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日産自動車社長を退任したカルロス・ゴーン氏(つのだよしお/アフロ)
日経新聞『私の履歴書』の呪い…「美談」執筆直後に不祥事や倒産続出、執筆断る経営者も
http://biz-journal.jp/2017/03/post_18387.html
2017.03.19 文=編集部 Business Journal
かつて、日本経済新聞名物の『私の履歴書』を執筆すると、数年以内に亡くなると信じていた経営者がかなりいた。実際に、貿易業界を代表するほどの大手総合商社の元幹部は、今でも「書かないつもりだ」と語る。この元幹部は、かつて部下に『私の履歴書』を執筆した経済人が、執筆後何年生きたか調べさせたことがあるという。なかには執筆後に倒産した企業も存在する。
2017年に入り、「『私の履歴書』の呪い」という言葉が復活した。
1月の執筆者はカルロス・ゴーン日産自動車社長だった。2月23日にゴーン氏は、日産の社長と最高経営責任者(CEO)を辞任すると発表し、4月1日付で西川廣人共同CEOが社長兼CEOに就くことになった。
2月の執筆者は大橋光夫・昭和電工最高顧問だった。昭和電工は3月1日、16年12月期の連結決算の発表を再延期した。上場子会社の昭光通商の子会社(昭和電工の孫会社)が行った取引で、物品が実在したかどうかが疑問視され、調査が必要になったための措置だ。2月13日に「会計処理を精査するため」として決算発表を延期していたが、再延期されたことで株式市場では様子見の姿勢が強まった。
調査期間は確定していないが、有価証券報告書の提出期限である3月31日までに調査を完了するのは困難とみられている。先行きに不透明感が増したことから昭和電工の株価は下落、特に再延期を発表した翌日の3月2日には一時、9%安と急落した。
3月30日に予定している定時株主総会に配当議案を提出できなくなったため、16年12月期の年間配当(年30円を予定)を取りやめ、14期ぶりに無配に転落する。
有価証券報告書の提出の1カ月延長が認められれば、5月15日がデッドラインとなる。仮にその日までに未提出なら、東京証券取引所は翌16日に整理銘柄に指定する段取りになる。
現時点では、上場廃止になる確率は極めて低いとみられている。なぜなら、今や“ゾンビ企業”と揶揄されている東芝が昨年、有価証券報告書を提出できなかったケースで、2カ月延期のうえ、さらに7日間の再延期が認められているからだ。
■昭光通商は過去にもトラブル
昭光通商は、化学品や肥料の国内販売と輸出入を目的として1947年に設立されたメーカー商社で、東証1部に上場している。
1986年、当時、日本最大の仕手集団といわれた三洋興産グループが倒産した。伝票と手形だけで実際に品物が動かない循環取引の輪が切れたのが原因で、その後、東証2部に上場していた2社や有力ベンチャー企業など100社を超える企業が連鎖倒産した。
石油転がし、魚転がし、墓石転がしなどが実行されたが、この取引の輪に昭和電工系の昭光通商、三菱鉱業セメント系の不二興産、飛島建設系の飛栄産業などの社会的に信用のある企業の子会社が加わっていた。三洋興産は、大企業の子会社や上場企業から手形を受け取り、その手形を金融機関に担保として差し入れたり、割り引いたりして資金を調達。日本レース株や日本航空株を買い集めていた。
昭光通商は13年12月期までの4年間に2億数千万円の所得隠しを指摘されたこともある。取引先への業務委託費として費用計上した2億数千万円が、実際には第三者への資金提供だったことが税務調査で判明したのだ。
昭光通商は国税局の調査に対し、実際の支出先や支払い理由を明らかにしなかったため、「使途秘匿金」と認定されて1億円を超える制裁課税を受け、修正申告をした。
問題になった業務委託費は、税務調査の結果、実体のないペーパーカンパニーへの支払いとされ、実際には資金の移動がないことが判明した。別の第三者への資金提供とみられているが、昭光通商は最後まで支出先を明らかにしなかった。
今回の60億円といわれる特定の顧客との取引についても、実態があるかどうかが焦点となるとみられている。昭和電工の監査を行うあずさ監査法人が、どのような判断を下すかに視線が集まっている。
“昭和電工のドン”と呼ばれる大橋光夫・最高顧問は『私の履歴書』で、コンプライアンスの重要性に言及していた。「昭光通商は昭和電工グループの問題児」(関係者)という厳しい見方があっただけに「またか」(同)という思いが強い。大橋氏の発言は薄っぺらいものになってしまった。
16年12月期決算を発表でき次第、基準日を設定して臨時株主総会を開く方針。同社は「配当を実施したい」としているが、02年12月期以来、14期ぶりの無配転落のイメージはかなり悪い。
■執筆者に中内功氏、林原健氏、井植敏氏など
2000年以降の『私の履歴書』執筆者を見てみよう。00年1月に中内功(正しくは右側が刀)・ダイエー会長(当時、以下同)、03年6月に林原健・林原社長、同年9月には井植敏・三洋電機会長兼CEOが登場している(肩書は執筆時、以下同)。
“価格破壊王”と評された中内氏は肉親への世襲にこだわり、とうとうダイエーを潰してしまった。林原は粉飾決算で倒れ、三洋電機はパナソニックに吸収され、消滅した。
07年4月に鈴木敏文・セブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長、同年11月に田淵節也・野村證券元会長、10年11月に西岡喬・三菱重工業相談役、11年9月に室伏稔・元伊藤忠商事会長が登場する。
時代の流れのなかで、名経営者と評された人が馬脚をあらわすことがある。執筆後、時間をおかずに亡くなれば、あれこれ批判されることはないが、時間の経過とともに評価が変わる経営者が出てくるのは、やむを得ないことなのかもしれない。
14年3月に岡村正・東芝相談役が執筆している。その後の東芝の凋落ぶりを目の当たりにするにつけ、“負の履歴書”に見えてしまうから不思議だ。
01年6月に登場した飯田亮・セコム創業者兼最高顧問は、現在でもセコムに君臨している。06年12月の渡辺恒雄・読売新聞グループ本社主筆は、安倍晋三首相の精神的支柱といわれている。15年10月の葛西敬之・JR東海名誉会長は、今でも代表取締役名誉会長としてJR東海を牛耳っており、経済界の安倍首相応援団長といわれている。
12年9月の今井敬・新日本製鐡名誉会長と、同年7月登場の茂木友三郎・キッコーマン名誉会長は、安倍首相と会食したりすることが多い財界人であり、「最近、今井氏の存在感がとみに高まっている」(永田町筋)ともいわれている。
03年4月の伊藤雅俊・イトーヨーカ堂名誉会長、04年3月の岡田卓也・イオン名誉会長という、日本の流通業界の先達や、01年1月の樋口廣太郎・アサヒビール名誉会長、02年1月の小倉昌男・ヤマト福祉財団理事長といった、ひとつの時代を築いた経営者が『私の履歴書』を書いている。アサヒビールは瀬戸雄三・元会長が11年5月に、福地茂雄・アサヒグループホールディングス相談役が14年6月に書いている。
一方、トヨタ自動車は14年4月の豊田章一郎・名誉会長以外は2000年以降、登場していない。
また、名バンカーとされ銀行一筋だった人が何人かいるが、いずれも執筆を断っている。古くは、家柄(氏素性)を気にして何度も執筆を断ったバンカーがいたが、金融機関のなかでも有力都銀は、生きた本物の履歴書を書きにくいといった事情があると指摘する声もある。
『私の履歴書』の呪いが復活したことで、4月以降に執筆を受諾する勇気ある経営者が何人、出てくるか興味深い。
過去の例でみると、もっとも多い年で12人中6人、経営者が顔を見せている年がある。それは02年で、前出の小倉昌男氏のほか、後藤康男・安田火災海上保険名誉会長、中邨秀雄・吉本興業会長、石川六郎・鹿島名誉会長、岡田茂・東映相談役、ルイス・ガースナー米IBM会長である。
(文=編集部)
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