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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の9)・「邪馬台国の滅亡」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/330.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 1 月 15 日 10:06:07: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「邪馬台国の滅亡」に、ご興味をお持ちでしょうか。実は、邪馬台国はトヨの朝貢の後に、滅亡してしまったと考えています。


A 邪馬台国は、歴史書に、わずかしか残らなかった。

 邪馬台国は、多くの謎に包まれていますが、大半が歴史の闇に埋もれてしまいました。

 全くの闇の中に葬り去られなかったのは、わずかに残る「倭人伝」の記録があったからです。

 すなわち、「三国志」では、トヨが魏に260年ごろかに遣使しており、「晋書」では、「泰始2年(266年)に倭人が朝貢に来た」との記録が残されています。

 しかしながら、それ以降の中国の記録では、日本については、「倭の五王」以降しか、残されていません。

 中国に記録が残されなかったのは、魏は、265年に家来の司馬氏(諸葛孔明と戦った司馬仲達の子孫)に皇帝の座を強奪されました。

 晋は、脅迫的な「禅譲」によって建国したものの、内戦・内乱で300年ごろから国が乱れて、316年に滅亡しました。

 そして、晋の乱れに乗じて、中国の北方の騎馬民族が平原に侵入し、いわゆる「五胡十六国」の大動乱の時代が、581年の隋の統一までの、およそ3百年くらいまで続きました。

 このような大動乱の中で、人々は家や国を奪われて、逃げまどいましたから、歴史書の執筆どころでは有りませんでした。

 (この異民族の侵入によって、漢民族は数分の一に人口を減らしたと言われます)。

 また、「倭の五王」の記録を残した「晋書」にしても、あるいは「宋書」にしても、動乱当時の「日記的な記録」を残したのではなく、その王朝が、自分に都合のよい「創作物語」を残したに過ぎません。


B 中国の歴史書は、日本に聞きに来てから作った話。

 「宋史日本伝」という中国の歴史書が有ります。これは、唐の滅亡後に、戦乱で失われた歴史書を求めて、平安時代の953年に、中国人が日本に来て聞き取りしました。

 その結果に作られたのが、「宋史日本伝」とか「新唐書の日本伝」です。ですから、日本に都合のよい内容になっています。

 (これは、歴史学者間の「常識」であり、これらの「日本伝」には何の価値も有りません)。


C 邪馬台国は、記紀神話に、残されなかった。

 邪馬台国については、記紀神話には何の記述も有りません。これは、知らなかったのではなくて、『書きたくなかった』のではないかと思います。

 (話は逸れますが)、古代人は、現代人と違って、神に非常に近かったと思います。元々は神が地上に降臨したものです。

 ですから、邪馬台国について知りたければ、チャネリングして、神に聞けば教えてくれたと思います。

 そうすると、邪馬台国の記述が無いのは、神が教えてくれなかったか、教えてくれたけれども『書きたくなかった』ということになります。

 書きたくなかったのは、なぜか。それは血統が違うからではなかったのか、という推測が働きます。


D 邪馬台国は、血統が違った(説)。

 邪馬台国の人種について、「倭人伝」の記述の中で、「魏略」では、『呉の太伯の後裔、昔、夏后少康の子』と書かれています。

 ところが、「三国志(魏志)」では、『自ら大夫と称す、夏后少康の子』とあります。

 そうしますと、呉系倭人の説と越系倭人の2説に分かれます。

 (夏后少康というのは、黄帝を親として、その子の兄の子孫が周や呉になり、弟の子孫が夏后少康になり、越になります。

  元々は、黄帝の子孫ということで、同族といえば同族ですが、なにぶんにも古い神話上の話です)。

 また、日本の国体は、正統な漢民族の子孫であり、姫姓であり、周と同室の「呉王朝」の王族の子孫です。(そういう設定です)。
 
 (平安時代の日本書記の講書に、『この国が姫氏国と呼ばれるのはなぜか』の問いに、『周呉の王姓は姫で、日本は姫氏の国と中国は認識している』との記録が有るらしいので、これによれば、日本人は呉王の後裔になりそうです(真偽不明、要確認)。

 ここで、邪馬台国が越系倭人であったならば、国体とは全く関係のない他人ということになります。

 それどころか、越系倭人というのは、紀元前473年に、越王のコウセンが、呉王のフサを滅ぼしています。(言ってみれば、親の仇です)。


E (学校で習わなかった人もいるかも知れないので)、「呉越戦争」の話を要約すると、

 呉王フサの父の呉王コウリョが、楚を攻めた留守中に、越王コウセンが呉に攻め込んだ。

 急遽、呉王コウリョが越王コウセンに対応したが、重傷を負って、それが原因で後に死去した。

 呉王コウリョが、死の間際に、子供の呉王フサに対して、越王コウセンに復習をすることを誓約させた。

 子供の呉王フサが「臥薪嘗胆」で満願成就して、越王コウセンを攻めて勝利した。

 越王コウセンは土下座をして「命乞い」をして、永遠に奴隷のように呉に服従すると誓約をした。

 このとき、呉王フサは、『越王コウセンを殺してしまえ』という家臣の進言を無視して、哀れんで助けた。

 ところが、後に、越王コウセンが(呉王フサと同じように)「臥薪嘗胆」で実力を蓄えて、呉王フサを攻めて、呉王フサに勝利した。

 越王コウセンは、『呉王フサを殺してしまえ』という家臣の進言を無視して、哀れんで一命を助けて、流刑を申し出た。

 呉王フサは、流刑の申し出を断って自害して、呉王朝が滅亡した。

 まあ、言ってみると、呉から見た越というのは、『親の仇(かたき)』であり、『不倶戴天の敵』でもあります。

 そんな越の一族は、(姫氏の国の後裔日本としての)記紀神話には、一行だって載せたくないというのが、人情だと思います。

 (以上は、私の勝手な想像で、ホントかウソかは、分かりません)。


F 呉王の子孫の、松野連氏。

 日本には、呉王の子孫と言われる「松野氏」の記録が有ります。系図も国立国会図書館に残されています。

 その系図などでは、周の始祖王の季歴の兄の「呉の太伯」から始まり、呉王夫差を経て、孝昭天皇朝の(BC473年)に渡来して、火の国の山門(熊本県菊池郡)に住み、694年に持統天皇朝から「松野の連」を賜姓した、との記録があるらしいそうです。

 (呉王の子孫で松野氏の祖先の菊池彦と、越王の子孫の卑弥呼との、「因縁の身魂の大バトル」というのは、小説的には、どんなもんでしょうか)。


G (話を元に戻して)、誰が、邪馬台国を滅ぼしたか。

 邪馬台国を滅ぼした可能性のある者を推理しますが、その前に、物語の構成を考えてみたいと思います。

 物語は、イザナギ・イザナミの日本の国作りや神生みの後には、幕が変わって、アマテラスの高天原が登場し、スサノオの乱入で始まります。

 第1次アマテラスの「岩戸隠れ」の後で、第2次アマテラスが復活して、スサノオが追放されて出雲に降ります。

 出雲に降ったスサノオはスセリ姫を生んで、大国主(アメノホヒ)が婿養子に入って西日本の大王になります。

 大国主の晩年に、アマテラスによる出雲の「国譲り神話」が行われ、(どう云う訳か)ニニギが全く無関係な鹿児島県に引っ越して、幕が降ります。

 以上のような物語のストーリーを基に、邪馬台国を滅ぼした可能性の有る者を考えて見ます。

    第1は、アマテラスの説
    第2は、熊本県の菊池彦の説
    第3は、スサノオの説
    第4は、海人族の綿津見の説
    第5は、朝鮮半島南部の倭人の説
    第6は、中国人の説

(ア) 第1のアマテラスの説は、遠賀川方面にいた可能性が有りますが、邪馬台国に押さえつけられた小国だから、どうなんでしょうか。

 (遠賀川方面にいた可能性については、第1には、オシホミミの墓所が、遠賀川上流の福岡県田川郡香春町(かわらちょう)の香春(かわら)神社の「忍骨命」というのが定説であること。

 第2には、ニギハヤヒが、「物部二十五部」を率いて「天孫降臨」したが、遠賀川から東征したと推定されること。

 第3には、「宗像三女神」が、博多よりも東に位置する宗像に降臨していること。

 第4には、墓地の形式が、遠賀川方面と博多方面では、明確な違いが見られること、などが挙げられます)。


 ただ、物語のロケーション的には、第1次アマテラスがスサノオにボコボコにされて、第2次アマテラスが、逆に、スサノオをボコボコにして叩き出しています。

 仮に、第1次アマテラスが邪馬台国の後だとすると、270年頃より後であり、その後の第2次アマテラス、ニニギの都落ち、神武東征まで行きますと、時間配分が窮屈ですが、不可能では有りません。

 ★ スサノオの降臨の場所は、古事記では出雲に、日本書記では朝鮮の新羅の説や出雲の説や広島県の山奥の説などが有りますから、新羅に降臨したとすれば北九州ではシックリとしません。だから本当は分かりません。

 (私は、神武東征(ニギハヤヒの降臨)を290-300年ごろ、崇神・垂仁を340-360年ごろ、仲哀・神功・応神を380-400年ごろ、応神・仁徳を400-420年ごろと推測しています

 また、「欠史八代」は1・2・3代は直系相続で、それ以降の九代までは、3ブロックの兄弟相続で短命だったと思っています)。
 
(イ) 第2の熊本県の菊池彦の説は、可能性は有りますが、海軍力を持っていなかったので、内陸部の筑後平野を取った程度と思いますが、記紀神話に残っていないので、どうなんでしょうか。

 また、アマテラスの高天原との関連性も、シックリ行きません。ストーリー的には、スケールが小さいので「ごみ箱」に入れたいところです。

(ウ) 第3のスサノオの説は、アマテラスの「高天原の幕」の後の登場ですから、アマテラスの前に邪馬台国を滅ぼしたというのは、シックリ行きません。

 ただ、第1次アマテラスを馬韓か金官加羅に進入した濊族(ワイゾク)と考え、第2次アマテラスを北九州に侵攻した濊族とすると、ストーリーは繋がります。

(エ) 第4の海人族の綿津見は、邪馬台国に服属した海人だと思いますから、打ち倒すほどの力は無かったと思います。

(オ) 第5の朝鮮半島南部の倭人の説については、元々は馬韓にあった呉系倭人(呉系韓人)の王家が、海を越えて北九州に亡命政権を樹立したという可能性があります。

 (金官加羅から来た可能性の有るスサノオの出自に関連しますし、1行や2行では書き切れませんので、別の投稿文にまとめたいと思います)。

(カ) 第6の中国人の説の可能性については、記紀神話の物語は、イザナギとイザナミの守護する呉系倭人と越系倭人の国が日本という設定ですから、中国人は関係ないと思います。


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