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ヒッピー文化は何もかも破壊していく文化だった
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/104.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 1 月 28 日 11:49:38: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

社会はある時から凄まじく変わってしまうという事象がある


かつてアメリカはキリスト教系の価値感の強い文化を持ち、「男は男らしく、女は女らしく」という保守的な文化しかなかった。しかし、やがて時代が変わり、「男らしさ、女らしさ」にこだわらない若者たちが現れるようになった。

アメリカの新しい価値感の転換を象徴した世代は「ヒッピー」である。

1960年代、アメリカはベトナム戦争を戦っていたが、このベトナム戦争の修羅場はテレビで生々しく報道されるようになり、それを見た若者たちがこのように疑問を持つようになった。

「どうして我々が見も知らぬアジア人を虐殺しているのか?」

やがて、アメリカ政府が東南アジアの片隅で行っている戦争という名の「虐殺」に反対する若者たちが大学を基点として反対デモや抗議デモを起こすようになり、やがて彼らが「反体制派=ヒッピー」となっていく。

彼らのモットーは、「徹底した反体制」だった。

そのため、体制側のすべての文化を破壊することに情熱を注いだ。「男は短髪で男らしくしなければならない」と言われれば、それに反抗して長髪にした。

「背広を着ろ」と強制されたら、それに反抗して女性のように中性的な服を着るようになった。

ヒッピー文化は何もかも破壊していく文化だった

「一夫一婦制が正しい」と強制されたら、それに反抗してフリーセックスが流行するようになった。「家族は大切だ」と強制されたら集団生活をするようになった。

そして「ドラッグを吸うのは馬鹿だ」と頭ごなしに言われたら、ドラッグを吸うようになった。そうやって、ヒッピー文化は何もかも破壊していった。

「同性愛は病気だ」というのはこの時代もまだ続いていた概念だったが、それもヒッピー文化の発祥地であるサンフランシスコでは容認されて、後にハーヴェイ・ミルクのような重要な人物を輩出している。

このように見ていくと分かる通り、アメリカのすべてを変えたのは、ヒッピー文化だったのである。

現代のアメリカのリベラルを語る上で、ヒッピー文化は知らずに通り過ぎることはできない巨大なムーブメントであったと言える。

自由なセックスという概念が定着したのも、このヒッピー文化からだったが、これは女性にも大きな影響を与えた劇的な文化的転換だった。

女性の性の解放は、紛れもなく1960年後半のヒッピー・ムーブメントから生まれていったのだ。世界中でこの風潮が煽られ、1970年代以後は「貞操を守るのは古い」という価値の転換が徐々に起きていた。

この時代は若者の熱気がむんむんと溢れた熱い年代だった。若者はすべてをひっくり返したのだ。

ヒッピー文化の洗礼を受けた世代とそれ以前の小説や映画を観ていると、「本当に以前と同じ国なのか?」と首を傾げるほどの変化がある。

もう今では信じる人もいるかどうか分からないが、欧米でも貞操を守るのが美徳とされた時代がずっと続いていたのだ。

「女性は夫に従う」「女性は夫に口を出さない」のが女性のあるべき姿だと言われていた時代があった。これが、すべて崩壊した。


Scott McKenzie - San Francisco (Monterey, June 1967)
https://www.youtube.com/watch?v=yhabYduqQ_A

女性の性の解放は、紛れもなく1960年後半のヒッピー・ムーブメントから生まれていったのだ。日本でもこの風潮が煽られ、1970年代以後は「貞操を守るのは古い」という価値の転換が徐々に起きていた。


中ピ連の過激な活動と、映画『エマニエル夫人』

当時の日本人は、アメリカ文化に心酔していた。アメリカは偉大な国で、アメリカは目標であり、アメリカは真似すべき国だったのだ。

アメリカでエルビス・プレスリーが流行したら、日本にもエルビス・プレスリーが大流行した。アメリカでグループ・サウンドが流行したら、日本でもグループ・サウンドが流行した。

そして、アメリカでヒッピーが生まれ、長髪の若者が時代の最先端を飾るようになると、日本もまた若者たちがみんなアメリカのヒッピー文化を真似るようになった。

アメリカで反戦フォークが流行ると、もちろん日本でも反戦フォークが流行し、ボブ・ディランの物真似みたいな日本人のシンガーも次々と現れた。

アメリカでベトナム戦争反対運動が湧き上がると、日本人の若者もなぜかベトナム戦争反対運動を日本で起こすようになった。すべてがそんな調子だったのだ。

アメリカで「自由なセックス」が流行すると、もちろん日本人女性もこうした流れに与するようになる。

そして、経口避妊薬(ピル)を解放せよという中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)が過激な抗議運動を起こすような時代になっていた。

気に入れば誰とでも寝る、乱交も問題ない、誰にも縛られないで生きるというのは、まさに反体制の象徴的な行動だったが、そのためにはピルが必要だ。

中ピ連の運動は、女性のセックス解放の運動でもあると、当時のフェミニストは考えていた。

中ピ連が抗議活動をして社会の耳目を集めているとき、世界では不思議な映画が大流行していたのだが、それが「初の女性向けポルノ」と言われていた『エマニエル夫人』だった。

この映画が日本に入ってきたとき、保守的であると言われていた日本女性が大挙して映画館に押し寄せて、シルビア・クリステルのみずみずしい裸体を見つめたのだった。

以後、映画『エマニエル夫人』は女性の性的解放の象徴的かつ伝説的な映画となっていく。

(伝説の映画『エマニエル夫人』に仕掛けられていたものとは?)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120709T0054560900.html
http://www.xvideos.com/video20154645/emanuela_1974


中ピ連が抗議活動をして社会の耳目を集めているとき、世界では不思議な映画が大流行していたのだが、それが「初の女性向けポルノ」と言われていた『エマニエル夫人』だった。


社会は、ある時から凄まじく変わってしまう事実

この1960年代後半から1970年代にかけて広がっていったヒッピー時代を調べていると、道徳破壊の痕跡があちらこちらに残っていて興味深い。

ベトナム戦争に反対する若者たちの反対運動が完全に社会を変えてしまい、その運動の前と後ではまったく違った社会になっていることに今さらながら驚きを隠せない。

良し悪しは別にして、社会は継続的かつ熱狂的なムーブメント(社会運動)が起きれば、どんな頑迷な社会でも大きく変化していくというひとつの象徴がヒッピー文化である。

アメリカはヒッピー文化で変質してしまったが、それで良かったのか悪かったのかは、誰にも分からない。

この文化的な転換があったから現代社会があるのだが、逆にこの転換がなければ実はもっと良い社会があったかもしれないので、一概にヒッピー文化があって良かったのだと言い切れるものではない。

ここで重視しなければならないのは、時代が変わったことに対する良し悪しの批評ではない。「社会はある時から凄まじく変わってしまうという」事象を認識することだ。

現在、欧米では今まで続いてきたグローバル化の流れに対して凄まじい反撥と嫌悪を示す層がどんどん増えてきている。それが各国のひとつの巨大ムーブメントと化している。

グローバル化は今まで「これが突き進めばみんな幸せになる」という奇妙な多幸感(ユーフォリア)とセットになって語られていた。

ところが、グローバル化が進めば進むほど貧困と格差が広がり、異民族が異文化を持ち込んで多文化衝突が引き起こされ、治安も秩序も悪化し、対立と衝突と暴力が生まれるようになった。

そんな現実を目の当たりにして、人々は突如としてグローバル化に対して拒絶反応を見せるようになった。

それが2016年になってから、イギリス国民のEU離脱であったり、ドナルド・トランプ政権の樹立という形になって現れるようになっている。

今、時代が大きく変わりつつある。これからの時代、あなたはどのように生きるのだろうか?


ドナルド・トランプと熱狂する人々。今、時代が大きく変わりつつある。これからの時代、あなたはどのように生きるのだろうか?
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20170128T0252000900.html

シルビア・クリステル死去。エマニエル夫人で一世風靡した女優 2012-10-18


シルビア・クリステルが死んだ。2012年10月18日、60歳だった。癌を患い、2012年7月には脳卒中を起こして寝たきりになっていた。それから3ヶ月で亡くなっているので、最期は意識もなかったのかもしれない。全世界の女性の性意識を転換させた女性の静かな死だった。

シルビア・クリステルという女優は、多くの映画で人々に感銘を与えた女優ではなかった。50本近くの映画に出ていたが、ただひとつ「エマニエル夫人」の3部作のみで人々の記憶に残った。最初から最後までエマニエルの呪縛から逃れることができなかったという言い方もできる。しかし、いろいろなインタビューを読むと、彼女はむしろそれを誇りにしていたようだ。

「エマニエル夫人」が、彼女の人生の使命だったのだ。

女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ

「エマニエル夫人」は特異な映画だ。原作も駄作、映画自体もそれほどよくできた映画でもない。映画史から見ると、「エマニエル夫人」はキワモノであり、賞を与えるほどの名作でもなく、大金をかけた大作でもない。

しかし、シルビア・クリステルが映画の中で見せた瑞々しい肉体は、そのすべてを吹き飛ばし、全世界の女性にアピールした。時代が求めているものを、彼女は表現していたのだ。

1970年代はヒッピー・ムーブメントの時代であり、これは時代を縛っていた様々な既成概念を壊す動きだった。この打ち壊すべく既成概念のひとつに「女性の貞操観念」があった。

「女性はもっと権利を主張すべきだ」
「女性は自らを解放すべきだ」
「女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ」


ウーマンリブの概念が生まれたのもこの頃だし、女性の社会進出が求められたのもこの頃だし、フェミニズムという思想が生まれたのもこの1970年代だった。この中で、「女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ」という部分の起爆剤になったのが、シルビア・クリステルの「エマニエル夫人」だったのである。

1970年代の女性たちはこの映画で、シルビア・クリステルに導かれるように「性を謳歌する」道を歩み始めた。だから、この映画は「映画」として重要なのではない。「社会史」として重要なものだったのだ。

最初の映画に仕組まれていた「毒」とは何だったのか

エマニエル夫人は、ただの映画でも、ただのポルノでもなかった。時代が求めているものを表現したものだった。巧みな宣伝と、シルビア・クリステルの美しさと、映画全編に流れる美しい音楽すべてが相乗効果を発揮していたとも言える。

彼女のあとにも様々な女性がエマニエルを演じたし、エマニエルの亜流もまたたくさん作られた。しかし、そのどれもが興行的に失敗しているし、歴史の風雪を乗り越えることもできなかった。 実は、エマニエル夫人も「エマニエル夫人」「続エマニエル夫人」「さよならエマニエル夫人」と立て続けに作られたが、強い影響力を持って覚えられたのは、最初の「エマニエル夫人」だけだった。

なぜなのか。

実は、原作をなぞって作られた最初の映画には、美しさの裏に大きな「毒」が仕掛けられていたからだ。その「毒」は、原作を読んだ人間だけが知っているものだ。その「毒」を表現していたのが、まさに最初の一本だったのである。「続エマニエル夫人」と「さよならエマニエル夫人」は、ただヒットに釣られて作られた映画であり、原作の持つ「毒」はそこに表現されていない。


いったい、この最初の映画に仕組まれていた「毒」とは何だったのか。それは、実はブラックアジアで答えを書いた。ブラックアジアの会員の方は、その「毒」をもう一度確認してみて欲しい。

伝説の映画『エマニエル夫人』に仕掛けられていたものとは?

エマニエル夫人。汚れて「いない」と感じるのは恐ろしいわ


本当のエマニエル夫人の裏にあるものを知らなければ、何があったのか、何も分かっていないのと同じだ。答えはこの図が示しているものだ。

女性の肉体は世の中を変える力がある

多くの人たちは映画「エマニエル夫人」の奇妙な物語の裏側に何が隠されているのか、その意図を知ることもないし、見ることもない。ただ、シルビア・クリステル演じるエマニエル夫人が、性的に解放されていくという部分のみに目を奪われてしまっている。

しかし、エマニエル夫人を取り巻く男たちの言動はとても奇妙で、異様な哲学を持っている。その哲学は、現代になってもまだ実現していない先進性を持ったものである。そして、その一見、奇妙に見える哲学の裏側にあるのが、「毒」だったのだ。

「伝説の映画『エマニエル夫人』に仕掛けられていたものとは?」で示したフランス版の奇妙なイラストは、ひとつのサブリミナルになっていた。

しかし、そういった毒を毒と感じさせなかったのが、シルビア・クリステルという美しい女性の肉体だった。

毒のあるリンゴであっても、とても美しければ食べてみたくなる。時代は毒リンゴを求めていて、だからエマニエル夫人はその象徴となった。

女性の肉体は世の中を変える力がある。

これは、常にブラックアジアのひとつのテーマでもある。今、インドで「女性の肉体が世の中を変える」動きが加速していることも書いた。


エジプトでも起きている。(アリア・マフディ。あっさりと裸をさらしてイスラムに反抗 )

1970年代に、シルビア・クリステルが示したのがまさに、これだった。

「女性の肉体は世の中を変える力がある」
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20121019T0049500900.html

なぜフランス人とドイツ人は性的タブーを破り捨てたいのか?


イタリア人やスペイン人は、全般的に女性好きにも関わらず、あまり幼児性愛には関心がないように見受けられる。彼らは幼女ではなく、「女性」にぞっこんだ。陽気であけっぴろげだ。

しかし、北欧あたりの男たちが幼児性愛に関心があるようで、フランス・ドイツあたりの男がどうも他と違う。

特にフランス人が性的に不思議な感覚を持っているように見える。ディープキスは昔はフレンチ・キスと言われた。フランス人が好んでいたキスだったからだ。

フェラチオはフランス人がする変態行為だと言われていた。他の民族でそれは一般的ではなかった。フランスの性的な放縦さは突出していた。

また、ドイツも奇妙な性の探求で有名な民族だ。どうも、フランス人やドイツ人は性的に何か深いものを隠し持っている。


性に関して何かタブーを破ろうとする負のエネルギー

フランスと言えば、子供が怖がるほどに精巧に作られた「フランス人形」が伝統にある。

実はフランス人形を量産化させたのがドイツ人形で、やはりとても精巧で薄気味悪い感じがする。人形なのにリアルすぎるのである。

あれを見ても何か子供のためではないような、退廃的なものを感じてしまう人は多く、実際にロリコン気質のある男たちがそれをコレクションしていることで有名だった。

フランス人やドイツ人はロリコン気質があるのだろうか。実はあるかもしれない。アジアやアフリカで、ロリコン狂いをしているのはフランス人やドイツ人が多い。

彼らがその旧植民地をさまよってやっていることを見ていると、どうもロリコンだけでなく、セックス全体のタブーをあえて冒したいという意識すらも感じる。

どうもフランス人(と、ドイツ人)は性に関して何かタブーを破ろうとする負のエネルギーがあるように思えて仕方がない。

アジアの闇の中で、誰がどこにいたのかを後々よく考えてみれば、どうもそういう疑念が浮かんでしまう。

そこでふと思ったのが、「サディスト」の元祖マルキ・ド・サドのことだ。

サドは今でもその名を知らない者はない。未亡人を暴行したり、娼婦を虐待したりして刑務所と精神病院に放りこまれたが、そこで壮大な暴力小説を書いて、それが歴史に残った。

『ソドム百二十日』『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』『悪徳の栄え』などを読むと分かるが、そこには暴力と反体制にまみれた描写が執拗に続き、そのあらゆる不品行と堕落には陶酔さえ感じる。

サドはフランス人だった。

人形なのに、どこか精巧すぎて気味が悪いフランス・ドイツ人形。


堅苦しい社会をぶち壊したいという自由への欲求

また1970年にエマニエル夫人という映画が公開されて、そこから女性たちの性的概念の「パラダイムシフト」が起きた。

原作者は「タイ・バンコク生まれ」の女性エマニュエル・アルサンだった。

ジュスト・ジャカン監督シルビア・クリステルの映画は大ヒットして1970年代は、その亜流で映画が埋め尽くされた(この亜流のひとつである「ブラック・エマニエル」の主演女優はインドネシア人だった)。

私がエマニエル夫人を見たのはずっとあとの話だが、あの映画を見てもエマニエルの「哲学」がよく分からず、しかたがないから原作を買って読んでやっと何が言いたいのか理解した。

フランス文学はどれもそうだが、自己客観視と哲学に溢れている。この小説もまたそうだった。

もうこの小説を顧みる人もいないが、その根底を貫く哲学が「反処女(アンチ・バージン)」の概念だったのだ。

これはもちろん、キリスト教の強烈なアンチテーゼである。

私は今でもこのアンチテーゼを持ち出したエマニュエル・アルサンという女性に惚れている(シルビア・クリステルに惚れているわけではない)。

このエマニュエル・アルサンもまたフランス人だった。

フランス人であるサドもエマニュエル・アルサンも、その強烈な性的反逆を提示したのだが、この両者に共通するのが「反キリスト」の概念だ。

反キリストとは何か。表面を見ると、キリストや聖書に反対する立場のことを指す。

しかし、堅苦しい社会をぶち壊したいという「自由への欲求」でもあったのである。

宗教の堅苦しい枠から抜け出して、規定された常識に縛られず、自分の感覚のままに生きていきたいという欲求だ。

貞操や、常識や、文化に縛られたくない。自由に人を好きになり、自由にセックスを楽しみ、自由に振る舞いたい。

それは宗教に反しているのであれば、自分は自由のために「反キリスト」になりたい。そういう感覚が、「タブーを破りたい」というエネルギーにつながっていく。

映画「エマニエル夫人」のシルビア・クリステル。この映画が全世界の女性を性道徳から解放した。


ロリータも原作がドイツで、出版がフランスだった


1962年の映画「ロリータ」より。ドイツの原本にロシア系アメリカ人が着想を得てフランスの出版社が世に出して、これが映画化された。

そう考えると、フランス人やドイツ人が秘かに惹かれている幼児性愛(ペドフィリア)もまた、タブーを破る反キリスト的な行為であることが見えてくる。

ところで、幼児性愛のことをロリータ・コンプレックスと言うこともある。このロリータは小説「ロリータ」から取られた言葉だ。

この小説を書いたのはロシア系アメリカ人ウラジーミル・ナボコフなのだが、あちこちの出版社に断られて、最終的に出版の許可を出したのはフランスの出版社だった(ここにも「反キリスト」的なフランスが登場する)。

そして、このロリータには後日談があるのだが、この小説の原作がまた存在していて、こちらを書いたのがドイツ人ハインツ・フォン・リヒベルクだったという話だ(今度はドイツ人が出てくる)。

反キリストのニーチェもドイツ、サドの対極にあるマゾ(マゾッホ)はオーストリア(ドイツ圏)。ロリータも原作がドイツで、出版がフランス。

厳格なキリスト教がこの地域に根づいた反動なのだろうが、性的に逸脱したすべての概念もまたこの地域から生まれている。

彼らの中の反キリスト感情と、後進国で彼らが秘かに行なっているロリコン犯罪……。

ずっと心に引っかかっているのがフランス人・ドイツ人の、陰湿な性の探求だ。

彼らの中にある反キリスト、反道徳。もう彼らにはキリストは負担になっているのだろう。だから、そこに性のタブーを覆したいという欲求が見える。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120912T0004430900.html
 

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