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ベルトルッチ ラストエンペラー The Last Emperor 1987年
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/356.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 18 日 11:46:33: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 18 日 10:37:19)

ベルトルッチ ラストエンペラー 1987年

ラストエンペラー The Last Emperor

監督 ベルナルド・ベルトルッチ
脚本 ベルナルド・ベルトルッチ マーク・ペプロー
音楽 坂本龍一 デイヴィッド・バーン 蘇聡
撮影 ヴィットリオ・ストラーロ
配給 コロンビア映画
公開 1987年11月20日


動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848058
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848416
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848887
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3849043
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850745

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850827
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850900
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851111
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851222
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851394

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851544
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851686
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851887

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キャスト

ジョン・ローン(男優) 愛新覚羅溥儀
ジョアン・チェン(女優) 婉容
ピーター・オトゥール(男優) レジナルド・ジョンストン
坂本龍一(男優) 甘粕正彦
リック・ヤング(男優) 戦犯収容所尋問官
リサ・ルー(女優) 西太后

『ラストエンペラー』(英: The Last Emperor、中: 末代皇帝、伊: L'ultimo imperatore)は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画。


溥儀の自伝『わが半生』を原作に、ベルナルド・ベルトルッチが監督、脚本を兼任した。メインキャストである溥儀の青年時以降の役は、香港生まれの中国系アメリカ人俳優のジョン・ローンが演じた。

西太后による溥儀に対する清朝皇帝指名と崩御を描く1908年からスタートし、所々に第二次世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所での尋問場面を挟みつつ、満州国の皇帝になり、退位し連合軍に抑留された後、文化大革命のさなかに一市民として死去する1967年までの出来事をメインに溥儀の人生を描く。歴史的事実には重きをおいておらず、大胆な創作が随所に盛り込まれている。

清朝及び満州国を舞台にした映画であるが、中国系アメリカ人俳優が主なキャストを占めており、主な台詞は英語であったり、独自の脚色も多い。故宮で世界初のロケーションを行われたことが公開前から大きな話題を呼んだ。観光名所として一日5万人が訪れる故宮を、中国共産党政府の全面協力により数週間借り切って撮影が行われた。色彩感覚豊かなベルトルッチの映像美は圧巻の一語に尽きると高い評価を受けた。特に故宮太和殿での即位式の荘厳、華麗なシーンは映画史に残る有名なシーンとなった。


あらすじ

1950年。第二次世界大戦の終結による満州国の崩壊と国共内戦の終結により、共産主義国である中華人民共和国の一都市となったハルビン駅の構内。5年間にわたるソビエト連邦での抑留を解かれ、中華人民共和国に送還された「戦犯」達がごった返す中で、列から外れた1人の男が洗面所で自殺を試みる。男は監視人の手により一命を取り留めるものの、薄れ行く意識の中で幼い日々の頃を思い出していた。この男こそ清朝最後の皇帝にして満州国の皇帝、紀元前以来から続く中国王朝の最期の皇帝「ラスト・エンペラー」と呼ばれた愛新覚羅溥儀その人であった。

1908年11月14日、北京。清朝第11代皇帝・光緒帝の崩御に伴い、長きに渡って清朝の最高実力者として君臨してきた西太后は溥儀を紫禁城へ呼び出す。事態を察知した溥儀の実母福晋幼蘭は、乳母アーモに溥儀を託す。物々しい様子の宮中で、溥儀は動じることなく、無邪気に「お家に帰れる?」と繰り返すばかりであった。瀕死の西太后は、溥儀を皇帝に指名して崩御する。即位式の日、家臣たちが三跪九叩頭の礼で新皇帝に拝礼する最中、溥儀はコオロギの鳴き声を追って列中を歩き回る。そして居場所を突き止めると、コオロギを入れ物ごと家臣から譲り受ける。

再び、1950年、一命を取り留めた溥儀は、中華人民共和国の戦犯として撫順の政治犯収容所(撫順戦犯管理所)に送られる。そこの所長は溥儀を助けた男だった。そこで待っていたのは「戦犯」としての自己批判の強要や要人の立場を奪われた生活習慣だった。そこで溥儀は厳しくも善良な所長相手に、孤独で不遇だった私生活を「すべては、(空虚な)儀式でしかなかった」と振り返り、過去を回想していく。

収容所では、実弟の溥傑と再会する。紫禁城を出ることが認められず、宦官ら大人にかしずかれて育った溥儀にとって、溥傑は初めて出会った同世代の子供であり、大切な存在となった。しかしながら、乳母のアーモからは依然として乳離れできず、溥傑の目を盗んでアーモの乳房に顔をうずめる。その様子を、先帝妃たちが見ていた。ある日、溥傑が皇帝しか許されないはずの黄色い衣服を着ていたことから、兄弟喧嘩となる。溥傑は「兄ちゃんは皇帝じゃない」と言い、すでに辮髪もしない洋服の新しい「皇帝」がいると話す。溥儀は皇帝である証明に、宦官に命令して墨汁を飲ませるが、溥傑は自動車に乗った袁世凱が、新たな皇帝として君臨する姿を見せる。ショックを受け、宦官らに問いただすと「紫禁城の外では皇帝ではないが、紫禁城の中では皇帝である」と説明を受ける。そしてアーモは紫禁城を追放され、溥儀は彼女を必死で追うが、会えずに終わる。アーモは乳母以上に、初恋の女性だった。

再び1950年代、収容所所長は溥儀の過去を知るため、家庭教師だったレジナルド・ジョンストンが記した『紫禁城の黄昏』[4]を開く。学生のデモで物々しい北京市街を経て、ジョンストンは紫禁城へ赴く。城内は城外と打って変わって旧態依然としており、伝統や慣習がそのまま息づいていた。10代になった溥儀は知的好奇心旺盛で、盛んに城外へ出たがっていた。ジョンストンは家庭教師として、勉強だけでなく城外の知識や常識を溥儀に与え、溥儀にとって信頼できる友人となる。1921年、溥儀の実母が逝去し、溥儀は自転車で城外へ出ようとするが、衛兵に妨げられる。さらに城外へ出ようと屋根に上った際、頭を打ち、西洋人の医師から「眼鏡をかけないと失明する」と診断される。先帝妃らや宦官は反対するが、ジョンストンは眼鏡を認めないなら、紫禁城の腐敗を新聞を通じて世界に伝えると言い返す。

眼鏡を認められた溥儀が最初に見たものは、お妃候補たちの写真であった。17歳の婉容を皇后に、12歳の文繍を淑妃(第2皇妃、側室)に選ぶ。古式ゆかしい婚礼が行われ、婉容と文繍は友情を結ぶ。彼女を古風な女だと思っていたが、実際には溥儀の理想通り、外国語が話せてダンスが踊れる「モダンな妻」であった。溥儀は2人でオックスフォードへ留学したいという夢を語り、婉容も彼を気に入り好きになりそうだと、互いに好印象を抱く。

再び1950年代、溥儀は日本と接近した経緯と理由を激しく詰問される。成長した溥儀は、もはや城外への脱出ではなく改革を志すようになっていた。その始まりは辮髪の断髪と、宦官らの不正を露呈させるための美術品目録作成であった。その夜、不安を感じた婉容は自ら溥儀の寝所を訪れる。さらに文繍も現れ、3人で仲睦まじく過ごすが、屋外では炎が燃え盛っていた。一部の宦官らが、証拠隠滅のため美術品ごと建福院に放火したのであった。溥儀は激怒し、共和国軍の支援も得て1000名以上の宦官を全て追放する。日本への接近が決定的となったのは1924年、北京政変だった。溥儀を対象としたクーデターで、溥儀ら一族は1時間以内の退去を命じられる。ついに溥儀は紫禁城を離れることとなった。ジョンストンはイギリス大使館へ連絡して庇護を求めるが、国際問題になることを恐れ受け入れず、結局溥儀に手を差し伸べたのは、同世代の天皇もおり親近感もあった大日本帝国のみだった。

日本の庇護下、天津での生活は、軍閥との交渉はあったものの、総じて楽しいものだった。溥儀と婉容は「ヘンリーとエリザベス」となり、社交界でも注目の的だった。一方、文繍は紫禁城の外では(社会的に)妻として認められず、孤独な思いから離婚を望んでいた。ダンスパーティーの最中、蒋介石の上海制圧のニュースが伝えられ、居合わせた欧米人らが拍手喝采する中、輪から外れた溥儀らに甘粕正彦が「日本公使館へお越し下さい」と誘いかける。文繍は車中で離婚の意思を告白し、混乱の中ついに出奔する。友を失った婉容の護衛のため「東洋の宝石」(Eastan Jewel)こと川島芳子が現れる。彼女は溥儀の遠縁であり、あらゆる情報に通じていた。彼女は清朝の陵墓(清東陵)が国民党により略奪されたニュースをもたらし、溥儀を激しく憤慨させる。そして芳子は、婉容にアヘンを勧める。

再び1950年代、溥儀が自発的に満州国皇帝になろうとしたか否か、激しく論争が起こる。溥儀自身は告白には「日本に誘拐された」と記したが、ジョンストンは『紫禁城の黄昏』に溥儀が望んだと記していた。そして、かつての使用人も天津出立前日に荷造りをしたと告白していた。当時、溥儀は満州国の支配者の家系に生まれた自分抜きで満州国の成立はあり得ないと考えていた。清朝復活に魅かれる溥儀に対し、婉容は慎重な姿勢を示す。所長は事実を思い出せ、と『紫禁城の黄昏』を溥儀の目の前に置く。

1934年に、溥儀はついに満州国皇帝となる。告天礼が行われた後、即位を祝う舞踏会の最中、婉容は涙を流しながら蘭の花を食べる[5]異常な様子を示す。溥儀は婉容をたしなめるが、彼女は日本の傀儡でしかない現状だけでなく何故自分を抱かないのか抗議する。溥傑の横で客人から挨拶を受ける嵯峨浩[6]を見やり、自分も彼女のように子供が欲しいと訴えるが、溥儀はアヘン中毒が理由だと説明し、訪日にも連れて行かないと告げる。宴を中座した婉容は、芳子の導きでアヘンと同性愛関係に溺れていく。

日本で歓迎を受けた溥儀が帰国すると、満州国内の様子が異様だった。国務総理大臣鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū)は息子の暗殺を機に隠棲し(=辞職に追い込まれ)、代わって軍政部大臣張景恵(Zhāng Jǐnghuì)が関東軍の推薦の元、溥儀から後任の承認を得ようとしていた。御前会議の場で、溥儀は自分のあずかり知れないところで決められていた張の首相就任を認めないばかりか、諸外国からも承認されつつある独立国として日本のみならず各国と対等な関係を築こうと話すが、関東軍の息のかかった家臣は次々に退席する。

夕食の席で、婉容は溥儀に懐妊を告げる。相手は満州人の男で、溥儀のためにもなると話す。そこへ甘粕が現れ、承認のサインをするよう迫る。溥儀は皇后の懐妊を告げ、満州国の後継者が誕生すると強気に出るが、甘粕は逆に相手の男の名を溥儀に教える。溥儀は帝室の名誉のため、傀儡となることを余儀なくされる。やがて婉容は出産するが、生まれた子はすぐ殺害され婉容は静養のため皇宮を離れる。溥儀は彼女を必死で追うが、会えずに終わる。その様子を見ていた甘粕と芳子は指を絡めあうのだった。

再び1950年代、戦犯たちに対し中国共産党視点での歴史映画が放映される。大日本帝国は満州で侵略の足場を固め、上海での無差別爆撃、南京での20万人以上の虐殺、真珠湾奇襲、そして満州における細菌戦のための人体実験にアヘン生産――満州の映像が流れたとき、溥儀は思わず立ち上がる。日本の敗戦、そして満州国の滅亡により、溥儀は溥傑の勧めにより日本への亡命を図る。出立直前、皇宮に戻った婉容と再会するが、中毒症状で変わり果てた姿の彼女はもはや会話が成立する状態ではなかった。そして亡命の途上、ソ連に捕えられたのであった。

溥儀は、共産党政府が用意したあらゆる「告白」に一転して署名を行った。1959年に特赦により収容所を出所する。文化大革命の嵐が吹き荒れようとしていた折、一介の庭師として植物園に職を得ていた溥儀は、紅衛兵のデモの中に罪人として引き回され晒し者にされているかつての収容所所長の姿を見つける。紅衛兵に話しかけ懸命に庇おうとする溥儀であったが、徒労に終わり所長は連れ去られていく。

溥儀はその足で街をさすらい、博物館として一般公開されている紫禁城へ、そしてかつては自分のものだった玉座へと赴く。そこには彼の顔も知らない博物館の守衛の子供が一人いるだけだった。玉座への立入をとがめる子供に「昔ここに住んでいた」と語る。溥儀は皇帝だった証拠として、幼い頃玉座の隅に隠し持っていたコオロギの壷を手渡す。そして子どもが目を上げたとき、そこにはもう溥儀の姿はなかった。

時代は移り、1987年(公開当時の「現在」)。歴史を直接に知らない国内外から訪れた大勢の観光客たちが紫禁城を訪れ、騒がしさの中、20年前に亡くなった過去の皇帝溥儀の玉座を眺めるのだった。

事実との相違点

史実を元に製作されているが、演出のために脚色された部分が多く史実とは違う点が複数みられる。

ソ連軍の捕虜となった溥儀が自殺未遂を起こした事実はない。
西太后が溥儀を召見したのは1908年10月20日で、崩御したのはそれから26日後の11月15日である(映画では召見中に崩御)。

西太后の崩御シーンはセットによる撮影で、実際に西太后が崩御したのは紫禁城ではなく、西苑(現在の中南海)に建てられた儀鸞殿(現・懐仁堂)内の福昌殿。龍が柱に巻き付いた内装なども美術チームの創作。

溥儀が紫禁城から城外へ出ようと屋根に上った際に頭を打ち、これをきっかけにメガネをかけるようになったのは史実ではない。

婉容が溥儀の年上に描かれているが、史実では2人とも1906年生まれの同い年。
婉容が川島芳子と同性愛関係にあったように描かれているが、このような事実はない。
ジョンストンが帰国する際、溥儀が自ら天津港まで見送った事実はない。史実では、ジョンストンが天津の溥儀寓居「静園」を訪れ暇乞いをした。

史実の嵯峨浩は溥儀の満州国皇帝即位関連行事に参列していない。即位式は1934年に挙行され、溥傑と浩の結婚は1937年。

舞踏会シーンを撮影した満州国皇宮の同徳殿は1938年竣工で、溥儀の即位当時には存在しない。

甘粕正彦が溥儀の監視役となっているが、実際この役目は吉岡安直が行っていた。
甘粕正彦が川島芳子と恋愛関係にあったように描かれているが、このような事実はない。
甘粕正彦は切腹して自決する筋書きになっていたが、これに強い違和感を持った坂本が監督を説得し、拳銃自殺に変更された。史実上の甘粕は服毒自殺した。

張景恵は麻薬取引に暗躍した実績を買われて満州国の国務院総理になったという設定だが、このような事実はない。

張景恵が戦犯刑務所内で長年の麻薬の吸引により廃人同然になったと描かれているが、このような事実はない。

溥儀より先に溥傑が戦犯刑務所より出所していたが、このことには触れられていない。
晩年の溥儀が中国人民政治協商会議全国委員を務めたことには一切触れられず、庭師として死んだことになっている。


エピソード

陳凱歌が武装解除される満州国近衛兵隊長役として、溥儀が収監されていた当時の戦犯収容所長だった金源が溥儀に特赦を知らせる共産党幹部役として、それぞれカメオ出演している。

溥儀の即位式では満洲語が用いられている。
甘粕正彦役兼音楽プロデューサーで坂本龍一[9]が参加。坂本がベルトルッチ監督から音楽についてのオファーを請けるのは、撮影が終了して半年も後のことだった。
キャストとして昭和天皇が登場する想定で撮影が進められ、来日した溥儀を東京駅ホームで出迎える大礼服姿や溥儀と対面する後ろ姿のシーンがスチール写真に残されているが、公開版、ディレクターズカット版とも登場シーンは全てカットされた。
日本での劇場公開に際しては、配給元が「溥儀が中華人民共和国の収容所で南京大虐殺の映像[10]を見せられるシーン」をベルトルッチ監督に無断でカットした。そのためベルトルッチ監督から抗議され、後にそのシーンを復活させた。


ロケ地・撮影スタジオ

綏芬河駅:溥儀の自殺未遂場面
故宮博物院:即位大典など紫禁城全般
頤和園:紫禁城内の庭園場面
北京電影制片廠:醇親王府、西太后寝所のセット
満州国皇宮同徳殿・萊椁蛛F満州国宮廷(舞踏会会場となる玄関大広間)
大連港第二埠頭船客待合所:天津港でのジョンストンとの離別場面
大連中山広場:天津の夜景(背景は旧横浜正金銀行大連支店)
チネチッタ:撫順戦犯管理所、満州国宮廷(御前会議室・皇帝執務室・大食堂)のセット
パラッツォ・デイ・コングレッシ(イタリア語版):天津のダンスパーティー会場
北海植物園:溥儀が勤務する植物園
東絨線胡同:自転車退勤場面、文革批判大会会場(※ロケ地点は国家大劇院建設地になり消失)

受賞

第60回アカデミー賞:作品賞[3]、監督賞[3]、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞[3]
第45回ゴールデン・グローブ賞:ドラマ部門作品賞、監督賞、脚本賞、作曲賞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC

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ベルトルッチか。

2人の后とベッドで戯れる…紫禁城の衛兵にダンスパーティー〜実に絢爛豪華。阿片を吸って足を舐められる婉容の絵は妖しい…ってか、いきなり収容所で自殺未遂なのだが…

ラストエンペラーが突然消えて、幼い頃の虫籠から生きたクリケットが出てくる…実にファンタジーな幕引き。

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=24562#2


ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『ラスト・エンペラー』を見た時、終わりの方で意味不明なシーンに出くわしました。

1945年8月9日、ソ連が日本に宣戦布告。8月15日、日本は無条件降伏します。ソ連軍は満州に殺到し、日本へ脱出しようとしたラストエンペラー「溥儀」は、長春の空港でソ連軍兵士に捕えられ捕虜となりました。中華人民共和国建国後、その身柄はソ連から中国に引き渡され、撫順の戦犯管理所に入れられ思想改造を施されます。10年間の収容所生活を送った後、1959年に特赦を受けた溥儀は、皇帝から一市民となり、園丁として北京植物園に勤務することになりました。 問題のシーンはここからです。

1967年、町へ出た溥儀は若者達のデモを見かけます。人民服を着た若者達は腕に赤い腕章を巻き、赤い手帳を掲げて何やらシュプレヒコールをしています。中には、毛沢東の大きな肖像画を掲げている者、赤い旗を振り回している者もいます。

行列の半ばに、白い紙で作った三角帽子を被せられ、反革命分子と書かれたゼッケンをつけて連行されている人々がいました。溥儀は、その中に撫順の収容所所長の姿を見つけます。思わず走りよって、連行している若者に

「同志よ、何かの間違いだ。彼は善良な人だよ。何をした?」

と問いかけます。周囲の若者が

「犯罪だ」
「皇帝に追従した」
「反動だ」
「罪を告白しろ」
「毛主席に礼を」


と口々に叫びながら所長を跪かせようとします。割って入った溥儀は

「この人はすばらしい教師だ。ひどい仕打ちだ。いいか、立派な先生なんだ」

と食い下がりますが、若者達に突き飛ばされて道端にうずくまりました。
http://home.catv-yokohama.ne.jp/cc/hitomi/100satu/wairudo/wairudo.htm


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歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実


「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「清朝の最盛期第六代乾隆帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=av0eVeXxSsA

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「第七代嘉慶帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6Gkih3r_LFg

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「アヘン戦争から日本の近代が始まった〜第八代道光帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Pn6mzjLpiLA

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち〜第十代同治帝・十一代光緒帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cBqwC5moJS0

皇帝たちの中国「清朝最後の皇帝溥儀」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Qn5Z3Bs_xD8

特別番組「満洲国から見た近現代史の真実」
宮脇淳子 倉山満【チャンネルくらら・4月13日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=90Py-KyxCXg


歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90++%E6%BA%80%E5%B7%9E  

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コメント
1. 中川隆[-9679] koaQ7Jey 2019年6月11日 02:25:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2780] 報告

東海アマブログ 満州国 2019年06月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-771.html


 1987年に公開された映画「ラストエンペラー」は、満州国皇帝、愛新覚羅溥儀の生涯をモチーフにしたもので、当時としては斬新で綿密な作りによって大ヒットした映画の一つだ。


『ラストエンペラー』(英: The Last Emperor、中: 末代皇帝、伊: L'ultimo imperatore)は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画。

 しかし、キャストは中国系アメリカ人ばかりで、英語が使われていたので中国人には不評であった。

 愛新覚羅溥儀は、1932年に日本軍によって建国された傀儡国家である「満州帝国皇帝」であるが、本来は、1616年にヌルハチによって建国され、1912年まで中国全土を支配した統一王朝「清」の血統を受け継ぐラストエンペラーであった。

 1616年に、女真族のヌルハチによって建国された当初は「後金」という国名を使ったが、1639年、息子のホンタイジらは、漢族からの反発を恐れて「清」を用いたようだ。
 このとき「女真」という民族名を「満州族」に改めた。

 女真族は、ツングース系(言語の系統)民族であり、モンゴル族に近く、漢族とはまったく民族が異なっていた。習俗・民俗としては騎馬民族文化であり、弁髪を中国全土に強要したことから、清朝末期の中国カンフー映画でも、ジェットリーらが扮する主人公が弁髪を結っていることが多い。
 ちなみに、この弁髪が、日本に入って武家の「月代」になったとする説がある。

 960〜1279年の宋王朝は、首都は臨安(杭州市)、純粋な漢族国家であった。
 次に中国全土の覇権を得た元帝国は1271〜1368年、首都は北京、完全なる騎馬民族であったが、女真族とは少し異なるモンゴル族である。
 次に、1368年、白蓮教徒の乱を契機に明が建国され、1644年に滅亡した。これも純粋な漢族であったようだ。
 つまり、中国王朝は、最初の統一王朝である秦以来、漢族と騎馬民族が交互に支配権を得ていて、これらは民族がまったく異なり、国家としての系譜は、完全に断絶してから再生しているので、継続的王朝とは認めがたい。

 1912年の清朝滅亡後は、孫文・袁世凱・蒋介石率いる中華民国が清朝領土の継承を主張したが、国際的に認められず、日本による支配地となった。
 これは1894年、日清戦争による戦勝によって立場が強まっていたからである。
 1931年、満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領され、その後、中華民国からの独立を宣言し、1932年の満洲国建国に至った。

 満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。
 実は、初代皇帝、愛新覚羅溥儀が東京に呼ばれ天皇に会ったとき、裕仁天皇は溥儀を「兄弟」と呼んだ。

 それは単純に「五族協和」の意味ではなく、彼ら満州族(女真族)こそ、天皇家(秦氏末裔)の先祖であり同族であることを、裕仁は知りすぎるほど知っていたことを意味している。
 それは明仁天皇による桓武天皇ゆかり発言にも含まれている。
 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/emperor/1276334343?v=pc
 
 この発言で、韓国内では「天皇は韓国人だった」との日本民族見下し論が盛り上がったが、残念ながら、李王朝が成立する前に、韓国に沿海州の渤海オロチョンや穢からエベンキ族が大量に移住することで現代韓国民族を形成していて、現在の韓国人と高句麗・百済の女真族は、まったく異なる民族である。
 むしろ北朝鮮側(高句麗)に、女真族が純粋な形で残ったともいわれる。

 日本敗戦後、皇帝の弟、溥傑や李朝の李垠・李玖兄弟たちは、日本に避難してきたが、李玖は、韓国暗殺者によって赤坂で殺害されたといわれる。
 溥傑の娘、愛新覚羅慧生は、日本で心中強要によって殺されている。
 傀儡権力の主役たちも、幸福とは言いがたい運命に翻弄されたのである。

 満州国が成立したことで、当時の日本政府は、満州地区への大規模な移民政策を始めた。昭和恐慌によって疲弊した農村部の再生を求めた国策であった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E8%92%99%E9%96%8B%E6%8B%93%E7%A7%BB%E6%B0%91

満蒙開拓団は1932年から14年間で27万人が移住した。その多くが、気象的制約から豊かでなかった東北や内陸部の寒村から集められた。
 私の住む中津川市でも、読書村(旧木曽郡坂下)開拓団が有名で、全員が、敗戦に伴って想像を絶する地獄のような苦難を経験させられた。
 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-manmou-a057.htm

 http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/asia/manmo0.htm

 満州開拓民の苦難は、主に、日本陸軍、関東軍が日本人を守ろうとせず、真っ先に逃げ出したことで、開拓民が取り残され、侵攻してきたソ連軍に蹂躙され、健康な男子は殺害され、残された婦女子も筆舌に尽くしがたい暴行迫害を受けた。
 このとき、ソ連軍は、「日露戦争の敗戦を報復する」というスローガンを与えられていたといわれる。

 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0607HisannaSaigo.html

 開拓団は、ちりじりに分散し、食料もないため、泣く泣く子供たちを先住の中国農民に預けるしかなく、「残留孤児」が大量に発生した。
 https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_57_interview.html

http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/history/Asia_is_Japanese/children_left_behind_in_China.htm

 二反長音蔵のこと

 満州国を語る上で、重要な核心人物が数名いる。
 まずは、満州国建国に奔走した石原莞爾。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE

 そして里見甫・岸信介・二反長音蔵という阿片王トリオである。

 台湾総督府の児玉源太郎と後藤新平は、表向き、台湾から阿片を撲滅するという「阿片暫禁政策」を公布したが、その本当の狙いは、台湾の富裕層に独占的に阿片を供給して利益を吸い上げるというもので、それが第二次世界大戦終結まで、日本陸軍による資金獲得の一つの柱となっていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE

 満州国が成立して、茨木市の二反長音蔵(川端音二郎)が台湾で阿片栽培を指導し、大規模なケシ畑を作って、工業的に阿片生成を始めたのは、1800年代末で、やがてモルヒネ含有量が、ついに35%という驚くべき優秀品を作りだ出していた。
 当時の阿片は、インド阿片でモルヒネ含有量6%、イランものが9〜11%、トルコものが10%から14.5%だったから、超優秀な麻薬生産に成功していた。
 この阿片は、星製薬(星新一の実家)が一手に精製利権を得た。
  https://tanken.com/hoshi.html

 やがて二反長は、成立したばかりの満州国に派遣され、ここにも巨大なケシ畑を作り、世界最高のモルヒネを精製した。
 このケシ畑は、北朝鮮奥地にも作られ、日本敗戦後に、北朝鮮政権に引き継がれたといわれる。

 麻薬販売の目的は、後藤新平が画策した、台湾・満州・朝鮮の植民地住民に高価な麻薬を耽溺させることで現地の富を吸い上げて、日本帝国主義拡大の資金源とするというものであった。

 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 このとき、阿片の栽培、精製、販売の総元締となっていたのが、「麻薬王・里見甫」であり、彼は上海に居住して、中国民衆に麻薬を売りつけてぼろ儲けする中心人物であった。
 朝鮮では、この仕事を、安倍晋三の祖父である岸信介が行った。

 里見甫は、阿片精製を北京の通州で工業的に行おうとし、主に、日本人婦女を使って阿片やヘロインの精製を行っていたが、ここは、中国の古い麻薬シンジケートであった青幇・紅幇の縄張りであり、自分たちの利権を侵されることに憤った中国麻薬シンジケートの大規模な襲撃を受けて日本人大虐殺が起きた。これを通州事件と呼んでいる。
 虐殺の主役だった、冀東防共自治政府 保安隊を偽情報で焚きつけたのは、蒋介石らの南京政府だったともいわれる。当時、蒋介石は青幇の頭目でもあった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

  https://togetter.com/li/806302

 通州事件における日本人婦女の虐殺に怒った日本軍は、その後、中国における軍事侵攻が凶暴化し、南京に侵攻してからは、報復的に現地住民の大虐殺を行ったといわれている。
 https://ameblo.jp/2530beautymedalist/entry-12244703722.html

 敗戦後、満州国に残された巨大な二反長ケシ畑は、おそらく満州と北朝鮮に跨がったものだったと思われるが、北朝鮮側は金日成政権が管理して資金源に充てた。
 満州側は、中国共産党に引き継がれ、つい数年前にも、東北省の辺境で世界最大級のケシ畑が、グーグルアースによって発見されたとの報道があったが、その後、中国政府はグーグルに圧力をかけ、徹底的に隠蔽している。
 おそらく旧満州阿片も中国共産党の資金源にされているとみて間違いないだろう。

 朝鮮総督府では、岸信介赴任後に「昭和通商」という武器麻薬密売企業が作られ、岸信介が、里見甫の指導を受けて活動した。
 これも、もちろん朝鮮民衆を麻薬漬けにして、資金を吸い上げ大日本帝国の拡大資金に充てるものだった。当時の、日本には麻薬販売以外、主立った金になる産業を持っていなかったのである。
 もう一度書くが、後藤新平・二反長音蔵・里見甫・岸信介が、戦前の大日本帝国の最大級の資金源となった麻薬販売の仕掛け人である。

 本当にひどい目に遭って馬鹿を見たのは、満蒙開拓のバラ色の未来を聞かされて、貧しい内陸部の寒村から満州に移民して、命からがら逃げ帰った人々で、27万人中、戦争に巻き込まれて死んだ人々が三万人、病気と飢えで死んだ人が21万人と、生き残って日本に帰還できたのは数万人しかいなかった。
 読書開拓団の人々は、帰還してみたら、自分の故郷がダム湖の下に沈んでいるという残酷な現実をも味わうことになった。
 それは、全国で起きていた。

https://www.sankei.com/life/news/170815/lif1708150012-n1.html

  http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/asia/manmo0.htm

 戦前、「昭和恐慌」というニューデール大恐慌による派生恐慌が起きていて、世界はブロック経済に進み、有効な経済ブロックを持たない日本は、東アジア全土を支配下に置いて、日本ブロックを作る目的で、帝国主義侵略を開始したのだが、その最大の失敗例が満州国だったといってもよい。
 そもそも、健全な生産手段を放棄して、麻薬による権益を確立しようとした日本政府が、まともな農業国を生み出せるはずがなかったのだ。

 満州国は、日本人のうちでも、秦氏末裔、天皇家や武家子孫など騎馬民族の末裔たちの先祖地であり、女真族(満州族)は、日本人と同族といってもよいほどだ。
 あまりにも日本人と同じなので、満蒙開拓団が子供たちを現地に置き去りにせざるを得ないよう追い込まれても、現地の満州族は、まったく同じ形質を持った日本人の子供たちを違和感なく育てることができたのである。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-771.html


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