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グレン・グールド 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/186.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 8 月 04 日 07:21:32: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: オッリ・ムストネン 名演集 投稿者 中川隆 日時 2017 年 8 月 03 日 12:42:18)


グレン・グールド(Glenn Herbert Gould, 1932年9月25日 - 1982年10月4日)


バッハ

JS Bach - Original Handwritten Scores - Goldberg Variations (by Glenn Gould 1955) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jWshUm0Juxk


Goldberg Variations, an audio recording conducted by Glenn Gould with the original handwritten scores of J.S. Bach.  

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コメント
1. 中川隆[-13571] koaQ7Jey 2018年9月19日 11:25:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18643] 報告

カナディアン・ロッキーの山岳と森、至る所にある青い水の巨大湖
を見ながら湖畔を散策し、1万年前の氷の氷河に雪上車で行って、
今日はワイナリーに隣接したロッジ風ホテルで書き始めました。

カナダは、アルプスの規模を数倍に拡大した急峻な山岳、杉と松の
原生林、150万か所という湖に、3千数百万人の東京圏並みの人口し
かいない国です。国土は日本の約26倍で、米国より広い。1億2600
万人の日本は、カリフォルニア州の広さしかない。

人口と国土の広さは、人々の考え(思想)と文化(生活意識の様
態)の基礎を規定しています。カナダの95%以上の面積は、人が住
んでいず自然の山と原生林、北極につながるツンドラでしょう。土
地と木と水が豊富で、氷河水が至るところに河を作り、水道の水も
手が切れるように冷たい。人々の共通意識が決める時間の流れは、
樹木の年輪のように遅くておおらかな国です。インターネットの時
間とは無縁でしょうか。しかし、山岳の中でもWiFiが繋がるのには
少し驚きました。

はじめて乗る雪上車から降り、自分の足で氷河を初めて知りました
が、風が吹きすさぶ表面に、小石のように散らばる透明な氷片を手
に取ると水晶のように固く、手の熱では、容易に溶けません。最下
層の氷は1万年前のものという数百メートルの厚さの氷河の、透明
なところは、翡翠(ひすい)の色に澄んでいます。ミネラル(鉱
物)が溶けて、波長の短い青を反射しているからです。

各所にある、氷河が溶けてできた大きな湖も、エメラルド色でした。
描写すると長くなるのでやめますが、見たことのない究極は、ここ
にもあったのです。日本の景色は、東山魁夷の風景画のように水分
で煙っていますが、カナダでは、遠くまでクリアです。

ここは、私にとって最高のピアニスト、グレン・グールドを生んだ
国です。グールドのバッハ(平均率クラヴィア曲集やゴルトベルク
変奏曲)は、天上を想像した人の音に聞こえます。蒼(あお)く澄
んだ氷河湖を見て、原点はこれかとも思いました。優れた芸術家の
創造には、印象派が地中海であるように、必ず、原点となる風景や
体験があります。芸術は、実用の技術を超える美を求めたものでし
ょう。

カナダの河と湖と山岳そして湖の淵までの、まっすぐに伸びた松や
杉の原生林を見るまでは、「イタリアではなく、なぜカナダにグー
ルドか」と不思議でした。

同じ演奏を30年聞き続け、どんな理由でいつも新鮮なのか。たぶん、
何かの意識と感情の表現主義の、突き詰めた究極を毎回、感じるか
らでしょう。数百回、いや、その数倍は聴いたでしょうか。
https://archives.mag2.com/0000048497/20180916103127000.html

2. 中川隆[-13523] koaQ7Jey 2018年9月26日 13:10:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18832] 報告

カナディアンロッキーは、まず、清透な大気でした。乾燥し、木が
ない米国のロッキー山系とは違い、天を突きさす針葉樹の生きた林
が、二酸化炭素を吸収し、酸素を吐く。農薬を撒かない土壌には微
生物が多く、自然の堆肥を作っている。スイスのリゾートホテルの
ように、部屋にハエが入ってくることもあります。殺虫剤も使わな
いからです。

岩石を削ったミネラルのため、絵の具のように青く光る氷河湖の湖
畔にログハウスを作り、自然の時間の中で一生を過した人も多いと
いう。所得はない。しかし自然の恵みがある。

酸素成分が多いのを肺が感じます。体内時計がズレて、睡眠が細切
れでも、頭はクリアでした。深夜(早朝か?)、原稿を書いても、
眠くならない。

ラスベガスのカジノ・ホテルでは、天井から酸素を噴出して覚醒さ
せ、深夜でも眠気が襲わない、あの感じです。山脈、氷河、空気、
水、湖、そして樹木と静寂の国がカナダでした。

羽田に着いたとたん、アジアのモンスーンの湿度・大気・臭気。も
っとも多くの野菜を食べ長寿の長野県は、カナダに似ていますが、
景観のスケールが100倍くらい違います。雨が降っても、水滴は乾
いています。「大」をつけなければ似つかわしくないのが、カナデ
ィアンロッキーでした。

それにしても、人口が少ない。あの大自然
に、また行きます。今度は、グレン・グールドを音楽プレーヤー
(DMP)で聴きながら、湖を眺めようと思っています。
https://archives.mag2.com/0000048497/

3. 中川隆[-13394] koaQ7Jey 2018年10月08日 16:43:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19078] 報告

 G.Gouldほど好き嫌いが極端に分かれる演奏家は少ないのではないでしょうか。音楽畑の人には概して人気がなく、中でもバーンスタイン一派からは蛇蝎のごとく嫌われているようですね.

一方、音楽関係でない小説家とかいわゆる文化人と言われる人たちに熱狂的なファンが多いように思いまます。(シューマン好きの奥泉光氏のように「グールドを好きという人が嫌い」という人もいますが) 

私が初めてグールドに接したのはバッハのインヴェンションとシンフォニアのレコードでした。もう40年以上も前の話で、どうしてこのレコードを買ったのかは全く覚えていません。ただ気に入ったのは確かで毎日のように聴いていました。 

このグールドの演奏に慣れ親しんだころ、たまたま別の人の演奏をきいて驚きました。まったく面白くないのです。ただの練習曲にしか聞えませんでした。

以来グールドのバッハを買い集めました。変幻自在なテンポ、陳腐な表現ですが、まさに珠を転がすかのような粒立ちの揃った音色が魅力でした。


そんな私ですが、当時はグールドのモーツアルトとヴェートーヴェンにはちょっとついていけませんでした。余りにに速すぎるテンポに戸惑ったのです。 ところが60歳を過ぎたあたりから、こんなモーツアルトやベートヴェンもいいかなと思うようになってきました。

グールドが生きていたら今年82歳。
82歳のグールドはどんな演奏を聞かせてくれたでしょうか。
http://cafearvo.com/2014April.html

4. 中川隆[-13242] koaQ7Jey 2020年3月02日 11:28:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[287] 報告

「クラシックの核心」を読んで - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2020年03月02日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/77bb1c42a1e26a1f1fb31b867b2d02f8


音楽評論(クラシック)の大御所だった吉田秀和さんが亡くなられてからおよそ8年になる。あの高名な五味康祐さんが「生活派」だとすれば吉田さんは生粋の「学究派」とでもいえようか。

言い換えると、両者の違いは譜面に基づいた音楽論を展開したか否かに尽きるが、もちろん吉田さんは前者である。そして自分はといえばまるっきり譜面が読めないので生活派に属している。

ちなみにご両人が使っていたスピーカーは、五味さんが「オートグラフ」(タンノイ:モニターレッド)で吉田さんは比較的小振りの「エラック」(ドイツ)だった。

選択の意図と性格が何だか一致していると思いませんか!

それはともかく、あまりにも吉田さんの存在が大きかっただけに、はたして吉田さんに続く後継者はと懸念していたのだが、どうやらちゃんとふさわしい方がおられたようだ。

                          

このほど

「クラシックの核心」(河出書房新社刊)
https://www.amazon.co.jp/クラシックの核心-バッハからグールドまで-片山-杜秀/dp/4309274781

を読んでそう思った。書いてある内容も随分と中身が濃かったが、それに加えて「です、ます」調の柔らかい文体がいかにも吉田さんの著作を彷彿とさせてくれた。

著者の名前は「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏。巻末の経歴欄を伺うと1963年生まれで現在、慶應義塾大学法学部教授。

NHKのFM放送などでご存知の方も多いと思うが、過去に「音盤考現学」「音盤博物誌」「クラシック迷宮図書館(正・続)」などの著書があり、「吉田秀和賞」をはじめ「サントリー学芸賞」「司馬遼太郎賞」など数々の賞を受賞されており、道理で〜。
本書の内容は次のとおり。

1 バッハ  精緻な平等という夢の担い手

2 モーツァルト  寄る辺なき不安からの疾走

3 ショパン  メロドラマと“遠距離思慕”

4 ワーグナー  フォルクからの世界統合

5 マーラー  童謡・音響・カオス

6 フルトヴェングラー  ディオニュソスの加速と減速

7 カラヤン サウンドの覇権主義

8 カルロス クライバー  生動する無

9 グレン・グールド  線の変容

この中で特に興味を惹かれたのは、「フルトヴェングラー」と「グレン・グールド」だった。

前者では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)

「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がだんごになって』聴こえることが重要だ。

フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」

オーディオ的にみて実に興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが特徴の我が家の「AXIOM80」ではフルトヴェングラーをまったく聴く気にならないのもそういうところに原因があるのかもしれない。

通常「いい音」とされているのは、端的に言えば「分解能があって奥行き感のある音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼやけた音」が不満で遠ざけたタンノイだが、逆に捨てがたい味があったのかもしれないと思った。

「いい音とは」について、改めて考えさせられた。

次にグールド論についてだが、これはグールドファンにとっては必見の内容で、まだお読みになっていない方はぜひお薦めします。

さて、稀代の名ピアニスト「グレン・グールド」(故人、カナダ)が、ある時期からコンサートのライブ演奏をいっさい放棄し、録音活動だけに専念したのは有名な話でその理由については諸説紛々だが、本書ではまったく異なる視点からの指摘がなされており、まさに「眼からウロコ」だった。

まず、これまでのコンサートからのドロップアウトの通説はこうだ。

☆ グールドは潔癖症で衛生面からいってもいろんなお客さんが溜まって雑菌の洪水みたいな空間のコンサート・ホールには耐えられなかった。

☆ 大勢のお客さんに対するプレッシャーに弱かった。

☆ 極めて繊細な神経の持ち主で、ライブ演奏のときにピアノを弾くときの椅子の高さにこだわり、何とその調整に30分以上もかけたために聴衆があきれ返ったという伝説があるほどで、ライブには絶対に向かないタイプ。

そして、本書ではそれとは別に次のような論が展開されている。(188頁)

「グールドによると、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。

たとえばゴールドベルク変奏曲の第七変奏はどうなっているか、第八変奏は、第九変奏はとなると、それは生演奏で1回きいたくらいではとうてい分かるわけがない。たいていの(コンサートの)お客さんは付いてこられないはず。

したがって、ライブは虚しいと感じた。よい演奏をよい録音で繰り返し聴く、それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しないし、ありえない。」

以上、初めて聞いた説だがゆうに40年以上ひたすらグールドを聴き込んできたので“さもありなん”と思った。非常に説得力があると思う。

そもそも自分のようにライブのコンサートには(よほどの演奏家を除いて)まったく興味がなく、ひたすら文化果つる地での自己流のシステムで音楽に聴き耽る人間にとってはまことに「我が意を得た話」である(笑)。

「音楽は生演奏に限る。オーディオなんて興味がない。」という方をちょくちょく見聞するが、けっして自慢できる話ではなく、ほんとうの音楽好きとは明らかに違うことを銘記しておかなければならない。

さらにオーディオ的に興味のある話が続く。
「その辺の趣味はグールドのピアノの響きについてもつながってくる。線的動きを精緻に聴かせたいのだから、いかにもピアノらしい残響の豊かな、つまりよく鳴るピアノは好みじゃない。

チェンバロっぽい、カチャカチャ鳴るようなものが好きだった。線の絡み合いとかメロディや動機というものは響きが豊かだと残響に覆われてつかまえにくくなる。」といった具合。

グールドが「スタンウェイ」ではなくて、主に「ヤマハ」のピアノを使っていた理由もこれで納得がいくが、響きの多いオーディオシステムはたしかに心地よい面があるが、その一方、音のスピードが関連してきて分解能の面からするとデメリットになるのもマニアならお分かりのとおり。

したがって、グールドの演奏は前述のフルトヴェングラーの演奏とはまったく対極の位置にあることが分かる。

結局、こういうことからすると「いい音」といっても実に様々で指揮者や演奏家のスタイルによって無数に存在しているといえよう。

逆に言えば、一つのシステムで何から何までうまく鳴らそうなんて思うのは欲張り過ぎでしょう。
世の中にはピンからキリまで様々なオーディオ・システムがあるが、高級とか低級の区分なくどんなシステムだってドンピシャリと当てはまる録音演奏がありそうな気がするのが何だか楽しくなりますね(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/77bb1c42a1e26a1f1fb31b867b2d02f8

5. 中川隆[-14442] koaQ7Jey 2021年12月26日 10:44:39 : 2FqwPrinA6 : Q0dpUE44cnh0dGM=[6] 報告
「音は悪くて構わない」ってどういうこと?
2021年12月25日
我が家では「好きな音楽」を「いい音」で聴きたい一心なので「音楽とオーディオ」が完全に一体化しているが、いったい「いい音って何だろう?」と考えさせられたのがこの本だ。

                          

著者は「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏。巻末の経歴欄によると1963年生まれで現在、慶應義塾大学法学部教授。

過去に「音盤考現学」「音盤博物誌」「クラシック迷宮図書館(正・続)」などの著書があり、「吉田秀和賞」をはじめ「サントリー学芸賞」「司馬遼太郎賞」など数々の賞を受賞されている。

本書の内容は次のとおり。

1 バッハ  精緻な平等という夢の担い手

2 モーツァルト  寄る辺なき不安からの疾走

3 ショパン  メロドラマと“遠距離思慕”

4 ワーグナー  フォルクからの世界統合

5 マーラー  童謡・音響・カオス

6 フルトヴェングラー  ディオニュソスの加速と減速

7 カラヤン サウンドの覇権主義

8 カルロス クライバー  生動する無

9 グレン・グールド  線の変容

この中で特に興味を惹かれたのが「フルトヴェングラー」と「グレン・グールド」の項目だった。

前者では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)

「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がだんごになって』聴こえることが重要だ。

フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」

オーディオ的にみて随分興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが得意な我が家の「AXIOM80」でフルトヴェングラーをまったく聴く気になれないのもそういうところに原因があったのか。

通常「いい音」とされているのは、「楽器の音がそれらしく鳴ってくれて分解能があり奥行き感のある音」で、いわば「解析的な音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼんやりした音」が不満で遠ざけた「大型タンノイ」だが、逆に捨てがたい味があるのかもしれないと思った。

「いい音とは」について、改めて考えさせられた。

次にグールド論についても興味深かった。

稀代の名ピアニスト「グレン・グールド」(故人、カナダ)が、ある時期からコンサートのライブ演奏をいっさい放棄して録音活動だけに専念したのは有名な話でその理由については諸説紛々だが、本書ではまったく異なる視点からの指摘がなされており、まさに「眼からウロコ」だった。

まず、これまでのコンサートからのドロップアウトの通説はこうだ。

☆ グールドは潔癖症で衛生面からいってもいろんなお客さんが溜まって雑菌の洪水みたいな空間のコンサート・ホールには耐えられなかった。

☆ 聴衆からのプレッシャーに弱かった。

☆ 極めて繊細な神経の持ち主で、ライブ演奏のときにピアノを弾くときの椅子の高さにこだわり、何とその調整に30分以上もかけたために聴衆があきれ返ったという伝説があるほどで、ライブには絶対に向かないタイプ。

そして、本書ではそれとは別に次のような論が展開されている。(188頁)

「グールドによると、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。

たとえばゴールドベルク変奏曲の第七変奏はどうなっているか、第八変奏は、第九変奏はとなると、それは生演奏で1回きいたくらいではとうてい分かるわけがない。たいていの(コンサートの)お客さんは付いてこられないはず。

したがって、ライブは虚しいと感じた。よい演奏をよい録音で繰り返し聴く、それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しないし、ありえない。」

以上のとおりだが、30年以上にわたってグールドを聴いてきたので“いかにも”と思った。

「音楽は生演奏に限る。オーディオなんて興味がない。」という方をちょくちょく見聞するが、ほんとうの音楽好きなんだろうかと・・・。

さらにオーディオ的に興味のある話が続く。

「その辺の趣味はグールドのピアノの響きについてもつながってくる。線的動きを精緻に聴かせたいのだから、いかにもピアノらしい残響の豊かな、つまりよく鳴るピアノは好みじゃない。チェンバロっぽい、カチャカチャ鳴るようなものが好きだった。線の絡み合いとかメロディや動機というものは響きが豊かだと残響に覆われてつかまえにくくなる。」といった具合。

グールドが「スタンウェイ」ではなくて、主に「ヤマハ」のピアノを使っていた理由もこれで納得がいくが、響きの多いオーディオシステムはたしかに心地よい面があるが、その一方、音の分解能の面からするとデメリットになるのも愛好家ならお分かりだろう。

したがって、グールドの演奏はAXIOM80が似合っており前述のフルトヴェングラーの演奏とはまったく対極の位置にあることが分かる。

結局、こういうことからすると「いい音」といっても実に様々で指揮者や演奏家のスタイルによって無数に存在していることになる。

世の中にはピンからキリまで様々なオーディオ・システムがあるが、高級とか低級の区分なくどんなシステムだってドンピシャリと当てはまる音楽ソースがありそうなのが何だか楽しくなる、そして、不思議と虚しい気持ちにもなる・・(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fe0a0fe08c61daa0bdf498067965c3f8?fm=entry_awp

6. 2022年5月01日 10:17:51 : kSHn8hp6Sk : dkF1N2hLdEIuc1E=[6] 報告
クラシック音楽界の中でさん然と輝く不世出の大ピアニスト「グレン・グールド」(カナダ:1932〜1982)。

死後40年ほどにもなるのにこんなに人気が衰えない演奏家も珍しい。

幼少のときに音楽家の母親からピアノの手ほどきを受け「歌うように演奏しなさい」との貴重な教えのとおり、その演奏の特徴は単に”楽譜をなぞらえる"印象とは程遠い。

たとえて言えば、一旦作曲家の音符をバラバラに分解してしまい、自分なりに勝手に再構築して独特のリズムとスタイルに統一して演奏するといった具合。演奏中に聴こえるあの独特のハミングが「歌うように演奏」を象徴している。

一方では奇人としても知られ、本番のピアノ演奏のときに聴衆を目前にして椅子の高さの調整にゴソゴソと20分以上もかけたりして、とうとう全盛期の中ほどからはコンサートの演奏を一切拒否してスタジオ録音に専念した変り種。

こういった「独特の世界」に、一旦はまってしまうともう脱け出せない。それにお互いにグールド・ファンと分かっただけで、高次元の鑑賞力を共有しつつ格別の親しみと連帯感を覚える(笑)。

現在の手持ちのCDは、世界の一流演奏家たちがスランプに陥ったときによく聴くとされる「モーツァルトのピアノ・ソナタ全集」、それにバッハの「ゴールドベルク変奏曲1981年盤」「フランス組曲」、ブラームスの「インテルメッツォ」、ベートーヴェンの後期ピアノソナタ(30〜32番)。

グールドにはバッハの作品に名演が多いが、バッハは苦手なのでやや手薄なのがちょっと気になるところだが、その辺を見透かされたように、バッハが大好きな「M さん」(関西)からご好意でもって送付していただいたのが「イギリス組曲」。

  

「あれっ、同じCDが2枚もある」と勘違いされる方があるかもしれないが、実は左がCBSソニーの「メイド・イン・USA」、右がオーストリア原盤。

左側の画像の左下片隅に小さくソニーのロゴマークが見える。

この二つの盤に音の違いを確認して欲しいというのが、Mさんから与えられたテーマだったが、これがまるで「月とすっぽん」のような差がある。

断然、オーストリア盤のほうがいい。音の情報量がまるで違う。たとえて言えば、ソニーのほうはダビングしたマスターテープを使用して作製したかのように淡白で蒸留水のような音質。

同席して聴いていたオーディオ仲間も、これだけ違うと「大問題」だと憤慨される。CDの価格にそれ相応の開きがあれば仕方がないが、おそらく似たようなものだろう。

それなのに、こんなに音質の差があるのは「罪悪」以外の何物でもない。

「一時が万事」ということもあるので、HMVなどで好きなCDを購入するときに、もし「ソニー盤」と「それ以外」盤があれば、絶対に後者を選択しようと申し合わせたことだった。

CDに限らずレコードでも国内プレス盤と海外プレス盤ではお値段に大きな差があるのもそういう理由だろう。

最初の入り口にあたる「ソフト」の違いでこんなに音質の違いがあるとなると「オーディオシステムの改善」なんか「水泡に帰す」ようなもので、いろいろと考えさせられてしまう。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/d83241905fc51323e1e9477138fe12a3

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