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「第2次世界大戦終結70周年の安倍首相の声明」(DW English・RFI・Suptnik日本・イランラジオ日本語)
http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/810.html
投稿者 無段活用 日時 2015 年 8 月 25 日 18:20:16: 2iUYbJALJ4TtU
 


(Japan PM treads carefully in WWII anniversary speech: DW English)
http://www.dw.com/en/japan-pm-treads-carefully-in-wwii-anniversary-speech/a-18648654


第2次世界大戦


日本首相は第2次大戦の記念演説を慎重に進める


第2次世界大戦終結の節目に、安倍晋三首相は日本がアジアの諸隣国に負わせた「途方もない苦痛」に対して「心からの謝罪」を繰り返した。首相は言葉を非常に慎重に選んでいた。


「心からの謝罪」「深い悲しみ」「日本がもたらした途方もない、計り知れない苦痛」−こうした言葉は、金曜日に安倍晋三氏の演説を一心に聞いていたアジア諸国、特に中国・韓国が待ち望んでいた言葉だった。

裕仁天皇が1945年8月15日に無条件降伏を行った70回目の記念日の前日に語った安倍氏は、日本軍が第2次世界大戦中に犯した残虐行為について、過去の日本の指導者たちが表明した謝罪の言葉を繰り返した。

それでも、中国と韓国は今回、日本の戦争行為を軽視する傾向のタカ派政治家として知られている安倍氏が戦時中に行った残虐行為の過去について、過去に表明していた悔悟の念を思い切って言わないことを怖れていた。

安倍氏は、この謝罪は「揺るぎない」と述べたが、日本は「[第2次大戦に]何の関係もない子供・孫・さらにもっと後の世代に、このことで謝罪する運命を与え」てはいけないとも付け加えた。


無条件降伏は8月15日に表明され、9月2日に署名された


修正主義の怖れ


戦争の遺物はいまなお中国・韓国との関係につきまとっている(投稿者による和訳。両国は1945年の日本の降伏まで、日本による残忍な占領と植民地統治に苦しめられた。

中国・韓国の両政府は、日本政府の「植民地統治と武力侵略」によって生じた苦痛についてはっきりと謝罪した、村山富市元首相が作成した1995年の重要な声明を、安倍氏が踏襲するよう強く望むと明言していた。

「こうした間違いが未来にはなくなることを希望しつつ、私は人道の精神からこうした反論の余地がない事実を注視し、深い悔悟の念を改めて表明するとともに、心からの謝罪を申し上げる」と、村山氏は20年前に述べた。


全ての目−そして耳−が安倍氏に


日中関係が緩和しつつある中、近日中に可能性のある中国訪問に先立ち、中国は特にこの演説を具に見ていた。

それでも、安倍氏が躍起になって宥めようとしていたのは中国・韓国だけでない。

日本首相はまた、例えば、地域の緊張を煽ることのない、米国政府が満足できる考えを述べるよう圧力を受けている。

「顔を向けよう。米国が聞いている」と東京・城西国際大学客員教授のアンドリュー・ホルバート氏は語った。「米国向けでなければ、安倍氏が話の中身にここまで気を遣うことはなかったと思う。」

月曜日、安倍氏はキャロライン・ケネディ駐日米国大使に会った。


政治家としては安倍氏はむしろタカ派との評価を得ている


安倍氏の声明は、彼がより強硬な(投稿者による和訳諸政策を推し進めている時に発表された。その政策手法について国内の批評家たちは日本の平和憲法を犯していると述べている。この法案に一般国民は疑念を抱いており、このため安倍氏の支持率は40%以下に急降下した。

米国政府は、安倍氏が語った変化は強引さを増す中国など新たな難題に取り組むために必要だとして、この変化を歓迎している。



glb/jil (Reuters, AP)


この話題の音声・動画

日本首相:歴史とは過酷なものだ


発表 2015年8月14日
関連テーマ 中華人民共和国
キーワード 日本第2次世界大戦安倍晋三村山富市中国韓国ワシントン




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(Why Abe's 'utmost grief' won't ease regional tensions: DW English)
http://www.dw.com/en/why-abes-utmost-grief-wont-ease-regional-tensions/a-18649603


日本


安倍氏の「断腸の念」が地域の緊張を和らげることにならないのはなぜか?


日本の安倍晋三首相は第2次世界大戦中の自国の行為について「心からの謝罪」の明確な表明に失敗したが、これは数十年間地域に取りつく緊張を和らげる機会を逸したことの反映だと専門家たちは語る。




それは安倍晋三・日本首相にとって、中国や韓国との関係でいまだに取りついている日本の戦時中の歴史をめぐる緊張を取り除く理想的な機会だったはずだ。しかし、この国家主義者の首相は第2次世界大戦中の日本の行為について前任者たちがとった過去の謝罪は維持したが、彼自身が1人の人間として「心からの謝罪」を表明することには再び失敗した。

1945年8月15日に日本が無条件降伏した70年目の記念日の前日のテレビ演説で、安倍氏は世界戦争で失われた生命について「断腸の思い」を表明し、日本軍が罪のない人々に「計り知れない損害と苦痛」を負わせたことを認めた。

しかし彼は、未来の世代が日本の戦争中の史実について謝罪をせずに済むようにすべきだと付け加えた。「私たちはあの戦争と何の関係もない子供・孫・さらにもっと後の世代に、このことで謝罪する運命を与えてはいけない」と、安倍氏は語った。この日本の指導者はまた、「歴史の教訓を深く心に」留めながらも、日本の国を前に進めたいとの意欲を強調した。


「故意に間接的な形で」


しかし、これは何を意味するのか?「首相の声明を具に見ると、安倍氏自身は謝罪していないとの解釈が可能だ」と、テンプル大学東京キャンパスの日本専門家ジェームズ・ブラウン氏は語る。


1945年8月15日、日本は無条件降伏を宣言した


「首相はその代わりに、複数の日本の指導者たちが過去に行った謝罪と、彼らを直接否認するつもりのないことに言及しているだけだ。彼は、『以前の内閣が明言したこうした立場はこれからも未来へと揺るぎなく続いていく』とも述べることにより、自分もこれと同じ立場をとると確言している」と、ブラウン氏はDWに語った。

演説の準備期間に多くの人々は、安倍氏が近隣諸国との緊張緩和のために過去の首相たちと同じ道を辿ることを期待した。事実、中国と韓国は当時の村山富市首相による1995年の声明を踏襲するよう首相に求めた。その声明はその後の謝罪の基準となっていた。

当時、村山氏は日本が「植民地統治と侵略行為を通じて多くの国々、特にアジアの国々の人々に途方もない損害と苦痛をもたらした」ことを認めた。彼は日本の戦時中の諸行為について「深い悔悟」と「心からの謝罪」を表明した。

しかし、安倍氏の最近の演説には「植民地統治」「侵略行為」などのキーワードが確かに入っているものの、それらは実際には「故意に間接的な形で」使われていると、アナリストのブラウン氏は説明する。

「安倍氏は村山声明の文面を守ったかも知れないが、精神を守っていないことは確かだ」と、その専門家は述べた。


『後退』


この日本の指導者の声明を日本の諸隣国は具に見ていた。それらの国では、第2次大戦の戦前と戦中に日本軍が実行した侵略・占領・残虐行為への憤りはいまなお大きい。

中国の国営・新華社通信は、演説は過去の謝罪を「骨抜き」にした「後退」したもので、そのため「諸隣国との信頼構築に向けたスタートがとれない状況」を示したに過ぎない。「謝罪には不純物が混じっており、日本の諸隣国やもっと幅広い国際社会にとって、警戒を緩めるには全く不十分だ」と、新華社の論説は述べている。


慰安婦問題は何度も日本と韓国・中国の関係を緊張させてきた


「安倍氏は、基盤である右翼を喜ばせながらも日本と諸隣国との関係においてこれ以上のダメージを避けるための試みとして、言葉のトリックを用いて微妙な道を歩んでいる。さらに、日本の未来の世代が謝罪を続ける必要はないと付け加えることで、安倍氏は今回の謝罪を限りに歴史のページを閉ざすことは可能であると言っているようだ」と、中国国営通信社は付け加えた。

聯合通信社によれば、尹炳世(Yun Byung-se)・韓国外相は歴史問題をめぐって日本に「誠意ある行動」を取るよう求めた。尹氏は、政府は新声明を精査した上で速やかに正式な立場を表明すると付け加えた。

「安倍氏は道徳的な高い立場を取り、日本帝国軍が犯した間違いを明確にする機会を逸した」と、ワシントンに拠点を置くウッドロウ・ウィルソン研究者センターの東アジアアナリスト・後藤志保子氏は語った。この専門家は、ちょうど今日のドイツがナチズムの恐怖を明確にしているように、安倍氏もまた日本帝国の侵略行為を明確にできたはずで、同時に、今日の日本は過去の日本ではないことを示せたはずだと説明した。


歴史論争


安倍氏が第2次大戦記念演説にどのような言葉を使うかは、今年初めから論争のテーマとなっていた。首相は、日本の戦時中と帝国主義の侵略行為についての数々の修正主義的主張と連携しているためだ。その主張には、いわゆる「慰安婦」の徴募における日本政府の役割を軽減する言論が含まれる。

「慰安婦」という言葉は、強要や策略により日本軍の性奴隷にさせられた推計100,000人の占領地女性について言及するために使われている。

多くの日本の保守派はいまなお女性たちが誘拐されたことを否定し、彼女たちは単に高給の売春婦だったと主張している。彼らはまた、女性たちは仲介業者によって雇用されたので、彼女たちの処遇について日本の軍も政府もいかなる責任も負わないと主張する。この問題は何度となく日本と韓国・中国の関係に緊張をもたらした。

論争となっている靖国神社に安倍氏を含む日本の政治家たちが参拝することも、諸隣国との関係に影響を及ぼしている。靖国には日本の戦死者だけでなく有罪となった「A級」戦犯14人も祀られている。


責任逃れ


このため、ロンドン大学東洋アフリカ研究所上級講師で日本政治を研究するクリスティン・スラク氏は、誰もが安倍氏に謝罪の発表を期待していたわけでないと論じる。「これまでの一般向け声明の大部分で、安倍氏は直接的な謝罪の言葉を述べるのではなく、むしろ、これまでの謝罪に言及することで責任逃れをしてきた」と、スラク氏はDWに語った。

例えば、4月に米国連邦議会の合同会議に向けた画期的な演説で、安倍氏は日本の行為がアジアの他の地域の人々に「苦痛をもたらした」ことを認めたが、それは明確な謝罪の表明とは程遠いものに止まった。

さらに、アナリストのスラク氏の指摘では、安倍氏−臆面なき国家主義者との評価がある−は、日本会議を構成する超国家主義者たちに助言を行っている。同会議は修正主義色の強い綱領を有しており、例えば、南京大虐殺についての標準的な説明は大いに誇張されているか捏造されていると強く主張している。


軍の役割の拡大


首相の声明は彼がより強硬な防衛政策を推し進めている時に発表された。一般国民の不満は増しているが、首相−彼の支持率は40%に下落した−は、この東アジア国家の自衛隊(SDF)の役割の拡大を狙って、日本の安全保障政策の見直しと米国が1947年に起草した平和憲法の解釈変更を模索している。

安倍氏は、米国など同盟国との軍事協力深化が妨げられてきたのは、武力軍に課せられた憲法上の制約のためだと考えている。、また、安倍氏は自身の政策目標を正当化するために、中国による海外への海上進出や、両国が主権を主張している東シナ海の尖閣/釣魚諸島をめぐる最近の緊張を指摘している。

結果として、日本の国会の衆議院は安保法案を通過させた。これにより日本は第2次世界大戦以来初めて、武力軍が攻撃を受けた場合に同盟諸国とともに戦闘を行う可能性が表れた。

そのため後藤氏は、安倍氏の演説は最終的に2種類の目的があるとの見方をしている。「まず、現行憲法の解釈変更と集団的自衛権の推進に向けた安倍氏の取り組みにうんざりしている日本の有権者の懸念に対処すること。そして、歴史について悲しみを語りかけることで韓国・中国との関係を改善すること。」


米国の圧力


しかし、米国やフィリピン・ベトナムなどの東南アジア諸国が日本の防衛法制見直しの決定を歓迎している一方で、中国・韓国は日本の防衛政策を見直す安倍氏の企てについて非常に批判的姿勢を崩していない。

このため、慎重に組み立てられた安倍氏の金曜日の演説の背景にある重要な要因は米国の圧力かも知れないと、アナリストたちは考えている。「日本の軍備拡大に伴う地域の緊張を食い止めることに、米国は非常に強い関心を持っている。この拡大は米国が支援しているものだが、同時に地域内の緊張の高まりも助長しており、米国はこれを消散させたいと考えている」と、スラク氏は語った。

テンプル大のブラウン氏も同様の見方だ。安倍氏が望むことをどれだけやりたいように行っても、おそらくいかなる声明も出来上がらなかっただろうと、彼は付け加えた。「米国政府は、歴史をめぐる緊張を北東アジアにおける不安定の原因と見なしており、地域の主要2同盟国の間で安全保障上のより緊密な関係が展開可能となるよう、日韓両国間の歴史問題が速やかに克服されることを願っている」と、この専門家は語った。


安倍氏は、米国など各同盟国との防衛協力を深化するために、より強硬な防衛政策を推進している


和解の取り組みが必要


日本国内で頻繁に聞かれる不満の1つは、中国・韓国が十分に満足できる謝罪を日本の指導者ができなかったことだ。

そして、こうした歴史問題の解決に実際には関心を持たないグループが日本・諸隣国双方の側にいるため、安倍氏の声明によって東アジアの歴史をめぐる緊張に決着がつく可能性があるという主張は、あるにしてもごく僅かだ。

こうした状況を考えると、特に、地域において国家主義的主張がもっと難しい政治的論争から一般国民の目を逸らすための道具となってきたため、戦時中の過去をめぐる論争はこれからも続きそうだ。アナリストのスラク氏は指摘する。「この地域では、植民地支配と戦争に関する歴史の記憶は冷戦終結以降に前面に上ってきた。これが政治的問題となった経緯を考えると、このような問題を解決するためには全ての側からの和解の取り組みが必要だろう。」



この話題の音声・動画

日本首相:歴史とは過酷なものだ



発表 2015年8月14日
記者 Gabriel Domínguez
関連テーマ 第2次世界大戦アジア中華人民共和国
キーワード アジア日本安倍晋三中国韓国第2次世界大戦




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(Opinion: Time goes by, but not guilt: DW English)
http://www.dw.com/en/opinion-time-goes-by-but-not-guilt/a-18650116


日本


意見:時は過ぎゆくが、罪が過ぎゆくことはない


安倍晋三氏は日本の戦時中の侵略行為を認めたものの、和解の演説を行ったのではなかった。ただ、国家主義者の首相からそれを期待するのは無理だったと、DWのアレクサンダー・フロイントは語る。




第2次大戦終結70周年の節目となる声明で、国家主義者である安倍晋三・日本首相は結局、自国の戦時中の過去について重要な言葉をなんとか表明できた。彼は「深い悔悟」と「遺憾の意」を口に出し、日本軍がアジアの諸国民に「計り知れない損害と苦痛」を負わせたと認めた。

このようなキーワードやメッセージは安倍氏が伝えなければならないものだった。これは重要だった。安倍氏はもはや他の戦術でやり過ごすことができず、日本の歴史的な罪を告白しなければならなかった。しかし、現れたのは詐欺的なものだった。安倍氏の演説は偉大な和解の演説でなく、むしろ未来を志向した非常にプラグマティックなものだった。

微妙な問題をいくつか語るときの安倍氏は相変わらず極めて曖昧だった。日本軍によって性奴隷となるよう強要された数万人もの「慰安婦」に、彼は謝罪を表明しなかった。その代わり、安倍氏は一般的な言葉で、前線から遠く離れた数千人の女性の苦痛について話した。


被害者でもあり加害者でもある


たとえ日本の首相が純粋に諸隣国と平和で繁栄した関係を確立することに関心を持っていたとしても、真実とはこうした曖昧な公式の上に成り立つものでない。結果的に、韓国や中国は演説を快く受け入れなかった。

安倍氏の演説は期待に適うものでなかったかも知れないが、それが慎重に組み立てられたものであることは確かだ。演説では、それほど称賛できない欧米諸国の植民地政策を思い出させることで、日本の侵略行為が歴史的な背景の中に位置づけられた。


DWアジアのアレクサンダー・フロイント


それはあたかも、首相は諸隣国に「見よ、これを行ったのは日本だけじゃない。他の国々も同様な侵略的な政策を行ったのだ」と伝えたかったかのようだった。安倍氏は日本がもたらした「計り知れない損害と苦痛」について話をしたが、多数の日本国民の犠牲者にも言及し、日本がこれまで原子爆弾による唯一の被害を受けた国であることを世界に思い出させた。

日本は被害者だっただけでなく、加害者でもあった。安倍氏は、日本が第2次世界大戦の廃墟から立ち直る手助けをした、他の国々が提供した支援にも感謝した。「歴史の教訓を深く心に」留めながらも、この日本の指導者は日本を前に進め、例えば核拡散防止の闘いにおいて、地域大国としての主要な役割を果たしたいとの日本の願望を述べた。


逸した機会


しかし、この演説はまた日本の指導者の立ち位置について洞察を与えた。彼は過去が長い影を投げかけていることや、苦痛が忘れられなかったこと、これまでずっと存在していた疑義が今も存在することを知っている。そしてさらに、安倍氏は経済的・地政学的の両面で日本の力を維持していくと約束している。地域における中国の影響力増大に対抗する試みとして、安倍氏は米国との安全保障関係の強化を欲している。

しかしこのために、彼はまず日本経済を活性化しなければならない。そして彼はまた、日本国内で一般国民の不満が高まったとしても、米国が起草した日本の戦後平和憲法を見直さなければならないだろう。

安倍氏は歴史的な和解の機会を逸したが、実際これを達成するためには、現在の状況は非常に悪いことも認めなければならない。国家主義的傾向が強くなりつつあるのは日本だけでなく、中国・韓国でも同様だ。韓国では朴槿惠(Park Geun-hye)大統領がかつての占領者と自国との距離を明確に置こうと模索している。


歴史的責任


さらに北朝鮮の体制は、米国・日本が北朝鮮の主敵と見なす一種の極端な国家主義を維持しなければ存続が不可能だ。中国政府が尖閣/釣魚諸島をめぐる日本との紛争で攻撃的な姿勢を強めていることから見えるように、国家主義は中国でも台頭している。

中国の経済が低迷に向けた道を歩み続ける限り、中国政府は国家主義的感情をかき立てる可能性すらある。結局のところ、現在に至るまで中国の政治的指導権は経済成長と国家主義の結合によって正当化されている。これを背景に、外国との問題で格闘する努力を見せることで、中国の指導者は重要な国内問題を棚上げにすることも可能だ。

それでもなお、日本が歴史的責任を背負っていることを考えるとき、まず日本政府が和解と信頼再構築に向けた一歩を踏み出さなければならない。不幸にも、日本は価値ある時間をさらにまた無駄にしてしまった。和解は傷を癒す手助けにはなるが、その傷跡は残るだろう。時は過ぎゆくかも知れないが、罪が過ぎゆくことはないのだ。



発表 2015年8月14日
記者 Alexander Freund
関連テーマ アジア中華人民共和国
キーワード アジア日本東京安倍晋三中国北京




−参考−

Kommentar: Zeit vergeht - Schuld nicht! (Deutsche Welle)−記事の独文原稿



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(Les excuses de Shinzo Abe pour la guerre d’agression japonaise en Asie: RFI)
http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20150814-excuses-shinzo-abe-guerre-agression-japonaise-asie


日本安倍晋三中国韓国


発表 2015年8月14日・更新 2015年8月14日18:59



日本のアジア侵略戦争についての安倍晋三氏の謝罪


記者 RFI


安倍晋三首相は、日本がアジア侵略戦争中に諸隣国に負わせた苦痛について謝罪を示した
REUTERS/Toru Hanai



安倍晋三・日本首相は第2次世界大戦終結70周年の機会に特別な声明を発表した。彼は最終稿に政府の同意を得て、日本のアジア侵略戦争に「謝罪」「悔悟」という言葉を入れた。悪と見なされている軍国主義の過去のために、日本と中国・韓国などの隣国との関係は悪化したままだ。


報告 RFI東京特約記者、フレデリック・シャルル


安倍晋三氏は戦争中に諸隣国に背負わせた苦痛について、悔悟の念をかなり踏み込んで表明した。これは彼の本質に反する。2013年の日本の敗戦記念日に安倍氏は伝統を断ち切り、日本の侵略戦争についてのいかなるお詫びも表明しなかった。

安倍晋三氏は声明を準備するために特別な委員会を設置した。いつか米国は日本の軍国主義の過去をきれいに清算するよう強く促していた。アンゲラ・メルケル氏は東京訪問の際に、ドイツがそうしたように日本も過去に立ち向かうよう安倍晋三氏に求めた。


謝罪外交の終わり


安倍晋三氏は誹謗者たちから国家主義者・修正主義者と言われているが、彼は今回その評価を巧みに利用した。彼は、中国が彼の深い悔悟の念という表現を評価することを期待しつつも、日本が戦争終結以降行ってきた謝罪外交は今回の声明で終わりにすると告知した。

安倍晋三氏はまた、日本を彼の言う「強く誇りある国にするために」平和憲法を見直すことに意欲的な、彼の国家主義を全く評価していない日本国民の大多数の期待にも応えた。



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(Sputnik日本)
http://jp.sputniknews.com/japan/20150817/761227.html


パノフ元駐日大使:安倍首相の戦後70年談話、個人的に感動した


© REUTERS/ Yuya Shino


日本


2015年08月17日 23:48


アンドレイ イワノフ


今日、一部日本メディアが、ある種の誇らしい調子をもって、アキヒト天皇の戦後70年談話で史上はじめて戦争に対する「深い反省」という言葉が使われたことを報じた。安倍首相も同じようなことを述べた。しかし、ロシアの著名な東洋学者で元駐日大使のアレクサンドル・パノフ氏は、これは真の反省ではない、と語る。


「私の見たところでは、二つの談話は全く異なるものだ。なぜなら天皇は、もしその談話を注意深く読んだなら、直接には近隣諸国に対する謝罪を述べてはいないからだ。彼は基本的に日本国民に対して詫びている。一方安倍首相の談話は、個人的にこれは秀逸なものだと思う。何しろ、いかようにも解釈できる代物になっているから。

ある意味、この談話にはありとあらゆるものがある。字句としては、「侵略」も「傷つけられた女性たち」も「謝罪」も、日本がこれまで度々謝ってきたという事実確認もある。半面、日本の侵略や植民統治の明確な認定、それらに対する謝罪は談話にはない。興味深いことに、安倍談話は、露日戦争は独立を求めて戦うアジア諸国の民衆を鼓舞した、との歴史的パッセージから始まっている。しかし、それこそ露日戦争の後で、日本は朝鮮併合を行い、少し遅れて中国侵略を始めたのだ。それなのにそうしたことは安倍談話には記されていない。あるのはただ、「事変」「侵略」「戦争」という個別の言葉のみだ。誰が誰に対して戦争したのか?それが分からない。たとえば満州事変や1937年の対中侵略といった歴史的事象への現実的な評価がない。日本が国際連盟を脱会して戦争を余儀なくされたとは書いてある。アンビバレントな談話だ。終わりのほうでは、この談話で日本の責任をめぐる問題は終止符を打たれ、新しい世代の日本人はもうこれについて悩まなくてよい、と語られる。我々が誤ったから、来たる世代はこんな不愉快な出来事は忘れてよい、というわけだ。従軍慰安婦については言及がない。女性一般の苦しみが語られたまでだ。で、その責任は誰にあるのか?誰とはなんだ。戦争そのものだ。

安倍談話は日本国内でも批判されている。立場が明確に記されていない、侵略や植民統治への謝罪がない、というのである。安倍談話は二重の感情を呼ぶ。一方で、安倍内閣は、お望みの文言は全て盛り込みましたよと主張することが出来る。他方、この談話が学校で生徒らに教えられるようになったとき、これはいかようにも解釈され得る。ある意味では、中国・韓国をはじめとする近隣諸国の意見が取り入れられている。しかし、その中国は、早くも談話を批判している。談話は玉虫色だとして、相当厳しい批判を加えている。台湾もかなり激しく批判した。アジアの民衆に対する日本の罪という問題はまだ終結していないのである。

米国を含め、安倍氏が近隣諸国の気運を考慮せざるを得なかったことは明らかだ。しかし他面、彼は、米議会が「歴史修正主義」と規定した安倍哲学をも反映させた。さらに、周知のように戦争や植民地支配の罪を一切認めようとしない保守派の主張も考慮した。加えて、国内で高まりつつあるナショナリズムの空気も安倍談話には影響した。

安倍談話がどのようなものになるべきかをめぐっては、かなり激しい折衝があった。草案作成にあたった歴史家の多くが、侵略や慰安婦について明確な言及がなされ、明確な謝罪が述べられるよう求めた。しかしそれは全く聞き入れられなかった。安倍談話は曖昧な、人を迷わせるような言葉を含んでおり、歴史的な理解を歪曲するものだ。

しかし、保守政治家としての安倍氏の政治的談話としては、これは感動しないではいられない。

安倍首相は北京訪問を予定しているというが、もし中国に行くとしても、式典そのものには出席せず、おそらく翌日だろう。あるいはそこで謝罪の言葉が出るかもしれない。しかし確実に言えるのは、そのときでも彼の言葉は今回の談話を踏襲したものになる、ということだ」

このような談話で日本とかつて日本の植民地支配および軍国主義に苦しめられた諸隣国の関係が劇的に改善することなど期待してはならない。


タグ 第二次世界大戦, 歴史, 安倍晋三, 日本



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(イランラジオ日本語)
http://japanese.irib.ir/news/%E6%9C%AC%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF/item/57186-%E6%88%A6%E5%BE%8C%EF%BC%97%EF%BC%90%E5%B9%B4%E8%AB%87%E8%A9%B1%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E8%BF%91%E9%9A%A3%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%8F%8D%E5%BF%9C



2015/08/15(土曜) 20:23


戦後70年談話に対する近隣諸国の反応(音声)




ホセイニー解説員


日本の安倍総理大臣が戦後70年に際して発表した談話は、中国や韓国、台湾、北朝鮮などの近隣諸国の首脳の怒りを引き起こしました。安倍首相は14日金曜、この談話の中で、朝鮮半島の植民地化、第2次世界大戦における行動については悔悟の念を表明しましたが、戦争犯罪を理由とした明確な謝罪については、行いませんでした。


14日、安倍首相の戦後70年談話に、注目が寄せられていました。地域諸国は安倍首相に対して、この談話で、過去の軍事的な行動に対する悔悟を表明し、改めて日本が平和を守ることを宣言するよう要請しました。しかし中国と南北朝鮮、台湾からの安倍首相の談話に対する抗議は、彼らの期待がかなえられなかったことを示しています。

中国の張業遂外務次官は中国駐在の木寺日本大使と北京で会談する中で、安倍談話を批判するとともに、「旧日本軍は第2次世界大戦で中国などのアジア諸国の人々に多くの苦痛を強いた」と語りました。張外務次官はまた、この犯罪の悪影響を軽減することができるのは、まさに謝罪と行動のみだとしました。

中国外務省の華春瑩報道官も、記者団とのインタビューで、「日本が戦争犯罪に関して謝罪していないことは、両国関係の根本に大変大きな影響を及ぼしている」と語りました。 韓国の与党セヌリ党も、安倍首相は第2次世界大戦中の悔悟と謝罪を表明するために、もっとよい形で行動できたはずだと表明しました。

韓国のユンビョンセ外務大臣は、14日、日本の岸田外務大臣と電話会談を行う中で、日本政府に対して、植民地支配の過去を償うため、誠意ある行動をとるよう求めました。

台湾総統府の報道官も、日本政府に対して、第二次世界大戦時の侵略行為について調査を行い、歴史から教訓を得るよう求めました。この報道官はまた、歴史上の過ちは忘れることができるかもしれないが、歴史的な真実は忘れることはできないと述べました。

北朝鮮の外務省報道官も、15日土曜、声明の中で、「安倍首相は戦後70年談話で日本の過去の戦争犯罪の責任、とりわけ朝鮮半島の人々が受けた苦しみの責任を受け入れ、これに関して謝罪を行うべきだった」と強調しました。

日本の近隣諸国、特に朝鮮半島の植民地時代と戦時中にもっとも大きな被害を受けた中国と韓国は安倍首相にこの談話で謝罪を行うよう求めていました。

安倍首相は14日、この談話で、日本が朝鮮半島併合時代と第2次世界大戦中に行ってきたことについては、悔悟の念を表明しましたが、日本の犯罪を理由とした謝罪については控えました。

また、日本は戦時中、罪のない多くの人々に苦しみを与え、歴史は変える事ができないと語りました。一方で、未来の世代に謝罪を引き継がせるべきではないとしています。 安倍首相は、2012年首相に就任してから、歴史問題に対する態度により、韓国や中国の怒りを引き起こしています。



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(投稿者より)

ドイチェヴェレ(英語)・RFI・スプートニク・イランラジオの各サイトに掲載された記事です。翻訳には間違いがあるかも知れません。ご容赦ください。

首相としての村山氏の評価は分かれていました。阪神大震災の対応の拙さを批判され、それが元で退陣したと記憶していますが、私は嫌いではありませんでした。水俣病患者救済のために努力なさった方です。経済成長の影の部分から目を逸らし続けてきた自民党政権が、村山氏と組むことで初めて市民や生活者に目を向けるようになったと思います。1995年の談話も村山氏だからできたことでしょう。村山氏と組めたことは自民党にも幸いだったと思っています。

"Many conservatives in Japan still deny that the women were kidnapped and insist that they were merely well-paid prostitutes. They also claim that the women were employed by brokers, so the military and the Japanese government bear no responsibility for their treatment. "「多くの日本の保守派はいまなお女性たちが誘拐されたことを否定し、彼女たちは単に高給の売春婦だったと主張している。彼らはまた、女性たちは仲介業者によって雇用されたので、彼女たちの処遇について日本の軍も政府もいかなる責任も負わないと主張する。」

当時、朝鮮は日本帝国領内の一地域で、朝鮮では内地と同じ制度が適用されました。韓国人慰安婦と日本人慰安婦が、同じ日本国民で同じ制度の下で徴募を受け同じ仕事をしていた以上、当事者の方々にはお気の毒ですが、私も上述以上のことを申し上げることはできません。誘拐など個別の事件には個別の調査・対応が必要ですが、その方が韓国人であって日本人でなかったことが問題だったのなら、その件は1960年の条約によって全て終わっています。勿論、占領地では事情が異なり、拉致事件も実際にありましたので、全てを同列に並べることはできません。

ただ、請求権の問題が終わっても記憶の問題は残っているという観点から、「人類にとって普遍的な人権という価値において、当時の女性が侵害を受けるのを当時の日本政府が故意に放置した」という文脈で落とし所を見つけようとしているのが、現在の流れと理解しています。その価値が真に普遍的なものなら、「あの時は事情が違った」という反論は成立しません。普遍的な基準に基づいて全ての当事者が受け入れ可能な線が示せるならば、この問題は解決可能かも知れません。またその時は、謝罪の範囲が日本人慰安婦にも公平に及ぶかも知れません。

"utmost grief" 「断腸の思い」、私は自分の腸管を実際に切断した経験がないので英語表現が適切かどうかについて安易なことは言えないのですが、ここは安倍氏のテキストからそのまま使いました。それでも、「この国家主義者の首相は第2次世界大戦中の日本の行為について前任者たちがとった過去の謝罪は維持したが、彼自身が1人の人間として「心からの謝罪」を表明することには再び失敗した。」"despite upholding past apologies from his predecessors for the country's actions in World War II, the nationalist premier failed again to issue a personal "heartfelt apology.""との記事の見方は非常に厳しいです。

ところで、満州事変は板垣征四郎氏と石原莞爾氏が関東軍参謀だったときに起こしたものでした。2人とも日蓮主義者で、立正安国の見地から将来の絶対平和に至る過程としての最終戦争が不可避なものと考え、その最終戦争は日米対決という形になるだろうと予想し、その備えとしてアジアが結束して米国の帝国主義に立ち向かうために、日鮮漢満蒙の五族協和の雛型をその地に作ろうと考えたのでした。

ただ、建国の時点で満州には既に2千万人以上の中国人が生活していました。清朝政府は1860年に漢族の満州移住を正式に認め、1907年には当地に黒竜江・吉林・遼寧の3省を置いています。民政のトップとして各省に巡撫(知事のことです)が置かれ、軍事など特別な問題について3省を管轄する総督が別に置かれました。これは清朝の他の直轄領、すなわち、中国本土と同じです。辛亥革命により張作霖の軍閥が満州を支配しましたが、軍閥支配というのは中国の他地域も同様で、特別なことはありませんでした。その軍閥支配の中国に列強諸国は清朝時代からの権益を維持し、中国経済を食い物にしていました。日本もその1国です。

事変の後、満州や中国を具に見て回ったリットン卿の調査団は、満州は中国領であり満州国の存在は容認できないが、日本は満州の現状に多大な貢献をしておりその地位と権益は最大限に尊重されるべきだとの報告書を出しています。報告書は日本の立場に十分に配慮したものでしたが、それでも日本は拒否しました。「満州国の存在は容認できない」の一点に感情的に反応したのです。

それ以前の問題として、中国国内には民衆レベルの反日感情がずっと存在していました。第1次大戦では、カイザーは「青島が日本の手に落ちることはベルリンがロシアの手に落ちるより恥ずかしいことだ」とまで言い、青島の防衛を最重視したそうですが、その青島を陥落させてドイツ帝国の勢力をアジア太平洋地域から追い出した日本は、戦後のヴェルサイユ会議では人種差別撤廃を訴えながらも、ドイツが中国に遺した権益は日本が当然引き継ぐべきものと考え、あたかも中国を属国として見下すかのような21ヶ条の要求を突きつけ、中国全土に反日運動の火種を撒いたのでした。それがロシアに打ち勝ち「有色人種の希望」と崇められたはずの日本が実際に行ったことでした。

孫文もガンディーも「日本はアジアの国として生きるのか、列強の一角として生きるのか、立場を鮮明にせよ」という主旨の厳しい日本批判を行っていました。大東亜共栄圏と言えば勇ましい印象を受けますが、つまりは、列強に対してはアジアの旗手を自称しながら、アジア諸国に対しては主人面をしたかったという、それだけのことだったのかも知れません。

国内を見ても、形の上では天皇主権でしたが、内地に住所(本籍地ではありません)を持つ男子限定とはいえ当時の日本国民は1人1票を持っていました。民選議院である衆議院も存在していましたので、世論の力で軍の暴走を抑え海外への膨張を止めようと思えばできたはずです。第1次世界大戦後の世界的な軍縮の流れの中で国民は軍と軍人を軽蔑するようになっていましたが、世界恐慌が始まり国内が経済的に困窮し始めると、国民の世論は海外膨張支持、さらには、戦争支持に転じました。最終的に、日本は310万人の生命と全ての海外領土を失いましたが、それは国民が望んで始めた戦争の結果です。

安倍氏の談話を読んだとき、良く作られていると思いました。近代以降の歴史を概観し、植民地支配についての私たちの非を認め、戦時中に行った行為について自己批判と謝罪を行い、その反省の上に歩んだ平和のための戦後70年の軌跡を述べ、その道を今後も歩み続けると誓いました。必要なキーワードも十分に押さえています。具体的な政策についてのテクニカルな演説ならばそれでも良かったのでしょう。

しかし、村山氏の談話と違い、安倍氏の談話は人々の心に届くものではありませんでした。一読するとどこか言い訳がましさを感じます。安倍氏の表現が間接的なのはいつものことですが、そのいつもの遠回しな文体から、痛いところには触れずに上手く通りたいという意識が透けて見えました。

確かに、ある特定の行為について謝罪を繰り返すことには、記憶が薄れないようにするという意味がある一方で、ある当事者が悪意を持って相手を支配する目的で、何らかの手段を用いてその相手に罪悪感を常に抱かせるという心理戦の手法も現実の社会には存在しますので、「後の世代が謝罪を続けることのないようにしたい」との安倍氏の考えに一定の合理性があるのは確かです。ただ、その場合でも私たちの真実の反省の思いを今後も何らかの形で相手に伝える必要はあるでしょう。

安倍氏が述べたように、維新以降の近代化の歩みの中で私たちは間違いを犯しています。ならば、何をどう間違えたのか、なぜそれを間違えたのか、どうすればその間違いは防げたのか、自分たちの頭でもっと検討した跡があっても良かったと思いました。

ドイツが何を間違えたかについて、ナポレオンの占領を経て統一の遅れから英仏に遅れをとり、ヴェルサイユ体制のために国内の産業基盤を徹底的に打ち壊され、さらに、大インフレと世界恐慌によって経済的困難から絶望を深めたドイツ国民がヒトラーを待望するようになった意識を分析した本を、私は学生時代に読んだ記憶があります。要は、安倍氏が談話で称賛したヴェルサイユ体制に隠された「ドイツを2度と立ち上がれないようにする」という思想に、第2次世界大戦の種が仕込まれていたようです。

ヒトラーはドイツ国民の期待を背負って支配者となりました。勿論、ヒトラーの極端な思想や手法を警戒し批判するドイツ国民も数多くいましたが、そういった人々の口を様々な形で塞ぎながらヒトラーは権力基盤をさらに固めていきました。そして、1939年のポーランド侵攻へとなだれ込んだのですが、ドイツではそういった史実についての評価が国民の間でコンセンサスとして出来上がっているようです。本に何が書かれてあったかは殆ど忘れましたが、日本も反省なり総括なりをやるなら徹底してやるべきです。

終戦後、軍事法廷の活動の一部として連合国の調査団が石原氏を訪ねて酒田まで来ました。石原氏を戦犯指定するかどうかの尋問です。その後石原氏は対中・対英米の戦争に反対し、東条氏とも対立したために陸軍では干された形になっていましたが、氏は自身の考えを考え通りに述べた上で、一連の戦争のそもそもの発端はペリー提督が日本の鎖国をこじ開けたことにあるので提督を証人として連れて来い、と言ったそうです。

石原氏は指定を免れました。石原氏を引き出せば裁判自体が成り立たなくなるとの判断があったようです。思想家で一時期日本に逃れたインド独立活動家をかくまった大川周明氏も病気を口実に免訴になっています。一方、板垣氏はその後も東条氏を補佐するなどして戦争を最後まで指導し、裁判を受け絞首刑となっています。

日本が開国から敗戦までの90年間に何をどう間違えたのか、そして、それを2度と繰り返さないために、戦後70年間に相当な努力をしてきたのも事実ですので、日本は何をやってきたのか、そして、今後何をしていくのかが明確に示されれば反省の演説としてはもっと良かったのかも知れません。次は75年目、4分の3世紀の節目です。今から準備を始めても良いかも知れません。

記事もコメントも長くなりましたが、コメントは満州事変以降の戦争の時代について、記事を読みながら現在の時点で考えたことをまとめてみようと思いました。最後までおつき合いいただき、有り難うございました。



 

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コメント
 
1. 2015年8月28日 12:38:53 : OO6Zlan35k
 
橘玲の世界投資見聞録
2015年8月27日 橘玲
ボスニア・ヘルツェゴビナ、「スレブレニツァ虐殺」から
20年の今、教訓にすべきこととは?
[橘玲の世界投資見聞録]
 1995年7月11日、ボスニア・ヘルツェゴビナの街スレブレニツァをセルビア系の武装勢力が制圧し、その後の数日でボスニア人の男性7000人が殺害された。ボスニア紛争の残虐さを象徴するこの事件は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷と国際司法裁判所(ICJ)によってジェノサイド(集団虐殺)と認定されている。

 今年はこの「スレブレニツァ虐殺」から20年で、7月11日、和平にかかわった米国のクリントン元大統領や各国代表、遺族ら数千人が集まって現地で追悼集会が開かれた。この集会には、和解のためにセルビアのブチッチ首相も参加したが、墓地参拝に加わろうとしたところ、「出て行け」などと叫ぶボスニア人の集団が投石し、石が顔に当たって眼鏡が割れる騒ぎが起きた。

 ブチッチ首相は帰国後、「セルビアとボスニアの間に友情を築こうとした私の意図が、一部の人々に伝わらなかったことを残念に思う」と述べた。

 ブチッチ首相が追悼集会に出席するという「歴史的決断」をしたのは、「謝罪」がセルビアのEU加盟の条件とされているからだ。ボスニア人がブチッチ首相の出席を受け入れたのは、同様に「寛容(許し)」がEU加盟の条件になっているからだろう。国際社会から強い圧力をかけられていても、歴史問題における「和解」はこれほどまでに難しい。

 もっとも、ほとんどのひとはスレブレニツァのことなど知らないだろう。私も同じで、この事件に興味を持ったのはボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボにある「1995年7月11日記念館」を訪れたからだ。


サラエボの「1995年7月11日記念館」       (Photo:©Alt Invest Com)

 この記念館は、スレブレニツァ虐殺の被害者の写真や遺族の証言を集め、二度とこのような悲劇を起こさないよう、後世に虐殺の記憶を残すためのものだ。壁一面を埋め尽くす殺害された男性たちの写真には圧倒されるものがあり、夫や息子を奪われた女性たちの証言は胸を打つ。

 いったいなぜ、こんなに悲劇が起きたのだろう。

ボスニア人は、誕生してまだ20年の若い“民族”

 旧ユーゴスラビア解体にともなって1992年に勃発したボスニア内戦は、ボスニア・ヘルツェゴビナ地域に住むセルビア人、クロアチア人、ボスニア人の民族紛争だとされる。

 ボスニア人は旧ユーゴスラビアのイスラム教徒で、ボシャニャク人とも呼ばれている。だがこのボスニア人は、旧ユーゴの時代は「民族」ではなかった。彼らは「ムスリム(イスラム教徒)のユーゴスラビア人」で、同様にセルビア人はセルビア正教徒、クロアチア人はカトリック教徒のユーゴスラビア人だった。南スラブ系の同じ人種に属し、同じ言葉を話し、同じ生活習慣を持ち、同じ教育を受け、同じような考え方をする彼らを分かつものはただ、宗教のちがいだけだった。

 冷戦終了後、セルビアとクロアチアで民族感情が高まると、両者はボスニアのムスリムを自らの陣営に加えようと画策し、あるいは弾圧した。これによって、これまで自分たちのことを「民族」と考えたことのなかったムスリムのあいだに、「想像の共同体」としての民族意識が生まれ、「ボスニア人」がつくられていく。彼らは、生まれてからまだ20年しかたたない若い“民族”なのだ。

 旧ユーゴスラビア時代のボスニア・ヘルツェゴビナでは、異なる宗教のひとびとが何のわだかまりもなく平和に暮らしていた。それを破壊したのは、セルビアとクロアチアの極右勢力だ。彼らは自らの利権を拡大するためにナショナリズムを煽り、それに反対する者は容赦なく粛清した。

 ボスニア内のセルビア系(クロアチア系)の町や村にセルビア(クロアチア)の極右が入り込むと、真っ先に殺されたのは平和を望む穏健なセルビア人(クロアチア人)の指導者で、同じ民族の反対派を一掃してからボスニア人など少数民族を追い出していった。

 ボスニア内戦の実態は地域ごとに異なっていて、ある村ではセルビア人とクロアチア人が凄惨な殺し合いをし、別の村ではセルビアの民兵とクロアチアの武装勢力が仲良くサッカーに興じる光景があった。このちがいを生み出したもっとも大きな要因は、多数派と少数派の比率だ。


サラエボオリンピック(1984年)の聖火      (Photo:©Alt Invest Com)

 一般的な想像とは逆に、多数派が圧倒的な場合、少数派への民族浄化はほとんど起こらなかった。多数派は自分たちの権益が侵されないことを知っているのだから、少数派を弾圧してわざわざ面倒を起こす理由はなかったのだ(少数派も反抗はムダだとわかっていたから、差別に耐えるしかなかった)。

 それに対して両者の比率が拮抗していたり、三者の関係が不安定だったりすると、ひとびとはいつ何時、自分たちが少数派に追いやられるかもしれないという恐怖を抱くようになる。極右勢力はこの不安につけ込み、そうなれば家も土地も奪われ、すべての財産を失うと脅した。ひとびとがこの宣伝(プロパガンダ)を信じたのは、自分たちの同胞が実際にそのような目にあっており、あるいは少数派を“浄化”していることを知っていたからだ。

 このようにして、「自分や家族を守るためには“奴ら”を殺すしかない」という論理が広がっていく。

 この「恐怖と暴力のウィルス」は、なぜこれほどまでに急速に広まっていったのだろうか。それは、「セルビア人」「クロアチア人」「ボスニア人」が、宗教を除けばまったく同じだったからだ。“奴ら”が“俺たち”と同じことを考えているとわかっているからこそ、先に“奴ら”を殺さなければならないのだ。

スレブレニツァの虐殺の引き金とは?

 3つの“民族”が混住するボスニアでは、ある民族の住む地域に別の民族の「飛び地」がいくつもあった。こうした飛び地が、真っ先に民族浄化の標的になったことはいうまでもない。スレブレニツァも、セルビア人地域にあるボスニア人の主要な飛び地だった。

 しかしこれだけでは、スレブレニツァの凄惨な虐殺の説明にはならない。事件の起きた1995年はボスニア内戦の末期で、EUだけでなく米国や国連も紛争の収拾に乗り出しており、スレブレニツァには国連(オランダ軍)の平和維持軍まで派遣されていた。このような「衆人監視」のなかで、国際社会から激しい非難を浴びることが確実なジェノサイドなどふつうは起こりえない。

 だったら何が暴力の引き金を引いたのか? このような疑問からスレブレニツァ虐殺の経緯を調べたのが、東欧史、比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民俗化』(有志舎)だ。

 佐原氏は、ジェノサイドに至る前段階として、「ボスニア人の残虐行為」を指摘する。

 スレブレニツァ地区には、旧ユーゴの警察特殊部隊出身のナセル・オリッチに率いられた強力なボスニア人武装勢力があり、1992年4月の内戦勃発後4カ月でスレブレニツァの95%と隣接するブラトゥナツの50%を支配した。オリッチ配下の政府軍が尖兵となってセルビア人の村に突入し防衛体制を崩すと、市民兵が加わって住民の追放と略奪を展開し、建物に放火して支配地域を広げていったのだ。


サラエボの街                  (Photo:©Alt Invest Com)


 佐原氏はその様子を次のように描写する。

「(ボスニア人の)作戦はセルビア人を追放することが目的であり、見せしめとして残虐な殺害方法が用いられた。犠牲者は喉を掻き切られ、干草用の三叉熊手で襲われたり、焼き殺されたりした。例えば、(1992年)6月21日に行なわれたラトコヴィッチ村襲撃事件では、少なくとも17人の農民が殺されたが、建物内部に閉じ込められて焼き殺されたり、殺害後に頭部を切断されたりなどの陰惨な方法で殺された。徹底的な破壊と略奪も一つの特徴であった。住民を追い出した後、ボスニア人は食料や家畜、武器・弾薬を奪い、その後、建物を放火あるいは爆破して廃墟に変えた。」

 セルビア側の主張では、この攻撃により1993年3月までに少なくとも1200人が殺され、2800〜3200人が負傷したとされ、内戦前に9390人いたセルビア人がわずか860人になるほど徹底した追放が行なわれた。こうした残虐行為がセルビア人の復讐心を煽ったのはいうまでもない。――誤解のないようにいっておくと、ここで「ボスニア人が残虐だ」ということをいいたいのではない。他の地域では、ボスニア人はセルビア人やクロアチア人の武装勢力によって同様の方法で“浄化”されていたのだから。

ボスニア人が武装解除に応じず、国連が抱いた不信

 形勢が変わったのは1993年になってからで、セルビア人のスルプスカ共和国軍が反撃に転じると、圧倒的な兵力の差に抗しきれず、ボスニア人はスレブレニツァを中心に半径20キロ圏内に押し込められてしまう。内戦前に3500人しかいなかったスレブレニツァ市内には8万人近くの難民が押し寄せ、人道的危機を重く見た国連はスレブレニツァを「安全地域」に指定し、国連部隊がボスニア人の武装解除と引き換えに安全を保障することになった。

 だが安保理決議がなされたにもかかわらず、現実にはボスニア人の武装解除は一向に進まなかった。セルビアの武装勢力に包囲されている状況のなかで、100人規模の国連部隊が駐屯しているからといって、彼らを信じて生命を預けるわけにはいかなかったのだ。その結果、国連が武装解除の任務完了を発表したにもかかわらず、ボスニア人側は使い物にならない一部の武器を自主的に引き渡しただけで、戦闘可能な武器はいっさい手放さなかった。

 スレブレニツァの「安全地帯」にはボスニア政府軍第28師団が駐屯し、地域防衛隊を合わせると4000人近い兵力が軽火器や持ち運び可能なミサイル類を多数保有していた。ボスニア人武装勢力は「安全地帯」から出撃し、セルビア人農村を襲撃し、あいかわらず略奪を繰り返していた。

 こうした状況で、国連の停戦監視部隊は深刻な矛盾に悩まされるようになる。

 彼らは当初、国際世論と同じく、ボスニア人を内戦の犠牲者と考えて彼らを保護するのが自分たちの任務だと思っていた。だが現実には、停戦協定に違反するのはほとんどがボスニア人武装勢力なのだ。

 1995年1月には、「安全地帯」南西部で起きた戦闘の調査中にオランダ軍部隊約100人がボスニア政府軍に拉致され、数日間勾留される事件まで起きた。こうした体験に遭遇するなかで、最初はボスニア住民に同情的だった国連軍部隊は、彼らに抜きがたい不信を抱くようになっていった。

 状況が混沌となりはじめると、当初、「ボスニア解体を目論むセルビア民族主義者が内戦を引き起こした」というステレオタイプで報じていた欧米のメディアは判断不能に陥り、欧米の指導者たちはそれ以上に狼狽した。「民族紛争」の構図が崩れると、内戦が収拾不能になると恐れたのだ。


高台からサラエボを望む。セルビア人部隊はここから街を砲撃した      (Photo:©Alt Invest Com)

 アメリカ政府はそれまでの傍観を改め、1993年末から積極的にボスニア内戦に介入する。クリントンの和平案はボスニアを二分割し、半分をセルビア人に、残り半分をボスニア・クロアチア人に与えるというもので、クロアチア人にボスニア人と同盟を組ませる代償として、自国内にあるセルビア人地域をクロアチアが“民族浄化”するのを黙認した。

 アメリカの介入によって、セルビア人武装勢力は徐々に劣勢になっていった。94年にNATOによる空爆と経済制裁が始まると、頼みの綱だったセルビア(新ユーゴ共和国)のミロシュヴィチ政権はボスニアのスルプスカ共和国と断交した。同年末にボスニア人・クロアチア人の共同作戦でセルビア人の拠点が陥落し、追い込まれたセルビア人側は95年1月から4カ月間の停戦を受け入れざるを得なかった。

 これがジェノサイドに至る背景で、セルビア人側は軍事的劣勢に立たされたからこそ、自らの地域内にあるボスニア人の飛び地を攻略しなければならないと考えたのだ。

セルビア人側が国連の監視所を攻撃したことがきっかけとなった

 1995年5月、薪を集めて帰る途中のセルビア人農民のトラックがボスニア人の武装ゲリラに襲撃され、5人が殺害される事件が発生した。6月にはマイクロバスが待ち伏せされ、民間人5人が殺されたのに続いて、セルビア人の村が襲撃され、応戦したセルビア人部隊に70名以上の犠牲者が出た。

 こうした事態に業を煮やしたセルビア人側は7月2日、ボスニア人ゲリラ封じ込めのために「安全地帯」南部にある国連の5つの監視所を攻撃した。これに対して現地のオランダ軍部隊は、セルビア人を威嚇する空爆を要請したが、6月の空爆で375人の国連要員がセルビア人に拉致され「人間の盾」に使われたことから国連軍司令部は爆撃機の出動を決断できなかった。オランダ軍はやむなく撤収し、一部は投降して捕虜になった。――この対応はのちに厳しい批判にさらされることになるが、佐原氏は、この時点で仮に空爆を行なったとしてもほとんど効果はなかっただろうとしている。

 国連軍やボスニア政府軍の抵抗がないことを知ったスルプスカ共和国の政治指導者ラドヴァン・カラジッチと軍事指導者ラトコ・ムラディッチは作戦を変更し、7月10日、一気にスレブレニツァを制圧した。

 セルビア人部隊の侵攻が始まって、スレブレニツァのボスニア人住民は大混乱に陥った。彼らが出した結論は、報復の標的になることが確実な成人男性を先に脱出させることだった。こうして11日深夜、前後を武装した兵士に固められた成人男子1万5000人の隊列が出発した。

 残された住民は近隣のポトチャリにあるオランダ軍基地を目指し、11日夕方までに2万5000人が避難した。避難民の大部分は女性と子どもと老人で、スルプスカ共和国軍の指導者ムラディッチはオランダ軍に対し、彼らの安全な移送を約束すると同時に、ボスニア軍の武装解除を迫った。この時点では、成人男子が脱出したことに気づいていなかったのだ。

 スルプスカ共和国軍は11日早朝から多数のバスを手配し、避難民の移送を開始したが、バスに乗ることを許されたのは女性と子ども、老人だけで、基地内に残っていた1000人を超える成人男子は別の収容所に移送された。このとき、国連軍の管理下にもかかわらず約50人が殺されたことから、オランダ軍部隊は国際社会から強い非難を浴びることになる(収容所に送られた成人男子の生存はほとんど確認されていない)。

 その後、セルビア人はスレブレニツァを脱出した隊列を血眼で捜し、12日早朝、先頭集団を発見して大規模な攻撃を行なった。1万5000人の隊列は寸断され、ひとびとはグループに分かれて山中に逃げ延びた。山狩りが始まると、捕虜になるのを恐れて銃や手榴弾で自決したり、錯乱して地雷原に飛び込み生命を落とすボスニア人も少なくなかった。


内戦で死亡したボスニア人の墓地       (Photo:©Alt Invest Com)

 捕虜となったボスニア人は近郊の収容所に送られたあと、13日午後から大量処刑が始まった。佐原氏はセルビア人兵士の証言から、その様子を次のように描いている。

「最初のバスに乗っていた(ボスニア人)捕虜の処刑が終わるころには、スピードアップのため機関銃を使おうという話になった。機関銃による処刑は凄惨を極めた。強力な弾の威力で捕虜たちの体がバラバラになったが、急所を外れるので捕虜たちはのたうち回り、止めをさしてくれと訴えたのである。(中略)こうした極限状況では兵士ですら平常心を保つことは不可能で、処刑が始まると同時にアルコールが配られ、酩酊状態で任務をこなしていった」

セルビア人のムラディッチはなぜジェノサイドを命じたのか?

 ボスニア内戦では数々の残虐行為が行なわれたが、ほとんどは民兵によるもので、正規軍が指揮官による命令で虐殺を行なったのはスレブレニツァだけだ。

 セルビア人の軍事指導者ムラディッチはなぜジェノサイドを命じたのだろうか?

 従来の解釈は、ボスニア人武装ゲリラの残虐行為に対する報復、というものだ。スレブレニツァの成人男子が決死の脱出を試みたように、ボスニア人側も、セルビア人の捕虜になれば殺されることがわかっていた。それほどまでに両者の憎悪は高まっていたのだ。

 だが佐原氏は、この復讐説には無理があるという。ムラディッチは旧ユーゴスラビアの士官学校をトップの成績で卒業した生粋の軍人で、合理的・戦略的な思考を徹底的に叩き込まれていた。自分たちの行動が国際社会からどう見られるかもわかっており、スレブレニツァと同じボスニア人の飛び地であるジェパでは、1000〜2000人のボスニア人兵士がいたものの、戦闘体制の解除だけで市民の帰還を許可し、自発的投降を拒否して森の中に身を隠した兵士の掃討作戦も行なわなかった。セルビア人側の目的が報復であれば、こうした鷹揚な行動が説明できない。

 スレブレニツァとジェパとの違いは、ボスニア人兵士の数ではないかと佐原氏は推測している。

 ボスニア政府軍を中核とする1万5000人の“部隊”はセルビア人にとってじゅうぶんな脅威だった。ムラディッチとしては、スレブレニツァを脱出した部隊が他のボスニア人グループと合流して反撃に転じることをなんとしても阻止しなければならなかった。

 だがそうなると、ボスニア人の隊列を発見・壊滅させて大量の兵士を捕獲した時点でこの不安は解消したことになる。それなら捕虜を収容所に移送したうえで、一部の戦争犯罪人だけを処罰し、あとは交渉のカードに残しておけばいい(事実、これまではそうしてきた)。

 だがここで、新たな問題が起きる。捕獲した兵士の数があまりにも多すぎるのだ。

 スルプスカ共和国内にはこれだけの捕虜を収容する場所はなく、食料や水の手配も難しい。だからといって捕虜を劣悪な環境に放置すれば、国際社会から非難の的になるのは目に見えている。そんな捕虜を交渉カードにしても欧米諸国が譲歩する可能性はなく、かえって軍事的・経済的な圧力を強めるだろう。

 だったら、ボスニア人兵士が戦闘で死亡したことにすればいいのではないか……。

 このときムラディッチにとって、ジェノサイドこそが唯一残された「合理的戦略」だった。

 7000人の捕虜を皆殺しにする命令は狂気にちがいない。だがその狂気は、理性の破綻ではなく、合理性の追求によってもたらされたのだ。

 ジェノサイドの考察を、佐原氏は次のように締めくくっている。

「スレブレニツァ事件は(一方の勢力を)極端な国際的孤立に追い込んだ場合、「国際社会」は対象に対する抑止力を失ってしまうという厄介な教訓を残したことになる。」

 日本もこれから「積極的平和主義」で自衛隊を海外に派遣するのなら、こうした事例を徹底的に分析・研究するべきだろう。生死のかかった極限状況では常識は通用せず、善意は問題を解決しないばかりか、よりグロテスクな状況を生み出すだけなのだから。


サラエボではいまだに銃弾の跡がいたるところに残っている        (Photo:©Alt Invest Com)

橘 玲(たちばな あきら)

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ最新刊『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)
 
http://diamond.jp/articles/-/77442


[12削除理由]:管理人:無関係の長文多数

2. 2015年8月29日 20:43:42 : Ma5RZiiuic
米兵であれ自衛隊員であれ優しい人間は戦場で精神を病むだろう
では獣に成れるのかというと、いくら訓練しても成れないから多くの人が病むんだろうよ
人間が簡単に獣に成れるなら誰も苦労はしない 結局人間にしか成れず自殺する事もあろう
日本人みたいな繊細な民族がどうやって世界の戦場で生きていけるのだろう 結果は火を見るより明らかな事だ


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