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<コラム>中国で今も使われる、日本が戦前に建てた高級ホテル
http://www.asyura2.com/17/china12/msg/377.html
投稿者 赤かぶ 日時 2017 年 11 月 28 日 23:53:10: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

ヤマトホテルは、かつて南満州鉄道株式会社が経営していた高級ホテルブランドである。写真は筆者提供。


<コラム>中国で今も使われる、日本が戦前に建てた高級ホテル
http://www.recordchina.co.jp/b220231-s134-c30.html
2017年11月28日(火) 22時20分


ヤマトホテルは、かつて南満州鉄道株式会社が経営していた高級ホテルブランドである。1907年から1945年まで満鉄線沿線の主要都市を中心にホテル網を展開していた。日露戦争後、満鉄沿線に西洋人が快適に滞在できるホテルを確保することが必須であった。初代総裁・後藤新平が掲げる「文装的武備」の思想の下で多角経営を進めた満鉄は、ホテル網の展開も率先して進めていった。

こうしてできたヤマトホテルは西洋人旅客を招致するとともに、満鉄の迎賓館としても機能する西洋式高級ホテルとなった。しかし、満鉄はホテルを鉄道事業と満州開発を支える手段と考えて採算を度外視したため、ホテル事業単体では利益が出ない体質だったといわれている。

満鉄は1945年(昭和20年)の敗戦に伴い解体されたが、一部の旧ヤマトホテルは現在もホテルとして営業を続けている。大連ヤマトホテル(大連賓館)、長春ヤマトホテル(春誼賓館)、奉天ヤマトホテル(遼寧賓館)、ハルビンヤマトホテル(龍門大厦貴賓楼)などである。その他名前を上げると、旅順ヤマトホテル、大連星ケ浦ヤマトホテル、撫順ヤマトホテル、チチハルヤマトホテル、アルシャンヤマトホテル(モンゴル自治区)、牡丹江ヤマトホテル、孫呉ヤマトホテル (黒龍江省黒河市)、東安ヤマトホテルなどがあった。

満鉄沿線でないのが、天津ヤマトホテルと青島大和ホテルである。山東省青島も満鉄の路線外であるが、不思議なことに「大和ホテル」がある。青島湾の桟橋方面から中山路を歩いて行くと、左側に百盛というデパートがある。その先の曲阜路の角を左に曲がると、最初の四つ角右奥に旧大和ホテル跡(曲阜路13号)がある。当時の(写真1)を見ると右から「大和ホテル」と読める。

日本軍が1914年に青島を占領したのに伴い、満鉄は1915年〜1921年まで社員を山東鉄道に派遣して経営に当たった関係で、臨時的に「大和ホテル」の名を使ったのかもしれない。当時は麻布通りと言われ、青島駅から北東の方向になる。現在は1階が店舗で2階・3階がアパートである。写真のように、ほぼ当時のままに使われており、入口玄関に繋がる石畳は百年の歴史を感じ、石の階段の踊り場には当時のタイルがそのまま残っている。玄関から入ると木の階段が2階に通じている。これも当時のままであろう。

中国にあった「ヤマトホテル」についてまとめてみる(別表参照)。大連ヤマトホテルは旗艦店である。大連は欧亜連絡鉄道と上海航路との接続点であり、日本から満州への玄関口であり、そして満鉄が本社を置いた最重要拠点である。それ故、大連ヤマトホテルには欧米の一流ホテルに伍する格式が求められた。満鉄の設立から間もない1907年(明治40年)8月1日、旧ダーリニーホテルを改装して開業。大連一の格式ホテルだったが、客室数が13室と小規模で宿泊客の増加に対応できず、1909年(明治42年)5月7日には旧満鉄本社跡(旧ダーリニー市庁舎)を改修して客室36室を確保、さらに1911年(明治44年)には社宅用建物2棟を改装し客室8室を増設、合計58室とした。1914年(大正3年)3月に大連中心部の大広場(現中山広場)前に新館が竣工、8月1日に移転開業した。現在は「大連賓館」として営業している。

奉天ヤマトホテルは奉天駅(1910年7月竣工)に併設されたステーションホテルとして、駅の開業日と同じ1910年(明治43年)10月1日に客室数12室で開業した。1924年(大正13年)にホテル新築設計の指名コンペを実施、小野木・横井共同建築事務所が新築設計を受託した。1929年(昭和4年)5月10日、奉天大広場(現中山広場)前に完成した客室数71室の新館が営業を開始した。内外装はアール・デコ調のデザインが施され、外壁は白色のタイル貼り仕上げとされた。客室は全室浴室付き、館内にはバー・ビリヤード室・理髪室など長期滞在者向けの設備が設けられた。

当時は最新かつ最高格式のホテルとして知られ、戦後も中華人民共和国の国家指導者である毛沢東やトウ小平がここに宿泊した。現在も3つ星ホテル「遼寧賓館」として営業している(写真2)。客室(77室)は現代的に改装されているが、エントランスやレストランは往時のままの装飾が維持されている。エレベーターホールには上記を含め著名人の宿泊を示すプレートが標示されている。また、上階に通じる螺旋階段は必見の価値がある(写真3)。

別表に旧満州にあった代表的なヤマトホテルの当時と現在の写真を示す。長春ヤマトホテルは1909年(明治42年)に帝政ロシア(東清鉄道)や清国高官との交渉の場に充てるべく、南満州鉄道と東清鉄道との接続点だった長春駅前に新築されたホテル、1910年(明治43年)2月1日に本格営業を開始した。建物の内外装はアール・ヌーヴォー様式。満州国の成立後は新京ヤマトホテルと改称し、現在は「春誼賓館」として営業中。食堂などの内装にアール・ヌーヴォー様式の装飾が残されていたが、1987年の改装で大部分が失われた。

旅順ヤマトホテルは1908年に開業、開業当時は15部屋の小規模ホテルだった。この建物は元々ロシアと関係が深かった豪商紀鳳台の私邸を改良したものだと伝えられる。1927(昭和2年)年11月、川島芳子の結婚式があった。1928(昭和3年)年5月与謝野晶子・鉄幹夫妻が2泊、晶子は203高地等を訪れ11首残す。1931(昭和6年)年愛新覚羅溥儀が105日滞在、1932(昭和7)年2月24日には、1階レストランで板垣征四郎と満州国建国を祝って乾杯したと記録される。

ハルビンヤマトホテルは、1903年(明治36年)ハルビン駅前に東清鉄道ホテルとして建てられた。日露戦争が勃発するとロシア軍が野戦病院や軍司令部として使用、戦後はロシア軍将校クラブ(1907年〜)、中東鉄路理事会館(1921年〜)として使用された。1935年より満鉄の所有となり、1937年(昭和12年)2月1日に客室数56室(浴室付き45室)のホテルとなった。第二次大戦後はハルビン軍事工程学院、鉄路医院を経て1968年よりハルビン鉄路局招待所として使用されたが、1996年にハルビン鉄路局が経営するホテル龍門大厦に統合・改修され、1997年より龍門大厦貴賓楼として営業、ランクは3つ星である。

■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。


 

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