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戦後70年首相談話懇談会プレゼン資料:「20世紀の回顧と和解の軌跡―イギリスの視点を中心として―」細谷雄一氏
http://www.asyura2.com/15/senkyo184/msg/735.html
投稿者 あっしら 日時 2015 年 5 月 13 日 17:17:50: Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 戦後70年首相談話懇談会第4回議事要旨:戦後日米・日英関係史からアジアの和解模索:リベラルな歴史認識や非親米的意見も 投稿者 あっしら 日時 2015 年 5 月 13 日 17:08:09)


21世紀構想懇談会第4回会合2015年4月22日

20世紀の回顧と和解の軌跡
―イギリスの視点を中心として―

慶應義塾大学法学部教授細谷雄一


はじめに

〇「20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験から汲むべき教訓は何か。」
〇「日本は、戦後70年、米国、豪州、欧州の国々と、また、特に中国、韓国をはじめとするアジアの国々等と、どのような和解の道を歩んできたか。

・イギリスの視点から、20世紀の歴史の概観と、戦後70年の和解の道を、述べることにしたい。

(1) 歴史教育の問題

・日本の歴史教育においては、世界史のなかには日本が出てこず、日本史の中には世界が出てこないために、「世界と日本の歩み」をバランスよく総合的に理解することが困難である。世界史と日本史をバランスよく理解するのにとどまらず、それらを総合して「世界の中の日本」の軌跡を理解することが重要となっている。

(2)外交史教育の退潮

・外交官試験が国家公務員試験に統合され、試験科目から「外交史」がなくなったことにより、多くの大学から外交史の専任教員がいなくなっている。したがって、20世紀の国際政治の大きな流れを理解するのがよりいっそう困難になっている。

(3)「国際秩序」の視座

・歴史認識問題を考える際に、日本が中国や韓国、アメリカに何をしたのか、という視座だけでなく、国際社会に対して何をしたのか、という視座も必要である。満州事変は、中国大陸において日本が満鉄沿線から離れて、錦州を爆撃して多くの民間人の死者を出したというだけではなく、国際連盟、パリ不戦条約などを通じて確立しつつあった戦争違法化や国際協調の流れを葬り去ったという視点も重要である。


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脚注1 細谷雄一『国際秩序―18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』(中公新書、2012年)でこのような視座から歴史を描いている。


(4)日英和解の重要性

・歴史和解を考える際に、日米和解と同時に日英和解は最も大きな成功例といえる。1990年代には、イギリス人の元戦争捕虜の団体が、日本政府を相手取って個人補償請求の訴訟を起こし、また明確な謝罪を要求していた。それが、民間団体や駐英大使館の努力、そして「平和友好交流計画」などの政府の事業により、日英和解は見事な成果を生み出した。その結果として、2014年のBBC世論調査に基づけば、イギリス人の65%が日本の影響をポジティブに捉えており、これはヨーロッパ諸国では最も高い数値となっている。


1.20世紀の歴史から何を学ぶことができるか

(1) 平和の確立と戦争の違法化

@ 大量殺戮の世紀

・二〇世紀は大量殺戮の世紀であり、それは国家間戦争、内戦、そして戦争以外のジェノサイド、政治的殺害などによって行われた。これらの殺戮を止めるためには、平和を確立し、戦争を違法化して、また人道主義を確立していくことが必要であった。

「1900年からの100年間は、近現代史のなかで間違いなく最も血なまぐさい世紀だった。それ以前のどの時代と比べても、また比較するまでもなく、残虐きわまるものだった。」(ニーアル・ファーガソン)2


表1:第一次世界大戦における人口と軍人の戦死者数

国名 人口 軍人 戦死者(%)
イギリス 4610万人 610万人 75万人(7%)
英自治領・植民地 3億4220万人 280万人 18万人(6%)
ドイツ 6780万人 1320万人 293万人(15%)
フランス 3900万人 810万人 132万人(13%)
フランス領植民地 5270万人 44万人 7万人(17%)
ロシア 1億6400万人 1580万人 180万人(11%)
アメリカ 9880万人 475万人 11万人(2%)
日本 5300万人 80万人 1千人(0.1%)

出典:木村靖二『第一次世界大戦』(ちくま書店、2014年)213頁


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脚注2 ニーアル・ファーガソン『憎悪の世紀―なぜ20世紀は世界的殺戮の場となったのか(上巻)』仙名紀訳(早川書房、2007年)35頁。ファーガソンはスコットランド生まれのイギリス人で、オクスフォード大学教授からハーバード大学歴史学部教授となった。

A 軍縮と戦争違法化

・第一次世界大戦で、人類が経験したことのない巨大な人命の損失を経験したヨーロッパ諸国は、そのような悲劇が繰り返されないためにも、軍縮と国際機構設立を通じて、戦争を制度的に起こさないようにしようと試みた。そのような動きには、イギリス政府もまたいくつかの局面でイニシアティブを示したが、他方でイギリス政府は依然として国際政治における権力的側面や、自衛のための軍事力の必要性も認識していた。

「軍備の負担を制限して戦争の可能性を減少させるために、戦後に何らかの国際機構」設立を求める。(ロイド=ジョージ英首相、カクストン・ホール演説、1918年1月5日)3

B 国際連盟規約(1919年6月28日調印)4

締約国は、戦争に訴えないという義務を受諾し、各国間の開かれた公明正大な関係を定め、各国政府間の行為を律する現実の基準として国際法の原則を確立し、組織させた人々の間の相互の交渉において正義を保つとともにいっさいの条約上の義務を尊重することにより、国際協力を促進し各国間の平和と安全を達成することを目的として、この国際連盟規約に合意する。
・・・
第8条
連盟加盟国は、平和を維持するためには、国の安全と、国際的な義務遂行のための共同行動実施とに支障がない最低限度まで、その軍備を縮小する必要があることを承認する。
・・・
第16条
第12条、第13条または第15条における約束を無視して戦争に訴えた連盟加盟国は、その国とのいっさいの通商上または金融上の関係の断絶、自国民とその違約国国民との間のいっさいの交通の禁止、また連盟加盟国であるか否かを問わず他のすべての国民とその違約国国民との間のいっさいの金融上、通商上または個人的交通の阻止を、ただちに行う。


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脚注3 Erik Goldstein, The First World War Peace Settlements, 1919-1925(London: Longman, 2002) p.35. なお、ウッドロー・ウィルソン米大統領が「14カ条の宣言」を発表するのは、この三日後の1918年1月8日である。
脚注4 「国際連盟と軍縮」歴史学研究会編『世界史資料10二〇世紀の世界Tふたつの世界大戦』(岩波書店、2006年)148頁。

C パリ不戦条約(1928年8月)5

第1条
締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。

第2条
締約国は、相互間に発生する紛争または衝突の処理または解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する。

D 平和の破壊

「現在ほど戦争が起こりそうにない時代は、世界史の中でも稀である。」(セシル卿、1931年9月10日)

「日本の満州征服は第一次世界大戦後のもっとも重大な歴史的・劃期的事件の一つであった。・・・太平洋では、それはワシントン会議によって暫く休止していた争覇戦の再開を意味した。世界全般について見ると、第一次世界大戦の終結以後少なくとも露骨な形では現れなかった『権力政治』への復帰を予告するものであった。平和体制の成立以来始めて、戦争が(警察的行動という擬装の下にであったが)広大な範囲にわたって行われ、広大な領土が(独立国という擬装の下にではあったが)征服者によって併合された。6」(E・H・カー『両大戦間における国際関係史』)

・10月8日の錦州爆撃の際には、ジュネーブの日本代表団からも「如何に強弁するも公平なる第三者を首肯せしむることは出来難き」と、落胆していた。7

「私は、非難や訴え、あるいは国際世論の力だけで平和を維持するという希望はすべて捨てた。これらの力は、国際問題に関して大きな影響力を持ってはいるが、かつて強力な国家が決意した戦争を防止することに成功したためしはなかった。8」(イーデン外相宛、セシル卿書簡、1936年5月26日)


E 国連憲章における平和主義の精神

国連憲章

2条3項
すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。

2条4項
すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。


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脚注5 「パリ不戦条約」『世界史史料10』154頁。
脚注6 E・H・カー『両大戦間における国際関係史』衛藤瀋吉・斉藤孝訳(清水弘文堂、1968年)176-8頁。
脚注7外務省百年史編纂委員会編『外務省百年史(上)』(原書房、1969年)981頁。
脚注8 クリストファー・ソーン『満州事変とは何だったのか―国際連盟と外交政策の限界(下)』市川洋一訳(草思社、1994年)244頁。


(2) 人道と人権の模索

・20世紀の大規模な人命損失は、戦争以外の局面でなされることが多かった。たとえ平和な状態であっても、人道性を確保して、人権を擁護するために、さまざまな取り組みがなされてきた。

「20世紀における対立を国家間の戦闘状態だという面だけで捉えると、国家内部における全面対決の重要性を見過ごすことになる。最も悪名高い例は、言うまでもなく、ナチスによるユダヤ人に対する戦争だ。」(ニーアル・ファーガソン)9

ナチスのユダヤ人殺戮約600万人
ナチスのジプシーなど殺戮約300万人
ソ連の政治的暴力による殺戮訳2100万人(1928-53年)

@ 人種差別撤廃への動き(1919年)

「人種的偏見より生ずることあるべき帝国の不利を除去せんが為事業の許す限り適当なる保障の方法を講ずるに努むべし。10」(政府訓令)

日本政府は、4月に、「各国家の平等及びその国民に対する公正な待遇の主義を是認する」という一文を、国際連盟規約前文に入れることを求めるが、反対を受けて断念する。


A ジュネーブ捕虜条約

47カ国がジュネーブ外交会議に参加。「俘虜の待遇に関する条約」(俘虜待遇条約)調印。日本は、批准はしていない。11 しかし日本は、この条約を批准することはなかった。

「帝国軍人の観念よりすれば俘虜あることは予期せざるに反し外国軍人の観念においては必ずしも然らず。従て本条約は形式は相互的なるも実質上は我方のみ義務を負う片務的なものなり。俘虜に関する優遇の保証を与えることとなるを以てたとえば敵軍将士が目的達成後俘虜たることを期して空襲を企図する場合には航空機の行動半径倍大し帝国として被空襲の危険大となる等我海軍の作戦上不利を招くに至る恐れあり」(官房機密大一九八四号の三『俘虜の待遇に関する千九百二十七年七月二十七日の条約』御批准方奏請に関する件回答』1934年11月15日付12)


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脚注9 ファーガソン『憎悪の世紀(上)』41頁。
脚注10 外務省百年史編纂委員会編『外務省百年史(上)』(原書房、1969年)717-721頁。
脚注11 立川京一「日本の捕虜取扱いの背景と方針」防衛研究所編『平成19年度戦争史国際フォーラム報告書』(2007年)。
脚注12 海軍次官初外務次官宛「官房機密大一九八四号の三『俘虜の待遇に関する千九百二十七年七月二十七日の条約』御批准方奏請に関する件回答』」(1934年11月15日)、アジア歴史史料研究センター、レファレンスコード、B04122508600。

「支那事変の長期化が軍紀を弛緩させ、中国蔑視に起因する捕虜虐待等の国際法違反事件が多発した。そして、人道観念が麻痺し、国際法を軽視する日本軍は、続く第二次世界大戦でも欧米人捕虜に対して違法行為を繰り返すのである。このような事態に直面しても、官僚的軍人たちは国際法の遵守を確保するための効果的な措置をとろうとはせず、戦果を上げることのみに腐心し、捕虜の虐待その他の国際法違反がいかに日本を窮地に陥れ、相手国の敵愾心を煽るかを省みようとはしなかった。その結果、日露戦争後四〇年にして、日本は捕虜待遇の『文明国』から捕虜の非人道的待遇に象徴される『戦争犯罪国家』へと転落することになるのである。13」

「国際法教育は、日中戦争の勃発による教育期間の短縮に伴い、1937年以降は中止されたと考えられる。14」


B 国連憲章

1条2項
人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。

1条3項
経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語、又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長推奨することについて、国際協力を達成すること。

(3)脱植民地化

@ 国際連盟規約第22条15

「先の戦争の結果これまでの支配国の統治を離れた植民地や領土で、近代世界の苛烈な条件のもとでまだ自立し得ない人々が居住しているところに対しては、そのような人々の福祉と発達を計ることが文明の神聖なる使命でありその使命遂行の保証を本規約中に包含するとの原則が適用されなければならない。
この原則を実現する最善の方法は、そのような人々に対する後見の任務を、資源や経験あるいは地理的位置によってその責任を引き受けるのに最も適し、かつそれを進んで受けるのに最も適し、かつそれを進んで受諾する先進国に委任し、連盟に代わる受任国としてその国に後見の任務を遂行させることである。」


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脚注13喜多義人「日露戦争の捕虜問題と国際法」軍事史学会編『日露戦争(一)―国際的文脈―』(錦正社、2004年)223-4頁。
脚注14 喜多義人「日本軍の国際法認識と捕虜の取扱い」平間洋一/イアン・ガウ/波多野澄雄編『日英交流史1600-2000』(東京大学出版会、2001年)282頁。
脚注15 「国際連盟と軍縮」『世界史史料10』148-9頁。


A 大西洋憲章(英米共同宣言、1941年8月14日発表)
・・・・
第一に、両者の国は、領土的たるとその他たるとを問わず、いかなる拡大も求めない。
第二に、関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土的変更の行われることを欲しない。
第三に、両者は、すべての国民に対して、彼等がその下で生活する政体を選択する権利を尊重する。両者は、主権及び自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する。
第四に、両者は、その現に存する義務に対して正当な尊重を払いつつ、大国たると小国たると問わず、すべての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商及び原料の均等な解放がなされるように努力する。
・・・

B 市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)1966年12月16日調印(1976年3月23日発効)

第1条
すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。

C 国連総会決議「植民地独立付与宣言」(1960年)

1.外国による隷属・支配、基本的人権の否定を構成する搾取、これらへの人々の従属は国連憲章に反するもので、世界平和と協力の推進にとっての障害である。

(4)国際関係の組織化

@ イギリス国内での国際機構を求める運動

「イギリスの対外政策は、勢力均衡を維持することを目的としたり、同盟をつくるようなものであったりしてはならない。そうではなく、諸国間の協調や、国際理事会のような方向へと向かうべきである。そこでの熟慮や決定は公開されねばならず、国際的な合意を確保するためのそのような組織によってこそ、平和を保証することが可能となるのだ。16」(民主管理同盟(UDC)「四項目の宣言」、1914年11月)

A 大西洋憲章第8項

・・・両者は、一層広範かつ恒久的な一般的安全保障制度が確立されるまでは、このような国々の武装解除は欠くことのできないものであると信ずる。

B イギリス政府内の国連設立構想

「連合国の理念に基づいて、われわれは今、国際協力のための新しい機構を創設すべきであり、そしてユナイテッド・ネーションズを将来、再活性化した国際連盟以上に野心的なものへと拡張していくことを望むべきである。17」(グラッドウィン・ジェブ、1942年11月8日)


2.日英和解はなぜ可能だったのか

(1)戦後の道のり

1951年9月サンフランシスコ平和条約調印。平和条約第16条により、泰緬鉄道建設の強制労働への償い金を、約5万人の元捕虜に対して1人当たり平均で76.5ポンド分配。日本政府は、このサンフランシスコ平和条約により、元戦争捕虜への補償は解決済みとする。

サンフランシスコ条約第16条

「日本国の捕虜であった間に不当な苦難を被った連合国軍泰に構成員に償いをする願望の表現として、日本国は戦争中中立であった国にあるまたは連合国のいずれかと戦争していた国にある日本国及びその国民の資産または、日本国が選択する時には、これらの資産と等価のものを赤十字国際委員会に引き渡すものとし、同委員会は、これの資産を精算し、かつ、その結果を生ずる資金を、同委員会が衡平であるとする決定する基礎において、捕虜であった者及びその家族のために、適当な国際機関に対して分配しなければならない。」


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脚注16 Michael Howard, War and theLiberal Conscience(New York: Columbia University Press, 2008) p.65.
脚注17 細谷雄一「国連構想とイギリス外交―普遍主義と地域主義の交錯一九四一〜四三年」細谷雄一編『グローバル・ガバナンスと日本』(中央公論新社、2013年)103頁。

(2)和解のアプローチ

第二次世界大戦中、イギリス人戦争捕虜は最も規模が大きく、また泰緬鉄道建設などで最も過酷な労働に従事していた。もともとは、日露戦争時はロシア人捕虜の死亡率は0.5%であり、世界的にも日本の捕虜取扱は、戦時国際法を遵守する模範国として評価されていた。それゆえ、1942年のシンガポール陥落後に、多くのイギリス人は日本軍がイギリス人戦争捕虜に対して、きわめて良い待遇での取扱をすることを期待して捕虜になる者が大勢いた。

王立英国退役軍人会の資料によれば、欧州戦線での英兵の戦死者は26万人であり、全軍の死亡率は5.7%であった。またドイツ軍およびイタリア軍の下での英軍捕虜の死亡率も5%ていどであった。他方で、日本軍捕虜となった者の死亡率は約25%であり、第二次世界大戦中にこの死亡率は最も高いものであった。18 戦死者よりも、日本軍の捕虜収容所での死亡率が高く、このことは戦後のイギリス社会で広く知られていた。

イギリスの元捕虜団体の「日本軍強制労働収容所生存者協会」は、オランダの同様の団体とともに、1993年秋に対日訴訟を公表し、これ以降、イギリス人元戦争捕虜への個人補償や謝罪の問題が、日英間の大きな外交摩擦となる。


@ アガペ―ホームズ恵子の貢献

「1980年代のこの時期に、恵子・ホームズが和解活動をはじめて発足させた。恵子・ホームズの活動とは、極東捕虜が日本に行き、そこで日本人によって思いやりをもって歓迎され、受け入れられる体験がもてるように励ますというものであった。
・・・
日本人によるこの極東捕虜の招待は、かつてそして現在も非常に貴重であり、われわれは深く感謝の念を抱いている。この活動は、共同して建設的な思考をおこなうことを促進し、理解を共有して喜びを感じる助けとなっているのである。19」(ジャック・チョーカー、元捕虜・画家)

第1回「心の癒しと和解の旅」

「日本と英国人でいる多くの人たちの善意と愛の心が結ばれて、入鹿の捕虜収容所でなくなった若い英兵たち16人の墓地で追悼礼拝を行うことを最大の目的として、最終的に26人が私の故郷、三重県紀和町の地を訪れることになりました。47年ぶりの再訪です。20」(1992年秋、ホームズ恵子)

A 藤井宏昭大使(1994〜97年)のイニシアティブ

1993年8月細川護煕首相の就任。所信表明演説などで戦争犠牲者への「お詫びの気持ち」を表明、これに触発されてイギリスの国内世論が再燃。


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脚注18 小菅『戦後和解』112-3頁。
脚注19 ジャック・チョーカー「憎悪から和解へ―戦争を描いた元捕虜がたどった戦後和解への足跡」黒沢文貴/イアン・ニッシュ編『歴史と和解』(東京大学出版会、2011年)110頁。
脚注20 恵子・ホームズ『アガペ―心の癒しと和解の旅』(フォレストブックス、2003年)83頁。

「九一年六月、英国の国会議員らが日本政府に対し、元戦争捕虜たちに十分な補償を行うように要求したが無駄であった。その後九三年夏、細川が日本の首相として初めて日本の『侵略戦争』を認めたことはセンセーションを巻き起こした。官僚の間からは彼が補償の希望を揺り起こしたとして批判が起こったが、彼は続けて『多くの人に耐えがたい苦痛と悲しみをもたらした日本の過去に深い悲しみと謝罪の気持ち』を表明した。一万二〇〇〇人強の会員を擁する日本軍捕虜収容所生存者の会はメージャーに補償要求交渉を求め、もし彼が失敗した場合は日本政府および強制労働の恩恵にあずかった企業を相手取った訴訟も辞さないとした。21」


1993年9月ジョン・メジャー首相訪日時、元戦争捕虜への民間を通じた補償や支援の可能性を要請以下のような立場を表明。

・補償の問題は「平和条約」により法的に決着済みであることを留意。
・将来もし日本政府がこの問題に取り組むための措置を検討する場合には、イギリスの関係者の状況へと十分に配慮することが必要。
・イギリス側で、民間で講じられているこの問題の解決のための措置が、視するかどうかを検討。

1994年4月藤井宏昭駐英大使赴任

1994年7月恵子ホームズと面会

「日々、仕事と資金集めに追われているとき、藤井大使が私に会いたい、という連絡が入りました。一週間後、私は大使の部屋に通されました。
『私はこのような部屋に座っていますが、元捕虜の人たちのことは何も知りません。でも、恵子さんは知っています。どうすれば恵子さんの活動に協力することができますが?』と大使が尋ねられました。それまで私は、大使館の人たちはアガペの活動に無関心だと思っていたので、大使の大変謙虚な態度には驚きました。
『元捕虜の人たちは、日本へ行き、日本人に会うことによって、また彼らの亡き戦友の墓がしっかりと守られているのを見て感動します。戦友の追悼式を済ませると、とても安心し、平安が与えられます。日本人はとても親切にしてくれます。新しい日本を知って非常に驚きます。そして徐々に彼らの考え方が変わって、日本びいきになっていきます。日本へお連れするのが一番の心の癒しになります。日本人も“生き証人”から多くを学べます。でも仕事をしながら、資金を調達していくのはとても難しいことです。私には、いつまで続けられるか分かりません』
私はそう答えました。
『私には、日本政府があなたの活動に協力します、とは言えません。しかし、私は個人的にできるだけのことをします』と藤井大使はおっしゃいました。
それから数週間して、日本大使館から大きな封筒が届きました。なかからたくさんの小切手が出てきました。藤井大使が、大使館の日本人スタッフに寄付をお願いしてくださったのです。苦しい資金集めの日々に思わぬ助けを得て、私は涙が出るほど感動しました。
そして月日が流れました。やがて日本政府も『アガペ』の活動に賛同し、協力してくれるようになりました。22」


1994年8月大使館内で民間人と接触。日英和解を支援する人々を支援する方針へ。


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脚注21 クリストファー・ブラディック「遠き友邦:グローバル化時代における日英関係」木畑洋一/イアン・ニッシュ/細谷千博/田中孝彦編『に智恵交流史1600-2000 2政治・外交U』(東京大学出版会、2000年)345頁。
脚注22 恵子・ホームズ『アガペ』110-1頁。


B 村山談話と「平和友好交流計画」

1994年8月「平和友好交流計画」に関する村山内閣総理大臣の談話

「・・・
1.我が国が過去の一時期に行った行為は、国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒やしがたい傷痕を残しています。私は我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。
我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です。
戦後五十周年という節目の年を明年に控え、このような認識を揺るぎなきものとして、平和への努力を倍加する必要があると思います。
2.このような観点から、私は、戦後五十周年に当たる明年より、次の二本柱から成る「平和友好交流計画」を発足させたいと思います。
第一は、過去の歴史を直視するため、歴史図書・資料の収集、研究者に対する支援を行う歴史研究支援事業です。
第二は、知的交流や青少年交流などを通じて各界各層における対話と相互理解を促進する交流事業です。
・・・」

1995年8月村山談話の発表

村山首相が、談話発表後に、「これはお詫びではない」と述べたことで、イギリスのメディアは厳しく批判。これに対して、沼田行使が対応。また、藤井大使はBBCなどに出演して、村山談話のお詫びが「公式見解」であることを伝えた。
1997年5月ブレア労働党政権が成立。弱者への配慮に対しては保守党政権よりも積極的であり、元戦争捕虜への補償問題にも取り組む。


1994年8月「平和友好交流計画」に関する村山内閣総理大臣の談話

1995年「平和友好交流計画」の開始

1994年8月31日の村山談話に基づき政府の10カ年計画として発足した「平和友好交流計画」は、累積の事業費は10年間で900億円ほどになり、約60の事業が実施された。23 900億円のうち、758億円が交流事業に、82億円が歴史研究支援事業に、35億円がアジア歴史史料センター関連事業にあてられた。24

1995年1月イギリス、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの元捕虜たちが、日本政府に対する個人補償請求の訴訟。1人当たり2万2000ドルの支払いを要求。1998年11月に、東京地裁は、個人の請求権を否定。(ただし、この判決で、日本の裁判所としてはじめて、原告が、日本軍による1929年捕虜条約を含む戦争法の違反により損害を被った事実を認めた)25

1998年5月天皇陛下の訪英。

ブレア首相「なぜ天皇陛下を歓迎しなければならないか」『サン』1998年5月26日。
「過去や元捕虜の苦しみを忘れてはならないが、それらの感情が、日本との関係のすべてだと考えるのは間違っており、幾世代も引きずるべきではない。」『サン』1998年5月26日社説
「われわれは首相と日英関係についての希望を共有している。26」

2000年11月ブレア労働党政権、元捕虜に対して1人当たり1万ポンドの特別支給金を支給。


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脚注23 「『平和友好交流計画』の概要」www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/heiwa.g.html.
24 小菅信子「記憶の歴史化と和解―日英を事例として」黒沢文貴/イアン・ニッシュ編『歴史と和解』(東京大学出版会、2011年)68頁。
25 藤田「国際法からみた捕虜の地位」29頁。
26 小菅信子『ポピーと桜―日英和解を紡ぎなおす』(岩波書店、2008年)291-2頁。

(3)和解から交流へ

@ 日英草の根平和交流計画(1995年〜2004年、総事業費7億4千9百万円)

「本事業は、英国において草の根レベルでの対日理解の涵養に努め、同時に我が国国民の国際理解の促進を図ることを目的とし、元戦争捕虜(POW)・民間人抑留者関係者を対象として行う事業であり、平成七年以来784人が訪日、178人が訪英、4回の日英合同慰霊訪問が行われた。本事業の結果、事業参加者からは謝意表面の書簡等が寄せられ、日英両国で好意的な関連報道がなされており、本件事業は参加者、関係者から高く評価されている。本事業については、平成17年度より規模を縮小し、『日英平和交流事業』として引き続き実施予定。27」

A 日英若人交流計画(1995年〜2005年、総事業費1億4千7百万円)

「本事業は、中・長期的な観点より若い世代を対象として、正しい対日理解の涵養と、我が国国民の国際理解の促進を図り、日英両国の真の信頼関係樹立に資することを目的とし、英国人高校生を対象として10カ月又は6カ月間の学校生活及び家庭生活を体験させる留学事業であり、平成7年以来118人が訪日している。」
B 日英交流史編纂事業等拠出金(1995年〜2002年、総事業費3億1千万円)

日本側は細谷千博一橋大学名誉教授、イギリス側はイアン・ニッシュ・ロンドン大学名誉教授を監修者として、『日英交流史1600-2000』を全五巻で日本語及び英語で刊行。


おわりに

「戦前の日本外交の失敗は、国際政治に対する日本人の想定と国際政治の現実とのずれに根ざしていたのである。28」(高坂正堯『国際政治』)

・20世紀前半には、植民地主義の時代から脱植民地化へ、そして戦争違法化への潮流が見られた。日本は、このような潮流を見誤って、強硬な姿勢を崩すことなく、国際社会で次第に孤立していき国際社会で非難にさらされた。

・20世紀後半には、国連憲章を基礎として、民族自決、戦争違法化、人権や人道主義、国際組織の組織化が進んでいった。これらの国際社会の基本的な価値が定着していく上で、イギリスは大きな役割を担った。

・日英和解は、日英双方の政府が努力することで、両国間の関係を傷つけることなく歴史認識問題をめぐり大幅に理解が重なっていった。双方ともに、両者が調印国であるサンフランシスコ条約によってつくられた合意を傷つけることなく、何らかの未来志向の事業が必要であると合意した。

・日英和解は、日米和解同様に、国家間の敵対や憎しみを緩和していく上での貴重な示唆を提供している。

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脚注27 内閣官房副長官補室(外政担当)『「平和友好交流計画」〜10年間の活動報告』(2005年4月12日)。
脚注28 高坂正堯『国際政治―恐怖と希望』(中公新書、1966年)7頁。


http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/dai4/siryou2.pdf
 

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