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元日本軍戦闘機パイロット「B29へ体当たり攻撃」生還を語る(NEWS ポストセブン)
http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/583.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 5 月 27 日 16:40:05: igsppGRN/E9PQ
 

元日本軍戦闘機パイロット「B29へ体当たり攻撃」生還を語る
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150527-00000021-pseven-life
NEWS ポストセブン 5月27日(水)16時6分配信


 戦後70年の節目に読んでおきたい、元日本軍エースパイロットたちが語る戦場秘話。話題の新刊『撃墜王は生きている!』(井上和彦著、小学館)より、日本陸軍において米戦闘機B29に対して戦闘機ごと体当たり攻撃を行った対空特別攻撃隊「はがくれ隊」の一員だった板垣政雄・元軍曹の証言を紹介する。

 * * *
 彼ら(はがくれ隊)が人々の期待に応えたのは、昭和19年12月3日の迎撃戦だった。この日飛来したB29は86機。板垣軍曹は、11機編隊の最後尾を飛んでいたB29の前上方から体当たりを試みた。

 そのときの模様は、朝日新聞昭和19年12月5日付朝刊に克明に記されている。

〈ぐんぐん敵機が大きく迫ってくる、板垣伍長は一発も放たない。ああ、体当たりの決意はすでに烈火と若き板垣伍長の体を駆け巡っていたのだ。だが敵の火焔のまっただ中に突っ込んだ板垣機は遂に敵弾を受けた。発動機に被弾したのだ。燃料槽にも被弾したのであろう、バッと真紅の炎が吹き出した。熱い、焦げつくような熱気が頬に伝わった。板垣伍長は火焔に包まれた愛機を抱いて敵機へ。敵機の主翼のつけ根に敢然とぶつかった。敵の主翼がぶっ飛んだ〉

 敵機の主翼を吹っ飛ばしたと同時に、板垣軍曹が搭乗する「飛燕」も空中分解し、彼は機外に放り出されて失神したという。見事体当たりに成功した板垣軍曹だったが、その後どうなったのか。本人が述懐する。

「あの日の戦闘では、B29よりも確か100mか200mほど高い高度をとって真正面から突進したんです。体当たりの瞬間はよく覚えていませんが、なんだかその衝撃で操縦席から放り出されてしまって……。

 落ちていく途中で意識を取り戻したんです。そして落下傘が開いているかなと恐る恐る見上げたら、開かずにくるくる回っていたんですよ。落下傘の紐が引っかかっていたんです。落下傘の紐のもつれを直すには相当な力が必要で、思わず『神様、助けてください』なんて叫んでいたんですよ。それで両腕を思いっきり伸ばして3回ほど左右に回転しながら、なんとかもつれを直したんです。

 ちょうどそのとき、地上から『ボー』という汽笛の音が聞こえてきましてね。そうしたら、空から降りてくる兵隊さんがこんなこと言ってるのを地上の人たちに聞かれたら笑われるぞ、と急に冷静になって、黙って降りたんです」

 なんとか無事に落下傘が開き、千葉県印旛沼付近に着地した。板垣軍曹は、農家で応急手当てを受けたのちに取手駅から列車に乗って調布基地に戻ったという。空戦で落下傘降下したパイロットが列車で基地に帰るというのは、いまでは考えられないことだが、当時はそうするしかなかったのだろう。

 板垣氏はこちらが拍子抜けするほど淡々と、当時を振り返った。前出の記事も、同様の記述から、こう結ばれる。

〈板垣伍長はちょっと前に行われた激しい空中戦も何も忘れてただしかめっ面をして腰をさすりながら、大地にしかと立ち上がったのであった〉

 新たな英雄、誕生の瞬間である。

※井上和彦・著/『撃墜王は生きている!』より

 

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コメント
 
01. 無段活用 2015年5月27日 22:53:35 : 2iUYbJALJ4TtU : hzznhdAYkA

「英雄はいらない」

http://aiminghigh.web.fc2.com/15.pdf


02. 2015年5月28日 00:06:24 : 77Kno4ENaM
こういう話をきっかけに当時の人達が一生懸命生きた事実をもっと知るようになるとよい。けっして英雄賛美でもなければ単純に反戦に結びつけるのでもなく。
 B29による空襲といえばたいていの人は東京大空襲ぐらいしか知らないだろう。東京が丸焼きにされて一晩で10万人とも20万人とも亡くなった悲劇。
しかし軍でも空襲対応はしていたのだ。対米開戦時の米大型爆撃機はB17だがそれに対応するため開戦以前から迎撃戦闘機は開発されていた。双発の複座戦闘機‘屠龍’。
 東京最初の空襲は昭和17年4月ドゥーリトル隊のB24によるものだったが、このときも迎撃に飛び立った。しかしレーダーの無い時代、会敵できなかった。
B29の日本初空襲は昭和19年6月。そのときから昭和20年2月に硫黄島が陥落するまで、迎撃に飛び立った。硫黄島が落ちてからはB29に護衛戦闘機P51が随伴するようになったため運動性能で劣る双発の屠龍の行動は抑えられてしまった。
屠龍にはB29を堕とすため37ミリ砲を取り付けたバージョンまであったが、発射速度の点から主流は20ミリ機関砲。1万メートルの高度で襲来するB29には非力で空の体当たり特攻が行われた。場当たりの体当たりではなかったのだ。
B29の迎撃は千葉県上空で行われ、当初は昼間であったから、屠龍の体当たりを目にした人は多い。そして千葉県八街市には体当たり後墜落した屠龍の場所が地元の人に特定されていて、戦後だいぶ経ってから畑から発掘された話が本になっている。そのとき出てきた飛行靴には白く名前が書かれており、発掘にたちあった元同僚はその名前を見て19歳と20歳の2人だったと語った。
 戦争を止められなかったために昭和19年以降に急激に犠牲者が増えたことは知られている。愚かで悔やまれる歴史だが、当時のひとの具体的な人生を思うと、末端のひとたちは生きているあいだ一生懸命生きようとしたことが伝わってくる。

03. 2015年5月28日 06:13:21 : F6wJ83DJQw
B29なんてのは相当無防備な爆撃機だから、
いくら護衛の戦闘機が付くようになったからといえB29で爆撃に出撃する、
というのも相当勇気が要ったことを称えるのも大事。

04. 2015年5月28日 16:43:04 : w3M1BHSquE
>>03
いや、B29には ハリネズミとも言えるほどの対空機銃があり、さらに日本機は ほとんど一回こっきりしか
上昇してこれない一万bを飛んで 悠々と爆撃して帰るうちは楽なもんでした

これが、カーチスルメイが司令官になった途端、機銃を外してその分 爆弾を余計に積んで
日本機が楽に行動でき 高射砲も充分届く低空での夜間爆撃を命じられたのだから
搭乗員たちも堪ったものでは無かったと思う

実はB29 無理やり戦争に間に合わせて作らせたせいで、故障や不具合が 相当多かったそうで
日本機に迎撃される前に、勝手に落ちて行った機体も かなり有ったそうで
だから大慌てで 硫黄島を(日本側の死傷者を上回る程の損害を出しながら)攻略したそうです

太平洋はまだしも、欧州戦線なんかはB17しか無く ドイツの迎撃機は優秀 高射砲も優秀で
実は、米国の戦略爆撃搭乗員の死者は、日本の神風特攻より多くの死者が出たそうで
その数は欧州戦線だけで5000人以上だとか(日本の神風特攻は2500人ぐらいです)

アメリカの空襲を“誉める”訳にはいきませんが、たとえ勝ち戦でも 一般兵士は死に物狂いで戦う訳で
遺書をしたためて出撃したのは 日本人だけではないそうです。


05. 2015年5月28日 22:20:41 : 7rsp8o9hfw
板垣軍曹は、11機編隊の最後尾を飛んでいたB29の前上方から体当たりを試みた。
「あの日の戦闘では、B29よりも確か100mか200mほど高い高度をとって真正面から突進したんです。体当たりの瞬間はよく覚えていませんが、なんだかその衝撃で操縦席から放り出されてしまって……。
-----------------------------------------
これでは相手の11機の機銃から狙い撃ちされ、間違いなく撃ち落とされて当然の攻撃方法です.最後尾の機体を狙うのなら、後方からのはず.
B29が350km、飛燕が450kmで飛行していたとすると、合算速度800kmで正面衝突して生きて居るでしょうか?

『そのときの模様は、朝日新聞昭和19年12月5日付朝刊に克明に記されている』
戦時中の新聞記事は、全部嘘と考えても間違いはありません.
(と言っても、体当たり自体を否定するのではなく、後方から当ったのだと思います)


06. 2015年5月30日 11:46:54 : eOBGjwhYEc
B29は、空気の薄い一万b(外気はおよそ0.2気圧)を飛んでも、ターボで空気を圧縮できたから、馬力は、落ちなかった。日本機は、性能のよい空気圧縮装置がなかったので空気の薄い一万bには、到達が困難だった。

07. 2015年5月31日 11:06:31 : JtZ2gX4pIQ
B-29について調べると、当時のアメリカの航空技術が他国に対し圧倒的優位であった事実を見せ付けられているように思う。高空でもエンジン出力が落ちなかったのは、排気タービン過給器が採用されていたからだが、これについても1917年からゼネラル・エレクトリック社で研究開発していた成果である。

B-29の偉大なところは、与圧キャビンの実用化だ。これについては、B-17の設計を流用したボーイング社の旅客機、ボーイング307が世界初の与圧キャビンを実用化したことから可能になったのである。

ボーイング307
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0307

●同時代の旅客機はダグラスDC-3だが、乗客数はボーイング307とほぼ同等。エンジンが双発と四発で、経済性に大差がついたことから、民間航空会社は高価なボーイング307を敬遠した。ライバルのダグラス社は後継機のDC-4でも与圧キャビンを採用せず、1947年に初飛行したDC-6でようやく採用されたので、ボーイング社の先進性が分かります。

★B-29に日本全国を爆撃され悲惨な状況になったが、そのことを日本国民は忘れなかった。民間人への殺傷は国際条約違反だが、日本はサンフランシスコ講和条約でアメリカに被害請求しないこととなった。
(註 リビアの最高指導者、カダフィ大佐は、これを白紙に戻し、改めてアメリカに請求すべきだと日本側に意見を述べたという。)

戦後、GHQにより日本の航空機産業は活動を禁止され、メーカーは自動車産業に転換。航空技術者も自動車開発に転職したのである。このような過程で富士重工のスバル360や、プリンス自動車のG7型エンジンなど、傑作を次々と発表した。いずれも元中島飛行機である。彼らは飛行機では負けたが、自動車でアメリカに追いつき、追い越そうと頑張ったのである。

1979年10月、日本初のターボ乗用車、日産セドリック・ターボSが発売された。プリンス自動車は経営難で1966年に日産自動車が吸収合併した。引き継いだ日産から、多数のターボ自動車が発売された。

ターボと言えば、三菱自動車も力を入れたが、同社は軽自動車のミニカから高級車のデボネアまで、フルラインターボを売り物にしていた。当時の三菱自動車の社長、会長は、かつて陸軍九七司偵や百式司偵を開発された久保富夫先生であった。先生が念願のターボ搭載自動車を全車種に採用したのは、戦争でアメリカに負けた悔しさがあったからだろう。輸出用のスタリオン・ターボは、2,555cc直列4気筒エンジンにターボを組み合わせ、175馬力を発生した。市場でのライバルはポルシェ924とされていたが、これはアメリカ側を刺激しないためで、実際のライバルはアメリカ車のフォード・マスタングSVOや、ダッジ・デイトナ・ターボであった。

日本は戦後37年かかって、宿願を果たしたのである。


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