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配偶者控除を維持、かすむ「働き方改革」 政府税調の存在意義は 「米国が否定した米国」を追い続ける愚かな日本 
http://www.asyura2.com/16/senkyo215/msg/904.html
投稿者 軽毛 日時 2016 年 11 月 15 日 00:19:00: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

2016.11.14 22:19
配偶者控除を維持、かすむ「働き方改革」 政府税調の存在意義は


政府税調は所得税改革の中間報告をまとめた=14日、東京都千代田区(万福博之撮影)
 政府税調が配偶者控除の見直しで妻の年収要件を引き上げる案を示したのは、「夫婦控除」など有力とされた改革案では負担増になる世帯が多くなり、反発を招くことを懸念したためだ。だが、女性が就業調整を意識せずに働くことができるという理念はかすみ、改革姿勢が後退したと批判される可能性もある。

 結婚していればどの世帯にも適用する夫婦控除は、女性の働き方に中立な仕組みとして当初有力視された。だが、控除の対象者が大幅に増えるため、高所得者だけでなく中所得者まで適用から外す必要がある。今より不利になる多くの世帯からの反発は必至で、与党などで慎重論が強まり、早々に見送りが決まった。

 とはいえ、安倍晋三政権は女性の就労促進など働き方改革を看板に掲げており、税制改正で「ゼロ回答」は許されない。そこで現行制度を廃止せずに手直しする妥協案が浮上し、政府税調も政治の顔色をうかがって飲み込んだ格好だ。

 年収要件を103万円から拡大すればパート労働者らが働く余地は増えるが、引き上げた年収水準が新たな「壁」になる構造は変わらない。控除の対象が専業主婦やパートの妻のいる世帯に限られ、共働き世帯の不公平感も残ったままだ。

 学者や経営者を中心に構成する政府税調は政治と距離を置き、税制のあるべき姿を中長期的な観点から議論するのが役割だ。だが、政治に議論が左右され、その場しのぎの提言にとどまるようでは、その存在意義も問われかねない。(万福博之)
http://www.sankei.com/economy/news/161114/ecn1611140044-n1.html


 


「米国が否定した米国」を追い続ける愚かな日本

河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学

「自分たちの問題は、自分たちで考えなさい」への返答は?
2016年11月15日(火)
河合 薫

 トランプ氏が勝った。おそらくこの原稿が公開になる火曜日には、「トランプ」という文字に、ほとんどの人たちが食傷気味になっているはずだ。

 なので、本来であれば、トランプ氏とは一切関係ない原稿を書いたほうがいいのだろうけど、やっかいなことに、今(=金曜日 今日がとりあえずの〆切りなんです)は、まだ「トランプ熱」が日本中を駆け巡っていて、私の脳内も「トランプ」という言葉しか浮かばなくなってしまっている。

 ふむ。困ったことだ。

 かといって、大統領選ツウでもない、ただ幼少期を米アラバマの大地で過ごしただけの私が、「へ〜〜、そうなの?知らなかった!」的特ダネを、ご披露できるわけもなく。

 白人男性が許さなかった「ガラスの天井」とか、不適切夫“ビル”との今後、なんて話も、もういいかなって感じだし……。

 さて、どうしよう。と、アレコレ悩んだ結果、今回は「アメリカが突きつけてきたモノ」について考えてみようと思う。

「世界の警察やめま〜す」
「グローバル化やめま〜す」
「TPPやめま〜す」
といった、トランプ氏の発言と今回の予想外(?)の勝利――。これらが意味することは、「自分たちの問題は、自分たちで考えなさい」ってことだと、個人的には解釈している。

 もはや「アメリカ=正解!」という方程式は成立しない。というか、そもそもそう考えたこと自体が間違っていたのだと思う。

「アメリカがTPP参加を見送ったら困る」という声ばかり

 今から5年前の2011年。「グローバル人材」という言葉が呪文のように飛び交い、新聞の紙面に大企業の経営者や人事部の人たちのコメントが、連日出ていた頃のことを覚えているだろうか?

 私はそのときの感情とグローバル化なるものの現実を、このコラムに以下のように書き綴っている。(2011年12月8日「“グローバル人材”を渇望する企業の見当違い」)

・英語が話せなきゃ仕事にならない
・ライバルは国内だけでなく、中国、韓国など世界中にいると思え!
・日本でしか通用しないような人は、もう要らない

 かなり乱暴なまとめ方ではあるが、この3点が多くの大企業の経営者や人事部の採用担当の方々が、「グローバルな人材」について述べているコメントである。

 乱暴ついでに、率直、かつ真っ先に感じたことを書き連ねると、

・英語だけ話せりゃ、仕事ができるってわけじゃないでしょ?
・アジア各国の賃金レベルで働くことも覚悟しろってことなのか?
・「日本でしか通用しない人」と思われている人は、実際のところ、日本でも通用していないんじゃないだろうか?

 といった具合になる(「おいおい、そりゃ感情的すぎはしないか?」と突っ込まれそうだが……)。

 要するに「グローバルな人材」に関する見解を見聞きするたびに、「デキる人“だけ”しか生き残れない時代なんですよ」と、暗に格差社会を助長しているようにしか聞こえず、どうにも釈然としない。

(中略)

 米国がグローバリゼーションを進めた結果、中流層の仕事が激減し、1%の富裕層と99%の貧困層という極端な二極化が起きたことは、今や誰もが知っていることだろう。

 米国では一般管理職や事務職などの、いわゆる中間層の仕事は、全仕事数の半分を大きく下回るまでに落ち込み、1700万人の大卒者が、受けた教育水準よりも低いレベルの仕事に甘んじているとされている。

 繰り返すが、これは5年前に書いた内容である。

 この年は、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加交渉を巡って、世論が真っ二つに割れた年でもあった。連日連夜テレビでは、賛成派と反対派が全く噛み合わない議論を展開し、国会では徹夜の攻防が繰り広げられた。

 にもかかわらず、先週、いとも簡単にTPP承認案と関連法案は強行採決され、それが大きく報道されることもないまま、あっという間に衆院本会議で可決された。

 「政治生命をかける!」と涙ながらに豪語し、徹夜で反対していた政治家はどこに行ってしまったのだろう。5年で意見が変わったってことなのだろうか? 聞こえてくるのは「アメリカがTPP参加を見送ったら困るじゃん!」という声ばかりで。いったいアレはなんだったんだ?

「本当の意味での国民経済とは何であろうか。それは、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である」

 これはTPPでもめていたとき話題になった、下村治さんの著書『日本は悪くない―悪いのはアメリカだ』(1987年刊)に書かれている一節である。下村さんは、大蔵官僚時代に「所得倍増計画」を立案し、高度成長の政策的基礎のプランナーとして活躍したことで知られる。石油ショック以降は「安価な資源が無制限に安定供給されるという『成長の基盤』はもはやなくなった」と喝破し、ゼロ成長論を唱えた経済学者だ。

 当時、私は何度もこの本を読ませていただいた。そして、下村さんの考え方、思慮の深さに感銘し、上記の文言を幾度となく引用した。

 著者の中で下村さんは、「アメリカのやり方」をことごとく否定し、リーマンショックのような金融危機が起こることを予想し、日本の行く末を案じていた。

「アメリカン・なんちゃら」への誤解

 そして、今。

 下村さんが否定した「アメリカのやり方」に、アメリカの人たちが「ノー」を突きつけ、「この国で生活している私たちは、生きていけない!」という悲鳴が、元々は泡沫候補であった不動産王の一票になった。

それでも、まだ、私たちはアメリカを追い続けるのか?
その先にいったい、どんな幸せが待っているというのか?
いったいこの国は、どこに向かっているんだ?

 そもそもアメリカ発のシステムは、アメリカの文化、歴史、国民性などから生まれたもので、そのアメリカ産を「世界のスタンダードだもん!日本も合わせなきゃ」と真似たところで、上手くいくはずがない。

 もちろん見習っていい面はあるだろう。肌の色が違えと、言葉が違えど、人は人。痛いことは同じように痛いし、ウレシイことは同じようにウレシイ。

 だが、日本には日本だからこそ生まれた良いものがある。中途半端に「アメリカン・なんちゃら」なるものを導入すれば、日本で生まれたものとの整合性はとれなくなって当たり前だ。

 おまけに、その「アメリカン・なんちゃら」を、日本人はちょっとだけ勘違いしちゃっているので、余計にたちが悪い。

 例えば、アメリカは競争社会だと日本人はいうけど、結果的に、競争社会になっているだけ。勝ち組だ〜、負け組だ〜、と日本人がイメージする競争ではなく、アメリカはただただ「自分MAX」を追求しているに過ぎない。

 私はアラバマ州の片田舎で幼少期を過ごしたけど、競争社会と教えられたことも、競争を煽られたことも、競争社会だと感じたこともいっさいなかった。

 いかに、Independentするかは何度も教えられたけど、これも単なる「自立」ではなく、独立した、自主的な、自由な、自主的な、といったもっと多面的な意味合いが込められていて。一言でいえば、「自分の最高のパフォーマンスを発揮せよ」と教わった。

 それはアメリカンアイドルや、ダンシングアイドルといった、日本でも人気になったテレビ番組を見てもわかる。

 これらの番組には地方予選があるのだが、そこには「あらあら、ずいぶんと不思議なパフォーマンスだわ」と驚くような人たちが登場する。

 アメリカンドリームを夢みてオーディションにきた参加者は、番組のウリでもある辛辣な審査員に、ことごとく否定され、「あんた、歌(ダンス)を舐めとんのか!」といわんばかりの酷評を受ける。

 日本人だったら、立ち直ることなどできないだろう。

 だが、アメリカ人が違う。

「審査員は私の良さをわかっていないのよ。おじいちゃんは私のダンス(あるいは歌)は、最高だって言ってくれるよ〜」

と、明るく笑うのだ。

 そういうマインドを持つ人々の国が、アメリカなのだ。

「アメリカに帰りたい」と言わなくなった私

 中学生のときに日本に戻ってきた私が、いちばん戸惑ったのがこのマインドの違いだった。

「日本って、人と違うことしちゃいけないんだ。目立っちゃいけないんだ」

 日本の社会は、私には息苦しかった。

 アラバマでは、自分をMAXにすることしか考えてなかったので、日本の「普通」を良しとする空気が苦しかった。だから「アメリカに帰りたい」が私の口癖だった。

 でも、オトナになって、「アメリカに帰りたい」と言わなくなった。

 今でも「普通」を良しとする空気は苦手だけど、日本にしかない寛容さというか、穏やかさが好きになった。だから余計に思うわけです。日本には日本らしいやり方があるはずだ、と。時代が変わり今までのやり方が限界にきたら、日本のやり方で、改善すればいい。

 なのに、私たちはその上手くいっていない問題に正面から向き合うことなく、アメリカのやり方を追い続ければ「問題は解決する」と妄信している。アメリカ人が「ノー」を突きつけている今も、日本の未来ではなく、アメリカの未来を案じているだなんて。

 いったいどこまで日本人は、呑気で、いい人たちなんだろう。

 何よりも悲しいのは、日本企業がこぞって導入した、能力主義、成果主義のせいで、「働く」という行為が、しんどいことになってしまったことだ。

 心理学者のアブラハム・マズローは、「すべての人間は無意味な仕事より有意義な仕事を好むものである」と説き、「ユーサイキアン・マネジメント(働く人々が精神的に健康であり得るためのマネジメント)」という造語を生んだ。マズローは、企業というものが、人間の欲求を満たすことを可能にする最高の場だと考えた。

 マズローの考えに対しては、専門家の中でも意見が割れる。だが少なくとも、かつての日本企業には、安心・安定を通じて「人間の基本的欲求」を満たすシステム(長期雇用、年功序列、子弟制度など)が存在し、その効能を否定する人は世界中どこを探してもいない。

 だからこそ欧米の研究者たちは、日本企業を研究したのだよ。「日本型経営」という言葉は、日本人が生み出したんじゃない。欧米の研究者が、「アメリカにないもの。それを見習おうよ!」と、アメリカ社会に問いかけるために生まれた。

 だというのに、“副作用”ばかりに注目し、その良さをことごとく否定し、壊し、未来にも必要ないとさえ断言する人たちがいる。

際限なき競争社会の果て

 成果主義の波は、私のように成果主義の下で生きるフリーランスでさえも予測もしなかった方向に向かっている。

 例えば、原稿料。今までであれば、連載を依頼される場合、一回の原稿料が決められていたのだが、最近は違うパターンもある。

 書いたコラム自体に値段がつき、それを読者が買い、その売り上げを依頼主と折半するやり方が増えてきているのだ。

 もちろんたくさんの人に読んでもらえれば、かつての原稿料より多くなることはある。でも、大抵はそのレベルに達しない。しかも、完全出来高制の場合、書き手の実力次第という前提なので、編集者は「いていない」存在となる。

 これって結構、しんどいのですよね。めちゃくちゃ孤独で、空虚な気持ちに陥ったり、自分の向いてる方向性がわからなくなったり。編集者の役割の重さに、今さらながら気付かされる。

 結局、ひとりじゃ何もできない。原稿を書くという、一見書き手だけの力で決まるような作業も、同じ方向を見て、少しでもいい原稿を、意味ある原稿を作ろう! と一緒に戦ってくれる編集者がいるからこそ、踏ん張れるし、成長できる。

 ところが、「成果」だけが問われるシステムでは、書き手と編集者、書き手と原稿を掲載するメディアの関係が、とても乾いた関係になってしまうのだ。

 企業だって同じだ。

 かつて日本の中小企業は、大企業の下請けではなく、大切な同志だった。

 日本の経済は、一部のパフォーマンスの高い、生産性の高い大企業が支えていたわけじゃない。大企業は中小企業の職人さんたちの技術を尊敬し、職人さんたちが大企業のために必死にいいモノを作り、お互いに敬意を持って協働する風土があったからこそ、今がある。

 大きく儲かることも、会社が大きくなることがなくても、地味な仕事でも、ほかの人がやりたがらないような仕事でも、地道に真面目にやり続けた中小企業の人たちが、日本経済の土台を作っていたのだ。

 奇しくも、先日「下請法違反 過去最多」との小さな囲み記事が、日経新聞に掲載された。「買いたたき」「支払い遅延」「発注書面を交付しない」などの違反が大半だった。

 日本経済を支えてきた大切な土台が、崩れ去ろうとしている。それでも「仕方がないよ。競争だもん」。グローバリズムを肯定し、競争社会を煽ってきた人たちは、これからもこう言うのだろうか。

 すぐには答えはでないかもしれない。でも、今回のトランプ勝利をきっかけに、足下をもう一度見つめ、日本らしさをあーでもない、こーでもないと考え、議論することを、今さらながらやることが大事なんじゃないでしょうか。

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このコラムについて

河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学
上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/111100079/  

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