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日産とスバル、かつての「盟友」の分かれ道(ダイヤモンド・オンライン)
http://www.asyura2.com/18/hasan126/msg/373.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 3 月 09 日 21:53:15: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

日産とスバル、かつての「盟友」の分かれ道
http://diamond.jp/articles/-/162753
2018.3.9 佃 義夫:佃モビリティ総研代表  ダイヤモンド・オンライン



2018年2月の仏ルノー決算でのカルロス・ゴーン氏 Photo:AP/AFLO

日産とスバルは
30年以上に渡ってグループ関係にあった


 日産自動車とSUBARU(スバル)――。

 両社は、ともに昨年(2017年)秋に国内工場での完成車検査不正問題が露呈し、大量のリコールとその立て直しに追われた。奇しくもこの工場完成検査問題が起きたのは日産とスバルだけだったが、この両社は、2000年に資本提携を解消するまで30年以上に渡ってグループ関係にあった間柄なのである。

 その日産とスバルが今年3月に入り、新たな経営の方向づけについての発表を行った。

 日産は3月1日に、アライアンス連合先である仏ルノーとの機能統合を加速することを発表。これは従来のルノーとの車台やエンジンの共通化や購買調達機能の統合から大きく踏み込んで、研究開発、生産購買、品質&トータルカスタマーサティスファクション(TCS)、アフターセールス、事業開発を含む重点部門の機能統合に拡大することで、そのための複数のプロジェクトを開始するというもの。4月から三菱自動車工業も機能統合に加わる。

 この3社連合の機能統合の拡大は、日仏連合の「統合」への動きか、はたまた3社連合のトップに君臨するカルロス・ゴーン会長の「ポスト・ゴーン」を睨んだものなのかとの見方が浮上し、日産の今後の方向へ大きな関心が寄せられている。

 一方、スバルは3月2日、都内のホテルでトップ人事に関する発表記者会見を行った。スバルは6月の株主総会後の取締役会で吉永泰之社長の退任と、後任社長に中村知美専務執行役員が就任することを発表した。

 このスバルのトップ交代は、近年目覚ましい業績向上で存在感を強めてきたスバルが昨年秋の国内工場完成車検査問題でつまずき、さらに年末には燃費データ書き換えも発覚したことで経営陣の刷新に踏み切るもの。

 吉永社長の退任とともに吉永世代の近藤潤会長と日月丈志専務、笠井雅博専務が揃って退任し、7名の新任執行役員を昇格させて経営の世代交代を一気に進めることになる。

 吉永体制でのスバルは、連結売上高営業利益率をトヨタでも及ばない10%以上にキープするなど北米でのスバル車人気を勝ち取り、「選択と集中」の思い切った経営で高い評価を受けていた。だが、好事魔多しで生産・開発現場での問題発生は経営陣の世代交代を早める結果となった。

 日産とスバル、かつての“盟友”はまったく違う道を進むことになったが、ともに信頼回復と事業の正常化を求められ、さらに新たな方向を目指すことになる。

日産とルノーの機能統合は拡大?
ゴーン会長は統合の可能性を否定せず


 日産とルノーの機能統合の拡大について、ロイター電によるとカルロス・ゴーン会長は仏メディアのインタビューで提携強化のための統合はあり得るかとの問いに「してもいいのではないか」とコメント。この国際連合の統合の可能性を否定しなかったという。

 1999年のルノー・日産の資本提携以来、ルノーと日産はゴーン政権で車台やエンジンなどの部品共通化を進めてコスト競争力を高めてきた。経営資源を相互に補う連携で業務を効率化させる相乗効果に力を入れたのがゴーン流で、日産は99年から指揮を執り、ルノーでは05年からCEOとして両社のトップを続けてきた。

 これに16年10月に三菱自動車をグループに迎え入れ、3社国際連合による世界販売は独VWとトヨタに並ぶ1000万台規模にまで増えた。ゴーン氏の世界覇権の野望を果たしつつあるかに見えたのだ。

 ただ、そこには問題もありそうだ。

 今回、ルノーの取締役の改選期にあたり、仏政府はゴーンCEOの退任を求めたといわれる。一時は、ルノーのトップ交代でゴーン氏は3社連合の会長として3社をまとめる立場に変わると見られていたが、一転してルノーCEOの続投となった。

 かつて「ルノー公団」であったように、仏政府とルノーの関係は強い。とくにマクロン仏大統領は、経済大臣時代にルノー・日産連合に介入した過去があり、両社の経営一体化論者といわれる。

 実際、ルノーと日産の関係は、ルノーが日産に43.4%出資する親会社で日産はルノーに15%出資の関係(仏政府もルノーに15%出資)にあるが、生産・販売台数や業績面でも日産のほうが大きい。これに日産が三菱自に34%出資して三菱自の再建を支援する関係にある。

“緩やかな連携”で成長してきた
ルノー日産連合も一つの岐路に?


 非常に微妙な関係ながら“緩やかな連携”によって成長してきたルノー日産連合も、一つの岐路にきているのではないか。

 1999年から20年近く日産を引っ張ってきたゴーン氏も60歳を過ぎており、“ポスト・ゴーン”を睨んでゴーン氏に依存しない企業統治の枠組みも新たな方向が必要ということか。

 一方で、2017年4月にゴーン氏から禅譲の形で日産社長の座に就いたのが西川廣人氏。その年の秋に発覚した完成車検査問題で出足からつまずいた観はあるが「私の責任は、あくまでこの状態から挽回し、信頼を回復して事業を正常化させていくこと。それが私の指名でありそれにつきる」として経営責任について社長続投で責任を全うすることにしている。

 日産は、西川社長を含め役員報酬の一部を半年間返上するとともに、松元史明生産統括副社長を12月31日付けで副社長退任とし更迭。これで一連の幕引きをしたことになる。

 この問題で「ゴーン流経営のひずみがあったのではないか」、「ゴーン氏が会見に出てこないのは、おかしいのではないか」との記者会見での質問にも「ゴーン流経営が直接的に影響したのではない」「ゴーン氏に責任はない」と西川社長は答えていた。

 ゴーン氏の信頼が厚い西川社長にとって、こうした“謝罪会見”にゴーン氏が出席するのは避けたいということなのだろう。そのゴーン氏も3月9日に64歳の誕生日を迎えた。

巨大グループを転々としたスバル
吉永社長の功績は大きかった


 スバルの社長交代の発表は、完成車検査問題の責任をとっての吉永社長の引責辞任かというと、そうとも言い切れない。2011年6月に当時の富士重工業社長に就任してからこの7年、吉永体制はスバルを大きく躍進させたという多大な実績があるからだ。

 元々、富士重工は、中島飛行機を前身として技術力には定評があり、1958年から生産された軽自動車「スバル360」は軽の名車と謳われ今でも「てんとう虫」の愛称でファンクラブがある。また、四輪駆動や水平対抗エンジンなどプロ好みの技術から「スバリスト」と呼ばれるスバル車の愛好者も多い。

 しかし、その企業としての変遷には紆余曲折があった。1968年にともにメインバンクであった日本興業銀行(現みずほファイナンシャルグループ)の仲立ちで日産自動車と資本提携し、以後2000年に日産が経営不振に陥ってルノーと資本提携して富士重工と資本提携を解消するまで、実に30年以上も日産グループの位置づけにあった。

 日産や興銀から社長や役員が送り込まれる中で、富士重工は自動車事業以外の航空機・産業機器・環境技術・鉄道車両の各事業を抱える「多角事業経営体」の、文字通り“重い”会社であった。

 87年には米国生産進出に当たり、単独進出は難しいことために、いすゞと合弁でSIA(スバル・いすゞオートモーティブインク)を米インディアナ州に設立した(その後、いすゞは撤退)。

 その一方、繰り返しとなるが、資本提携先の日産が90年代後半に経営不振に陥り、仏ルノーの傘下入りしたことに伴い、2000年に富士重工との資本提携を解消。この日産出資分を米GMが買い取る形で20%を富士重工に出資し、GMグループ入りする。当時、GMグループであったスズキとも株式を持ち合う資本提携関係を取った。

 しかし、それもつかの間、05年にGMが経営悪化を理由に資本提携を解消し、今度はトヨタに出資を仰いでトヨタグループ入り(当初トヨタ出資8.7%で現在16.7%)したのである。

 つまり、スバルは時代のうねりの中で日産との長い提携関係から、2000年以降は、GMからトヨタへと、生き残りを賭けて巨大自動車メーカーのグループを転々とした経緯がある。

 こうした中で吉永体制がスタートしたのが2011年6月。リーマンショックや東日本大震災後の立て直しが求められる情勢で、スバル初の国内営業出身の社長となった吉永氏は、強い技術集団を尊重しつつ消費者がスバルに求めるニーズをブランドに結びつける取り組みを積極的に押し進めた。また、多角経営からの「選択と集中」を決断し、自動車と航空機事業に絞るとともに自動車は伝統ある軽自動車の生産から撤退させた。

 この結果、2016年に世界生産100万台を突破(2010年の65万台から102万5000台に)。1台当たり利益の向上もあり、2016年3月期の営業利益率は17.5%と業界でも最高の利益率にまで高めた。とくに北米市場でのスバル車人気を高め、世界販売の6割を占める北米事業の成功が数字を押し上げた。2017年4月に創業百周年を期してブランド名と社名を一体とする「SUBARU(スバル)」へと社名変更している。

 吉永体制によるスバルの進撃は「北米一本足打法」と言われながらも順調な流れを見せてスバルの存在感を高めてきた。だが、2017年秋に日産の国内工場の完成車検査問題が発覚した後に、スバルでもこの無資格問題が露呈し、加えて年末には燃費データの書き換えも発覚する事態となった。

 吉永社長もこの問題での2度に渡る陳謝会見は沈痛な面持ちに終始したが、誰よりも本人が社長就任から7年の最後にこうした不祥事が発覚したことに残念な思いであったであろう。

次期社長の中村氏は
吉永氏の“秘蔵っ子”


 今回、次期社長に中村知美専務を指名したことで世代交代の経営陣刷新を図るが、自らは「不正のけじめ、責任の取り方をどうあるべきか、逃げずに正しい会社にするために会長として対応していく」ことになった。

 次期社長の中村氏は、吉永社長のキャリアと似ており国内営業から経営企画を担当、直近はスバルの収益頭である米国の販売会社SOA会長を兼ねて米国駐在していた。

 いわば吉永氏の“秘蔵っ子”でもあり、吉永体制からの世代交代として“順当な人材”といえよう。

 中村次期社長は会見で「飛躍的成長を遂げた吉永体制を引き継ぐことは、この大変な時期でもあり身の引き締まる思い。次期中期経営計画の策定に当たってもスバルブランドの方向性をぶれることなく進めたい」とその抱負を語った。

 日産とスバル。かつての因縁ある自動車メーカーの2社が道を分かれ、今回新たな方向を進もうとしている。両社がこれからどう生き抜くか、注視していきたい。

(佃モビリティ総研代表 佃 義夫)



 

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コメント
 
1. 2018年3月10日 20:31:20 : UGd5uG6y2Q : _7yrpMxYnqY[24]
抜け出そう ゴーンが嵌めた 軛から

2. 2018年3月10日 22:38:24 : FRF9qiGtZo : gQJ9aZQjpOw[74]
今では信じられないことだが、1960年代に自動車メーカーの資本自由化が迫られたとき、日本の自動車メーカーが外国メーカーに対抗するために、通産省が音頭をとって自動車メーカーの集約、再編成が計画された。しかし、通産省の目論見どおりには運ばなかった。

この時に乗用車メーカーを3社に統合しようとした通産省だが、バイクから四輪に進出したばかりのホンダに対し、四輪を断念してバイクに専念せよと言って来たものだから、創業者で社長の本田宗一郎氏が激怒して、通産省に殴りこみをかけたことは、今では伝説となりつつある。

今や世界の三大メーカーの一角を占めるトヨタですら、この危機を乗り切れるか危ぶまれていた。このことから、ダイハツと日野自動車と資本提携し、販売不振に陥っていた日野自動車の乗用車部門は、自社設計モデルをやめてトヨタからの委託生産を行なうことになった。

これまた今では信じられないけれど、日産自動車は経営不振の名門、プリンス自動車を吸収合併して、日本最大の自動車メーカーになったのである。

トヨタ、日産と出揃ったところで、通産省の次のターゲットは「第三の自動車メーカー」をつくることであった。自動車業界では日本最古のメーカーのいすゞ、戦前の中島飛行機が財閥解体で分割されたものの、再結成された富士重工。同じく戦後の財閥解体で三分割されたものの、再結成された三菱重工。そこの自動車部門。それらを統合するプランである。その当時、三社の頭文字を取ってIMF構想と呼ばれた。
(註 中島飛行機が財閥解体されて、再び再結成された富士重工だが、一社だけ統合できなかったのが、プリンス自動車である。)

このIMF構想だが、同じ航空機メーカーの中島飛行機と三菱重工の確執が強く、お互い譲らないことから通産省は統合を断念したのである。そして三社はバラバラな道を歩んだ。日本最古の自動車であり、トヨタ・日産と並ぶ「御三家」と称された、名門いすゞ自動車は、アメリカのGMと資本提携した。

アメリカのフォードは、広島に本拠を構える東洋工業(マツダ)と資本提携することになり、同じくアメリカのクライスラーは、三菱重工が自動車部門を独立させた上で、三菱自動車工業を合弁企業として運営することで合意したのである。

さて富士重工であるが、プリンス自動車に続いて日産自動車と資本提携することになったのである。しかし富士重工側は、日産自動車との協力を限定的なものに留めた。富士重工の工場で日産パルサーを委託生産すること位であり、自動車の共同開発やプラットフォームの統合などは一切行なわなかったのである。

これについて、富士重工側が日産の経営介入を嫌ったためと言われている。すなわち、かつての中島飛行機の一部分であったプリンス自動車を吸収した日産自動車が、あまりにも傲慢だったのである。

日産自動車は、プリンス自動車の優れた技術を一切無視したばかりか、それを根絶してしまったのである。プリンスのG7型エンジンは、日産のL型エンジンより全ての面で優れていたにも関わらず、これを生産中止にして日産自動車のL型エンジンに統合したのである。これが後にトヨタに負ける原因の一つになるのである。

プリンス自動車はサスペンションにも凝っていたが、これを日産自動車は廃止してしまった。日産自動車としてはコスト高を嫌ったためだが、それが1970年代には最悪の結果に行き着いてしまった。かつてプリンス自動車の車種だったスカイラインの下位モデルのリアサスペンションが、よりによって板バネに格下げされたのである。これが日産離れの原因になったことは、言うまでもない。

富士重工の経営陣は、これら日産自動車のプリンスに対する仕打ちを見てきたから、日産自動車との提携も深まらなかったのである。それだけに、手を切るのも簡単だった。


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