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「東海道新幹線」が誕生したのは“カミナリ親父”のおかげ? 開発秘話が明らかに〈週刊朝日〉
http://www.asyura2.com/15/hasan103/msg/289.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 12 月 05 日 07:36:40: igsppGRN/E9PQ
 

元JR東海社長(現・相談役)須田寛すだ・ひろし/1931年、京都生まれ。54年に京都大学法学部卒業、日本国有鉄道入社。名古屋鉄道管理局長、旅客局長、国鉄理事などを経て、87年4月、JR東海社長。95年、会長に就任した(撮影/写真部・堀内慶太郎)


「東海道新幹線」が誕生したのは“カミナリ親父”のおかげ? 開発秘話が明らかに〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151205-00000003-sasahi-peo
週刊朝日  2015年12月11日号より抜粋


 戦後70年間、いつも日本人の暮らしのそばにあったのが鉄道だ。なかでも昭和39(1964)年の東京五輪と同時期に開業した東海道新幹線は、高度経済成長の象徴。そんな鉄道戦後史の大きな節目に立ち会ってきたのが、JR東海初代社長(現・相談役)の須田??さん(84)。鉄道と新幹線にまつわる秘話を須田さんに聞いた。

*  *  *
 根本的に新しい特急となる新幹線の実現を推し進めたのが十河信二(そごうしんじ)さんという日本国有鉄道(国鉄)総裁でした。十河さんは私の入社した翌年、30(55)年に総裁になっています。

 その年、国鉄が宇野(岡山)と高松をつないで運航していた連絡船同士が霧の中で衝突して沈む事故(紫雲丸事故)が起きました。痛ましいことに修学旅行中の児童も相当亡くなり、国鉄の責任だと囂々(ごうごう)たる批判の嵐が吹き荒れたんです。

 私が入社した頃は、国鉄の制服を着て道を歩くことは何とも思いませんでした。でも、そうなれば制服を着て歩けるどころの騒ぎではなく、非常に肩身が狭かったんです。それで引責辞任せざるを得なかった総裁の後に着任したのが十河さんでした。事故後の総裁なんて誰もやりたくないから人選でもめる中、国が一生懸命探して任命した人材だったわけです。

 昭和30年代の前半、国鉄には東海道線増強調査会や幹線調査室が発足し、東海道線の輸送力をどう高めるかが議論されました。私はその頃、本社の秘書課にいたのですが、廊下で十河さんや国鉄技師長の島秀雄さんといった重役たちをあまりにもよく見かけたんです。

 特に、後に技術者のプロジェクトリーダーとして新幹線の安全性に大きく貢献した島さんは、走るように部屋を行き来していた。これは相当、話が動いているんだなと感じました。島さんは中折れ帽をかぶっていらした。偉い人とじかに話す立場にない若い私は、廊下で会うとお辞儀するんです。すると、きちっと帽子を取ってくださる。そんな英国紳士のような優雅な方が走り回るほどの姿を見かけたわけです。新幹線の計画が最終的に決まる直前ぐらいの、大変な時期の一端を垣間見たのでしょう。

 何が大変だったかと言えば、十河さんが増強計画案の根本をひっくり返したんです。当時の議論は、おおかた、すでにある在来線の線路と同様の狭軌(幅の狭い線路、1067ミリ)を、東海道線の横に増やして敷設する(複々線)方向でまとまりかけていました。

 しかし、十河さんは、抜本的な輸送力強化には広軌(幅の広い線路、1435ミリ)による別線(独自の線路)を敷設するしかないと主張したんです。十河さんはかつて満鉄(南満州鉄道株式会社)の理事をしていた。戦争中でも満鉄では広軌で時速120キロ出していたと知っていたんです(一方、東海道線増強調査会ができた時期の特急「つばめ」の最高速度は時速95キロだった)。

 十河さんは、

「少なくとも100キロ以上出せないと鉄道とは言えない。スピードアップしやすい広軌による高速鉄道の時代が来ているのに、諸君は何を言っているんだ!」

 と持論を展開し、怒鳴りつけたそうです。カミナリ親父と呼ばれていて、怖かったですからね。

 ただ、この議論はあくまでも東海道線の輸送力増強のために始まっていました。予算もない中で混雑を少しでも早く緩和するべく、すでにある在来線の線路を生かすべきだとの意見も少なくありませんでした。十河さんは当初、ほとんど四面楚歌(しめんそか)で大変に苦労したようです。結果的には十河さんは頑固で、妥協せず押し通しました。かつては鉄道官僚だったのですが、官僚時代の後輩で大物政治家である佐藤栄作さん(後の首相)のところに行って相談し、かなり政治的にも動いて広軌案を実現させた。それがあって、東京〜大阪間を3時間で結ぶ画期的な計画ができたのです。十河さんがいなければ今の新幹線はなかったと言っていいでしょう。

 それだけではありません。新幹線が実現したのは、島さんを始めとする国鉄技術者の存在も大きかった。その頃の国鉄鉄道技術研究所(現在の鉄道総合技術研究所)には、軍から復員した日本最高レベルの技術者がそろっていた。零戦などを設計した彼らが、安全面で徹底的に新しい技術を企画し、当時考え得る中では完璧なシステムを作りあげました。それで事故なくやってこられたからこそ、今日に至るまで愛されている新幹線があるのです。

 新幹線は、国から東京オリンピックを目指してやれと言われて、何とか間に合わせて昭和39年10月1日に開業しました。間に合ったけれども、オリンピックが始まると、皆テレビの中継を見て外に出てこない。期間中、お客様はむしろ減りました(笑)。乗客が本格的に増えだしたのはオリンピック後ですね。

 

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コメント
 
1. 2015年12月05日 21:16:04 : gjSWR86AiA : u0glpiXsZGg
日本の鉄道関係者にとって、明治時代に大隈重信氏が、日本の鉄道の軌間を1,067mmの「狭軌」に選定したことは、実に悔しい過去であった。最初に決定される規格が、後々まで影響を及ぼし続ける事実に、それ以降の日本の鉄道は翻弄されていった。

日本の鉄道の軌間の決定のプロセスとして、他国の実例が参考にされたことは言うまでもない。日本は明治以降、イギリスに範を取った近代化が進められたが、鉄道分野では同じイギリス圏に属する南アフリカで1860年。ニュージーランドで1863年に開通している。どちらも1,067mmの狭軌である。
(註 南アフリカの国鉄では、表記上、1,065mmとしている。)

これらイギリス圏に属する当時の植民地で、1,067mmが採用されていたことが、大隈重信氏の決定に大きな影響を与えたと言える。しかし、それは誤りであったことが明治時代の後半に議論として持ち上がり、改軌論争が盛んになった。大正時代には、実際に拡張するところまで行ったが、時の金権腐敗汚職政治屋の原敬によって、完全に葬り去られた。このため、島秀雄氏の父の島安次郎先生は、南満州鉄道に活路を求めた。

島安次郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%AE%89%E6%AC%A1%E9%83%8E

★鉄道技術者で新幹線の開発に携わった島秀雄は長男。台湾新幹線に携わった島隆は孫。

●標準軌1,435mmの鉄道を作りたいと言うのは、昔からの鉄道関係者の夢であった。十河信二総裁は、これを日本国内で実現された。これが東海道新幹線である。最も、日中戦争中に東京から朝鮮半島・アジア大陸との連絡輸送の増大で、弾丸列車計画と言うのがあり、これが東海道新幹線の構想の先行例になっていることは、言うまでもない。

弾丸列車
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%BE%E4%B8%B8%E5%88%97%E8%BB%8A


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