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内田樹氏によると、右翼には革命のエネルギーが流れ込む回路があるんだって。宗教を知らない宗教論に笑える
http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/223.html
投稿者 赤かぶ 日時 2017 年 1 月 16 日 00:09:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

内田樹氏によると、右翼には革命のエネルギーが流れ込む回路があるんだって。宗教を知らない宗教論に笑える
http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/3f4d0a2eb68e03f52d0e2e4c9ca0828c
2017年01月15日 のんきに介護


内田樹氏が

なぜ、右翼が革命が

お得意か

という論点に取り組んで

考えを

おまとめになられた論稿がある。

サイト「内田樹の研究室」に

掲載されている。

それによると、

右翼は

背中に霊を背負い込んでいるから強いのだという。

☆ 記事URL:http://blog.tatsuru.com/

安倍晋三が

天皇に勝てない理由が

そのことによって明らかだそうだ。

いわく、安倍晋三が背負っているのは

お爺ちゃんの霊など、

血縁者であるのに対し、天皇が背負っているのは、

全ての霊だ云々。

これには

笑ってしまったな。

内藤樹さんて、

社会科学者とばかり思っていたが、

違うな。

この人、霊を語っているけど、

そもそも宗教の何たるかも分かっていなさそうだ。

革命を語るのに

そのエネルギーを問い、

霊だ

という答え方に

矛盾を感じなかったのだろうか。

右翼は、

革命を求めていない。

安倍が

シャカリキになって成し遂げようとしているのは、

クーデターだ。

改革する方向が後ろ向きだから

霊を背負っているように

見えるだけのことだ。


 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
1. 2017年1月16日 00:40:35 : 0CejVRban6 : urcdmA9xc1s[1391]
「霊」って書いてない。「霊的スタンス」「死者からの負託」のようです。

「西郷は同志朋友を殺され、同志朋友と信じた人々によって罪に落とされた。もう生者たちに忠義立てなどしない。自分が忠義立てをするのは死者たちに対してだけだと西郷は言外に宣言したのである。」


生きている人は裏切ったり、主張が変わったりする。
死んだ友は、そんなことはしない。
一番、頼りになる存在、精神の拠り所だということ。

左翼の人は、そういう精神の拠り所をつくらない。だから迫力がない。グラグラする。革命が成功しない、という主張。(だと思う)


2. 一偏[24] iOqVzg 2017年1月16日 02:04:58 : AdNBAAykfs : xk0ZqkXDoKM[24]
 内田が言っていることは、ニーチェの言うアポロ的、ディオニソス的ということではないかと思う。
 人々はアポロ的な理性、理論では動かない。ディオニソス的な不合理な、陶酔的な、悪魔的なものでしか動かない。
 安倍がディオニソス的なものを持っているとはとうてい思えないが、天皇がそれを持っていることは否定しがたい。今の天皇はそれを否定しようとしているように思えるが。
 一般的に言って、左翼的な人より右翼的な人の方がそれを持っていることも経験的事実だ。
 アメリカのトランプやフィリピンのドテッルテ、ロシアのプーチンを含め、今世界はディオニソス的な方向に流れているように思う。今の日本においては幸か不幸かそれに値する人間はいない。その中で天皇は唯一そうなり得る可能性を秘めているのだが。
 左翼は世を動かすにはディオニソス的な力がいること知るべきだが、左翼がそれを持てば左翼的でなくなるというやっかいなことになりがちなのだが。

3. 2017年1月16日 09:30:20 : fGuGCb1aDA : 6_poo@NGpks[19]

内田樹は「霊的ポジション」「霊的スタンス」と言っている

これは筆者の「のんきに介護」と投稿者の「赤かぶ」氏の方が浅薄だろう

渡辺京二を引用しながら述べている内田の解釈は

敗戦前後に折口信夫が書いていたこと我々は欧米に対して物量ではなく「信仰心で負けたのだ」と重なる

《 戦争中の我々の信仰を省みると神々に対して悔いずには居られない。我々は様々祈願をしたけれど、我々の動機には利己的なことが多かつた。さうして神々の敗北といふことを考えなかつた。我々は神々が何故敗けなければならなかつたか、と言ふ理論を考えなければ、これからの日本国民生活はめちゃめちゃになる。・・(中略)・・それほど我々は奇蹟を信じてゐた。しかし、我々側には一つも現れず、向うばかりに現れた。それは、古代過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現に神を信じなかつたのだ。だから過去の信仰の形骸のみにたよつて、心の中に現実に神の信仰を持つてゐないのだから、敗けるのは信仰的に必然だと考へられた。・・》

 内田の話は安倍晋三と右翼と天皇だけに「矮小化」された議論になってしまっているが

 死者と霊性 社会と文化の「見えない継続性」の問題を軽視するかぎり 
  この国は間違いなく滅ぶだろう 。。。


4. 中川隆[6088] koaQ7Jey 2017年1月16日 10:04:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6534]

このアホは全然わかってないな

内田樹の言ってるのはこれと同じ事だよ:


「日本人は同調主義的だ」「自律性や主体性がない」「権威に弱い」「周りの他者や世間の目ばかり気にする」ということがよく言われます。

なんでこんなイメージが広まったかといえば、一つの理由として、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが書いて終戦後、日本でベストセラーになった『菊と刀』の議論があると思います。

この本の中で、ベネディクトは、日本は「恥の文化」だといって、日本の一般的な道徳観をかなり悪く言っています。

ベネディクトの説明によると、「恥の文化」とは、「ものの良し悪しを判断する際に、他者の目や世間の評判のみを基準とする外面的な道徳が支配的な文化だ」というんですね。

要するに、周りに他者や権威者の目がなければ、日本人は悪いことしますよ〜というわけです。

逆に、ベネディクトは自分とこのアメリカの道徳は「罪の文化」であり、自律的だといっています。たとえば、「罪の文化」は、「道徳の絶対標準を説き、良心の啓発を頼みとする」と書いています。

つまり、アメリカ人は、「良心を重視するので、誰もみていなくても悪いことしませんよ、自律的ですよ」というんですね。

こういう「恥の文化=他律的、外面的」、「罪の文化=自律的、内面的」という図式を『菊と刀』で展開して、日本の道徳を否定的にみるわけです。

『菊と刀』は、終戦直後の日本でよく読まれました。戦争でみんな自信を失っていたんでしょうね。日本人は真面目だから、戦争で負けたのは、自分たちに何か欠陥があったからに違いない。アメリカ人の言うことをよく聞いて反省しなければならない、と考えたのだと思います。

それで、「日本文化 = 恥の文化 = 良心が弱く、権威にも弱く、他律的で同調主義的だ」というイメージを受け入れてしまったんだと推測します。

でも、このイメージ、正しくないですよね。
たとえば、日本は、米国に比べれば、はるかに治安が良く、犯罪も少ないと思います。
電車に財布を置き忘れても無事に届けられる確率は、日本は世界で最も高い部類に入るでしょう。
人に見られてなければ悪事を犯すなんてことは、大部分の日本人には思いもよらぬことです。
権威に弱いというのも、間違いだと思います。日本ほど、政治家の悪口をいう国民はそうそういないように思います。私も例にもれませんが(^_^)

つまり、ベネディクトは、日本の道徳をひどく矮小化し、間違って理解していたと思います。現代の日本人も、残念ながらベネディクトの理解に影響されてしまっているところ多々があるようです。

ベネディクトの「恥の文化」の理解のおかしさについて、いくつも指摘したいことがあるのですが、今回は、上の新聞記事でも書いた一点だけ触れたいと思います。

「恥の文化」で敏感に感じとるべき他者の視点として、同時代の他者や世間だけではなく、死者の視点、つまり過去の世代の人々の視点もあるということをベネディクトは見逃していたということです。

現代の日本人も忘れがちかもしれませんが、日本の伝統では、死者の視点を常に身近に感じ、死者に思いを馳せることに、とても価値が置かれていました。
(なんか五月の連休ではなく、お彼岸に書いたほうがいいような内容ですね…。スミマセン…)
f(^^;) フタタビポリポリ

私はすごく好きな文章でよくとりあげるのですが、民俗学の祖・柳田国男は、この点についてとても美しく書いています。

「私がこの本のなかで力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである」(『先祖の話』)

「日本を囲繞したさまざまな民族でも、死ねば途方もなく遠い遠い処へ、旅立ってしまうという思想が、精粗幾通りもの形をもって、おおよそは行きわたっている。

ひとりこういうなかにおいてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考えだしたことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。

それが誤りたる思想であるかどうか、信じてよいかどうかはこれからの人が決めてよい。我々の証明したいのは過去の事実、許多の歳月にわたって我々の祖先がしかく信じ、さらにまた次々に来る者に同じ信仰をもたせようとしていたということである」(「魂の行くえ」)。

つまり、柳田国男によると、日本の多くの人々は、人が死んだら故郷の山のあたりに魂は昇って行って、そこから子孫の生活をずっと見守っているというのですね。そしてお盆になると降りてきて、子孫や近所の人たちと一緒に過ごして、お盆が終わるとまた戻っていく。そういうふうに考えられてきたというわけです。

私は、この考え、すごく好きです。私も死んだら、近くの山の頂上あたりにふわふわと漂って、後の世代の人々の生活をぼーっと見ていたいなあ、なんて思います。
柳田国男が「…限りもなくなつかしいことである」といった気持ちがわかるような気がします。
(^-^ )

少し話がズレました…。
(-_-;)

柳田国男がここで述べているのは、日本人の道徳は、死者、つまり過去の世代の人々に思いを寄せ、彼らの意を汲むことを重んじてきたことだと解釈できます。

つまり「恥の文化」は、同時代の他者や世間のみではなく、今は声をあげることのない過去のさまざまな人々の思いを感受し汲みとってはじめて完成するということです。

同時代の他者の観点やその総体としての世間の観点だけでなく、過去に生きたさまざまな人々の視点やその集合体としての祖霊に思いを馳せる。
それを通じて、いわば横軸(同時代)だけでなく、縦軸(伝統)の視点を身につけ、時間のつながりのなかで自分の位置を反省し、遠い将来まで見据えたうえで自分がいま何をなすべきかを立体的かつ複眼的に考えられるようになる。

本来の「恥の文化」とは、とても奥深く、そこまで求めたものだと思います。

そこをベネディクトは見抜けなかったし、現代のわれわれ日本人も、忘れがちのような気がします。

現代では、死者とのつながりが忘れられ、縦軸が疎かになっているので、(私もえらそうなことはまったく言えませんが)ふらふらと周囲の目ばかり気になり、自分を見失い、何をなすべきか定まらない人が増えているように思います。

靖国の問題だけではないですが、現代の日本人にとって困ったことの一つは、戦前と戦後で意識の分断が生じやすくされてしまったことですよね。

それが、日本人が本来の力を発揮するのを難しくしているのではないかと思います。

逆に言えば、日本にもう少しおとなしくしていてもらいたい国々は、何かにつけてそこに付け込もうとするんですよね。

戦前と戦後の意識の分断をどう修復すれば一番いいのか私にはわからないところも多いのですが、一つ言えると思うのは、戦前の人々も、現代の我々も、根本ではあまり変わっていないと認識することなんじゃないでしょうか。国民性って、そう簡単に変わるものではありませんので。そしてもっと身近に過去の世代の人たちに思いを馳せることではないかと思います。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/05/03/se-12/


5. 中川隆[6089] koaQ7Jey 2017年1月16日 10:09:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6535]

内田樹は>>4 で指摘されている日本人の祖霊崇拝の事を深く理解してるよ:


内田樹 2017.01.15「民の原像」と「死者の国」


革命闘争の中では革命家は敵に殺されるだけでなく、味方によっても殺される。「革命を裏切るのは政治である」。

死者はそれだけでは終わらなかった。

寺田屋の変で西郷は旧友有馬を殺された。西郷の同志たち、森山新蔵、村田新八、篠原國幹、大山巌、伊集院兼寛も藩主の命で処罰された。渡辺は「これが西郷を真の覚醒に導いた惨劇である」と書く。
事実、この直後に西郷が知人に書き送った書簡にはこうある。

「此の度は徳之島より二度出申さずとあきらめ候処、何の苦もこれなく安心なものに御座候。骨肉同様の人々をさえ、只事の真意も問わずして罪に落とし、また朋友も悉く殺され、何を頼みに致すべきや。馬鹿らしき忠義立ては取り止め申し候。お見限り下さるべく候。」

西郷は同志朋友を殺され、同志朋友と信じた人々によって罪に落とされた。もう生者たちに忠義立てなどしない。自分が忠義立てをするのは死者たちに対してだけだと西郷は言外に宣言したのである。
彼が維新回天の中心人物として縦横の活躍をするようになるのは、彼が「お見限り下さるべく候」と書いた「あと」の話なのである。同志朋友を殺した島津藩への忠義を断念し、死者のために生きると決意したときに西郷は政治家としてのブレークスルーを果した。

「いまや何を信ずればよいのか。ここで西郷の心は死者の国へととぶ。彼はもう昨日までの薩摩家臣団の一員ではない。忠義の意図は切れた。彼は大久保らの見知らぬ異界の人となったのである。彼の忠誠はただ月照以来の累々たる死者の上にのみ置かれた。」(346頁)

みずからを「死者の国の住人」と思い定めた西郷は島で「民」に出遭う。
西郷はそれまでも気質的には農本主義者であり、護民官的な気質の人であったが、民はあくまで保護し、慰撫し、支配する対象にとどまっていた。それが島で逆転する。

「彼が島の老婆から、二度も島に流されるとは何と心掛けの改まらぬことかと叱られ、涙を流してあやまったという話がある。これは従来、彼の正直で恭謙な人柄を示す挿話と受けとられたきたと思う。しかしかほど正直だからといって、事情もわきまえぬ的外れの説教になぜ涙を流さねばならぬのか。老婆の情が嬉しかったというだけでは腑に落ちない。西郷はこの時必ずや、朋友をして死なしめて生き残っている自分のことを思ったに違いない。涙はそれだから流れたのである。しかしここで決定的に重要なのは、彼が老婆におのれを責める十全の資格を認めたことである。それは彼が老婆を民の原像といったふうに感じたということで、この民に頭を垂れることは、彼にとってそのまま死者を弔う姿勢であった。」(347頁)

「革命はまさにそのような基底のうえに立ってのみ義であると彼には感じられた。維新後の悲劇の後半生は、このような彼の覚醒のうちにはらまれたのである。」(348頁)

長い論考の一部だけ引いたので、論旨についてゆきずらいと思うけれど、僕はこの「民の原像」と「死者の国」という二つの言葉からつよいインパクトを受けた。
渡辺京二の仮説はたいへん魅力的である。歴史学者からは「思弁的」とされるかも知れないが、僕は「これで正しい」と直感的に思う。

という読後の興奮状態の中で源ちゃんと会ったら、話がいきなり「大衆の欲望」と「死者の鎮魂」から始まったので、その符合に驚いたのである。
『維新の夢』本で、渡辺京二は日本のリベラル・左翼・知識人たちがなぜ「国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱と誠心」を持ち得ないのかについてきびしい言葉を繰り返し連ねている。
それは畢竟するに、「民の原像」をつかみえていないこと、「死者の国」に踏み込みえないことに尽くされるだろう。

「大衆の原像」という言葉は吉本隆明の鍵概念だから、渡辺もそれは念頭にあるはずである。

だが、「死者の国」に軸足を置くことが革命的エトスにとって死活的に重要だという実感を日本の左翼知識人はこれまでたぶん持ったことがない。

彼らにとって政治革命はあくまで「よりよき世界を創造する。権力によって不当に奪われた資源を奪還して(少しでも暮し向きをよくする)」という未来志向の実践的・功利的な運動にとどまる。

だから、横死した死者たちの魂を鎮めるための儀礼にはあまり手間暇を割かない。
日本の(だけでなく、世界どこでもそうだけれど)、リベラル・左翼・知識人がなかなか決定的な政治的エネルギーの結集軸たりえないのは「死者からの負託」ということの意味を重くとらないからである。僕はそう感じる。

日本でもどこでも、極右の政治家の方がリベラル・左翼・知識人よりも政治的熱狂を掻き立てる能力において優越しているのは、彼らが「死者を呼び出す」ことの効果を直感的に知っているからである。

靖国神社へ参拝する日本の政治家たちは死者に対して(西郷が同志朋友に抱いたような)誠心を抱いてはいない。そうではなくて、死者を呼び出すと人々が熱狂する(賛意であれ、反感であれ)ことを知っているから、そうするのである。
どんな種類のものであれ、政治的エネルギーは資源として利用可能である。隣国国民の怒りや国際社会からの反発というようなネガティブなかたちのものさえ、当の政治家にとっては「活用可能な資源」にしか見えないのである。かつて「金に色はついていない」という名言を吐いたビジネスマンがいたが、その言い分を借りて言えば、「政治的エネルギーに色はついていない」のである。

どんな手を使っても、エネルギーを喚起し、制御しえたものの「勝ち」なのである。

世界中でリベラル・左翼・知識人が敗色濃厚なのは、掲げる政策が合理的で政治的に正しければ人々は必ずや彼らを支持し、信頼するはずだ(支持しないのは、無知だからだ、あるいはプロパガンダによって目を曇らされているからだ)という前提が間違っているからである。

政策的整合性を基準にして人々の政治的エネルギーは運動しているのではない。
政治的エネルギーの源泉は「死者たちの国」にある。
リベラル・左翼・知識人は「死者はきちんと葬式を出せばそれで片がつく」と思っている。いつまでも死人に仕事をさせるのはたぶん礼儀にはずれると思っているのだ。

極右の政治家たちはその点ではブラック企業の経営者のように仮借がない。「死者はいつまでも利用可能である」ということを政治技術として知っている。
それだけの違いである。けれども、その違いが決定的になることもある。
http://blog.tatsuru.com/


6. 2017年1月16日 11:54:42 : Fe1rvoVmcE : q9L_YL4vSIc[23]
靖国が怖いのは、A級戦犯が祀ってあるからではなくて、
戦死者を祀っていることそのことにエネルギーがあるため。

戦死者の死を無駄にしないという気持ちは、容易に次の
戦死者を引きずり込む力に転嫁する。というか利用される。

おそろしい。


7. 2017年1月16日 14:09:42 : fGuGCb1aDA : 6_poo@NGpks[20]
靖国戦争神社の前身は東京招魂社 さらに招魂社のルーツは
山口県下関市に今もある「櫻山神社」の原型「櫻山招魂場」であり
戦死した亡霊に新たな戦争の加護を願う「招魂場」思想は
きわめて野蛮かつ呪術的な朝鮮半島の風習である。

ですから「靖国」は戦争を祈願する軍国主義膨張システムであって
日本にもともとあった神道とは何の関係もない事実に
ふかく深く留意する必要がある。


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