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NGO、国連、外務省と明確な目的をもって転職 決裂しても譲らない一線を決める ケニア大暴動 水とフランスパンだけ
http://www.asyura2.com/16/kokusai14/msg/784.html
投稿者 軽毛 日時 2016 年 8 月 04 日 08:34:57: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

(回答先: 交渉の要諦:南スーダンの少年兵を解放 紛争地で培った「瀬谷流」実践仕事術 雑談の中で、相手が必要としていることと落と 投稿者 軽毛 日時 2016 年 8 月 04 日 08:00:51)


NGO、国連、外務省と明確な目的をもって転職

紛争地で培った「瀬谷流」実践仕事術

何をいつ経験するか、キャリア構築にも戦略が不可欠
2016年5月10日(火)
瀬谷 ルミ子
 「20代のうちだけで5回以上転職しました」と言われたら、皆さんはどんな印象を持つだろう。日本だとあまり好意的には受け取られないかもしれない。実はこれは私自身のこと。30歳までに以下の組織で勤務した。
 1)NGO(ルワンダ)
 2)国連PKO(シエラレオネ)
 3)日本の外交官(アフガニスタン)
 4)大学(日本)
 5)国連PKO(コートジボワール)
 6)NGO(日本:日本紛争予防センター)


これまでに仕事で使用した5種類のパスポート。右から国連旅券、外交旅券、公用旅券、一般旅券(10年用)、一般旅券(5年用)
 ありがたいことにどの転職も、「一緒に働こう」と転職先から声をかけてもらった。30歳になった直後に、現在勤めるNGO(日本紛争予防センター)の事務局長に就任。ここで過去最長の9年間勤務している。

 紛争地で働く人材にとって、数年単位で転職するのはよくあることだ。過酷な勤務環境に長居しすぎて燃え尽きてしまう人がいる。現地の復興が進み、自分の専門性が求められるフェーズが過ぎたので、新たな勤務地を探すケースもある。

 私の場合、もともと20代のうちに何回か転職しようと決めていた。判断するうえで重視した要素は、転職する「目的」と「順番」だった。

 私にとっての転職する「目的」は、どんな組織や環境においても、所属や肩書に頼ることなく成果を上げられるスキルを早いうちに身につけることだった。自分で解決できることが増えるほど、現場を救うことができると思っていたからだ。紛争後に元兵士たちの武装を解除するという専門を軸に、NGO、国連、外務省と、それまでに経験したことない職場にできる限り転職した。

 どの組織でも成果を出せる人間は、現場のあらゆる問題に対処できる本質的な力を持つ。皆さんが「この人は優秀だ」と感じる人を思い浮かべてほしい。その人は、他の企業や異なる業種でもうまくやっていけるだろうし、一緒に働きたいと思わせる人ではないだろうか。

ルワンダに暮らす人を助けたかったが…

 私が本質的な力を持ちたいと思ったきっかけは、大学生になって初めて紛争地を訪れたときだった。アフリカのルワンダで1994年に起こった大虐殺を、当時、高校生だった私は新聞の記事で知った。これをきっかけに、私は紛争地で働くことを目指すようになった。

 最低限の英会話を身につけ、ルワンダのことを自分なりに勉強。虐殺から3年たった大学3年生の夏休みに満を持してルワンダを単身訪問した。何かしらボランティア的な貢献が現地でできるだろうと淡い期待を抱いていた私を待っていたのは、「自分は何の役にも立たない」という現実だった。


ルワンダのプロジェクト。人生で初めて手がけた思い入れのあるプロジェクトだ。内戦で夫をなくした未亡人12人に、自立のため洋裁の職業訓練を行った
 現地の人たちの悩みを聞いてあげれば、少しは癒やしになるのではないかと思っていた。だが、「虐殺で親戚が30人以上殺されて、生き延びたのは自分だけだ。絶望感しかない」と打ち明けられても、当時の私には「それは…大変だね…」と間の抜けた相槌を打つことしかできなかった。自分はなんておこがましかったのだろうと恥ずかしくなった。現場で役に立つにはそのためのスキルが必要、という当たり前のことに初めて気づいた。

 同時に「学歴や所属や肩書に頼ることなく、現場に身一つで放り込まれても変化を生める人間になりたい」と強く思った。それまで日本で生活するなかで重視されていた学歴や肩書きが、現場では役に立たなかったからだ。所属や肩書きを持っていないと自信が持てないのは、自分自身が肩書きに負けているということ。転職しても、「元○○社員」と過去の経歴を持ち出さないと自信が保てない人は、過去の自分に負けていると感じる。

国連での経験がNGOで生きる

 異なる組織に属して、その内部事情やシステムを学ぶことで、意図していなかったメリットを得ることができた。別の組織と折衝する際に、相手側の利害や制約を踏まえて協議ができるからだ。相手側の組織に生じうるリスクを先回りして対策を取ることもできる。信頼関係も築きやすい。

 例えば、日本紛争予防センターは私が加わるまで国連機関と提携したことがなかった。国連は名前を聞いたこともない組織と契約することに後ろ向きだった。しかし、私が初めて国連と交渉をした際、国連職員が使う専門用語や事業を管理する内部の仕組みを把握していたので、話がスムーズに進んだ。

 外務省に勤務した経験を生かして、国連側にメリットのある資金調達の方法をアドバイスしたのが功を奏して、頼りにしてくれるようにもなった。この結果、今では国連側から業務提携を持ちかけられることも増えた。

 紛争地で和平と復興を進めるのは、壮大なミッション・インポッシブルに挑むようなもの。目標を達成するため、さまざまな技術やリソースをもつ仲間を確保し、連携する必要がある。しかし現実には、組織の文化の違いから生まれる摩擦や情報共有の不足などが原因で、本当に必要な支援が現場に届かないこともある。さまざまな組織の間をつなぐことのできる人材がいるかどうかで、プロジェクトの成果は大きく左右される。

組織と組織をつなぐ架け橋

 数年前に、ソマリアで活動する国連機関からの要請で治安改善プロジェクトの立ち上げに関わったときのこと。国連側と現地NGOの間に摩擦が生じたことがある。

 活動地が危険なため、国連職員は現場入りできない状況にあった。一方、唯一、活動できるソマリアの現地NGOは会計能力に不安があった。国連側は、予算が浪費されるリスクを回避したいので削減を要求。現地NGOは、本当に必要な経費まで疑われることを理不尽と感じていた。現場のリスクを全て引き受けなければならないことにも抵抗があった。

 膠着状態は1カ月も続き、プロジェクトは動かないまま。事態は、感情的にもつれる段階まで悪化した。そこで、本来の私の仕事ではなかったが仲介することになった。

 NGOと国連どちらの内部事情も理解していた私は、どちらの側からも味方と捉えてもらえたのが大きかった。双方を行き来し、徐々にその間のギャップを埋める提案をした。筋が通らないことや、現実的ではない点は、どちらにも率直に伝えた。それでも角が立つこともなく、客観的な提案と感じてもらえた。1週間後には何とか両者の仲をまとめることができた。

まずは現場から

 転職の「目的」と同じくらい重要なのが「順番」だと思う。私にとって鍵だったのが、原体験を得るタイミングだった。最初の就職先は、支援が必要な現場に最も近く、小回りのきく立場で働けるNGOにしようと決めていた。

 国連や外務省などの大きな組織で最初の経験を積むと、大きなことを自分の力でしていると勘違いするのではないかと懸念した。下駄を履かされたことに気づかないまま、その後のキャリアを歩んでしまうかもしれない。さらには、大組織のしがらみありきの判断をするようになり、現場のことを軽視してしまうのではないか。とくに、私は地方出身で自分に大した取り柄がないことにコンプレックスを持っていたので、「いざとなったら一見洗練された長いものに巻かれちゃうんじゃないかな」という不安があった。

 だから、自分の原点となる視点を紛争地の現状に接することで持ちたかった。この選択は正しかったと思う。大きな組織のしがらみに流されて安易に妥協しそうなときは、「現地のあの人たちはどうなるんだろう」と自然と考えるようになった。そうすると踏ん張りがきき、もう一度だけ解決策を考えてみようと前に進む原動力になる。

 大規模な支援プロジェクトほど、それにより救われる人の規模など「光」の部分に目を向けがちだ。このため、光をどれだけ増やすかが業務の目的になる。しかし、善意の支援でもその反動で「影」が生じる。

 たとえば、内戦に参加した元兵士を和平の名のもとに更生させるプロジェクト。その影には、彼らに家族を殺されたり手足を切り落とされたりしたにもかかわらず、苦渋の決断で和解を受け入れた被害者たちがいる。影となる人たちの多くは弱者であり、大きな声を持たない。目に見えない。そしてその姿は、支援に当たる組織の決裁書類に載った瞬間に無味乾燥なものになり、温度を失う。

 私は、キャリアの早い段階で、「成功」と評価される事業の影、苦汁を飲まざるを得なかった人々を現場で目の当たりにした。その姿は今でも目に焼き付いている。十分な対応ができなかった当時の自分の不甲斐なさと憤りをはっきり覚えている。この原体験から、プロジェクトや交渉が生み出す成果の陰で副作用が生じていないか、具体的に想像する癖がついた。 

 現場の問題を変えるための本質的な力を身につけるという「目的」を持ち、その目的を最大限達成するために、自分の性格を踏まえた「順番」で転職をした。これが、今日の私が持っている視点やスキルを形作っていると感じている。

NGO、国連、外務省それぞれの特徴

 読者のなかには、同じ援助に関わる国連、外務省、NGOの具体的な違いがいまいち分かりにくいという人もいるだろう。

 国連機関は、世界中からスタッフが集まるので国際色が豊かだ。多様性のある職場環境で、仕事の手法や文化、新たな価値観を学ぶことも多い。

 プロジェクト予算は数億〜数百億円規模。一つの国家の行く末も左右しうる大規模なプロジェクトに関わることもある。食糧、難民、子どもなど、専門性に特化した活動を直接実施することもできる。

 しかし、組織のマンデートを超えたニーズに対して柔軟に行動することが難しい。少しの変更をするにも、相当な労力と時間が必要だ。機関によっては現場活動の多くをNGOに委託するため、現地レベルの支援を直接経験できないという側面もある。

 アフリカで活動する国連プロジェクトで、元兵士の武装解除を担当していた際、事業が期待された成果を出しておらず、改善すべきとの意見がチーム内で上がった。しかし、結局、何も変更しないとの決断が下された。手続きに時間がかかりすぎるのが理由だった。これを機に、やりがいを維持できない同僚たちが次々に現場を去っていった。

 外務省での仕事は、担当する国や地域の課題に政策レベルで深く関わることができる。国連やNGOの活動資金の一部は各国政府からの援助で成り立っているため、外務省で働けば、さまざまな機関に対して提案をしたり、連携したりすることもできる。担当する仕事によっては個人の裁量が大きいため(人が足りないので仕事が多いという理由もあるが)、自分が望めば大きな仕事に取り組むこともできる。

 私がアフガニスタン大使館で外交官として武装解除を担当したときは、大使とともにカルザイ大統領に会って協議をしていた。多い時には週に数回、会うこともあった。

 同大統領への提案の素案をつくるのは私の役割だった。その分、プレッシャーも相当だったが、日本政府の外交政策や数百億円の予算を持つプロジェクトを、20代なかばで作った経験はこれ以上ない財産となった。

 NGOは、社会課題に寄り添った立ち位置で現場の事業運営を直接行う立場。現地住民との折衝、企画立案、実行から評価まですべてのフェーズに関わることができる。経験を積み成長できる速度は他の機関に比べてずっと速いのが強みだ。

 私が24歳の時にルワンダのNGOで社会人として初めて働いた際に担当したのは、数百万円程度の大きくはないプロジェクトだった。それでも、事業計画や予算の作成、現地スタッフの雇用、事務所開設、日々のトラブルシューティングなど、自分で現場を動かす充実感があった。毎日、何かを学んだし、いざとなったら自分ひとりで何とかする覚悟もついた。

 NGOは、高度な専門性を持つプロ中のプロと認識されており、金銭面で国連機関より待遇が良いところもある。途上国では、民間企業より待遇がよいことも多い。

 しかし、日本のNGOは、十億円を超える規模のプロジェクトを実施することはほとんどない。待遇も、国際機関や民間企業に比べて低い。長い間、ボランティアと同じとみなされてきたことが理由の一つだ。ただ近年は、日本でもNGOへの理解が進み、ずいぶんと改善している。専門分野ごとに高いスキルを備えたNGOが増えており、企業との連携も進んでいる。

NGOは自分の裁量で働ける余地が大きい

 私は30歳を節目に当時勤めていた国連を辞め、日本を拠点に平和構築の仕事をすることにした。どの組織で仕事をするか、選択肢はいくつかあった。フリーの国際コンサルタントになるか、NGOを立ち上げるか、それとも起業するか。

 まず、「組織」や「チーム」として、ニーズがあるのにやり手がいない新しい平和構築に取り組もうと考えた。20代のうちはとにかく現場経験を積み個人としてのスキルを高めることを優先した。でも、現場にさまざまな問題があるなか、私がひとりでできることには限界があることに気づいた。

 次にNGOに戻ることに決めた。国連や政府など大きな組織は新しいことを始めるのに時間がかかりすぎる。そして、日本紛争予防センターで過去最長の9年以上働くことになった。

 NGOの良さは、フットワーク軽く自分たちの裁量で組織の形を変えていけることだ。新たに生じたニーズに対し、動くと決めたら短期間で新規事業を立ち上げ現場の問題に対処することができる。国連と役割分担して共同事業をすることもできる。政府に政策を提言し、外交政策に影響を与えることもできる。志と手段とスキルさえ確立できれば、自分やチームの力量に応じていかようにも活動することができる。NGOに可能性を見出した理由として、この点が一番大きい。

 NGOはベンチャー企業に似ているところもあると思う。一方、私は社会起業家のようなビジネスの切り口は選ばなかった。民間企業で働いた経験も企業関係者と現場で接する機会もさほどなかったため基盤がないという単純な理由だった。それどころか、当時は民間企業の人たちと接する勝手が分からず、打合わせでは毎回とてつもなく緊張した。「武装勢力の司令官と交渉しているほうがよほど気が楽だ」と本気で思っていたほどだ。

 ただし、NGOで働き始めると、企業と連携したり協力したりする機会が日常業務の中で頻繁に起こる。いつまでも勝手が分からないままではいられない。とりあえずジャック・ウェルチの本を読んだり、ビジネスセミナーを受講したりした。

 その後年月が流れ、3年前にJCCP Mという会社の取締役となった。途上国でのビジネスを支援し、復興につなぐ仕事を営んでいる。さらには日経ビジネスで連載までするようになった。まだまだ発展途上だが、少しは苦手意識を克服できたのかもしれない。


このコラムについて

紛争地で培った「瀬谷流」実践仕事術
 瀬谷ルミ子氏は、アフガニスタンや西アフリカで武装解除に従事した後、現在はケニア、ソマリア、南スーダン、中東地域など様々な紛争地で平和構築に携わっている。支援プロジェクトを設計・運営したり、武装勢力や現地住民と交渉をしたり、その取り組みは多様だ。
 この連載では、こうした経験を、エピソードを踏まえてご紹介していく。取り組んだ環境は「紛争地」という特殊なものだが、プロジェクト管理の手法や交渉術はいずれも「一般のビジネス」に通じるものがある。これから海外でビジネスに取り組もうという皆さんの参考になる事例も数多くある。
 テロの脅威はアフガニスタンやイラクなど特定の国や地域にとどまるものではなくなった。欧州で無差別テロが拡大している。海外で活動するときいかにして安全を保つか、いかに業務を「進めるか、瀬谷氏が現場で培ったスキルを紹介する。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/16/041900003/050300006




アフガン、南スーダンとビジネスの現場の共通項

紛争地で培った「瀬谷流」実践仕事術

2016年4月26日(火)
瀬谷 ルミ子
 筆者は認定NPO法人日本紛争予防センターで理事長を務めている。また、その関係会社JCCP Mを3年前に立ち上げ、アフリカや開発途上国に進出する日本企業へのコンサルティングや危機管理を提供している。

 同センターが取り組むのは紛争地での平和構築活動。武力紛争を経験した社会で争いが再び起きないよう、治安を回復し、被害者の自立を支援し、対立してしまった集団間の信頼を醸成する仕事だ。争いが起きる予兆がある地域で、被害の拡大を食い止める紛争予防活動も行っている。現在はアフリカのソマリア、南スーダン、ケニア、および中東地域で活動している。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/16/041900003/042000005/p1.jpg

筆者。ケニアで発生した暴動のため避難民となった子どもたちと
 同センターが行っている平和構築活動は、具体的には次のように整理することができる。

難民や国内避難民に最低限の生活が可能な衣食住を提供する
若者が武装勢力や犯罪集団に取り込まれないよう、職業訓練を実施したり起業を支援したりする
警察が機能していない地域で、争いを調停できる人材を育成する。対立する住民の間で起きる身近な争いの火種を小さいうちに早期解決する仕組みをつくる
紛争や暴力の被害に遭い心に傷を負った大人や子どもたちに心のケアを施す
差別や虐待を受けがちな女性を保護する仕組みをつくる。彼女たちの自立を支援する
対立する集団間の信頼醸成の仕組みを作る
 筆者は元々、武装解除を専門にしていた。紛争が終わった後、兵士や戦闘員から武器を回収し、彼らを一般市民として社会復帰するための職業訓練などを支援する作業だ。ルワンダ、アフガニスタン、シエラレオネ、コートジボワールなどの紛争地でNGO(非政府組織)職員、国連PKO職員、外交官として10年近く活動した。


アフガニスタンで武装解除を行った際、回収した戦車の上で国連職員、現地兵士と
 2007年に当時勤めていた国連を辞め、日本紛争予防センターで働くこととなった。「第2次大戦後の焼野原から復興を成し遂げた日本から学びたい」との声を紛争地で聞く機会が非常に多い。しかし、実務的な平和構築に取り組む専門団体が日本にはなかった。この状態を変えたいと思ったからだ。

紛争地にもビジネスにも共通するスキル

 様々な国で武装解除、平和構築に携わる中で、支援プロジェクトを設計・運営したり、武装勢力や現地住民と交渉をしたり、転職をしたりしてきた。この連載では、こうした経験を、エピソードを踏まえてご紹介したいと思う。取り組んだ環境は「紛争地」という特殊なものだが、プロジェクト管理や交渉、転職はいずれも「一般のビジネス」に通じるものがある。

 加えて、これから海外でビジネスに取り組もうという皆さんの参考になる部分も数多くあると思う。テロの脅威はアフガニスタンやイラクなど特定の国や地域にとどまるものではなくなった。欧州で無差別テロが拡大している。海外で活動するときいかにして安全を保つか、これにはいくつかの約束事がある。

ケニアの平和構築:紛争の芽は小さいうちに摘む

 初回である今回は、筆者たちが現在取り組んでいる平和構築活動の一端をご紹介する。取り上げるのはケニアでの活動だ。

 ケニアでは、2007年末に大統領選挙が行なわれた直後に大惨事が発生した。異なる部族出身の大統領候補たちが、激しい選挙活動を繰り広げた。そして自らの属する部族に選挙演説を行うたび、攻撃的な言葉で他の部族を打倒するよう煽ったのだ。これが暴動につながった。とくに、日頃から生活苦や不満のはけ口を探していた若者たちが多く住む貧しいスラム地域で、暴動が激しかった。部族対立に端を発するこの暴動により数千人が亡くなった。土地を追われた30万人以上が避難民となった。


ケニアで2番目に大きいマザレスラム。異なる民族出身の推定40万人の貧困層の人々がひしめき合って暮らしている
 筆者は暴動の際に調査のためケニア国内に滞在していたため、対立する約40万人(推定)が住むスラムで2008年に事業を立ち上げた。翌年には被害者への心のケアを行う現地カウンセラーを育成する取り組みと、およそ10箇所にセラピールームを設置する作業を開始した。現地では「うつ病」や「心の病」についての理解や専門家が圧倒的に不足していた。トラウマや恐怖で日常生活を送れなくなった被害者を家族ですら理解できない状況が起きていた。


 ある5歳の男の子は、言葉が話せない障害を抱えていた。おもちゃを使ったカウンセリングを施したところ、人形を銃で打ち続ける仕草を繰り返した。さらなるカウンセリングの結果、暴動の際に目の前で父親が射殺されたのを目撃したため、ショックで言葉が話せなくなっていたことが分かった。これを踏まえて、手話の訓練や治療を行うことになった。


絵や粘土などを使って心のケアを行う「アートセラピー」。言葉で気持ちを表現しにくい子どもなどを対象に効果を上げている
 この地域で、コミュニティ内の争いを調停する仕組みも作った。個人間で争いが起こると、「どこで誰と誰が争っている」といった情報が調停人たちに届く。個人間で起きた争いが、互いの民族を巻き込んだ暴動に発展する前に早期解決するのが狙いだ。調停に携わるのは、紛争解決の訓練を施した長老や若者、女性たち。この仕組みは効果を上げており、2008年以降、この地域で暴動は起こっていない。


紛争解決の方法について、ケニアの住民たちに研修する筆者
 筆者たちは、カウンセラーや調停人となる人材の育成と事業を現地化する仕組みづくりを重視している。筆者らが去った後も、現地の人々が主体的に活動を続けられるようにすることが大事だからだ。自分たちが暮らす社会の平和を維持するのは、最終的にはその社会の住人である。

 事業管理や交渉で重要なのが「期待値のコントロール」だ。課題やニーズが深刻なほど、人々は、その事業が自らの生活に劇的な変化をもたらすことを期待する。しかし「復興は一日にしてならず」。期待値に対して現実の成果がすぐに上がらないことに折り合いを付けられない人々は、早々に失望し、事業で発生する些細な行き違いにも不満を爆発させるようになる。

 ここで大事なのは、一時的に険悪な関係になることがあろうとも、事業を開始する前の交渉で厳しい点も詰めておくことだ。そうしておけば、事業を開始した後に「想像したよりずっと成果があった」と感じてもらうことができる。少しでも前に進んでいるという実感が、さらなる復興を目指す気力につながるのだ。


異なる民族の住民が協力して住宅を建設する仕組みを取り入れた。石や木も住民たち自身に調達してもらった
 ケニアで避難民向け仮設住宅を建設した際に、建設作業と一部の資材の調達を住民たちにしてもらうことが自立のために妥当と見積もった。最初の住民たちとの協議は紛糾した。「我々は全てを失った被災者なのにあんたらは鬼か!」と反発されたのだ。だが、事業が終わる頃には住民間で自発的に復興計画を協議し実行することが習慣となり、住民たちは「最初はがっかりしたけれど、結果としてこれで良かった」と話すようになった。

良いロールモデルをつくる

 争いを早期に解決する仕組み作りと並行して、何のスキルも持っていない若者たちを、紛争で被害を受けた人向けのカウンセラーとして育成するプログラムを7年間にわたって実施してきた。貧困と暴力から逃れることができず自暴自棄になっていた若者たちが、社会に貢献するためのスキルと機会を得ることで、自尊心を回復していった。

 いずれのプロジェクトも、現地住民の育成を中心にすえている。こうすることのメリットは、彼ら・彼女らが、後に続く若者や子供たちのロールモデルになることだ。紛争地では、武装勢力の司令官やギャングのリーダーなど「悪い」大人がクローズアップされがち。子どもや若者にとって「良い」ロールモデルが存在しないことが課題となっている。結果として、日々の生活に不満を抱えた若者たちが甘い勧誘の言葉に誘われて、暴力的な集団に取り込まれやすくなる。

 紛争調停人や被害者のカウンセラーという専門家として尊敬を集め、地域のリーダー的存在になっている身近なお兄さんお姉さんは、子どもたちにとって憧れだ。今では、彼ら・彼女らが道を歩いていると、地元の子供たちが駆け寄ってくる姿も見られる。人材育成には時間はかかるが、育った人々が生み出す波及効果は何にも代えがたい。

警察の信頼を取り戻す

 ケニアのスラムでは、警察と地域住民との関係を構築し、信頼を回復する取り組みも進めている。地元の暴力や争いを解決するのは本来、警察の仕事だ。しかし、紛争地では警察に対する不信が根深い。警察官は公務員ではあるが、給料が未払いであったり、待遇が悪かったりするため困窮している。なかには地域住民からお金を巻き上げたり、密売に関わったりする者もいる。このため何か起きても、住民は警察に頼ることはなく、通報もしない。

 筆者たちは住民の立場に立って治安を改善するよう警察官に訓練を実施。警察官と住民が交流するワークショップも立ち上げた。次第に、住民たちのなかに、「警察官の中にも信頼できる人間がいる」と考える人が現われ、身近に犯罪が発生した時には警察官に通報するようになった。今では、地域の安全を守る仕組みづくりに、市民と警察官が共同で取り組むようになっている。

 こうした活動を通じて筆者は紛争地の問題解決のスキルを身に着けてきた。そのスキルにはビジネスにも通じるものが数多いと感じている。次回からは、問題解決や交渉を具体的にどのように進めるのか、求められるスキル、危機管理などについて具体的に話をしていきたい。 
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/16/041900003/042000005/


交渉の要諦:決裂しても譲らない一線を決める
紛争地で培った「瀬谷流」実践仕事術
2016年6月23日(木)
瀬谷 ルミ子
(前回はこちら)
 引き続き交渉について。
 前回「アフガンの武装解除で駆使した交渉術」と前々回「交渉は相手に会う前から始まっている」でも「交渉に臨む際に準備すべきこと」を述べた。もう一つ必要なことが、交渉の「落としどころ」を複数準備しておくことだ。そのためには、まず自分が行う交渉が以下のどちらに当てはまるか決めておく必要がある。
・必ず合意に達する必要がある交渉

・決裂することもありうる交渉
 たいていの交渉は、一定の合意に達することが目標だ。しかし、不利な合意をするくらいであれば決裂した方がよい場合もある。そのため、その相手との交渉自体を取りやめる選択肢があるかどうかを事前に考えておく必要がある。そのうえで、分水嶺となる条件をあらかじめ絞っておくのだ。
 「決裂する可能性をはじめから考えるなんて…志が低い!」と思う人もいるかもしれないが、必ずしもそうでもない。時間や労力の制約を考慮した結果、他の候補に切り替えたほうがコストが節約できるケースがある。需要と供給が合致しない相手との不要な交渉を避け、さらなる機会損失を避けることができる。

被災民の子ども:当時の避難民たちは乾いた土地で吹きさらしの状況で暮らしていたため、子どもたちは常に砂だらけの状態。手や体を洗うこともできなかった
 ただし、ビジネスでも援助でも、安易に交渉決裂を繰り返していると当然のことながら目的は達成できず、成果も上がらない。自分自身が交渉に向き合っていない時の言い訳にもなる。そのため、決裂を選ぶ場合でも、やむを得ない状況に限る必要がある。
 ちなみに、紛争地における平和構築の交渉では、将来のコストに対してより注意を払う必要がある場合がある。ある交渉を成立させることを優先したために、組織が持つ本来の理念や原理原則が誤解されたり、組織内部で活動方針がぶれてしまったりする可能性があるからだ。
「コンクリート製の住居を建ててほしい」
 私が理事長を勤める日本紛争予防センターが、8年前にケニアで発生した大暴動の被災者を支援する案件が持ち上がったときのこと。土地も家も財産も失った被災住民との協議で折り合いがつかず、支援をしないと決めたことがあった。
 この暴動で民族間の対立が起こり、数週間で数千人が死亡。30万人以上が土地を追われた。避難民のなかに、新たな土地に移り住み、他の民族と一緒に新しい村を一から築くことを選んだ人々がいた。彼らはケニア政府から支給されたわずかな見舞金を元手にした地方の安い土地をなんとか買ったものの、手元にはほとんどお金が残らなかった。
 避難民キャンプで配布されたビニールシートを使って、掘っ立て小屋を作り住居にしていたが、雨風が強くなればすぐに飛んでしまう状態。安い土地には安いなりの理由があり、井戸を掘っても水が出る見込みがない不毛な土地だった。生活のために農作物を育てたくても手立てがない。常に吹きさらしの土地で子どもたちは手も洗えず常に泥だらけ。被災者たちは途方に暮れていた。

被災民のテント:被災直後に住んでいたのは、ビニールシートをかぶせただけのテント。雨漏りや風での破損で、安心して眠れない状況だった
 日本紛争予防センターは、これらの被災民向けに住居と給水設備をつくることにした。住居は1軒につき二部屋あるつくりで、木で骨組みし、土と石で壁をつくり、トタン屋根をつけたもの。トタン屋根や支柱などは私たちが調達するが、土や石など現地で調達できるものは住民が集め、建設作業も住民たちに担ってもらうことにした。対立した民族同士が協力して新たな村作りをする象徴的な作業になるし、壊れても自分たちで簡単かつ安価に修理できる持続性を築くことができるからだ。
 ところが、協議を進めるうちに一部の集落の住民から反対の声があがった。他の地域でコンクリート製の2階建ての住居建設の支援を受けた被災者がいることを聞き、自分たちももっと良い住居を建ててほしいと要請してきたのだった。
 この要請を受け入れると、予算の制約のため、建てられる住居の数は半分以下になってしまう。住民たちが自分でメンテナンスをするのも困難になる。こうした点を説明し協議を何度も重ねたが折り合いがつかない。そのため、反対する集落には住居の提供を取りやめ、支援してくれる他の団体を探してもらうことにした。
 住居を必要としている被災者は他にもたくさんいる。雨が降ると住民から「ビニールシートの屋根が飛ばされてみんなびしょ濡れだ!助けて!」と連絡がきたこともあった。一日でも早くより多くの被災者に支援を提供したい。
住民たち自身が維持できる仕組みを作る
 加えて、「支援が終了した後に住民たち自身が維持できる仕組みを作る」という日本紛争予防センターの方針を大事にした。住民たちが「誰かが助けてくれるまで待つしかない」と考え、何年経っても外部の支援を待ち続ける姿を数多く見てきたからだ。この方針を曲げてしまうと、日本紛争予防センターで働く現地スタッフが別のプロジェクトを行う時に、大事にすべきポイントを見失ってしまいかねない。相手の主張に押されて、プロジェクトを迷走させてしまう恐れがある。
 結局、近隣の別の被災民の集落で住居を建設することになった。その集落でも、自分たちで建設に携わったり資材を調達したりすることに当初は不満の声があった。しかし、協議を重ねて合意し、住居建設を始めた。プロジェクトでは自分たちで住居のメンテナンスをする方法や、住民から少額ずつお金を集めて将来の修理費を貯蓄する方法の研修も実施した。住民たちは徐々に、効率的に復興を進めるにはどうすればよいのか、村の将来について自発的に話し合いをするようになった。

被災民の住居建設:住民たちで協力して住居をつくることで、自分たちが新しく村を再建するという主体意識が生まれた。
 500人の住民向けの住居建設が無事完了した数カ月後、この集落を視察に行った。すると、村長の家の屋根には小さなソーラーパネルが乗っていて、携帯電話を充電しながら出迎えてくれた。驚く私に村長は、「住民で話し合い、復興を進め、野菜や作物が育てられるようになった。そこで、商人に連絡して村の収入を増やそうということになった。村の基金で携帯電話を買った。代表して私が管理しているんだ」と話してくれた。

完成した住居:二部屋ある家なので、男女の子どももプライベートを確保して着替えなどができる、と喜ばれた
 初めて住居建設の話し合いをしたときに「被災した自分たちにできることなんてない」と小さな声でつぶやいていた弱々しい姿はどこにもなかった。
 ちなみに、住居建設で交渉が決裂した集落とは後日談がある。自分たちの希望する住居を支援してくれるところがなかなか見つからず、結局一階建ての石造りの家で妥協したとのことだった。
 その後、日本紛争予防センターが支援した集落がその後復興を進めているとの噂を聞き、機会があったら一緒にプロジェクトをしたいと希望してきた。この集落とは、鶏や家畜を飼育して収入を増やす事業をすることになった。今度は事前の協議で折り合いがつき、住民主導で持続性のある活動を続けている。私たちが核となる方針を貫き、その意義が理解されれば、一度は決裂した関係が復活することもあるのだ。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/16/041900003/062000009/


アフガンの武装解除で駆使した交渉術
紛争地で培った「瀬谷流」実践仕事術
2016年6月9日(木)
瀬谷 ルミ子
 前回の記事「交渉は相手に会う前から始まっている」に引き続き、交渉について話そう。

アフガニスタンでの武装解除に伴う、民兵組織との交渉風景。交渉内容によって、司令官と単独でするか、他の部下の面前でするかが変わることもある。
 お互いにすんなり合意に達する交渉ばかりなら、どれだけ気が楽だろう。現実には、明らかに相手が難色を示す条件について合意を引き出さなければならないこともある。前回も述べたように、交渉において相手と直接話をしている時にできることは限られている。
 合意するのが困難だと予想される交渉に臨む際に、事前に準備すべきことがある。相手が交渉に「合意するメリット」と「合意しないデメリット」をつくることだ。
 交渉に合意するメリットはイメージしやすいだろう。ポジティブな変化を想像させる要素だ。ビジネスの世界なら、「○○を買ったらこれだけ快適になる」「□□を受講したらこれだけスキルがあがる」「△△を導入したら生産性が上がる」などが考えられる。
 一方、相手が新しく得る何かよりも、それと引き換えに失う既得権益を気にする場合、その交渉の難易度はぐっと高くなる。ビジネスで言えば、購入するプロダクトやサービスと引き換えに支払う金銭含めたコスト、現状を変えることで生じうる手間やリスクへの懸念などがそれに当たるだろう。
 ちなみに紛争地での交渉がビジネスの交渉と決定的に違うのは、サービスを受ける現地の受益者が金銭的なコストを支払うケースがまれなことだ。現地の支援事業の多くは国際社会からの援助で成り立つ。「学校ができる」「職業訓練を受けられる」といったプロジェクトの恩恵を現地の人々が受ける場合にも、金銭的な対価を現地の人たちが負う必要は基本的にはない。現地の受益者は、支援の良し悪しや成果を判断する“顧客”でありながら、金銭的な負担は各国政府、国際機関、財団など他のドナーが負う。
失うものと得られるもののバランス
 紛争解決の現場で行う交渉では、相手に社会的地位や権力をあきらめさせることが交渉の目的になることがある。例えば、アフリカやイスラム諸国など伝統的な男性社会において、女性の権利や社会参画を向上させるプロジェクトを実施する場合。男性がそれまで占有していた集会での発言権や決定権を脅かすと受け取られることがある。
 こうしたケースでは、失うものに代わるメリットを具体的に示せるかどうかが合意の鍵となる。例えば、男性のみで世帯収入を向上させるための話し合いをしてもらったあとに、家計を把握している女性の意見を聞く場を設ける。女性の意見を取り入れたほうがより効果的に各世帯の生計を向上させるプランが作れることを示すわけだ。
 社会的地位を与えることも有効だ。妻への家庭内暴力など女性が抱える問題に対処するプロジェクトを受け入れたコミュニティでは、大臣やメディアも招いたセレモニーを行い、地元の長老たちが新たな社会的ステータスを得られるよう配慮する。
 しかし、代わりになるメリットを生み出すことがそもそも不可能な場合もある。例えば、武装勢力の司令官に武器と部下の兵士を手放すよう交渉する場合だ。手放す権力に見合う社会的地位というと、知事など何らかの政治職になる。
 だが、紛争で多くの犠牲者を生んだ司令官に見返りを与えることが倫理的に正しくないこともある。本来は政治的力量に応じて任命されるべき役職に、不適切な人物を別の理由で就任させることが、その社会に負の影響をもたらす可能性もある。交渉で提示する見返りは、「これ以上の譲歩は和平や社会全体に不均衡を生じさせる」というしきい値の手前で踏みとどまる必要があるのだ。
アフガニスタンで武装解除に取り組む
 したがって、難度の高い交渉ほど、メリットを提示するだけでは頭打ちになる。そんなときには、「交渉に応じないと既得権益を失う」というデメリットを併せてつくる必要がある。
 私が過去に行った交渉のうち、極めて難易度が高くメリットとデメリットの条件設定を綿密に行ったのは、アフガニスタンで6万人規模の武装勢力の解体を担当したときだった。当時の私は27歳。日本の外交官としてプロジェクトに加わった。
 当時のアフガニスタンは、9・11の米同時多発テロが起きた直後。米国はテロの首謀者であるうサマ・ビン・ラディンをかくまっているとの疑いで、アフガニスタンの政権を握っていた武装勢力タリバンを攻撃した。このとき、米国に協力したタリバン以外の現地の武装勢力は、タリバン政権を倒した勝ち組になった。

アフガニスタンにおける司令官の配置図。武装解除の対象となった将軍級の司令官の分布を示している。民族ごとに色分けされていて、協力関係・敵対関係が分かるようになっている(撮影:著者)
 そして、タリバンがいなくなったあとのアフガニスタンを再建するため、正式な国の軍隊を新たにつくることが決められた。これに伴い、日本の戦国時代のように各地の拠点で争い合っていた武装勢力はいったんすべて解体することになった。
 当時のアフガニスタンには、最高峰の将軍クラスの司令官が十数人。その下の中堅司令官が約300人、一般兵が6万〜10万人。解体すべき部隊の数は約200あった。
 「あなたの武器と部下を手放してください」と言われて、「わかりました」と素直に応じる司令官はいなかった。司令官であることで得られる社会的地位は絶大だ。さらに、利権を元手にビジネスを手広く行っている司令官もいた。スイスの銀行に隠し資産を持っていると噂される者もいた。ちょっとやそっとの社会的・金銭的見返りでなびくはずはなかった。
 一般の兵士たちは、再就職できるのであれば軍を出てもよいとする者が多かった。彼らのために建設業や洋裁、農業などの職業訓練を用意した。しかし、司令官が首を縦に振らない限り、部下の兵士たちが勝手に投降することは認められない。そのため、まず司令官に限定した以下のインセンティブをつくった。
司令官向けのメリットを用意
<武装解除に応じるインセンティブ(メリット)>
1)司令官を退く代わりに社会的地位のある政治職を与える(大臣、県知事など)。
2)ビジネスの分野でセカンドキャリアを始めるための起業支援を与える
3)司令官個人では取得が困難な先進国の入国査証(ビザ)を得られるよう便宜を講じる
 上記のうち1)は、先に述べたように、司令官が戦争犯罪を犯していないか、適正はあるか、適切な要職に空きがあるかといった要素に左右される。また、政権運営に関わることなので、最終的にはアフガニスタン政府が決めることであり、国際社会が口出しすべき問題ではない。そのため、アフガン政府には「この司令官からこんな希望があった」と伝えるにとどめ、司令官にも「希望しても約束はできない」と答えていた。
 2)は、主に中堅の司令官向けだ。トップの司令官はうなるほどお金を持っている者が多いので、このインセンティブには見向きもしない。一方、中堅司令官はお金はそれほど持っていないが、部下の一般兵と同じ職業訓練を受けるのはプライドが許さない。そのため、一般兵とは一線を画した選択肢を準備することにした。場合によっては、起業した元中堅司令官が、職業訓練を終えた元部下たちを雇う棟梁のような役割を果たした例もあった。
 3)はアフガニスタンに特有のもの。アフガニスタン国内では受けられない高度医療や外科手術を海外で受けたいと希望する司令官向けだ。同国は肉料理が多いため、一定の年齢以上になると心臓や血管に持病を抱える人が多い。しかし国内の医療はそれほど進んでいない。海外で治療を受けたくても、アフガニスタン国籍、しかも司令官という経歴を持つ者が先進国に入国するための査証を取得するのは困難だった。
そしてデメリット
 もちろん、これらのインセンティブを用意しても全ての司令官が交渉に応じたわけではない。このため、期限までに武装解除に応じない場合に課すペナルティーを設けた。彼らにとってのデメリットである。
<武装解除に応じないペナルティー(デメリット)>
1)処罰の対象とする。
2)政党の結成を認めない。
3)議会選挙に立候補する権利を失う。
 1)は分かりやすいが、現実には、司令官を逮捕できるほどの司法力・警察力・軍事力がアフガニスタン政府にあるわけではなかった。国際社会にも、不用意に現地の武装勢力と対峙して自国の軍を危険にさらす国はなかった。実質的には、「これ以上交渉に応じないと罰則が生じる段階に交渉のフェーズが切り替わった」と周知する効果を狙うにとどまった。
 上記1)〜3)のいずれも、「既得権益を失う」デメリットを作るために大統領令などの新たな法律までつくった。交渉相手に「条件に応じないうちに流れが変わってしまった」「このままでは乗り遅れる」と感じさせることができるからだ。交渉に応じず現状のままとどまると、乗り遅れて負け組になるという危機感を持たせる流れをつくることも重要だ。
 2)と3)については、トップレベルの司令官の多くが政治的な野心があることを利用したものだ。
 ちなみに、メリットとデメリットのなかには、同じコインの裏表になりうるものがある。同じ条件の言い方を変えるだけで、メリットにもデメリットにもなる。メリットが「期限までに武装解除すれば選挙の立候補の権利を得る」ならば、デメリットは「立候補の権利を失う」だ。重要なのは、よりインパクトが強い方に振ることだ。
 メリットとデメリットをつくるのに、事前の情報収集と分析は不可欠だ。アフガニスタンの場合、司令官一人ひとりの資産、収入源、部下の数、家族構成、どんな政治的・経済的・社会的野心を持っているかなどの情報を集め交渉に使える道具が何かを洗い出した。
 「除隊後の行くあてが無い部下の仕事を確保するまで武装解除には応じない」と語った司令官が、数ヶ月後には「自分が県知事になれるなら、部隊は手放す」と本音を語るようなこともあった。
支援する側も一枚岩ではない
 この時期の私は、米国を含めた主要支援国、駐留軍、国連とほぼ毎日作戦会議を実施。その結果を踏まえて、カルザイ大統領と閣僚一同に対して週に3日、武装勢力と交渉する際の戦略を提言していた。
 余談だが、当時のカルザイ大統領は基本的に明るい楽天家だった。深刻な問題を抱えて会っても、話し終わった後は、なんだかみんな明るい気分になる。ただし、よく考えると、問題自体は解決してなかったりする。彼は記憶力も良かった。一度説明したことは大体覚えている。大統領として日々多くの人に会っているのに、「きみは先週その席で寒そうにしていた。こっち側に座ったほうがいいんじゃない?」と私に尋ねたときは驚いた。
 自分より格上の誰かと交渉するための戦略を考え、日本大使に提言する日々のなか、私はまもなく不眠症になった。寝ようと思っても、部隊番号と司令官の名前が頭に浮かんでくる。原因は、このプロジェクトに参加する国がそれぞれに持つ思惑だった。一見したところ仲間に見えるが、事はそれほど単純ではない。日本が利用されないよう、相手が発する言葉の裏を考え、どんな戦略で働きかけるべきかを何時間も考えてしまうのだ。
 例えば会議の場で「今は武装解除が最優先だ」と合意したにもかかわらず、米国がある地域での武装解除は遅らせたほうがよいと主張したことがあった。治安が悪すぎる地域で十分に安全を確保できないからなどの理由を伝えてきたが、実は「タリバン掃討のために米国が雇っている武装勢力がいるので解体されては困る」という事情があった。
 第一線の政治指導者や司令官、外交官に揉まれて濃密な経験を積んだ日々だった。こうした経験をしたおかげで、オンとオフの切り替えは上手になった。交渉に関わらなくてよいときは思いきり気を抜いている。ということで、皆さんが私にどこかでふと出会うことがあっても、ギラギラと目を血走しらせていることはないと思うので、その点はご安心ください。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/16/041900003/060600008/

 

トルコのクーデターから考える組織の危機対応

紛争地で培った「瀬谷流」実践仕事術

南スーダン、仏ニースでも相次ぐ脅威
2016年7月22日(金)
瀬谷 ルミ子

クーデターに反対するトルコの市民(写真:AP/アフロ)
 前回「バングラ・テロ事件、こうして身を守れ」では、バングラデシュで発生した襲撃事件を受け、主に「個人」がテロから身を守るすべについてお話しした。

 その事件の衝撃が収まらない先週、わずか1週間の間に、3つの異なる種類の危機が相次いで発生した。南スーダンでは政治的対立に端を発する戦闘が勃発。フランス・ニースの観光地では大型車両を使ったテロが発生。そしてトルコでは、軍の一部がクーデター未遂を起こした。今回は「組織」がこれらの危機にどう備え、対応すべきかについて話したい。

 ある国や地域に潜在的な危険があると分かってはいるものの、事業を展開するために駐在や出張をしたり、現地に拠点を設けたりする必要があることもある。そんなときには、潜在的なリスクを組織として把握し、それに対する対策を取り、許容可能な範囲までリスクを減らすための措置を取ることが求められる。

 危機管理対策を行ううえで重要な要素となるのは、「情報」「システム」「人」だ。それぞれの役割は以下となる。
・情報:脅威を事前に把握する
・システム:脅威を予防・回避・軽減するための仕組み(安全対策マニュアルなど)
・人:最終的に脅威に対峙・対応する

 組織における危機管理では、脅威に関する情報を収集・分析し、組織としての仕組みに落とし、最終的にはそれぞれの個人が実際に行動できるようになることを目指す必要がある。私が取締役を務めるJCCP Mでは、これらの要素を強化する観点から、危機管理対策を立案する支援や研修を企業や組織に対して行っている。

【南スーダン:戦闘勃発】

 南スーダンでは2011年7月に独立した、アフリカで54番目の国だ。独立5周年の節目となる今年7月8〜11日にかけて、キール大統領派とマシャール副大統領派の対立が激化した。戦闘ヘリや戦車などの銃火器を動員した戦闘が発生し、少なくとも300人が死亡。現地に駐在する邦人を含む援助関係者の一部が国外に退避する事態となった。

 私が理事長を務める日本紛争予防センターも、南スーダンの首都ジュバに事務所を置き平和構築活動に従事している。幸い、日本人を含む国際スタッフは事前に国外に出ていた。現地スタッフも無事である。

 「情報」にはいくつか種類がある。今回有効だったのは、脅威を発生させる政治・経済・文化的な背景などの「コンテクスト情報」だった。

 南スーダンでは政府内で政治対立が長年にわたって続いていた。これに加えて、とくに今回危機的状況に達していることを示すシグナルとなったのが、急激なインフレと数カ月にわたる公務員への給与未払いだった。

 5月時点のインフレ率は295%に達し、国民生活を圧迫。さらに、裁判官などの司法関係者、国立大学教職員への給与は3カ月未払いが続き、6月には公務員が週替りでデモをする状態だった。インフレで実質的な手取りが減ったことで、治安の要となるはずの軍や警察の不満はピークに達し、末端レベルでの統率が取れない状況に陥っていた。

 こうした兆候から考えて、クーデターもしくは不満のガスを抜くための戦闘など、何らかの危機が発生することが予測できた。このため、私たちは6月の時点でスタッフを自宅待機させたり、国外退避させたりする措置を取っていた。

 今回の戦闘の最中、国連の食糧備蓄庫が襲われたり、国際NGOの事務所や住居で略奪が発生したと報告されている。「システム」の点からは、いざ危機が発生した際の損失リスクを下げるために、ロープロファイルにすべきところ、逆にプレゼンスを確保すべきところを使い分けたりする。

 南スーダンの首都ジュバにおける我々の事務所には、日本紛争予防センターの看板は出していない。使用している車両に付けた団体のロゴはマグネット式になっており、付けたりはがしたりできるようにしている。私たち組織の活動方針自体が、現地組織が自立できるよう能力強化を図りながら事業を共同で実施することなので、いざというときに、現地の協力団体が主体的に情報を提供してくれたり、事業の一部を担ってくれるという利点もあった。

 今回、私たちの事務所の周辺でも銃撃戦が発生した。その後、不穏分子が潜伏していないか国軍が事務所内を捜索したが、それ以上の事態は起こらなかった。援助機関にとって、現地で活動をアピールする広報活動は必須だったが、ここ十数年で状況は変わった。これらの状況の変化をとらえたうえで、組織にとっての優先事項に基づいた対策を取ることが必須になっている。

【フランス・ニースでのテロ】

 フランス南部の観光地ニースでは7月14日の夜、フランス革命を記念する祝日の花火見物をしていた人たちにトラックが突っ込み、80人以上が死亡するテロ事件が発生した。容疑者の情報をフランス政府当局も事前に把握していなかったこと、武器ではなく「車両」という一般犯罪と区別がつかない道具が用いられたことが特徴だ。

 フランスは、イスラム国(IS)やアルカイダなどイスラム系武装勢力の攻撃対象として狙われやすいことが、コンテクスト情報から分かる。例えば、世界各地で行なわれている対テロ戦に参加していること、仏国内におけるイスラム教徒を含む移民や難民と文化的摩擦があることは、イスラム系武装勢力がフランスを攻撃対象とする背景になりやすい。EU域内では検問なしで人が移動できるので、武器や戦闘員が流入しやすいという事情もある。

 さらに、実際に脅威が発生している「スポット情報」を分析すると、昨年1月のシャルリ・エブド襲撃事件、11月のパリ同時多発テロなど含め、フランス国内で何らかのテロ攻撃が起こりやすいことも分かる。

 「バングラ・テロ事件、こうして身を守れ」の回でも述べたが、国際的なテロの発生状況を見ると、以下のような時と場所でテロが発生しやすいことが分かる。
・ラマダン中
・ある国や地域にとって節目となるイベントがある時期
・人が大量に集まりやすい場所

 テロ攻撃を受けるリスクを軽減するためには、まずテロが起こりやすいタイミングや場所などの情報を現地の駐在員やスタッフと共有することが重要だ。そのうえで、必要以上のリスクを生じさせる行動を控え、危機を回避するための「システム」となる安全対策マニュアルや日頃の行動基準を準備する。

 「現地に駐在しているのに観光も自由にできないなんて」という不満やストレスが溜まることもあるだろう。しかし、最終的に優先すべきは「身の安全」を守ることだ。それを明確にしたうえで、1)業務に携わるときは組織が定める安全対策基準を遵守すること、2)ストレス対策は、安全な地域で休暇を取ったりリフレッシュしたりする機会を組織が提供するなど、組織内の「人」が音を上げることなく確実に実行できる現実的な対策を整備し、共有することが必要だ。

【トルコのクーデター】

 7月16日にトルコにおいて、軍の一部勢力がクーデターを起こした。結果は未遂に終わったが、死者は反乱勢力を含めておよそ300人に及んだ。トルコ政府は反乱勢力との関わりがあるとみられる約2万5000人の公務員を停職処分にするなど粛清を続けているほか、非常事態宣言を発出した。

 日本紛争予防センターはトルコでも、トルコ人とシリア難民の女性に対する支援活動を行っている。トルコではISの脅威が全土に及んでいる。6月初旬にはイスタンブールの空港での爆破事件を含めてテロが多発していた。そのため、テロ事件に関する安全対策が必要になることは想定の範囲内だった。しかし、今回の軍事クーデターが発生することを、情報の収集・分析によって事前に予測することはほぼ不可能だったと思われる。

 どれだけ内部・外部の「情報」を収集・分析する体制を整備しても、事前に脅威を予測することができないこともある。個人や組織単位の予防策では回避できない規模の危機に遭遇することもある。この場合、組織がすべきなのは、緊急時に備えた「システム」を整備し、組織内の「人」が危機に直面した時に適切な行動を取れるよう意識を共有しておくことだ。

 例えば、有事の際に身を守るための安全対策マニュアルを策定し、研修や業務のルーティンにチェック項目を組み込むことなどによって日頃から定着させておくことも有効だ。国外もしくは安全な場所への脱出ルートを複数備えておく、事務所や住居への侵入が困難になるよう物理的な対策を施すといった対策も考えられる。また、緊急時に本部、現地事務所、個人が取るべき役割も事前に決めておく。現地が取るべき行動や対策を、どのレベルで判断するかを決めることも必要だ。具体的なシナリオに基づいたシミュレーションも必要となる。これら一連の対策をどれだけ十分に取っているかが、人材の生存率、損害の度合いを大きく左右する。

 なお、ある地域や国では有効な対策が、別の地域に行くと逆効果になる場合もある。例えば、同じ国の中でも、武装警備員による護衛が有効な地域もあれば、襲撃される可能性を上げてしまう地域もある。重要人物との印象を与えてしまうからだ。このため、対策を講じる際には、組織内外の専門家によるアセスメントを事前に行ない、有効なものを選定する必要がある。

リスクの源を断つ取り組みも必要

 安全上のリスクをゼロにすることはできないし、極限状況では運が左右することもある。だが、対策を取ることでリスクを減らすことはできる。組織にとって許容可能な範囲までリスクを下げることが必要だ。危機管理は、組織が責任をもって行なうべきものだ。

 どうしても許容可能なレベルに下がらない場合は、その事業計画や行動自体を取りやめる、延期する、抜本的な見直しをするといった判断が必要になる。

 同時に、リスクを生み出す問題自体を解決するための取り組みも不可欠だ。そうしないと、脅威を生み出す手法の悪質化、多発化が進むのを防ぐことはできない。根気のいる作業だが、武力紛争やテロを生み出す地域を安定化させるための長期的な取り組みを進めることが不可欠だ。

 私は、紛争地での平和構築活動を行うのと平行して、危機管理対策を行う企業向け支援を行っている。長期的な取り組みと短期的な措置のどちらも、今の世界が抱える安全上の課題を解決するために必須と考えていることが理由だ。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/16/041900003/072100012/?ST=print



バングラ・テロ事件、こうして身を守れ

紛争地で培った「瀬谷流」実践仕事術

2016年7月7日(木)
瀬谷 ルミ子

バングラデシュのダッカで7月1日、武装集団がレストランを襲撃(写真:AP/アフロ)
 今回は交渉術の話をお休みにして、テロから身を守るすべについてお話しする。

 バングラデシュの首都ダッカのレストラン襲撃テロで日本人7人を含む22人が犠牲になった。犠牲になった邦人の皆さんは国際協力の開発コンサルタントとして従事していた方々で、私と働く業界も近い。謹んで哀悼の意を表します。

 今回の事件で「親日国であるバングラデシュでなぜ」という報道があった。まずは海外の滞在地域で自分たちが「誰に」「どう見られているか」を多角的に把握する必要がある。

 NGOとして海外で復興支援や平和構築活動を行う際は、日本人・日本の組織であることが好意的に受け取られる地域が多く、それが強みになる。しかし、平和を壊す側、犯罪者、テロを行う側からすると、その見方は180度変わる。テロは、国際的に大きな衝撃を与えることで自分たちの存在や主義主張を誇示することが目的であるため、外国人、とりわけ先進国出身であること自体がリスクとなる。このため、私が理事長を務める日本紛争予防センターがアフリカ・中東などで安全対策の活動をする場合と、取締役を務める JCCP Mで企業に対して危機管理サービスを提供する時とでは、完全に視点を切り替える。

宗教や文化を理解する

 今回の事件で犯行グループは、イスラム教徒であるかどうかを選別した。さらに、イスラム教徒であっても、服装などから「敬虔でない」とみなした者を殺害している。

 異教徒を選別すること自体は、目新しい手法ではない。例えばアルカイダ系の武装勢力はイスラム教徒の犠牲を極力控える方針をうたっている。2013年9月にケニアのショッピングモールで起きた襲撃事件(240人以上が死傷した)でも、コーランの一節を唱えることができるか、もしくは預言者モハンマドの母親の名前を答えられるか、などを犯行グループが尋ね、答えられなかった者を殺害している。2015年11月に西アフリカのマリの高級ホテルで起きた襲撃でも同様の選別が行われた。

 コーランの一節を暗記して備えるのも一つの手かもしれない。しかし、この手法が一般的になれば通用しなくなるし、見せかけだと分かると逆にイスラムを冒涜していると取られる危険もある。重要なのは滞在国の宗教や文化そのものを理解する姿勢だ。現地の文化を理解することで、自分の立ち振る舞い、見た目、服装、持ち物などが滞在国の人々にどう映るのかを客観的に把握できる。現地の文化に沿った格好や行動を取る意識を磨くことにつながる。

 また、日頃から現地社会に敬意を払い、個人的な信頼関係を築くことも大事だ。襲撃時に現地スタッフが率先して外国人の同僚を守った例がある。

まずは、襲われるリスクを下げる

 しかし、最も重要なのは、襲われるような状況に陥ること自体を回避することだ。極限状態に陥ってしまえば、小手先の対策を講じても生存率を上げることは難しくなる。大使館や外国の企業が密集する地域やホテル、レストラン、空港に滞在することはなるべく避ける。やむを得ず訪れる場合は極力、短時間にする。

 特に避けるべきなのが、施設の出入り口や到着・出国ロビー付近に長く滞在することだ。セキュリティチェックがなく侵入しやすい。自爆テロや複合攻撃が行われると被害が最も大きくなる。6月28日にイスタンブールの空港で起きたテロでも、こうしたエリアが狙われた。

 アフガニスタンやソマリアでは、国連職員や援助関係者などの外国人が滞在できるホテルやレストランには一定の基準が設けられている。警備員の配置など、十分なセキュリティ対策が取られているのはもちろんのこと。大通りに面していないことや、入り口ゲートと店の建物の間に一定の距離があることなどが定められていた。大通りに面していると、誰でも店舗に入ることができてしまう。爆弾を積んだ大型車両が突撃することもある。入り口ゲートから離れるのは、手榴弾を投げ込まれても、届かないだけの距離を保つためだ。仮に侵入されても、多くの客に到達する前に止めることができる。


ソマリアで活動した時には、筆者1人を護衛するのに4人の武装警官が付いたことがある。護衛がいることが逆にリスクになる場合もあるので、的確な判断が必要だ
 私自身、危険地域の宿泊先では、どのルートで逃げるべきかをシミュレーションしている。さらに、近くで爆発が起きた際に窓ガラスの破片で傷つかないよう、厚手のカーテンを常に閉めておく。ベッドが動かせる場合は、窓際から遠ざけて配置したりもする。

 また、国や地域ごとに、テロ攻撃や犯罪が増える時期がある。これを踏まえて出張・移動計画を立てることも有効だ。また、イスラム教徒の信仰心が高まるラマダン期間に、テロ組織が「テロを行うことが善行」として集中的な攻撃を煽ることがある。今年もラマダンが終了する直前が最も危険だと全世界的に注意が喚起されていた。そして実際に、ダッカだけでなく、イラクやマレーシアでもこの時期に大規模なテロ攻撃が集中して発生した。

 アフガニスタンでは、武装勢力タリバンが毎年、雪融けの時期に「春季攻勢をこれから始める」と宣言する。キリスト教系の国では、クリスマス前に犯罪が増える傾向がある。

情報の収集と分析を怠ってはならない

 2006年以降に欧米諸国で起きたテロの7割は、単独もしくは小規模なグループが実行するローンウルフ型だ。国際的なテロ組織が組織的に計画したものではない。イラクやシリアではイスラム国の勢力が弱まってきており、その分、両国の外でジハードを呼びかけているからだ。両国に辿りつけない志願者は、周辺のトルコや経由地となりうる国々でテロ攻撃を起こす。イスラム国がそれを後から承認する流れが起きている。

 そもそも、政情が不安定な国には、社会に不満を抱える集団や反政府武装勢力がいる。「社会に対してより大きな役割を果たす」という野心や焦燥感を持っているエリート層や、人生に行き詰まって活路を見出そうとする若者が、自分自身とその行動に大義を与えてくれるイスラム国やアルカイダなどに付け込まれやすい土壌がある。

 バングラデシュではここ数年、日本人を含む個人をターゲットにした殺害事件が起こっており、イスラム国が犯行声明を出していた。対策が取られない限り、さらに同国内で過激な攻撃が行われる状況が続く。

 また、イスラム国自身、手詰まりの状況であるイラクやシリアから、アフリカ、中東、アジアなどの国家機能が脆弱な国に拠点を移す、もしくは分散させる可能性がある。ソマリアの武装勢力アルシャバブのように、内部分裂が起こりつつある組織もある。年配の指導者層はアルカイダに忠誠を誓う一方で、若手の兵士たちがインターネットを通じてイスラム国により惹かれているのだ。これらの状況の変化に合わせて、私たちが直面する脅威の形も変容していく。

 日本人が巻き込まれていないテロ事件であっても、関連する情報をコンスタントに収集し分析する体制作りが不可欠だ。イスラム国やアルカイダなどがどのように変化しているか、そして、それがどのような影響を起こすか、把握するのに役に立つ。離れた地域で起きた事件であっても密接にリンクしている可能性がある。こうした姿勢の重要性は、国家であれ、組織であれ、個人であれ変わらない。
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交渉は相手に会う前から始まっている
紛争地で培った「瀬谷流」実践仕事術
2016年5月26日(木)
瀬谷 ルミ子
 紛争地での仕事に交渉はつきものだ。交渉内容は、国家の和平プロセスに関わるものから、治安改善プロジェクトのための現地住民との合意形成、紛争被害者を保護するための対策など多岐にわたる。
 交渉相手によって必要な戦略も変わってくる。これまでに、以下に挙げる人たちと交渉してきた。
 ・武装勢力の司令官
 ・現地コミュニティの長老や住民
 ・現地の大統領や大臣、政府関係者
 ・外務省、国連機関やNGOの担当者
 ・他国の政府関係者や軍人
 ひとつの交渉が、ある社会の命運や個人の人生、自分や誰かの身の安全を左右することもある。残念ながら私には天性の交渉の才能があるわけではない。だが、「話すのは苦手です」では済まされない。望ましい形で目的を達成するために、懸命に対策を取ってきた。
相手に身内感覚を持たせる
 ただし、交渉といっても、相手と直接話している時にできることは意外と限られている。その前後に何をするかが重要だ。私が事前に行うことのひとつが、「相手に身構えさせない状況づくり」だ。
 別の言葉で言い換えると、「警戒させない」「わずらわしさを感じさせない」「違和感を与えない」となる。こうすることで、相手が身内感覚を持ちやすくなる。
 「身構えさせない」ためには参加者や話す内容に応じた場所を選定することが重要だ。対立する集団を調停する交渉では中立的な場所を選ぶ。交渉場所までの移動手段にも注意を払う。その利便性の差がわだかまりの原因となり、その後の話し合いに影響することもあるからだ。
 被害者から聞き取りをする場合は、恐怖を感じさせない、自然体になれる場所を選ぶ。

シエラレオネの現地住民との協議風景。現地では住民たちが普段使用する場所を話し合いの場に選ぶことが多い
 また、交渉相手が持つ文化を理解した挨拶や立ち振舞いをする。もちろん服装にも配慮する。相手に「冒涜されている」との印象を与えることがあるからだ。少しの違和感が積もり積もってストレスになる。
 例えばイスラム教の国では、慣習に習い、髪や身体を覆った服装で交渉に参加する。女性が前面に出ることをよしとしない文化を持つ国で交渉する場合、特にハイランクの交渉相手に直接話をすることを控えた。応答要領の全てを男性の同行者に事前に説明して代わりに話してもらう。万が一交渉の最中に補足することが出た場合は、そのつど同行者にメモを渡していた。
そもそも会うことが困難なことも
 外務省や国連に勤務していた時代は、通常の話し合いであれば、こちらが申し出ればアポを取ることができた。私の所属や肩書を相手が知った時点で、何もしなくても一定の信頼を持ってくれた。
 しかし、相手に交渉のテーブルについてもらうことすら難しい場合もある。こちらが相手に用があっても、相手は、こちらと話す価値があると見なさない。もしくは警戒する。そうなると会うことすらできない。この壁を突破するためには、相手を身構えさせている要素をクリアーするための対策が必要となる。
 私が経験した中で、この「会う」ハードルが最も高かったのが、西アフリカの紛争国シエラレオネを初めて訪問したときだった。ちなみに当時、この国の平均寿命はなんと34歳で「世界で最も寿命が短い国」と呼ばれていた。10年以上にわたる紛争で多くの大人が戦死したためである。
 当時24歳で大した肩書も持たない私は、知人もいないこの国で2週間以内に大統領顧問に会い、現場視察の許可をもらう必要があった。
 勤めていたNGOがルワンダで行っていたプロジェクトを終え、日本に帰国する準備をしていた私は、兵士の武装解除がシエラレオネで開始されると報道で知った。武装解除は、将来的に専門にしたいと思いながら、情報がほとんど手に入らない分野だ。アフリカを離れる前に実態をぜひ知りたかったのだ。
 現地で武装解除を行っていたのは大統領直属の担当部署と国連PKO。ここの許可がなければ情報は手に入らない。むろん、つてなどなかった。何の肩書きも持たない私のために時間を割く意義を、担当者が見出すとは思えなかった。
 国連PKO部隊の所在地を調べると、ある大規模ホテルを借り上げて事務所にしていた。ホテルに電話しても担当者名が分からないため取次いでもらえなかった。
 調べを続けるうち、数百ある客室のうちごく一部を、国連本部から来るVIPが宿泊できるよう客室として残してあること、VIPが泊まらない時期のみ一般に貸出をしていることが分かった。そこで、無謀ではあったが、宿泊客としてホテルに入り、担当部署を直接訪問してみようと考えた。
 このホテルの当時の宿泊費は一泊2万円以上。一方、当時の私は月収9万円の生活。20万円以上する航空券も買わなければならない。そのホテルに泊まると日本に帰国した後の生活費がほぼゼロになる。だが、一晩悩んだ末、そのホテルに予約を入れた。未来の自分にとって負債となるか投資となるかは、自分次第。自分にそう言い聞かせながら、ルワンダを発ち現地入りした。
同じホテルに滞在することで身内感高める
 ホテルの警備は厳重だったが、宿泊客としてホテルに入ると国連PKOの各部署にアクセスするのは自由だった。受付で教えてもらった武装解除の担当部署に向かい、ドアをノックした。
 出てきた白人の国連兵士は、最初はかなり警戒していた。内戦中のこの時期にアポ無しの一般人、しかも珍しい日本人の女性がやってきたのだ。日本は途上国に対して盛んに支援をしていたが、当時、シエラレオネに日本大使館はなかった。日本人は現場に一人もおらず、未知の存在だった。
 しかし、私がそのホテルに泊まっていることを伝えると反応が変わった。私をそれなりのステータスの人間と思ったようだった。そして、武装解除について提案を含めて話がしたいこと、ホテル内の内線電話で連絡がつくこと、短くても時間が取れた時にすぐに来られることを伝えた。同じ環境にいることで身内感が高まった。手軽に連絡が取れることも良かったのだろう。この白人兵士はその後すぐに連絡をくれた。
自分も身構えない
 相手を身構えさせないのと同じくらい大事なのが、緊張のあまり自分が身構えないこと。そして、自分の緊張が相手に伝わらないようにすることだ。
 この時の私は、国連PKOの兵士相手に身の程知らずの交渉を行うことにかなりの引け目を感じていた。見渡すと多国籍の兵士と武器が並んでいる。PKOの現場に足を踏み入れるのも初めてだったのだ。それだけに、相手と同じホテルに泊まり、会うまでの間に精神的なバリアを取り去れたことは、私自身にも意味があった。
 身体的な動きも、心の持ちように影響する。ホテル内では背筋を伸ばして現場慣れした風を装った。実際には、食費の余裕もなく、ホテルが無料でくれる水とフランスパンだけで生き延びていたのだが。
 国連PKOとの最初の話し合いには、これから多額の資金が必要になるであろう武装解除プロジェクトに対して、日本政府から支援を得るための提案をまとめて持っていった。日本は武器を扱う武装解除への支援は難しいこと、元兵士への職業訓練の分野であれば日本が支援をしやすいことなどを提案した。
 この時の私は、ルワンダ勤務の契約が終わる直前の有給消化期間だったので、所属団体として提案をするわけにはいかない。唯一自分が役立てるのは、現地で情報が皆無だった日本政府の援助方針について助言することだった。そのために寝る時間を削って日本の援助政策を調べ直して資料を作った。
 この作戦は有効だった。提案に関心を持ってもらうことができ、大統領顧問への面会をアレンジしてもらった。加えて、国連専用のヘリコプターで地方を視察することへの許可を得ることもできた。無謀な賭けでもあったが、2週間の滞在中に、希望していた現場視察をほぼすべて達成することができた。
自分の目的を果たすためにできない約束はしない
 こうした交渉をする時に最も避けなければならないのは、短期的に自分の目的を達成するために、実行できる可能性がない提案をすることだ。実際、現地の人々に支援を約束し、その見返りとして自分の調査に必要な情報を得たにもかかわらず、その後、音信不通にしている研究者がいる。このようなことをすると、その個人の小さな目的のために、現地の和平や復興に向かう意志を削ぐことになりかねない。
 復興支援に取り組む現場で頻繁に使われる言葉に「Do No Harm」がある。善意でしたつもりの支援が、現地に害を及ぼすことがあるという戒めの言葉だ。交渉を行う際にも不可欠な視点である。
 ちなみに、その後の私はと言うと、シエラレオネの武装解除プロジェクトに自ら関わることになった。日本に帰国したのち、シエラレオネの調査で得た結果を専門誌に投稿したり、外務省と情報を共有したりした。それがきっかけとなり、半年後には、シエラレオネの国連PKOへの就職が決まった。自分がかつて提案した日本からの支援や現場の事業を自分の手で行うことになった。
 前出の大統領顧問はその後、国連に転職。スーダンなど他の現場で顔を合わせることになった。今では、気さくに付き合う仲になっている。かつて電撃訪問したことは、いまや笑い話のタネだ。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/16/041900003/051900007/



紛争地のアンテナ - 瀬谷ルミ子のブログ
職業は武装解除
http://ameblo.jp/seyarumi/



瀬谷ルミ子
せや るみこ
瀬谷 ルミ子
生誕 1977年2月23日(39歳)
日本の旗 日本 群馬県桐生市
出身校 中央大学、ブラッドフォード大学
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瀬谷ルミ子(せや るみこ、1977年2月23日 - )は、日本紛争予防センター(JCCP)の理事長、株式会社JCCP M取締役。世界の紛争地の復興、治安改善、兵士の武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)が専門。群馬県桐生市生まれ。群馬県立前橋女子高等学校、中央大学総合政策学部卒業。ブラッドフォード大学紛争解決学修士号取得。
目次 [非表示]
1 人物
2 経歴
3 その他役職
4 著書
5 メディア
6 関連項目
7 参照
8 外部リンク
人物[編集]
群馬県桐生市に生まれ育つ。高校3年生の時に新聞で見たルワンダ虐殺の写真をきっかけに、紛争解決を職業とすることを志す。中央大学卒業後、イギリスのブラッドフォード大学平和学部紛争解決学の修士号を取得する。大学院の修士課程在学中に、秋野豊賞を受賞する。
卒業後、ルワンダでNGO職員として働いたのち、2002年にシエラレオネの国連PKOに勤務、除隊兵士の社会復帰を行った。2003年からアフガニスタンの日本大使館において、軍閥の武装解除を担当したのち、2006年にコートジボワールの国連PKOで武装解除を担当した。
2007年に特定非営利活動法人 日本紛争予防センターの事務局長に就任。ソマリア、スーダン、ケニアなどで紛争予防活動を行うほか、アフリカのPKOの軍人、警察、文民の訓練カリキュラム立案や講師も務める。2013年より同理事長に就任、同時にアフリカをはじめとする途上国への日本企業進出の支援を行うJCCP M株式会社を設立。
経歴[編集]
2002年から2003年  - 国連シエラレオネ派遣団(UNAMSIL)、武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)担当官
2003年から2005年  - アフガニスタンの日本大使館で外務省職員として武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)を担当
2006年から2007年  - 国連コートジボワールミッション(UNOCI)武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)担当官
2007年から2013年  - 特定非営利活動法人 日本紛争予防センター(JCCP)事務局長
2013年7月から現在 - 特定非営利活動法人 日本紛争予防センター(JCCP)理事長
その他役職[編集]
NHK国際放送番組審議員(2012〜2016)
アーツ前橋評議員(2013〜)
21 世紀構想懇談会(戦後70年談話の有識者会議)委員(2015年)

2011年 - ニューズウィーク誌(日本版)「世界が尊敬する日本人25人」に選出、「日経ウーマン・オブ・ザ・イヤー2012」準大賞
2012年 - 週刊雑誌AERA「日本を立て直す100人」、日経ビジネス「未来を創る100人」に選出
2013年 - エイボン女性年度賞大賞受賞、週刊AERA「2020年の主役50人」に選出
2015年 - イギリス政府によるInternational Leaders Programmeに選出、高校英語教科書「CROWN English Communication V」(三省堂)に掲載:Lesson5 “Only a Camera Lens between Us”
著書[編集]
職業は武装解除(2011年、朝日新聞出版(2015年に文庫化))ISBN 978-4022507464
世界を拓くリーダーたちへ (国際文化会館新渡戸国際塾講義録4)(2015年、アイハウスプレス、猪木武徳・近藤正晃ジェームス・瀬谷ルミ子編著) ISBN 978-4-903452-26-5
メディア[編集]
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』 第116回「銃よ、憎しみよ、さようなら」武装解除 瀬谷ルミ子(2009年4月21日)
テレビ東京『この日本人がスゴイらしい。 Brand New Japan』(2010年10月22日)
ニューズウィーク『世界が尊敬する日本人25人』(2011年5月)
TBS『サンデーモーニング』(2013年- 不定期出演)
TBS 『夢の扉+』(2016年2月5日)
関連項目[編集]
日本紛争予防センター(JCCP)
参照[編集]
産經新聞すごいぞ日本取材班「世界に飛び込む」『すごいぞ日本』、産經新聞社、2009年、179-191頁
「ひと」『朝日新聞』2008年8月13日付朝刊、第2面。
「ニューズウィーク日本版」、阪急コミュニケーションズ、2011年5月18日号、52−53頁
外部リンク[編集]
日本紛争予防センター(JCCP)公式ホームページ
株式会社JCCP M 公式ホームページ
紛争地のアンテナ - 瀬谷ルミ子のブログ
瀬谷ルミ子(Rumiko Seya)(seyarumi) - Twitter
プロフェッショナル仕事の流儀 第116回 瀬谷ルミ子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E8%B0%B7%E3%83%AB%E3%83%9F%E5%AD%90


 

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