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シベリア抑留後、カルムイクに住み着いた日本人 殺されるとの偽情報で帰国できなかった男の一生とは
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投稿者 rei 日時 2015 年 5 月 14 日 09:35:07: tW6yLih8JvEfw
 

シベリア抑留後、カルムイクに住み着いた日本人
殺されるとの偽情報で帰国できなかった男の一生とは
2015.5.14(木) 荒井 幸康
凍結で立ち往生の飛行機、乗客が押して離陸 シベリア
ロシア・シベリアのケメレボにある雪原〔AFPBB News〕
 第2次大戦が終結してから70年。

 ふと思い出したのが、軍服を着た傷痍軍人がアコーディオンなどをかき鳴らしてお金を求める姿だ。おぼろげながらではあるが、幼いながらにしっかり記憶している。

 東京にいて、今はもうそのような人々の姿を見ることはないが、かと言って戦争の時代を生きた人々がすっかり姿を消したわけではない。

 今回お話しするのは、ロシア連邦構成主体の1つであるカルムイク共和国に住む、抑留後、帰国せず留まり、ロシアで生き続けた日本人の話である。

 私がカルムイクに留学したのは2000年9月からの9か月であったが、留学して1か月ぐらい経った頃、突然、カルムイクのテレビ局の番組制作者から連絡があり、その人と会うことになった。

シベリア抑留後、各地を転々

 何の用事かといぶかっていたが、話をしてみると、どうやらここカルムイクには終戦時に抑留され、各地を転々として、最後にここに落ち着いた日本人がいるらしいので、一緒に会いに行かないか、という話であった。

 話をしてから1か月ほどが経った2000年11月3日、車の都合がついたから会いに行こうと連絡があり、私と番組制作者のリョーバ氏、ジャーナリストのイリーシキン氏、そしてカメラマンで一路南へ。

 カルムイク共和国の中心地エリスタ市からは70キロ、約2時間かけて目的地に着く。そこはもう少し行けば南のスラブロポリ州やダゲスタン共和国との境界にあるイキブールルという地区にある貯水池だった。

 そこで出会ったのが「ジャージャ・サーシャ」、サーシャおじさんと呼ばれる方であった。

 彼は全く日本語が思い出せない様子。リョーバ氏とイリーシキン氏が彼の来歴を聞いていく。そこで分かったことは彼が、ナカガワ・サダオと名乗っていたこと、東京に生まれ、山形や北海道で少年時代を過ごしたことなどであった。サダオだったので、サーシャと呼ばれていたのだ。

 終戦後、サハリン(樺太)で拘束され、1953年、ノボシビルスクで解放されるまで彼は、シベリアを転々とした。日本に帰還することが許された後も、彼は残った。

 その当時、彼のいた場所では、帰還を許すと言いつつ、どこかで、まとめて殺されているという噂が立っていたという。 

 そこで、彼は残ることに決め、すぐにその年にロシア人の女性と結婚をする。この女性との間には一男一女をもうけたという話である。

 その後、ウズベキスタンに移る。彼はいろいろな仕事をした。トラクターの運転手など、技術的仕事が多かったそうだ。

忘れてしまった日本語

 ここからははっきりしないが、事情があってダゲスタンに移り、そして、給料がよいと聞いてカルムイクの現在の仕事に移ったのだそうだ。こちらに移ってきてから、2回目の結婚をし、そして、さらに現在は3人目の奥さんと暮らしている、というのがこのときに聞いた話である。

 日本語が分からないと言っていたが、「お名前は」と聞くと、少し考えて答え始めた。「ナマエ・・ナカガワサダオ・・」。

 しかし、年齢はと聞くと、「東京、山形・・」ととんちんかんな答えが返ってきた。お年はと改めて、聞き直すと、今度は分かったようで81歳と答えてくれた。ゆっくり言えば、思い出してくれるようである。

 それほど、つっこんだ話はしなかった。後は日本のお金を見せて、これは誰かと聞いてみたりした。福沢諭吉や夏目漱石(当時の1000円札)を見て、名前は覚えていなかったが、彼らがどのような人物であるかは分かったようだった。

 画像的な記憶というのは、それほど簡単になくなったりしないものなのかもしれない。

 また、自分の名前、ナカガワサダオの苗字の部分は、中川、中河の選択肢の中から中川を選びだすことができたが、サダオの方は私が思いついた4パターンの漢字の組み合わせにはなかったので確定できなかった。

 翌日、改めて撮影を行う。このとき、家族構成を聞き出した。14人の兄弟がいると語ってくれた。

 さらに、コンピューターを持ってきて、日本語の歌を聞かせたりした。「われは海の子」、「椰子の実」、「赤とんぼ」、「春」、「荒城の月」、「シャボン玉」といった曲を知っていた。

 撮影されたものは、2週間後にカルムイク共和国域内で放映されたが、どうやらそれほど反響を呼ばなかったようだ。

私の情報から日本の新聞社が取材に

 そのときのビデオも渡されたと思うが、筆者の持つ本の山に埋もれどこにあるか行方知れずとなっていた。本稿を書くに当たって改めて見てみたいと探してみたものの見つからずじまい。自業自得とはいえ残念である。

 ものごとが動いていくのは、2001年2月にモスクワから生け花の実演に日本人の先生がいらしてからである。このような形で日本人の残留者がいると言ったところ非常に興味を持っていただいた。

 同年5月改めてその他の日本の文化交流の代表団の方たちとカルムイクを訪れたときには、モスクワの大使館にまで情報がもう伝えてあり、調査中であることを教えてくれた。

 5月の終わり、友人伝にカルムイクに関することを聞いた朝日新聞の記者の方が、友人やカメラマンたちと来訪、再び中川さんのもとを訪れた。

 また会えるとは思っていなかったのだろう。私がそろそろ日本に帰ることを話すと、「自分はもう帰ることはないよ」とは言っていたものの、最後の時には不思議と涙の別れとなった。

 それから5年が経った2006年7月、突然中川さんが日本に来るとの知らせを受けた。中川さんの家族と連絡が取れ、DNA鑑定の結果、中川義照さんと判明したとのこと。終戦当時18歳であったということも分かった。

 彼が来るのは妹さんがいる北海道美唄市だと聞き、当時は私も札幌に住んでいたので会いたいという気持ちもあったが、せっかくだから家族とゆっくり過ごしてほしいと思い、こちらから連絡することはしなかった。

 徐々に日本語を取り戻しておられたようで、札幌で見たテレビでは日本語を話しておられた姿が印象的だった。

 彼は結局、完全に帰国することにはせず、今も、88歳でカルムイク共和国に暮らしている。何度か会いに行こうとしたが、会えずじまい。その間、美唄にいる妹さんともお会いしてビデオレターも取ったのだが、恥ずかしながら渡せずじまいである。

面白おかしく報道するテレビ局

 ここ2〜3年の間に、テレビ局の方もいくつか彼の元を訪れ、番組が日本で放映された。中には、その放が面白いからなのか、誤解や誇張かなと思う情報も提供されていた。

 ふとしたきっかけで会いに行ったことが、最終的には彼の帰郷までつながった。

 もちろん、そこに至るまでには、多くの人が介在していて、どれが欠けても、帰郷まではたどり着かなかったはずである。

 彼について多くの報道がされており、それぞれ語っていることが一致していないこともある。私が最初に聞いた話や、彼の周りで話されていたうわさでも、その後判明した事実と違っているところもあった。

 情報は錯綜しているのが現状で、面白いネタだけ拾って、面白く書こうとすれば、いくらでも面白く書けそうなところもある。

 今回は、私自身が当事者であった、その端緒はどうだったのかをお伝えし、とりあえず記録に残そうと思った次第である。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43770  

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