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地政学の父マッキンダー:欧州の成り立ちを地図と歴史で解く キッシンジャーがタブーを破った禁断の「地政学」
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投稿者 rei 日時 2015 年 4 月 15 日 10:02:04: tW6yLih8JvEfw
 

(回答先: 『坂の上の雲』に登場するマハンが唱えたシーパワー 陸の勢力と海の勢力の二項対立 投稿者 rei 日時 2015 年 4 月 08 日 15:42:46)

http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150408/279721
地政学の父マッキンダー:欧州の成り立ちを地図と歴史で解く

2015年4月15日(水)  奥山 真司

 地政学の分野で著名な理論家は誰かと問われたら、私は迷うことなくマッキンダーの名前を挙げる。


マッキンダーの肖像画(撮影:奥山真司)
 ハルフォード・J・マッキンダー(1861〜1947)は、哲学で言えばプラトン、経済学におけるケインズ、そして物理学のニュートンのような存在、と言えばお分かりいただけるだろうか。彼は、地政学という一つの知的伝統の、いわば「土台」を築いた人である。

ある時は学者、ある時は政治家、実業家

 マッキンダーは、実に不思議な人物だ。学者と政治家、それに実業家まで、実に幅広い分野で活躍した。頭脳のキレは抜群だったらしい。

 英国の中部にあるゲインズバラという小さな街の町医者の息子として生まれたマッキンダーは、若い時から勉学に才能を発揮し、中流階級の出ながらも英オックスフォード大学に進学した。さまざまな分野の学問を身につけながら、まずは弁護士の資格を取っている。

 そして27歳の若さでオックスフォード大学に新設された地理学科の准教授(Reader)のポジションを得た。その後は英国の支配階層にコネをつくってアフリカに探検に出かけたり、本や論文を書いたりして、学者としての名声を固めた。

 仕事の速さを認められて実務的な仕事も意欲的にこなしている。例えば世界的なエリート校として有名な英ロンドン大学の経済政治学部(LSE)の学長をやったり、母校のオックスフォード大学に社会人向けの講座を開設し、これを著者が卒業した英レディング大学の創設につなげたりするなど、社会活動にも積極的に取り組んだ。

 また、第一次世界大戦前にはスコットランドの選挙区から立候補して下院議員となった。10年ほど議員を務め上げたのち、ロシア国内で英政府のスパイ的な任務を担ったりもしている。そして、政治の仕事を離れてからは、なんと貿易会社の社長に就任した。

 簡単に言えば、20世紀初めの、力の衰えつつあった大英帝国で、極めてマルチな活躍をした人物なのだ。

地政学の父は「地政学」を語らず

 このように、マッキンダーは純粋な「学者」とは言えない独特な経歴を持つ。だが古典地政学の分野では、「地政学はマッキンダーに始まりマッキンダーに終わる」と言っても過言でないほど大きな影響力を持つ。

 その理由は、彼が20世紀初めから半ばにかけて提唱したいくつかの理論が、それまでの地理学を歴史学と融合させ、しかもその視点を「グローバル」なレベルまで引き上げたものだったからだ。

 ここで興味深いのは、このマッキンダー自身が、自分が提示した理論を「地政学」だとは認識していなかったことだ。「地政学をまとめたのはマッキンダーの功績なんでしょう?」と言われれば確かにその通りなのだが、彼自身は自分のことを純粋に「地理学者である」と認識していた。

 その証拠に、彼の著作のどこを呼んでも「地政学」(geopolitics)という言葉は出てこない。これはキリストやブッダ自身が、自分の作った宗教を「キリスト教」や「仏教」とは呼ばなかったのと同じ事情とみられる。偉人というのは、すべからく自分が創始したものに自ら名前をつけることはない。そのような仕事は後に続く者に任される傾向があるようだ。

 ただしマッキンダーは、自分のやっていた地理学は今までの(ドイツ系の)地理学とは異なる別の地理学である、とは自覚していたようだ。なぜなら彼は、自分の地理学を「新地理学」(New Geography)と呼んでいたからだ。この「新地理学」は、歴史と地理の関係をダイナミックに見ようとする、きわめて斬新な地理学、つまり後でいうところの「地政学」であった。

 その斬新な例として、以下のようなポイントが挙げられるだろう。

国際政治を動かすのは交通・運搬手段の進歩

 マッキンダーは、一般的には「ハートランド理論」という概念を提唱したことで知られている。この理論は、彼が日露戦争直前の1904年1月末に発表したものだ。ロンドンの中心街の仕立屋の多いことで有名なサヴィル・ロウ(背広の語源という説あり)の近くの王立地理協会(現在は王立芸術学院の建物)で開催された会合でのことだった。

 マッキンダーはこの時に発表した論文の中で、当時の衰退しつつある大英帝国の情勢に懸念を感じつつ、まず当時の英国の知識人の一般的な世界の歴史の見方を変えようと訴えた。具体的には、世界の歴史を「陸と海の戦いである」ととらえつつ、交通・運搬手段の変化が国際政治を動かしてきたという大胆な仮説を示したのだ。

 その仮説によれば、世界の歴史は以下の3つに分かれる。

コロンブス以前の時代:1000年〜1500年、馬、ランドパワー
コロンブス時代:1500年〜1900年、船、シーパワー
コロンブス後の時代:1900年〜、鉄道、車、ランドパワー
 なんとも大雑把な!と感じる方も多いと思うが、もちろんこれはあくまでも彼の「仮説」だ。そしてマッキンダーは、現在(発表当時の1904年)は時代の大きな転換点にあり、これから鉄道や車など内燃機関を使った陸上交通が海上交通よりも有利になることによって、英国が主導していた「シーパワー」の時代が終わりを告げ、代わりに「ランドパワー」の時代がやってくる、と考えたのだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150408/279721/ph03.jpg

地政学の嚆矢「ハートランド理論」

 ではその来るべき陸の時代に大きなカギを握る場所はどこか。それはモンゴルが覇を唱えたユーラシア大陸の内陸部であり、その趨勢を握る場所が、現在の東欧にあるとした。

 この「世界観」をより詳しく示すために、マッキンダーは以下の世界地図をその論文の中で示している。


(出所: Geographical Jornal 23, No.4, 1904)
 この地図が意味するのは、西欧や、英国のような島国に対する脅威は、常にユーラシア大陸の内側(上の地図でPivot Areaと書かれているところ。後にハートランドと改名)から外に拡大する形で出てきたのであり、この動きが今までの世界の歴史を形成してきたというのだ。

 例えば「欧州」という概念が西洋で出来上がった最大の原因は、内陸(=ハートランド)からモンゴルやトルコ系の騎馬民族が移動してきて侵略したことにあったという。つまり、内陸から迫りくる外的な脅威が、大きくみれば「半島」である欧州内の団結を促したというのだ。

 これはこの当時に一般的に信じられていた欧州中心の世界史、そして世界観とはまるで違ったものであった。マッキンダーは英国の国家戦略の前提として、このような発想の大転換を当時の英国のエリートたちに迫ったのである。

 このように歴史と地理を大胆に組み合わせた考え方を、マッキンダーは「新地理学」として提唱した。その主なメッセージは「地理や自然条件が歴史や今後の国際政治の流れまで決定する」というものだ。

 そしてこのハートランド理論から類推される未来は、ランドパワーからシーパワー、海の時代から陸の時代への移行であった。言い換えれば、「陸からやばいのが来るから注意しろよ!」という警告が含まれていた。

 これを彼は、聖書のエピソードになぞらえて、「東欧を制する者がハートランドを支配し、ハートランドを制する者が世界島を支配し、世界島を制する者が世界を支配する」という三段論法的な警句に集約している。

「世界」のレベルでものを見て戦略を立てる

 このような「大きなビジョン」は、これ以降の(英国、そして米国の)国家戦略を考えるための、ひとつの伝統を形作ることになった。いわゆる「大戦略」(grand strategy)である。

 例えばマッキンダーは上述した1904年の論文のほかに、第一次世界大戦直後に書いた本と、晩年に書いた最後の論文がある。いずれも地政学における重要な文献だ。

 このマッキンダーの3本の重要文献は、日本語に翻訳され、『デモクラシーの理想と現実』(現在は『マッキンダーの地政学』に改題)という一冊にまとめられている。一部に決定的な誤訳はあるが、マッキンダーの「新地理学」の議論を知る上では大いに参考になるので、ご興味のある方はぜひ手にとってお読みになってほしい。

 この本の中に収められている最後の論文の中で、マッキンダーは「基本戦略」(グランド・ストラテジー)という言葉を使っている。このグランド・ストラテジー、つまり「大戦略」の伝統こそが、マッキンダーがこの世に残したおそらく最大の功績だ。

 この大戦略レベルの考察という伝統は、現在の米国に脈々と受け継がれている。19世紀の英国と同じく「世界」という大きな視点で現在の大戦略を考えなければならない国は、当然ながら現代には米国しか存在しないからだ。言い換えれば、米国こそが、19世紀の英国にならってシーパワーの地政学的な大戦略を実行している国なのだ。


http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150327/279274
キッシンジャーがタブーを破った禁断の「地政学」

2015年3月31日(火)  奥山 真司

 「地政学」という言葉を聞いたことはあるだろうか。

 日経ビジネスオンラインを読んでいる方々は、「地政学」の意味はよく知らなくても、例えば「地政学リスク」という言葉を聞いたり使ったりした経験があるのではないか。「地政学リスク」という言葉はここ数年の間に、新聞や雑誌の経済欄で多用されるようになった。

 例えば去年から今年にかけて、日経新聞電子版などで「地政学リスク」という言葉について解説する記事が多く掲載されている(関連記事)

 この言葉は、日常生活の中でも使われるようになっている。私は最近、ある貴金属買取店の販売員が、お客と思しき人と「地政学リスクが…」という会話を道端でしていたのを聞いて驚いた。

日本では学べない地政学

 「地政学」という言葉の普及に私が驚いたのには理由がある。それは「地政学」が、戦後日本で学ぶことを禁じられた、後ろ暗い学問だったからだ。日本では戦後すぐの時期に、地政学を研究していた大学教授がGHQによって公職追放された。地政学関連の本も「焚書」とされている。

 私はこの後ろ暗い学問に十数年前にたまたま興味を持ってしまった。これを日本で学べないと知ったために、わざわざ海外に出向いて勉強した経験を持っている。

 日本では禁止され、海外でもほとんど研究されていなかった「地政学」という特殊な学問を学んできた人間としては、今の日本で「地政学」という言葉がこれほど頻繁に使われるようになるとは夢にも思わなかった。それゆえ、この言葉を街角で聞いた時には、なんと言うか、非常に感慨深く感じるところがあったのだ。

 ただし、「地政学」や、これに付随した「地政学リスク」という言葉の意味が、世間一般でしっかりと理解されているとは言い難い。われわれは「地政学」という言葉を、その中身をよく知らずに、流行のキャッチフレーズの一つとして使っているのである。

 地政学の定義には色々あるが、本稿ではひとまず「国際政治のパワー関係を主に地理的にとらえて考える学問的な視点」としておきたい。

 地政学は実にユニークな視点を提供してくれる、学問的な伝統を持った知的体系の一つだ。ポイントさえ押えれば、それほど難しい学問ではない。

 さらに、現代の国際政治を見る上で、地政学の視点は不可欠なものである。これを知っていれば、われわれは国際政治を非常に冷静な目で見ることができるようになる。米国のような大国が国家戦略を考える時に、暗黙の了解として地政学的な視点を採用していることに気づくことができる。端的に言えば、地政学はわれわれが国際政治を見る時に、これまではほとんど気づかなかった見方を教えてくれる。

 加えて地政学は、われわれが今後の日本の外交や経済、そして投資などを考える上でも大きなヒントを与えてくれる。

 これから数回にわたって、私が英国レディング大学大学院などで学んだり、個人的に研究を深めたりしてきたこの「地政学」について説明していく。第1回目となる今回は、地政学の歴史と現状について説明しよう。

キッシンジャーが「地政学」のタブーを破った

 現在われわれが日常的に使っている「地政学」という言葉の普及には、2人のユダヤ系アメリカ人が大きな役割を果たした。

 その1人は、70年代の米ニクソン政権で外交担当大統領補佐官を務め、後に国務長官として手腕を発揮したヘンリー・キッシンジャーである。彼は、ナチス・ドイツよる迫害から米国に逃れたユダヤ系米国人だ。

 戦後の米国では、「地政学」がナチスが採用した「悪の学問」だった事情から、これに言及することがなくなっていた(筆者注:この点に関しては後で説明する)。ところがそのナチスに迫害された当の被害者であるキッシンジャーが、国務長官になってから、この「地政学」(geopolitics)という言葉を、何度も繰り返し公の場で使ったのだ。その意味は曖昧なものであったが。

 これによってタブーが破られた。米国の知識人たちは「ユダヤ人であるキッシンジャー自身が使っているんだから『地政学』という言葉を使ってもいいのだ」と理解した。これが、米国で現在使われる「地政学」という言葉や、その知的伝統が復活するきっかけとなったと言われている。

 現在われわれが使っている「地政学リスク」という言葉にも、同じくユダヤ系米国人が関わっている。米連邦準備理事会(FRB)の議長を長期にわたって務めたアラン・グリーンスパンである。レーガン政権からブッシュ・ジュニア政権まで長らくこの強力なポジションを務め上げ、曖昧な言葉を巧みに使いつつマーケットを誘導した同氏の顔を覚えている方も多いと思う。

 この人物が2002年に米連邦議会の公聴会で、「地政学リスク」(geopolitical risk)という言葉を使った。

 グリーンスパンはこの言葉の意味を詳しくは説明しなかったものの、この言葉は一般的に中東、とりわけイラクを中心に発生する安全保障問題が金融や株・商品などのマーケットに与える不安を指すと受け取られた。

 現在でもこの使い方が一般的だ。最近のロシアによるクリミア併合や、近年の日本と中国の尖閣諸島を巡る事案のように領土問題が絡むような国際問題も地政学リスクと言われる。

地政学は国家戦略を考えるツール

 いずれにせよ、地政学という言葉はかなり曖昧な意味で使われる。ただし、その歴史は古代にまでさかのぼることができる。

 地政学的なものの見方は、それこそ人類が集団を作ってまとまって生活を始めた頃から存在していた。文献として現れたのは、古代インドの軍事アドバイザーであったカウティリアの『実利論』、中国では孫子の『兵法』、そしてギリシャではプラトンの『政治学』であると言われている。

 地政学というのは、読んで字の如く、「地理」と「政治」の関係を読み解いて実践のためのヒントを得るための視点だ。ただし、みなさんが一般的にイメージするものよりも「地理」の要素が大きい。近代に入ってからは、「グローバルな」地理と政治という意味合いが加わる。

 上に挙げた古代の3つの文献はいずれも、「国家レベル」で地図を見て、それが潜在的な敵である外国に対してどのような意味を持つかを説明している。つまり地政学は、文献に現れた当初から「国家戦略」の側面を多く持っていたのだ。

地政学はドイツで発展

 地政学の「国家戦略」的な側面がまとまったのはつい最近のこと。なんと19世紀に入ってからである。しかも、後に地政学に汚名を着せることになるドイツでのことだった。

 ドイツは一つの国としてまとまるまで、非常に苦労した歴史を持っている。1871年にプロイセンが普仏戦争に勝利して「ドイツ帝国」としてまとまるまでは、「ハンザ同盟」のようにドイツ語を話す集団として都市国家同士がなんとなく連携していた程度であった。プロイセン王国にモルトケ、ビスマルク、それにヴィルヘルム1世という歴史に名を残す名プレイヤーが現れ、デンマークやオーストリア、そしてフランスと戦争をすることによって統一を成し遂げた。

 この時にヨーロッパはプロイセンの成功に驚くと同時に、その成功の秘密を知りたがった。そしてその秘密は、プロイセンの軍事地理の知識にあったことを突き止めた。ドイツは、戦場となる可能性のある土地を戦争前に綿密に調査していた。周囲をフランスやロシア、それにオーストリアという大国に囲まれていたことから、ドイツ人は基本的に「土地」や「領土」に敏感だったのだ。

 列強による海外での植民地争奪という帝国主義的な時代背景も手伝って、ヨーロッパの中で「地理学」への関心がここから急激に高まることになる。

ナチス・ドイツが領土拡大に地政学を利用

 ドイツのフリードリヒ・ラッツェル、スウェーデンのルドルフ・チェレーン、そして再びドイツのカール・ハウスホーファーという人物たちが、地理学に国家戦略的な性格を加え、それが「地政学」として形を成していった。

 ただし、現在まで続く地政学的思考の土台を築いたのは、英国の若き地理学者としてデビューしたハルフォード・マッキンダーであった。「植民地争奪戦」と「グローバル化」という19世紀の時代背景の下、地理・地政学的な視点を1つの体系としてまとめた。マッキンダーは1904年の1月末、つまり日露戦争開戦の直前に、ロンドンの王立地理協会主催の年次大会で、ひとつの論文を発表した。これが現代の地政学の嚆矢(こうし)となった。

 このマッキンダーの理論に感銘を受けて、それをドイツ向けに加工したのが前述したドイツのハウスホーファーである。彼はナチス・ドイツの領土拡大のプロパガンダのために、「ドイツ地政学」(geopolitik)という学派を盛り上げた。ヒトラーの非公式アドバイザーになっていたとされる。

 ところがご存知の通り、ナチス・ドイツは1945年に負けて消滅。その非公式アドバイザーであったハウスホーファーもニュルンベルグの裁判に引き出された。幸い訴追は逃れたものの、将来を悲観して自殺してしまう。

 これによって「悪の学問」としての地政学は一度は闇に葬りさられた。だが、「グローバルに地理を見る」という地政学における国家戦略的な見方は米国に受け継がれた。戦後、国家戦略をグローバルな規模で考えられる国として残ったのは、英国でもドイツでもなく、米国(とソ連)だったからだ。

 もちろん米国は、地政学を「ナチスの学問」と位置づけ、それを活用していることを公式には否定してきた。けれども、知識人の一部は国際政治を考える時に、どうしても地政学的な考え方を必要とした。これが表に表れたのが、冷戦時に米国が採用した大戦略、ソ連に対する「封じ込め」である。

古典地政学と批判地政学

 ここで、「批判地政学」(critical geopolitics)と一般的に呼ばれる学派について触れたい。前述したようにキッシンジャーが70年代に地政学のタブーを破った後、1980年代に入って、米国が持つ“後ろ暗い暗黙の知的伝統”に気づいた知識人の一団が登場した。それは、国際政治を徹底的に批判的な目で見る、主に哲学系の流れをくむ人々であった。

 そしてこの「米国の地政学的伝統を批判的な目で見る人々」が打ち立てたのが「批判地政学」である。

 そしてややこしいことに、この「批判地政学」に属する人々が、現在の地政学において主流派を構成している。

 学問としての現在の「地政学」は、大きく2つの学派に分かれている。一つがマッキンダーやハウスホーファー、そして米国のエスタブリッシュメントが「国家戦略」を立案するツールとして利用している「古典地政学」(classical geopolitics)という学派だ。一般的に日本でいう「地政学」はこの「古典地政学」を指すことが多い。

 一方、多くの研究者を擁し圧倒的に「主流派」なのが、「批判地政学」という学派である。例えばクラウス・ドッズというイギリスの学者が書いた「地政学とは何か」という本がある。

 これは元々、地政学の入門書としてオックスフォード大学出版が出したものだ。しかし、実は地政学そのものについて批判的な立場、つまり批判地政学側の人間によって書かれた。これを読むと、地理と国際政治の関係を論じているものの、その内容はどうも哲学的で象徴的、そしてやけに分析的だ。国家戦略の立て方については教えてくれない。

 個人的なことで恐縮だが、筆者は最初に主流派の「批判地政学」をカナダの大学の授業で学んだ。この時に得た知見を基にしてデビュー作『地政学:アメリカの世界戦略地図』を書いた。だが、この本を出版した後に、私は「批判地政学」が批判している「古典地政学」について知りたくなってしまった。なぜなら、古典地政学は「国家戦略」の作り方、もしくはそのロジックを直接教えてくれるものだからだ。

 本連載では、日本では知ることが難しい「古典地政学」の知的伝統を取り上げる。まずはその理論の土台を築いた3人の思想家を紹介しつつ、そのエッセンスを生かしながら、現代の国際政治上の問題について論じていきたい。

 ここで出てくる古典地政学の思想家は、マハン、マッキンダー、そしてスパイクマンという顔ぶれだ。次回は、日本とも関係の深いマハンを紹介する。

このコラムについて
これを知らずにもうビジネスはできない! 「あなた」のための「地政学」講座

近年の国際政治や経済に関するニュースやコメントで「地政学的な視点」「地政学リスク」という言葉を聞く機会が増えた。ところで、この一見分かりやすそうであいまいな言葉の本当の意味を、われわれは知っているだろうか?

世界戦略でつまずく米国のバラク・オバマ政権の動き、ウクライナ危機、EUの財政危機、そしてシリアやイラクで揺れ動く中東情勢など、「地政学」というキーワードなしでは現代の国際政治を語れなくなってきた。

地政学と戦略学の専門家である奥山真司氏が現代の世界情勢を読み解くカギとなる、地政学の歴史と応用の仕方を解説する  

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