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シリア政府軍がアレッポを空爆、53人死亡  たる爆弾も投下される  TBS
http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/877.html
投稿者 ダイナモ 日時 2015 年 9 月 21 日 14:50:52: mY9T/8MdR98ug
 

 多くの難民が流出しているシリアの北部アレッポで、政府軍が空爆を行い、少なくとも53人が死亡しました。

 イギリスを拠点とするシリア人権監視団によりますと、反体制派が支配するシリアの北部アレッポで16日から17日にかけてシリア政府軍が空爆を行いました。空爆には鉄製の筒に火薬やクギなどを詰め込んだ「たる爆弾」と呼ばれる兵器も使われ、15人の子どもを含む少なくとも53人が死亡したということです。

 現地からとされる映像では空爆後、骨組みだけになった建物が突如、崩れ落ちる様子も確認できました。

 シリアでは2011年に反体制派のデモが始まってから、これまでの4年半で25万人が死亡し、1100万人が住居を失ったと推定されています。国連の高官は今後、年末までに、さらに100万人が避難を余儀なくされる恐れがあるとして、さらなる難民の増加に懸念を示しています。


http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2593730.html  

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コメント
 
1. 2015年9月25日 11:08:35 : OO6Zlan35k
2015年9月24日 橘玲
ユーゴ内戦にみる「歴史修正主義」による殺し合いの連鎖
[橘玲の世界投資見聞録]
 1990年代に旧ユーゴスラビアで起きた凄惨な民族浄化の背景には、半世紀前のナチス占領下での「歴史の記憶」があった。ナチスの傀儡国家「クロアチア独立国」の極右民族主義団体ウスタシャの「民族浄化」の標的とされたのは、ユダヤ人、ロマ、そしてセルビア人だった。

[参考記事]
●ユーゴ内戦でジェノサイド=民族浄化を生み出したバルカン半島の「歴史の記憶」


 第二次世界大戦後、ユーゴスラビアは対独パルチザン(人民解放軍)を率いたチトー(ヨシップ・ブロズ・チトー)によって再統一され、スターリンのソ連と距離を置いた独自の社会主義(自主管理社会主義)によって1970年代には東欧諸国随一の繁栄を謳歌した。だが1980年5月にチトーが死ぬと、民族主義の台頭によってユーゴ社会はふたたび動揺しはじめる。

 今回も東欧史・比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』(有志舎)に依拠しながら、この時期、「歴史の記憶」がセルビアとクロアチアでどのように“修正”されていったのかを見ていこう。


銃弾の跡が残る廃屋@ボスニア、モスタル     (Photo:©Alt Invest Com)

ビール瓶が突き刺さったセルビア人農夫

 1985年5月1日、コソボに住むセルビア人農夫ジョルジェ・マルティノヴィチが肛門にビール瓶が突き刺さるという尋常ならざる状態で病院に担ぎ込まれた。

 コソボはセルビア、マケドニア、アルバニア、モンテネグロに囲まれたバルカン半島の内陸部にあり、歴史的にはセルビア王国発祥の地とされているが、1981年の人口調査では域内のアルバニア人の人口が77%(122万6736人)に達し、13%(20万9498人)のセルビア人は圧倒的な少数派になっていた。こうした人口構成の変化は、アルバニア人の出生率がセルビア人よりも高かったことと、貧しいコソボから人口流出が進んだためだった。コソボのセルビア人はセルビア共和国本土に比較的容易に移住できたが、アルバニア人はどこにも行き場がなかったのだ。

 多数派となったコソボのアルバニア人は、補助金の増額や自治州の地位向上を要求してたびたび暴動を起こし、そのたびに自治州の権限が拡大されてきた。だが1981年の暴動では、自治州から共和国への“独立”を要求したことで逆にユーゴ中央政府から激しい弾圧を招くことになった。

 その後、コソボのセルビア人が、独立を企むアルバニア人から迫害を受けているとの報道がセルビア本土のメディアで流されるようになり、両者の緊張は高まっていた。まさにそのときに、セルビア人の農夫が異常な状況で病院に運ばれてきたのだ。

 当初、マルティノヴィチはアルバニア人2人に襲撃されたと証言したため、これにメディアが飛びついて大騒ぎになった。だが彼の証言は二転三転し、襲ったというアルバニア人も特定されなかったことから、コソボ自治州政府の捜査官は特殊な性癖による自傷事故で、アルバニア人犯人説はそれを隠すための狂言だと判断した。


打ち捨てられたセルビア正教会@コソボ     (Photo:©Alt Invest Com)
 ふだんならたんなる笑い話としてすぐに忘れ去られるはずのこの出来事は、しかし、思いもよらない展開を見せる。

 セルビア側のメディアが「狂言説」をコソボ自治政府の“陰謀”と断じ、アルバニア人がコソボのセルビア人に対し「ジェノサイド」を行なっているというキャンペーンを張りはじめたのだ。新聞は連日のように、セルビア人墓地の冒涜事件やセルビア人家庭を狙って繰り返される投石事件を報じ、ついにはアルバニア人地下組織によるセルビア人女性への組織的な集団レイプまで登場した。現実には、イスラーム地域であるコソボの性犯罪発生率はユーゴの他の地域より低かったが、誰もこうした客観的データに関心を持とうとはしなかった。

 86年1月にはセルビアの約200名の著名な知識人が連署した請願書が提出された。コソボで長期的かつ致命的な「ジェノサイド」が進行中で、このままコソボが「民族的に純粋化」されるなら民族紛争を招くだろうとして、コソボのセルビア人の処遇改善を求める内容だった。

 また9月には、セルビア科学芸術アカデミーの「覚書」が公表された。――セルビアは戦後の連邦制のもとで一貫して不当に扱われ、「セルビアの弱体化がユーゴスラビアを強くする」として経済発展と政治的凝集化を阻むためのさまざまな制約を課せられてきた。コソボのセルビア人迫害は、アルバニア人民族主義者による「セルビア民族への公然たる総力戦」で、クロアチアやスロベニアを含む全連邦的な「(セルビア)懲罰政策」が「ジェノサイド」にまで進みつつある証拠だとされていた。

 こうした「民族浄化=ジェノサイド」キャンペーンのなかで熱狂的な支持を集めたのがセルビア共産主義者同盟のスロボダン・ミロシェヴィチで、のちにユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)の大統領としてボスニア内戦やコソボ紛争に軍事介入し、コソボのアルバニア住民に対するジェノサイドの罪で国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で裁かれることになる(2006年3月、収監中の独房で死亡)。佐原氏は、80年代半ばの民族主義キャンペーンは、ミロシェヴィチ台頭のために仕組まれたものであったことを示唆している。

セルビア人被害者説の根拠とされた「民族の記憶」

 佐原氏によれば、セルビア民族主義の特徴は「被害者意識」にある。

 ――セルビアの歴史修正主義者は自らをナチスに対する正義の解放者とし、「セルビア人は他民族に対していちども悪意を抱いたことはなく、常に高貴に相手を扱ってきた」というセルビア史の独善的な解釈を主張した。その一方で第二次世界大戦中のクロアチア人とボスニア人の残虐行為を過度に誇張し、すべてのクロアチア人がウスタシャであるかのように主張した。彼らは、セルビア人の善意に対してクロアチア人が一方的に憎悪と暴力で応えた「伝統」なるものを発見し、クロアチア民族主義者の非合理性を強調することで、セルビア人を歴史を通じて一方的な犠牲者であると描いたのだ。

 1990年のセルビア共和国大統領選挙前夜には、セルビア人被害者説はいっそうエスカレートし、ミロシェヴィチはテレビや新聞を総動員して、クロアチア新政府はウスタシャの復活だとのキャンペーンを展開した。


空爆されたビルの前で@ベオグラード         (Photo:©Alt Invest Com)

 この異様な雰囲気のなかで、共産党政権が長年にわたって封印してきた「虐殺の記憶」が蘇ってきた。

 第二次世界大戦中、東ヘルツェゴビナではウスタシャやムスリムの協力者によって、侵食によってできた石灰岩の深い裂け目や鍾乳洞に多数のセルビア人が生きたまま投げ込まれた。こうした場所は戦後、「穴(ヤマ)」と呼ばれてきたが、遺族の願いでそれが次々と発掘されるようになったのだ。

 発掘作業はセルビア正教の僧侶とベオグラードの専門家によって行なわれ、地下底一面に散らばる犠牲者たちの変色した遺骸や頭蓋骨がベオグラードのテレビに映し出された。セルビア正教会は各地で大規模なミサを主催し、犠牲者のために新たな納骨堂を建設して、セルビア人犠牲者説を広めていった。メディアと宗教の共同作業によって、遺族のいまわしい記憶が「民族の記憶」へとつくり替えられていったのだ。


東ヘルツェゴビナの美しい山並み@モスタル     (Photo:©Alt Invest Com)
 1985年と1989年には人口統計学的手法を使った第二次世界大戦の犠牲者の推計が行なわれたが、これも大きな論争を巻き起こした。

 最初に発表されたのはモンテネグロ人の専門家によるもので、総死者数を101万4000人とし、犠牲者の内訳をセルビア人48万7000人、クロアチア人20万7000人とした。もうひとつの推計はクロアチア人の専門家によるもので、総死者数102万7000人、犠牲者はセルビア人53万人、クロアチア人19万2000人とした。

 両者の数字がほぼ同じことからわかるように、これはイデオロギーを排して客観的な推計を行なおうとした努力の結果だった。クロアチア人の専門家ですら戦争の犠牲者の半数(クロアチア人の犠牲者の2倍以上)がセルビア人であることを認めたのだから、これはセルビア人犠牲者説を補強するもののはずだが、セルビア人はこの推計に激怒した。

 セルビア正教会の総主教は、「クロアチア独立国」の強制収容所ヤセノヴァツだけで70万人が殺されたと主張していたし、これほど極端でなくても、多くのひとがヤセノヴァツで20万人、セルビア人全体で100万人以上が殺されたと信じていた。専門家の推計はこの数字を「下方修正」するもので、犠牲者への冒涜以外のなにものでもなかった。

 佐原氏はここで、セルビア人はユダヤ人と同様に、隷属化と破壊を意図する超歴史的な危険な力の犠牲者であったという「セルビア人の残虐行為とシオニズム的レトリックの相関性」に言及している。セルビア人は歴史を通じて不当な扱いを受けてきたのだから、攻撃の脅威から身を守る特別の道徳的な権利があるというロジックは、シオニストのパレスチナやレバノンへの侵略の論理に通じるものがある、と佐原氏はいう。

 こうした“道徳的ロジック”が成立するためには、セルビア人だけがジェノサイドの犠牲者でなければならないし、犠牲者の規模はかぎりなく大きくなければならない。「セルビア人犠牲者説は、ジェノサイドを予防するために自衛しなければならないという戦闘的民族主義を提唱するための不可欠の前提」だったのだ。

セルビア民族主義組織・チェトニクによる虐殺、略奪も

 セルビアと対峙するクロアチアでは、歴史はどのように修正されていったのだろうか。

 前回の記事で述べたように、クロアチアにはナチスドイツの傀儡政権の下で極右団体ウスタシャが多くのセルビア人を虐殺したという“負の歴史”があった。だがその一方で、第二次世界大戦では、セルビア民族主義者のゲリラ組織チェトニクによって多くのクロアチア人やムスリムが殺されてもいた。

 たとえばチェトニクは、1942年10月初旬にダルマチアやヘルツェゴビナの農村部を攻撃し、クロアチア農民500人以上を虐殺した。それ以上に凄惨なのはボスニアのムスリムに対する攻撃で、1941年末にはボスニア東部のフォチャで老若男女の区別なく2000人以上の農民を殺し、42年8月には農村部のセルビア人を組織して市街地に進攻、1日で約1000人を殺したのちに近郊の農村でも虐殺を繰り広げ、チェトニクの司令官は「2つの村を襲撃して3000人のムスリムを殺害し、大量の戦利品を獲得した」と報告した(フォチャは半世紀後のボスニア内戦でもふたたび虐殺の舞台となった)。

 43年1月には、チェトニクはセルビア人虐殺への報復を口実にモンテネグロで大規模な遠征部隊を結成し、32の農村を焼き討ちし、400人の「ムスリム兵士」と1000人の婦女子を虐殺した。2月には、1200人の「兵士」と8000人の老人、女性、子どもを虐殺したと報告されている。「チェトニクは殺人に加えて徹底的な略奪を行ない、家畜と穀物と干草を奪い、それ以外のものはすべて焼き払った」と佐原氏はいう。

 これに対してチトーに率いられたユーゴ共産党のパルチザンは、「友愛と統一」の精神を掲げ、民族主義を否定したため、ナチスやウスタシャはもちろんチェトニクとも対立した。チトーとその同志たちは孤立無援の状況のなかで民衆の支持だけを頼りに困難な戦いを進め、ついにはヨーロッパで唯一、アメリカやソ連の助けを借りずに独力でナチスを撃退し祖国を解放するという大きな栄光を手にすることになる。

 だがこのパルチザンにも、やはり負の歴史はあった。

 戦況が決した1945年5月、ウスタシャ党員や郷土防衛隊員など数万人の逃亡兵がオーストリア国境地帯のブライブルク地方に逃げ込んできた。ここを占領していたイギリス軍は逃亡兵たちを武装解除したあと身柄をパルチザンに引き渡したが、彼らは一部の重要容疑者を裁判にかけたほかは、残りの捕虜に国内の他の地方に徒歩で移動するよう命じた。多数の捕虜が途中で消耗死し、目的地にたどり着いた者もそこで処刑され、この「死の行進」で3万〜5万5000人が死亡したと見られている。

 後述するように、ブライブルクはこのあと、クロアチアの民族的殉教地に祀り上げられ、セルビア人にとってのヤセノヴァツと同様のシンボルになった。


プリトヴィツェ湖群国立公園@クロアチア       (Photo:©Alt Invest Com)

 チトーがユーゴを統一すると連邦制の下でクロアチアにも自治権が与えられたが、1960年代になるとクロアチアの知識人のなかに民族主義が台頭する。彼らの不満は「歴史教育」に対するもので、「王制ユーゴの解体と内戦におけるクロアチア人の否定的役割ばかりが強調されたため、民族全体がファシストと決めつけられ、血に飢えた殺人者のイメージが流布されている」「セルビア人の役割が過度に肯定的に描かれ、セルビア人が国家の主体で、クロアチア人は犯罪者に貶められている」などと述べた。

 この民族主義運動は1967年11月、クロアチア全土で3万の学生がデモを行なうまで盛り上がったが、翌月にはチトーと党指導部が学生ストを連邦軍の戦車で粉砕し、大規模な粛清によってクロアチア党幹部だけでなく、学校、作家協会、マスコミ各社の主導者を大量に追放したことで収束した。

 だが1980年代後半から、セルビアの民族主義運動に刺激されるかたちでクロアチアでも民族主義が台頭すると、「負の歴史」の修正がふたたび始まった。

「ウスタシャによるジェノサイド」の矮小化

 クロアチアの「歴史の修正」は、ふたつの方向から行なわれた。

 ひとつは亡命した民族主義者によるもので、彼らはウスタシャを愛国者として賛美し、数々の残虐行為を隠蔽した。クロオアチア民主同盟を創設し1990年にクロアチア共和国大統領となったフラニョ・トゥジマンは、西側に配慮してウスタシャ賛美は控えたものの、「クロアチア独立国」は大セルビア主義からの自衛のために必要だったと正当化し、それがクロアチアの公式の歴史観になっていく。両者に共通するのはジェノサイドの否定で、トゥジマンは強制収容所での死者はすべて合わせても5万人で、ヤセノヴィツはせいぜい3〜4万人にすぎず、犠牲者のなかにはユダヤ人、ロマ、クロアチア人もいたと主張した。

 クロアチアのメディアは民族犯罪を隠蔽しただけでなく、クロアチア人が「大セルビア主義」の犠牲者だというキャンペーンも展開した。

 セルビア人の抵抗組織チェトニクはファシスト支配の手先になり、「クロアチアとボスニアのほとんどをセルビア化しようと企んでおり、そのためクロアチア独立国を破壊し、クロアチア人とボスニア人を民族浄化していた」「(チェトニクは)殺人者集団であり、システマティクにジェノサイドを行ったナチスと同様の組織だった」とされ、「チェトニクの残虐行為を殊更に強調することによって、ウスタシャの行為は残虐からのささやかな自衛措置であったことにされていった」。

 クロアチアの歴史修正主義の次の標的はパルチザンで、クロアチア民主政権同盟が政権を獲得するとブライブルク事件を民族の受難の象徴として祀り上げる作業が始まった。その手法はセルビア人の「ヤマ」の発掘とまったく同じで、各地で集団埋葬地が掘り返され、カトリック教会が彼らを悼むミサを行ない、発掘や改葬の様子はメディアを通じて「集団的記憶」につくり替えられていった。

 民族主義者たちは、ブライブルクの死者をヤセノヴァッツより意図的に多く見積もることによって、クロアチア史の汚名をそそぐカタルシスにしようとした。セルビア人犠牲者説に対抗するためには、それ以上の巨大な犠牲が必要で、通説では3〜5万人と考えられた犠牲者は15万、30万へと増えていった。

 クロアチア内のセルビア人居住地区であるクライナ地方で1990年8月に反乱が起きると、メディアはセルビア人一般を敵視するキャンペーンを始めた。新聞や雑誌にはセルビア人を怠惰で不潔な酔っ払いの野蛮人として描くカリカチュアが掲載され、テレビ番組はセルビア人を文化的にも宗教的にも劣った好戦的な集団と描写した。「クロアチア人がカトリック文明に属する洗練された西欧人であるのに対して、セルビア人は東方文明の最悪の代表者」というのは、ウスタシャ時代の人種差別的な反セルビア・キャンペーンとまったく同じだった。

 このようにして、クロアチア人は「大セルビア主義」に脅かされてきた犠牲者で、独立は生存のための当然の権利とする論調がつくられていった。セルビア人と同様に、「あらゆる逸脱と残虐行為は正当な権力の行使、あるいは自衛のためのやむをえない行為」とされていったのだ。


クロアチアの熱狂的なサッカーファン。2014年ワールドカップ@ザグレブ   (Photo:©Alt Invest Com)
「歴史修正主義」を警戒すべき理由

 セルビアでもクロアチアでも自分たちに都合のいいように歴史が「修正」された結果、どちらも自分たちは「犠牲者」であり、自分や家族の生命を守るためには「(自衛という名の)暴力」の行使は当然の権利だと考えるようになった。両者の歴史観は真っ向から対立し、妥協の余地はないのだから、あとは殺し合う以外なかったのだ。

「友愛と統一」によって生まれたはずのユーゴスラビアに過激な民族主義の嵐が吹き荒れる経緯を振り返れば、「歴史」が重要な役割を果たしていることがわかる。どのような民族主義者も、自分たちが「悪」の側に立って暴力を行使することはできない。外に向かって自分たちの正当性を主張できる「光と徳の物語」がどうしても必要なのだ。

 歴史を検証するタイムマシンがない以上、自分に都合のいい歴史的事実の断片を拾い集め、不都合なものを捨て去って、「物語」を加工することはかんたんにできる。民族主義者は、自分たちが権力を握るために、捏造した歴史で大衆を扇動し、戦争や内戦へと突き進んでいく。こうしたことは過去の歴史だけでなく、残念ながら、いまも世界のあちこちで起きている。

 このように考えると、なぜ「歴史修正主義」を警戒しなければならないかがわかる。

 いかなる民族であれ、「負の歴史」を直視することを嫌い、自分たちに都合のいい歴史を捏造することは、破滅への最短の道なのだ。

*今回の原稿も、歴史的な経緯に関する記述は佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』に全面的に拠っています。


橘 玲(たちばな あきら)

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ最新刊『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)
http://diamond.jp/articles/-/78785

[12削除理由]:管理人:無関係の長文多数


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