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メモ帳 _ 国会で桜問題しか取り上げない日本の野党はまともだった
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 26 日 16:57:19: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


国会で桜問題しか取り上げない日本の野党はまともだった


国会で法案の中身が議論される事は少なく、政府のスキャンダルの追及に野党は明け暮れています。これをして「くだらない野党」とか「無力な野党」と揶揄する人がネトウヨに限らず大勢居ます。しかし、これが少数派の野党に精一杯の抵抗だという事を知っている国民は少ない。 「多数決が正義」の国会で野党は「時間闘争」しか対抗手段を持たない 

「民主主義」は単純に言ってしまえば「多数決」が全てです。国会で多数派の与党は、審議などせずとも強硬採決によって、どんな法律も成立させる事が出来ます。

しかし、それでは「数による独裁」となってしまうので、形だけでも国家で与野党が充分に法案について話し合って採決するというポーズを取ります。法案の内容を審議した所で、最後は「数の力」で法案は成立してしまいます。国民も「充分内容を審議した」と納得してしまいます。

そこで、少数派の野党は「時間切廃案」という「時間闘争」で抵抗するしか手が有りません。

本来、時間稼ぎは法案の内容の審議であるべきですが、国民はこんな細かい事に興味はありません。国民を見方に付けない限り「審議は充分尽くされた」として採決に持ち込まれてしまいます。だから野党は「国民が興味を示し易いスキャンダル」で審議時間を使い尽くし、「強硬採決を許さない空気を醸成」して、法案をまとめて「時間切れ廃案」に持ち込む「時間闘争」を常套手段にしています。

■ 国会は既に法案の中身を審議する場では無くなっている ■

そもそも日本の国会は法案の中身を審議する場では無くなっています。その理由は「議員が勉強不足」だから。

日本の法律は「議員立法」が少ない事は皆さんもご存じだと思います。法律の多くは「閣法」です。「閣法」は、内閣が閣議決定して国会に提出される法案の事です。

1) 官僚が法案の雛形を作る

2) 自民党内の政務調査会の部会で法案の内容が審議される(利権の調整)

3) 自民党の「総務会」で法案の内容が検討される(さらなる利権の調整)

4) 国会への法案提出が閣議決定される

5) 国会内の委員会で法案が審議される(野党との調整)

6) 法案が本会議に提出され、審議後に採決される

自民党は「政治主導」の名の元に小泉政権時代から国会議員の国会での自由な裁量を制限して来ました。議員は国会で自民党が提出した議案に反対すると、次の選挙で党の公認が得られなくなるのです。だから、現在の国会議員は「数合わせ」に過ぎないのです。

当然、国会議員の質も低下します。かつては政策に精通した議員も多く居ましたが、現在では「選挙で勝てる議員」が「良い議員」です。世襲議員で後援会の基盤がしかかりしていたり、或いは話題性があって当選が見込める人が党の推薦を受け易くなります。

かくして国会で法案の中身を審議出来る議員が居ない、いえ必用無くなったのです・・・。

イギリス議会にしても、アメリカ連邦議会にしても、民主主義は形骸化しており、民主主義の理想とは大きくかけ離れた物になっていますが、日本の国会の形骸化はその最たるものかも知れません。「民主主義」が本当に機能する為には「理知的で公平な国民」が必須ですが、実際には国民は「利己的な集団」に過ぎません。結果的に民主主義を国民の手に委ねると国家は滅亡します。だって、税金払う人、居なくなりますから・・・。

「民主主義」は近代政治が生み出した「妥協案」ですが、様々な手段を使って「民主主義を制約」する事で機能して来ました。日本の国会システムも、長い年月をかけて作られた「妥協案」の一つです。

国民から見ると「理解不能」な国会システムですが、これも先人の知恵(と欲望)の結晶と思えば、評価する点もあるのかも知れません。  

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コメント
1. 中川隆[-14158] koaQ7Jey 2020年1月31日 12:55:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-841] 報告
国会で桜問題しか取り上げない日本の野党はまともだ
国会で法案の中身が議論される事は少なく、政府のスキャンダルの追及に野党は明け暮れています。これをして「くだらない野党」とか「無力な野党」と揶揄する人がネトウヨに限らず大勢居ます。しかし、これが少数派の野党に精一杯の抵抗だという事を知っている国民は少ない。 「多数決が正義」の国会で野党は「時間闘争」しか対抗手段を持たない 

「民主主義」は単純に言ってしまえば「多数決」が全てです。国会で多数派の与党は、審議などせずとも強硬採決によって、どんな法律も成立させる事が出来ます。


しかし、それでは「数による独裁」となってしまうので、形だけでも国家で与野党が充分に法案について話し合って採決するというポーズを取ります。法案の内容を審議した所で、最後は「数の力」で法案は成立してしまいます。国民も「充分内容を審議した」と納得してしまいます。

そこで、少数派の野党は「時間切廃案」という「時間闘争」で抵抗するしか手が有りません。


本来、時間稼ぎは法案の内容の審議であるべきですが、国民はこんな細かい事に興味はありません。国民を見方に付けない限り「審議は充分尽くされた」として採決に持ち込まれてしまいます。だから野党は「国民が興味を示し易いスキャンダル」で審議時間を使い尽くし、「強硬採決を許さない空気を醸成」して、法案をまとめて「時間切れ廃案」に持ち込む「時間闘争」を常套手段にしています。


■ 国会は既に法案の中身を審議する場では無くなっている ■


そもそも日本の国会は法案の中身を審議する場では無くなっています。その理由は「議員が勉強不足」だから。


日本の法律は「議員立法」が少ない事は皆さんもご存じだと思います。法律の多くは「閣法」です。「閣法」は、内閣が閣議決定して国会に提出される法案の事です。


1) 官僚が法案の雛形を作る
2) 自民党内の政務調査会の部会で法案の内容が審議される(利権の調整)
3) 自民党の「総務会」で法案の内容が検討される(さらなる利権の調整)
4) 国会への法案提出が閣議決定される

5) 国会内の委員会で法案が審議される(野党との調整)
6) 法案が本会議に提出され、審議後に採決される


自民党は「政治主導」の名の元に小泉政権時代から国会議員の国会での自由な裁量を制限して来ました。議員は国会で自民党が提出した議案に反対すると、次の選挙で党の公認が得られなくなるのです。だから、現在の国会議員は「数合わせ」に過ぎないのです。

当然、国会議員の質も低下します。かつては政策に精通した議員も多く居ましたが、現在では「選挙で勝てる議員」が「良い議員」です。世襲議員で後援会の基盤がしかかりしていたり、或いは話題性があって当選が見込める人が党の推薦を受け易くなります。

かくして国会で法案の中身を審議出来る議員が居ない、いえ必用無くなったのです・・・。

イギリス議会にしても、アメリカ連邦議会にしても、民主主義は形骸化しており、民主主義の理想とは大きくかけ離れた物になっていますが、日本の国会の形骸化はその最たるものかも知れません。「民主主義」が本当に機能する為には「理知的で公平な国民」が必須ですが、実際には国民は「利己的な集団」に過ぎません。結果的に民主主義を国民の手に委ねると国家は滅亡します。だって、税金払う人、居なくなりますから・・・。

「民主主義」は近代政治が生み出した「妥協案」ですが、様々な手段を使って「民主主義を制約」する事で機能して来ました。日本の国会システムも、長い年月をかけて作られた「妥協案」の一つです。

国民から見ると「理解不能」な国会システムですが、これも先人の知恵(と欲望)の結晶と思えば、評価する点もあるのかも知れません。

2. 中川隆[-14113] koaQ7Jey 2020年2月01日 15:58:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-795] 報告
桜を見る会再論 - 内田樹の研究室 2020-02-01
http://blog.tatsuru.com/2020/02/01_1152.html


 もうこの話をするのにも飽き飽きしている。「桜を見る会」についての話である。
 どうして「飽き飽き」しているかというと、ふつうの人間の受忍限度を超えて、この話が続いているからである。
 続く理由は簡単で、ふつうは申し開きのできない証拠をつきつけられて「申し訳ありませんでした。私がやりました」として「犯人」が白状して、火曜サスペンス劇場が終わるところで、ぜんぜんドラマが終わらないからである。
 でも、「私がやりました」と言わないというのは、ある意味では「合理的な」ふるまいなのである。
 昔、東京地検に勤めていた友人から、推理ドラマはあれは嘘っぱちだという話を聴いたことがある。検察官に供述の矛盾を衝かれて、顔面蒼白となって、「もはやこれまで」と自白するのは「自分が知性的な人間である」ということにおのれの存在根拠を置いている人間だけだというのである。
「そんな人間は実はめったにいないんだよ。そんなのはね、ウチダみたいな『自分は頭がいい』と思っているやつだけなんだよ。そういうのは、落すの簡単なんだ。供述のわずかな矛盾を指摘しただけで、がたがたっと崩れちゃうから。」
 なるほど。
 だから、ヤクザなんかは供述の矛盾をいくら指摘しても、平気で、「オレ、そんなこと言いましたっけ。あ、それ間違いですから、消しといてください。今日話したのがほんとの話です」と済ませてしまうのだそうである。
 彼らは供述の矛盾や変遷は、それだけでは有罪性の根拠とならないことをよく知っている。
 だから、誰も信じないようなでたらめを言い続ける。「そんなことあり得ないだろう!」と怒っても、「世の中、そういうことがあるからびっくりですよね」と平気で言う。
 自分は矛盾とか、因果とか、蓋然性とか、そういうことはぜんぜん気にならない人間なんです。「ふつうに考えて」という想定ができないんです。「論理的に言って」ということがわからないんです。
 そう言い続けると検察官に「敗けない」ということを彼らは知っているのである。
 自分の知性が健全に機能していないということを「切り札」にしている人間を「理詰め」で落とすことはできない。
「桜を見る会」の国会審議でわれわれが見せられているのは、「ヤクザと検察官」の戦いのひとつの変奏である。
 官僚たちも政治家たちも、平然と自分の知性がふつうに機能していないことを認めている。
「桜を見る会」の招待者名簿にしても、ホテルニューオータニの「前夜祭」領収書にしても、それを「はい」と提示すれば、首相の潔白が満天下に明らかになる文書を、なぜか官僚たちも安倍講演会の人たちも、全員があっという間に捨ててしまった。それが「桜を見る会」と「前夜祭」の合法性を何よりも雄弁に証明できる書類である以上、仮に廃棄期限が来ても、官僚でも後援会員でも少しでも論理的に思考できる能力があるなら、「もしものことがあったら困るから、一応とっとこう」と思うはずである。
 そう思った人間がなんと一人もいないのである。
 つまり世にも例外的に頭の悪い人たちだけで内閣府や安倍後援会は組織されていたというきわめて蓋然性の低い主張によって、首相は「不正が証明できない以上、私は潔白だ」という言い続けているのである。
 こういうドタバタがもう3ヶ月も続いている。
 もう終わりにしたいと思う人は自民党内にもいるらしく、先日は参院自民党に示達された「招待者名簿は公開請求の対象であるので取り扱いに注意」という内部書類が共産党議員によって委員会で暴露されてしまった。
 だが、これほど「申し開きのできない証拠」を突きつけられても、首相の「申し開き」は続いている。
 首相は数日前に、招待者について「幅広く募っているという認識」ではあったが、「募集しているという認識ではなかった」という没論理的な答弁をしたが、今回は招待者名簿について「公開の対象とは書いてるけど、公開されるとは書いてない」という小学生のような答弁をしてみせた。
「開示請求があった場合に公開しなければならない」という注意なのだから、要するに「人選には配慮すること。開示請求があったときに『捨てました』というような無様なことがないようにちゃんと管理すること」というお達しである。自民党総裁としては自民党が示達した注意を二つながらまるまる無視して招待者を選定した上に、書類をさくさくとシュレッダーにかけた内閣府の役人については殺してやりたい「気分」になっていいはずだが、そんな気配もない。
 首相は「自分は論理的に思考しないので、『論理的にあり得ない』ことがあっても別にそれが不思議だと思わない。言葉の語義はわかるけれども、それが含意しているコノテーションはわからない」という「おのれの知性が普通の人よりも不調である」という主張によって有罪性を免れようとしている。
 裁判において弁護人が被告の「心神耗弱」で無罪を勝ち取ろうとするのと同じである。
 この「愚者戦略」はこれまでのところ成功している。
 それは社会制度は世界どこでも「ふつうの人はわりと論理的にものを考える」ということを基準に設計されているからである。だから、その基準にはずれる人間については対処するマニュアルがないのである。
 これから後も首相は有罪を免れるために、あらゆる「申し開きのできない証拠」に対して、「論理的に思考できないふり、日本語がわからないふり」をしてみせるだろう。
 この成功体験が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないから、生き方として「損だ」と思う人たちが出て来るだろう。
 いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」になっているのかも知れない。
http://blog.tatsuru.com/2020/02/01_1152.html

3. 中川隆[-12983] koaQ7Jey 2020年3月06日 13:57:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[551] 報告
安倍首相が意図的にどんな質問にもまともに答えない、平然と嘘をつく理由


「打って一丸」の危うさ - 内田樹の研究室 2020-03-06
http://blog.tatsuru.com/2020/03/06_1314.html


 ある媒体のロングインタビューの中で「打って一丸となる」ことの危うさについて語った。日本人が「打って一丸」となるとだいたいろくなことはないのである。では、国難的状況でわれわれはどうしたらいいのか。

──内田さんの『生きづらさについて考える』を読んでいて目から鱗だったのは、政権与党側が、わざとまともに質問に答えなかったり、ヤジを飛ばしたり強行採決したりして、もはや議会制民主主義が機能していないという印象を与えることで、計画的に投票率を下げている、という分析でした。

 立法府に対する信頼を掘り崩してゆくことが自民党の長期的な狙いで、それは成功しています。国会審議は無意味な政治ショーに過ぎない、国会議員というのは知性においても徳性においても優れた人間ではないというイメージを広めてゆけば、有権者は選挙に関心を失います。投票率が下がれば、今の選挙制度では、組織票を持っている政党が勝ち続ける。

 安倍政権はその計画的な国会審議の空洞化にはみごとに成功したと思います。どんな質問にもまともに答えない、平然と嘘をつく、前言と矛盾してもまったく気にしない、与党が出す法律はどれほど野党が反対しても最後は強行採決される・・・そういうことを7年繰り返していれば、国民も「国会には存在理由がない」と思うようになります。結果的に、閣議決定や内閣の恣意的な法解釈が国会での審議や立法を代行するようになりつつある。「法の制定機関」と「法の執行機関」が同一である政体を独裁制と呼びますから、その定義を適用すると、安倍政権はすでになかば事実上の独裁制になっています。

 これまでの憲政の常識を当てはめればもう10回くらいは内閣総辞職していないとおかしいくらいに失政・不祥事が続いているにもかかわらず、安倍政権は何ごともないように延命して、憲政史上最長記録を日々更新しています。

 ふつうは内閣支持率が6割近くないと円滑な政権運営はできないので、どんな内閣も国民のマジョリティの同意をめざして政策を立案するものですけれど、安倍内閣は違います。30%ほどいる自分のコアな支持層だけに受ける政策を採り続けている。そして、確かにそれで十分なのです。というのは、残り70%の有権者は自分たちの意志はしょせん国政には反映しないという無力感に蝕まれているので、投票のインセンティブを失っているからです。「自分たちの意志が国政に反映されている」と感じる30%と「何を訴えても国政には反映されない」と感じる70%に有権者を二分すれば、30%が選挙では勝ち続ける。そういう仕掛けです。

──それにより安倍政権は歴代最長の政体になりましたが、いまの政権や自民党の状況は、これまでの日本の政治のなかでどのように位置づけられるでしょう?

 末期です。安倍政権が終わった時に同時に自民党という政党も終るでしょう。自民党がかつてのような国民政党としてもう一度党勢を回復するということはないと思います。

 70%が反対する政策であっても、30%が支持すれば実施できるという成功体験に自民党は慣れ過ぎました。国民を分断して敵味方に分けて、味方を優遇して敵を冷遇するというネポティズム政治しか彼らは知らない。立場の違う人たちと対話して、譲るところは譲って、「落としどころ」を探るというような高度な交渉技術を持っている政治家はもう自民党内にはいません。かといって野党政治家にそれだけの力量があるかと言えば、これも心もとない。でも、ポスト安倍期に必要なのは、60年安保闘争で岸信介が国民を二分してしまった後に登場してきた池田勇人が「寛容と忍耐」を掲げましたけれど、あれと同じような「国民の再統合」だと思います。

──そのような状況が変わる可能性はあると思いますか?

 分断された国民の再統合が果たさなければ日本に未来はないですから。でも、「打って一丸となる」ということを勘違いしないで欲しいんです。高度経済成長期もバブルの時もそうでしたが、どちらの時期も、日本人は金儲けに夢中でしたが、国民的な分断はなかった。僕のような反時代的な、生産性も社会的有用性のまるでない人間のことも構わず放っておいてくれた。「なんで金儲けをしないんだ。バカじゃないか」と冷笑はされましたけれど、していることを「やめろ」と言われることはなかった。みんな自分の仕事に忙し過ぎて、隣の人がやっていることに口を出す暇がない。それが僕の考えるとりあえず現実的な国民再統合のイメージです。

 今日本は分断されていますけれど、それは隣の人間のやっていることをうるさく詮索して査定して、気に入らないと「非国民」とか「反日」とかレッテル貼りをするバカが湧いて出ているからです。「日本人は一つにまとまるべきだ」と言い立てながら、国民的分断を進めている。そのせいで日本はここまで国力を失った。

「自分がほんとうにやりたいことに専念する」というのが一番生産性を高めるふるまいであることはどなたでも同意して頂けると思いますけれど、ただし「専念する」には「他人のことに構ってる暇がないほど」という条件がつくんです。

 隣の人間が何しようとどうだっていいんです。自分が何をするかだけが問題なんだから。幕末のころには「志士」というのが大挙して登場しましたけれど、あの人たちは「オレが頑張らないとこの国はダメになる」と思っていた。個人の努力が国の運命を左右する、と。そういう一種の関係妄想を病んでいる人間の人口比率が一定の値を超えると、国力は増大し、国運が向上する。逆に、その比率が少ないと(つまり「オレが何をしようと、国の運命には影響がない」と思っている人ばかりだと)、国運は衰える。明治の日本が東アジアで例外的に短期間に近代化に成功したのは、その比率が例外的に高かったからだと思います。

 でも、安倍政権は70%の国民に対して、「自分が何をしても世界は変わらない」という無力感を刷り込み続けて、ついにそれに「成功」してしまった。残り30%は「オレが別に頑張らなくても、あっちの方からぜんぶお膳立てしてくれる」という居心地のよいネポティズム政治に居着いてしまった。「オレが頑張らないとこの国はダメになる」という使命感に身を焦がす・・・というタイプの人間を減らすことを制度的に推進したのです。それでは国力も低下します。

 安部政権は個人の努力が国運向上にリンクするという幻想をみごとに粉砕しました。そうすることで、無気力な、権威に尻尾を振るだけのイエスマンの大量育成には成功しましたけれど、そんな人間をどれほど頭数揃えても、国は衰えるばかりです。
http://blog.tatsuru.com/2020/03/06_1314.html  

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