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ゼロ戦のパイロットたちはなぜ「エース」と呼ばれることを嫌ったのか 大空で戦った男たちの証言(現代ビジネス)
http://www.asyura2.com/17/warb20/msg/753.html
投稿者 赤かぶ 日時 2017 年 8 月 14 日 14:47:20: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 


ゼロ戦のパイロットたちはなぜ「エース」と呼ばれることを嫌ったのか 大空で戦った男たちの証言
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52557
2017.08.14 神立 尚史  現代ビジネス


■今年は節目の年

今年の6月、千葉で行われたレッドブル・エアレースで、日本人所有の零戦が、日本人の操縦で、戦後初めて日本の空を飛んだ。アメリカ製のエンジンが搭載された復元機とはいえ、戦後72年の平和な空を、東京スカイツリーをバックに飛ぶ零戦の姿は、なかなか印象的なものだった。

零戦の前身である十二試艦上戦闘機の計画要求書案が、海軍から三菱重工業、中島飛行機両社に提示されたのは、いまからちょうど80年前の昭和12(1937)年のこと。同年、中華民国との間で支那事変(日中戦争)がはじまり、さらに戦訓による要望が追加されて、速力、航続力、運動性能、武装などあらゆる点で、当時の技術水準を超える過酷な計画要求になった。

あまりに厳しい計画要求に中島は試作を辞退、三菱一社が、当時34歳の堀越二郎技師を設計主務者として開発にあたることになった。三菱の設計チームは数々の独創的な工夫をもって海軍の期待を超える高性能な戦闘機を作り出し、この戦闘機はいまから77年前の昭和15(1940)年7月24日、海軍に制式採用され、神武紀元2600年の末尾の0をとって「零式艦上戦闘機」(略称・零戦)と名づけられた。今年は、零戦がいわば「喜寿」を迎えた節目の年にあたる。



証言 零戦 大空で戦った最後のサムライたち』は、前著『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』に続き、私が戦後50年の平成7(1995)年から22年にわたり、生存する元零戦搭乗員のインタビュー取材を続けた成果をまとめたものである。

日本海軍には「サイレントネイビー」という言葉があって、大言壮語したり、自分のことを語るのをよしとしない気風があった。多くの戦友を失い、自分が生き残ったという自責の念もあり、また、戦前の日本軍を全て「悪」と断じるかのような戦後の風潮もあいまって、ほとんどの人が戦後、自らの戦争体験については口をつぐんだままだった。

当事者が黙っているから、いきおい、市販される戦記関連本は脚色の入った、一般受けしそうなキャッチの入ったものが多くなる。零戦について言えば、昭和28(1953)年、テレビ本放送の開始とともに湧き起った力道山のプロレスブームとときを同じくして「坂井三郎空戦記録」(日本出版協同。執筆者は福林正之)が出版され、力道山が空手チョップで「ガイジン」レスラーを次々となぎ倒すかのごとく、米英機をバタバタと撃ち墜とす零戦の姿に人々は熱狂した。

それは、敗戦後、日本人が抱いてきた外国人コンプレックスを、ささやかにではあるが払拭するものだった。昭和30年代から40年代にかけ、零戦は一大ブームになり、「エース」や「撃墜王」を冠した関連本が星の数ほど出版され、少年漫画の主役にもなった。

しかし、前著『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』に登場した志賀淑雄・元少佐が私に念を押したように、

「日本海軍戦闘機隊にはエースはいない。そんな称号も制度もなかった。商売で『エース列伝』などという本を出されるのは迷惑千万」

というのが、「サイレント・ネイビー」をつらぬくほとんどの元零戦搭乗員に共通する思いだった。本のなかで「エース」呼ばわりをされて偶像に祭り上げられ、その気になってしまったごく一握りの人たちは、かつての仲間から軽蔑されたものだ。

私が取材を始めた戦後50年の節目というのは、そんな元零戦搭乗員が軒並み日本人男性の平均寿命を超え、自らの人生を振り返るとともに、なんらかの形で体験を伝え残したいという気持ちが芽生えた頃でもあった。事実、インタビューに同席した奥さんや子供が、

「お父さんの戦争体験をはじめて聞いた」

と言うこともしばしばで、偶然のタイミングながら、私の取材ではじめて重い口を開いた人が多かったのだ。これまで、零戦については多くの出版物が世に出ていて、いまさら私ができることは多くないのでは、と思っていたが、その心配はどうやら杞憂のようだった。というより、従来目にしていた情報のほとんどは、当事者の心情などそっちのけで作られたものだったということに、私は少なからず衝撃を受けた。

取材を始めて以来、これまでに会った零戦搭乗員は約300名にのぼる。その他、海軍関係者や戦没者遺族をあわせるとゆうに500名を超える人から、貴重な談話と一次資料の提供を受けた。

だが、時の流れは無情で、平成7(1995)年、全国に1100名いた元零戦搭乗員もいまや150名を切るばかりとなり、私の取材に応じてくれた人も、その多くが鬼籍に入って、これから新たにすることは事実上不可能なのだ。

となれば、彼らの生きた証を形にして残すのは、縁あってインタビューを重ねた私の責任である。

■地獄のような日々だった

『証言 零戦 大空で戦った最後のサムライたち』の登場人物は7名。いずれも零戦の戦いを語る上で忘れてはならない搭乗員である。

黒澤丈夫さん(少佐)は、昭和16年12月8日、機動部隊の真珠湾攻撃に続いて実施された、台湾の基地航空隊によるフィリピン空襲で零戦隊を率いて活躍、迎え撃つ連合軍機を圧倒し、「無敵零戦」神話の立役者の一人となった人。大戦初期、連合軍パイロットは零戦を「ゼロファイター」と呼んで怖れた。



黒澤さんは戦後、生まれ故郷の群馬県上野村村長となり、昭和60(1985)年、村内の御巣鷹の尾根に日航ジャンボ機が墜落したさい、地元村長として救難指揮をとったことでも知られる。私が取材を始めた平成7年には、全国の町村長で組織する「全国町村会」の会長をつとめ、町村合併の大きなうねりに抗うかのように、上野村と永田町を行き来して精力的な活動をしていた。平成17年、10期めの任期切れを機に、91歳で村長を引退。それでもなお、

「国の将来や人類の未来のことを憂えたり、いくつになっても年のことなど忘れて青二才でありたい」

と、心に若さを失っていなかった。いまも黒澤さんのするどい眼光と、時おり見せた人懐っこい笑顔を思い出す。

岩井勉さん(中尉)は、昭和15年9月13日、重慶上空で13機の零戦が中華民国空軍のソ連製戦闘機・ポリカルポフE15、E16(本来はИ15、И16だが、日中両軍ともこのように呼んだ)30数機と空戦、27機を撃墜(日本側記録)、空戦による損失0という一方的勝利をおさめた零戦のデビュー戦に参加した人。

「曳痕弾が、バァーッ、バァーッとまるで紙テープを投げたように大空を飛び交う」

という初空戦の回想が、まさにカラー映像を大画面で見るかのように伝わってきたのが印象的だった。



大東亜戦争(太平洋戦争)中は、おもに空母零戦隊の一員として活躍、22機もの敵機を撃墜しながら、一発の敵弾も受けることなく戦い続けた。大戦後期に教官をつとめたとき、教え子の飛行学生たちから「ゼロファイターゴッド」(零戦の神様)の異名で呼ばれていたという。

私が初めて会った76歳のときでもなお、岩井さんは、血気盛んで利かん気の、かつての戦闘機乗りの風貌を色濃く残していた。が、戦時下に結婚した奥さんの君代さんにとっては、岩井さんが零戦で戦っていた頃の記憶は忌まわしいものであったらしく、インタビューの合間に岩井さんが席を外したとき、

「戦争中は、もう地獄のような日々でした……」

とうつむき加減でつぶやいたのが心に残っている。

■捕虜になったことを恥じて

中島三教さん(飛曹長)は、どちらかと言えば華奢な体つきながら、支那事変では中華民国空軍を相手に獅子奮迅の活躍を見せ、日本海軍きっての戦闘機乗りとして知られていた人。日本舞踊の名手でもあった。ところが、ガダルカナル島への最初の出撃でエンジン不調のため不時着、現地人に騙されて米軍捕虜となり、米本土に送られ、テキサスの捕虜収容所で終戦を迎えた。

世に言う「生きて虜囚の辱めを受けず」という教えは、東条英機陸軍大臣が陸軍部内に達したものにすぎず、海軍はそれには縛られない。だが、「捕虜になる」というのは当時の日本人の一般的通念として、やはり「恥」であった。中島さんは、捕虜になったことを恥じて、戦後も長いあいだ、戦友との接触も絶っていたという。



「戦争の話はしたくない。戦争は悪い、戦争はいかん」

と繰り返す中島さんの、戦争に翻弄された人生の重みが宿っているかのような表情が忘れられない。

藤田怡與藏さん(少佐)は、真珠湾攻撃で、直属上官だった飯田房太大尉の最期を見届け、ミッドウェー海戦では母艦が撃沈されて海上を漂流し、ガダルカナル島上空でも危ういところを命拾いし、さらに硫黄島、フィリピンと、激戦地ばかりを第一線の指揮官として渡り歩いた。戦後は日本航空に入り、日本人初のボーイング747(ジャンボジェット)機長となり、パイロット人生を全うする。

「零戦とジャンボ、大きさは全然違うけど、操縦感覚には不思議に共通するものがありました」

という藤田さんの言葉には、禅問答のような奥の深さを感じたものだ。

数多くの実戦をくぐり抜けてきたせいか、人生を達観したような無欲さを感じさせる人だったが、戦時中も、亡父の遺産を投じて海軍に零戦を一機、献納したり、米軍が迫る大戦末期のフィリピンから脱出する機会を後輩に譲った、というエピソードがある。

宮崎勇さん(少尉)は、海軍に水兵として入り、練習艦の乗組員として遠洋航海に参加し、ヨーロッパに行くという、戦前の日本人、それも最下級の水兵としては稀有な経験をし、さらに揚子江の砲艦乗組という回り道をして戦闘機乗りになった。

戦時中は激しい性格で知られ、ラバウル、マーシャル、硫黄島、フィリピン、そして「紫電改」に搭乗し本土上空の邀撃戦と、すさまじい激戦を生き抜いてきたが、戦いを回顧して、

「敵機を撃墜するうち、自分もいつかはああなるのかと思い、怖くなった」

と率直な思いを吐露してくれたのが、私にとっては驚きだった。「怖くなった」と述懐した元零戦搭乗員を、宮崎さんのほかに私は知らない。歴戦の勇士の言葉だけに、ずっしりと重みのある一言だった。

■彼らが生きた証を残したい

大原亮治さん(飛曹長)は、本書の登場人物のなかで唯一存命で、私にとっての「ザ・ゼロファイター」とも呼べる人だ。搭乗員の平均寿命3ヵ月、「生きては帰れない」と言われたラバウルで一年以上、おもに指揮官の列機として戦い抜いた。なかでも、零戦隊の名指揮官として知られる宮野善治郎大尉(戦死後中佐)の三番機をつとめたことを、大原さんは生涯の誇りとしてきた。

「わが人生ソロモンにあり、宮野大尉にあり」

と、大原さんは言う。内地に還ってからは海軍の名門・横須賀海軍航空隊で新型機の実用実験などに従事、さらに本土上空でB-29や艦上機の撃墜を重ねた。戦後は海上自衛隊を経て航空振興財団に勤務。その技倆を知る何人もの人から「天才」という言葉が聞かれた、伝説の名パイロットである。

実は、大原さんが敬愛する宮野大尉は、私の母校の先輩にあたる。大原さんは、そのことを知るや、快くインタビューに応えてくれたばかりか、在日米軍や海上自衛隊のさまざまな行事にもことあるごとに声をかけてくれた。初めて会って22年、私がもっとも長い時間をともにした元零戦搭乗員が大原さんだ。

土方敏夫さん(大尉)は、戦中、豊島師範学校を卒業、小学校教員をしながら夜間大学に通っているときに海軍を志願、海軍飛行予備学生十三期生を経て零戦搭乗員になった。外の自由な空気を吸ってきた学徒出身の予備士官らしく、ほかの登場人物とは全く異なる個性が読み取れると思う。



だが、大戦末期、飛行機の質、量ともに連合軍機に太刀打ちできなくなった状況下、零戦隊の主力となったのは、土方さんのようにペンを操縦桿に持ち替えた、誇り高き「学鷲」たちだった。土方さんも、沖縄や九州上空で、まさに極限とも言える激しい戦いを経験している。それでもなお、

「大空に舞う零戦は、美しいの一語で足ります。その美しい零戦とともに全力で戦った日々は、何ものにも代えられない私たちの青春そのものでした」

と、土方さんは言う。愛機・零戦への思いは、最後まで変わることはなかった。戦後は成蹊学園中・高校教頭を勤め、安倍晋三総理の恩師でもある。

――以上、7名の零戦を駆っての戦いや、戦中戦後の人生航跡をたどっても明らかなように、一口に「零戦搭乗員」や「戦争体験者」と言っても、その経験や思いは一様ではない。前線で戦った将兵を称して「無名戦士」という言葉がよく使われるが、「無名戦士」など、実は一人もいない。

どこで戦死したかも定かでないような末端の兵隊でも、一人一人に名前があり、家族があり、恋人もいたかも知れない。それを、たとえ比喩的表現であるにしても「無名戦士」と一括りにしてしまうのは、政治やジャーナリズムの怠慢であろう。

私は、時代のうねりのなかで、戦う以外の選択肢がなく、歴史に殉じた若者たち(私にとっては祖父たちの世代だが)が生きた証を、一人でも多く残したい。そして、いまだ「証言 零戦」シリーズに登場していない多くのゼロファイターについても、続編、続々編を通じて、さらに紹介していきたいと願っている。


            
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