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溝口健二 夜の女たち(松竹 1948年)
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投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 18 日 13:30:01: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 昔の日本映画は熱かった _ 溝口健二 赤線地帯 (大映 1956年) 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 13 日 19:10:41)


溝口健二 夜の女たち(松竹 1948年)

監督 溝口健二
脚本 依田義賢
原作 久板栄二郎
音楽 大沢寿人、中沢寿士とM・S・C楽団(演奏)
撮影 杉山公平
配給 松竹
公開 1948年5月26日


動画
https://www.youtube.com/watch?v=clWSupEx2CE

キャスト
大和田房子:田中絹代

君島夏子:高杉早苗

大和田久美子:角田富江

栗山謙造:永田光男

病院長:村田宏寿
ポン引きのおばさん:浦辺粂子
房子の義母・徳子:大林梅子
古着屋の女将:毛利菊江
不良学生・川北清:青山宏
純血協会の婦人:槇芙佐子
婦人ホームの院長:玉島愛造
平田修一:田中謙三
刑事甲:加藤貫一
刑事乙:加藤秀夫
アパートのおばさん:岡田和子
闇の女・安子:西川寿美
闇の女・和子:林喜美子
闇の女・竹子:滝川美津枝
不良少女:忍美代子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E3%81%AE%E5%A5%B3%E3%81%9F%E3%81%A1

▲△▽▼

夜の女たち:溝口健二の世界

溝口健二の映画「夜の女たち」は、パンパンの生態に焦点を当てた作品である。パンパンというのは、戦後に出現した新しいタイプの売春婦であり、街頭で米兵を相手に商売するものを差していったのが始まりだが、そのうち、街娼全体をさしてパンパンと言うようにもなった。溝口健二がこの作品で描いたのは、そうしたパンパンのうちでも日本人相手の街娼である。

戦後の日本に街娼が大量に出現した背景には、夫を戦争で失ったりした結果生活困窮に陥った女性たちが、やむを得ない選択として、自分の身を売ったという現実があった。この映画の主人公の女性(田中絹代)も、夫を戦争で失い、ただ一人の子どもも病気で亡くして自暴自棄に陥り、パンパンの境遇に落ちていったということになっている。田中絹代の周辺には大勢のパンパンが登場するが、彼女たちもやはり、そんな境遇なのだろうと感じさせられる。彼女たちは、戦争の最大の犠牲者なのだ。

溝口健二という映画作家は、首尾一貫して女性の生き方を描いた。彼の描く女性たちは、家族の犠牲になったり、男の食い物にされたり、あるいは身を擲って男のために尽くしても何ら報われるところがなかったりと、とにかく一方的に虐げられている立場の女性たちだった。しかし彼女らは、貧困や社会的な差別のために虐げられて、悲惨な境遇を生きるうちにも、人間としての誇りは失わなかった。彼女らには女としての意地があり、その意地を通して生きている限り、人生には意味があるはずだった。

この映画に出てくる女性たちは、ちょっと違った次元にいることを感じさせる。彼女たちパンパンには、人生が意味のあるようには見えないのだ。自分の人生であって、自分の人生ではない、自分が生きているのは、自分の一部を売ることによってだ。つまり自分はただの商品なのであり、他人から人間として扱われず、自分自身でも人間らしく感じることもない。ただただ獣のように生きているだけなのだ。若し彼女らに生きることの意味があるとすれば、それは社会に対する怨念だけだ。だから主人公の田中絹代も、「男という男に病気を移して復讐してやるんや」と口癖のように言う。彼女にとっては、社会に復讐することだけが生きる意味なのだ。

映画は、戦場から戻らぬ夫を待つ田中絹代が、着物を古着屋に売りに来るところから始まる。古着屋の婆さんは、もっと楽に金を得る方法があると絹代に持ちかける。それが売春であることを知った絹代は激しく拒絶する。いくら苦しくても、買春だけはできない。そんなことをしたら、夫へ顔向けできない。

しかし生活は苦しい。目下は夫の実家の世話になっているが、夫の弟から嫌味を言われて居心地は良くない。そのうち、夫と戦場で一緒だったという男と連絡がとれ、夫の死を聞かされる。悲しむ間もなく次には子どもが病気で死んでしまう。一人身になった絹代は、とりあえず夫のゆかりの人の世話になることにする。事実上のめかけだ。男の用意したアパートに住み、昼は男の秘書として働き、ときたま男を部屋に迎えるというわけだ。

そこへ妹(高杉早苗)が現れる。妹は外地から命からがら帰って来たのだが、実家に戻ると家は焼けてなく、両親も死んでいたと伝える。こうして、姉妹揃ってアパート暮らしを始めるのだが、旦那の男が妹の方に手を出す。それを知った絹代は、妹を激しく責める。妹は、姉さんが何もないといったから身をゆだねたと弁解する。知っていたらそんなことはしなかった、というのである。自分の体は、引き上げの途中にバラバラにされたから、いまさら惜しいとも思わないが、姉さんから男をとるつもりはなかった、ともいう。

自暴自棄になった絹代はアパートを飛び出し、ついにパンパンの境遇に落ちていく。路上に立って、男に声をかけ、兄さん一緒に遊ばへんか、と持ちかける。すげなく拒否されると、言葉を限りに男を罵る。その場面が凄惨を極める。

夫には妹が一人いるが、この妹が多少頭の足りないところがあって、家出をしたところをヤクザ者のカモにされ、金を巻き上げられたあげくに、不良女たちから身ぐるみはがされてしまう。この女は、力ずくでパンパンの世界に引きずり込まれてしまうのである。ここでも、女を食い物にするあくどい男と、邪悪な女たちの暴力とが、赤裸々に描かれている。

姉に対してやましさを感じた妹(高杉)は、姉を探して方々歩き回るうちに、パンパンたちのたまり場所になっているところに通りがかる。すると運悪く取り込みの最中で、大勢のパンパンたちと一緒にあげられてしまう。連れて行かれた先は、パンパン用の収容所だ。ここで梅毒検査をし、陽性なら治療を行い、陰性なら因果を含められて娑婆に戻っていくというわけだ。

この収容所で、姉妹は思いがけない再会をする。思いがけないついでに、妹は梅毒にかかっており、しかも妊娠しているということが明らかになる。出所した妹がそのことを男に告げると、男はすぐに堕胎しろとせまる。そうこうするうち、警察がやってくる。男がやっている麻薬の売買の証拠が挙がったというのだ。

一方、絹代のほうは自力で収容所を脱出し、パンパン稼業に戻る。しかし妹のことが気になって仕方がない。そんなところに、パンパンを対象にした社会復帰施設のあることを知り、そこで妹に出産をさせようと連れていく。ところが、妹の出産は死産に終わる。そのシーンが印象的だ。死んだ子を取り上げたものが、「生まれてこなんだほうが良かったかもしれん」と、妙な理屈で母親を慰めるのだ。

こうして絹代はパンパン稼業を更に続けることになるが、そこへ思いかけず、夫の妹が現れる。この少女もパンパンに落ちぶれていたのだが、他のパンパンたちから、挨拶がないといってリンチされかかったところを、絹代が救うのだ。ただ救うだけではない、パンパンの境遇から少女を立ち直らせようとするのだ。リンチされて恐怖に駆られている少女を抱きしめながら、もうこんなことはやめようと決心する。すると他のパンパンたちが、ただではすまぬと力む。御馳走を食わせてやるというのだ。そこで絹代は、食わせてもらいましょうと開き直り、自分から進んでリンチを受ける。その場面がえげつないほどに凄惨だ。

絹代が無残にリンチされているのを遠目に見ていた他のパンパンたちが、絹代に同情してリンチを止めに入る。そしてその隙に早く逃げろと絹代らに呼びかける。はじめから終わりまでやるせないほどに凄惨な映画のなかで、唯一人間らしさを垣間見ることのできるシーンだ。

こんなわけで、この映画は、パンパンたちの凄惨極まる生きざまを描きだしたものだ。そこには救いもないし、人間らしさを感じさせるシーンも、ただ一つを除いては全く出てこない。その一つというのが、ほかならぬパンパンたちの心の中に残っていた人間らしい感情なのであり、彼女らを取り囲む外の世界には、人間らしさを感じさせるものはない。

こうしてみると、この映画は、社会全体によって食い物にされている女がテーマだといえる。この映画以前に溝口が描いてきた女たちは、男の食い物にされたり、家族の犠牲になったりしていたわけだが、この映画に出てくる女たちは、社会そのものから捨てられてしまっているわけである。
https://movie.hix05.com/mizoguchi/mizo104.yoru.html


▲△▽▼

夜の女たち 2008年 12月 20日

昭和51年にキネマ旬報社から刊行された「日本映画監督全集」は、僕にとっては、常に身近に置いて、折に触れ繰り返し拾い読みしたくなる優れものの一冊です。

ただ、残念なことに、この本の執筆陣のなかには、その証言がやがて後世において貴重な証言となるかもしれないという認識がなく、きわめて個人的・主観的なこだわりで露骨に好悪を晒した聞き苦しい暴言のたぐいもないではありません。

そういう露悪的な私情が執拗に顔を出す部分には、ほとほと閉口させられますし、またそれがこの本を随分と読みにくくさせてしまっている一因かもしれません。

それ加えて、個々の作品に対する評価なども、公正さを欠くことが感受性の証明だ、みたいな押し付けがましい独善が気になり、思わず首を傾げたくなるものもありました。

なぜこの本の編集者は、こんな人にこの監督の評伝を執筆させたのか、おそらく過去のシガラミに捉われただけの理由で選ばれたにすぎないその人選が、はたして本当に最適だったといえるのかと釈然としない気持ちにされられることも一度や二度ではありませんでした。

これではまるで贔屓の引き倒しになってしまうではないかという感じを受けました。

例えば、溝口健二の項を例にとれば、というのは、いまでもこの項を何度も繰り返し読み込んでいる自分なので、ここに述べられている個々の作品に対する芳しからぬ評価(この評伝によるとスランプ期に撮られた溝口作品をひとまとめに駄作と切り捨てています)は、きっと読者である僕もそうした評価の影響下にあるに違いないという思いは、いままでに戦後すぐの溝口作品を見ようとしたときに感じた抵抗感を思い返せば、なんとなく思い当たります。

そして、これらの作品のそうした悪先入観を排除するためには、まずは自分の中に刷り込まれた悪印象をまず払拭してからでないと、この時期の溝口作品と真正面から対峙できないのではないかという意識が常にありました。

そういうわけで、戦後すぐに撮られた溝口健二の諸作品を見るときには、相当な恐怖感を抱いてきたと思います。

溝口健二がこの時期に撮った諸作品は、すべて駄作にすぎず(と思い込み)、ですからたとえ見るチャンスがあっても、自分の気持ちのが「たじろぎ」をどうすることもできなかったのだと思います。

その部分を「日本映画監督全集」の「溝口健二」の項のなかから抜粋してみますね。

「・・・いずれにしても、戦後のこの時期の溝口作品は、彼の周囲の人間たちが溝口健二という着せ替え人形に、あれこれと新規な衣装を選んで着せていただけの感が強い。1946年の『女性の勝利』から1949年の『わが恋は燃えぬ』までの作品群がそうだが、『夜の女たち』1948にしても戦後風俗の上っ面をなでているだけで、溝口独特の凄みがみられない。」

つまり、これら溝口作品は、「『現代』という時代を捉えることも、そして消化することもできず、世相の上っ面をなでただけの時代遅れの作品」らしいのです。

こんなふうに断定のされ方をしたら、どんなに好意的な観客も怖気づいてしまいますし、見る意欲を失ってしまうのは当然でしょう。

暴言ともいえるこうした緻密さを欠いた軽率な断定が、評論家のなすべき仕事なら、評論家とは実に愚劣な仕事だと思わざるを得ません。

ものを書くという行為が如何に難しいか、こうした論評が読者に与える影響の怖い側面を、身をもって見せ付けられた気持ちです。

しかし最近、たまたま「夜の女たち」を見る機会がありました。

実際に見て、その力強さに圧倒されました。

それはまさに、見ることを敬遠してきた自分のつまらないこだわりを嘲笑うかのような力強さでしたし、その力強さに圧倒されることによって、長年のトラウマから一挙に解き放たれた感じです。

「夜の女たち」が、《『現代』という時代を捉えることも消化することもできずに、世相の上っ面をなでただけの時代遅れの作品》などではないことをこの眼でしっかりと確認したのだと思います。

この作品には、溝口監督が、やがて出会うであろう研ぎ澄まされた「古典」の風格とか、流れるような映像美によってたたみ掛けるような途切れのない巧みな語り口という「洗練」はないにしても、しかし、だからといって、観客は卓越した技量だけに感動するわけではありませんし、抑制の効いた美しい「洗練」だけが、人を感動させるわけでもありません。

むしろ逆に、「稚拙」だからこそ率直に伝えることが出来るものもあると思います。

溝口健二の「夜の女たち」は、敗戦という過酷な時代にあって、それでも生き続けなければならなかった女たちが、身につけねばならなかった逞しさの残酷な意味とその無残な生態とを重厚なリアリズムで描き切った卓越した作品です。

いままで僕が読んできたこの作品に対する評価の多くは、おしなべて、ラストのこの田中絹代演じる房子が、この世の中と男たちを呪って絶叫する悲憤の場面を、ストーリー的にこなれていない生硬なラストだとして批判的に論じたものばかりでした。

たぶん、「現実の社会において堕ちるところまで堕ちつくした売春婦たちが、新派の愁嘆場みたいなラストにおいて、あんなふうな大芝居じみた泣き叫び方をするものか」という、つまり、その当時にあって溝口健二が最早「現代」を的確に描くことのできない既に古くさい映画監督であるという断定が、「夜の女たち」という作品を、まるで現実から取り残された骨董品のようなものとして揶揄を込めて論じられていたのだと思いますが、その裏には、同年に撮られた田村泰次郎のベストセラー小説「肉体の門」にえがかれた売春婦に対する考え方の違い(時代的風潮)が大きく反映していたからだと思います。

パンパンと呼ばれた彼女たちが、不運なめぐり合わせから肉体的堕落を余儀なくされたとしても、しかし、彼女たちは決して社会の被害者などではなく、あらゆる拘束から解き放たれ、体裁も棄て、誇り高くアグレッシブに本音で生きようとした存在として描かれ、肉体の穢れなどなにものでもないのだという描かれ方をしており、どこまでも倫理という社会的観念=「純潔思想」という旧来の価値観に捉われた悲劇的な社会抗議作品「夜の女たち」とは対極に位置する象徴として「肉体の門」はあったのだと思います。

しかし、さらに時代を経たいまとなっては、そのどちらが本当に真実に近い姿なのかは、判断の難しいところだとは思います。

しかし、ただひとついえることは、「夜の女たち」のなかで溝口健二が描いた鮮烈なリアリズムは、膨大な時間を超えて僕の気持ちに確実に届いています。

溝口の長回しに一歩も引かなかったあの田中絹代の壮絶な慟哭の演技をいつまでも映画の記憶の中に大切に仕舞っておきたいと思っています。

そんなんやったら、このまま泥沼に入れ。
こんな、来い。
生意気な。病気になって、この眼もメクラになれ。
鼻も崩れてしまえ。
骨まで腐れ。
心の底まで腐ってしまえ。
そして、カタワのバケモノの子供を産め。
そして日本中の男という男、女という女、人間という人間を目茶目茶にしてしまえ。
あほ、あほ、あほ。

画面を見ながら急いで書き止めたので正確ではないかもしれませんが、とにかく素晴らしい場面でした。
https://sentence.exblog.jp/10063020/


 

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