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投稿者 shn 日時 2015 年 3 月 24 日 21:29:59: EW7wpe.Zqh2lo
 

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ピケティは
「マルクスは暗黙のうちに経済成長がゼロの世界を前提している」と書いているけれど「暗黙のうちに」ではない。

たとえば溶鉱炉一基を稼働している製鉄会社があったとして、手持ちの材料はすべて使い終わった。製品の鉄もすべて出荷した、ところでそう言えばうちは製鉄会社だったな、と思い出して次期分の原料、例えば石炭を発注しようとした、ところがすでに鉄道会社が機関車用に買い取ってしまっていて、石炭が手に入らない、あれ大変だ今期は鉄が出荷できない、すると鉄道会社は破損磨滅したレールを交換できず、すると…

などとやっているとこの経済体は存続できるかどうかわからない。

ある経済体が存続し続けるためには、期末には期首と同じ状態に復帰できていなければならない。つまり自分自身を回復出来なければならない。だから単純再生産を基本に考えなければならない。まず単純再生産ができる世界を考えて、そのうえで次にどこを動かせばこの経済は拡大するか、どこを動かせば縮小するか考える。だからまず人口も増えず生産性も上がらない世界を描いたのだ。

ということをマルクス自身が書いている。

で、この式  r>g  のgが0のときを考えると、(>であって≧でないのだから)
r>0  rは0にならないということを意味しているのだろうか。

ごく普通の一般庶民は「利潤」と「成長」をあまりはっきり区別していない。なんとなく「利潤」が世界経済を大きく豊かにしているのだと思っている。

というより、そういうプロパガンダを真にうけている。

ある大きさの世界経済のパイがあって、そこに利潤が付け加わってそのぶんパイが大きくなる。その大きくなった分の一部が労働者に滴り落ちてくる…。

そうではない。
経済成長が0のときも(=パイが大きくならないときも)、利潤・資本の取り分、は0にならない。このときのrは何か、それはマルクスの「剰余・搾取」だ。

一人の農民が一枚の田んぼを耕して毎年毎年10俵のコメを生産していたとして、このときこの土地が農民自身の所有であったならこの10俵のコメは農民自身のものになる。
 しかしこの土地に地主がいて3俵の年貢を取ったとしても、コメが13俵に増えるわけではない。

ワルラスの純粋経済学要綱だかを読むと、しきりに、叫ぶ、叫ぶ、という言葉が出てきて、いったい何かと思ったら、要するに競売でせりにかけているのだ。

○ n個の財を市場で自由に交換すると、最終的には市場に参加している人々の満足度・効用が一番高い状態に落ち着く、というけれど、この話のミソは事前と事後で財の量は増えていないということだ。(100個の饅頭より101個の饅頭のほうが満足度が高い、などというのはいまさら指摘されても意味がないし、1個の饅頭を右手と左手の間でやり取りしているといつの間にか2個になる、ということはない。それではマリックのマジックだ。)そして「貨幣」も「財」なのだから、貨幣も増えていない。だからもし誰かが「利潤」を上げていたら・投入した以上の貨幣を得ていたとしたら、その分誰かの貨幣が減っている。
(当たり前だ。もし全体として貨幣が増えていてその増えた分が誰かの利潤だとすると、その人の利益は贋金であり、単なるインフレだ。)

だから、このとき利潤が増えているのだと思って利潤を溜め込んでしまうと、「買い」が不足して商品が売れ残る。もしくは投売り・デフレ、が始まる。

市場における自由な交換によって、効用・満足感・ハッピー感覚は増えるが、それは「利潤」ではない。経済学者たちは増えたのがあたかも「利潤」であり、世界全体のパイが大きくなったのであるかのように話をすりかえている。

○ ある人がある種の財を有限個持っていたとして、その財を1個づつ増やしていくとその1個の満足度・効用は逓減していく。逆に言えば1個づつ減らしていくとその残りのうちの1個の満足度・効用は増えていく。だから最後の1個を手放すことはまずない。手持ちの残りが0個になる場合、分母が0なら効用は無限大になってしまう。

だから貨幣を持っている人が貨幣をすべて手放すということは考えにくい。生産された商品の総価額とそれによって発生する収入の総額は等しいのだから商品は必ず売れ残る。(投売りが出る。)このような時はたして一般均衡なるものは存在するのだろうか。あったとしてそれはケインズ的な、もはや誰も貯蓄できないほど貧しくなった状態での均衡なのではないか。

市場原理主義者たちは一般的過剰生産はないのだというが、そのようなことはありえない。

(森嶋 ケインズの経済学 序論7ページ脚注6
ワルラスの立場は微妙である。彼はElements of Pure Economicsの文章で書いたモデルでは、明らかにセイの法則を否認しているが、数学モデルではそれを肯定した。もし彼が数学モデルにおいてセイの法則を否認していたならば、一般均衡状態は成立するどころか、存在すらしていないかもしれないことを彼は認めていたであろう。)

○ 商品の価格は需要と供給によって決まる、というけれどそのためには需要量と供給量が自由に動かせなければならない。需要が減少したときに供給量が減らせない商品があったなら、その商品の価格は無限に低下してゆき、最後はタダ、自由財になってしまう。

供給量を減らせない最も代表的な商品は何か。

「労働力」だ。

父ちゃんの賃金が減ると専業主婦だった女性がパートタイムに出る。労働力の供給は増えてしまう。すると賃金はさらに下がり、子供は学校を辞めて働くよ、などということが起こる。労働者の間で乳幼児死亡率が上がり、次に高齢者の寿命が下がり、労働者本隊が飢餓で労働戦線から脱落するようになって始めて労働の供給量が下がる。ここではじめて労働力の供給と需要が均衡する。これはリカードの賃金鉄則の世界だ。

マルサスは、人口は等比級数で増えるが食料の供給は等差級数でしか増えない、だから労働者は常に飢えているのが常態だ、などといったが、ねずみは等差級数的にしか増えないが猫は等比級数で増えるから猫は常にねずみに飢えている、などということがあるだろうか。

軽い貯蓄過剰の状態を維持し、常に労働者のごく一部が餓死する程度の労働力過剰の状態を作り出せば賃金は極小に、利潤は極大にすることができる。その技術を彼ら≠ヘすでに手に入れているのだ。

竹中平蔵が、提示された賃金が気に入らないのなら働かなければよい、その賃金で働くことを自分で選んだのだから文句を言うほうがおかしい、という意味のことを言ったらしいが、そんな経済理論はない。夜道を一人歩きしている女性にレイプ犯が大きな棍棒をつきつけて、おい姉ちゃん一発やらせろ、さもなければこの棍棒をお見舞いするぞ、どっちかいいか自分で決めろ、といい、女性が仕方なくやらせたとしたら、それはレイプではないことになる。竹中とはその程度の人なのであり、それが慶応大学の経済学の教授なのだそうだ。

竹中氏は郵貯の200兆円でアメリカ国債を買え、と言っていたがアメリカ国債を買ってしまったら200兆円はもどってこない。池田信夫とかいうブロガーが、アメリカがその金で日本製品を買うのならいいではないか、といったそうだが、それではアメリカにタダで日本製品をくれてやったのと同じことになる。そんなくらいなら日本の低所得者にタダで配ればよいではないか。なぜそうしないかというと、日本を貧しくして日本人の消費を抑え、消費に回らない分を富裕層の貯蓄に回させ、その貯蓄でアメリカ国債を買わせて、日本の富を吸い上げる、という「植民地的収奪」同然のことをしようとしているのではないだろうか。そういう使命を粛々と果たしているのだと思えば腹も立たない。

r>gに戻ると、両手をぱちんと打ち合わせて、いまのは右手が鳴ったのか左手が鳴ったのか、という禅の問答があるそうだけれど、資本と労働が投入されてある額の産出があった場合、その産出が資本と労働の間でどのような割合で分配されるかといえば立場の強いほうが多くとることになる。これは昔ながらの階級闘争の世界だ。

利潤は搾取だという「マルクスの基本定理」がかつて森嶋と置塩によって数学的に証明されたが、ピケティはそれを統計数字として導き出して見せた、ということだろうか。
そう言うと、マルクス読まずのマルクス知らずの自称マルクス主義者のゾンビが、「搾取のない自由な世界としての社会主義の理想を実現…」などと言い出すとうざいので整理すると、マルクスは共産主義は「現実がのっとるべきであるような何らかの理想ではない。それは絶えず現実を止揚していく実践的な運動のことだ」としか言っていない。

まず、社会主義は搾取のない世界ではない。労働者が生産して、しかし労働者の消費に入らない部分、剰余、はそれが資本に投入、追加されるべきなのであって、ゼロにしてはならない。社会主義にできることはそれが浪費されずに社会を豊かにするための資本に投下されるように監視することだ。

次に、社会主義は自由の世界ではない。月にロケットを飛ばすためには重力の法則に厳密に従わなければならない。重力の法則に従えば従うほどロケットは自由に宇宙を飛ぶことができる。恣意や思惑を排して、最も合理的、必然的に経済を組織すればするほど、僕たちは経済をよりよくコントロールすることができる。すると、資源(と人間)を最も合理的に配置しなければならないのだから、資源(と人間)は外部の必然性に従って割り振らなければならない。

自由とは必然性の認識だとヘーゲルは言ったが、割り振られる人間のほうに、経済の最高度の認識がなければそれは「必然性の認識としての自由」とはいえない。割り振られる人間としては、一方的に上からの指令としか感じられないだろう。これは計画・指令経済でも自由市場経済でも変わらない。割り振られる人間にとっては自由な世界ではない。

剰余を浪費させずに、最も合理的に生産を組織すること。
社会主義に・プロレタリア革命にできることはそこまでだ。

そしてこの程度のことは、もはや「日本型経済システム」として、最も良く実現してしまった。社会主義は遠い未来の話ではなく、いまここにある現在なのだ。

そして、事態はさらに進んでいるのだと思われる。

南アルプス天然水が売り出されたとき、吉本隆明は、水に価値がある世界になったことに驚いていたけれど、これは、水に交換価値が発生したことに驚いたのではない。ダイヤモンドやそこらのがらくたにだって交換価値は発生する。そうではなくて、水道の水とペットボトルの天然水に、一般の消費者が使用価値の差を見出している事態に驚いたのだ。

水道と天然水に、どちらにどれだけ資源と人間を割り振るべきか、という問題に答えなどない。どちらでもよいのだ。

ある家計に100万円の自由に使える収入があったとして、おかみさんのほうはその100万円で高級化粧品のセットをそろえたいといい、だんなのほうは商売道具のデコトラに般若の絵を追加したいという。そんなことはどっちだってよい。各自の恣意・気まま、自由な市場の運動、に任せてよい。僕らは必然性の世界から自由の世界に入ろうとしているのだと思われる。

ただし、市場には完全雇用を安定して実現させる能力はない。
総消費、投資と貯蓄をコントロールして完全雇用を実現するのは市場を超えた政府の役目だ。そしてそうして初めて、本来の意味での「自由な市場」が実現する。

その上で、消費しきれないくらい生産が大きいのならば、労働時間の短縮が課題になる。週休3日から4日になったらそれは「労働の廃止」が始まったのだ。

そして「人類の前史が終わり、本当の人間の歴史がはじまる」…
                      マルクス「経済学批判」
 

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