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沖縄のおばあが語る沖縄戦・最後の証言「日本兵は住民を守ってくれませんでした」(週プレNEWS)
http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/799.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 8 月 21 日 08:09:15: igsppGRN/E9PQ
 

現在は辺野古新基地建設反対の座り込みにも参加している島袋さん。彼女の左腕には米軍の火炎放射器で焼かれた痕が残っている


沖縄のおばあが語る沖縄戦・最後の証言「日本兵は住民を守ってくれませんでした」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150821-00052263-playboyz-soci
週プレNEWS 8月21日(金)6時0分配信


戦後70年の沖縄の夏、名護市辺野古の米軍基地建設現場には不自由な体を押して座り込む「おじい」「おばあ」の姿があったーー。

なぜ、彼らはそこまでして抗議を続けるのか。その中にいる多くの戦争体験者が抱く強い思い、エネルギーの源泉となる沖縄戦とはなんだったのか?

1945年3月に始まり、米軍が凄まじい戦力で進攻する中、3ヵ月以上続いた無謀な戦いで県民の4人にひとり、12万人以上が亡くなった。

そこで起こったことに戦後70年の今、体験者の証言から思いを馳せてほしい。

* * *

「あたしはね、命からがら壕(ごう)から這(は)い出したんだよ」

と静かに力を込めて語る島袋文子さんは、キャンプ・シュワブのゲート前で座り込みを続ける地元・辺野古のおばあだ。座り込みテントには足の悪い文子さんのために専用の折りたたみイスが用意されている。

昨年は工事用資材を積んだトラックが基地に入るのを止めようとして立ちはだかった。県警機動隊に排除された時に頭を道路に打ちつけ、救急車で運ばれることに。過激なおばあだが、その壮絶な人生を知ると、命を張ってまで基地建設を止めようとする理由がわかってくる。

* * *

1929年、後に沖縄戦最後の激戦地となる糸満(いとまん)市で生まれ、小学校1年生の時に父親を亡くした。戦争末期、兄たちは防衛隊などに徴用され、家に残ったのは目の不自由な母と15歳の文子さん、10歳の弟だった。

「艦砲射撃や空爆、機銃掃射が激しくなって、米軍が糸満市にも迫ってきていました。それで母の実家のある与那城(よなしろ ※現・うるま市)に家族3人で避難することにしたんです。昼は艦砲射撃が激しく危険なので壕(ほり)に隠れて、夜になると移動するんです。でも、夜でも照明弾が上がると昼間のように明るくなる。そうすると、周辺でまた艦砲射撃が始まります。

なんとか艦砲射撃から逃れて与那城に着いた時には、もうすでにたくさんの避難民がいて、私たちが逃げ込んだ壕はすし詰め状態でした。そして壕の向かいの家の庭に爆弾が落ちて、その家のおばさんは両足を切断されました。たまたまそこにいた避難民の男の子もやられました。男の子のおなかが裂けて内臓が飛び出していたのを覚えています。でも、誰もその光景をどうすることもできません。自分のことで精いっぱいでしたから」

与那城の艦砲射撃も激しくなったため、文子さんは母親、弟と糸満に引き返すことにする。

「目の不自由な母と弟の手を引いて暗闇の中を歩くのは本当に大変でした。母は少しの食料を頭の上に載せていました。平坦(へいたん)な道路だけじゃなく、畑の中も通りましたが、住民や日本兵の死体がたくさん転がっていました。艦砲や機銃掃射でやられた死体です。

目の見えない母に『お母さん、ここは人が死んでいるからまたいでください』と教えながら死体をまたいで歩かせるんです。腐敗して体内にガスがたまって、パンパンに膨れた死体を踏まないように進むことは大変でした。艦砲に当たる怖さより、死体を踏むことが怖かった。間違えて踏んでしまうと、猛烈な悪臭がするんです。

ある晩、弟が『水が欲しい、水が飲みたい』と言うので、真っ暗な中を探し回り、砲弾跡にできた水たまりを見つけて、その水を弟にも母にも飲ませました。私も飲みました。

翌朝、明るくなると、水たまりには住民や日本兵の死体が浮いていました。水は死んだ人の血で真っ赤に染まっていました。暗闇の中で汲(く)んだ水は死人の血が混ざった水だったのです。そのことは母にも弟にも言いませんでした。

糸満に帰る途中、5歳ぐらいの子の手を引いて、もっと小さな子供をおんぶして逃げている女性がいました。手には荷物を持っていました。そこへ艦砲弾の破片が飛んできて赤ちゃんの首をサッと切り、首が飛んでいきました。頭がなくなっていました。真っ赤な血が噴き出しました。あの光景は今でも忘れられません」

そうして糸満に着くまでに、どれくらいの時間を歩いていたのか記憶がないという。

「糸満では3畳ほどの広さの小さな壕に4家族が一緒に隠れることになりました。壕の外から米兵が『出てこい』と叫びました。あたしたちは『天皇陛下のために命を捨てなさい』『捕虜になったら、男は戦車でひき殺され、女は裸にされて辱(はずかし)めをうける』と教わっていましたから、捕虜になるより死んだほうがましだと出ていきませんでした。

そうしたら、穴の中に手榴弾(しゅりゅうだん)が投げ込まれました。何人かは亡くなりましたが、私たちがそれでも出ていかなかったので、今度は米兵が火炎放射器を壕の中に噴射したんです。息もできず、苦しくて、両手を挙げて出ていきました。髪の毛は焼け焦げ、左半身のほとんどがやけどになっていました。その時に負ったやけどや手榴弾によるケガの痕が、今も私の頭、首、顔、腰、尻、太もも、膝、足まで全身に残っています。

皮肉にも、小さい時から鬼畜と教わっていたアメリカ兵が、やけどや傷の手当てをしてくれました。これが日本兵だったら見捨てられていたでしょう。日本兵は住民に銃剣を突きつけて『ここは日本軍が使う』と言って、隠れていた壕から追い出しました。大切な食料を日本兵に奪われることも珍しくありません。

壕の中で日本兵と一緒の時は、小さい子供がいる母親は特に大変でした。暗くて怖いから子供が泣くでしょ。すると『泣き声でアメリカ兵に見つかってしまう。静かにさせろ!』と、子供の口をふさいで窒息死させてしまったこともありました。日本兵は住民を守ってくれませんでした。住民をアメリカへの盾に使っていたのです」

今も辺野古で闘い続ける島袋さんのところには、沖縄戦の体験と米軍基地の話をしてほしいとの講演依頼が各地からある。

「長野県から呼ばれた時、会場近くの長野市松代に天皇を避難させるために掘られた大本営の壕が残っていることを知りました。『この壕を掘る時間を稼ぐために、沖縄の私たちは犠牲にさせられたのだ。どうしても見たい』と思い、案内してもらったことがあります。天井が高く、立派な地下壕でした。入り口から500m辺りまでしか入れませんでしたが、その奥に天皇や皇族の部屋、食堂、食料倉庫などがありました。

同じ時期、自分たちは沖縄で食べるものもなく、狭くジメジメした壕にすし詰めになって、死線をさまよっていました。本土決戦に備え、天皇の隠れ家が掘られていたことをあらためて知って、全身に怒りがこみ上げてきました」

戦後の一時期、島袋さんは基地でメイドとして働いた。生きるためだ。

「キャンプ・シュワブの将校ハウスの掃除や台所の手伝いなどの仕事でした。英語がカタコトでもできたので高給をもらえました。でも、ベトナム戦争が始まって、将校が『ベトナムに行く。これはビジネスだ』と言ったんです。その言葉を聞いた途端、沖縄で殺された人たちのことが頭に浮かんで『何がビジネスだ!? 人殺しがビジネスだと? ふざけるな! 人殺しがビジネスなんて許されるわけがない!』とその場で荷物をまとめて、仕事を辞めました。以来、基地の仕事はやっていません。

一生にひとつぐらい良いことをやろうと思っていますが、難しいです。私ができることは、基地建設を止めることぐらい。それができたら、今すぐにでも天国に行ってもいいです。思い残すことはありません。でも、この海を埋めるなら、海に入ってでも止めるよ」

キャンプ・シュワブゲート前には今日も、たくさんの県民が集まっている。その中に島袋さんの顔もあった。一度、インタビューの途中で彼女が感情を抑えきれなくなり、取材を中止せざるを得ないこともあった。70年たった今も、当時の混乱した記憶は整理できていない。つらく悲しい記憶は体験者の頭をかき乱す。沖縄戦のトラウマに苦しめられている。血圧上昇、頭痛、情緒不安定など症状は様々だ。

しかし、それらを乗り越え、体験を次の世代に残さなければという強い思いが、おにぎりとおかずの梅干し入り豚肉炒めを持って、今日も灼熱のゲート前に向かわせるのだ。


 

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コメント
 
1. 2015年8月23日 00:33:14 : jXbiWWJBCA

フランス:特急で発砲の男、乗客の米兵に殴られ気絶
毎日新聞 2015年08月22日 20時06分(最終更新 08月22日 22時19分)

自動小銃などで武装した男が発砲した国際特急「ターリス」を調べる警察関係者ら=AP
自動小銃などで武装した男が発砲した国際特急「ターリス」を調べる警察関係者ら=AP
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 【ブリュッセル斎藤義彦】21日午後5時45分(日本時間22日午前0時45分)ごろ、仏北部を走行していたアムステルダム発パリ行きの国際特急「ターリス」の車内で、自動小銃などで武装した男が発砲したが、乗り合わせた米国人乗客らに取り押さえられた。男は仏北部のアラス駅で逮捕され、乗客3人が負傷しただけですんだ。

 事件は特急電車がベルギーのブリュッセルを発車した後に仏北部で発生。発砲したのはモロッコ人の男(26)で、テロ対策を行う仏治安当局の監視対象者だった。

 AP通信によると、お手柄の米国人は幼なじみの20代前半の3人組。うち2人は大西洋のアゾレス諸島(ポルトガル領)の米軍基地所属の空軍兵と7月にアフガニスタンから帰還したばかりの州兵という。

 1人がAPに語ったところでは、銃声が響き、自動小銃を持った男が車両内に入ってきた直後に、空軍兵が男にタックル。州兵が組みついて男の手から自動小銃を離させた。男はカッターナイフを取り出して空軍兵を切りつけたが、3人に殴りつけられて気絶したという。

 当時、特急電車には数百人が乗っていたとみられ、カズヌーブ仏内相は「米国人の勇敢な行動がなければ大惨事になっていた」と勇気を称賛した。

テロリストを取り押さえた勇敢さをたたえ、メダルを贈られた乗客。左の2人は幼なじみの米国人。右側の英国人も制圧に協力した=フランス北部アラスで22日、ロイター
テロリストを取り押さえた勇敢さをたたえ、メダルを贈られた乗客。左の2人は幼なじみの米国人。右側の英国人も制圧に協力した=フランス北部アラスで22日、ロイター
http://mainichi.jp/select/news/20150823k0000m030022000c.html

フランス:無差別テロか 特急で発砲、3人けが
毎日新聞 2015年08月22日 東京夕刊

 【ブリュッセル斎藤義彦】21日午後5時45分(日本時間22日午前0時45分)ごろ、ベルギー国境に近い仏北部を走行していたアムステルダム発パリ行きの国際特急「ターリス」の車内で、自動小銃と刀で武装した男が発砲、フランス人俳優ら3人が負傷した。乗り合わせた米国人乗客2人が取り押さえ、男は仏北部の駅で逮捕された。

 乗客の無差別殺傷を狙ったテロの可能性がある。発砲したのはモロッコ人の男(26)で、テロ対策を行う仏治安当局の監視対象者だった。事件は特急電車がベルギーのブリュッセルを発車した後に仏北部で発生しており、オランド仏大統領はベルギーのミシェル首相に電話し、テロ対策での協力を確認した。

 容疑者を取り押さえた米国人は米海兵隊に所属していたとの情報がある。

 当時、特急電車には数百人が乗っていたとみられ、カズヌーブ仏内相は「米国人の勇敢な行動がなければ大惨事になっていた」と勇気を称賛した。
http://mainichi.jp/shimen/news/20150822dde018030022000c.html


2. 2015年8月23日 00:36:59 : jXbiWWJBCA
 アジア侵略>アジアの日本軍

【アジアで歓迎された日本軍】

東南アジアを占領した日本軍は、とんでもなく残虐な軍隊だったといわれているが…。

●日本が東南アジアの占領地域を帝国の一部であると主張したことなど、一度もない。(日本の占領は、戦争中の一定期間の「防衛」手段、予防占領であったにすぎない)
                   《ヘレン・ミアーズ 「アメリカの鏡・日本」》

●日本陸軍の「軍政要領」に、占領と軍政は暫定的であると書いてあった。
1941年11月20日大本営政府連絡会議決定の『南方占領地行政実施要領』には「占領地ニ対シテハ差シ当タリ軍政ヲ実施シ…」とある。日本国及び占領地の行政及び日本軍は、なかなか冷静かつ理性的で、国際的にも恥ずかしくない手続きを踏んで戦争を進めていた。
ところが戦後は、ひたすら日本は領土欲に燃えて侵略のための侵略をしたことになっているが、アジア各国を独立させることは日本の考えの中に初めからあったのだ。

●日本軍は…(1943年ビルマ独立までの例)
 @まず軍政を敷くにあたって、「この戦争が続いている間の暫定的措置だ」と明言している。
 Aそれから「とにかく戦争に勝たなくてはいけないのだから、それまでは軍司令官の言う
  ことを聞いてくれ」と書いてある。
 Bさらに独立に際しては「軍政を廃止し軍隊の保有を認め、今日からは自分でやりなさい」
  としている。
                           《日下公人 「一問に百答」》

●太平洋戦争では現地人は日本軍に協力して、バンサイ・バンザイと迎えた。
                                   《小林よしのり 「『個と公』論」》

●「インドシナに進駐していた日本軍が戦争の終わりごろ、現地の農民にコメの栽培をやめさせて、軍需品を作るのに必要な麻を強制的に栽培させたために、ちょうど不作とぶつかって大飢饉を起こし、ベトナム人約2百万人が餓死した」という説があるが…

私自身は南ベトナムでの3年余りの滞在中、ただの一度も聞いたことはなかった。だが北ベトナムの共産政権の人たちは元来そういう説を主張してきた、というのだ。仏印に進駐した日本軍は、多いときでも10万人程度。この規模からだけでも、2百万人の現地の人を殺すような行動がとれたかどうか。証拠もない。

●ベトナム政府はつい最近まで、日本に対してODA支援の増額を求めるときは、よくこの2百万人餓死説をそれとなく出してくるパターンがあった。だが日本側で一部の学者やジャーナリストが、ベトナム側に正面から根拠を求めるようになると、ベトナム側もいつのまにかそういう説を殆ど口にしなくなった。                 《古森義久 「国の壊れる音を聴け」》


●日本はアメリカやイギリスと戦争したのであって、フィリピンやシンガポールは植民地だった。別にフィリピンを侵略したのではなく、アメリカの領土だったから行っただけだ。
           《福田和也 「人でなし稼業」 他の著書「俺の大東亜代理戦争」》

●日本兵と南方民との交流…
◇スマトラ高原では、次の任地へ向かう日本軍に、蘭印の子供たちが日の丸を持って見送った。
◇行軍の途中、現地の女性たちが水を差し入れてくれる。熱帯の炎暑に焼かれた兵士たちにとって、これほどうまいものはない。
◇現地の人たちが、4月29日の天長節にお祝いの舞踏を披露してくれた。
                           《「大日本帝國軍隊」》


     アサヒグラフ写真

             南京市内で日本軍兵士とオモチャで遊ぶ子供たち
          (『アサヒグラフ』 1937年12月20日撮影)


●昭和19年にこの小さな島についたけど、米軍がくるまでは楽しかったよ。なるべく上からでも民間人に見えるように頭の毛をのばしてね。島の連中とはうまくいっていたしね。民間人には手をだしたりしなかった。そういうことは良かったと思う。[フィリピン 斎藤博之]

●太平洋戦争終戦の時、戦場捕虜で銃を没収され、マラリアの病後の僕は、たくさんの銃をつんだカヌーに乗せられニューギニアのセピック川を下ることになった。しばらくの間だが寝起きを共にした土人との別れは、それぞれの将来が不安なだけに悲しい別れだった。(中略)すべり出すとすぐ横にある木が倒れ、あおりでカヌーがひっくり返った。倒れた木にしがみついていると、岸辺にいた土人がまたも助けてくれた。感激して身につけていた皮のバンドをあげたものだ。[中田安正 東京都在住]

●ニューギニア島。昭和19年頃の話。ニューギニアの山の中の部落では、言葉が通じない。そういう所では歌を通して心のふれあいをした。あちらはカナカシンシンをして見せてくれ、僕達も手拭いでほおかむりして、夕やけこやけとかはとぽっぽとかをやった。一番喜ばれたのは東京音頭で、彼らも身ぶり手ぶりかたことで一緒に踊った。[同上]
                        《松谷みよ子 「現代民話考(2)」》

●戦争の後半においては日本が占領地域の民衆に与えた印象は、革新的な新秩序の建設者というよりも、むしろ保護者・「平定者」だった。連合軍の進撃に伴って、当然のことながらスローガンはますます絶望的な調子を帯びてきた。「生きるも死ぬも日本とともに」「一丸となって敵にあたれ」「『解放』にまどわされるな」「旧世界のあらゆる伝統を破壊して新しい世界−ユダヤ的アングロサクソンの世界−を作ろうとしている敵の企てに抵抗せよ」など。

●日本軍は自分たちが表明した「新秩序」や共栄という目的が、偽りのないものであることを示す確固とした証拠として、東南アジアにさまざまな組織を作った。

◇マレーでのインド軍兵士の捕虜約2万人が、モハン・シン大尉の率いるインド国民軍に参加した。(当時ボーズはまだドイツにいた)

◇ビルマでは、戦争前日本で訓練を受けたアウン・サンとその同志が、1942年8月ビルマ独立軍(約20万人)にかわって7大隊を有するビルマ防衛軍を組織し、日本軍のいっそう緊密な統制下におかれることになった。

◇東インドにおいても、「自由インドネシア学校」や「過去の習慣と政治組織研究会」など多くの機関が民族主義意識の育成にあたり、その一方で特に「プートラ」運動のような大組織が占領下の中国における新民会のように、汎アジア−アングロサクソン反対闘争を支援するための世論動員にあたった。

◇フィリピンにおいても、1942年末全ての政党にかわって「カリパビ」運動が結成され、「大東亜共栄圏建設に奉仕し」フィリピンの日本軍を支援することになった。さらにフィリピン警察隊が組織され、治安維持活動を強化し、ゲリラ活動(特に「フクバラハップ」※)の脅威に抵抗することになったが、1944年11月にマッカーサー軍が上陸してきたときには、現地住民からなる軍事的性格のいっそう濃い組織が急遽編成された。

◇インドシナの場合は、引き続きフランス政府の統治下におかれていたために、いくらか違った情況にあった。しかしそこでも南ベトナムのカオダイ派やホアハオ派の指導者たちは、時には日本軍と協力し他の政治グループに対する自分たちの立場を強化しようとした。

◇日本の植民地であるミクロネシアの島々では、「現地住民の好意と忠誠心」のおかげで、戦争勃発にあたって数多くの義勇隊が組織された。
 ※「フクバラハップ」団=抗日人民軍。1942年3月に結成され中部ルソンで活動した。(1944年には1万2千人に増大)ある推定によれば、日本人約5千人・フィリピン人の対日協力者1万5千人以上を殺害したといわれる。フィリピン共産党(1942年初めに結成された抗日統一戦線の主勢力)はこの団の中で重要な役割を演じたが、それを支配していたようには思われない。本質的にはこの運動は、地主に対する強力な農民運動から発達したもの。

●しかし数ヶ月もたたないうちに、東南アジアの住民と特別に日本軍に協力した人々の双方の側から、日本軍に対する当初の親善の気持ちにかわって、恐怖・嫌悪・敵意が生まれてきた。

◇モハン・シンやギルも、彼らとの連絡にあたっていた藤原少佐が交替したあとは、今度の新しい日本人はインド独立運動を専ら自分たちの目的に利用することしか頭にないのだと思うようになってきた。

◇バー・モーによれば、日本人と現地住民との間の人種的な「対極性は徹底したものだった」

◇シャフリルによれば、インドネシア人は「苛酷な経験を通して日本の秘密警察に対する憎悪・恐怖をいだき」はじめた。

◇ミクロネシアにおいても、「住民の感情に鈍感で、島民を軍事施設建設のための労働力としか考えない日本の陸海軍軍人が大挙進出してくるのとともない、当初の行為はすぐに消え去ってしまった」

●日本人も正面からアジアのために戦ったのだ。労働くらいの協力で文句を言われる筋合いはない。 
                     《クリストファー・ソーン 「太平洋戦争とは何だったのか」》


     


●マレー半島は長期間イギリスの植民地であり、マレー人の中には何とかして独立したいという強い思いがあった。そのイギリス軍と戦う日本軍の勇敢な姿にマレー人は強く心を動かされ、日本軍を歓迎し積極的に兵士に食料を提供したり、荷物を運んだり、ジャングルの道案内をしたりという具合に協力してくれた。その結果、マレー半島の戦いはわずか70日間で終結し、後のマレー独立に大きな影響を与えた。…このように大東亜戦争は、日本だけが戦ったのではない。アジアの国々も独立を勝ち取るために戦ったのだ。
 《藤岡信勝 「教科書が教えない歴史」 他の著書「NOといえる教科書 真実の日韓関係史」》


●第二次大戦中、プノンペンからビルマへ向けてカンボジアの村々を歩いていたら、みんな微笑みを浮かべ、にこやかに親切に応対してくれる。純農業国だから、戦争の最中でも食べ物はある。桃源郷とはこういう国のことかと思ったことがある。
                     《会田雄次 「だから歴史は面白い」》

●インドネシアには「ジョヨボヨ王の予言」という伝承がある。12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が宮廷詩人に命じて書き残したもので、インドネシアを苦しめる“白い人びと”を、北からやってきた“黄色い人びと”が追い出してくれるという「予言」だ。
「我が王国は、どこからか現れる白い人びとに何百年も支配されるだろう。彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。しかしやがて、北の方から黄色い人びとが攻めてきて、白い人びとを追い出してくれる。黄色い人びとは我が王国を支配するが、それは短い期間で、トウモロコシの花の咲く前に去っていく…」

●この「予言」はオランダ植民地時代に民衆の間に広まり、深く信じられるようになった。17世紀初頭から続く“白い人びと”の支配に苦しめられていた民衆は、解放者の出現を待ち望んでいたのだ。一部で独立を求める運動も起きたが、オランダはこれを厳しく弾圧、インドネシア人の集会を禁止し、道ばたで3人以上が話しただけで処罰するほどだった。

●このオランダの支配を打ち破ったのが、北からやってきた“黄色い人びと”、すなわち日本軍だった。
1942年3月1日、ジャワ島に上陸した今村均中将率いる第16軍は、僅か9日間でオランダ軍を制圧、“白い人びと”を追い出してくれたのである。インドネシア民衆は「ジョヨボヨ王の予言が実現した」と歓喜し、各地でメラプティ(後にインドネシア国旗となる紅白旗)を振って日本軍を迎え入れた。

●その後、仁将として名高い今村中将による軍政統治が行われるが、それは、“白い人びと”の支配とは明らかに異なっていた。
日本軍はまず、流刑されていたスカルノやハッタら独立運動の指導者を解放し、迫害されていたイスラム教の存在を認めて宗教活動を自由とした。オランダによる愚民政策を廃し、民衆の教育制度を充実し、農業指導や軍事指導にも努めた。それまで公用語として強制されていたオランダ語と英語を廃し、多くの言語に分かれていたインドネシアに共通語を定めて、民衆の意思統一を図ることにも力を入れた。
 
 …これから「侵略」していこうとする軍が、このように独立を促すようなことをするだろうか?(管理者注)

●そして1945年8月15日、三年半にわたる“黄色い人びと”の支配は終わった。800年前にジョヨボヨ王が予言した通り、トウモロコシが育つまでと同じくらいの短い期間だった。
                        《諸橋茂一 正論2013/9月号》


●「ベトナムに進駐した日本軍の将兵はみな規律正しく、地元民に悪いことはせず、むしろ親切でした」という言葉をベトナム人の高齢女性から聞いたときのその衝撃はなお忘れられない。初めて海外特派員として赴任した南ベトナムの戦場での経験だった。それまで日本で「日本軍将兵は東南アジアで残虐の限りを尽くした」という教えをさんざんに受けていたからだった。
                         《古森義久 正論2010/3月号》


●インパール作戦の前哨戦となるマレー半島の戦いでも日本軍は現地の人々に大いに歓迎された。日本軍将兵はマレー人のあまりの歓迎ぶりに躊躇するほどだったという。
《ある者はバナナの葉につつんだナシ・ゴレン(マレイ風焼飯)とココナツ・ヤシの果水を差し出し、ある者は南方のさまざまな果物を大きな籠に盛ってささげ、若者たちは先を争うようにして日本軍の弾薬箱を担ぎ運び、泥道で走行不能となったトラックを押し、ジャングルの獣道をたどる近道を先頭になって案内をひきうけた。日本軍将兵はとまどい驚いたが、やがてマレイ人の歓迎と協力の真摯な態度を知り、戦塵で荒んでいた気分をなごませ、感動し感激した》(『神本利男とマレーのハリマオ』)         《井上和彦 Voice2014/4月号》


●GHQによって焚書になった「星港攻略記」(筑紫二郎著 有恒社 昭和17年5月刊行)の中の、いよいよシンガポール攻略という直前の話を読んでみる。(星港=シンガポール)
「私達にはいつも味方があつた。それは住民である。ジョホール・バールからやつて來た避難民の住民たちが我先にと集つて來て手傳つてくれた。彼等は一様に『早くシンガポールを陥(おと)してくれ』と云ふ。人力もなかなか馬鹿にならない。二日經つとなんとか飛行機が降りられるやうになつた」

●例えば占領した飛行場を直そうとすると、イギリス軍ならば機械を使ってやる作業なのだが、日本軍は機械を持たないから手でやらねばならなかった。壊れている橋や道路も人力で直さなければならない。直しながら進軍するのだが、そういう場合には現地の人が協力してくれたという。

●もっとも当時のシンガポールというのは、全人口の8割は華僑だったから実際には反日的な空気が強かったに違いない。後からここへやってきた華僑はイギリス側について、マレーの人たちはみな日本側に味方したようである。
                       《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封」》

【10月22日更新】

●現代では、補給なき無謀な作戦として常に批判にさらされてきた「インパール作戦」---。
1944年3月から開始されたこの作戦は、日本軍7万8千人とインド国民軍約1万5千人が、ビルマ(現ミャンマー)からインド東端に位置する英軍の要衝インパールの攻略を目的として戦われた一大作戦であった。
インパール作戦はインドでは「インパール戦争」と呼ばれ、対英独立戦争として位置づけられている。当時の写真を見ると、インドの人々が進撃する日本兵を歓迎しており、つまり日本軍はインド独立を支援した“解放軍”として迎えられているのだ。したがってインド人は、かつて日本が“侵略戦争”をしたなどという歴史観をもっていない。

●日英両軍が死闘を繰り広げたインパールの北方18キロのマパオの村では、地元のニイヘイラ女史によって作られた実に美しいメロディーの『日本兵士を讃える歌』がいまも歌い継がれている。

 父祖の時より 今日の日まで 美しきマパオの村よ
              いい知れぬ喜びと平和 永遠に忘れまじ
 美しきマパオの村に 日本兵来り 戦えり 
              インパールの街目指して 願い果たせず 空しく去れり
 日本兵 マパオの丘に来る それは4日の火曜日 
              1944年のことなりき 我は忘れじ4月のあの日
 罪なき民も散り散りに 西に東に追いやられ 
              再び神の恵み受け 集り住まん この地マパオに
 広島の悲報 勇者の胸をつらぬき 涙して去れる
           日本の兵士よ なべて無事なる帰国を われ祈りてやまず

…このように日本軍兵士はいまでも地元の人々から尊敬され、そして感謝されているのである。

●フィリピン、サマット山頂のメモリアル地区には立派な戦争博物館があり、往時を偲ぶことができる。当時のフィリピンの様子をとらえた1枚の写真が私の目を釘付けにした。写真のキャプションはこう記す。
       “THE JAPANESE MEDICAL CORPS RESPONDING TO THE PEOPLES NEEDS”
つまり進駐した日本軍は、地元フィリピンの民衆の求めに応じて医療活動を行い、フィリピン人から歓迎されていたというのだ。  《井上和彦 「日本が戦ってくれて感謝しています」》

※関連ページ : 日中戦争時の「中国の民衆」との類似性も参考に
【アジア侵略】
★アジアの欧米植民地の残虐さ/日本人にはできない行為
★アジアの華僑/欧米植民地に巣食う者
★アジアで歓迎された日本軍/白人支配者を駆逐する軍隊
★アジア諸国の独立/現地人に軍事訓練を施す侵略などあり得ない
★親日のアジア/実はアジアはほとんどが親日国家 


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http://kenjya.org/ajia3.html


3. 2015年8月23日 00:44:22 : jXbiWWJBCA

自分を守る力と自己決定できるだけの経済力がない限り、牛や豚同様、最悪、無慈悲な強者の餌食になるしかない。

重要なのは、自分たち自身で、安全保障を確立できること、そして、そのための努力をすること。

常に親切な支配者が守ってくれることを期待するのが間違いであって、期待通りでないからと、常に不満だけ言っても、心の平和は永遠に来ない。


4. 2015年8月23日 06:35:17 : Tcd4zEG5gs
良いことしか書かないのは説得力が無い。

5. 2015年10月30日 17:09:55 : MGxxIzxYv2
島袋文子さんの画像ですね。
▼辺野古 本体着工/国、民意無視し強行/県反発、対抗処置へ
https://twitter.com/yujinfuse/status/659536086327160832
▼今日の朝日新聞朝刊『辺野古 届かぬ怒り』85歳の文子おばぁが機動隊に担ぎ上げられて強制排除されている様子が写されている。
https://twitter.com/257antonio/status/659882331419734016
▼体張り工事車両進入に抵抗 シュワブゲート前 86歳島袋文子さん
https://twitter.com/ryukyushimpo/status/659824079113850880

6. 2016年10月24日 21:43:05 : unA9hWYW1I : ZvrK62aHhUQ[201]
●『侵略戦争という、今も悪臭を放つ膨大なヘドロ沼の底から、こんな綺麗な石(局面美談やらエピソード)があった、あんな見事な宝石(局面軍事行動の正当性)が見つかったから、これは実の所侵略戦争ではなく、本当は水の透明に済んだ、美しい湖水(正義の戦争)だったに相違ない!!

いかに極右論客らが勝手な歴史の私物化感覚で、いわゆる「歴史修正主義」と称し、全て後付けで己に好都合な挿話だけを選り集め、尽く不都合記述を否定排除した、好都合解釈のみに歪曲改竄しようが、侵略戦争という厳然とした史実(膨大なヘドロ沼)自体の本質には、些かの変わりもないのだ!!』
 
                <「戦争総括認識」>

●『かくも無謀な大戦争を惹き起こし、内外に言語に絶する犠牲と惨禍をもたらした、軍閥指導部の罪科と責任は、将に万死にあたいする!』
                 
         <元海軍兵学校長 海軍大将 井上成美>

●『ポツダム宣言によって日本が、賢明ならざる目論見によって大日本帝国を滅亡に導いた軍閥指導者は一掃され、民意によって選ばれた指導者によって平和国家としての再建が急がれるでしょうが、前途益々多事多難なることが想像されます。
建設への道に安易なる道はありません。軍部よりの圧力によったものとは言え、
アラユル困苦と欠乏に耐えたあの戦争十ヵ年の体験は、必ず諸君に何物かを与える
に違いないと思います。新日本建設には私たちのように過去の遺物に過ぎない職業軍人、或いは阿諛追従せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を、断じて参加させてはなりません。
恐らく占領軍の政策として何らかの方法が取られるでありましょうが、将に死に就かんとする私は、日本の前途を思う余り、一言申し上げたいとおもうのであります。(一部抜粋、以降略・・・・・)
 
<山下奉文 元陸軍大将 遺言(口述筆記)森田正覚教誨師(巨杉の杜)>

●『新憲法に於いて日本は、戦争を放棄することになったが、その意義は実に深甚微妙である・・・・・・・・(中略)
日本は自衛権すら放棄して、ただ世界の正義と良心に訴えるという・・・・・・・
我々は心から戦争放棄の偉大な意義を自覚し、その身に寸鉄を帯びずしてただ正義に基づいて国を建て、むしろ全世界に対して、その進むべき新しき道を示そうとする大覚悟と大抱負を持たなくてはならない。
我々は絶対に戦争放棄に徹して生きていくべきです。
ちょうど聖日蓮が竜の口に向かって行く態度、キリストが十字架を背負って刑場に行く時のその態度を、我々は国家として採らなくてはならない。』
 
<元関東軍参謀 陸軍中将 石原莞爾「新日本建設(我らの世界観、一部抜粋)」 

●『こんなことになるなら、米英と何もあれほどの大戦争を戦う必要は、全くなかった』
 <A級戦犯 東条英機の述懐 (於、巣鴨プリズン)>

●『よく覚えておきなさい。戦争とは大河の濁流のようなものだ。
竿を一本、二本と差しても止めることはできない(中略)
これからは真っ直ぐに前を見て生きなさい。誤りに気付いたら、その場で直しなさい。戦争がまた起きそうなことになったら、自分一人になっても反対しなさい!』

<元大本営作戦部長 陸軍中将 宮崎周一 「回想記(一部抜粋)」>


●『日本軍隊の残酷さ、特に地方での女性に対する邪悪な扱いは、多くの市民がゲリラ化して抵抗する要因の一つであった。
ゲリラ活動の拡大を怖れ、危険視した日本軍隊はフィリピン市民に対して、一層の残酷さを加えるようになった。
多くのフィリピン人は、有罪無罪を問わず捕らえられ、サンディエゴ砦や、日本軍隊が接収し刑務所とした他の施設に送られた。
また家に帰宅することができた人たちにしても、不自由な身に変えられていた』
 
<フィリピン、高等学校用教科書記述 1981年版「フィリピン共和国の歴史(一部抜粋)」>

http://www.youtube.com/watch?v=knvILz-Fi3I

http://jikensi.web.fc2.com/newpage441.htm

●『当初、日本軍の来寇はインドネシア民族に歓迎された。それは長らく切望した独立を日本がもたらすのだろうと期待したからだ。なぜインドネシア民族は、そのような期待感を抱いたのだろうか。
それは日本の軍隊がやってきてまもなく、次のようなプロパガンダを展開したからである。
「日本民族はインドネシア民俗の兄である。日本が来た目的はインドネシア民族を西欧の殖民地支配から解放するためである。日本は大東亜共栄のために開発を行う」
ところがその実態はどうであったか!
日本占領時代にインドネシア民衆は、肉体的にも精神的にも、並外れた苦痛を体験した。日本は結局独立を与えるどころか、彼らを「ロームシャ」と呼んで圧迫し搾取したのた。
その行為は強制栽培と労働のオランダの政策を超えた、非人道的なものだった。
資源とインドネシア民衆の労働力は、日本の戦争目的のために奉仕搾取されたのであった』
 
<インドネシア中学校用教科書「社会科学・歴史科第五分冊(1988年版)>

http://esashib.com/nankin01.htm

http://www.jakartashimbun.com


7. 2017年7月30日 18:55:10 : J0EfR5l7E6 : Pg8W7GUPCkg[31]

日本の軍隊は能力が無いにも関わらず戦争と戦果を欲して死ぬまで戦ったのである。

いよいよ戦況が繰りしくなり軍備弾薬と食料が枯渇するに至り外国人の人肉を食した。

現行日本国憲法は戦争との決別を世界に誓った国の最高法規であり謗法は許されない。

日本も世界中の国々と手を取り合って恒久平和というものを人類史上に作り上げたい。

おぞましい時代の犠牲者の冥福を祈り核兵器禁止条約も殺戮禁止条約も批准しましょう。

日本人は未だに法華経誹謗が充満した国という謗法の恐ろしさを認識できないでいます。

世界が仏教の教主の慈悲に触れることでおぞましい過去の記憶から救割れることでしょう。



[32初期非表示理由]:担当:スレ違い

8. 2017年8月08日 09:05:00 : PDcE11fzso : EcABkE8i7gY[1]

スレ違いを理由に>>7. コメントを削除した者よ、歴史の真実を否定するな!

日本が国をあげて世界大戦を開戦した歴史は微動だにしていないのが真実である。

沖縄の人間に限らなくても日本の国民は軍部から玉砕まで戦えと指導されていた。

軍事政権は連合国に裁かれ戦争は終結したが戦後日本は敗軍の将の権力欲が貫く。

国民が軍国思想という邪宗教を明確に否定するべきだと主張するのが正しいだろ。


9. 2017年8月12日 22:21:28 : J0EfR5l7E6 : Pg8W7GUPCkg[77]

>>3. 2015年8月23日 00:44:22
>自分を守る力と自己決定できるだけの・・・餌食になるしかない・・・
>重要なのは自分たち自身で安全保障を確立できること・・・
>守ってくれることを期待するのが間違い・・・心の平和は永遠に来ない

お前の主張は完全に間違い。それは武士の内乱続きだった時代の武将の思考回路だ。

日本ではそれが昭和二十年の敗戦まで続いた歴史の真実を見なければ平和は分からない。

天皇を暗殺した逆賊が実権を奪った瞬間から無限の敵に怯えるように過剰防衛になった。

今の時代なら靖国カルトの安全保障は北朝鮮も日米同盟も深刻な脅威であり亡国レベル。

そもそも人殺しがのさばり逆賊の国賊なら内外に敵を作るだけでは安全は保障できない。

心の平和を永遠のものにするには正しい人間にならないと絶対に得られるものではない。

殺される前に敵地攻撃の能力を欲するなど殺人鬼の屁理屈でしかないと思い知るべきだ。




[12初期非表示理由]:管理人:カルト宗教コメント多数により全部処理

10. 2017年8月14日 20:42:44 : J0EfR5l7E6 : Pg8W7GUPCkg[95]

昔ある殿様が一人の家老の罪をとがめて殺したところ、次第に家臣の仕返しを恐れるようになり、終いには家来を全員殺して最後はネズミを獲る猫まで殺したという話は誰でも知っているだろう。

侍が天下を治めた時代の昔話だが、日本の開国と近代化は武士が武士の時代に終止符を打つ為に天皇を担ぎ出し、率先して欧米文明を導入することで幕府以上の国家をつくったというのが真実の事実である。

国際時代の荒波を戦術的な防戦でしか考えることができない武士の愚かさと臆病さが維新政府の権力体質の根底に流れていたと見ることができます。

幕府も明治政府も外国と戦争する前に無数の殺戮を行い権力に従順でも知恵がない国民だけを生かして武士道精神の気合いで充満する国家をつくっていた。

戦争と戦果を欲するだけで国民の能力を削ぐだけ削ぎ落とした昔の日本に国民も国益も守る知恵と能力がなかったということを歴史から学んで現実の政治に活かしていく国民の決意と判断が重要な時に至ったと思います。




[12初期非表示理由]:管理人:カルト宗教コメント多数により全部処理

11. 2018年6月23日 13:09:33 : A4AvZivHZs : VNftEPmtM9w[434]
そもそも 沖縄という戦場は 日本にとって 本土決戦への時間稼ぎでしかなく
そこへ展開する日本軍は 沖縄の住人を守るためにやってきたのではない

● 沖縄の住人にとって 日本軍はむしろ米軍よりも悪辣な敵だった ●

@ 沖縄の方言を使っている人間は スパイと見なして射殺しても良い という命令が下されている

A 米軍に投降する相談をしていただけで 敵に通じているとして殺された沖縄人が 大勢いたという

B 沖縄県民が入っていた壕を 後から来た日本軍が 追い出してそこへ居座る事も茶飯事だったという


↑ これらの事実を考えれば 日本にとって沖縄は 「踏み台」 沖縄の人々を守ろうなどと言う意識は
始めからさらさら無かったのである。

そして

>>2 のように、都合の良い事実だけを抜き出して 自尊史観に浸るオナニーネトウヨが存在するが

例えば 今村均大将のように高潔なる人物だって確かに存在したが あくまでもこのような人物は特殊なケースで
今村が敷いたという“善政”は、陸軍中央から否定され 本来の圧政を要求されたものを 今村は頑として譲らず
陸軍中央は渋々認めただけの事で、今村がラバウルに転進して ジャワ島を去ってからは 結局陸軍本来の
圧政に戻っていったというのだから、今村の善政は 日本軍本来の統治方針とは相容れないものだった事は
容易に理解出来る訳ですが、こういう事実には全く触れないのが ≪ネトウヨのインチキ≫ という事です

アジアの解放を 本気で実践した人間も一部にはいた しかし 日本の国家として取り組んだ訳ではなく
あくまでも一部の人間による 「個人的な功績」 であって 「国家としての功績」 ではないという事

アジア解放は ただの建て前で みせかけ 本音では 「欧米諸国に取って代わる新たな支配者」 なのです
都合の良い事実だけを見て 悦に浸るのは ただのオナニーと一緒なのですから。


12. 2018年6月24日 03:02:48 : A4AvZivHZs : VNftEPmtM9w[435]
日本が起こした侵略戦争の証しは、数多くの資料から 明確に証左されており 世界中の誰が見たって
侵略戦争いがいの何ものでもない それは 1943年の大東亜政略指導大綱という 列記とした一次資料で
確認できるのです 少なくとも1943年5月の時点では 占領したアジア諸国を ちゃんと独立させる意志は
無かったという事が、(天皇を前にした)御前会議で決定されているのです

http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/APW/APW19430531.html

「アジアを解放する」 これを言い出したのは あの戦争に まったく勝ち目がないという事が判明した後で
戦争終盤での事なのです


そしてさらに 日本軍は兵站の配慮が足らず、食糧などの現地調達を公然と標榜していたのは有名ですが、
戦費も借金で現地調達していたのです

↓↓↓ 

 通貨の発券銀行からの借金は、発券銀行に通貨=お札を発行させるのと同じ事です。現在の日本円も、一般銀行が日銀から借金する事で世の中に流通しています。
 通常、この借金のレベルは制御されているので、通貨の流通量もほどほどに保たれていますが、発券銀行から返せない借金を重ねて使いまくれば、お金を作ってばら播いているのと変わりません。
 そんな事をすれば貨幣価値が下がってインフレになるのは自明の理です。
 「作戦行動の活発なる地域がインフレの程度もおのずから大なることより観て、之を包含せる軍の撒布資金が現地インフレの主要原因たることは明らか」、と日銀もはっきり書いています。撒布資金とはストレートに言ったものです。

http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/APW/APW-inflation.html

↑↑↑

いかがでしょう 欧米諸国に取って代わる新たなる支配者だった日本ですが
欧米諸国よりもさらにもっと酷い搾取を 行っており、現地の人々の生活を完全に破壊しているのです

● 日本軍が 解放軍として現地の人々に歓迎されたのは 最初の内だけだったという事がお判りでしょう
 【日本が負けたから 結果としてアジア諸国が 独立のキッカケを得たに過ぎない事】である事は
 明白な事実として受け止めなくてはならないのです ●


13. 通りすがりです。[1] ksqC6IK3gqqC6ILFgreBQg 2018年8月02日 16:26:45 : 4OwxVh0UM2 : sOPJ5017qjg[1]
島袋さん!
今日も中共のために、
杖を振り上げ人を殴って下さい。
もしも悲願成就の暁には
内モンゴル人民革命党粛清事件のように、
さっさと宗主国様から処分される不安を抱えつつ、
少しは歴史に学んで我が身を案じてください!

14. 2018年8月15日 08:50:38 : k3RUO3N5jE : Ik09hnQdh0k[1] 報告
沖縄のおばあちゃん、大変残念な事ですが、軍隊が国民を守るようには教育されていません。自衛隊に最終的に指揮できるのは内閣総理大臣 阿部晋三ですから
最期はコクミンなんかそっちのけで 内閣政府を守でしょう。軍隊というのは
そんなものです
一生懸命 はたらいて国にぜいきんを払っても、税金は国民のためにだけは使われません。
早い話が阿部さんの三選のために領収書の要らない官邸費が使われていても国民には分からない。

今や自衛隊だけではなく検察警察も司法も安倍さんと通痛です。即ち行政や国漢の私物化は総理の思い通りです。憲法では公務員はすべての国民に奉仕するように規定されています。


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