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もしかして、オバマ大統領は被爆者に「ごめんなさい」と言った?:謝罪がオバマ氏念願の「核なき世界」につながったのに
http://www.asyura2.com/16/kokusai13/msg/901.html
投稿者 あっしら 日時 2016 年 5 月 30 日 05:40:24: Mo7ApAlflbQ6s gqCCwYK1guc
 


 アメリカ合衆国大統領として日本への原爆投下を謝罪することは“政治的自殺”に等しい行為だが、広島・長崎への原爆投下を謝罪すれば、今後、実戦で使えないことになり、ある意味「核なき世界」につながると言える。

 より言えば、明示的に謝罪はしなくとも、日本への原爆投下は戦術的合理性がなく終戦のために必要もなかったと表明するだけで同じ効果が得られる。(実質的な謝罪だが)

 残す任期8ヶ月のオバマ氏が政治的生命を賭けて「謝罪」を行っていれば、彼が念願とする「核なき世界」がリアルなものとして引き寄せられていただろう。

 ノーベル平和賞まで貰ったオバマ氏の「核なき世界」構想は、UN安保理常任理事国の核独占をより強固にするためのマヌーバーでしかないから、オバマ大統領が、「核のボタン」を持ち込む一方で、実質を含め謝罪しなかったのは当然だと言える。

※関連投稿

「非核を唱える一方で核戦力強化を図る詐欺師オバマ大統領:広島平和祈念公園に平然と「核のボタン」を持ち込む「反核」政治家」
http://www.asyura2.com/16/kokusai13/msg/892.html

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もしかして、オバマ大統領は被爆者に「ごめんなさい」と言った?[スプートニク日本語]
オピニオン
2016年05月27日 20:44(アップデート 2016年05月27日 22:43)
リュドミラ サーキャン

米国のオバマ大統領は化学兵器使用についてベトナムの人々に謝罪せず、広島と長崎への原爆投下について日本に公に謝罪していない。NHKのインタビューでは、戦争の複雑さを理由に、原爆を民間人の住む町に投下したことを正当化した。

アジアは特に謝罪にこだわる。日本の首相が繰り返し日本の軍事行動の犠牲となった人々に許しを請うたが、中国や韓国などからの要求は今も続いている。1995年、当時の村山首相は、第二次世界大戦の終結50周年を記念した演説で、戦時中の日本の行動はアジア諸国を含む外国で多くの人々に多大な損害を与えたことを認めた。その後、2005年には、小泉純一郎首相も謝罪を述べた。つい昨年は安倍首相が次のように述べた。「我が国は第二次世界大戦における自らの行動について繰り返し心からのお詫びを述べてきた。我々の隣人であるアジアの民の苦しみの歴史を我々は永遠に胸に刻み続ける」。合わせて首相は、過去の戦争に関与していない将来の世代には、謝罪の責任を負わせるべきではないと付け加えた。1993年10月、当時のエリツィン大統領は、第二次世界大戦後の日本人捕虜への虐待について日本に謝罪した。エリツィンはソ連・ロシアを通じて謝罪を明言した最初の一人となった。

ワシーリイ・モロジャコフ拓殖大学教授によれば、日本人はオバマ氏から謝罪を期待していない。「日本では、オバマ氏が謝罪することはない、と考えられている。戦争は自分たちが始めたし、自分たちは負けたのだから。そして、彼らがオバマ氏から聞きたいこと、オバマ氏自身が日本人のみならず全世界に訴えたいことは、核をなくすということだ。オバマ氏は、原爆投下は悲劇だったが、戦争犯罪ではないと確信している」

ロシア外務省のマリア・ザハロワ報道官によると、重要なのは謝罪ではなく、人々の記憶。「思うに、日本人自身が自分の歴史を記憶し、それを歪めたり、書き換えたりしないことが重要だ。何がどうして起きたか、どのような被害が出たか。それが優先だ」

しかし、それでもオバマ氏は、日本に謝罪することになった。きっかけは、米国軍基地関係者による、日本人女性の残忍な殺人事件だ。「私はこの犯罪の極悪さ、卑劣さに憤慨している。それは沖縄だけでなく、日本の人々全員に衝撃を与えた」と安倍首相。答えてオバマ氏は「米国では自国民によるあらゆる暴力行為に憤慨の声が上がっている。これは許されないことであると我々は考えており、再発防止に全力を尽くす」

なぜ時に、謝罪はかくも難しくなるのか?それは罪または、許しを請わねばならなくなった事由を認めることだからだ。今日オバマ氏は広島訪問で、3人の被爆者と面と向かって話した。日本原水爆被害者団体協議会の坪井直さん(91)、岩佐幹三さん(87)田中熙巳さん(84 )だ。岩佐氏は広島で母親と妹を、田中氏は長崎で家族5人を失った。いずれもオバマ氏からの謝罪を要求しなかったが、彼らの目を見た時、もしかしたら何かが心の中で震え、オバマ氏は「ごめんなさい」と囁いたかも知れない?

一般の日本人は原爆投下に対する謝罪の必要性についてどのように思っているのだろうか。スプートニクがインターネット上で行ったアンケートの結果を見てみると、オバマ米大統領の広島訪問に際して、「謝罪しなくてもよいが、被爆者と面会し、彼らの声を聞くべきだ」という回答が4割以上にのぼった。次に多かったのは「謝罪しなくてもよい。オバマ米大統領が広島を訪問すること自体が、米国の謝罪の念を表している」という意見と「謝罪すべきだ。原爆投下は非人道的犯罪で、アメリカを戦争犯罪の罪で裁くべきだ」が、ほぼ同率で、全体の2割弱を占めた。

http://jp.sputniknews.com/opinion/20160527/2206600.html

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被爆者がオバマ大統領に、自分は米国を責めない
2016年05月28日 02:01(アップデート 2016年05月28日 02:04)

27日、広島の平和記念公園を訪問したオバマ米大統領と被爆者を代表して会見した日本原水爆被害者団体協議会の坪井直代表委員(91)は米国を責めてはいないことを伝えた。共同通信が報じた。

坪井さんは大統領に対して、自分たちは米国を責めておらず、憎しみの感情はないと伝えた。

オバマ大統領は米国大統領としては初めて広島を訪問。大統領は広島を訪問を前に断言していたように、原爆投下に対する謝罪の言葉は発しなかった。


http://jp.sputniknews.com/japan/20160528/2209542.html


 

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コメント
 
1. 2016年5月30日 16:26:29 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[162]
まず訪問の態度に対して、儀礼的に、こちら側にもその態度を幾分汲み取る能力はあるはずです。
そしてその効果はなかったわけではないのだと思います。

本当に自国民の平和を願うのならば、
これを好意的に受け取るか否かに悶着するのではなく、
その後の展開につなげていくためにはどうするか、
ということに知恵をまわされればよいかと思います。

私がこうした言い分に反応するのは、互いにそれぞれ歩み寄って平和とは実現するものであるという観点からです。そうした点で私はオバマ氏の訪問を快く感じています。
政府主導のセレモニーだと見ることができるのだとしても、きわめて異例なことに間違いはありません。

短絡的に形式だけで事を済ませられるとした考え自体、きわめていびつなものだと踏まえたうえで、しかしながら、そこから始められるものもあるはずです。

確かにそこに謝罪があったら、すべては解決したかのように錯覚はできますでしょう。
けれどもそれはそこにいる人間たちが、まったく自分たちのおかれた状況に対して、
まったく問題をみていないということになるのではないかと思います。

つまりそこから以後、継続して、どのように親交を深めていくか、という過程にこそ平和とは感じられるのだと思いますし、ある意味においては、
それはすでにはじまっており、果たされていく過程にあるとも考えることができるものです。
ですが、人々にその継続の意思がないということが認められる状況がつづくなら、
再び、そこから望ましくない状況に舞い戻ってしまうということも言えるのだと思います。

私は社会生活における基礎的な体力さえも人々に与えうることができたならば、
それらは維持されうるものだと考えています。その実現がどうしても平和と呼ぶ世界には必要だと考えます。


2. 2016年5月30日 17:00:50 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[163]
坪井氏の「謝罪を求めていない・アメリカを責めていない」との言葉も、
それはこの日本の抱えてきた歴史的史実をしっかり受け止めて、
自国民として受け継いできたその性情を踏まえたものの言える言葉だともいえますでしょう。

邂逅が果たせるのは、相手を赦すことによってのみであり、
そこに自責の念もまた消えていくからです。

この場合、戦争被害を受けることになったそもそもの原因とは何か、を考えるならば、
日本という国を構成していた人々の意識が、あるひとつの思想のもと、
ひとつの価値観に集団がただのっかることをよしとしたことに始まるのではないかと思ったりします。

ひとつの方向性に足並みを揃えて動いていくこと自体、
そこで、誰もその足並を乱すことができなかったとするのは、
そこに多様な価値観が生息しえなかったことを物語ります。

ならば、実際的に過去を振り返って反省し謝罪すべきは、
自国民に対して、現在そこを統括する日本政府が、ということにならないでしょうか。

現時点で、再び似たような状況が作り出される懸念があるのですから、
問題視すべきはまずそこだという気がします。


3. 2016年5月30日 17:29:43 : iOsBiwcJ9U : ysyLXnXJ50c[13]
オバマの謝罪無しの広島訪問はセカンドレイプだ。

4. 2016年5月30日 17:30:59 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[164]
そこに記載されたロシアの報道官の言葉がこのことを適切にあらわしています。

「何がどうして起きたか」、加えて厳密に言い表せば、
どうした思想や価値観が、その人をどのような筋道を辿らせるか、
そしてどうした一生の終わりへとたどり着かせるか、(どうした死・結末を迎えさせるか)といったことです。

国が変わらなくては、たぶんに同じことは繰り返されます。
それは国民の意識が変わるということで、
国民のひとつの人間的とされてきた社会的価値観への依存心が弱まるということといえるかもしれません。
よってそれは政府方針が変わるということではありません。

我々が今持っている集合的な価値観は、この島国を舞台に繰り返されてきた自国民への愛、そのための略奪行為への正当性の中ではぐくまれてきたものだと捉えることもできます。
そうして我々の文化的な血潮の中に組み込まれてきたものです。
そこに戦後の日本も同様に、ずっとそこに正当性を確かめるかのように、
歴史を学んできたともいうことができます。
そうしていないと、自分たちの存在意義を守れなかったかのようにです。

そしていま我々はその価値観を受け継いだままにこの時点に存在しているともいえます。

ある意味、人はそのひとつの生を終えたあとで、そのことを深く理解することになります。
そしてつぎの生で何をどれだけ理解しえたかを再び試すのです。
そして十分理解したと認識できた暁には、その次にそれを生かせるようになるわけです。

人々はそこに何が正しいのかということとは別に、
望むべき平和というものがあるのだということを十分に認識してこれたはずです。

ひとつの方法論に単に集団が乗っかるだけでは、よいものとなるわけではない。
けれどもひどく依存的にならざるを得ない。これは現時点でも自国民として抱える問題としてあるはずです。

ならばどうするか、が次のステップです。

そもそも、自国に対する愛国心というものだけが守るべき対象と限定されるのはおかしな話です。


5. 2016年5月30日 18:34:46 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[165]
いずれにしても、日本国民は自国の政策にもなんら信頼を寄せていないのだと思います。
他方、アジアに対する日本政府の働きかけもほぼこれまで、同質のものとしてあったわけで、自国の政府見解はどうあれ、国民である人々は少なくともそこに対しての後ろめたさも当然背負わされてしまっているわけです。

今回の言動に注視する動機は様々なものだとしても、
これを機に、平和実現のための積極的なアプローチとはなんだといえるのか、
それを考えるというなら、それと同時に、日本が本当にこれまで平和を望んできたのか、
そのためのなんらかの動きを国民は見せてきたのかをもひとつのテーマの中に取り上げられたほうがいいでしょう。

その上で、本当にわれわれはいま、何がしたいのか、何をどうしたいのか、
どうありたいと願っているのか、しっかりそれを認識しあうための議論の高まりが必要だといえるはずです。

他国任せ、自己の政府任せで何か望んでだけいても満足した解決はえられません。
それだけで正しいものが実現すると考えているなら、それは大きな間違いです。

人の意識の流れを変えうる力があるとするなら、それはどんな力だといえるのか。
そしてそれはどのように影響していくものなのか。
それを考えてみてほしいと思います。

結局のところ、アメリカ本国でも意見は割れて、
それを統率する力を現在誰もが見失っているのだ思います。
それはどの国においても同じく言えることです。

よって他国・隣国とのパワーバランスを保つといった考え自体は、
単に体制を拮抗し維持するだけにとどめるもので、
自分たちの望む方向性における流れとは一致しないということはたやすく理解できるはずです。
そこにいつまでもただ脅威を感じてしまっているのみというのは馬鹿らしい話だという気がします。

そこに我々も、敗戦から引きずる敵対意識、敵対感情を捨て切れていないというだけです。それはほぼ自身の臆病な性質を隠すためだけに作用しているに過ぎないということです。

臆病さから抜け出したいと考えていたとしても、そこで必ず何かと対峙し、戦わなければならない必要性などないのです。

そこにはそうした結末に向かわせるための思想や価値観の働きがあるということです。


平和を望み、それを実現するためとするなら、ヘイトデモはその対極にあたるものです。
どうしたデモも平和を訴えるとしていながら、好戦的な態度にしかでれないとするなら、
そこで自己矛盾・ジレンマを抱えていくことにしかならないはずで、であれば、
それらはまったく本質的に問題を解決するプロセスとして妥当なものではないということになります。

本質的にデモを平和実現に根ざした順当なものにしたいのであれば、
ほかのやり方を考えるしかありません。
たとえば真逆にリオのカーニバルのように、
積極的に祭りやパレードとしてのデモで平和理念を貫き通すかです。

それならば、自分の問題として取り上げ、問題を棚上げしていないことになります。

単に無責任に関与だけしてやろうといったことではなく、
積極的に他社と喜びを共感することになるのですから。

そうした態度で戦争してきた諸国に出向いて、祭をするとか、花火を打ち上げるとか、
民間でやれる平和貢献は数多く存在するはずです。

そしてそれは日本人にしかできないことでもあるでしょう。

デモをパレードにして、問題を解決するプロセスに転換していくというやり方は、
すでにきっと行われており、関心を持つ人々を多く呼び込んでいるはずです。

祭とは政・まつりごとであるということで、人々が行える政とは客を招きいれ、すべて陽気に振舞う祭であるということです。

積極的な平和貢献とは、あくまでそのように嬉しさだけを伝えるリオのパレードのようにあるべきような気がします。


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