物列車の輸送拠点となっていた吹田操車場まで
デモを行うことになった。集会参加者は西国街道経由で箕面へ向かい、
吹田に南下する「山越部隊」と阪急宝塚本線石橋駅から臨時列車を動かし、
服部駅(現在の服部天神駅)から吹田に向かう「電車部隊」に分かれて行動した。

人数は山越部隊の方が多かった。

吹田操車場になだれ込むデモ隊
Suita_Incident2


山越部隊は警察予備隊豊中通信所の横を通り、
午前2時ごろ三島郡豊川村に到着した。

ここで山越部隊は「ファシスト打倒」と称して笹川良一宅に投石したり、棒きれで
玄関の扉を損傷させている。笹川良一本人は留守で、けが人はなかった。

休憩後、山越部隊は南下して国鉄労働組合吹田支部の中野新太郎邸に立ち寄り、
庭で竹槍を振り回したり障子を破ったりしたが、けが人はなかった。

一方、電車部隊は大阪大学近くの石橋駅に入ったが、
最終電車が発車した後だったため、駅長に臨時列車の発車を強要した。
駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになった。

電車部隊は梅田駅と石橋駅の間の服部駅で全員が下車し、
旧伊丹街道の裏道経由でデモを行い、6月25日午前5時ごろ
三島郡山田村(現吹田市山田南)で山越部隊との合流を果たした。

この間、警察は電車部隊が梅田駅に向かうと予想し、梅田で警官隊を
待機させていたが、電車部隊が服部駅で下車したため行方を見失い、
山越部隊についても電車部隊の対応をしている間に見失っていた。

合流後、デモ隊は南下し須佐之男命神社に到着した。
神社前には吹田市警察や国家地方警察の警官隊が警備線を張っていたが、
警察指揮者との交渉をデモ隊が受け入れなかったため、警察隊は警備線を解き、
デモ隊に道を譲った。

大阪地方検察庁は、この時にデモ隊が暴徒と化して突進し、
暴力で警備線を突破したと主張して騒乱罪を適用した。

しかし証拠写真や警察指揮者の証言からデモ隊が暴徒化した
事実がないことが明らかになったとされた。

このため後の裁判で被告人全員が騒擾罪無罪となることになった。

須佐之男命神社から南下したデモ隊は、午前6時ごろ
国鉄東海道本線岸辺駅経由で吹田操車場に入った。

デモ隊は操車場内で「戦争反対」「軍用臨時列車を止めろ」などの
シュプレヒコールをあげながらデモを行ったが、実際には軍用列車は
事前に移動させられていた。吹田操車場から出たデモ隊は吹田駅に向かった。

なおこれらデモ隊の行動について、「うさぎ狩りのようでした」などという
証言もなされたものの、検察は「暴徒そのものだ」と形容した。

実際にデモ隊は暴徒化し、京都方面に向かっていた
在大津南西司令官カーター・W・クラーク陸軍准将の車に
石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負った。

また午前7時ごろ茨木市警察のウィーポン車にむかって、
7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げて、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負った。

この後、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石などした。

その後デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となった。
吹田駅の助役は裁判時に「デモ隊が順調に乗ってくれたので、
『うまいこといきましたな』と駅長とも話していた」と証言している。

解散したデモ参加者らは大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとした。

そこに約30人の警察官が追いつき、デモ隊はこれと衝突した。
これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出た。

事件では200人を超える大量逮捕が行われ、111人が騒擾罪で起訴された
(被告人の1人が裁判中に死去、1人は韓国に強制送還され「行方不明」と
なったため最終的に109人)。

なおこの際に警官が発砲しデモ隊の4人が重傷を負った。

列車内で撃たれたデモ参加者は吹田市を相手として賠償請求訴訟を起こし、
裁判所は警察官の職権乱用を認め、吹田市も承認している。

なお検察は「拳銃発射は暴徒のうちにもこれを行ったものがあり、
これら負傷のすべてが警察官の発射した」ものとは言い難いと主張していたが、
証拠がなく現場にいた警察官、第三者証人だれも証言していないため、
根拠が乏しいとされ裁判で認められなかった。

なお検察は警察隊が撃った弾によって重傷を負わせたデモ参加者4人を起訴していない。


裁判

吹田事件弁護団は後に保守系の吹田市長となった
山本治雄を主任弁護士として結成された。

弁護団には国会議員をしていた弁護士の加藤充や亀田得治らも加わり、
国会でも吹田事件を取り上げて「弾圧」の不当性を訴えた。

このときの裁判戦術は、大衆的裁判闘争と呼ばれ、後に日本国民救援会によって
公安事件の闘争方法として定着していくことになる。

日本共産党が路線を転換し、武装闘争路線を誤りと認めた六全協以後も、
幅広い団体や日本共産党国会議員・弁護士による支援は続けられている。

1953年7月27日、朝鮮戦争が休戦。7月29日に行われた公判の冒頭で、
被告人たちは佐々木哲蔵裁判長に朝鮮戦争休戦を祝う拍手と朝鮮人犠牲者に
対する黙祷を行いたいと申し出た。

これについて佐々木は「裁判所は止めもしなければ激励もしない、
裁判所は中立性を表明する」と静観した。検察は佐々木の対応を不服とし、
保守系議員に働きかけて佐々木を国会の裁判官訴追委員会にかけた。

これがいわゆる吹田黙祷事件である。訴追委員会は佐々木の喚問を決定するが、
佐々木は裁判の公平性が損なわれるとして拒否。

最高裁判所は、「法廷の威信について(通達)」
(昭和28年9月26日最高裁判所総総第210号)及び「法廷の威信について」
(昭和28年9月26日最高裁判所総総第211号高等裁判所長官、地方裁判所長
および家庭裁判所長あて事務総長通達)を発出し、全国の裁判官に宛てて、
佐々木の訴訟指揮を「まことに遺憾」とした。

しかし、司法関係者による相次ぐ反対のため、喚問は行われなかった。
結局、裁判官訴追委員会では、訴追猶予の決定が下された。

1963年6月22日の第一審判決では騒擾罪の成立を認めなかった。
検察は111人の被告人のうち47人を控訴したが、1968年7月25日の第二審判決でも
一部の被告人が威力業務妨害罪で有罪となったが、騒擾罪の無罪は変わらなかった。


参考文献

吹田・枚方事件について (1954年) (検察研究特別資料〈第13号〉) [−]
横幕 胤行
法務研修所
1954


大阪で闘った朝鮮戦争―吹田枚方事件の青春群像
大阪で闘った朝鮮戦争―吹田枚方事件の青春群像 [単行本]
西村 秀樹
岩波書店
2004-06-25


朝鮮戦争と吹田・枚方事件
朝鮮戦争と吹田・枚方事件 [単行本]
脇田 憲一
明石書店
2004-03-22


なにわ金融事件簿―闇に蠢く懲りない面々
なにわ金融事件簿―闇に蠢く懲りない面々 [単行本]
高村 薫
かもがわ出版
1997-11


これでいいのか大阪府大阪市 (日本の特別地域特別編集 40)
これでいいのか大阪府大阪市 (日本の特別地域特別編集 40) [ペーパーバック]
三宅敏行
マイクロマガジン社
2012-11-29


大須事件
大須事件(おおすじけん)とは、1952年(昭和27年)7月に
愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件。

(デモ側が子供を動員していたことがわかる) 帆足・宮越両代議士を歓迎するデモ隊
300px-Oosu_Incident


事件の発端

中華人民共和国の北京で、日中貿易協定の調印式に臨んだ
日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が帰国し、
1952年7月6日(日曜日)に名古屋駅に到着した。

両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、
無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。

その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、
翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を
襲撃する計画が発覚した。

帆足・宮越両代議士を歓迎するデモ隊
Oosu_Incident2


事件の概要

1952年7月7日(月曜日)当日、名古屋市警察は警備体制を強化し、
全警察官を待機させた。

午後2時頃から、会場の大須球場
(名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に
日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、
午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。

午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、
その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。

警察の放送車が解散するよう何度も警告すると、デモ隊は放送車に向かって
火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、
デモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行うなど大須地区は大混乱に陥った。

また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、
中税務署に火炎瓶を投下する別働隊の事件も発生している。

この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、
デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。

名古屋市警察は捜査を開始、
最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙した。

捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、
朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが判明した。


裁判

名古屋地方検察庁は騒乱罪等を適用し、152人を起訴した。
裁判は当初の予想よりも長期化したが、1978年9月4日、
最高裁判所第二小法廷は上告を棄却し、有罪が確定した。


参考文献

大須騒擾事件について―対権力闘争事犯公判手続上の諸問題 (1954年) (検察研究特別資料〈第14号〉) [−]
法務研修所
1954-03

名古屋市警察史
名古屋市
名古屋市総務局調査課

愛知県警察史〈第3巻〉
愛知県警察本部

日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実 (1980年)
日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実
李 瑜煥
洋々社


検証:大須事件の全貌―日本共産党史の偽造、検察の謀略、裁判経過
検証:大須事件の全貌―日本共産党史の偽造、検察の謀略、裁判経過 [単行本]
宮地 健一
御茶の水書房
2009-05




[12削除理由]:管理人:無関係長文多数のアラシ

16. 2015年10月24日 23:36:15 : FxUcssE0UQ

在日コリアンの実態を>>14で晒すと

何故か都合悪いようで削除依頼という名の弾圧工作

五月のおっさんか?みっともない


17. 反イルミナティー主義 2015年10月25日 21:23:29 : c/WVv5CaliQ7M : qenqxd8Xmw
>>17
裏社会エセ保守に都合が悪くなると
ウジのようにまたぞろ湧き出す自称日本人の
木卯正一とかいうキモいお花畑ヤク中
ブサおじさん。みっともない。WWWWW

18. 反イルミナティー主義 2015年10月25日 21:24:45 : c/WVv5CaliQ7M : qenqxd8Xmw
訂正
誤:>>17→正:>>16


  拍手はせず、拍手一覧を見る

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