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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の57)・「宇治天皇と市辺天皇と、倭の五王の乱闘時代」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/526.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 12 月 17 日 09:59:36: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「宇治天皇と市辺天皇と、倭の五王の乱闘時代」に、ご興味をお持ちでしょうか。

 宇治天皇と市辺天皇については、記紀神話では明確にされていませんが、「播磨国風土記・揖保郡・大家里」に宇治天皇が見えますし、「播磨国風土記・美嚢(ミナギ)郡・志深(シジミ)里」に市辺天皇が見えます。

 ここで、風土記というのは、和銅6年(713年)に元明天皇の勅命により、日本全国の国司に、撰上する事を命じました。提出された文書は「解文」と題する報告書であり、歴然たる「公文書」でした。
   当然、
 公文書ですから、嘘や創作などは許されませんし、右大臣の藤原不比等を筆頭として、民部省の役人が精査したはずです。
   ですから、
 『風土記に書かれている事は事実かも知れない』という推理が働きますし、少なくとも、『公文書だし、中央から派遣された国司が決済して中央に送っているのだから、わざわざ、嘘の創作をする理由も必要性も無い』と考えるのが「常識」だろうと思います。

 そこで、今回は、消された天皇と、倭の五王の時代の、骨肉あい争う乱闘の時代を探ってみたいと、思います。


A 宇治天皇とは。

 宇治天皇とは、応神天皇の皇太子の「宇遅能和紀郎子(ウジノ・ワキ・イラツコ)」ですが、応神天皇の崩御の後に、3年間にわたって、仁徳天皇と皇位を譲り合い、その後、病死した事に成っています。

 「美談」だと言われていますが、本当でしょうか。少なからぬ研究家が、政争に敗れたのではないかと、疑問を感じています。

 宇治天皇が即位した記録は残されていませんが、皇統に3年間の空位が有った訳ですから(仁徳天皇・即位前記・皇位の譲り合い)、この3年間が宇治天皇時代と考えても良いかも知れません。

★ (ネット情報で真偽不明の要確認ですが)、熊本県の「幣立神宮」に、『・・・応神帝の時に、勃発した内乱のために・・・』は注目に値します。


B 市辺天皇とは。

 市辺天皇とは、市辺之忍歯王(イチヘノ・オシハ・オウ)の事ですが、雄略天皇に殺されました。

 ちなみに、「忍歯王」の名前は、市辺之忍歯王が殺されたときに、従者と共に原野に埋められて、後に遺骸を発掘したときには、2人の骨の区別が付かなかった、あるいは、市辺之忍歯王は「八重歯」だったので、それで2人の見分けが付いた(古事記)。
 そのような経緯から、「忍歯王」の名前が付けられたのではないかと、想像します。

 市辺天皇が即位した記録は残されていませんが、上述の「播磨国風土記・美嚢(ミナギ)郡・志深(シジミ)里の条」に記述が有る以上は、もしかすると、市辺天皇の時代が有ったのかも、知れません。

 (雄略天皇の兄の安康天皇が、マヨワ王に殺害されるハプニングが有ったが、未成年のワカタケル皇子は不適格で、市辺天皇が即位する乱闘が有ったかも、知れませんが、どうでしょうか)。


(オケ・ヲケ兄弟の逃走記の別説)

 市辺之忍歯王(市辺天皇)の子供のオケ・ヲケ兄弟は、父親が殺害されると、舎人の日下部連が、領地の丹後国与謝郡に2人を匿った(顕宗紀・穴穂天皇三年の条)。その後、忍海部の屯倉が有った播磨国シジミの代官の忍海部造に、幼い2人を預けた(顕宗紀・穴穂天皇三年の条)。
 やがて、雄略天皇の遺児の清寧天皇が、妻子無く若くして崩御すると、オケ・ヲケ兄弟が脚光を浴びたが、未成年で天皇に就けず、(オケ・ヲケの叔母説と姉弟説のある)飯豊皇女(忍海郎女)が、忍海角刺宮でリリーフの女帝に立った。

 (飯豊皇女(忍海郎女)の忍海角刺宮と、忍海部の屯倉の播磨国シジミの忍海部造は、「忍海」で繋がっています。そして、平群氏を筆頭に雄略天皇を支持するグループと、反発するグループの権力闘争が有り、豪族たちも2分3分に分裂して乱闘したと、思います)。


★ オケ・ヲケ兄弟にしても「倭の五王」にしても、本当のところは分かりません。時系列で考えても違和感を覚えますし、記紀神話の記述も曖昧です。明確にしたくなかったのだと思います。
 とにかく、「大乱闘時代」が有ったと言うことで、真実は歴史の闇に封印されていると思います。


★★ 御陵について。墓は、今も昔も、先祖の土地(母親の出身母体)か自分の領地に作るもので、あまり他人の土地には作りません。御陵の位置関係で研究する人も有りますが、「倭の五王」の親子関係に異論を唱える研究家も有るそうです。


★★★ 古代の、近親相姦の、話。(日本書紀・仁賢天皇・即位6年の条)。

 近親相姦の話が、日本書紀・仁賢天皇・即位6年の条に、挿入されていますが、「なぞなぞ」であり、『解ける者は、その叡智によって、読み解け』と言う事だろうと、思いますが、私の頭では読み解けません。皆さんの賢い頭で、読み解いてください。

 要約すると、『夫のハタケと妻の【難波】のフナメが、娘のナクメを生んだ。娘のナクメが夫のヤマキの間に娘のアクタメを生んだが、夫のヤマキは(妻のナクメの母親の)フナメと結婚して息子のアラキを生んだ。娘のアクタメが息子のアラキと結婚した。

 (別の表現で、『【難波】のフナメは、前夫の間に娘のナクメを生んだが、孫娘がアクタメである。また、フナメは、後夫のヤマキの間に息子のアラキを生んだ。そして、(フナメから見ての)孫娘のアクタメと息子のアラキが結婚した。また、孫娘のアクタメから見た夫のアラキは、夫であり叔父になる。
 別に、男のヤマキから見ると、前妻のナクメとの間に娘のアクタメを生み、後妻の(前妻のナクメの母親の)フナメの間に息子のアラキを生んだ。そして、実の息子のアラキと娘のアクタメが結婚した。

 ◆◆ 国の正史である日本書紀に、何で、こんな話が挿入されているのか。重要だから載せているのです。重大な意味が有るのです。本当の事を書けないから、「なぞなぞ」なのです。
 記紀神話編集委員会の皇統図作成の苦労は、『察するに余りある』と言わなければ成りません。


C 天皇の権力基盤は、皇后に有った。

 古代の天皇には、大きな領地とか直属の大軍とかは存在せず、あくまでも豪族会議の(形式的な)議長のような機能を持っていたと、想像します。

 (そして、古代には、天皇は、「大嘗祭」などの特別な儀式を経て、「皇祖神」の神霊が降った「生き御霊」「現人神」に成るという考えが有り、豪族が踏み込めない「聖域」に成っていたと思います。
 ですから、蘇我氏などの大豪族でも、天皇に代わることが許されなかったと思います)。

 それと、天皇の子供は、基本的に、皇后・妃などの母親の実家で育てられますから、皇子の権力基盤は母親の出身母体に成りました。
 (古代は、「嫁入り」ではなく「妻問い婚」であり、男が女の家に「夜這い」に行きました)。


ア) 宇治天皇(宇遅能和紀郎子)の母親は、奈良県の「丸迩(ワニ)氏」ですが、仁徳天皇の母親は尾張氏系統と言われます(本当は神功皇后)。また、仁徳天皇の皇后はイワノ姫で、豪族筆頭の「葛城氏」出身であり、その他多くの豪族の支持を得ていたものと想像されます。
 そう言う事で、権力基盤の弱かった宇治天皇は、仁徳天皇に敗れたと思います。


イ) 履中天皇は、仁徳天皇の皇子でしたが、母親が皇后のイワノ姫で、豪族筆頭の「葛城氏」出身であり、履中天皇の皇后も「葛城氏」の娘でしたから、仁徳天皇の次の天皇に即位しました。

 ★ 仁徳天皇の4人の皇子の、履中天皇・住吉中皇子・反正天皇・允恭天皇は、母親が皇后のイワノ姫で、豪族筆頭の「葛城氏」出身でしたが、それぞれの妃の実家の豪族を後ろ盾にして、皇位争奪戦を戦ったものと、想像します。


ウ) 履中天皇と住吉中皇子の皇位争奪戦。

 履中天皇に味方をしたのは、弟の反正天皇・葛城氏・平群氏・物部氏・漢直氏・膳臣などが挙げられると思います。
 対する住吉中皇子に味方をしたのは、羽田氏・安曇氏・倭直氏・隼人族が考えられそうです。

 ★ 結局、大豪族の多数の支持を得た履中天皇が、住吉中皇子を打ち破ったと思います。


エ) 雄略天皇の支持者。

 「若健(ワカタケル)」こと雄略天皇は、若くして崩御したと思われますが、近江の息長氏・越前の豪族・近江の豪族・奈良の三輪君・平群氏・大伴氏・物部氏・吉備氏などの支持を得たと思います。

 そのような経緯を辿って、最後には葛城氏を滅ぼした事に成りそうです。ちなみに、葛城氏の滅亡の背景には、同じ武内宿禰ファミリーの葛城氏と平群氏の主導権争いが有ったと言われます。


D 豪族の支持が無ければ、天皇に成れなかった。(単なる想像です)。

(分りやすいのが、蘇我氏の専横の時代です)。

 「蘇我・物部戦争」では、物部守屋が穴穂部皇子を推し、蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を推して戦争しましたが、物部氏が敗れて、穴穂部皇子は天皇に成れませんでした。

 その後、崇峻天皇が、蘇我政権に反抗したので、豪族会議の「暗黙の了解」の下に、崇峻天皇は「隠れる事」に成りました。
 (この一件を、蘇我馬子の専横だと酷評する研究家がいますが、それは違います。豪族たちや皇族たちの事前の了解の下で、行われた事でした)。

 崇峻天皇の次は、蘇我氏の「持ち駒」が幼かったりして人材が居なかったので、保留にして「推古女帝」に決めましたが、蘇我政権の続投です。

 推古女帝の次の天皇は、(天智天皇・天武天皇の父親の)田村皇子(舒明天皇)ですが、629年の田村皇子の即位の前の626年に、最高権力者の蘇我馬子が死去しました。
 これを機に、蘇我氏内部で権力闘争が始まり、一枚岩の蘇我氏の権勢に影を落とし始めました。
 蘇我馬子の子供の蘇我蝦夷は、聖徳太子の子供の山背大兄皇子を推したかったのですが、他の豪族が田村皇子を支持しているので、仕方なく、田村皇子に決めました。
 このことが、田村皇子(舒明天皇)の子供の葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)の台頭を招き、蘇我氏の滅亡の遠因に成ってしまいました。

 蘇我氏の滅亡の遠因は、蘇我蝦夷に人徳が無かったこと、山背大兄皇子を滅ぼしたこと、蘇我氏の石川麻呂が反対側に回った事などが挙げられるそうですが、本当の所は、どうなんでしょうか。


E (余談として)、仁徳天皇ファミリーから排除されたかも知れない、武内宿禰の最後。(あくまでも一説であり、真偽不明です)。

 「因幡国風土記・逸文・武内宿禰の条」(「万葉緯」所引「武内伝」からの引用)、
    (簡略の翻訳に)、
 『因幡の国の風土記にいう、・・・難波の高津の宮(仁徳天皇)に、天下を治めた五十五年春三月に、大臣の武内宿禰は、御年が三百六十余歳で当国に御下向ありて、亀金(カメカネ)に双(ふたつ)の履(くつ)を残して、御陰所(みかくれどころ)知れずになった。
 聞くところによれば、因幡の国の法美(ホフミ)の郡の宇倍山の麓に神の社があって、宇倍社という。これが武内宿禰の御霊である。昔、武内宿禰は、東方(あずま)の夷(えみし)を平らげて、宇倍山に入った後、終わる所を知らずと云う。

 ☆宇倍社・・鳥取県岩美郡宇部野村宮下の宇部神社(宇倍神社)が比定社か。鳥取市・鳥取城の東南数キロの所か?)。


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