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「ロシア極東における日本降伏70周年記念軍事パレード」(RT・イランラジオ日本語)
http://www.asyura2.com/15/kokusai11/msg/372.html
投稿者 無段活用 日時 2015 年 9 月 06 日 13:36:11: 2iUYbJALJ4TtU
 


(Russia celebrates 70th anniversary of Japan’s surrender with military parades (VIDEO): RT)
https://www.rt.com/news/314150-military-parade-russia-chita/


ホームニュース


ロシアは軍事パレードを行い日本の降伏70周年を祝う(動画)


発表 2015年9月2日19:35


極東の都市ユジノサハリンスクで行われた第2次世界大戦終結70周年を記念する軍事パレードで、ロシアの軍人たちが武器を手に持ち行進している。2015年9月2日。© Sergey Krasnoukhov / Reuters


ロシア極東の諸都市では日本の降伏70周年を称賛する軍事パレードが開催された。日本の降伏により第2次世界大戦が終結した。

1941年にザバイカル方面軍(日本軍と戦った陸軍部隊)の本部が置かれたチタでは最大のパレードが行われた。約1700人の部隊と軍学校生徒、50台を上回る車両と軍用機がこの式典に参加した。

観衆は現代的な軍事車両に加えて、第2次世界大戦で使用された機械群を見ることができた。

「私たちは極東において第2次世界大戦を終わらせた方々に敬意を表する」と、部隊を観閲するセルゲイ・スロフキン上級大将は語った。





パレードにはウラジミール・プーチン露大統領が訪問した。彼は日本帝国と戦った退役軍人たちに感謝の意を表し、地元の記念碑で死亡したソビエト兵士たちを追悼した。

チタの式典の参加者には中国・モンゴルの退役軍人が居り、20世紀初頭にロシアから豪州に移住したコサックの子孫たちの代表団も来た。

他にも大きなパレードの1つが、ロシアの島サハリンの最大都市ユジノサハリンスクで行われた。1905〜46年の日本統治下では豊原と呼ばれていたこの都市では、数百人の部隊やソビエトのT-72B3戦車、「グラート」「ウラガン」ロケットシステムなどの様々な軍事車両が見られた。

サハリンのコルサコフ港では海軍のパレードが開催され、大型揚陸艦・親衛誘導ミサイル巡洋艦・駆逐艦・誘導ミサイル艦・コルベット艦が参加した。





第2次世界大戦中日本に属していたサハリン南部では戦場をテーマにしたツアーが主催された。また、記念式典はウラジオストク・ヤクーツク・ハバロフスクでも開催され、ハバロフスクでは白大理石の記念礼拝堂が開館した。

1945年9月2日に日本は降伏文書に署名し、米戦艦ミズーリに乗艦していたダグラス・マッカーサー米将軍はこれを受け入れた。

さらには、150万人のソビエト部隊が1945年に日本と戦い、帝国最大の軍団である関東軍に勝利した。



−参考−

チタのパレード


ユジノサハリンスクのパレード


ペトロパヴロフスク・カムチャツキーのパレード



インフォグラフィック:「電撃戦」ソ連対日参戦 1945年8月9日-9月2日 (Suptnik日本)


В России отмечают 70-ю годовщину окончания Второй мировой войны (RT на русском)
(同じ話題のロシア語記事。機械翻訳で読めるので置いておきます。)




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(イランラジオ日本語)
http://japanese.irib.ir/news/%E6%9C%AC%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF/item/57759-%E3%82%B5%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89


2015/09/03(木曜) 23:32


サハリンにおけるロシアの軍事パレード





ホセイニー解説員


ロシアと中国が、それぞれの国で、日本との戦争に勝利した第2次世界大戦の終了70周年を記念する式典を行いました。


ロシアは2日水曜、第2次世界大戦末期の北方領土占領を記念し、軍事パレードをこの地域で行いました。また、中国政府は3日木曜、抗日戦争の勝利を記念する軍事パレードを行いました。

ロシアの国営テレビは、サハリンの軍事パレードで、花で飾られ、退役軍人も参列する中、通りを練り歩くロシア軍の様子を放映しました。この軍事パレードはロシアのプーチン大統領の直接の指示により行われ、このパレードに700人の兵士と、14機のヘリコプター・航空機が参加しました。情報筋は、このパレードが、ウクライナ情勢をめぐり西側諸国との関係が悪化している中、ロシア東部で初めて行われた軍事的示威行為だとしています。

また、日本とロシアの北方領土をめぐる、昔からの対立に考慮すると、この地域における初めてのロシアによる軍事的示威行為は、日本とロシアの関係悪化を引き起こす可能性があります。ロシアのモルグロフ外務次官は3日、「ロシアは日本と平和条約の締結をめぐる交渉を続ける用意があるが、南クリルの領有権に関する交渉を行うつもりはない」と語りました。モルグロフ次官はまた、「この問題は70年前に解決済みであり、これらの島の領有権は第2次世界大戦の結果で法的にロシアに移管された。これらの島におけるロシアの領有権は疑いようがない」と述べました。

現在、ロシア領となっているサハリン島も、1875年に日本とロシアで締結された樺太・千島交換条約により、日本が千島列島を委譲される代わりとして、ロシアに委譲されました。その後、日露戦争が勃発し、その結果のポーツマス条約でサハリン島は南北に分割され、北はロシア、南は日本の管轄となり、朝鮮半島における日本の優先権が認められました。しかし、1945年のヤルタ会談では、サハリン南部におけるソ連の権益が秘密協定の中で認められました。この後、ソ連は日本降伏の4日前、サハリン島南部の日本領に侵攻し、これを占領しました。この措置を受けて、1950年代、サハリン南部に住んでいた日本人は本土に引き揚げることになりました。

一方、北方領土に関しては、日本はロシアの領有権を認めませんでした。日本はソ連との平和条約の締結を控え、また北方領土問題は両国の関係拡大における障害となってきました。北方領土に関する日本政府の努力は、ソ連が崩壊したあと、特にここ近年においても、結果にいたっていません。

このため、北方領土におけるロシアの領有権を強調するサハリンの軍事パレードは、北方領土問題で対立する日本とロシアの関係をより悪化させることになるでしょう。



−参考−

ロシア軍、北方領土で戦勝記念式典を実施(イランラジオ日本語)



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(投稿者より)

RT・イランラジオ日本語の各サイトに掲載された記事です。翻訳には誤訳があるかもしれません。ご容赦下さい。

「親衛誘導ミサイル巡洋艦」"a guard guided-missile cruiser" 太平洋艦隊の旗艦であるミサイル巡洋艦ヴァリャークに「親衛誘導ミサイル巡洋艦」という称号が付けられているようです。



 

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コメント
 
1. 2015年9月06日 18:50:31 : 0KIxvxoBWY
日本降伏で70年も祝典をするなんて・・・日本はよほど大暴れしたというか西欧諸国にとって 目の上のたん瘤 だったんだなあと思うが・・・。

まあ世界史に西欧列強の植民地化を阻止してしまった東洋の国日本として刻まれるな。


2. 2015年9月07日 15:01:21 : nJF6kGWndY

国威発揚になるから戦勝記念を祝うのは好きということだろう


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E6%88%A6%E5%8B%9D%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5
ヨーロッパ戦勝記念日(ヨーロッパせんしょうきねんび)は、第二次世界大戦において連合国がドイツを降伏させたとして、ヨーロッパにおける勝利を記念する日である。VEデー(英:Victory in Europe Day、V-E Day or VE Day)とも呼ばれる日で、1945年5月8日に当たる。


http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~e-magazine/021/esse4.htm
戦勝国の終戦記念日、敗戦国の終戦記念日

 

   文化情報専攻 6期生 外村佳代子

   
 明るいエッセイを書こうと思っていた。だがこの機運、終戦60周年という避けて通れないこの節目を戦勝国イギリスで迎えた敗戦国の私。

テレビを始めとするマスメディアはこぞって第2次世界大戦を取り上げている。特に日本の特集番組が多く作られ、そのモノクロームのフィルムから今の日本は想像できない。イギリスでは今でも毎年この時期になると、戦勝記念祝賀会を催している。年々、参加する往年の元兵士たちの数は減少しているが、そのお祭りムードの盛り上がりに衰退の様相は見えない。体型の変化のせいか軍服姿での参加者はいなくなったが、それぞれが授与された色とりどりの勲章をスーツの胸に誇らしげにパレードをするのだ。

何人かの友人は母国日本へ避難している。彼らは10年以上前からイギリスに住み、10年前の「対日戦勝50周年記念キャンペーン」時に、半年にわたりうけ続けた日本バッシングの再来を危惧している。その時の様相は、マークス寿子さんが書かれた『戦勝国イギリスへ、日本の言い分』(中公文庫)にも詳しく記されている。25年もイギリスに住みイギリス貴族と結婚歴もあるマークス寿子さんでさえ、味わったことのない不快感であったと書かれているが、友人たちのような小市民が受けたバッシングはそんな物ではなかったそうである。卵をぶつけられたり、玄関ドアに「くそったれ日本人」と書かれたり、中華レストランで入店を拒否された者もいるという。現地校に通う子供たちが受けたいじめは通常の比ではなかったという。マークス寿子さんのこの著書が発行された2000年、私はすでにイギリスでこの本を読んでいる。その時、5年後に又その節目が来るのなら、その時は子供をつれて日本に帰り動向を見守ろうと思っていた。実際は春から神経を多少尖らせてはいたものの、その心配は無用だった。イギリス人の殆どがその節目の年であることすら覚えていなかった。数週間前にドイツ人の友人と昼食を共にした時、その取り越し苦労を苦笑しながら話したら、彼女は「来るよ」と言った。

何が来るのかわからないが、見てやろうと思った。

7月に入って、ドイツにまつわる放映が多くなった。昨年とタイトルこそ変えてあるがその映像はすでに何度も見たものばかりだった。そして、8月にはいると彼女が言っていたとおり「来た」のである。映像はすべて日本に切りかわった。日本兵による中国人の殺戮の映像や、アジア諸国で日本の捕虜となっていた元兵士のインタビュー。第一次世界大戦時にすでにあった、市民は攻撃しないという戦争のルールを最初に破った国、日本。やむなく開戦に至った経緯から、原爆投下で終戦を迎えるまで、それぞれが特集番組として組まれているのだ。イギリスは戦争番組は好まれるのであろう、節目や終戦日がどうのとは関係なく年間を通じてどこかの局では必ずと言っていいほど、毎日何らかの戦争ドキュメンタリーが放映されている。 ドイツのヒトラーと昭和天皇が同じスタンスで紹介されることは多い。ただ今年の私の目は今までと違う視点で番組をとらえていた。天皇とヒトラーが同じような位置づけにされているかと思えば、イギリス人の日本への批判の対象が、天皇であり、国であり、政治であり、軍隊であり、国民に対しても同一線上におかれているのに対し、ドイツに対してはドイツ自体への批判ではなくあくまでもヒトラー、ナチスに対してである。ドイツ敗戦後の世論はともかく、あの当時のドイツ国民はヒトラーやナチスに傾倒していたことは明らかで、戦後になってヒトラーをスケープゴートにしたてなければならなかったことは、その時代背景や大陸という環境を考えると、戦後の世界を生きるための処世術だったのだろう。ドイツ国民を気遣うことは隣人への配慮なのかもしれない。番組を見ていると、ヒトラーに対して激しい憤りを感ずるように、執拗に立ち上がり歯向かう日本人に対しても同じような感情がわいてくる。攻撃的な姿勢ばかりがクローズアップされ、被害状況や市民の犠牲の映像などは殆ど放映されていないのだ。特に原爆投下後のあの悲惨きわまる光景は、全くない。日本人がよく見る焼け爛れ、膨れ上がった死体など一度も見たことがない。(アメリカでも全く見せない)

 60年後のプロパガンダである。

 昨日からいったい何度同じ映像やコメントを見聞きしたことだろう。小泉首相が「謝った。」というものである。ヨーロッパの他国のチャンネルにつないでも「謝った」の嵐である。  

日本が戦後処理の方向転換を遅ればせながら始めたのである。すでに罪を認めた後は弁解をしない、という日本的信念が戦後処理を遅らせた。反日感情を愛国精神と摩り替えたプロパガンダ教育が真実を風化させ、日本と近隣諸国の溝を深めている。「沈黙は金」の日本が、もしその都度行き過ぎたプロパガンダの是正を訴えていたらもう少し違った今日があっただろう。拉致問題や東シナ海油田問題、竹島問題などやっとここに来て自己主張を始めた日本。水面下での戦略的取引や対話にもう少し長けていたら、ドイツのように早い時点で戦後処理が終っていたはずである。首相の「謝った」が最良の方法だったかどうかは疑問であるが、言わなくてもわかってくれる。という暗黙のルールが通用しないことだけは私も肝に銘じておこうと思う。

 過去の戦争の話より、パレスチナ問題やテロ事件の多発でテレビのニュースは埋め尽くされている。ロンドンでの同時テロやその事件の犯人誤認射殺、落ち着かないうちにガザでの同時自爆テロ。私の住んでいる町はイギリスでも一番安心といわれているが、職務質問をしている警察官の光景が目に付くようになった。質問を受けているのは、有色人種かひげを蓄えたアラブ系の男性と決まっている。モスリムをイギリスから追放しようという気運が高まっており、借家を探しても不動産屋が斡旋しないという事態も起こっている。ここでも一番の被害者は「一般市民」なのである


3. 2015年9月07日 15:03:36 : nJF6kGWndY

100年たった第一次大戦も去年もやってたな

http://www.sankei.com/world/news/140419/wor1404190002-n1.html
【鼓動】第一次世界大戦から100年 戦勝国の英国で大規模記念行事

 第一次世界大戦の開戦から今年で1世紀。4年余りに及んだ史上初の世界大戦は1500万人以上の犠牲者を出し、参戦国の社会や政治体制に大きな変化をもたらした。戦勝国の英国では、大戦の意味を問い直そうと、政府の支援で大規模な記念事業が動き出した。しかし、その歴史認識をめぐっては100年が経過した今も論争となっている。(ロンドン 内藤泰朗)

 英中部マンチェスター市郊外の池と緑に包まれた静かな地に、「ダナム・マッシー」と呼ばれる貴族の旧邸宅があった。大戦中、負傷兵らのために臨時病院となった屋敷跡だ。邸宅の主人だった女性の提案で、1階を病室などに利用し、主人自ら娘らとともに負傷兵の看護にあたったという。

 案内役の若い女性は「貴族が自分の屋敷を開放し、戦争に協力した事実には驚かされた。他にも同じようなお屋敷の病院が各地にできていた」と語った。

 市内の軍博物館にも大戦に関する展示があったが、戦勝をそれほどアピールした内容ではなかった。博物館側は「軍人を募集するため、かつては軍の栄光を強調していた。でも今は地元から出征した部隊がいつ、どこで、どんな戦いをしたのかに力点を置く展示になった。時代とともに変化は必要だ」と解説する。

 市内にある帝国戦争博物館(IWM)北館では、大戦中のマンチェスターの街並みが再現されていた。ドイツに宣戦布告した英国が国民総動員の総力戦に突入し、市民生活が変貌していく過程が分かるように、各種資料が展示されていた。

 「月曜日に酒は飲むな!」「食料を捨てるな!」といったスローガンの数々。初めて空襲に遭い、出征した男性に代わり女性が工場などで働くようになったのも大戦の影響だ。

 IWMの学芸員、マットさんは「大戦によって人々の暮らしに国家が入り、社会は変化した。それによって階級社会や政治も変わっていった」と指摘した。

    □ □

 英国政府は大戦の記念事業に5千万ポンド(約87億円)を投じ、今後約4年にわたり1500以上のイベントを実施する予定という。

 しかし大戦をどう捉えるかをめぐっては、愛国的な歴史教育を推進する保守党主導のキャメロン政権と、批判的な労働党など野党の間で対立している。

 ゴーブ教育相は今年初めに保守系紙に寄稿し、左派系学者やメディアが、大戦を「貴族階級が引き起こした帝国主義者たちの戦争」と単純化したことで、戦死者の「愛国心や名誉、勇気」が侮辱されたと批判。当時のドイツの指導者は「攻撃的な拡張主義者」で、英国の参戦は自由を守るという「正義」に基づいていたと主張した。

 さらに、大戦について子供たちが過度に否定的に教えられているとして、歴史教科書を、愛国心や誇りを学べるように見直すべきだと強調。これに労働党や野党系新聞が反発している。

 英国の著名ジャーナリスト、パックスマン氏は「政権は国民の愛国心を利用して安っぽい政治的得点を稼ごうとしている」と述べ、歴史が政争の具となっていることに懸念を示した。そのうえで、「第一次大戦は近代の英国を形作った最も重要な出来事だ。だからこそ、それを理解し、思い起こすことが必要なのだ」と指摘している。

■第一次世界大戦

 1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合に反発したセルビア人が、サラエボで同帝国の皇太子夫妻を暗殺。同帝国がセルビアに宣戦布告した。

 その後、関係国が続々と参戦し、30カ国以上がドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン(現トルコ)を中心とする同盟国と、英国、フランス、ロシアを中心とする連合国に分かれて戦った。日本、米国は連合国側に立った。戦闘地域は欧州を中心に中東、アフリカ、アジア、太平洋に拡大、毒ガスが初めて使用されたほか、戦車、飛行機も戦闘に使われた。

 17年にはロシアで革命が勃発。大戦は18年、同盟国側の敗北で終わった。


4. 2015年9月07日 15:06:14 : nJF6kGWndY

そして、ロシアや中国の場合、特に、反省よりも、リアルタイムでの西欧への対抗意識や軍事力誇示が抗日戦争記念に表れているということだな


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