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思い出すべきは、民権を叫んだ明治の人びと! 
http://www.asyura2.com/17/senkyo237/msg/780.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 1 月 01 日 13:50:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

思い出すべきは、民権を叫んだ明治の人びと!
http://85280384.at.webry.info/201801/article_4.html
2018/01/01 13:09 半歩前へ


▼思い出すべきは、民権を叫んだ明治の人びと!

 社説と聞くと、そのあとを読まない者がいる。十把ひとからげの「烏合の衆」と言われる連中だ。元旦の社説はその新聞社を知る一番のバロメーターである。私のブログ「半歩前へ」を見る人はぜひ、目を通しておいてもらいたい。

 東京新聞は「年のはじめに考える 明治150年と民主主義」と題して、「思い出すべきは、民権を叫んだ明治の人びと!」訴えた。

 明治百五十年といいます。明治維新はさまざまなものをもたらしましたが、その最大のものの一つは民主主義ではなかったか。振り返ってみましょう。

 日本の民主主義のはじまりというと、思い出す一文があります。小説・評論家で欧州暮らしの長かった堀田善衛氏の「広場と明治憲法」と題した随想です(ちくま文庫「日々の過ぎ方」所収)。

◆明治憲法つくった伊藤

 主役は伊藤博文。初代内閣総理大臣、枢密院議長として明治憲法起草の演説。渡欧し憲法とは何かを研究してきた。

 起草演説の明治二十一(一八八八)年、伊藤四十七歳、明治天皇はなお若き三十六歳。

 何しろ東洋初の憲法です。欧米に伍(ご)して近代国家をいかに創出すべきか。頭をふり絞ります。

 そこで堀田の随想は、悩める伊藤をたとえばベネチアのサンマルコ広場に立たせてみる。

 広場はベネチア共和国総督府の宮殿とサンマルコ大聖堂の並び立つ下。政治経済を行う世俗権力と聖マルコの遺骸をおさめる聖なる権威の見下ろす広場。

 堀田はこう記します。

 <重大事が起(おこ)ったときに、共和国の全市民がこの広場に集って事を議し、決定をし、その決定を大聖堂が祝認するといった政治形式を、(伊藤は)一瞬でも考えたことがあったかどうか>

 堀田は大聖堂の権威に注目し、同じ役割を皇室にもたせるべく明治憲法はつくられたと考えを進めるが、その一方で、こんな想像はできないでしょうか。

 武士最下級足軽出身の伊藤が総理、公爵、枢密院議長へと上り詰めようと、彼は広場の民衆を果たして無視できただろうか、と。

 強大な幕府の打倒は志士に加え豪農富商、それに民衆の支えがあってこそ実現したのです。幕末期の民衆は当然のように欧米に追いつこうとしていたのです。

◆民衆の側からみる歴史

 歴史の多くは支配者の側から書かれます。そうであるなら民衆の側からでないと見えない歴史があるはずです。

 支配者のいう民衆の不満とは、民衆にいわせれば公平を求める正当な要求にほかなりません。

 維新をじかに体験してきた伊藤は、民衆の知恵も力も知っていたにちがいないと思うのです。つまり広場の意義もエネルギーも知っていたのではないか、と。

 維新後、各地にわき起こった自由民権運動とは、その名の通り人民主権を求めました。

 日本には欧州の広場こそなかったが、民主主義を求める欲求は全国に胚胎(はいたい)していたといっていいでしょう。

 その延長上に明治憲法はつくられました。絶対的天皇制ではあるが、立憲制と議会制をしっかりと明記した。日本民主主義のはじまりといわれるゆえんです。

 明治憲法はプロシアの憲法をまねた。プロシア、いまのドイツは当時、市民階級が弱く先進の英仏を追う立場でした。追いつくには上からの近代化が早い。国家を個人より優位に置く官僚指導型国家を目指さざるをえない。

 国家優位、民主制度は不確立という、今から見ればおかしな事態です。広場は不用、もしくは悪用され、やがてドイツも日本も国家主義、軍国主義へと突き進んで無残な敗北を迎えるわけです。

 むろん歴史は単純ではなく明治憲法は大正デモクラシーという民主主義の高揚期すら生んでいます。それはやはり社会を改良しようという民衆のエネルギーの発奮でしょう。

 戦後、両国ともあたらしい憲法をもちます。

 日本では“押し付け”などという政治家もいますが、国民多数は大いに歓迎しました。

 世界視点で見れば、一九四八年の第三回国連総会で採択された世界人権宣言が基底にあります。人間の自由権・参政権・社会権。つまり国家優位より個人の尊重。長い時と多くの犠牲を経て人類はやっとそこまで来たわけです。

 振り返って今の日本の民主主義はどうか。

 たとえば格差という問題があります。広場なら困っている人が自分の横にいるということです。資本主義のひずみは議会のつくる法律で解決すべきだが、残念ながらそうなっていない。

◆広場の声とずれる政治

 また「一強」政治がある。首相は謙虚を唱えながら独走を続けている。広場の声と政治がどうもずれているようだ。

 社会はつねに不満を抱えるものです。その解決のために議会はあり、つまり広場はなくてはならないのです。

 思い出すべきは、民権を叫んだ明治人であり、伊藤が立ったかもしれない広場です。私たちはその広場の一員なのです。







 

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コメント
 
1. 中川隆[-5733] koaQ7Jey 2018年1月01日 14:54:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、 ケッ!!!


明治政府の私設「広報官」である福沢諭吉は、『学問のすすめ』(8編・明治7年)の中で、

「男も人なり女も人なり。・・・其功能如何にも同様」

と宣言していたのですが、『差別の諸相』の注解者・ひろたまさきは、福沢諭吉の女性論は、「文明的な良妻賢母の要請を求める主張」であり、「娼婦的存在には同情を示さなかった」といいます。

福沢諭吉は、その『品行論』において、

「そもそも娼妓の利害に就いては今更これを論ずるもの少なく、所謂道徳家の所望に任ずれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども、人間世界は道徳のみの世界に非ず。人類の身も之を二様に分かつときは、一方は人にして一方は禽獣に異ならず。・・・」


というのです。


「遊廓」は「人間世界には非ざるなり」と説く福沢諭吉にとって、その世界に身を置く「遊女」(娼妓)は、「人に非ず」、「人非人」に等しい存在としか見えなかったのでしょう。

福沢諭吉にとって、「遊女」(娼妓)は、「人身の自由」が保障される「臣民」(人間)の対象外だったのでしょう。


福沢諭吉は、

「仮に今、人間世界に娼妓を全廃して痕跡おもなきに至らしめん歟、その影響は実に恐るべきものならん。」

といいます。 遊郭を廃止すると、数ヶ月を経ないで、「満都」に「獣欲」氾濫して、「良家の子女」がその餌食となるというのです。「遊女」(娼妓)が遊廓という苦界で、うめこうが苦しもうが一向に構わないが、「良家の子女」がその被害にあうのは「社会の秩序」を守る上で無視できない・・・というのです。


福沢諭吉は、「遊女」(娼妓)は、「最も賤しく、最も見苦し」い存在であるといいます。


「其業たる最も賤しむ可く、最も悪む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞いなり」と断定するのです。


『品行論』において、福沢諭吉は、売春制度に対する自らの主張を明らかにします。


「我輩は娼妓を廃せんとする者にあらず、却って之を保存せんと願」う

というのです。福沢諭吉は、諸外国から日本の遊廓制度に対する批判、「人身の自由」に対する批判があれば、それをさけるため、「深く之を隠すの注意なかる可らず。」と提言します。


日本の公教育における歴史教育で、福沢諭吉はどのような人物として教えられているのでしょうか・・・。

「福沢諭吉は豊前中津藩(大分県)の士族で、緒方洪庵の適塾(大阪)で洋学を学び、幕末に欧米に留学し、イギリスの自由主義を学んだ。帰国後、慶応義塾を設立し、欧米思想の紹介と教育に一生をささげた。」

(文英堂『くわしい学習事典・中学歴史の精解と資料』)と教えられているのではないでしょうか。福沢諭吉の顕彰は、紙幣に刷り込まれることによって、いまでも続けられているのはなぜでしょうか・・・。

http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2006/09/post_4f75.html


■福沢諭吉と慶応大が嫌いな理由。


そもそもアンチ論についてぐだぐだ述べるのは好きではありません。

でもコレだけは言いたい、と思ったので書きます。


福沢諭吉といえばあまりに有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。

そう一万円札のあのヒトです。

学問のすゝめの著者であり、某K大の創始者であられる御大。

その福沢諭吉、をネット検索したくらいじゃ出てこないちょっと深いところのソースから引っ張ってきた文章をどうぞ。

福澤の男女同等論

福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、


「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した。


『男女平等、女性にも男性と同様の教育を』


うん、そうだね。現在に通じる平等の基礎。

…此処まではまだいいのですが。


福澤は、男女同等論を唱えながら存娼論者でもあった。

妾を養うことも芸者を買うことも隠してせよ、

と隠匿論を述べ、公娼制度を積極的に肯定し、『品行論』(明治18年12月出版)のなかでは「社会の安寧」「社会の秩序」のために公娼制度はぜひ必要であると主張している。しかし、

その娼婦を称して

「其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし」

と罵り、隠れて遊べと言っている。

此処です。此処。

『愛人、売春婦とは隠れて遊べ。

社会のために(男性社会のために)売春婦を容認すべきである。

しかし売春業を行なうものは卑しく憎むべきであり、人の倫理に背いた人非人である』


と。なにこれ。


あー、何度読んでも腹立つ!

教育の権利だけが男女平等で、それ以外は???

人格的におかしいのではと思えるほど矛盾甚だしい。


実はコレ、wikipediaで福沢諭吉について以前書かれていた記事の一部分です。

とりあえず今現在wikiではこの引用の後半部分がきれいにまるっと削除されています。

それどころか著書『品行論』についての記事そのものがまるきり空っぽになっていて、不気味なかぎり。

まぁ、仕方ないのかとは思いますが。

巨大な後援会めいた存在が現代に残されていますしね。大学という形で。

深く詮索していくと、日本に巣くう恐ろしく根深い問題にまでたどり着いてしまいますのでこれ以上は此処では書かないことにしておきます。

しかしアカセンあったほうがいいけどそこに働く人は下賤である、だなんて。

教養ある人の発言とはおおよそ思えませんね。あなおそろしや。


一万円札は好きでも、あの肖像画はあんまり直視したくなくなること請け合いです。

http://d.hatena.ne.jp/NextLounge77/20100508/p1


福沢諭吉先生はアジア人が大嫌い


福沢諭吉は朝鮮や台湾の人びとのことをどう述べているか:


「朝鮮……野蛮国にして、……我属国と為るも……」、

「台湾蛮人……は禽獣……人の二人や三人を喰い殺すは通常……

朝鮮人は唯頑固の固まり」(本書121頁)


朝鮮は、野蛮な国であり、朝鮮人はただ頑固なだけであり、台湾人も野蛮で獣と同じなのだから、日本人が支配してあげるのが正しいことなのだ、という理屈であろうか。


「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」……

「朝鮮……人民は牛馬豚犬に異ならず。」……

「土人を銃殺……狐と思ふて打殺したり」

「島民が反抗……一人も余さず誅戮(ちゅうりく)して醜類を殲(つく)す可し。」……

「支那兵……恰も半死の病人……之と戦う……豚狩の積りにて」

(本書160−161頁)


なんという人種差別か。 このような読むに耐えないようなアジア蔑視を披露している。……甲申政変の際にさえ


「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」


と発言した諭吉は、……日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殲滅」「誅戮」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「殲滅」作戦を担えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殲滅への抵抗感・抵抗意識を解除するマインド・コントロールを用意することも必要であった。(159頁)


中国人は人間以下の動物だから、皆殺しにしてしまえ、というのだ。


なんという怖ろしい「啓蒙思想家」だろう。戦争にあたって、相手国の人間を、人間以下に描き出すことは、侵略する側のひとびとが決まって行なってきたことである。かつてアメリカも、日本と戦争をするにあたって、日本人がいかに「人間以下」であるかをさまざまな方法でアメリカ国民に対して啓蒙した。

それにしても、これらの発言は、福沢に対するイメージを一変させるのではないか。


「目に付くものは分捕品の外なし。

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替までも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、凱陣の上は参謀本部に御払下を出願して一儲け……」


という私有物の強奪の勧めを書いた。さらに


「生擒(いけどり)」にした捕虜の「老将」軍を「浅草公園に持出して木戸を張り……木戸銭」をとり、

老将軍に「阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します」


という慰み物にして金儲けをする提案までした。」(163頁)


目についたものは、すべて分捕ってくるといい、などと言っている。 しかも、捕虜にした中国の老将軍を、浅草公園に連れてきて、見世物にしてしまおう、と言っている。 ここに見られるのは、「啓蒙思想家」としての姿ではなく、強盗・殺人を奨励する単なる「極悪人」の姿である。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

こんな言葉で知られる福沢の思想は、決して日本の民主主義の立役者でも何でもなかった。


「天」に代わって日本「人の上に」天皇制と「帝室の藩屏(はんぺい)」としての華族制度をつくりだした福沢諭吉は、

その日本「人の下に」被差別部落民の存在する事実になんらこだわることなく、

『東洋政略論』で日本「人の下に」アジア諸国民を置き、

百篇をこす論稿で男性「の下に」女性をおく家父長制的女性論を体系化し、

金持ち「の下に」貧乏人を位置づけた教育論を構築した。


たとえば、「今の世」で「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」という考えに基づき、

“貧智者”の出現阻止のために官立大学を廃止して私学に改変することを主張したり、

学問・教育も一種の商品だから


金持ちが「子の為に上等の教育を買ひ」中等は中等の教育、貧民は下等の教育を購入する


という貧富に応じた複線型学校論を主張し、それを合理化するために、


豪農・豪商・旧藩士族の「良家の子弟(男子)は「先天遺伝の能力」をもつ


という遺伝絶対論も主張した。こうした貧民無視の罪滅ぼしに、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」


と言って、貧民を宥(なだ)め眠らせるために、自らは信じない宗教の振興論を百篇以上書いた。(235頁)


筆者は、福沢諭吉を、「近代日本のアジア侵略思想とアジア蔑視観形成の最大の立役者の一人」と結論づけている。福沢諭吉を1万円札の肖像に使うことは、どのような意味を持つのか。日本人が、いまだに、侵略戦争・植民地支配を真に反省していない証拠である。 福沢諭吉は、いまも、アジア蔑視の差別意識を、金銭の欲望とともに、日本全国に流通させている。

http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200804/article_14.html


 早     /::::l:::l::、:::::、:::::ヽ::、::::::::::::\:::\::::::::ヽヽ::::::ヽ   駄
 .く      /:::!::::i:::!:::ヽ:::ヽ::::::ヽ::ヽ、::::::::::\:::ヽ:::::::ヽヽ::::::',   目 
 な.     /:l::::!::::ヽ!::ヽ:::::::ヽ:::::::\:::ヽ、::::::::ヽ:::ヽ::::::::!::i:::::::!  だ 
 ん   ハ:::l:::::、::::ヽ::::\:::::\:::::::\:::`ヽ、:::ヽ::ヽ:::::!:::!:::::l
 と   /:::::::l::::::!ヽ:ヽ::::、:::::ヽ:::、:\::::: \::::::\::::!::::ヽ:!:::i:::l:l  こ
 か  !:/!:::::!::::::!::ヽ:ヽ{:::\:::ヽ::::\:::\::ヽ:::::::ヽ!:::::::}!::::l::li|   い
 し  j/:::l:::::!:、:::!::ト、:、:ヽ:::::`ヽ{、::::::\::::\{、::::::::::::::::i::!::l:l !   つ
 な    l:i:l::::i::i:、:l::lテ=-、:ヽ、_、::\_,≧ェュ、_、\:::::::::i::li::!::リ   :
 い   !ハト:{:!:i:トN{、ヒ_ラヘ、{ >、{ 'イ ヒ_ラ 》\::l::!:ト!!:l::l!     :
 と     ヽ i、ヽ:ト{、ヾ ̄"´ l!\   `" ̄"´  |::!:l::! j:ll:!
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福沢諭吉のアジア認識 安川 寿之輔


1.戦後福沢諭吉研究のいい加減さ−「民主主義の先駆者」の虚像


 1万円札の肖像、慶應義塾の創設者、『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉は前向きのイメージで見られ、国民作家、司馬遼太郎の「明るい明治」の歴史観とも重ね合わせて、偉大な啓蒙思想家として教えられています。しかし、アジア諸国からは侵略主義者とみられ、たとえば台湾では「最も憎むべき民族の敵」と呼ばれているのも事実です。

実は、民主的啓蒙思想家のイメージは、丸山眞男ら戦後の民主主義を追求をした学者たちが、福沢諭吉全集から自説に都合のいいところを、福沢の文脈とは無関係に抜き出して作り上げた虚像なのです。

たとえば、丸山さんは福沢の天皇制論を「天皇は政治に関与してはならないと主張し、生涯それを貫いた」と述べましたが、


福沢は朝鮮の甲申政変の時は天皇の「御親征」を主張、

日清戦争の時は大本営を旅順に移し天皇の「海外出陣」さえ要求したのです。


天皇は「正宗の銘刀」であるから「深く鞘に収め」と言ったのは、抜きっぱなしでは効用がないから日常的には政治に関与すべきでないという意味でした。


また、『学問のすすめ』の

「一身独立して一国独立する」

は、

「個人の自由が確立しなければ国の独立はない」


と解釈されましたが、これは福沢研究史上最大の誤読です。


理想はそうだが、国の独立が最優先課題であるから民衆の自由の確立は「他日為す所あらん」、すぐにはできないと言ったのであり、やがて「自由民権運動」に出合うと「一身独立」は放り投げ、逆に封建的な制度を擁護する側に回ったのです。

さらに、福沢は無神論者でしたが、民衆に対する啓蒙を放棄するや、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度良き取り合わせ」、


すなわち民衆の支配には宗教が有効だとして、「経世の要具」としての宗教の必要性を100編以上の論説で主張したのです。丸山さんは福沢を「原理原則がある哲学をもった思想家」と最大限に持ち上げましたが、上の例から福沢は原理原則に筋を通す思想家などではないことがわかります。


 なぜこのようないい加減な福沢研究が学問の名の下にまかり通ったのか。それは戦後の研究者たちが、民主主義の追求に目を奪われて、昨日まで続いていた日本の侵略戦争、植民地支配の責任を放置し、日本にも「明るい明治」期には福沢のような先駆者がいたのだと、福沢を民主主義のチャンピオンに仕立てたのです。戦後の学問のいいかげんさは戦争責任を忘却したことの結果であり、その罪は重いと言わねばなりません。

2.福沢諭吉の国際関係認識−侵略路線への逸脱


 福沢の幕末維新期の国際関係認識は「国家平等観」に立脚していたというのが定説ですが、これは丸山さんらが、福沢が建て前論として言った部分のみを取り上げて導いた結論です。

福沢は国際関係を「傍若無人」、「切り捨て御免」、「無情残酷」、「パワーイズライト」と認識していました。

また同じ時期の、「台湾出兵」について


「こんなにお祝いすべきことはない」、

「そもそも戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰の致す所」


と述べ、「江華島事件」では


「小野蛮国」の朝鮮が「来朝し、我が属国になるも我の悦ぶに足らず」


と述べました。先行の研究者たちは、こういった不都合な記述を全く取り上げることなく「国家平等論者」だと結論したのです。


 福沢は国際帝国主義の時代状況を「弱肉強食」の関係だと認識すると、『文明論之概略』の中で、自国の独立確保を至上最優先の課題に設定し、『学問のすすめ』の中では


「一国独立」は「国の為には財を失うのみならず、一命を擲ても惜しむに足ら」ない「報国の大義」だ


と書きました。上述したように丸山さんらは「一身独立して一国独立する」を読み間違えたのです。

さらに国の独立確保を最優先するためには

「…、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別のごとき…文明の方便」

であるから積極的に活用しなければならないと、日本の近代が封建的なさまざまなものを取り組んでいく道を提示したことも極めて重要です。


 中期以降、先進資本主義国が社会主義や労働運動に直面し、「狼狽して方向に迷う」という現実認識が加わると、「富国強兵」ではだめで「強兵富国」でなければならないと唱え、「軍備拡大」、「対外侵略」路線へと踏み出して行きました。そして歴史的現実主義という名の「清濁併呑」路線、すなわち


「世の中そんなに急に変わらないから、民衆があほなら民衆のあほに依拠してやっていく」、


また「権謀術数」的な「内危外競」路線へと傾斜していきました。何よりも見事なのは、天皇制を「愚民を籠絡する詐術」、馬鹿な国民をたぶらかす政治装置だ、と見抜いたことです。その一方で、軽率にも日本人は「完全な文明開化人」になったという宣言をし、「文明史観」の下での対外侵略の合理化を行い、同時代人から


「法螺を福沢、嘘を諭吉」


と非難されました。元外交官の吉岡弘毅からは、「我が日本をして強盗国に変ぜしめんと謀る」道のりは「不可救の災禍を将来に遺せん事必せり」と厳しくも適切な批判を受けたのです。

3.日清戦争と福沢諭吉


 この時期、朝鮮の背後には中国がいるという理由で、一気に北京攻略まで要求し、あまりに激烈な開戦論のために、『時事新報』の福沢の社説は2度検閲で削除され、さらに『時事』は発行停止処分まで受けました。

リベラルなイメージから良識派と考えられがちですが、実像は明治政府を戦争へと誘導、先導する立場だったのです。

 「日本は日清戦争を経ずに近代化の路線を歩むことはできなかったか?」というのは大変に重要なテーマです。実は、当時の権力中枢、山縣有朋や井上毀らは、直接朝鮮半島を支配する野望は持っていたけれども、国際関係等からいきなりは無理であろうから、暴力的にではあってもスイスのように「永世中立国」にすれば、朝鮮を中国の支配からは離脱させられるという考え方をもっていました。日清戦争開戦1ヶ月前の閣議まで、日本が選びうる3つの選択肢の中には「朝鮮の中立化」は存在していたのです。ところが


福沢は日中両国が違いに連携することなど「空想」だと切り捨て、終始一貫、対支強硬論と軍備拡大要求を続けていました。

明治政府よりも右よりで開戦へと誘導・先導する立場だったのです。

4.丸ごとのアジア蔑視と『暴虐のすすめ』


 福沢は侵略合理化のために「文明」という言葉を論説で乱舞させました。すなわち


他国の「国事を改革」したり「国務の実権」を握ることは内政干渉ではない、


「あいつらはばかだから、がつんとやらないとわからないのだ」


という厚顔無恥そのものの論理です。同時にアジアへの蔑視・侮蔑・マイナスの評価はこの時期から悪化の一途をたどりました。初期にもアジア蔑視観は出ていますが、たとえば中国の民族的英雄林則除を「アヘンを焼き捨てた、思慮のない短気者」と侮辱したように、個々の政策を批判するだけだったのです。ところがこの時期になると、中国は、朝鮮はと、丸ごと総体的に侮蔑する言葉を垂れ流すようになりました。


「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」、

「朝鮮は国にして国に非ず」、

「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」、

「朝鮮人 南洋の土人に譲らず」、


朝鮮人は豚や犬だというのです。


「支那兵…豚狩りのつもりにて」、

「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」、


中国人をやっつけることなど簡単なことだとはっきり書いています。後に日本軍はその通りのことをやったわけです。


中国人を「チャンコロ」呼ばわりすることを、彼は4回書いています。


このような聞くに堪えない侮蔑の言葉を垂れ流すさまは痛々しいとすらいえます。 『時事』の『漫言』では兵士に向けて


「…目につくものは分取り品の田無、なにとぞ今度は北京中の金銀財宝を書き更え…一儲け」


と戦時国際法が禁止する私有物略奪を呼びかけました。 「三光作戦」の勧めです。


 この時期、広島にあった大本営で90回におよぶ御前会議に立った明治天皇を賞賛し、福沢は海外出陣の可能性を提言しました。史実はその4ヶ月後に陸軍内で大本営を旅順に移す案が出て、明治天皇も了解したのですが、知恵者の伊藤博文の反対で流産しました。また「靖国」の思想も先駈けて打ち出していました。


「死を鴻毛より軽しと覚悟」する「軍人勅諭」の「大精神」が勝利の「本源」
であり、

「…益々この精神を養うことこそ護国の要務にして、これを養うには及ぶ限りの栄光を戦死者並びにその遺族に与えて、もって戦場に倒るるの幸福なるを感じせしめるべからず」


と書きました。


 「朝鮮王宮占領事件」、「旅順虐殺事件」、「閔后殺害事件」、「台湾征服戦争」など日清戦争の不義・暴虐を象徴する事件について、ジャーナリストとしての福沢は終始隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を行いました。

私たち「南京大虐殺」を追求する者にとって重大な意味をもつ「旅順虐殺事件」はアメリカやイギリスの新聞に大きく報道され、何よりも『時事』の特派員報告でも出たのでした。しかし、日本が「文明の戦争」ということで世界に登場しようとしていた時期に、市民を含む2万人近い無抵抗の中国人を殺害したことは、伊藤首相と陸奥外相の判断で不問に付すことになったのです、

福沢は虐殺を「実に跡形も無き誤報・虚言」と切り捨て事実隠蔽のお先棒を担いだのです。

その「結果、日本軍の軍紀には覆うべからざる汚点を生じ、残虐行為に対する罪悪感は失われ、その後この種の事件を続発させることに」なったと『日清戦争』の藤村道夫は述べています。すなわち「南京大虐殺」にいたる道が敷かれたわけです。

5.「日本の近代化=アジア侵略」の「お師匠様」


 福沢は有名な『自伝』の中で、「明治政府のお師匠様」を自負していましたが、彼は「明治政府」に止まらず、アジア太平洋戦に至る日本の近代化の道の総体にわたる「お師匠様」と位置づけるのが正しいと思います。アジア太平洋戦争の有名なキャッチフレーズ「満蒙は我生命線」は後の外相松岡洋右の演説ですが、その先駈けになったのは福沢の「今、日本島を守るに当たりて最近の防御線は朝鮮地方たるや疑いを入れず」です。これは山縣有朋が同じことを主張するよりも3年早くなされたものでした。日本が大東亜共栄圏の盟主だということも福沢は明確に主張しています。

 家永三郎は名著『太平洋戦争』の中で、「日本の民衆が15年戦争を何故阻止できなかったのか」の重要な要素として「隣接アジア諸民族への謂われのない区別意識」を挙げていますが、この蔑視感の形成の先頭に立ってきたのが福沢だったわけです。そしてこの蔑視感は今の日本の有り様にも繋がっております。自分では「偽りにあらずして何ぞや」と冷静に認識しながら、天皇制を「愚民を籠絡するの詐術」と見抜くと、


天皇崇拝は「日本人固有の性」、


「一般の臣民…雖も帝室の為とあらば生命を惜しむ者なし」


とうそぶくしたたかさを持っていました。その福沢諭吉の力もあって「愚民を籠絡する」天皇制は日の丸・君が代とともに今なお健在です。このしたたかな福沢諭吉にどう対抗し乗り越えるのか、それが私たちの課題として問われています。

http://www.jca.apc.org/nmnankin/news10-3.html


◆私は、十五、六歳のころ、「何になりたいか」と兄に聞かれて、「日本一の金持ちになりたい」といった(「福翁自伝」).


 金持ちになるためには、国民をだまして「金と命を出させて、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化財を奪うことが必要だ」と考えた.

 そのためには、教育と報道で世論をつくることが必要であった.教育では慶応義塾を、報道では時事新報を創設した.

 そして台湾・朝鮮半島・中国全土を植民地化するためには、戦力を持ち、「国権を皇張すること」が必要と宣伝した.(1881「時事小言」)

 それが成功して、日清戦争(1894-1895)では、台湾の植民地化を達成し、同時にそれを報道した「時事新報」の発行部数を伸ばして、「金持ちになる夢」に大きく近づいた.


諭吉は、天皇家の先生だった!


昭和天皇は、皇太子(2009年3月現在の天皇)の教育に小泉信三をあてました(1946年4月〜1958年).

小泉信三は、福沢諭吉の「帝室論」を教材に、青年時代の現天皇の教育をおこないました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」).


皇太子の家庭教師役を任命されたとき、小泉信三は慶応義塾の塾長(1933年〜1947年)でした. 彼の父親も、慶應義塾の第二代の塾長(1887年〜1890年)でした.慶応義塾は、諭吉が創設し、第1代塾長は諭吉でした.
彼は、「政府の影のお師匠様」(注)であり、天皇家の先生でもあったのです.


(注)「福沢諭吉全集」(第20巻414頁)


「立君の政治」は「人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)


小泉信三は、「そう指摘されたら、どう答えるか」を若き現天皇に教えていたのです.(注)

現天皇は、皇太子に何を教えたのでしょうか?


(注)

「福沢諭吉の『帝室論』を読むために、殿下も私も、それぞれ福沢全集の一冊をこの一隅に持ち込んだこともある」
 
「部屋の大きさは二十畳ぐらい」

「両陛下がお出ましになったときにもここへお通りになる」

「壁に寄せて直立ピアノが置いてある」

「皇太子殿下は主にその二階にお住居になっている」

(小泉信三「ジョオジ五世と帝室論」)

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html


天皇制は「支配者が愚民を篭絡するの一欺術」


(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)
(1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)

天皇を頂点とする利権・既得権益の体系、それが「天皇制」の本質ではないか?

それは、天皇制を支持する人びとを見ればわかる.彼らは、何らかの権益をもっている.(反論できる人はいないようだ)

もう一つの証拠は、昭和天皇だ.彼は、終戦の詔勅(ラジオ放送)で、「ここに国体を護持し得て」といった.

天皇制の維持・存続の希望を出し、結果として戦争責任から逃れ、「日本国憲法」第1章に「天皇」を書き込ませたのだ.歴史に残る戦略家というべきではないか?

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_7753.html


「馬鹿と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」

靖国神社が作られた頃の諭吉の文章です.
(福沢諭吉全集 第20巻232頁)

諭吉は、靖国神社の本質をよく理解していた


「国民はだまされて、国のために死んでくれ!」

その諭吉を、一万円札の肖像として毎日拝ませる人たちがいる!

日本の「文化と伝統」は、「だまされること」ではないはずです!

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_14.html

「天皇が、ヤスクニ神社を参拝するべきだ」 (福沢諭吉)

「靖国神社の臨時祭には、辱(かたじ)けなくも天皇陛下の御臨席さへありて、・・・。 
・・・大に遺族のものに給与して死者の功労に酬ひん(むくいん)こと我輩の切望・・・」
(死者に厚くす可し」 

 (1895年 福沢諭吉全集 第15巻341頁)


(天皇陛下が、死者の功労に十分あつくむくいれば、遺族も悲しまないだろう. そうしてほしい. そうすれば国民は、天皇と国のために、喜んで死ぬだろう)

福沢諭吉の時代には、憲法は国の機関の宗教活動を禁じてはいませんでした.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_15.html

英国もフランスも、人の土地を奪っている! 
(対中侵略15年戦争の諭吉の布石)


「今は英国もフランスも、競争して人の土地を奪っている」

「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・

皆吾れ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何も構ふことはない、

少しでも土地を奪へば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、「さっさ」ととりて暖まるがよい」

(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第19巻711頁 「福沢諭吉のアジア認識」299頁)

「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」

(1882年 「喉笛に喰付け」全集第8巻260頁)


「支那国果たして自立を得ずして諸外国人の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし. 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐わんのみ」

(1882年 全集第5巻313頁)


「朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵(みなごろし)にし、・・・. ・・・両国の戦争となることあらば、・・・日本の勝利必然なり」

(1884年 「戦争となれば必勝の算あり」(全集第10巻159〜)


「目につくものは分捕品の外なし.

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚えて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替えまでも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ. 

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・ 一儲け ・・・. 


・・・其老将等が、生擒の仲間で幸にまだ存命にてあらんには、・・・

之を浅草公園に持出して木戸を張り、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」

(1894年 「漫言」全集第14巻570頁)

この諭吉の教えにしたがって、日露戦争(1904〜1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑」があります.


それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です(朝日新聞 2006年5月28日). おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.

この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています.

日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません. まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/1881711299.html

福沢諭吉:
 
「金と兵は有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なり ・・・
本編(1881年「時事小言」)立論の主義はもっぱら武備を盛んにして国権を皇張するの一点にあり。 

事情切迫におよぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国)を押領して、わが手をもって新築するも可なり」

(福沢諭吉全集第5巻108ページ〜)

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html

私(福沢諭吉)は、「暗に政府のお師匠様」であった

1897年8月22日「時事新報」(社主・福沢諭吉)から 


「王政維新の前後に日本国中の人が専ら老生の著訳書ばかり読んで文明の新知識を得たるは紛れもなき事実にして、或いは維新政府の新施設も拙著の書を根拠にして発表したるもの多く、暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の忘れざるところなり」
(福沢諭吉全集第20巻)


その諭吉は、天皇制について「愚民を篭絡するの一欺術」といっています.(全集第5巻)

また、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といっています.(全集題20巻)

東京招魂社が、靖国神社になったころです.


「日本は天皇を中心に歴史が作られてきた. 
国が強くなることが大切、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化遺産を奪いとれ.

天皇のため、国のためには、『カネ』も出せ、命も出せ!

死んだ後には靖国神社がある」 


諭吉は、国民を馬鹿と見て、これをだまして税金と命を取る、そのダマシのシステムが天皇制と靖国神社だと考えていたのでしょう.

真に賢い師匠でした.今の日本も、その師匠を一万円札の肖像として、毎日拝ませています.

ダマス者が賢く、国民は愚民!
それが、日本の伝統と文化でした.


___________


「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!

 「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)


諭吉は、こう書いています.


「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.(「そういわれたら、『それは、政治を知らない』と答えよ」といっています)


なぜ、彼はそう書いたのか?
それは、次の理由によります.


◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」
これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)

◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる


◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる


◆自分は、支配者の側に立ちたい.
門閥制度で一生下級武士はいやだ!


◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.


◆だから、国民をだまさなければならない.


◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.


◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる.
(若くして殺された特攻隊員がそうだった)


◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.


◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.


◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)


これが、福沢諭吉の真実です.

_____


福沢諭吉は、少年時代の「大金持ちになりたい(福翁自伝)」夢を実現するためには、天皇制を支持したのだ.


◆「大金持ち」になるためには、略奪・侵略・殺戮・戦争が必要だ.

◆「お前たちが死んで、私たちが略奪物を取るから、戦争に行け」では、賛成してもらえない.

◆そこで、天皇制を利用しよう.

◆「私たちのため」ではなく、「天皇のため」「国のため」「大義のため」に死んでもらおう.

◆そのために、靖国神社も用意しておこう.「英霊になる」なら、死んでも文句はないだろう.

◆そこで、彼は、天皇制についてこういった.

◆「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための手段だ)
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)

◆彼は、そのリクツを実行して、台湾・朝鮮の植民地化、対中侵略戦争を教育・宣伝して、日清戦争では自分の新聞の発行部数を大いに伸ばして大もうけをした!

◆彼の教えは、日清・日露戦争から、対中侵略15年戦争・太平洋戦争を通じて、2009年の現在にいたるまで続いている.(指導者としての立場は、一万円札の肖像として認められている)


日本では、まだ諭吉の教え子たちが「人主」として生きている.

 



[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能)
アラシ。

2. 阿快[502] iKKJ9Q 2018年1月01日 15:10:48 : 2EghJkIZGA : GL6lev6sfoU[3]
自由民権運動の先頭に立っていた板垣退助は、征韓論をとなえて政権から放り出された男だよ。

征韓論というのは、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(但し、史実として、
征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、
開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く「遣韓論」と呼ばれるものであり、征韓中止が決まる直前では
西郷の使節派遣でまとまっていた。(wiki)

つまり自由民権運動ってのはいまと同じく、政府転覆工作と同じものだったわけ。
そのあたりちゃんと押さえておかないと、トンチンカンなことになるよ。



[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能)
アラシ。

3. 2018年1月01日 15:41:31 : aA2gxnne6U : kNd_zCv4MeA[1]
バカ川とバカイは産まれる時代間違えてたね。

80年前だったら、喜んで兵隊に使ってくれたよ


4. 2018年1月01日 19:19:03 : FieXiNBWLk : tqFS9X@7p2I[266]
>>3
御意。

5. 2018年1月01日 21:41:54 : Q7Xo3PPOrk : CNPmh385SmA[268]
「強大な幕府の打倒は志士に加え豪農富商、それに民衆の支えがあってこそ実現したのです。幕末期の民衆は当然のように欧米に追いつこうとしていたのです。」


 それはない、武士が中心だ、尊王攘夷は徳川御三家 水戸藩から起きた

 尊王思想はの水戸光圀らから起きてきた。

 水戸や薩摩 ほか全国の勤王の志士の屍を乗り越えて、最後のいいところ

 を薩摩、長州が幸運にも手に入れた。

 もちろん民衆のなかにも協力者はゼロではなかろうが

 武士が武力行使しなければできるものではないかった,大砲、鉄砲を

 ぶっ放した、維新革命だよ

、歴史せい。

  

 


6. 2018年1月01日 23:14:32 : Q7Xo3PPOrk : CNPmh385SmA[270]
「日本では“押し付け”などという政治家もいますが、国民多数は大いに歓迎しました。」


 実際押しつけ憲法であるし、そもそも国際法(ハ−グ条約)を無視した

 違法憲法がいまの日本国憲法です.

 ハ−グ条約には 占領国がかってに、占領した他国の憲法を変えてはならない

 という規定があったからです。

 ドサクサまぎれにGHQが押し付けたとみるべきであろう。

 そして米国GHQ占領中の日本人の大部分は 戦後のドサクサ、食糧難などで

 自分の眼の前の生活に追われれていたのが事実であろう。

 


7. 2018年1月01日 23:29:04 : NiLsXobCRk : kjcaRYW2xFI[313]

■ 明治時代の民権を語るとき尾崎行雄と

  院外団三多摩壮士森久保作蔵は外せない



8. 2018年1月02日 00:00:15 : lh1GGwoOtM : YsxGZGc1SWo[1762]
>>2

>自由民権運動の先頭に立っていた板垣退助は、征韓論をとなえて政権から放り出された男だよ。


ま、たしかに明治の自由民権運動と言うのは、板垣退助くらいしか教科書には載っていないが、実際はもっと幅広いものだったらしいな。

ブログバー黒曜石
いま日本の大問題 憲法を考える 五日市憲法ほか(BS朝日)2014年5月9日
http://obsidian47.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

(上記ブログより、以下転載)


先日の憲法記念日にBS朝日で放映された番組が動画サイトにアップされていたのを見つけましたのでリンクを張らせていただきます。

いま日本の大問題 憲法を考える 五日市憲法ほか(BS朝日) 

「五日市(いつかいち)憲法」というのは、現在の憲法と比べてもあまり遜色のない、人権の尊重を謳った民主的な憲法が、明治元年からわずか13年後、山深い里で民衆の手によって作られたものです。昨年10月、皇后美智子さんも御自身の御誕生日に発表された談話の中でこの五日市憲法に触れられていて、少し話題になりましたが、上記の番組の冒頭では、その時、美智子さんがこの憲法草案について語られた内容も紹介されています。五日市憲法の紹介文として、そのままで優れたものだと思いましたので、その部分をを引用させていただきます。

(以下、上記番組にも紹介された皇后美智子さんの談話の一部を引用)

5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。

(引用終わり)

当時の日本にはまだ近代的な憲法はなく、維新直後の混乱を治めた明治政府はその成立を急いでいました。そしてそれを察知した民衆たちもまた、自分たちの手でこの国の憲法を作り上げようと、各地で競うように様々な憲法草案(私擬憲法)が作られて行ったそうです。そしてその中には現在の憲法と比べても、十分民主的で国民の諸権利を盛り込んだものも少なくなかったそうです。

もっとも、憲法草案の作成には、ある程度の学識も必要でした。五日市憲法の場合、その起草には千葉卓三郎という、仙台藩の下級武士出身の自由民権運動の闘士が深く関わっています。また、各地を放浪してきた彼を(おそらくは食客として)迎え入れた裕福な豪農もいました。しかし、彼らを中心に、地元の庶民の青年たちが集まり、日々の労働の後に勉強会を開いて、互いに熱く討論しながら、この憲法草案を練り上げて行ったそうです。当時、木材と生糸の産地(集積地)であった五日市は、そのころは陸路以上の重要な物資輸送路でもあった河川によって、遠く横浜とまで繋がり、その流れを遡るようにして、最新の世界情報や知識が流入していて人々の意識も高かったようでした。

当時のことですから、この憲法でも「主権」はあくまで天皇にありました。しかし、多くの人権規定をしっかりと盛り込むことで、“事実上の国民主権”に近いことを実現しようとするものでもあったようです。

「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ 他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ」
(五日市憲法草案 第45条)

これは五日市憲法の中心的な思想を示す条文だそうですが、全体で204条あるうちのなんと、154条が人権にかかわる規定だそうです。
(その中には「国民は皆平等であるとする規定」、「表現の自由を保障する規定」、「外国人の権利を保障する規定」、「政治犯の死刑を廃止する規定」などがあったそうです)

五日市憲法の発見者である色川大吉氏は番組の中で 「五日市憲法の特徴は民権、人権の問題」、「五日市憲法ほど人権の問題に触れている憲法はない」と述べておられます。また「(人々の意識の中では)明治の方が(今よりも)民主主義が進んでいた」と仰っておられました。

当時、五日市だけでなく、日本の各地で、民衆の手によってこのような民主的な憲法草案が、幾つも作られたそうです。だいぶ以前に何かで読んだ話では、やはり農村で、女性たちも参加して「男女平等」を謳ったものも作られたらしいと知って驚いたものでした。当時の農山村というのは、今の私たちが考えるよりもずっと、思想的には進んでいたのかもしれません。色川氏も当時は都市部より、農山村の方が人々の政治的な意識はむしろ進んでいたように言われています。少し前の幕末から明治初期にかけては、全国各地で農民たちの「命懸けの異議申し立て」であった百姓一揆が頻発していたことを考えれば、それも不思議ではないような気がします。

しかし、当時の明治政府は、こうした民衆たちの作り上げた憲法草案をまったく採り上げることなく、ヨーロッパ諸国の中では封建色の強かったというプロイセン王国の憲法を参考に大日本帝国憲法を制定してしまいました。

 「日本国民にとって、民主主義はアメリカによってタナボタ式に与えられたに過ぎない」 などと言われることがよくあります。正直言って、私自身も以前はそう考えていました。しかし、こうした史実を見ると、それは間違っていたのではないかと思うようになりました。

 実際、この五日市憲法に代表されるような民衆によって考え出された「民主的な憲法」の精神は、その後、鈴木安蔵という福島出身の青年によって研究され、その精神が受け継がれたことで、現在の憲法に深い影響を及ぼして行くことになります。 鈴木安蔵は京大の学生時代に左翼的な運動をしたために治安維持法で逮捕され(京都学連事件)、服役したのをきっかけに、当時の帝国憲法に疑問を持ち、独自に憲法の研究を始めます。そして明治初頭に各地で作られた私擬憲法について調べてゆくのですが、中でも五日市憲法と同じ頃に作られた、土佐の植木枝盛の憲法草案に強い関心を寄せました。

植木枝盛は土佐では板垣退助と並ぶ自由民権運動家だったそうですが、彼もまた、民衆の熱い支持を集めながら「法の下の平等」、「死刑制度の廃止」などを盛り込んだ憲法を起草しました。(鈴木安蔵については近年、『日本の青空』という映画が作られていて、以前から観たいと思いながら、私はまだ観る機会がないのですが、一応、御紹介しておきます。 『日本の青空』公式ホームページ )

そして敗戦後、鈴木は新聞紙上に自らが主宰する憲法研究会の憲法草案を発表し、それがGHQ民政局の目に留まりました。この番組の中にはGHQで日本国憲法制定の責任者だったケーディス大佐も登場し「憲法研究会の作った草案が手元にあった。一週間か十日しかなかったのに、私たちの力だけでゼロから憲法草案を作るのは不可能だった。」と述べています。そしてもう一人の担当者、弁護士のラウエル中佐は憲法研究会の草案に詳しく目を通した後、マッカーサー元帥に「この中に含まれる条文は民主的で受け入れらる」と報告したそうです。

現実的な側面から言えば、「日本に天皇制を残す」ということは(他の連合国の反対はあったようですが)アメリカ側ではかなり早い時期に決定していたようです。そのため、当時、東京裁判を間近に控え、GHQには出来るだけ早く、新たな憲法によって「天皇の地位」を定めておかなければならなかったという事情もありました。だから、彼等だけで日本の憲法を一から作り上げる時間的な余裕などはとてもなく、それが鈴木の憲法研究会の草案が「叩き台」として採りあげられた大きな理由でもあったそうです。(もちろん、新たな日本の憲法は十分に「民主的」なものでなければならず、その前に一度、日本政府自身に作らせて提出させた草案は、その点でまったくの「不合格」であったそうです)

動画に登場する憲法学者の原秀成氏は、鈴木安蔵の憲法草案が現在の日本国憲法に反映されていること、そして、その他の日本人の案もGHQ草案に多く取りこまれたことを指して 「日本国憲法は日本人のものだ」 と述べられています。しかし当時の政治状況では、GHQの影響下で、あくまで時の日本政府自身が作成した憲法とされなければならず、「在野の民間人の草案」を参考にしたことは長く伏せられたままでした。(GHQは鈴木安蔵ら、憲法研究会のメンバーとは直接の接触など全くしなかったそうです)

そのことが後々、今日までも「あれは日本人の意向とは全く関係ないところで占領軍が勝手に作って押しつけたもの」という偏見を生んでしまいました。それでも、こうした時間的、政治的な隘路を縫うようにして、かつて権力によって握りつぶされた民間の私擬憲法の精神が復活したのは奇跡のようなことであり、その昔に情熱を傾けてそれらの憲法草案作ったこの国の人々の執念がそうさせたようにも感じられました。せっかくこうした先人たちがいてくれたのに、自ら、国民の権利をないがしろにして投げ捨てるようなことをして、未来に生きる子供たちに恨まれ、軽蔑されるようなことにだけはなりたくないものだと思います。

(転載終了)


9. 2018年1月02日 08:38:17 : Q7Xo3PPOrk : CNPmh385SmA[271]
鈴木安蔵

京都大学出身の共産党 戦前は在野で憲法を研究していた。

GHQ幹部の共産スパイ、ハ−バ−ト.ノ−マンとコミンテルンの同士。

GHQ共産党スパイが日本国憲法に関与していたということ。


日本占領政策に影響
 カナダの外交官でGHQ(連合国軍総司令部)幹部だったハーバート・ノーマンが英ケンブリッジ大に留学していた1935年、英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者だと断定し、第二次大戦後の51年にカナダ政府に通報していたことが26日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。ノーマンは50年代にソ連のスパイ疑惑が持ち上がったが、MI5が既に戦前から共産主義者と断定していたことで、ノーマンが関わり、左翼的傾向が強かった初期のGHQの日本占領政策の再検証が求められそうだ。(編集委員 岡部伸)


https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/28013110.html

ハーバート・ノーマンと鈴木安蔵。
一般には聞きなれない名前ですが、日本にとっては重要な人物です。

ハーバート・ノーマンは日本で生まれたカナダ人です。戦前にイギリスに留学してコミンテルンに入り、それ以後はコミンテルンの秘密工作員としてカナダ外務省に入ります。
1940年には日本のカナダ大使館に勤め、この時に鈴木安蔵と知り合います。
真珠湾攻撃と共に交換船でアメリカに帰りました。

1945年8月30日、ノーマンは日本の専門家としてマッカーサーと共にバターン号で厚木に来ました。東京に来たノーマンは鈴木安蔵を探し出します。

つい最近、九条の会や護憲派が鈴木安蔵の映画「日本の青空」というものを作って、「あの憲法はアメリカが作ったものではない。民主的な日本人の総意が反映しているんだ」という宣伝をしました。

しかし、騙されてはいけない。鈴木安蔵はコミンテルンの同志で、日本では治安維持法適用第一号の京大学連事件で検挙された憲法学者です。
鈴木は戦後、ノーマンが憲法草案作りが始まることを見越して、東京帝国大学教授の高野岩三郎と共に憲法研究会を結成させました。
この憲法研究会は1945年12月26日に政府の改正草案より一カ月も早く憲法草案要綱を発表します。
これを「日本人が自発的に日本人の総意を反映している民主的な憲法草案をマッカーサーに突きつけた」として宣伝しましたが、鈴木安蔵の憲法研究会自体がノーマンのコミンテルン工作組織でした。
鈴木安蔵の草案を元にケーディスらが日本国憲法の最終草案を作っただけです。

特にノーマンが終始こだわったのが憲法一条でした。
憲法第1条で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」 というのがGHQの案でした。
しかし、ソ連の意を受けたノーマンが動いて極東委員会から修正案を出させ、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」としたのです。この時ノーマンはワシントンに出張し極東委員会に勤務していました。

ノーマンがこれを挿入することにこだわったのは、1920年代以来のスターリンの対日戦略だったからです。天皇を制度にして国民の総意を口実にいつでも天皇制度を廃止できるようにしておくためです。

ちなみに高野岩三郎はGHQの下でNHK初代会長となり、天皇制廃止を主張し続けた人物です。

1952年、アメリカ上院司法委員会の報告でノーマンはソ連のスパイと指摘され、
1957年、ノーマンは赴任先のエジプトのカイロで謎の投身自殺をした。・・・


イメージ 2


10. 2018年1月02日 14:43:24 : zLLJnQxKEk : foOynBXedzI[9]

仕方ないことだ^^

GHQ参謀本部OSSは^^

誰が、如何様に取繕うとも^^

1943/6/8^^

スターリンに売られ、アレンダレスに買い取られたコミンテルン^^

これを覆すことは出来ない^^


11. 2018年1月02日 15:02:24 : zLLJnQxKEk : foOynBXedzI[10]

占領軍GHQ参謀本部OSSは^^

日本共産党の生みの親=コミンテルンだった^^

だから^^

元コミンテルンによって構成されたOSSが、CIAとして組織変更された時^^

CIA首脳部は、元コミンテルンであったのだ^^


これが、正力松太郎にコードネーム「ポダム」を与えた者の正体だ^^

正力松太郎にコードネームを与えた者が元コミンテルンであったので^^

正力松太郎の編集長=渡部恒雄は、共産党員であったのだ^^


1953年、スターリンは死んだ^^

CIAを構成していた元コミンテルンには、帰るところが出来た^^

1954年、彼らは、KGBを設置して日本を去った^^


渡部恒雄は、黒崎明は、彼ら、共産主義者でありながら資本主義陣営経営者を構成していた者たちは^^

その時より、転向保守neo-conservativeと成った^^


この事実は、何者にも書き換えることは出来ない^^


12. 2018年1月02日 23:18:59 : lh1GGwoOtM : YsxGZGc1SWo[1765]
「なにびとも他人に命令する権利を自然から与えられたのではない 」ディドロ『百科全書』


>>9

それは「保守の会」会長の松山昭彦氏のブログエントリーですね。松山氏については何か月か前に此処でも紹介されていた「のんきに介護」さんのブログで稲田朋美氏が森友学園の顧問弁護士だったことをフェイスブックに書いていたのを森友問題が世上に出ると同時に速攻で消したという記事で思い出しました。「コミンテルンの陰謀」の田母神閣下の支持者でもある。

ハーバート・ノーマンについては、たしかに若い頃から左翼思想になじんで共産主義にも共鳴していたのは事実のようです。
しかし、彼がソ連のスパイだったかどうかは証明されていません。(彼の母国であるカナダ政府は否定している)
MI5も彼が「共産主義者だ」とは言ったが、ソ連との関係についてまでは言及出来ていないはずです。

ノーマンが日本をはじめ、かつて外交官として赴任したインドでも若い左翼思想家や共産主義者を励ましたのは事実で、そのために冷戦が始まると同時にアメリカの「赤狩り」の圧力を強く受けたようですが、彼の行動の背後にソビエトがいたかどうかはMI5でも証明できなかったようです。

以下、Wikipedia エドガートン・ハーバート・ノーマンより

生い立ち

在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として長野県軽井沢町で生まれる。父ダニエル(1864年 - 1941年)は1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽くしたが、ハーバート自身はシェリー酒を嘗めながら雑誌を読むタイプだった[1]。その後カナダのトロントに移り、父と同じトロント大学ビクトリア・カレッジに入学、この頃より社会主義への傾倒を始める。

1933年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。歴史学を研究し1935年に卒業。このころは左翼系の学生活動にのめりこみ、共産主義系の数々の学生組織で活動する。その後ハーバード大学に入学し、軽井沢の教会を通じて両親同士が知り合いだったエドウィン・ライシャワーのもとで日本史を研究しつつ、学友で「社会主義者」を自称した都留重人などと親交を結ぶ他、学友を社会主義活動へ勧誘し続けた。英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者と断定[2]。


GHQ

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)9月、アメリカからの要請によりカナダ外務省からGHQに対敵諜報部調査分析課長として出向し[3]、同年9月27日からの昭和天皇とマッカーサーのGHQ側通訳を担当した。マルクス主義の憲法学者鈴木安蔵らに助言して憲法草案要綱作成を促すほか、GHQ指令で釈放された共産党政治犯の志賀義雄や徳田球一らから反占領軍情報を聞き出すなどした[3]。また、政財界・言論界から20万人以上を公職追放した民政局次長のケーディスの右腕として協力したほか、戦犯容疑者調査を担当し、近衛文麿と木戸幸一をA級戦犯に指名し、起訴するための「戦争責任に関する覚書」を提出した[3]。連合国軍占領下の日本の「民主化計画」に携わるかたわら、学者としても、安藤昌益の思想の再評価につとめ、渡辺一夫・中野好夫・桑原武夫・加藤周一らと親密に交流した。特に重要なのの1946年にGHQが戦前の日本の政党の活動を禁止した中で日本共産党だけはノーマンの助言でこの禁止を受けなかった。これが学生時代の左翼活動と相まってその後のソビエトスパイの容疑に大きく影響する。

1946年8月には駐日カナダ代表部主席に就任する。その後1951年9月にはサンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員を務め、その後カナダ外務省本省に戻る。

スパイ

その後、第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。そのようなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大使兼レバノン公使に栄転する。同年に起きたスエズ動乱勃発では、盟友のレスター・B・ピアソンを通して現地の平和維持と監視のための国際連合緊急軍導入に功績を残し高い評価を得た。しかし、都留重人を取り調べたFBI捜査官によるアメリカ上院における証言によって「共産主義者」との疑いを再度かけられ、1957年4月4日に赴任先のカイロで飛び降り自殺を遂げた。

実際に学生時代に共産主義者であった事実は確定しており、学者としても、進歩的・左寄りの論調を主張した事実はあるが、ベノナも含めてノーマンがスパイであったとの証拠は見つかっていない。またカナダ政府は生前からノーマンのスパイ説を否定し続けており、なお、カナダ外務省はノーマンの「功績」を称えて、2001年5月29日に東京都港区赤坂にある在日カナダ大使館の図書館を、「E・H・ノーマン図書館」と命名した。

(引用終わり)


むしろ、松岡正剛氏の以下の評論などを読むと、ノーマンに最も強い影響を与えたのはマルクスやレーニンなどよりも、江戸時代の日本の思想家、安藤昌益ではないかとさえ思えます。

松岡正剛 千夜千冊 ハーバート・ノーマン クリオの顔
http://1000ya.isis.ne.jp/0014.html

(なお、松岡氏はノーマンの経歴にGHQとは書いておらず「極東委員会」や「対日理事会」という言葉を使用しているが、これは連合国の最高政策決定機関としてGHQの上位に置かれた機関の名である。GHQの職員の多くは米軍人と一部米民間人、あとは英軍人、オーストラリア軍人だったという。カナダの外務官僚だったノーマンの所属はむしろ、こちらの方だった可能性がある)


安藤昌益とは 安藤昌益資料館より
http://shoeki.org/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A%E3%81%A8%E3%81%AF/

世界初のエコロジスト 〜安藤昌益とは〜

 江戸時代中期という封建時代まっただなかにあって、身分制度を否定し、富める者も貧しい者もいない平等な社会を説いた安藤昌益。かつて青森県八戸市に住み、町医者をしながら、他に類を見ない独創的な思想を生み出しました。その考え方は、「直耕(ちょっこう)」、「互性(ごせい)」など、独自の言葉で表されています。 
 また、自然と人間とが調和する社会を目指した昌益の思想は、現代にも通じ、世界初のエコロジストともいわれています。

八戸と昌益 〜町医者から社会を診る思想家へ〜

 昌益の思想は、42歳頃から約15年間を過ごした八戸で誕生したといわれ、主著『自然真営道』101巻93冊も八戸で書かれたことが分かっています。
 そのきっかけとして考えられるのが、飢饉の頻発です。この地方特有の冷たい東風(やませ)により、当時の八戸では凶作と飢饉が猛威をふるっていました。中でも大豆生産のため焼き畑を繰り返したことで猪の大発生を招き、多くの餓死者を出した通称「猪飢渇」いのししけがじ(「けがじ」=八戸弁で「飢饉」の意味)は、昌益に大きな衝撃を与えたと思われます。(※左写真:山寺の飢饉供養塔)
 刊本『自然真営道』「大序」には、「非命にして死せる者のためにこれを記す」、つまり、不幸にして天寿をまっとうできなかった人たちのためにこの書物を書くのだ、と書かれています。
 食物を生産する農民たちの多くが命を落とし、支配階級である武士たちには大きな被害がないという現実。この社会の矛盾を目の当たりにしたとき、昌益は、町人の身体を診る町医者から、社会全体を診る思想家へと変貌を遂げたのではないでしょうか。

(以下略)

そういえば、あのチェ・ゲバラもチリでピノチェトのクーデターに倒されたアジェンデ大統領も医者でした。(9.11と言えば、中南米では今もこの「アジェンデの悲劇」を指すそうですが)安藤昌益は彼らの先駆者のような人だったのかもしれません。「同じ人間の間に命の格差さえあるのはおかしい」そう感じるのは、難しい思想や誰かに唆されてそうなるのではありません。医者でなくても他者への思いやりがある人間なら誰でも自然にそう思うでしょう。

鈴木安蔵については戦後にノーマンと出会う以前から、明治の自由民権運動家だった植木枝盛の研究を続けていました。もちろん、彼はそれ以前にマルクスの思想に学んでいたが、敢えて日本人である植木枝盛にこだわった理由は何だったのか?私は植木枝盛の「アジア主義」にその答えがあると思っています。

(以下、Wikipedia 植木枝盛より)

死後の再評価

自由民権運動当時は知名度が高かったが、早世したことでその後は忘れられた存在となる。憲法学者で法制史家の鈴木安蔵が昭和11年(1936年)に高知県立図書館に保存されていた植木の文書類を調査し、その内容を新聞に発表した[3]。 これにより、植木の業績に再び光が当てられることになった。鈴木は終戦後に民間の有識者で結成された憲法研究会に参加し、研究会が昭和20年(1945年)12月に発表した「憲法草案要綱」では植木の憲法案を参考の一つとしたと証言している[3]。

戦後は家永三郎によって研究が進められた。家永が昭和30年(1955年)に刊行した『革命思想の先駆者 - 植木枝盛の人と思想』(岩波新書)は植木の業績や生涯を広く知らしめ、昭和35年(1960年)に刊行した『植木枝盛研究』(岩波書店)はその後の研究の基礎文献となった。

アジア主義

植木は青年時代から独自のアジア主義(小国主義、アジア連合論)を説き、興亜会の会報をよく読み、アジア侵略をする欧米を「大野蛮」と言い、アジアの被抑圧からの独立振興を主張し、戦争にも反対であった。基本的には武力行使による国権拡張に反対して平和を志向し、日本国家の経済権益の拡張を支持した。改革アジア同士の連携を志向し、具体的には通商貿易という手段でのアジアの独立振興を志向した。被抑圧アジアの欧米からの独立志向性は、アジア主義を否定的媒介として、世界の被抑圧地域・国家の独立開放を望むインターナショナリズムに結晶し、日本青年に被抑圧アジアや世界の被抑圧王国の独立支援者(盟主ではなく「興臣」)になることを呼びかけた。

(引用終わり)

鈴木安蔵が戦時中に以下のような思想を持っていたと批判される理由は、官憲の目を逃れるための「偽装」と言う可能性もないではないが、むしろ、上記の植木枝盛の考えに同調して欧米諸国に対し、強い疑念を持っていたせいではなかったかと私は思います。ただし、植木枝盛が「盟主ではなく興臣」と言っているのに対し、もろに「盟主」となるべきように言っている。そこが「偽装」だったかどうかはわかりませんが、そうでないとするならば、彼は本来の「右翼思想家」と同じ視点の支持者でした。

>戦時中は「即ち日本が大東亜共栄圏建設の指導、中核国家たるべきことは、あらゆる点よりみて絶対的客観性を有している」(『政治文化の新理念』、1942年、利根書房)、「東亜共栄圏の確立、東洋永遠の平和の確保と云うも、なお目的の究極を尽せるものとは云い難い。八紘一宇の大理想を以て皇道を全世界、全人類に宣布確立するにあると云わねばならないのである」(『日本政治の基準』、1941年、東洋経済新報社出版部)という大東亜共栄圏のイデオローグであった。
(wikipedia 鈴木安蔵 より)


ともあれ、ソビエトどころか、マルクスもレーニンも生まれるはるか以前に、この極東の島国にも安藤昌益のような人はいた。そして現代の先進諸国の憲法に照らしても恥ずかしくない民主的な憲法を1881年の日本人たちは考えていた。「天は人の上に人を作らず」というが、思えば釈迦もキリストも「生まれながらの身分」や「持っている富の多寡」によって人を差別するような視点は持っていなかったはずです。「個人の尊厳」と「人類の平等」を解くような思想は「外国の共産主義者にでも唆されないと、日本人には考え出せないものだ」というような「自虐史観的思想」など、誇りある日本人ならば持つべきではないでしょう。


年表

安藤昌益 『自然真営道』1753年頃

フランス革命 フランス人権宣言 1789年

マルクス 『資本論』 1867年

明治元年 1868年

五日市憲法の起草 1881年

植木枝盛「東洋大日本国国憲按」を起草 1881年

レーニン 労働者解放運動ペテルブルク同盟を結成 1895年

ロシア革命 1917年



13. 2018年1月03日 23:24:57 : lh1GGwoOtM : YsxGZGc1SWo[1769]
>>12の続きです。

>>9さん。おそらく、あなたの引用した記事の筆者もぞの元ネタを書いた人も、鈴木安蔵についてもハーバート・ノーマンについても前からさして知識があったわけではなく、たぶん、ググって一夜漬け程度の調べで書いてますよね?

彼等は「日本の青空」で鈴木安蔵等の憲法草案が評判になり「日本国憲法の原案は日本人が書いた」という話が広まることを阻止したかったのでしょう。

改憲右翼にとっては「日本国憲法はどこまでも『戦勝国アメリカの押しつけ』であって、日本人にも日本の伝統文化にもそぐわないもの」であってくれなければならないので、そうでないという話があっては困るからです。

だから、アメリカがダメなら、ぞのアメリカから憎まれたはずの「ソ連のスパイ」が日本人の共産主義者をそそのかして書かせたというふうに話を書き変えようとした。

要は日本人の中から出てきた「オリジナル」で無ければいいのであって「外国が押しつけた」ことになるのなら、それがアメリカからソ連に替わっても一向に構わないという・・・

随分、杜撰な話ですね。


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