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美濃加茂市長無罪判決 〜極めて当然だが決して容易ではない司法判断〜(郷原信郎が斬る)
http://www.asyura2.com/15/senkyo181/msg/172.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 3 月 07 日 12:05:05: igsppGRN/E9PQ
 

美濃加茂市長無罪判決 〜極めて当然だが決して容易ではない司法判断〜
https://nobuogohara.wordpress.com/2015/03/07/%e7%be%8e%e6%bf%83%e5%8a%a0%e8%8c%82%e5%b8%82%e9%95%b7%e7%84%a1%e7%bd%aa%e5%88%a4%e6%b1%ba%e3%80%80%ef%bd%9e%e6%a5%b5%e3%82%81%e3%81%a6%e5%bd%93%e7%84%b6%e3%81%a0%e3%81%8c%e6%b1%ba%e3%81%97%e3%81%a6/
2015年3月7日 郷原信郎が斬る


3月5日午後2時、名古屋地裁で、藤井浩人美濃加茂市長に対して、無罪の判決が言い渡された。

昨年6月24日の逮捕の直後から、藤井市長の潔白を確信して、全力で弁護活動に臨んできた私にとって、待ち望んでいた判決そのものであった。

今回の判決について、この最初のブログでは、判決を私がどのような思いで迎えたのか、そして、言い渡された判決が、日本の刑事司法においてどのような意味を持つものなのかについて述べたいと思う。

まず、判決言渡しの直前の私の率直な心境を述べておきたい。

藤井市長が潔白であり、現金を受け取った事実などなく、警察、検察の逮捕・起訴、そして、公判が全くデタラメなものであることは、昨年6月末の市長逮捕以来、私が、ツイッター、ブログ、インターネット番組等で繰り返し述べてきたとおりである。

しかも、9月中旬から始まった公判において、裁判所の事実解明への積極的な姿勢が示され、検察の捜査・立証の杜撰さが、次々と明らかになっていった。鵜飼裁判長の訴訟指揮の方向性、証人尋問、被告人質問での裁判所の質問事項などからしても、裁判所が無罪の心証であることは疑いの余地がないように思えた。

昨年12月24日の第9回公判期日、弁護人が行った11万字に及ぶ膨大な弁論は、論告での検察の主張を完全に崩壊させることができたと手応えを感じたし、無罪は間違いないとの確証を持ったことは、年末のブログ【美濃加茂市長事件結審、揺るがぬ潔白への確信http://urx.nu/iaCX】でも詳細に述べた。(同ブログに、弁論全文を掲載した私の法律事務所HPを引用している)

藤井市長逮捕から結審までの約半年、弁護人としてやれることはすべてやり尽くした。私としては無罪判決を確信し、自信を持って判決言渡しに臨むつもりだった。

しかし、判決が近づくと、私の胸中は次第に穏やかではなくなっていった。

我々弁護人が、公判で立証し、弁論で明らかにしたことを、そのまま裁判所が認めるとすると、検察の面子は丸つぶれであり、このような事件で現職市長を起訴して有罪論告を行ったことについて、組織内外で重大な責任を問われかねない。

これまでの日本の刑事裁判における検察と裁判所の関係、とりわけ、今回のような社会的、政治的に極めて重大な影響を及ぼす事件に対する裁判所の一般的姿勢からして、本当にそのようなことができるのだろうか、結審から判決までの間に、裁判所が変節してしまう可能性はないだろうか、そのような不安が次第に大きくなっていった。

今年1月、私と元裁判官の森炎弁護士との対談本【「虚構の法治国家」(講談社)http://urx.nu/iaD4】が出版された。その中で、森氏は、刑事裁判官の「検察の言いなりになる、というより、積極的に、検察にもたれかかりたいという精神性」「根深い依存意識」を指摘し、その「検察にもたれ込む裁判所」が刑事司法の虚構の構図の中心だと、いみじくも述べている。

同書の最後の4章「美濃加茂市長事件から考える裁判所と検察」のあとの「あとがき」で、「一連の検察不祥事を経て、検察は変わったのか、戦前から長らく検察にもたれかかってきた裁判所の姿勢が、司法制度改革を機にどのように変わるのか。それらを占うためにも、美濃加茂市長事件の今後の展開に注目していただきたい。」と書いて、本を締めくくったが、森炎氏が言うように絶望的とも言える日本の刑事裁判官の一般的な姿勢の中で、名古屋地裁刑事6部だけは特別だと、本当に期待して良いのだろうか。

しかも、マスコミ等を通じて伝わってくる検察側の感触は、「判決には全く心配していない」というものだった。あれだけ、弁論で論告がコテンパンにやられているのに、それでもめげないというのは、裁判所が検察の意に反する判決を出すことはないという確たる見通しでもあるのだろうか。

そういう懸念が、いくら打ち消そうとしても、頭から離れなかった。

藤井市長逮捕から公判が結審するまでの半年間、全精力を傾けて、この弁護に取り組んできただけに、万が一、予想外の判決だった場合には、私にとっても打撃は計り知れない。

判決の数日前に、数年ぶりのひどい風邪を引き、声が出しづらい状態になったのも、そういう複雑な心境が影響していたのかもしれない。

そして迎えた判決言渡し。

「主文、被告人は無罪。」という鵜飼裁判長の言葉を聞いて、感無量だった。

裁判の経過からも、我々弁護人が主張・立証してきたことからも、当然の無罪判決である。しかし、その「当然の無罪判決」を出すことが、裁判所にとって、いかに大変なことか。とりわけ今回の事件のように、検察が組織を挙げて取組み、面子にかけて有罪判決を得ようとしている事件において、いかに困難なことか。現職検事としての23年間を含め、これまで刑事司法に関わってきた私が十分過ぎるぐらいに認識していることだった。

そういう意味で、今回の、鵜飼裁判長以下の名古屋地裁刑事6部によって、藤井市長無罪という公正な判断が示されたことに、心から敬意を表したい。

しかし、この判決の本当の意義は、「無罪」という主文だけではない。その結論を導いた理由に極めて大きな意味がある。

判決では、公訴事実の要旨、当事者の主張、公判供述や供述調書の概要等に続いて、本件の最大の争点である「贈賄供述の信用性」についての検討を行っている。

これについて、まず、


中林の公判供述は、全体として具体的かつ詳細なものと評価でき、一定の裏付けが存在する上、弁護人からの反対尋問にも揺らいでおらず、供述内容に矛盾を含むなど明らかに不合理な内容も見受けられないことは検察官の主張するとおりである。

として、検察官が中林供述を信用できる根拠として主張する点を概ね認めた上で、


中林のような会社経営の経験があり、また、金融機関を相手として数億円の融資詐欺を行うことができる程度の能力を有する者がその気になれば、その内容が真実である場合と、虚偽や誇張等を含む場合であるとにかかわらず、法廷において具体的で詳細な体裁を備えた供述をすることはさほど困難なことではない。加えて、本件では、中林は、平成26年10月1日の第2回公判期日及び同月2日の第3回公判期日で実施された証人尋問に臨むにあたり、検察官との間において相当入念な打ち合わせをしてきたものと考えられる上、隣房者との間で対質の方法により行われた第7回公判期日で実施された証人尋問に臨むにあたっても、検察官との間で6,7回に及ぶ打合せを行っていたというのであるから、公判廷において、客観的資料と矛盾がなく、具体的かつ詳細で不自然かつ不合理な点がない供述となることは自然の成り行きといえる。

と述べて、中林が関係資料に整合するように供述を整えた可能性を指摘した。

これまでの刑事事件では、検察官の立証においては、「具体的かつ詳細」「裏付けがある「一貫している」というような要素が認められれば、「供述は信用できる」と判断されるのが一般的だった。

しかし、今回の判決では、中林の贈賄供述について、そのような一般的な供述の信用性の要素は認められるとした上で、中林と検察官とが「入念な打合せ」をしていることなどから「具体的で詳細な体裁を備えた供述をしている可能性がある」として、「供述の信用性が供述者によって作り出されている疑い」を指摘している。

そして、そのように疑う根拠に関して、判決の最後に、「中林の虚偽供述の動機の可能性に関する当裁判所の判断」という項目を設け、


捜査機関の関心を他の重大な事件に向けることにより融資詐欺に関するそれ以上の捜査の進展を止めたいと考えたり、中林自身の刑事事件の情状を良くするために、捜査機関、特に検察官に迎合し、少なくともその意向に沿う行動に出ようとすることは十分にあり得るところである。

と述べているのである。

私は、弁論の冒頭の「はじめに」で、本件の贈賄供述の信用性に関して、以下のように述べている


《中林については、融資詐欺等での自己の処罰を軽減するために、被告人への贈賄の事実を作り出し、意図的に虚偽供述をしていることが疑われているのであり、しかも、そのような中林の供述を、捜査機関側も容認し、取調べ、証人テスト等において、中林とともに、供述の信用性を作出している疑いがある。そのことを踏まえ、「中林が意図的に虚偽供述をしているのか、そうではないのか」を判断することが、本件において真相を明らかにする上で不可欠なのである。

検察官が中林の供述の信用性に関して強調する「関係証拠との符合」「供述内容が具体的で自然であること」などの外形的要素は、事後的に作出することが可能なものであり、上記の意味における「中林の供述の信用性」の評価とはほとんど無関係である。そのようなものは、連日長時間にわたる取調べ、証人テストの中において、中林・取調官のいずれが主体的かはともかく、自由自在に作出することが可能なのである。

本件における中林の供述の信用性評価において重要なことは、事後的には作りだせない供述動機、供述経過等から、中林の供述が自らの記憶に基づくものであるか否かを判断することなのである。》

今回の判決は、裁判所が、弁護人が本件での贈賄供述の信用性に関して強く訴えてきたことを正面から受け止め、「意図的な虚偽供述が疑われる場合の信用性」について適切な判断を示したところに、極めて重要な意味があるのである。

それは、検察が設定した刑事事件の判断の枠組みそのものに対して判断するということであり、元裁判官の森炎氏が対談本で言うところの「検察にもたれかかる裁判所」であれば、このような判断は到底行い得なかったはずだ。

これまでの刑事裁判での裁判所の判断は、基本的に、検察官が設定した土俵の上で、検察の判断の枠組みの下で行われてきた。それが、99.9%を超える高い有罪率につながり、無実を訴える被告人にとっては絶望的な状況が続いてきた。今回の判決は、検察の土俵・枠組みの中での判断ではなく、裁判官自身の、そして世の中の常識に沿った判断枠組みの下での、公正な判断を示したものといえる。

その意味で、今回の判決は、「極めて当然だが、決して容易ではない司法判断」だった。

それを行い得る裁判体によって市長の事件が裁かれたことは、市長逮捕以来8か月余、不当な捜査・公判で大きな損失を受けてきた美濃加茂市民、市役所職員など、市長の潔白を信じて支えてきた人達にとって、最大の幸運であった。

そして、それは、日本の刑事司法に一筋の光明をもたらしたものと言えよう。

 

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コメント
 
01. 2015年3月07日 12:46:16 : kgnYnkI9gc
市長無罪判決―捜査の過程を検証せよ
2015年3月7日02時04分 朝日新聞社説

 捜査機関はどのように供述を引き出し、その内容を吟味してきたのか。大きな疑問符がつく事件である。

 事前収賄などの罪に問われた岐阜県美濃加茂市の藤井浩人市長に、裁判所が無罪を言い渡した。判決は、市長に現金を渡したという男性の証言の信用性に疑いを投げかけ、検察官の意向に沿ってウソの供述をした可能性にまで踏み込んでいる。

 現職市長を逮捕し、法廷に立たせた責任は重い。控訴の有無にかかわらず、警察・検察は捜査過程を綿密に検証すべきだ。

 事件には現金のやりとりがあったことを示す直接の証拠はなく、「贈賄」側の男性の「自白」に大きく頼っていた。

 自らも贈賄の罪に問われるのに、渡していない金を渡したと証言する人は、ふつうであればいないだろう。このケースが特異なのは、男性が自白した当時、別の大型融資詐欺事件の捜査を受けていたことだ。

 融資詐欺事件の捜査を止めたい、また捜査関係者からよく見られたい。そんな理由から男性が捜査機関に迎合し、意向に沿う行動をとった可能性がある。判決はそう指摘した。

 巻き込まれた市長にとっては、身の潔白を証明する負担は並大抵のものではない。深刻な人権問題にもなりかねない。

 密室での取り調べでは、捜査機関側の見立てに沿った供述の強要や、保釈などをちらつかせる利益誘導がおきやすいことがかねて指摘されてきた。物証が乏しく、贈賄側の供述が重要証拠になることが多い贈収賄事件では特にその傾向が強い。

 今回のケースでは、贈収賄立証のカギを握る「贈賄」側がどのような状況に置かれて出てきた供述だったのか、捜査機関側は客観的にふまえていただろうか。立件に直結する重要証拠だからこそ、飛びつくことなく、信用に値するものか厳しく吟味すべきではなかったか。

 取り調べの過程では、供述の見返りに別の事件の訴追の手を緩めるといった司法取引的な要素が入り込むことで、真相から遠のき、ときには冤罪(えんざい)をうみだす可能性さえあることを忘れるべきではない。

 警察・検察の取り調べの録音・録画(可視化)を義務づける刑事訴訟法改正案が今国会に提出される予定になっている。だが、法案が対象とするのは裁判員裁判で扱う殺人・放火などの重大犯罪が中心で、今回の贈収賄事件も対象にならない。

 適正な取り調べを裏打ちするためにも、国会で可視化の範囲を広げる議論をすべきだ。

http://www.asahi.com/paper/editorial2.html


02. 2015年3月07日 13:42:24 : YxpFguEt7k
鵜飼裁判長、GJでした。
たまに良い裁判官もいますよね。
良い裁判官を後押しする意味でも、警察・検察の取り調べ過程の全面可視化をお願いします。

03. fumifumi923 2015年3月07日 13:50:04 : SkHMOfI8xanDg : E5abzjZ93b
そもそもこの事件の発端は、大阪の郵便不正ねつ造事件と陸山会事件の東京地検のねつ造が白日のもとにさらされ、検察改革が議論された時に名古屋地検特捜部などの廃止が議論され、焦った同特捜部が組織の存続をはかり、むりやり片方に供述をさせてデッチあげたものではないのか。

04. 2015年3月07日 17:02:59 : aa86V1oKlA
> それが、99.9%を超える高い有罪率につながり、無実を訴える被告人にとっては絶望的な状況が続いてきた。

有罪率が99.9%よりも、例えば80%の方が良いということか?

もし、有罪率が80%だと、弁護士は無罪の者を20%も起訴した、検察は無罪の者を起訴するな、と検察を非難するだろう。
つまり、有罪率が99.9%でも80%でも、弁護士は常に検察を非難するだろう。
それ故、弁護士の検察非難は信用できない。


05. 2015年3月07日 17:37:36 : gRPPcdopas
>>4
>もし、有罪率が80%だと、弁護士は無罪の者を20%も起訴した、検察は無罪の者を起訴するな、と検察を非難するだろう。

有罪率が80%になれば、マスコミの報道や世間の目、職場の対応も随分と変わるでしょうね。起訴されても、推定無罪で、裁判結果を待ちましょうという雰囲気になる。
もちろん、見逃しも空振りももとんんどない状況での有罪率が99.9%ならよいが、IT成りすまし事件でもわかるように、検察の強引な取り調べで、まったく身に覚えがなくても半分くらいの人は(半ば強制された虚偽の)自白するのである。
今回の場合、市長か同席者が検察の言うままに証言や自白をしたら、無罪にはならなかっただろう。よく耐えたものだと思う。
こういうことが亡くなるのが人権国家というもの。日本はこの面では途上国以下、中世の拷問取調べとあまり変わらない。
そういう中での判決なので、郷原弁護士が言うようにエポックメーキングなこと。


06. 2015年3月08日 01:26:12 : rLBhiuudmU
今回の無罪判決でやたの鏡も清らかに裁判官の胸で輝いているでしょうね。

07. 2015年3月08日 10:04:45 : mp6fw9MOwA
先進国の有罪率は70%程度と言われる中、日本の有罪率は99%以上であることをどのように評価すべきかが課題である。
日本の警察・検察の捜査力が優れているのであれば良きことであり、取り調べの可視化に反対する必要はない。
警察・検察が被告人の反論をすべて想定しその裏を取っているのであれば時間と労力の無駄である思われる。
被告人しか知りえない情報もあるので、裁判で一定割合の無罪が出るのは適正な裁判と考えたほうがよい。
今回の事件で裁判所が冤罪を確定しているとの疑いがきわめて高いことを国民に知らせたことは司法制度の威信低下につながったと思われる。
贈賄側が他の裁判で有罪となりながら収賄側が無罪となったからである。
しかも、詐欺罪よりも贈賄罪のほうが悪質ととらえたマスコミ報道が出るような判決文を出しているのである。
裁判所は正義を追及するためには同一犯罪を取り扱っている裁判の情報も加味した真実の追及との姿勢が不可避である。
法的には結論が異なる場合がありうると開き直っていることは真実の追及をしていないとの表現と同じになり、冤罪委を確定することもあると表現していることになる。

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