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バルトークの家系と出自 _ バルトークは作品ごとにマジャール人、スラヴ人、ルーマニア人、ジプシーが顔を出す
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/807.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 17 日 17:08:16: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3 _ 何故この曲だけこんなに人気が有るのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 19 日 08:01:40)

バルトークの家系と出自 _ バルトークは作品ごとにマジャール人、スラヴ人、ルーマニア人、ジプシーが顔を出す


バルトーク「ルーマニア民俗舞曲」Sz.56
2019 MAR 20 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2019/03/20/バルトーク「ルーマニア民俗舞曲」sz-56/



バルトークの家系と出自に関心を持ったのは理由があります。彼の音楽の多面性、つかみどころのなさは彼の血のせいではないか?と思ったのです。同じことはラヴェルにもあって、彼の母親はバスク人ですが、スペイン情緒への傾斜(ボレロ、スペイン狂詩曲など)がその影響であろうことは定説になっています。母親の出自に関心と愛情をいだくのは人間として自然でしょう。


僕自身、出身は?と問われれば東京と答えますが、祖父母の出身地は母方が長野県、長崎県、父方が石川県、東京都とばらつきがあります。さらにその先祖は京都、山梨県です。場所だけでなく身分も農民、漁民、戦国武将、公家と雑多です。自分はそのどれかではないがどれでもある。アイデンティティというものを意識すると不安定です。60になって、自分の社会的人格は捨てよう、我に忠実に生きようと努力してますが、では我はどこにいるのかとなる。知らなければよかったと思うこともあります。原住民以外は全員が移民であるアメリカという国家はルーツを話題にしない不文律がある。姓で見当はつくので口にしてしまうと会話は止まります。止まらなかったのはピルグリム・ファーザーズの子孫という女の子だけでした。


バルトークの精神の深層におそらくあったアイデンティティの複雑さの投影が気になってしまう理由はそこにあります。


父方はハンガリー下級貴族ですがその母(彼の祖母)はセルビア地区の南スラヴ少数民族です。


お母さんはドイツ系ですがスロヴァキア出身。そして彼が生まれ落ちたのは当時ハンガリー王国の一部ですが現在はルーマ二アの土地だった。


国民国家である日本で育つと理解しづらいですが、国家と民族はちがいます。歴史的にはそれが普通であり、バルトークを単純にハンガリーの作曲家と見るのはほとんど適切でないでしょう。


出身県DNAや血液型占いは信じてませんが、僕はイメージとして仕事は九州人の気宇壮大さを大事に、学習は細かく根気よく北陸人的、趣味はどっちでもなく京都人ということで生きてきた気がします。何々人と言っても多様で、詰まるところその先祖の個性という味気ない結論になりそうですが、例えば証券業という仕事を選んでみると、そこでうまく生存するには自分の中に九州っぽい部分があって、それが自然に優位に働いた。そういうことだと思います。


バルトークも作品ごとにマジャール人、スラヴ人、ルーマニア人、ジプシーが顔を出し、地域を征服・支配したオスマン・トルコが混ざっていておかしくない、だから数学者だったり残忍、野蛮だったりするのだろうと考えるのです。


子どもの頃に聞きなじんだ音楽の記憶は消えません。僕にとっては赤子の頃に四六時中、耳元で鳴っていた親父のSPレコードがそれで、チゴイネルワイゼンは3才で諳んじてました。バルトークが幼少にそういう風に諳んじてしまった音楽がどういうものか、起源をたどるのも一興です。


曲は「ルーマニア民俗舞曲」Sz.56です。この曲に僕は並々ならぬ愛着を持っています。まず、バルトーク自身のピアノでお聴き下さい。


Béla Bartók at the piano Rumanian Folk Dances


次にハンガリー出身のリリー・クラウス女史で。


次にフランス出身のエレーヌ・グリモー女史で。


いかがでしょう?バルトーク、クラウスはフレーズが伸縮し音価どおりではないです(後者の方が振幅が大きい)。グリモーは楽譜から読んだという感じがする(非常に洗練されて魅力的ですが)。バルトークは古老たちの歌を耳で聞いてそれを音符に置き換えたわけですが、当然、記号化には限界があります。例えば日本民謡や演歌のこぶしを五線譜に書けるか?ということです。


この6つの小品の元ネタの故郷が「ルーマニア」だと作曲者が断じているかのような命名ですが、そうではなく、ヴァイオリンと羊飼いのフルートによるトランシルバニア地方の民謡です。発表時のタイトルは Romanian Folk Dances from Hungary という妙なものでした。1914年に隣国でサラエボ事件が勃発しこの曲は動乱のさなか1915年に書かれたからですが、それを契機に始まった第1次世界大戦でハンガリーとルーマニアは敵国同士になったのです。ハンガリー平原がオーストリア、オスマン両帝国のぶつかりあう最前線であった歴史が事情を複雑にしています。


トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、後にハプスブルク家領となりました。ところが1526年にオスマン帝国の属国となり、トランシルヴァニア公国として現代ハンガリーの国民的英雄であるラーコーツィ・フェレンツ2世が君主を務めた。だからハンガリーには大事なところなのです。ついに大トルコ戦争でオスマンを追い出し、18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となったのに、第1次世界大戦で今度はルーマニア領になってしまった(1918年)。そこで from Hungary が削られたのです。


バルトークの生地は広域のトランシルヴァニアに含まれますので、彼にとっても重要な地、心の故郷でした。支配者オスマン・トルコがこの地へ残したものとバルトークは関りがあったのか?大いにありました。彼はトルコで多くの民謡を録音、採譜しています。これがそのひとつです。


On the road she set up her spinning wheel -Erotic song


「ルーマニア民俗舞曲」の第3、4曲のメロディーにあるアラブ音楽の影は明白です。これはロシア人のリムスキー・コルサコフやフランス人のラヴェルが異国(東洋)情緒を出す目的で入れたようなものではなく、バルトークにおいては「おふくろの味」であった、それは想像の域を出ませんが、僕はそう信じております。


バルトークが聴いた「ルーマニア民俗舞曲」はこんなものだったかもしれません。フィドル2丁とコントラバス、濃いですねえ。縦笛の妖しい調べ・・・何とも言えません。それをオーケストラに落とすとなんて近代的な音になることか。終曲のノリはまるでロック・コンサート、聴衆も体をゆすって目はエクスタシーだ、弦チェレやオケコンの終曲のルーツを感じませんか?


Muzsikás - Bota and Invertita / Bartók - Romanian Folk Dances with Danubia Orchestra


それだけじゃない、僕はこの曲にいつもリムスキー・コルサコフ「シェラザード」を思い出すのです。西洋人がイメージしたオリエンタルはこういうものか。特に第4曲(Bucsumí tánc)の和声がそうですね(ボロディン風でもある)、この曲はそのままシェラザードに入れて違和感はありません。そして終曲の強烈なアッチェレランド、これ、そのものです。


次はシナゴーグ(ユダヤ教会)でのジプシー楽団(ライコ・オーケストラ)による民族色たっぷり、むんむんの演奏です。ジプシーの子供のオーケストラで16才までにチゴイネルワイゼン級のヴィルティオーゾの技を身につけた子だけが残れるそうです。お立ち台の子はまるでヨハン・シュトラウスと思いませんか。彼の一家はユダヤ系ハンガリー人の血を引いているといわれますが、なるほどと思わせられる写真です。


https://sonarmc.com/wordpress/site01/2019/03/20/バルトーク「ルーマニア民俗舞曲」sz-56/rajkozenekar1-1/


このオーケストラでは楽譜を使わず、先生が指を見せて覚えせさせるそうです。そうすればもちろん暗譜になって、音楽が目と頭ではなく体にしみこむという考えのメソッドです。そのメソッド、僕は音楽の正道と思います。


Béla Bartók Rumanian folk Dances(The Rajko orchestra)


次に、このヴァージョンを是非ご覧ください。クラシック音楽って何なんだっけ???皆さんの頭に革命が起きます。


渡米後のバルトークは「ハンガリーの納屋のワラ一本」に彼は「一つのよい薫り――それは音に成ろうとしているのだ」と語っています。


Taraf de Haïdouks - "Romanian Folk Dances"


最後に、バルトークがフィールド・スタディでエジソン・シリンダーに録音にしたもの(Musicology of the Research Centre for the Humanities of the Hungarian Academy of Science)。


Bartók field recordings Romanian Folk Dances



https://sonarmc.com/wordpress/site01/2019/03/20/バルトーク「ルーマニア民俗舞曲」sz-56/
 

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コメント
1. 中川隆[-14413] koaQ7Jey 2020年1月17日 17:46:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1327] 報告
空気が全然読めないオカルト趣味の変人だったベラ・バルトーク


吉松隆 バルトークに関するバトルトーク
(1995年6月 レコード芸術 バルトーク特集号)
http://yoshim.music.coocan.jp/~data/BOOKS/Thesis/bartok01.html


Bartok - Bluebeard's Castle - Boulez - Norman - Fried - Paris 2006



Bartok Der wunderbare Mandarin - Boulez Wiener Philharmoniker (1992 Movie Live)




Bartok Concerto for Piano no. 2, Sz. 95 (Anda, Fricsay, RSO)





◆PART1:バルトーク、理知的に思考するオカルト世界

 ◆吉松隆の左脳(談)「バルトークの音楽について考えると、いつも右脳と左脳とのバトル・トークになるんですよね。

 どうしてかと言うと、この人の音楽って多面体なんですよ。知的で晦渋だと思ってると結構明るくて脳天気だし、真面目一辺倒かと思ってると意外に皮肉屋で遊び心がある。根底にあるのは祖国ハンガリーの土着の民族音楽なんですけど、それにR=シュトラウスやドビュッシーの近代和声とストラヴィンスキーの原始主義的リズムの味付けが加わり、さらにシェーンベルクの十二音に対抗するかのような知的作曲法がその上にかぶさってる。

 この、まるっきり異質で本来は混じり合いっこない素材3つに固執した挙げ句の個性こそが、バルトークの面白さであり、わけの分からなさなんですよね。

 それに、この人、語法が民族的と純粋思考的との間を揺れているわりには、文学的には結構オカルト趣味なんじゃないかなあ。え?理工系知性を振りかざしながら意外にオカルト趣味なのは、何か最近話題の某宗教団体を思わせる?。あ、そういえばそうですね。あれって、根底に日本の土着の仏教的な修業を置きながら、キリスト教的な終末思想の味付けを施し、その上に一見科学的な軍事思考をかぶせていますもんね。しかも、その基本はオカルト趣味。あらら、なんかソックりですね。うーん。もしかしたらバルトークって意外と世紀末なのかも知れないな。

 でも、人工的なハルマゲドン作り出そうとした挙げ句テレビや新聞でクソミソに叩かれるよりは、難解な現代音楽作曲して自滅した挙げ句死後50年たって音楽雑誌で小さな特集記事にされるほうがナンボかマシですよね。え?そうでもないって?
 で、空中浮遊するわけでも終末予言をするわけでもないバルトークのどこがオカルトなのか、というと、まずは「不思議なマンダリン」(中国の不思議な役人...という誤訳で知られているが...)がいい例ですね。これなんか、完全に世紀末的オカルト。サイバーパンク的な汚い都市の片隅で売春をやっている少女がいて、その少女とヒモをやってるチンピラたちの前にわけの分からない東洋人が客として現れるっていう設定がまず大友克洋してる。しかもこの東洋人、チンピラたちにナイフで刺されても死なないで少女に抱きつき、挙げ句に天上から吊るされると青白く光り出すっていうんだから凄い。

 それに、唯一のオペラである「青ヒゲ公の城」だって、陰惨なく暗い城に住んでて妻を次から次へと殺してしまう男が主人公でしょ。基本的には「愛」の話だけれど、舞台はどう見てもベル・ルゴシ主演の「ドラキュラ」を思わせるようなゴシック・ホラーの世界。それもそのはず、ドラキュラ伯爵の住むトランシルバニアは彼の生家の近くなんですよね。

それから、そうそう、「シャイニング」って映画見ました?。ええ、ジャック・ニコルソンが雪で外界から隔絶された冬山のホテルで狂ってゆくホラー映画。もっとも、彼の顔は最初から怖いですけど。それはともかく、あれにバルトーク先生の「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」のアダージョ楽章が使われてて、これが結構怖い。
 
  ほかにも、狼男的なバーバリズムが出てくるアレグロ・バルバロ部分もバルトークの魅力ですね。「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」とか「ピアノ協奏曲第2番」なんかでピアノを打楽器として荒々しく扱う力学的なところとか。そう。「不思議なマンダリン」にもありますよね。

つまり、オカルトにも神秘的で静的なオカルトと攻撃的で動的なオカルトがあるわけですよ。それを共生させているのがバルトークの音楽っていうわけなんですけど、え?それも某宗教団体と似てるって?。うーん。    
 

 ◆吉松隆の右脳(記)「ともすると悪名高い難解な現代音楽の一種だと考えられがちなバルトークの音楽だが、実はここだけの話、本当に難解なのである。(おいおい)

 知ってる人は知ってても知らない人は知らないだろうが、傑作と呼び声の高い「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」や「2台のピアノと打楽器のための音楽」などは、なんと主題や変奏や展開の長さが黄金分割やフィボナッチ数列に基づいて構成されているのだ、まいったか。(ちょっと、ちょっと)

 ちなみにこの黄金分割とは、1本の線を長・短2つに分割した時、その長と短の比率が、全体と長の比率と一致するような分割比。式にすると、1:X=X:(1-X)で、具体的には1:0.618。もひとつのフィボナッチ数列とは、各項が先行する2つの数字の和に等しいような数列。例えば、2、3、5、8、13、21、34、55...なわけである、驚いたか。(こらこら。しちめんどくさい数式はやめなさいって!)

 しかも、メロディやハーモニーあるいはリズムを生み出すシステムも、この黄金分割やフィボナッチ数列を元に組み立てられた音列や旋法に基づいているのだから凄い。例えば前記の2、3、5、8、13というフィボナッチ数列からは、2半音(長2度)、3半音(短3度)、5半音(完全4度)、8半音(短6度)、13半音(増8度)という音列と和音が得られ、これを♪単位でリズムに応用すれば、2拍(♪)、3拍(♪)、5拍(♪♪)、8拍(♪)13拍(♪♪♪)と言うリズムが得られる。これをヴァイオリン協奏曲だの弦楽四重奏曲だので駆使しているわけである。さあ、頭痛くなったでしょ?。(なった。なった)

 つまり、このバルトーク先生、調性を完全に壊してしまうシェーンベルクの十二音主義に対して、和声感(ドミナント機能)を温存する「中心軸システムによる十二音主義」とでも呼ぶべき独自の語法を打ち立て、後のウェーベルンらによる全面セリー音楽(音の高さ、長さ、強さをすべて数的処理で決定する作曲法)と呼応すらしているのだ。いやはや、困ったものだよ本屋のネズミ、知識はあるけど食うものない、ときた。(ちょっと、ちょっと。あんた、酒飲んでこの原稿書いてません?)

しかし!。しかしである。にもかかわらず、バルトークのサウンドは凡百の頭デッカチの数字コネクリ型ゲンダイオンガクとは決定的に違うのである。(ほお...)
 それは、バルトークが若いころ祖国ハンガリーからルーマニアに至る東欧の民謡を採譜収集し、ヨーロッパの中にあって東洋的な風味を持ついわゆる5音音階の音楽を体に染み込ませていることが最大の原因だったりする。

 この人間の音楽の素朴にして原初的な基盤と言うべき5音音階の熟知ゆえに、機能和声の臨界に達すると同時にそれを根底から解体することしか頭に浮かばなかったオーストリア=ドイツ系の作曲家に対して、バルトークは「人間の聴覚上の性質から生まれた旋法=5音音階」と「音の物理学上の性質(自然倍音)から生まれた旋法=全音音階・半音階」の両面に新しい知的処理を施す可能性を見い出し、それを実践しえたのである。

 バルトークの音楽が、シェーンベルク一派のような純粋知性思考の偏重による袋小路に陥らなかったのは、そんな理由があったりするのである。

 (ま、要するに、「体で感じる音楽」と「頭で考える音楽」とを一応両方持ってたってわけでしょ?。でも、それって音楽やる人間ならあたりまえのことじゃないの?)

 うーん。そう言われるとそうだなあ。 


◆PART2:私はどうやってバルトークになったか?

「第1部:ハンガリー(疾風怒涛)篇」

 ◆吉松隆の左脳(記)「東欧ハンガリーが生んだ最大の作曲家の一人であるベラ・バルトークが生まれた1881年という年は、同じくハンガリー出身のリストが70歳でヨーロッパ楽壇にまだ君臨していて、ワグナー68歳、ブルックナー57歳、ブラームス48歳でまだ現役という時代。

 当時は、オーストリア皇帝がハンガリーの君主を共有するという「オーストリア=ハンガリー二重帝国」だったころ。この奇妙な形態の国家は、1848年にハンガリー独立運動が失敗した後の1867年に誕生し、二重帝国の皇太子がサラエボで暗殺されて第一次世界大戦が勃発するまで続いている。

 18歳でブダペスト音楽院のピアノ科と作曲科に入学したバルトークは、まずピアノで頭角を表わし、当時最先鋭のR=シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」や「英雄の生涯」などの交響詩をバンバン弾きまくっていたようで、これらを規範にしてオーケストラ作品を書き始める。

 その結果生まれた最初のオーケストラ作品が、前記のハンガリー独立運動の英雄コシュートを描いた交響詩「コシュート」。1903年22歳の時に発表されたこの扇動的なテーマの作品は、バルトークの民族主義者としての原点と言える。(このあたりはフィンランドのシベリウスが「クレルヴォ交響曲」や「フィンランディア」を書いた背景によく似ている)
 
  その後、自作の「ラプソディ」を引っ提げてパリのルビンシュタイン・コンクールに参加するが、選外。しかし、この時に知ったドビュッシーやラヴェルの音楽がバルトークに新たな和声感覚と色彩を与えることになる。

帰国後は同年代のコダーイ(組曲「ハーリ・ヤーノシュ」などで有名)と共に民謡収集の旅に出て、ハンガリーからルーマニア(あのドラキュラで有名なトランシルバニアも)を経て北アフリカまで回り、ロシアからブルガリアさらにはトルコやアラブの音楽までをも体系化するライフ・ワークともいえる民謡研究に没頭することになる。 
 
  1914年に第一次世界大戦が起こったころバルトークは、ブダペストのリスト音楽院の教授で33歳。オーストリア=ドイツ系音楽への嫌悪からフランス近代音楽風の作風を取り込んだ彼は、さらにパリで爆発的大ヒットとなったストラヴィンスキーの影響を受け、神秘的な寓話オペラとでもいうべき「青ひげ公の城」、木彫りの人形の王子が主人公の伽話的バレエ「木彫りの王子」、そして世紀末オカルト的ですらある問題作「不思議なマンダリン」という舞台作3部作を書き上げる。(ちなみに「青ひげ」「木彫り王子」「マンダリン」は、そのまま「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」に対応する)。

 そして1918年に二重帝国側は敗戦し、ハンガリーは共和国として独立する。30代後半にさしかかったバルトークの名は国際的に知られるようになっていて、この1920年代から30年代には「舞踏組曲」や「ピアノ協奏曲第1〜2番」、名作「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」や「2台のピアノと打楽器のための音楽」「弦楽四重奏曲第3〜4番」など多くの名作が生まれ、ピアニストとして世界各地へ演奏旅行に出かけるなど充実した音楽活動を展開している。

 ただしこの時期のハンガリーは、戦後の共和国時代にソヴィエトが介入し、1920年代には摂政ホルティによる反共産主義体制、30年代には右翼急進派のゲムベシュによるナチス・ドイツ寄りのファシズム政権と、音楽的自由人であるバルトークをイライラさせる政治状況だったようで、彼は何度となく政府と摩擦を起こしている。

 そして、1939年9月、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、バルトークはついにプッツンして亡命を決意。翌1940年10月にピアニストである妻ディッダと共にお別れコンサートを開き、最期の地となるアメリカに亡命することになるのである。


「第2部:アメリカ(七転八倒)篇」

 ◆吉松隆の右脳(談)「で、アメリカに渡ってからのバルトークの生活はというと、これがなかなか怖いんですよね。

 この時期に第二次世界大戦の戦禍を恐れてアメリカに亡命してきている作曲家としては、ハリウッドの豪邸住まいのストラヴィンスキーや、ロサンジェルスで作曲の教授を始めたシェーンベルクなどがいるわけですけど、バルトークはストラヴィンスキーほどヒット曲メイカーではなく、シェーンベルクほど理論家に徹することも出来ない。有名ではあるけどその作品がそんなに上演されるわけでもない、という中途半端な位置に放り出されてしまったわけです。
 
 有名な現代の作曲家であることは知っているが、その音楽は難解で分かりにくく聞きやすいわけでもない、という評価はそのころのアメリカの聴衆の大多数の意見だったようで(それは今でもあまり変わっていないかも知れませんけど)、そういう反応についてもバルトークも結構落ち込んだようですね。「私がアメリカで名を成すには何十代も後までかかりそうだ」と、彼はそのころつぶやいています。

 で、ニューヨークの狭いアパート暮らしを余儀なくされ、自作のコンサートもなければ作品の委嘱もなく、祖国ハンガリーからの年金もヨーロッパからの出版印税や演奏使用料なんかの入金も途絶え、しかも体調を崩して(それは後に彼の生命を奪う白血病だったのですが)しまうという泥沼に陥ってしまうわけです。

 古くはカーネギー・ホールのこけら落としを飾ったチャイコフスキーとか、新設の音楽院の学長として異例の好条件で招聘されたドヴォルザーク、メトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルの指揮者として腕を振るったマーラー、などといった作曲家たちに比べると、まあ、戦争中だったから仕方ないといえば仕方ないんですが、不遇だったとしかいいようがないですね。
 
   そんな中で、1943年にクーセヴィツキー財団からオーケストラ曲の作曲依頼を受けます。頼んだ方としては作曲依頼にかこつけた金銭援助だったようですが、異国の地でようやく受けた作曲依頼に喜んだバルトークは、その夏に一気に全5楽章からなる「管弦楽のための協奏曲」という名作を書き下ろすわけです。
 この曲の中に前年7月に全米で放送されたショスタコーヴィチの「レニングラード交響曲」のパロディが出てくるのがケッサクなんですが、自分を受け入れてくれないアメリカでまだ30代のソヴィエトのチンピラ作曲家(とバルトークには見えたことでありましょう)の書いた陳腐な戦争交響曲がもてはやされることに、よっぽど悪い印象を持ったんでしょうね。

 この曲、初演したクーセヴィツキが「この50年で書かれた最高の作品」と絶賛したという話が有名ですが、「彼はショスタコーヴィチの曲を演奏した後でも同じことを言っていたから、割り引いて聞かないとね」とバルトークは皮肉ってます。

  で、1944年11月にメニューインが委嘱した「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」が初演され、12月に「管弦楽のための協奏曲」が大好評のうちに初演されて、ようやくバルトークにも運が向いてくるわけです。

 そしてその後、いくつかの大作を構想し作曲に没頭し始めるんですが、アメリカに渡って以来一進一退を繰り返してきた病状の方も悪くなり、日米戦争が終わってこれからという1945年9月26日に死んでしまい、後には妻のディッダによせる「ピアノ協奏曲第3番」と、スケッチのみの「ヴィオラ協奏曲」が残されました。
 これってなんか、地味ながら感動的な映画になりそうな気がしません?

◆Part3:モダンとエスノ/音楽史の中のバルトーク

◇モダンとしてのバルトーク

◆吉松隆の左脳(記) 「バルトークは現代音楽なんですか?」と聞かれたら、「とんでもない!」と答えて正解である。しかし、「じゃあクラシックなんですか?」と聞かれて、「はい!」と即答は出来そうにない。さて、バルトークはモダンなのだろうか?それともクラシックなのだろうか?

 ここで「どちらでもいいじゃないの!」と言い切れる人がいたら羨ましい。そういう方ばかりなら、こんな原稿書いてクドクドとバルトーク先生の音楽を解説しなくてもいいわけだし、私の中の振り切れてしまっている右と左の脳をバトルさせなくてもいいのである。しかし、例えばこれからお付き合いするBさんの宗教が「カトリック」なのか「真言宗」なのか「オウム真理教」なのか、あなた気になりません?本当に「どちらでもいい」と言い切れます?(あのう、ちょっと強引な誘導尋問のような気が....)

 なにしろ西欧クラシック音楽は、20世紀に入ってモダンの時代に突入し、様々な画期的語法を開発し表現手段を著しく拡大したものの、残念ながらそれとともに聴衆の支持を失ってしまった。しかも、20世紀初頭にデビューして第2次大戦の終戦直後(1945年)に亡くなったバルトークは、まずいことにまさにその時代の人。まさに「音楽」なのか「現代音楽」なのかよく分からない境界線にいるのだから困ってしまうのである。

     *

 ところでこの時期、私の独断の持論でいうと西欧音楽は3つの分岐点を持っていたことになっている。1つは19世紀末にドビュッシーが開拓した近代和声という名の非機能和声。2つめは1910年代にストラヴィンスキーが偶然手にしたリズムの素材化。そして3つめが1920年代にシェーンベルクが開発した12音主義という名の調性の解体である。

 そして、1つめはコード進行という発想に転化されてジャズ理論の基礎となり、2つめはビートが最優先になる現代のロックの始祖となり、3つめはいわゆる現代音楽や前衛音楽の元祖となったわけである。(しっかし、もの凄い独断の持論ですね....)

 現代音楽の不幸はこの3つがバラバラ死体となって進行したことによるのだが、実を言うとバルトークはなんとこの3者の合体を試みていたのである。

 1つめは、民謡の5音音階と西欧の全音音階を組み合わせた新しい旋法と和声の開発。2つめは東欧の民族音楽の舞曲などから導きだされたリズムの素材化。そして3つめはそれらの素材の黄金分割やフィボナッチ数列などによる数学的処理。

 つまり、これが完璧に実現されれば、20世紀の音楽は「感性と知性」および「ナショナルとインターナショナル」を兼備した理想的なものになる。....はずだったのだが、このバルトークの音楽的統一場理論は結局孤立した存在として終わってしまう。

 それが理論の欠陥のせいなのか時代のせいなのか、あるいは彼の性格のせいなのか、それは何とも言えないが、シベリウスの後期の音楽などと並んで、モダンの時代に生まれた非モダニズムによる孤高の音楽として屹立することになったことだけは確かである。

  そんなわけで、幸か不幸かバルトークのモダンは、孤立したゆえに異化された「折衷的なモダン」として捉えられることになった。つまり、知性だけで音楽を制御できずに感性がはみ出してしまう中途半端なモダンという捉え方である。

 しかし、逆に言えばそれこそが音楽そのものの形なのである。純音楽である交響曲の中に田舎舞曲が聞こえ、厳格な楽曲構成の向こうに女性の顔がちらつく、それこそがモーツァルトやベートーヴェン以来伝統のクラシックではないか!

 つまり、モダンとしては甘すぎ、クラシックとしては苦すぎる、これこそがバルトークの音楽の魅力なのである。(うーん。ほめてるんだか、けなしてるんだか....)


◇エスノとしてのバルトーク

◆吉松隆の右脳(談)ぼくはバルトークの音楽の基本的性格は「エスノ」だと思ってるんですよ。

 19世紀から20世紀初めにかけては、音楽でもいわゆる「民族主義」が多々出てきた時代でしょ。で、民族臭がプンプンしている連中の音楽がこの時期に続々出て来た。

 もちろん、この時期の民族独立運動の気運ともシンクロしてるんですけど、これが異国趣味として中央でもてはやされたことも否定できない。それは逆にいえば、ドイツ・フランスの中央楽壇が西欧クラシックの王道ヅラしていたゆえの歪んだ嗜好ともいえるんですけどね。

ま、その辺の解釈はともかく、にもかかわらずバルトークは残念ながらその流行には遅れてきた世代。しかも彼の祖国ハンガリーは、残念ながら素直に民族の独立を訴え祖国愛を歌い上げられない複雑な政治背景があると言うオマケ付き。
 で、どうなったかと言うと、彼の音楽は「民族主義」じゃなくて「エスノ」になるんです。

  ちなみに「民族主義」と「エスノ」とどう違うかというと、前者が民族の失われた歴史的脈絡の復権を指向するのに対して、後者はもはや素材としてしか民族の記憶の生き残りは不可能だと覚めている点が決定的に違うわけですけどね。
 なにしろ、バルトークは若いころから晩年まで民族音楽や民謡の研究をずっと続けているんですが、それを民族意識をあおるような文学的素材には利用していない。オーケストラ曲で民族舞曲的な響きをちらつかせるにしろ、そこには民族の血を騒がせる熱っぽさはなく、愛してはいてもあくまでも素材としての興味に徹している冷たさがあるんですよ。

 で、その結果として、彼の音楽はそれらを素材とした無国籍な音楽に至る。これって、民族音楽のリズムやメロディあるいは民族楽器の音を素材としてサンプリングしてビートに組み込む現代の「エスノ」の方法論にソックリじゃないですか。
 しかも、バルトークが考えていたエスノが、ハンガリー、ルーマニア、チェコ・スロバキア、ブルガリアあたりの東欧文化圏というのも面白い。つまり、日本でいうと「アジア」みたいな視点なんですから、中央楽壇の作曲家たちは逆立ちしても出来ないわけですしね。
 
  そんな彼の方法論は3つ。1つは民謡のリズムやメロディの原物使用。「ルーマニア民族舞曲」や「ハンガリー農民歌」、教育用の「子供のために」あたりに見られるような、採譜した民謡を編曲した作品なんかがそうです。

 2つめは民謡のリズムやメロディを分解して、その断片をコラージュする方法。旋法だけを抽出することもあります。聞こえるのは断片なのに、独特の色合いは残っているという不思議な音楽になるんですよね。「舞踏組曲」を初めとして「ミクロコスモス」や「弦楽四重奏曲」なんかに顕著です。

 そして3つめは、民謡のリズムやメロディをすべて解体して、それを作っている数学的な要素(旋法とかリズム細胞あるいは楽曲の構造とかですね)として再構築する方法。「弦チェレ」以後のいわゆる後期の作品はこれです。

  ただ、こう言葉で説明すると難しそうですけど、現代では10代の子がサンプリング・マシン使ってやってることなんですよ。音楽の一部分をスッと抜き取って、加工したり変形したりして別の脈絡の中にモザイクみたいにはめ込む。で、その素材が民族的ならエスノ、流行ものならハウス、言語ならラップというわけでしょ。つまり、20世紀末の現代ではもはやエスノとモダンの境界線も曖昧になってしまったわけですけど。

 でも、英知を傾けて行った作業が子供の玩具と化している実態を知ったら、バルトーク先生、草葉の陰で何とおっしゃることでしょうね?

◆Part 4:顔のある時代とない時代

◇第1部「顔のある時代」

◆吉松隆の左脳(記) バルトークの作品をざっと見ていると面白いことに気付く。ハンガリー時代の前半生を見ると、デビュー曲の交響詩「コシュート」にしろ、オペラ「青ひげ公の城」、バレエ「木彫りの王子」、パントマイム「不思議なマンダリン」の舞台三部作にしろ、主人公にはみんな顔があるのだ。

 ところが、中盤からこれが一変する。「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」、「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」、そしてトドメの「管弦楽のための協奏曲」。いずれも、顔のない無愛想なタイトルになるのである。

 この「顔のある時代」から「顔のない時代」への変化は、バルトークの純粋に音楽的な作風の変化とともに、彼を取り巻く環境の決定的な変化を感じさせ、面白うてやがて悲しき作曲家人生を感じさせてならない。

 バルトークの最初の「顔」は、ピアニストであり、作曲家であり、コダーイの友人であり、最初の妻マルタの夫であり、ブダペストのリスト音楽院の教授、というものだ。

 1901年のリスト生誕90周年で、まだ音楽院の学生だったバルトークはリストの「ロ短調ソナタ」を弾き、作品番号1を付けたピアノ曲「ラプソディ」をリストに捧げて作曲家としてのスタートを切っている。そして続く卒業作品「コシュート交響曲」で、ハンガリー独立運動の英雄コシュートを題材にして民族主義者の顔を垣間見せている。

 しかし、この時期のバルトークはまだ霧の向こうの自分の「顔」を探す旅の途上だ。彼の音楽の理想は終始一貫「東欧文化圏の音楽を西欧近代音楽の語法と融合させたもの」であることは間違いないのだが、リヒャルト=シュトラウスの豪華絢爛趣味やドビュッシーの神秘的曖昧趣味、ストラヴィンスキーの原始的怪奇趣味などへの横目使いも続いているのだから。

  それでも、このころのバルトークはまだ東欧人としての自分のアイデンティティを民族の血の中に捜し求めている。ハンガリーの英雄コシュート、伝説の殺人者青ひげ公、童話の中の木彫りの王子、貧民窟に迷い込んだ不思議なマンダリン、という奇妙な人物たちとの関わりは、そんな彼の魂の遍歴を苦く縁取っている。

 とは言えこの主人公たち、後に行くにしたがってだんだん名前と顔を失って行くのは興味深い。最初はハンガリー土着の名前がはっきりあったもの(コシュート)が、単なる呼び名(青ひげ公)になり、俗称(木彫りの王子)になり、やがてすっかり名前も顔もない異邦人(マンダリン)になってゆくのだ。

 つまりは、この時期バルトークも既に、だんだん国籍を失い希薄になってゆく自分自身の「顔」を、うすうす感じていたということなのだろう。

 そして、ピアノの弟子であり後に彼の死を看取ることになる二番目の妻ディッダと出会い、最初の妻と別れて再婚したころから、彼の「顔」は緩やかに変貌して行く。
 1920年代後半に書かれたピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲第1番、弦楽四重奏曲第3番と第4番、カンタータ・プロファーナという過渡期の作品群を見ると、そこには既に顔(文学的なタイトル)を失いつつあるバルトークの純音楽への指向が伺えるのである。

 このあたりの原因を、当時のハンガリーの政治状況への失望と単純に言いきってしまうのは安易にすぎるが、かといって純粋に音楽的な理由による作風の変化とも言いきれない。しかし、何にしろそれ以後のバルトークは、よく言えば国際的、悪く言えば無国籍な音楽を指向し始めるのである。



◇第2部「顔のない時代」

◆吉松隆の右脳(談)確かにバルトークは1930年代になって聴衆に「顔」を見せなくなりましたね。でも、ここからがバルトークの真骨頂、傑作の森なんですよ。

 まずピアノ協奏曲第2番(1931)でしょ。それから、弦楽四重奏曲第5番(1934)、弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽(1936)、2台のピアノと打楽器のためのソナタ(1937)。ヴァイオリン協奏曲(1938)。それに弦楽のためのディベルティメント(1939)。そうそう、シゲティとベニー・グッドマンのために書いた「コントラスツ」(1938)なんていうのもありましたっけ。

  こう並べてみると、もはやバルトークは聴衆が文学的イマジネーションをかき立てられるような「顔」を拒否し始めているのがタイトルでもう分かります。音楽的にも、東欧の民謡のメロディやリズムを生で使うことはなくなり、分解して組み立て直して使うようになってますんで、その意味でもこういう機能優先のタイトルはダテじゃない。

 中でも凄いのが、なんといっても「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」でしょうね。弦楽器(ストリング・アンサンブル)と打楽器(パーカション)とチェレスタという編成で書かれた作品ですって言うだけで、もう取り付くシマもない。それに、ハープが弦楽器でピアノが打楽器として数えられているんですから。何を考えてるんでしょうね。それならいっそのこと、「弦楽器と打楽器とピアノとハープとチェレスタのための音楽」ってすればよかったのに。え、それじゃいくらなんでもくどすぎる?そうですかね。

  ただ、この種のタイトルの付け方って難解さの証明なわけじゃなくて、逆に皮肉っぽい遊び心がありますよね。なんか、理工科系の教授がニコリともせずに「結局は薬局なんだよ、きみ!」なんて冗談を言うのに似た、倒錯したおかしさというか。私は「管弦楽のための協奏曲」なんて、冗談と真面目を飛び越した凄い名タイトルだと思いますしね。

 でも、その名作を仕上げた最後のアメリカ時代は、バルトークにとってはまさにトドメの「顔のない時代」になってしまったわけです。ハンガリーでは国民的有名人だった彼も、ニューヨークに渡れば十把ヒトカラゲの無名の音楽家。彼は本当に「顔」と自身を失ってしまって、気疲れから病気になっちゃうわけですから。

 もっとも、そのころのアメリカは太平洋戦争で大変だったわけですし、バルトーク本人も不遇で貧乏なうちに4年ほどで早死にしちゃったもんですから、少し割り引いて考えないとまずいかも知れませんけど。だって、「管弦楽のための協奏曲」の成功以後、メニューインの委嘱による「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」だの、妻ディッダに捧げた「ピアノ協奏曲第3番」だの、プリムローズから委嘱された「ヴィオラ協奏曲」だの、成功する余地は充分あったわけなんですから。なにしろ、ほとんど同い年で同じ亡命組のストラヴィンスキーなんか、この後26年も生きて駄作を書き続けながら巨匠扱いされてノウノウ暮らしていたくらいですし。あ、今のところカットね。

 で、彼が64歳で異国の地に歿してから今年でもう50年ですか。自分の没後50周年企画をする雑誌が日本に出来るなんて、太平洋戦争中の敵国アメリカにいたバルトーク先生は想像もしなかったでしょうね。まったく人の世は分からんもんです。私も心して今後の不遇の人生を楽しみたいと思います。

 では最後に一言。
 バルトーク先生、私たちはみんなあなたの音楽を愛していますよ。
 ショスタコーヴィチなんかとんでもありません。
 本当です。ほ、本当ですよ!
http://yoshim.music.coocan.jp/~data/BOOKS/Thesis/bartok01.html
2. 中川隆[-14412] koaQ7Jey 2020年1月17日 17:52:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1326] 報告
バルトーク・ベーラ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9


バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János, 1881年3月25日 - 1945年9月26日)は、ハンガリー王国の バーンシャーグ地方のナジセントミクローシュに生まれ、ニューヨークで没したクラシック音楽の作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家。

作曲以外にも、学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなどの精力的な活動を行った。

またフランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン(英語版)(1862年11月4日 - 1940年9月22日)から教えを受けた、ドイツ・オーストリア音楽の伝統を受け継ぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師として活動した。
ドメニコ・スカルラッティ、J・S・バッハらの作品の校訂なども行っている。


年譜

1881年 3月25日、ナジセントミクローシュに生まれる。母によれば、子供のころから音楽への才能を見せていたという。

1885年(4歳) 7月11日に妹、エルザ(- 1955年9月11日)が生まれる。

1888年(7歳) 8月4日に父が死亡。

1894年(13歳) ポジョニへ引っ越し、当地でギムナジウムに通う。

1899年(18歳) ブダペスト王立音楽院に入学。

1902年(21歳) 交響詩《コシュート》を作曲。世論を騒がせる。

1903年(22歳) 4月13日に故郷ナジセントミクローシュで初の公開リサイタルを行う。プログラムはシューマンのピアノソナタ第3番や自作など。12月にベルリンでデビューリサイタルを行い、ブゾーニやゴドフスキーから称賛される。

1904年(23歳) 初めてマジャール民謡に触れる。11月に妹が結婚。

1905年(24歳) 妹夫婦の住んでいたヴェーステーで民謡採集を行う。ルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場、ピアノ部門2位。秋にコダーイ・ゾルターンと知り合う。

1906年(25歳) コダーイと連名で組織的民謡研究の必要性を説くアピールを発表。夏から彼や他の研究者と共にハンガリー各地の農民音楽を採集し始める。

1907年(26歳) トマーンの後任としてブダペスト音楽院ピアノ科教授に就任。教育者として働く傍ら、長期休暇時に民謡の採集を進める。

1908年(27歳) ピアノ曲『14のバガテル』や弦楽四重奏曲第1番を作曲。前者は自筆譜を見せに行ったブゾーニから高い評価を受ける。

1909年(28歳) ツィーグレル・マールタ(Ziegler Mártá 1893年 - 1967年5月14日)と結婚。

1910年(29歳) 8月22日、長男ベーラJr(- 1994年6月17日)誕生。

1911年(30歳) ハンガリー芸術委員会賞のために《青ひげ公の城》を作曲するも演奏を拒否される。公的な立場から身を引き、民謡の収集と整理に集中。

1913年(32歳)ハンガリー以外に、6月にはアルジェリアにて民謡採集。

1914年(33歳) 第1次世界大戦勃発。作曲活動に戻り、《かかし王子》の作曲にとりかかる。

1917年(36歳)ユニテリアン教会の信徒となる。5月12日にバレエ《かかし王子》がブダペスト歌劇場で初演され大成功。

1918年(37歳)オーストリアのウニヴェルザール出版社と楽譜出版契約を結ぶ。《青ひげ公の城》初演。《中国の不思議な役人》作曲開始。

1919年(38歳)クン・ベーラらによるハンガリー革命に際し音楽監理委員会に参加。その後のホルティ・ミクローシュによる反革命によりハンガリーは混乱する。

1920年(39歳)ハンガリーの混乱から移住を検討、2月から5月まで音楽院から休暇をもらい比較音楽学の盛んだったベルリンに赴くが断念する。アメリカからハンガリー民謡についての論文の依頼を受け執筆し、これを書籍にまとめることを企図する。

1921年-1922年 (40歳-41歳)古い知り合いだったイェリー・ダラーニと再会。彼女と共演するために《ヴァイオリンソナタ第1番》を書きあげ、イギリスやフランスで演奏旅行を行う。

1923年(42歳) 6月にマールタと離婚。遅くとも8月には生徒のパーストリ・ディッタ(Pásztory Ditta 1903年10月31日-1982年11月21日)と結婚。《ヴァイオリンソナタ第2番》《舞踏組曲》。

1924年(43歳) 2月に国際現代音楽協会のチューリヒの音楽祭に審査員として参加。7月31日に次男ペーテル誕生。「ハンガリー民謡」がハンガリーで出版。翌年にドイツ語版出版。10月24日にブカレストでヴァイオリニスト・作曲家のジョルジェ・エネスクと自作の『ヴァイオリンソナタ第2番』で共演。

1925年(44歳) 作曲家としては作品を発表せず、ピアニストとしてイタリアやオランダで演奏会を行う。

1926年(45歳) 夏から作曲活動を再開。ピアノソナタ、ピアノ協奏曲第1番などを手がける。中国の不思議な役人のケルンでの世界初演に立ち会うが、大スキャンダルになる。

1927年(46歳) ピアノ協奏曲第1番をフルトヴェングラーの指揮で初演。弦楽四重奏曲第3番を作曲。

1928年(47歳)前年末から2月末まで演奏旅行で初めてアメリカを訪れる。弦楽四重奏曲第4番、2曲の《ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ》作曲。

1929年-1930年(48歳-49歳) ソヴィエトへ演奏旅行。ヨゼフ・シゲティやパブロ・カザルスらと共演。帰国後ピアノ協奏曲第2番を作曲。

1931年(50歳) 1月にスペイン旅行。夏は国際連盟の国際知的協力委員会の委員に選ばれてジュネーブの会議に参加し、モントゼーで行われた夏期講習会でピアノ講師を行うかたわら旧作ピアノ曲のオーケストラ編曲を行う。ヴァイオリン教育家エーリヒ・ドフレインの求めに応じて44のヴァイオリン二重奏曲を作曲。「ハンガリー民謡」英語版出版。

1932年(51歳)パウル・ヒンデミットらと共にカイロで行われたアラビア音楽会議に参加。後に>となるピアノ練習曲集の構想を初めて公に語る。

1933年(52歳)1月23日にピアノ協奏曲第2番の初演をフランクフルトで行う。これがドイツでの最後の公開演奏だった。

1934年(53歳) 4月にストックホルムに演奏旅行。夏に《弦楽四重奏曲第5番》作曲。9月から音楽院を去り、科学アカデミーの民俗音楽研究員就任。

1936年(55歳) 5月2日にヴァイオリニストのザトゥレツキー・エデと共に故郷に近いティミショアラで演奏会を行うが、生前最後の帰郷となった。《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》作曲。11月にはトルコへの演奏旅行と講演、民俗音楽採集を行う。

1937年(56歳) 1月に『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』の初演に立ち会うためスイス旅行。

1938年(57歳) オーストリア併合に際し、ウニヴェルザール出版社との契約をあきらめ、同社のロンドン代理店業務を担当していたイギリスのブージー・アンド・ホークスと契約を結ぶ。

1939年(58歳) アフメト・アドナン・サイグンを通してトルコのアンカラへ移住する可能性を探るが、思うような返事は得られず。《弦楽のためのディヴェルティメント》《弦楽四重奏曲第6番》作曲。母没。

1940年(59歳) 5月から6月にかけてアメリカ合衆国で演奏会。10月には夫妻でリスボン経由で同国へ移住。コロンビア大学から民俗音楽研究についての名誉博士号を授与され、客員教授として民俗音楽の研究を開始。

1943年(62歳) ハーバード大学での連続講演期間中に白血病により入院。《管弦楽のための協奏曲》を完成。《無伴奏ヴァイオリンソナタ》にも着手。

1944年(63歳) 《無伴奏ヴァイオリンソナタ》・《管弦楽のための協奏曲》初演。

1945年(64歳) 9月26日、ニューヨークにて没。完成寸前のピアノ協奏曲第3番、スケッチのみのヴィオラ協奏曲を遺す(いずれもシェルイ・ティボールにより補筆完成)

1967年 アメリカまで持ち込んで死の直前に完成させた『ルーマニア民俗音楽』の刊行開始(1975年に完結。全5巻)。

1988年7月7日 ハンガリー国葬。ゲオルク・ショルティにより遺骨が母国へ持ち帰られる。


幼少期

1881年、ナジセントミクローシュ(現在のルーマニア、ティミシュ県のスンニコラウ・マレ(英語版))に農学校校長で同名の父バルトーク・ベーラ(1855年-1888年)とピアノ教師でドイツ系の母パウラ・ヴォイト(1857年 - 1939年。スロヴァキアのマルチン出身)の間に生まれる。父は町に音楽協会を設立するほどの熱心な音楽愛好家でもあり、自身でもピアノやチェロをたしなむ人物であった。母のパウラによれば、バルトークは病弱だったが、きちんと言葉をしゃべる前から母のピアノ演奏のダンスのリズムを区別し、3歳くらいから母のピアノ演奏に合わせて太鼓を叩き、4歳では自己流で40曲のピアノ曲を弾くなど音楽的素養を見せていた。そこで彼女は娘を出産した後の5歳頃から息子に正式なピアノ教育を始める。

7歳の時に父が病気(アジソン病だったと言われている)のため32歳で急死、ピアノ教師として一家を支えることとなった母の仕事の都合でナージセレーシュ(現在のウクライナ、ヴィノフラージウ(英語版))に転居、その後各地を転々とする。9歳前後から習作的なピアノ曲も書き始め、10歳の時にはピアニストとしての初舞台を踏むが、彼女は息子を天才少年ピアニストとして売り出す気はなく、まずは普通に教育を受けることになる。1893年に音楽活動の活発だったポジョニに母と赴いた際、作曲家エルケル・ラスローに指導してもらう機会を得る。翌年、母がポジョニに仕事を得たため同地へ引っ越し、当地のギムナジウムに入学。エルンスト・フォン・ドホナーニと知り合い友人となる。

音楽家への道と民謡との出会い

学内でもピアニストやオルガニストとして活動し、ヨハネス・ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可される。しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだというドホナーニの薦めに従い、翌年ブダペシュト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学。作曲をハンス・ケスラー、ピアノをトマーン・イシュトヴァーンに指導を受ける。ここではワグネリアンの学長からリヒャルト・ワーグナーの洗礼を受けるが、既にブラームスの影響を脱して先に進もうとしていた彼に、ワーグナーは答えをくれなかったと回想している。

1902年、21歳の時にリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはこう語った》に強烈な衝撃を受け、交響詩《コシュート》を作曲。1848年のハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュへの賛歌であった為、当時ハプスブルク帝政の支配下にあったブダペシュトの世論を騒がせた。1904年にはゲルリーツェプスタ(現在スロヴァキア領)で初めてトランシルヴァニア出身者の歌うマジャル民謡に触れる。

1905年、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。作曲部門では入賞せず奨励賞の第2席、ピアノ部門では2位であった(優勝者はヴィルヘルム・バックハウス)。自分の人生をピアニストとして描いていたため、優勝を果たせずかなり落胆したようであるが、それ以上に作曲部門での結果の方がショックだったようである。しかし、ハンガリーでは知られていなかったクロード・ドビュッシーの音楽を知るという収穫を得た。また民謡について科学的アプローチを始めていたコダーイ・ゾルターンと出会い、多大な影響を受ける。

1906年からコダーイやその他の研究者達と共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始める。1913年にアルジェリアへ赴いた他は、専ら当時のハンガリー国内で民族音楽を採集していた。

1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となる[1]。ピアニストとして各地を旅するのではなく、ハンガリーに留まったことで、更なる民謡の採集が進み、民謡の編曲なども行う。この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものであるが、ピアノ小品や親しかった女性ヴァイオリン奏者シュテフィ・ゲイエルに贈ったヴァイオリン協奏曲第1番(ゲイエルの死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集の影響が表れている。1908年の弦楽四重奏曲第1番にも民謡風要素が含まれている。またトマーンの紹介で知己を得ていたレオポルド・ゴドフスキー、バルトークの作品を評価したフェルッチョ・ブゾーニの推挙も得て、ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始める。

スタイル確立と第一次世界大戦

1909年、ツィーグレル・マールタ(Ziegler Márta)と結婚。翌1910年には長男ベーラ(バルトーク・ジュニア)が生まれる。この年、フレデリック・ディーリアスと知り合い、彼の作品の影響も受ける。

1911年、ただ1つのオペラとなった《青ひげ公の城》を書き、ハンガリー芸術委員会賞のために提出したが、演奏不可能という事で拒絶された。結局この曲は1918年まで演奏されなかった。当時バルトークは、政治的見解から台本の作家バラージュ・ベーラの名を伏せるように政府より圧力をかけられていたが、これを拒否し、同時に自身の作品がなかなか顧みられない現状に疲れてしまい、ピアノ科教授以外の公的な立場から身を引いた。その後の人生でバルトークは民謡への愛着は別として、ハンガリー政府や組織とは深く関わらないようにしている。芸術委員会賞に失望した後2、3年の間、作曲をせず、民謡の収集と整理に集中していた。

1914年、第一次世界大戦の勃発により、民謡の収集活動が難しくなったため作曲活動に戻り、1914年から16年にかけてバレエ音楽《かかし王子》、1915年から17年には《弦楽四重奏曲第2番》を書いている(採集活動自体は1918年まで行っている)。1918年には《かかし王子》の初演が成功し、ある程度国際的な名声を得た。引き続き《青ひげ公の城》が初演される。同年、レンジェル・メニヘールトの台本によるパントマイム《中国の不思議な役人》の作曲を開始する。しかし第1次世界大戦で敗戦国となったハンガリーはトリアノン条約による国土の大幅な縮小とその前後の政治の混乱に巻き込まれ、ピアニストや民俗音楽の研究家としての名声が高まるのとは裏腹に、本人としては不本意な時期が続く。

1921年から22年にかけてヴァイオリンのためのソナタを2つ書き、イェリー・ダラーニのヴァイオリンと自らのピアノで初演。更に彼女に同行してイギリスやフランスで演奏旅行を行う(この際、モーリス・ラヴェルやストラヴィンスキーと会っている)。これはそれまでに作曲した中で和声上、構成上最も複雑な作品である。また民謡的要素を自分の作品の中で生かすということに自信を深めたのか、それまで編曲作品と自作を区別するために付けていた作品番号を、ソナタ第1番の出版譜からは付けなくなった。

様々な活躍と、第二次世界大戦

1923年、ツィーグレル・マールタと離婚し、ピアノの生徒であったパーストリ・ディッタ(Pásztory Ditta)と結婚。翌1924年には次男ペーテル(バルトーク・ペーテル、Bartók Péter)が誕生している(ペーテルは後年アメリカで録音技師として活躍し、父親の作品を中心に優秀な録音を世に出した。また楽譜の校訂にも大きな功績がある。)。

同じ1923年には、政府からの委嘱により、ブダペシュト市政50年祭のために《舞踏組曲》を提出。この後、1926年にピアノ・ソナタやピアノ協奏曲第1番などを発表するまで3年ほど作品を発表せず、民俗音楽の研究や演奏会活動にやや力を入れるが、1927年から翌年にかけて、彼の弦楽四重奏曲としてもっとも高い評価を受けている第3番と第4番を作曲した。またピアノ協奏曲第1番をヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮と自らのピアノで初演する。その後も演奏家として1929年から30年にはアメリカやソヴィエトへの演奏旅行を行い、ヨゼフ・シゲティやパブロ・カザルスらと共演している。

1934年には音楽院ピアノ科教授の任から離れ、科学アカデミーの民俗音楽研究員となった。彼は長年作曲とピアニストとしての活動以外の時間を、自分や後進の研究者達が収集したコレクションの整理に取り組める環境を求めていたが[注釈 1]、遂にそれを得て研究活動に没頭するようになった。作曲家としても1936年には、バーゼル室内管弦楽団を率いていたパウル・ザッハーの委嘱で彼の代表作として知られる《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》を作曲。翌年ザッハーの手で初演が行われた。

注釈 1
息子ペーテルはまだ年端もいかない頃の自身が、父親がピアノ教授としての仕事にうんざりしていることを人前でうっかり明かしてしまい、父親を困らせたエピソードを回想録で語っている。

1939年には《弦楽四重奏曲第6番》を作曲したが、第二次世界大戦が勃発し、民俗音楽の研究を出来る環境を求めており、またその文化政策などからナチス嫌いでもあったバルトークは、同年の母の死を機にヨーロッパを去ることを考え始めていたことをうかがわせる作品となった。この頃、反ユダヤ主義者との対話の中で、自らの祖父ヤーノシュがユダヤ人だったことを示唆しているが、ヤーノシュはマジャル人の父とクロアチア人の母の間に生まれ、ユダヤ人ではなかった(ただし、ディッタ夫人はユダヤ系の血をひいている)。

アメリカ移住と死

母親の死以前から、バルトークは政治的に硬化していくハンガリーを去り、自身のライフワークである民俗音楽の研究に打ち込める環境を求めて他国へ移住することも検討し始めていた。はじめはトルコのアンカラへの移住を検討するが環境が整わないことから断念した。最終的には1940年春にアメリカ合衆国への演奏旅行の際、友人達にアメリカへ移住の可能性を打診、彼らの協力でコロンビア大学の客員研究員として南スラブの民俗音楽の研究に取り組む手はずを整えると一旦帰国。10月8日にブダペストのリスト音楽院の大ホールで告別コンサートを開き、ハンガリー国鉄の技術者になっていた長男、そしてコダーイに後を託し、ザッハーやかつての恋人・ゲイエルなど友人達の助力を受け、妻と膨大な研究資料や自作資料と共にアメリカ合衆国へ移住した。なお、次男ペーテルは全寮制の学校に在学中のためハンガリーに残ったが1年後単身アメリカに渡り、その後アメリカ海軍の招集に応じた。

少々自己中心的でなかなか他人と打ち解けないタイプであったバルトークにとって、アメリカは決して居心地は良くなかったし、研究や講演以外はピアニストとして生計を立てるつもりだったとはいえ、作曲する気にもならなかったようで、演奏会活動を行う以外は、先のコロンビア大学での研究の他、ヨーロッパから持ち込んだ民俗音楽の研究に没頭していた。しかし1940年ごろから右肩周辺に痛みを感じるなどの不調があった健康状態は次第に悪化、1942年になると断続的に発熱を繰り返すようになった。1943年初頭にはついに入院してそれまでの活動を全て中断する。

フリッツ・ライナーなどアメリカ在住のバルトークの友人たちは、戦争で印税収入が滞るなど収入源の無くなってしまった彼を支援するため「作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」に医療費を負担させるよう働きかけ、更に当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーに、彼の財団と夫人の思い出のための作品をバルトークに依頼させる。すると驚異的なスピードで《管弦楽のための協奏曲》を完成。この依頼があって作曲への意欲が引き起こされたようで、ヴァイオリン・ソナタを演奏会で取り上げる際にアドヴァイスを求めに来て親しくなったユーディ・メニューインの依頼で《無伴奏ヴァイオリンソナタ》にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会う。出版社との新しい契約で収入面の不安もやや改善され、健康状態も小康を取り戻して民俗音楽の研究も再開した。しかし、その病は白血病だった。

1945年、《子供のために》や《管弦楽のための協奏曲》の改訂をする傍ら、妻の誕生日プレゼントにしようと軽やかで新古典派的な《ピアノ協奏曲第3番》、ウィリアム・プリムローズから依頼された《ヴィオラ協奏曲》に着手するが、ともに完成させることができずに、9月26日、ニューヨークのブルックリン病院で死去(満64歳没)。前者はほとんどできあがっており(オーケストレーションが17小節残された)、草稿段階にとどまった後者とともに、友人でハンガリー系の作曲家シェルイ・ティボール(Sérly Tibór)によって補筆完成された。

遺体は「ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しない」との遺言に基づき、ニューヨーク州ハーツデイル(英語版)のファーンクリフ墓地(英語版)に埋葬されたが[1]、ハンガリー社会主義労働者党が一党独裁放棄を決めるなど民主化が進んだことから、バルトークの二人の子息と指揮者ゲオルク・ショルティらの尽力で亡骸が1988年7月7日ハンガリーに移送され、国葬によりブダペシュトのファルカシュレーティ墓地(英語版)に埋葬された[2]。現在ファーンクリフには記念碑が残されている。

作風

本人が「若い頃の私にとって、美の理想はベートーヴェンだった」と回想しているようにドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発したが、ハンガリー民族やハンガリー王国内の少数民族の民謡をはじめとした民俗音楽の収集とそれらについての科学的分析から、その語法を自分のものにしていった(同様の活動を行った先人にチェコのヤナーチェクがいる)側面と、同時期の音楽の影響を受けた側面のバランスの中で作品を生み出す、という独自の道を歩んだ。ただし、彼の楽曲は民俗音楽の旋律やリズムだけではなく構造面も分析したうえで、なおかつソナタ形式など西洋の音楽技法の発展系を同時に取り入れて成立していることや、過去の音楽に目を向けて新しい音楽を生み出そうとした点など、音楽史的には新古典主義の流れの1人と位置付けても間違いではないだろう。

作品の変遷は大まかに以下のように区分できる。

〜1905年 ヨハネス・ブラームスやリヒャルト・シュトラウスの影響が強い、後期ロマン主義的な作風。ハンガリー民族としての意識を曲で表現しようとする作品もあったが、まだ先人達同様にジプシー音楽的な要素を取り入れる形であった。

1906年〜1923年頃 盟友のコダーイ・ゾルターンと共に、当時のハンガリー王国の各地から民謡収集を行い、一方では民謡を編曲したピアノ曲などを作り、他方では民謡の語法を科学的に分析した形で自身の作品に活かし出した時期。また自身の作品には、民謡以外にもクロード・ドビュッシーやイーゴリ・ストラヴィンスキー、新ウィーン楽派など当時の最先端の音楽の影響も強く反映されている。この末期には民謡の語法を消化し、独自のスタイルをほぼ確立する。

1926年〜1930年頃 特に室内楽作品において尖鋭的な和声と荒々しいまでの強烈な推進力を持ちながら、緻密な構造を持つ数々の作品を生み出した。「無調的」ともいわれるが、本人は無調音楽は存在しないとの立場をとっており、この時期の作品でも調的中心は存在している。またバロック音楽や古典派の影響を如実に感じさせるなど、新古典主義の流れに乗っている面も見られる。

1930年〜1940年 その前の時代と同様に緻密な楽曲構造を持ちながら、もう少し和声的にも明快で、より新古典的なスタイルを打ち出した時期。数々の傑作を発表している。

1943年〜1945年 アメリカ時代。傾向としてはその前の時代の末期の延長線上にあり、細かい動機よりも旋律的な要素を重視する傾向がある。より明快、明朗に大衆に受ける方向へ変化したとも言われるが、曲によってはそれ以前の厳しい顔をのぞかせる。

なお彼はアメリカ移住前に手紙で吐露しているように「作曲は教えるものではないし、私には不可能です」という考えの持ち主で、その生涯で作曲を教える立場に立ったことがない(先述のシェルイを「弟子」とする記述も多いが、それは正しくない)。作曲の理論的な面についても自身ではほとんど明らかにしておらず、手紙で自身の音楽語法がハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアの民俗音楽に強く影響をされていると書いている程度である。

そのため、彼の理論については様々な音楽学者たちが研究を行っており、ハンガリーの音楽学者レンドヴァイ・エルネーは、バルトークは機能和声の代理和音を拡張することで12半音階を等質に扱う「中心軸システム」(ジャズの「コルトレーン・チェンジズ」と背景の理論はほとんど同じである)や、作品の構成(楽式)から和音の構成に至るまで黄金分割を基礎に置き、そのためにフィボナッチ数列を活用したとの論文を発表している。ただし、前者はともかく後者については当てはまらない作品がかなりあり、この説の妥当性を支持するスケッチの書き込みや計算メモ等が見当たらない[注釈 2]ため、現在ではハンガリー国内・国外いずれにおいても、専門の研究者でこの説を支持する人はあまり多くない。

注釈 2
バルトークは周囲が語るように規則正しく几帳面な人物で、自作曲のスケッチなども破棄せず残していた。

ピアニストとして

身長165センチ程度と体格的には決して大柄ではなかったが、手はかなり大きかった。そしてヴィルトゥオーゾとして自身の未来を思い描くほどの実力を持つリスト直系の弟子であり、晩年までピアニストとしての活動も行った。手紙などでは伴奏家としての腕前も自負していたようで、多くのソリストとの共演歴もある。自作自演やシゲティとの共演などの録音も残しているため、彼の演奏はCDなどで聴くことが出来る。

ドイツ・オーストリア音楽をレパートリーとしていたが、スカルラッティの編纂を行って自ら演奏したり、自らに多大な影響を与えたドビュッシーの作品も多く取り上げていた。自作のピアノ曲も自身が演奏会に取り上げるために書かれたものが少なくない。

また作曲は教えなかったが、ピアノ教育には熱心だった。自作でも教育のための作品は重要な位置を占めており、リスト音楽院ではピアノの教授として多くの弟子を育てた。シャーンドル・ジェルジやリリー・クラウス、ゲザ・アンダなどのピアニストを直接指導したほか、指揮者のアンタル・ドラティや、作曲家でバルトークの民俗音楽研究の助手も務めたヴェレッシュ・シャーンドルなどがピアノの弟子である。また、指揮者ゲオルク・ショルティは直接の弟子ではなかったが、指導教授の代役として一時バルトークのピアノのレッスンを受けたことがあったことを回想している。

作品

バルトークは「作品番号」を習作の時点からつけており、「Op.1」と付記されている作品は3つある。その3つめである1904年の『ピアノのためのラプソディ』以降はオリジナルの作品には作品番号を付け、民謡からの編曲作品には付けないというルール付けを行った。しかし前述のようにヴァイオリン・ソナタ第1番の出版の際からこれを止める。このような事情から後年学者達が習作なども含めて分類した番号が付けられることも多く、少なくとも3種類の体系がある。ここではハンガリーの作曲家セールレーシ・アンドラーシュ が作成した「バルトークの音楽作品と音楽学論文の目録」での付番「Sz.」を付記する。

詳細は「バルトークの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7


交響曲

交響曲変ホ長調 1902年-1903年 Sz.16 ※未完で楽譜自体紛失。スケルツォ楽章のみ現存(Sz.17)

管弦楽曲

交響詩『コシュート』 (1903年) Sz.21
管弦楽のための組曲第1番 (1905年、1920年改訂) Op.3 Sz.31
小管弦楽のための組曲第2番 (1905年-1907年、1943年改訂) Op.4 Sz.34
管弦楽のための2つの肖像 (1907年-1911年) Op.5 Sz.37 第1曲はヴァイオリン協奏曲第1番の第1楽章を流用。第2曲はピアノ曲『14のバガテル』最終曲の編曲
管弦楽のための2つの映像 (1910年) Op.10 Sz.46
ルーマニア舞曲 (1910年) Sz.47a 『2つのルーマニア舞曲』の第1曲を編曲
4つの小品 (作曲1912年、管弦楽化1921年) Op.12 Sz.51
ルーマニア民俗舞曲 (1917年) Sz.68 ピアノ版(Sz.56)の編曲
舞踏組曲 (1923年) Sz.77
トランシルヴァニア舞曲 (1931年) Sz.96 ピアノ曲『ソナチネ』の編曲
ハンガリーの風景 (1931年) Sz.97 ピアノ曲集の『10のやさしい小品』『3つのブルレスク』『4つの挽歌』『子供のために』より5曲を抜粋して編曲
9つのハンガリーの農民歌 ( 1933年) Sz.100 ピアノ曲『15のハンガリー農民歌』の後半9曲を編曲
弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 (1936年) Sz.106
弦楽のためのディヴェルティメント (1939年) Sz.113
管弦楽のための協奏曲 (1943年) Sz.116

協奏曲

協奏曲に類するものも含む。
ピアノと管弦楽のためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.27 『ピアノのためのラプソディー』の編曲
ピアノと管弦楽のためのスケルツォ(ブルレスク)(1904年) Op.2 Sz.28
ヴァイオリン協奏曲第1番 (1907年-1908年) Sz.36
ピアノ協奏曲第1番 (1926年) Sz.83
ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.87 『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第1番』の編曲
ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディー 第2番 (1928年、1944年改訂) Sz.90 『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第2番』の編曲
ピアノ協奏曲第2番 (1930年-1931年) Sz.95
ヴァイオリン協奏曲第2番 (1937年-1938年) Sz.112
2台のピアノと打楽器のための協奏曲1940年 Sz.115 『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』の編曲
ピアノ協奏曲第3番 (1945年) Sz.119 残り17小節の管弦楽についてのみティボール・シェルイが補筆
ヴィオラ協奏曲 (1945年) Sz.120 未完。ティボール・シェルイによって完成。他にも複数のバージョンがある。


舞台作品

オペラ『青ひげ公の城』 (1911年) Op.11 Sz.48
バレエ『かかし王子』 (1914年-1916年、1931年改訂) Op.13 Sz.60 改訂時に一部を抜粋した演奏会版を作成している
パントマイム『中国の不思議な役人』(1918年-1924年、1931年改訂) Op.19 Sz.73 一部をカットした演奏会版がある。


室内楽曲

弦楽四重奏曲第1番 (1908年-1909年) Op.7 Sz.40
弦楽四重奏曲第2番 (1915年-1917年) Op.17 Sz.67
ヴァイオリン・ソナタ第1番 (Vn.&Pf) (1921年) Sz.75 初演時のプログラムにはOp.21とあったが、出版時に削除。
ヴァイオリン・ソナタ第2番 (Vn.&Pf) (1922年) Sz.76
弦楽四重奏曲第3番 (1927年) Sz.85
ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.86 ヨゼフ・シゲティに献呈
チェロとピアノのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.88 演奏会で共演したパブロ・カザルスのためにヴァイオリンからチェロ用に編曲
ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第2番 (1928年、1944年改訂) Sz.89 ゾルターン・セーケイに献呈
弦楽四重奏曲第4番 (1928年) Sz.91
44のヴァイオリン二重奏曲 1931年 Sz.98
弦楽四重奏曲第5番 (1934年) Sz.102
2台のピアノと打楽器のためのソナタ (1937年) Sz.110
ヴァイオリンとクラリネットとピアノの為のコントラスツ 1938年 Sz.111 シゲティとベニー・グッドマンに献呈
弦楽四重奏曲第6番 1939年 Sz.114
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 1944年 Sz.117 ユーディ・メニューインに献呈

ピアノ曲

ピアニストで教育者でもあったバルトークは、ここに挙げた以外にも多数の作品(教則本含む)がある
ピアノのためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.26
14のバガテル (1908年) Op.6 Sz.38
10のやさしい小品 (1908年) Sz.39
2つのエレジー (1908年) Sz.41
子供のために (1908年-1909年) Sz.42 民謡の影響が濃厚な子供の教育用教本。死の1945年まで何度も改訂している。
2つのルーマニア舞曲 (1910年) Op.8a Sz.43
4つの挽歌 (1910年) Op.9a Sz.45
3つのブルレスク (1911年) Op.8c Sz.47
アレグロ・バルバロ (1911年) Sz.49 題名はフランスの新聞にバルトークとコダーイの作品の演奏会時に「ハンガリーの若き2人の野蛮人」と書かれたことに対する皮肉。
ピアノの初歩 (1913年) Sz.53
ソナチネ (1915年) Sz.55
ルーマニア民俗舞曲 (1914年) Sz.56
ルーマニアのクリスマス・キャロル (1915年) Sz.57
ピアノのための組曲 (1916年) Op.14 Sz.62
15のハンガリーの農民の歌 (1918年) Sz.71
ハンガリー民謡による8つの即興曲 (1920年) Op.20 Sz.74
ピアノ・ソナタ (1926年) Sz.80
組曲『戸外にて』 (1926年) Sz.81
9つのピアノ小品 (1926年) Sz.82 8曲目に「タンバリン」という曲があるが、バルトークがスペインを訪れた際の印象を元にしたものとも言われている。
ミクロコスモス (1926年-1939年) Sz.107

声楽曲

ここに挙げた以外にも多数。
民謡様式による3つの歌 (1904年) Sz.24
ハンガリー民謡 (1906年-1907年) Sz.33
5つの歌曲 (1915年) Sz.61
エンドレ・アディの詞による5つの歌曲 (1915年) Sz.62
8つのハンガリー民謡 (1908年-1916年) Sz.64
村の情景 (1924年) Sz.78
室内管弦楽と女声合唱のための『3つの村の情景』 (1926年) Sz.79 『村の情景』より3曲を抜粋し、伴奏を管弦楽化したもの
4つのハンガリー民謡 (1930年) Sz.93
カンタータ・プロファーナ 1930年 Sz.94
声とオーケストラのための5つのハンガリー民謡 (1933年) Sz.101
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9

3. 中川隆[-14411] koaQ7Jey 2020年1月17日 18:24:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1325] 報告
ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》がバルトークを激怒させた理由

Bartók Concerto For Orchestra, Sz. 116 - 4.
Intermezzo interrotto (Allegretto)
Chicago Symphony Orchestra · Pierre Boulez






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Shostakovich Symphony No 7 Yevgeny Mravinsky
1. Allegretto
2. Moderato (poco allegretto)
3. Adagio
4. Allegro non troppo
Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky, Conductor




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バルトーク (1881〜1945) 《管弦楽のための協奏曲》
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/bartok-concerto-for-orchestra/page-3

幸福な時代の記憶として

5楽章形式。それまでのバルトークの音楽と同じく極めて抽象的なもので、直接的には他の何かをイメージさせるものはない。それでも、アメリカ合衆国の聴衆に配慮したのか、それともバルトーク自身の作風自体が変わったのか、聞く者に対して極度の緊張を強いるようなヨーロッパ時代の音楽と比べると、音楽は明るく親しみやすいものとなっている。特に5楽章にはハンガリーの農村でバルトークが耳にした豚飼いの笛の音が再現されており、それはバルトークの幸せだった時代の追憶なのではという指摘がある。

この《管弦楽のための協奏曲》は依頼を受けて一から作曲したものではなく、他の曲の為に準備していた構想などを転用したものも少なくないことが明らかになっている。

また第4楽章の「中断された間奏曲」では、悲しげな歌をショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》の第1楽章で聞こえるメロディがわざとらしく妨害し、歌を中断させている。

バルトークが指揮者ドラティに語ったところによると、これは明確にショスタコーヴィチを引用したものであり、しかも当時、あまりにも盛んに演奏された《レニングラード》を揶揄する意図が込められたものであったという。
(以上、バルトークや東欧の音楽に詳しい音楽学者の伊東信宏氏による。)

ドイツ軍に包囲されたレニングラード市に捧げられたショスタコーヴィチの交響曲第7番は、反ドイツを象徴し連合国の結束を高める為のものとしてアメリカ合衆国でも盛んに演奏されたのだが、自分がここまで周到に避けてきた交響曲という形式をあっさりと使用するショスタコーヴィチに対して、バルトークは相当な苛立ちを持っていたようである。

これは、ショスタコーヴィチにはショスタコーヴィチの事情があったのだが、バルトークにもそんなことを忖度する必要は無かったということか。

そんな背景を持ったちょっとおかしな間奏曲を経ての第5楽章。バルトークにしては珍しく明るい、光の満ちた音楽である。不思議な疾走感と勢いのまま曲は終わる。この終結部は当初はもっと短いあっさりとしたものだったのだが、あまりにも聞き映えがしない為か、初演の後にバルトークによって改訂されている。(この初稿の終結部はクーゼヴィツキーの初演ライブの録音などで聞くことが出来る。)こういったサービス精神溢れる?改訂もバルトークにしては珍しい。

しかしこの音楽に、バルトークの音楽は堕落したとかバルトークが聴衆が媚びたのだとかという声がある。果たしてそうか?難しいものを難しい形のまま提供することと、難しいものを分かりやすく親しみやすい形で提供することのどちらがより高度な技を必要とするか。

無論、後者である。バルトークの創作は人生の最後において、さらにより高い次元に突入したのだと筆者には感じられるのだ。音楽はやはり極めて抽象的であるが、そこにバルトークの見た景色や聞いた音を重ね合わせる想像も、また可能であろう。その向こうにうっすらと見えてくるバルトーク。その顔は和らいだ表情を見せているかもしれない。バルトークの独特な個性と親しみやすさが幸せな一致点をみることが出来た幸せな作品が、この《管弦楽のための協奏曲》である。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/bartok-concerto-for-orchestra/page-3


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2006.08.09
ショスタコ第7交響曲を語る——「涼宮ハルヒの憂鬱:射手座の日」上級編
http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2006/08/7_2344.html

脳内宇宙艦隊戦シーンに使われているショスタコービッチ「交響曲第7番」第1楽章に存在する宇宙的恐怖にして深淵のような因縁について以下つらつらと述べていこうというわけ。

 ショスタコーヴィチのマニアの間では有名な話であるし、色々突っ込みを入れたいところもあるだろう。そのあたりはコメント欄で指摘してもらえるとうれしい。

 「射手座の日」に使われた第7交響曲(1941〜1942)は通称「レニングラード」とも呼ばれる。作曲年代で分かるように、この曲は第二次世界大戦最大級の激戦地であったレニングラード、現在のサンクトペテルブルグと密接な関連を持っている。
 独ソ戦開始時、作曲者ショスタコーヴィチは、レニングラード音楽院で作曲を教えていた。第7交響曲はドイツ軍が迫るレニングラードで、1941年7月から作曲が始まった。ドイツ軍がレニングラードを完全に包囲する前に、ショスタコーヴィチは、当時モスクワの首都機能が移転していたクイビシェフに避難し、そこで全曲は完成した。作曲者によるスケッチのメモによると、最後の第4楽章が完成したのは1941年12月27日。

 レニングラードは1941年8月末からドイツ軍に完全に包囲されており、作曲が終了したこの時、冬将軍が到来した市内は、物資の不足によりまさに阿鼻叫喚の地獄と化していた。

 作曲者は、この曲を「レニングラード市」に捧げた。
 初演は1942年3月5日、クイビシェフで行われた。ソ連政府は、世界的に有名な作曲家であるショスタコーヴィチが完成させたこの一見壮大な交響曲を戦意高揚に利用する。複製された楽譜は空輸によってレニングラードに運ばれ、1942年8月9日、包囲下のレニングラードにおいて、レニングラード放送管弦楽団により演奏された。

 オケのメンバーはほとんどが、徴兵され最前線で戦っていた。皆、演奏のために市内に戻ることが許され、1日だけ銃を楽器を持ち替えて、演奏に参加し、そしてまた戦場へと戻っていった。

 彼らのほとんどが、そのまま帰ってこなかった。

 ソ連政府の手により、楽譜はマイクロフィルム化され連合国各国へと渡った。アメリカでは、1942年7月19日、トスカニーニの指揮、NBC交響楽団によって初演が行われた。アメリカはその演奏を、全世界にラジオ中継した。戦意高揚と連合国各国の連帯の強化のために、この曲を利用したのである。


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 と、いうような曲の来歴を頭に入れて、一度ハルヒの「射手座の日」に戻ろう。
 「射手座の日」で使用されるのは第1楽章。まず、コンピ研との戦闘開始にあたってハルヒが演説するシーンで、楽章冒頭の弦とファゴットのユニゾンによる雄大な印象の第一主題が使用される。

 この第1楽章は、非常に変則的なソナタ形式をしている。通常のソナタ形式では中間部は、2つの主題の展開部になる。ところがこの楽章では、展開部の代わりに、そこに全く別のメロディによる「ボレロまがい」が挟まっているのだ。
 この変ホ長調の主題は「戦争の主題」と呼ばれている。

 このメロディが14回ほど繰り返され、繰り返すたびに盛り上がり、最終的に暴力的なまでの音量ですべてを圧倒する。レニングラード市が戦争に巻き込まれる過程というわけだ。

 「射手座の日」では、この繰り返しの部分が使用される
「1600開戦」の部分では、弦楽器が並行和音でメロディを演奏する7回目と8回目の繰り返しが使われる。

 キョンの「どうにもならないんだ」からはオーケストラの全楽器が咆哮する12回目、続いてメロディが大きく変形されて短調で出現する13回目の部分が使われる。いきなり曲調が悲壮な雰囲気に変わる部分に、みくるの「みなさんどこにいっちゃったんですか〜」という悲鳴が重なるあたり、演出効果満点だ。


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 と、まあここまでは、ショスタコーヴィチが生きていた頃の解釈である。
 ところでここで、メロディを覚えている人は、「戦争の主題」を口ずさんでみて欲しい。

 なんだか間抜けな気はしないだろうか。メロディだけ取り出すと、およそ戦争とは思えないぐらいのどかで間抜けで、しかもどこか茶番じみてもいる。これならば、ジョン・ウィリアムズが「スターウォーズ」で書いた戦闘の音楽のほうが、ずっと戦争と言うには似つかわしい。

 そういえば、このメロディ、かつてCMでシュワルツネッガーが、「ちちんぷいぷい」という歌詞を付けて歌っていたではないか。それぐらい、メロディとしては間抜けなのだ。

 この間抜けなメロディが「戦争の主題」とはどういうことなのだろうか。
 実は間抜けなのは主題だけではない。この「ボレロまがい」は、ボレロのように厳格にオーケストレーションだけを変化させるのではなく、繰り返しごとに異なる装飾的な対旋律を伴っている。早い話が「合いの手」が付いているわけ。その合いの手もまた、どこかサーカスじみた茶番っぽい雰囲気を持っているのである。
 はて?


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閑話休題

 1942年に全米にラジオ放送された、第7交響曲の演奏を、アメリカに亡命した一人のハンガリー人の作曲家が聴いていた。

 その名は、バルトーク・ベーラ。ハンガリー人は、「姓・名」の順番で書くので、バルトークが姓である。

 彼は母国ではハンガリー民謡の研究で名前を上げ、民謡と近代的作曲技法とを統合した独自の作風を確立した作曲家として尊敬されていた。

 ところが彼の音楽は、アメリカが受け入れるには晦渋に過ぎた。そしてまた彼の性格もまた、アメリカでうまく立ち回るには実直に過ぎた。ナチスから逃れたアメリカに渡ったものの、ハリウッドを手玉に取ったストラヴィンスキーや、カリフォルニアに作曲の教師の職を見つけたシェーンベルグのようにうまくやることができず、この時期彼は貧乏のどん底にいた。

 しかも彼は、亡命による環境の激変によってか体調を崩しており、あまつさえ精神的には作曲すらできなくなっていた。

 何人かの音楽関係者が、彼を援助しようとしたが、援助を受けるにはバルトークは誇りが高すぎた。難儀な人である。

 そのバルトークは、このショスタコーヴィチの第7交響曲を聴いて怒り狂った。「なんという不真面目な曲だ」と。このことは、彼の息子のピーターが記録している。

 さあ、バルトークはこの曲の何を「不真面目だ」と怒ったのだろうか?


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 この時、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーが、なんとかしてバルトークに生活費を渡そうとしていた。裕福な女性と結婚していた彼は、妻の財産を使ってクーセヴィツキー財団を設立し、様々な作曲家に新作を依頼し、自ら初演していた。
 誇り高いバルトークが生活費を受け取らないであろうことを知ったクーセヴィツキーは、代わってバルトークに「自分のためにオーケストラのための曲を書いて欲しい」と依頼した。それが、渡米以来萎えていたバルトークの創作意欲に火を付けた。

 かくしてバルトーク晩年の傑作、オーケストラの各楽器が縦横無尽に活躍する「管弦楽のための協奏曲」が生まれた。

 全5楽章からなる「管弦楽のための協奏曲」の第4楽章は「中断された間奏曲」という題名を持つ。ここで、ショスタコーヴィチの第7交響曲第1楽章の、あの「戦争の主題」後半が引用される。上から下へと音符が下がってくる部分だ。

 引用されたメロディの繰り返しが、木管楽器による人間の笑いを模擬したようなフレーズで3回中断される。「中断された間奏曲」という題名の由来だ。
 同時にバルトークのショスタコーヴィチに対する「不真面目だ!」という意思表示でもあるのだろう。


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 では、ショスタコーヴィチは、何が不真面目だったのか。私の記憶ではこれを指摘したのは日本の作曲家、柴田南雄だった。

 実は、「戦争の主題」の後半には元ネタがあった。ウィーンのオペレッタ作曲家フランツ・レハールの代表作「メリー・ウィドウ」(1905)だ。

 「メリー・ウィドウ」は、「会議は踊れど進まず」で有名な1814年のウィーン会議を舞台にした恋のさやあての物語だ。ご存知、ナポレオン後のヨーロッパの勢力図を確定しようと各国が角突き合いをしたあげく、ナポレオンのエルバ島脱出でお流れになった会議である。

 ショスタコーヴィチが引用したのは、登場人物の一人、ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵が酒場に繰り出すところで歌う歌。そして、ショスタコーヴィチが引用したまさにその部分の歌詞は「彼女ら(松浦注:酒場の女達)は祖国を忘れさせてくれるのさ」というものだったのである!

 おいおい、これはどういうことか。レニングラード市に捧げられた交響曲の「戦争の主題」が、「女で祖国を忘れよう」というのは一体何なのだろうか。バルトークが不真面目と怒った理由も分かろうというものだ。

 皮肉なことに、ショスタコーヴィチが第7交響曲を書き、バルトークがそれに怒って「管弦楽のための協奏曲」を書いたその時期、老いたレハールはナチスの庇護を受けていた。しかもユダヤ人の妻と共に。

 ヒトラーが「メリー・ウィドウ」が大好きだったという理由からだった。それ故、戦争終結後、レハール自体は一切政治的な動きをしていなかったにもかかわらず「戦争協力者」と非難されることになる。


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 ここで最大の問題は、なぜショスタコーヴィチは、本当に「メリー・ウィドウ」を引用したのか。そして、引用するとしたらその意図は何だったのかということだろう。

 実はショスタコーヴィチには、そのような引用を行う動機が十分にあった。彼は向かうところ敵なしの天才児としてスタートしたが、芸術をも統制しようとするソ連共産党によって1936年、プラウダ紙面で非難されたことがあった。

 スターリンが密告を奨励し、派手に粛正を繰り広げた時期、彼はこともあろうに共産党の機関紙の紙面で批判されたのだ。その恐怖はいかばかりだったろうか。彼は、彼の庇護者でもあった陸軍のトハチェフスキイ元帥に相談したのだが、翌1937年には、そのトハチェフスキイが、スターリンによって粛正されてしまうのである。

 プラウダによる批判以降、ショスタコーヴィチの音楽は変化した。生き延びるために「明るく健全で分かりやすい」という社会主義リアリズム方針に従った。
 彼の巨大な才能を持ってすれば、その路線ですら傑作を書くことが可能だった。そうして有名な第5交響曲が生み出された。

 彼は第二次世界大戦後、もう一度批判されるが、そのときはスターリンへのおべんちゃらに満ちたカンタータ「森の歌」を書いて生き延びた。歌詞はどうしようもないが、音楽は間違いなく傑作だった。

 その一方で、自由に作曲できない環境の中、彼は鬱屈し、屈折していった。彼は自分の音楽に謎めいた仕掛けをするようになる。奇妙に音楽の流れを断ち切るような音名象徴、それとは分からないような引用など。

 音楽は言葉と異なり、それ自身で確定した意味を持たない。いかようにでも解釈できる。有名なロッシーニの「ウィリアムテル」序曲は、アメリカ西部の騎兵隊の映像にもマッチするし、蒸気機関車の疾走にも、あるいは「スターウォーズ」のクライマックスで共和国軍を助けに駆けつけるハン・ソロとミレニアム・ファルコン号の映像にもぴったりだろう。

 その音楽の特質を生かし、ショスタコーヴィチは音楽の中に自分の真意をひそかに埋め込むようになっていった。


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 そう、ショスタコーヴィチが「戦争の主題」に込めたのは、反祖国的なもの、即ちスターリンによる粛正ではなかったのか。そう考えるとすべてが符合する。どこかおちゃらけた旋律が、サーカスのような対旋律を伴ってどんどん威圧的になっていく過程は、まさにスターリンの治世そのものでないか。

 すなわち、ショスタコーヴィチは、ナチスと戦う祖国の英雄を称える交響曲を書くと見せかけて、実はスターリンに対してあかんべえをかませていたということになるのだ!


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 ショスタコーヴィチの「音楽の暗号」は、彼の死後の1982年、西側で出版された衝撃的な「ショスタコーヴィチの証言」(ソロモン・ヴォルコフ編)で一躍表に飛び出た。回想録にはそれまで公式発言で形成されたいた西側のショスタコーヴィチ像とは全く異なる、彼があった。公式発言とは異なる、人間的に納得できるショスタコーヴィチがそこにいた。

 これで、めでたしめでたし。謎は解けたぜ、で終わればいいのだが…

 音楽の暗号は、数理的な暗号と異なり読み手がある意図を持っていなければ読み出せない。その意味では、ノストラダムスの予言とよく似ている。

 ということは、常に「それはショスタコーヴィチの真意か。深読みしすぎじゃないか」という問題がつきまとうことになる。戦争の主題が「メリー・ウィドウ」の引用って本当か?他人のそら似で、深読みしすぎじゃないか、というように。

 実際、現在では「証言」は「編者」ヴォルコフが、ショスタコーヴィチ周辺でプライベートに話されていたことや、ショスタコーヴィチが書いた文章を適当につなぎ合わせたものじゃないかという意見が優勢になっている。その証拠に、「証言」には、ショスタコーヴィチが死後に残した最大の爆弾が記載されていない。

 彼はスターリン時代に、スターリンをはじめとしたソ連政治を思い切り皮肉ったカンタータ「反形式主義的ラヨーク」を密かに書いていた。「証言」にはこの曲についての記述が一切ない。「反形式主義的ラヨーク」の存在を、本当に親しい人は皆知っていたが決して口には出さなかった。これが出てこないということは、「証言」は大して親しいわけでもないヴォルコフのでっちあげということだ、というわけである。


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 だが、私には、そういった混乱すら、実はショスタコーヴィチが意図したものじゃないかという気がする。

 ヴォルコフが西側の出版社に持ち込んだタイプ原稿にはショスタコーヴィチ自身のサインがしてあったという。

 私は想像してしまう。ソ連からの亡命を企てた若きヴォルコフが、西側へのみやげとして、ショスタコーヴィチの回想録をでっちあげるべく取材を開始する。それに気が付いたショスタコーヴィチは、ヴォルコフを呼びつける。おびえるヴォルコフに対して、老いたショスタコーヴィチは何も言わずに、彼の原稿にサインをいれる、というような鬼気迫る光景を。

 さて、長々とした話はこれでおしまい。「涼宮ハルヒの憂鬱」から始まって、ずいぶんと遠いところまで来てしまった。

 まあ、「射手座の日」でなにげなく使われた、そして、かつてシュワルツネッガーがCMで「ちちんぷいぷい」と歌ったメロディには、これだけの因縁がまとわりついていて、暗い暗い深淵が口をぽっかりと開けているのだ、ということで。


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 バルトークの「管弦楽のための協奏曲」は、色々な録音を聴いたけれど、このライナー指揮シカゴフィルの古い演奏が、やはり一番いい。歴史的名演だ。

 オーケストラの各楽器が、あたかもソリストのように縦横無尽に活躍する、エネルギッシュかつスタイリッシュな曲だ。第1楽章の途中、3本のトランペットと3本のトロンボーンがいきなり6声のカノンを演奏するあたりなど、背筋にぞくっと来るぐらい格好良い。


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 酸鼻を極めたレニングラード攻防戦の概要を知るには、このソールズベリーによるノンフィクションをお薦めする。長らく入手不可能だったが、最近再刊された。高いとかいわずに、買うべし。

 レニングラードの指導者だったジダーノフは、スターリンにとって目の上のタンコブ的存在だった。スターリンは、ジダーノフを消すために半ば意図的にレニングラードを見捨てたのである。その結果、市民は地獄を見ることになった。

 スターリンの意図に反し、ジダーノフは包囲戦を生き抜き、ナチス・ドイツを打ち破って、ソ連共産党における地位を固める。そして、戦後ジダーノフは、ショスタコーヴィチに対してさらなる個人攻撃を仕掛けることになるのだ。




 偽書だという説が優勢になっているものの、この「証言」が西側に出てきたときのショックは巨大だった。今後ともショスタコーヴィチの受容史を語るには欠かせない文献といえるのではないだろうか。

 最近はかなりショスタコーヴィチの研究も進んでいるようだが、私がフォローできていない。なにか良い本が出ているようならば、是非とも教えてほしい。




 ショスタコーヴィチ趣味の行き着く果て、ということで遺作の「ヴィオラソナタ」をリンクしておく。間違っても素人はこれを買ってはいけない。

 晩年に向かうにつれ、ショスタコーヴィチの音楽は鬱屈し、内省的で暗いものになっていった。その到達点が、死の直前に完成したこのヴィオラソナタだ。

 マーラーの後期交響曲を暗いと感じる人は多いだろうが、これはそれどころじゃない。おそらく、人類が手にした最も暗い、ブラックホールのような音楽である。
 にもかかわらず、この曲は、あたかもホーキング輻射のように光を放っている。恐ろしいまでに高貴で、気高く、そして真っ黒な絶望に彩られている。この曲と比べることができるのは、ゴヤが晩年に描いた一連の「黒の絵画」だけだろう。
 ショスタコ19歳のはつらつとした第1交響曲を考え合わせると、社会主義というのはいったい何だったんだろうかと考えざるを得ない。


Comments
ハルヒでかかってた曲はショスタコビッチだったんですね。ショスタコビッチについてはいろいろいわれていたのは知っていましたが改めて彼が生きていた1984年的世界に思いをはせてしまいました。
Posted by: winter_mute | 2006.08.10 06:10 PM

どうも、松浦さんには申し訳ないですが、ショスタコは、20世紀音楽全体から眺めたとき、大きく視界に入るような作曲家ではないです。この人の音楽、確かに面白い曲もいくつかありますが、音楽の発想が「24のプレリュードとフーガ」のように一見いろいろやってるように見えて、実は内容が貧しかったり、構成より技術に頼っていたり。

バルトークは、ひょっとしてそう言った音楽の本質的な部分から、まず許せなかったのではないか、と思っております。

「ちちんぷいぷい」藤家がアレンジしてたですね。あの子はあれで茶目っ気あるからなぁ(あの子、なんて言っちゃいけないですな)。
Posted by: 大澤徹訓 | 2006.08.11 10:41 PM



 ああ、やっぱり、大澤さんはきびしいなあ。

 あえて書かなかったのですが、「レニングラード」交響曲は、ショスタコーヴィチとしてはあまり良い曲ではないですね。「24のプレリュードとフーガ」もそうです。

 傑作とされる交響曲5番も、どこか「お前、全力を出していないだろ」という部分があります。難しいのはそれがショスタコーヴィチ自身の問題なのか、彼が巻き込まれた政治状況の問題なのか、なかなか判然としないところです。

 交響曲9番とか10番も、曲そのものだけではすべてを語り切っていない。当時のソビエトの状況を考えないと曲が完結しないというところがありますよね。

 逆に言うと異常な状況の中で、作曲家がどう生き延びたかという興味はありますね。音楽を楽しむという点では不純な興味ですけれど。

 私の体験を振り返るなら、まず、交響曲8番があります。指揮活動に乗り出したばかりのロストロポーヴィチが振った演奏を、高校の頃ラジオで聞いたのが始まりでした。

 深い深い1楽章と、続く2つのスケルツォの軽薄さ、そして陰鬱なアダージョと、ちょっと鬱から回復したかという印象の第5楽章、という奇妙さが深く心に残りました。

 それと弦楽四重奏曲、特に7番と12番です。7番ラストの破滅に向けて疾走するような感覚と、悪夢から覚めたという風情のコーダは、夢に見るほど魅せられました。

 そして最後の交響曲15番ですね。もう向こう側に行ってしまったとしか言いようのない曲です。その後に弦楽四重奏曲の15番があって、ヴィオラソナタがあって、このあたりはもう人類が書いた曲とは思えない部分があります。

 若い時に力任せで書いた曲も好きなんですけどね。交響曲2番のポリフォニーとか。あれは多分、教科書的にはやっちゃいけないことのオンパレードじゃないかと思うのですが。

 ああ、多分私は、ショスタコーヴィチの、音楽だけでは語りきれない、絶対音楽として捉えると不完全に見える部分が好きなのかも知れません。

Posted by: 松浦晋也 | 2006.08.12 12:20 AM

 訂正、弦楽四重奏曲は12番ではなく13番です。確かヴィオラのものすごく広い音程にアーチを描く旋律で始まる奴。

 途中で出てくる狭い音程をいったり来たりするフレーズが印象的な曲でした。
 12番は冒頭12音列が出たと思ったら、ドレドレレミレミという単純な全音階のフレーズで受けるという人を食ったやりかたで始まる曲でしたね。

 こんなことを書いていたら、あらためて交響曲と弦楽四重奏曲をひとつずつ聴き直したくなってきました(いやまあ、個人的記憶と色々結びついていたり)。

 それが愛かと問われれば、私はショスタコーヴィチの音楽を愛しているのでしょう。正当なる愛かと言われれば、多分違うのでしょうけれど。
Posted by: 松浦晋也 | 2006.08.12 10:46 PM

ときどきコメントさせていただいている、いしどう です。

えーと、オーケストラ・ダスビダーニャなる、ショスタキスト…じゃなくって(笑)ショスタコーヴィチの音楽が大好きなプレーヤが寄り集まって作ったアマオケでヴィオラを弾かせていただいたりしてます。

「レニングラード」交響曲(というより、単に「7番」といったほうがわたしにはしっくりくるんですが(^^;;)は3年ほど前に演奏しました(去年が1番で今年が8番。次は来年3月4日に池袋の芸術劇場で15番とバイオリン協奏曲第1番を演奏します。もしよろしければお越しください(^^))。とても楽しかったです。

『チチンプイプイ』ですが(笑)、あれはソビエト侵攻したナチスドイツ軍を表現しているもので、それをおちゃらかしているのですから、別段体制にたいしてあっかんべぇをしているわけでもないと考えています。また、「メリー・ウィドウ」が流行った時期のウィーンはナチスドイツ支配下にあったわけで、それも示しているんだということも聞きました。

いずれにしても、われわれにとってはソビエト連邦の存在はまだ近すぎます。どうしても、その社会体制とあわせてショスタコーヴィチの音楽を考えてしまいがちです。

ショスタコービィチの音楽が、20世紀を代表する音楽のひとつになるかどうかは、あと2〜3世紀たって、ソ連の存在が本当に歴史になったときにわかるのかもしれません(まぁ、そのときにまだ人類が存在していて、西洋古典音楽という音楽ジャンルが残っていれば、の話ですが(笑))

…えーと、なんか素人がえらそうなことを書いてしまいました。すみません。

Posted by: いしどう | 2006.08.14 02:13 AM

 あ、15番やりますか。あれは凄い曲ですよねえ。彼岸に渡り切っちゃって、向こう側で石を積んで遊んでいるような印象です。

>別段体制にたいしてあっかんべぇをしているわけでもない

 そういう、あいまいさを残しているところがショスタコーヴィチの立ち位置を象徴しているんだろうと思っています。

 誰が聞いたって第5のフィナーレは空疎です。まして直前の第4ではピアニッシモの主和音引き延ばしをやっていますしね(こっちの演奏効果は素晴らしい)。しかも、同じことを15番のフィナーレでもやっています。

 となると、一体5番のラストに込められたものはなにか、と考えたくなってくる。多分、それこそがショスタコーヴィチが仕組んだことなんでしょう。
Posted by: 松浦晋也 | 2006.08.17 07:42 PM


ハルヒと同じスタッフが、違うアニメで今度はブルックナーを使ったことで、只今話題を呼んでおります。

是非この件についてもそのうち取り上げてみてください。どういうご感想をお持ちになるか、興味があります。

「かんなぎ」という作品の第11話ですが、ブルックナーの交響曲第7番の第一楽章の冒頭を使用しています。

かんなぎはヒロインが神を自称すると言う設定の作品です。
そのヒロインが自らの自己分析を行うシーンで神性を確認するかのように曲は使われいます。そして途中でノイズによって意図的にかき消されると言う演出を行っています。
Posted by: すみのやきとり | 2008.12.15 02:25 AM
http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2006/08/7_2344.html
4. 中川隆[-14410] koaQ7Jey 2020年1月17日 18:29:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1324] 報告

石川清隆コラム
Testimony −ショスタコーヴィチの証言−
https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/10.html

『ショスタコーヴィチの証言』(注1)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E8%A8%BC%E8%A8%80-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%B3-%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95/dp/4122038529

という本があります。

刊行後、33年が経過しますが、スターリンやその取り巻き、その全体主義、プロコフィエフなどの音楽関係者、演出家のメイエルホリドなど様々な有名人に対する率直なコメントが書かれているばかりか、彼自身の曲についてそれまで聞いたこともないような面白い記述に溢れています。それはショスタコーヴィチの曲の解釈に多大な影響を与えただけでなく、その後のショスタコーヴィチ論の隠れたネタ本となってきました。

あまり程度がよいとは思えない"偽書論"については後日述べるとして・・。

本書にある、「ユダヤの民族音楽…それは非常に多様性を帯びていて、一見陽気だが実際は悲劇的なものである。それは殆ど常に泣き笑いにほかならない。ユダヤの民族音楽のこの特性は、音楽がいかにあるべきかという私の観念に近い。音楽には常に2つの層がなければならない。」という記述は、ショスタコーヴィチの曲の中で"勝利"だ"歓喜"だと言われていた楽章の中にある外声部,内声部の不可解な音の響きや基底部にあるリズムの意味を初めて説明していたものです(注2)。

例えば、ソ連体制下での"公式"な見解による「勝利の行進」とされていた有名な交響曲第5番の最終楽章について、「あそこにどんな歓喜があるのだ」「あれはボリスゴドノフの場面同様、強制された歓喜なのだ」と書かれています。

更に、公式には、「第7交響曲を我々のファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」と作曲者によって表明されたとされる「レニングラード」という通称を持つ交響曲第7番については、この「証言」では「私はダビデの詩篇に深い感銘を受けてあの曲を書き始めた」、「神は血のために報復し、犠牲者の号泣を忘れない、など」とあります。他にも引用したらきりがないほど面白い本です。

この本は、編者ヴォルコフが言うように、「ショスタコ-ヴィチと聴衆を隔てる最後の扉が彼の背後で閉められたら、誰が彼の音楽を聞こうとしただろうか。」(注3)という危惧感の元、「表向きの仮面が彼の顔にぴったり貼り付けられていた。それ故仮面の下から、用心深く、疑り深そうに彼の素顔が覗いた時、私は非常に驚いた」という、そのとおりの構成になっています。

ショスタコーヴィチは、音楽はそれ自体を聴いてその意味を感じるものであるが、ソビエト体制の下で、作品への批判を避けるため「公式」に表明したり、させられたり、勝手に代筆された言葉が、聴衆に彼の作品を理解してもらう為の妨げになっているということを強く感じて、こういう構成になったのでしょう。

その衝撃的な内容はショスタコーヴィチの時代背景や、彼の作品について、何度読んでも飽きない不思議な含蓄ある言葉に満ちたものです。一つの例としてダビデの詩篇との関係で語られた第7交響曲を挙げてみましょう。


交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」

この曲は、それまで第二次大戦中にナチスドイツがレニングラードを包囲したその最中に作曲され、その後ソ連は反撃に出てその包囲を解きソ連を勝利に導いた様子を曲にした"戦争交響曲"というような解釈がなされてきました。

実際にこの"公式見解"に沿った、第1主題提示 「この曲の主人公であるソヴェト国民の持つ勇気と自信」(「ボレロ的」展開)、「ファシスト侵略の醜鼻の印象を描き出す」「戦争の主題」 第1主題の短縮再現 「われわれの英雄たちのための(中略)この鎮魂曲をきいて我々は泣かない。こぶしを固めるのだ」…というような解説が、真顔で書かれていました(注4)。

『証言』では、「この曲は戦争の始まる前に構想されていた為、ヒトラーの攻撃に対する反応としてみるのは完全に不可能であり、冒頭の楽章で執拗に繰返される「侵略の主題」は実際の侵略とは全く関係がない」とし、「ヒトラーによって殺された人々に対して、私は果てしない心の痛みを覚えるが、スターリンの命令で非業の死を遂げた人々に対しては、それにも増して心の痛みを覚えずにはいられない。」

この交響曲などが、ナチスドイツとの攻防をテーマとする"戦争交響曲"と捉えられていることについて、「(戦後30年もたって彼らは)何故自分の頭で考えようとしないのだろうか…」「私の多くの交響曲は墓碑である」「(これは)第4番に始まり第7番第8番を含む私の全ての交響曲の主題であった…」と記されています。

戦争前には、スターリンは国内では人民の敵だとして粛清で多数の無辜の人々を殺していました。ヒトラーと独ソ不可侵条約を結び、他方では赤軍の機械化近代化を推し進めていたトゥハチェフスキー元帥(注5)を拷問にかけナチスのスパイだとして銃殺し、これに関係していたとして数百人の将校を処刑しています。他にも粛清で殺された人は多数いました。これらの人々に対しても捧げられた曲だというのです。

これでは、「あれは"戦争交響曲"だ」「侵略者の醜鼻を描きソビエト人民の勝利を輝かしく描いているのだ」などと、上から目線で言っていた人たちはナチスと戦ったのだから社会主義は正義だと思っていたのですから、「同類だ」と言われて立場がなくなりますね。

この曲に関し、初演当時からハンガリーの作曲家べラ・バルトークがショスタコーヴィチに対して「不真面目である」と怒りを表し、「管弦楽のための協奏曲」の中にショスタコーヴィチを皮肉っている部分があるという話がありました。

しかし、何にバルトークが怒っていたのかはよく分からないままでした。

これについては、「管弦楽のための協奏曲」の中だけでなく、ショスタコーヴィチの交響曲第一楽章にもまた、レハールの喜歌劇「メリー・ウィドウ」のパロディが含まれていたという事実から、バルトークの意図が分かります。

この第1楽章の「戦争の主題」とレハールの旋律との関係は、『証言』の編者のヴォルコフが、1979年の英語版『概説(未邦訳)』の注釈ではじめて説明しました。それによると「戦争の主題」の後半はウィーンのオペレッタ作曲家フランツ・レハールの有名な「メリー・ウィドウ」の引用であり、その部分の歌詞は「(キャバレー)マキシムへ行こう〜」だったというのです。(注6)

続く歌詞は「そこの女達は祖国を忘れさせてくれるのさ・・」というものです。
指揮者ムラヴィンスキーは、この初演をラジオで聴いて、このマーチはナチスの侵略ではなく「作曲者が既に創作しておいた愚劣さや、甚だしい下品さの普遍的イメージだ」と思ったと追想していたそうです。(注7)

また、上から目線の人たちは、この曲の最終楽章(第4楽章)については、「(「人間の主題」)が全楽器の絶叫によって打ち立てられ、序奏の同音連打が勝利の宣言となる。」とか言っていました。終わりのコーダ部分が何かしら敵に鉄槌をくらわせているように聞こえるのでしょう。

そのように聞こえなくもありません。『証言』が述べているのはこの「敵」はナチスだけでなくスターリンの殺戮マシーンのような体制でもあるということでしょう。するとここでは「勝利」でなく「鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」(注8)という「裁き」ないし、「報復」を表現しているのかもしれません。

あえてイメージで語るとすれば・・・、全楽器の絶叫によってそそりたつように打ち立てられるのは、「雷を伴った大きな雲の柱、火の柱」(注9)のようです。
旧約聖書では、「民のため敵に復讐する神は雲の柱の中にいます」、

詩篇では、「雷鳴は車の轟きのよう。・・稲妻は世界を照らし出し地は慄き、震えた。」(注10)

「(主は)、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らへの「裁き」(の杯への分け前)となろう」(注11)

という記述があります。

『証言』で「神は血の為に報復し、犠牲者の号泣を忘れない、などとある」と言及しているのは、言葉で解説するとしたらこのようなことかもしれません。そしてこの「人間性に対する敵」に鉄槌を下すのが、神ではなく、戦争や暴政の中で虐殺されていった人々の無念、かなしみ、慟哭の果ての激しい怒りなのでしょう。

なお、第4楽章の後半は、フレイシュマンのオペラ「ロスチャイルドのヴァイオリン」の終曲の旋律、展開が基調にあるように聴こえるのですが・・・(注12)。

「反形式主義的ラヨーク」(作品番号なし)の登場

『証言』の中で、ジダーノフ批判に触れて「私にはこの主題を描いた作品があり、全てはそこで語られている」と言う記述があります(注13)。

この本の出版後10年たった1989年には、これに符合する、誰も知らない謎の作品が「反形式主義的ラヨーク」として、初演されました。

これは、戦後のジダーノフ批判の時の、スターリンや取り巻きを茶化した声楽曲(世俗カンタータ)で、ヴォルコフの初版『概説』にもこの部分について触れた記述があり、『証言』本文の中でも、この作品の存在を示唆した辺りの記述内容と視点、取り上げ方は一致していました。作風はゴーゴリの原作に基づくオペラ「鼻」を思い出します。

ある偽書説論者は、このソビエト当局を揶揄した「ラヨーク」 が見つかった時に「なぜ『証言』にはラヨークの存在が書かれていないのだろう」 と得意満面に発言したそうです。その後『証言』の翻訳者が、『証言』中にラヨークの存在についての記述があることを指摘しましたが、前言を訂正することはなかったようです(きっとこの論者は邦訳も英語版も読んだことがなかったのでしょうね)。

未だにこの『証言』の内容の中には偽書であることを疑わせる「事実誤認」は確認されていないどころか、この『証言』の内容を裏付ける事実がどんどん出てきました。ソビエト崩壊後、埋葬された場所すらわからない演出家メイエルホリドが拷問され銃殺されたことは、判決文や、取り調べ過程の資料が出てきました(注14)。
まだまだ、おもしろい発見や埋もれている事実があるように思われます。
(つづく)


(注1):『ショスタコーヴィチの証言』(原書:Testimony : The Memorries of Dmitori Shostakovich)1979年10月ソロモーン・ヴォルコフ(ロシア人音楽学者)の編。N.Yにて出版。英訳はAntonia W. Bouisによる。英訳では編者序(Preface)、編者の概説(Introduction)、本文からなる。
邦訳「ショスタコーヴィチの証言」(水野忠夫訳, 中央公論社, 1980)はロシア語タイプ原稿によっているが、編者序、本文のみで編者ヴォルコフの概説(Introduction)は未訳。

(注2):『証言』、出版後25年たって、この「証言」に「ユダヤ音楽の二層」「泣き笑い」というあたりにかかれていたことを、たとえば「二重言語・・ショスタコーヴィチの音楽に含まれた両義性」などと著者の新見解のように書かれている本まで出てきました。総じて、「証言」の結論見方に極めて近い、ないし事実上引用している箇所がかなりあるに出典を明らかにしていません。おもしろいことです。

(注3):邦訳編者(ヴォルコフ)序P.5

(注4):井上頼豊「ショスタコーヴィッチ」(音楽之友社)(P.117以降)
なお、これとは別に、清透な深い悲しみに満ちた第3楽章 Adagioについて「(「祖国の大地」)」とか表題をつけて、「比較的叙情的で明るい内容を持つ。」「陽気で息の長い旋律が現れる。」「祖国愛を表現している。」とか真顔で書いてあるのをどこかで読みましが、これも同類の方なのかもしれません。

(注5):ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー ソ連邦元帥。赤軍の機械化,ロケット兵器開発などを推進。数々の戦術理論を編みだした。スターリンの赤軍大粛清の犠牲者の1人。1937年5月逮捕され、トハチェフスキーは拷問にかけられ、自白を強要させられた。トゥハチェフスキーの調書にはその時の血痕が残されているという。『証言』第三章の後半は、トゥハチェフスキーに関する記述である。

(注6):1979年英語版 概説[Introduction] xxxiv脚注 に明記されている。
この点について我が国では、柴田南雄氏がはじめて指摘したという理解がなされている。しかし、同氏の指摘は、1980年刊の「海」所収のエッセイの中で述べられているので『証言』の邦訳の発刊前であるが、ヴォルコフの指摘はその前年である。
同氏の指摘のみを前提で議論している人は、きっと『証言』の英語版は読んだことがなかったのでしょう。

このマーチとはTVのCMで「シュワちゃん、リエちゃん、チチンプイプイ〜♪」とやっていたあの旋律です。

(注7):概説[Introduction] xxxiii〜xxxiv 原文は"the composer had created universalized image of stupidity and crass tastelessness"

(注8):旧約聖書詩篇第章9節
(注9):同出エジプト記13章
(注10):同詩篇第11章6節

(注11):同77章19節 なお、筆者は特定の宗教への信仰はありません。

(注12):ヴェニアミン・フレイシュマンはソ連邦の夭折したユダヤ系の作曲家。『証言』において、弟子であったフレイシュマンを高く評価する記述がある。チェーホフの短編によるオペラ「ロスチャイルドのヴァイオリン」に着手したが、最前線に志願し、28歳で戦死した。ショスタコーヴィチはフレイシュマンの自筆譜にオーケストレーションを施し、1944年2月完成させた。1968年初演されたが、ソ連体制下では二度と演奏されなかった。

(注13):邦訳初版P.215、上段、英語版初版本文P.147,7〜9行目、同ページ脚注
英語版 概説[Introduction] xxxiv脚注、 に明記されている。

(注14):『証言』第三章の前半は、メイエルホリドに関する記述である。
名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書、1994年などがある。
https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/10.html


▲△▽▼

石川清隆コラム
俗物根性(Пошлость)と芸術に対する「冷笑」
https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/27.html

1.注解のほうが交響曲そのものよりも重要だと考えている人々 (注1)

最近話題の佐村河内という被爆2世で聴覚障害がある人物の作とされていた曲には、実はゴースト・ライターがいたという。

何曲か聞いたことがあるが「広島」と題された曲はマーラーの交響曲第2番第5楽章をベースにした習作的作品かと思っていた。「佐村河内の作品」群は、新垣という人の作品だという。音楽まがいの「音楽」というのは数あるが、これらの作品群は音楽的に優れたものと思う。なんでこのように作者をたがえて「お出まし」にならなければいけなかったのだろうか…。

世の中にはアイドル歌手やタレントが自伝や本を出すとき、ゴースト・ライターに書いてもらうことは良くあるといわれ、ゴースト・ライター「専門家」もいる。
今回のは、質的によいものであっても、被爆二世が作曲した「HIROSHIMA」とか「耳が聞こえないハンディを乗り越えて努力の末に作品を完成させた」、東日本大震災をテーマにした「レクイエム」とかいうふれこみで売ろうとしたのだろう。

音楽作品の内容、完成度でなく、何か話題性、逸話を造り上げて、良い物でも、まがい物でも「売らんかな」の音楽業界の商業主義的体質、話題性を『付加価値』とする芸術とその鑑賞者に対する「冷笑的」な傾向が見え隠れします。

作曲家ショスタコーヴィチが「生活の為なのだとそっと言われるところに、すべての悲劇が発生する。」として知人から聞いた面白い話を紹介している。

「それこそドストエフスキーの小説に出てくるような素晴らしい光景であった。二人の「共作者」が便所で落ち会う。一人は相手に金をつかませ、もう一人は相手に高潔さを主題としたいつもの歌を手渡す。そして陰謀を隠すために、便器に勢いよく水を流す。このように崇高で詩的な状況のもとでいわば国民の道徳水準の向上を訴える価値のある新しい作品が生まれるのである。」

それを咎めると「わたしの相棒はきちんとかなりの金を支払ってくれている。ほかの人たちからの注文も受けなければならないのだ。だがそのおかげで生きてゆけるのだから、彼に感謝している。だからきみを中傷好きな人だと吹聴してやる。」 (注2)
と言われたそうです。

2.「革命」という"勇ましい"副題(交響曲第5番)

このショスタコーヴィチの作品で有名な交響曲第5番 (注3) がありますが、これに「革命」とかいう副題をレコード会社が勝手につけて売り出していたのは我が国だけ。

この曲は、現在では、感情的な諸相がかなり複雑な内容を含んでいる曲であることは広く理解されていますが、初演当時「フィナーレでショスタコーヴィッチは新しい創造的手段を見つけ出し、音の壮大さ、雄大さを生み出している。満場が立ちあがる。満場は喜びと幸福感にとらわれる」 (注4) とか褒められて、社会主義リアリズムを代表する交響曲とされて世界中に喧伝されていました。

この曲の最終部分、速度指定はかなりゆったりとしているのですが、アメリカの指揮者バーンスタインは1959年、ソ連に演奏旅行に行った時、この交響曲第5番の演奏で第4楽章のコーダのテンポ(開始部も早い)を倍以上の4分音符=200ほどの超快速で演奏しました。するとかなり軽い諧謔的なおちょくった演奏になるのですが、当時のソ連共産党関係者は、よく分からずにこれを明るい"勝利の凱歌"のように感じてひどく喜んでいたそうです。またバーンスタインが1979年に来日した時の演奏も第4楽章のコーダのテンポも同じくらい速く (注4) 、この曲LPレコードに「革命」とかいう副題が勝手につけられたのはこの前後でしょうか。

当時、ショスタコーヴィチの曲のレコードを買う人の多くは、この曲の最後に「「勝利の行進」を聴くのだ」とか確信を持った人が多かったのかもしれません。このような人たちを満足させるために「革命」とかいう副題をレコードジャケットの帯に付けて売ろうとしたのだと思います。

まあ聞く方も、今ではどう聞いても軽薄で諧謔的な演奏に対し、「気迫溢れる、逞しく勇ましい「革命」を聴かせてくれた」とか「光り輝く圧倒的な勝利を告げるフィナーレまで熱く激しく聴かせてくれた」とか感激しちゃったり。 一部の音楽評論家などが、「うわっすべり的なから騒ぎ」とか書かないまでも速度指定の問題などを書くと、「これだけ演奏が燃えているのに、この批評からはこの凄い演奏に対する熱が感じられない!」とか非難される始末でした…。 (注5)

どうしてこのような「冷笑的態度」で「革命」とかいう副題 (注6) をつけて付加価値を付けられるのでしょうか。

亡命ロシア人の作家ウラジミール・ナボコフは「俗物は感動させること感動させられることを好み、その結果として欺瞞の世界、騙し合いの世界が彼によって彼の周囲に形成されるのである。」 (注7) という。

ショスタコーヴィチは革命後、困窮して「食うためならどんないまわしい行為でも、わたしはしてみせる」と書いたチニャコフという詩人を例に挙げ、「重要なのは食べることであり生きている間はできるだけ甘い生活を送りたいというのである。これは冷笑的な心理と呼ぶだけでは不十分で刑事犯の心理である。わたしの周囲には無数のチニャコフたちがいた。才能のある者もいればさほど才能のない者もいたが。しかし彼らは協力して仕事に励んでいた。彼らはわが国の芸術を冷笑的なものに変えようと努めその仕事を上首尾に成しとげたのであった。」 (注8) と述べています。
チニャコフは、街に立ち「詩人」と書いたボール箱を首から胸に吊るし、通行人から金を恵んでもらいその金で、高級レストランで飲食し、翌日はまた街角に立っていたという。

3.ゴーゴリ『外套』、冷笑的なまなざしでない「不条理」なもの

「貧しい下級官吏がなんとか外套を新調する。外套は生涯の夢になる。ところが、その外套を最初に着た夜に、暗い街区で外套を剥ぎとられて、悲嘆のあまりに死んでしまう。

夜な夜な街区をうろつく外套を着た幽霊が出る。そして幽霊が高慢ちきな上司の外套を剥ぎとってしまう…。」

この作品を、ゴーゴリが単に精神異常をきたして「冷笑して」いるとか、いや、「虐げられる弱者との主題を設定し、ゴーゴリが読者に「人道的な同情を求めている」と読むべきとかいろいろな議論があります。

ナボコフは「ロシアには気取った俗物根性を指す特殊な名詞ポーシュロスチというのがある。屑であることが誰の目にも明らかな対象を指すだけではなく、むしろ偽りの重要性、偽りの美、偽りの知恵、偽りの魅力を指す。何かにポーシュロスチというのは、美学的判断であるばかりか、道徳的弾劾でもある。真なるもの、善なるものは、決してポーシュロスチにはなり得ない。ポーシュロスチは文明の虚飾を前提とするからである。」という (注9) 。

ナボコフはこの主人公の下級役人は「不条理」な現実の精神を体現している「亡霊」だと指摘し、「何かがひどく間違っていて、すべての人間は軽度の狂人であり、自分たちの目には非常に重要と見える仕事に従事している一方、不条理なほど論理的な一つの力が人間たちを空しい仕事に縛り付けている――これがこの物語の本当の"メッセージ"である」 (注10) と結論付けている。

 このように『外套』の主題をとらえて、「身にそぐわない衣」といえば、ゴーゴリは、シェイクスピアの一節を読んでいたのかもしれませんね。王位を奪い暴君と化したマクベスに対し、シェイクスピアは貴族ケイスネスにこう語らしている。 「いまこそ彼はその王という称号がだぶだぶで身体(み)にそぐわくことを感じているのだ。あたかも巨人の衣を盗んだ侏儒(小人)のこそ泥のように…」 (注11)

4.ゴーゴリの『鼻』は?

では、『鼻』は…。

「正気の沙汰とは思えない奇妙きてれつな出来事、グロテスクな人物、爆発する哄笑、瑣末な細部への執拗なこだわりと幻想的ヴィジョンのごったまぜ」 (注12) という解釈もあるのはゴーゴリの『鼻』です。

ナブコフは小説『鼻』について多くを語りませんが、「ゴーゴリにとってのローマは北国に拒まれた良好な健康状態を暫のあいだは保っていられた場所だった。イタリアの花々(それについて彼は言った「墓の上におのずと咲き出る花々をわたしは尊敬する」)は 一個の「鼻」に変身したいという激しい欲望で彼を満たした。目や腕や足など他のものは一切要らない。ただ一個の巨大な鼻「ありとあらゆる春の香りを吸いこめるような二つの手桶ほどの大きさの鼻孔をもつ」鼻になりたい。イタリアにいた間ゴーゴリは特に鼻意識が強かった。」 (注13) という。しかしそれ以前にロシアでゴーゴリの書いた『鼻』の不条理は怖いほどです。

ショスタコーヴィチは言う。

「『鼻』は滑稽ではなく恐ろしい物語である。」「鼻のイメージにもなんら滑稽なものはない。鼻がなければその人は人間ではないが鼻のほうはその人がいなくとも人間になれるし、権力者にもなれる。これはけっして誇張ではなくて歴史の証明する真実である。もしもゴーゴリが今日まで生き続けていたならそれ以上のものを目撃したことだろう。今日では、このような鼻が幽霊のように徘徊していて、たとえばわが国の共和国で起こっていることもその意味ではまったく滑稽ではないのである。」 (注14) ショスタコーヴィチは、ゴーゴリのこの小説をヒントに弱冠20歳でオペラ『鼻』作品15を作曲しました。この作品は、このオペラの中で『鼻』が大衆に囲まれてボコボコにされるように批判され40年余、1974年までロシアでは上演されませんでした。

この作品への批判は、まさに"気取った下司"によるものです。
ナブコフはいう。

「俗物は順応主義者つまり自分の仲間に順応する人物であり、そのほかにもう一つの特徴をもつ。すなわち、ニセ理想主義者であり、ニセ慈善家であり、ニセ学者である。欺瞞は真の俗物の最も親しい友人なのだ。「美」「愛」「自然」「真実」といった偉大な言葉は気取った下司に用いられるときすべて仮面になり"囮おとり"になる。」 (注15)
どんな批判であったのか、は当時の批評家 (注16) の批評をそのまま引用したロシア・ソヴィエト音楽研究に従事した井上頼豊の『古典的名著』 (注17) があります。どんなことを言っているかというと…。

この研究者は、「彼は…歌劇『鼻』で形式主義的傾向の頂点に達した」と結論付け、「『鼻』の抽象的な奇抜さはソヴェトの音楽劇になんの足跡も残さなかった。同様の原理に基づいた他の諸作品も同時期にあらわれたが、ショスタコーヴィッチの歌劇のような自然主義の極端まではいっていなかった。」と評しています。"形式主義的傾向"か"自然主義の極端"とかどういう意味か未だに分かりません。書いているご本人もわかっていたのでしょうかね。

そして、「西欧音楽の革新の影響は…彼らは…知らず知らずのうちにロシア楽派の健康な基礎から次第に遠く迷い出て行った。」とプロレタリア音楽の理想を踏み外したんだそうですが、その理由として「新しい作品が現代音楽界を喜ばせたいという事実が、ショスタコーヴィッチの発展を形式主義の方向へ押しやったことは疑いない。」という。

そしてこの偉大な作品を「歌劇はエヌ・ゴーゴリの同名の名高い物語によっているが、そのユーモラスなリアリズムを失って小話の領分におちている。」とまで断言してしまうのです。

もう一つ面白いことは、井上頼豊はこの「ショスタコーヴィッチ」(1957年)でこの作品をこのように、ケチョンケチョンに批判しているのですが、この批評がこのオペラの録音を聴いたり、楽譜、台本を見て書かれた形跡が全くないのです。 楽譜がウイーンで出版されたのが1962年(戦前に海外での演奏の権利を譲渡していた)、ロジェストヴェンスキーがボリショイ劇場地下壕で筆耕本スコアを発見したのが1950年代終わり(ショスタコーヴィチの手元にはスコアは全くなかった)、1970年に演出家がボリショイ劇場で学生たちと試演したときは録音すらなかった…。井上頼豊センセは台本も楽譜も録音も聞かないで「形式主義!」とか書いていたようですね。
そしてその分析がまたブラックジョークのように面白いのです。
ア 台本について

「こんなきちがいじみた寄せ集めの台本が'作曲家に本当の劇的な基礎を与えないのは明らかであろう」と断じています。

「性格の異なった様々の作品を結びあわせることを原則とした台本の構成そのものにもあらわれていた。古典を"編集する"という破壊的な方法」で「台本の構成…そのものが形式主義的でテキストはゴーゴリのいろいろな物語から編集され 『鼻』の話の他に『昔気質の地主たち』『死せる魂』『狂人日記』『タラス・ブリーバ』および『結婚』の抜粋を含み、おまけにドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』からとったスメルシャコフの小歌まで入っている。古典文学のこのような扱い方は論外である。」そうです。

『オペラ鼻』のコワリョーフ(注;鼻のなくなる八等官)の下男の歌は、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフ(注:カラマーゾフ家の使用人(コック)。私生児で無神論者)の歌「不屈の強さで、・・・私は愛に至った。神は彼女と私を祝福している」から引用したもので原作にはない下男イワンがバラライカを持って歌うシーンのことですね。これをゴーゴリの作品の中にあるドストエフスキー的要素の抽出・演繹で素晴らしいと思うか、つぎはぎと思うかですが…。
イ 音楽については

井上は、「『鼻』を書いているとき、作曲者が歌劇の設計をまるで忘れていたことは明らかである」とし、「彼の注意は、明らかに新しいポリフォニー効果の追求に奪われていたのである。急速な歌と踊りの形は、もっぱら"仮面" だけで仕上げられ、どれもが誇張されて馬鹿らしいものになっている。」

「これは第一にアリアの配列で証明できる。ふつうの意味での旋律の原則はここにはない」「レシタティーフは、時には縮まってふつうの会話になっている。その上ショスタコーヴィッチのレシタティーフは奇妙な、言葉を摸した誇張した抑揚で書かれている。」

「声楽の配置(したがってまた全歌劇の様式)は故意の不自然さと露骨なおどけとがめだっている。」…とか。

ダニール・ジトミルスキーは「不条理な効果は登場人物のまさにイントネーションで表現されている。しかしながら、それらはゴーゴリの実際の音声の原型を風刺的に解釈したものではありません。」「それらはゴーゴリの小説に存在した主要な風刺を排除している。」という。

「ゴーゴリの皮肉を構成するものは、まさに異様な状況とこれに対する普通の対応を並置していることです。小説の語彙は、日常生活で使用される語彙に極めて近い。オペラの語彙については、それがほぼ完全にパロディです。このパロディは特徴として、ゴーゴリが使用したかなり正確な本来の標準(の語彙の意味)とのすべての関係を失うほどラジカルである。不条理な効果は登場人物のまさにイントネーションで表現されている。しかし、それらはゴーゴリの実際の音声の原型を風刺的に解釈したものではありません。多くの場合、これらは作曲家自身によって発明された音楽的「知的障害」だったのではなく、彼の思考の中で、最良の方法で、登場人物の不条理を表現することを意図したものだ。」

「音楽を通じて愚かさ、不条理と下品を表現しようとして、彼はパロディ化した元となる主要な情報源との接続を失うことなく、彼はこれらの心理的な形象の音楽的に同等な表現を発見した…。」 (注18)

というが、こちらの方がゴーゴリの「小説」とオペラ「鼻」との関係を的確に分析しているように思います。

井上の評論は、まさにナブコフの言う「俗物性」そのものです。
「俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくていわゆるクリシェすなわち決り文句、色褪せたせた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の1つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない」 (注19)

そして、「科学的社会主義的唯物論」と称する「疑似科学的全体主義的俗物論」から芸術とその鑑賞者を冷笑していたと思います。


(注1):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.282
(注2):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.253

(注3):交響曲第5番 ニ短調 作品47は、ショスタコーヴィチの作品の中でも、特に著名なものの一つ、コーダの楽譜の指定テンポは4分音符=92なのにバーシュタインは4分音符=188〜200ほどのスピードで演奏している。

(注4):アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ1883年- 1945年)など。有名なレフ・トルストイとは別人。この交響曲第5番は当時ソ連作家同盟議長アレクセイ・トルストイの論文(ショスタコーヴィチの第5交響曲、1937年、イズべスチァ紙)で絶賛されました。

(注5):日本における西洋音楽受容に関する社会学的分析のための一試論
−− D.Shostakovichの場合−−由谷 裕哉"例えば、『証言』以前の第5交響曲の解説で、典型的な一つに、「プラウダ」に批判(=教育?)されたことによってはじめて、ショスタコーヴィチは第5交響曲のような「真の名作」−−この表現には、もちろん、人民大衆のための、という含意が含まれている−−を作りえた、というレトリックによって、ショスタコーヴィチの創作環境を外的に制約(あるいは抑圧)した党による文化政策が、臆面もなく正統化されていた

(注19)※ちなみに、この頃<1970年代初頭頃>の筆者は、時代的な潮流もあって、新左翼的な運動にある程度のシンパシーを抱いていたが、この議論だけは、その頃からとうてい納得出来ないものであった。
この(注19)はバーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニックによる一度目のレコード(1959年録音)の日本版ライナーノーツ(CBSソニー)で、執筆者は門馬直美。

(注6):フェイ、邦訳「ある生涯」p.136
「彼は自らの交響曲第五番に'何ら副題をつけたり裏書きしたこともないし'出版された楽譜に副題が記されていたこともない」
「私の創造的回答」(掲載誌不祥)には'作曲家の署名付きで発表され「最終楽章で、最初の3楽章までの悲劇的なまでに緊張した瞬間を人生肯定的で楽観的な構想に溶かし込んでいます」と書かれたりしたが…。

(注7):ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフ(Владимир Владимирович Набоков Vladimir Vladimirovich Nabokov,(1899年- 1977年)は、帝政ロシアで生まれ、ケンブリッジ大学へ入学、ロシア革命のために帰国を断念フランスやドイツで亡命者として転々とした生活を送り、1940年にアメリカへ渡ります。アメリカではコーネル大学で教職に就き、ロシア文学を教えました。 『ロシア文学講義』"Lectures on Russian Literature" (1981年)

小笠原豊樹訳、TBSブリタニカ 1982年、「俗物と俗物根性」("Philistines and Philistinism"p.376)

(注8):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.257
(注9):ナボコフ『ロシア文学講義』p.376
(注10):ナボコフ『ロシア文学講義』p.72〜73
(注11):マクベス 第5幕第2場  スコットランドの貴族ケイネスが暴君「マクベス」を指して言う言葉、(訳は拙訳)
(注12): 光文社新訳文庫: 解説
(注13):ナボコフ『ロシア文学講義』p.57
(注14):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.300
(注15):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.257
(注16):マルトゥィノフ「ショスタコーヴィチ・人と作品」 (注17):井上頼豊「ショスタコーヴィチ」1957年 音楽之友社p.30〜
(注18):ジトミルスキー「Shostakovich Reconsidered, ed. Ho&Feofanov1998」(p.438〜439) (注19):ナボコフ『ロシア文学講義』p.376
https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/27.html


5. 中川隆[-14408] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:20:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1322] 報告
エフゲニー・ムラヴィンスキー
レニングラード・フィルハーモニー交響楽団
Bartók - Music for strings, percussion & celesta - Mravinsky Leningrad 1965

6. 中川隆[-14407] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:23:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1321] 報告

チョン・キョンファ
Kyung-Wha Chung plays Bartók "Violin Concerto #2" - (Boston, 1975)

7. 中川隆[-14406] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:25:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1320] 報告
アルゲリッチ
Béla Bartók - Concerto for Two Pianos, Percussion, Orchestra

8. 中川隆[-14405] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:31:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1319] 報告
ゲザ・アンダ
Bartók: Piano Concerto No.3, BB 127, Sz. 119 - 1
https://www.youtube.com/watch?v=hdV3Cl_6wLg
https://www.youtube.com/watch?v=KrU4nyGac2U
https://www.youtube.com/watch?v=kZKR4AGSUCg
9. 中川隆[-14404] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:33:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1318] 報告
バシュメット
Yuri Bashmet plays Bartok Viola Concerto - video 1985

10. 中川隆[-14403] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:36:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1317] 報告
バルトーク・シゲティ・グッドマン
Bartok:Contrasts For Violin,Clarinet&Piano-Szigeti,Goodman&Bartok

11. 中川隆[-14402] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:41:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1316] 報告
タカーチ四重奏団
Bartók: String Quartet No.3, BB 93 (Sz.85)
https://www.youtube.com/watch?v=QhPv_2-VG1Y
https://www.youtube.com/watch?v=KY_OAfN0Y7k
https://www.youtube.com/watch?v=AjZNLUeGoOw
12. 中川隆[-14401] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:45:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1315] 報告
タカーチ四重奏団
Bartók: String Quartet No.4, BB 95 (Sz.91)
https://www.youtube.com/watch?v=F_hoMKGbalY
https://www.youtube.com/watch?v=0Ga15wRGYGk
https://www.youtube.com/watch?v=TP74FhypOB0
https://www.youtube.com/watch?v=InwUCs3htBg
https://www.youtube.com/watch?v=NcJxDfrPDns
13. 中川隆[-14400] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:49:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1314] 報告

タカーチ四重奏団
Bartók: String Quartet No.5, BB 110 (Sz.102)
https://www.youtube.com/watch?v=7f29-B2XVDA
https://www.youtube.com/watch?v=jdJfpkcZgoU
https://www.youtube.com/watch?v=sS2x98GyxlA
https://www.youtube.com/watch?v=juHYWX28_jw
https://www.youtube.com/watch?v=7f29-B2XVDA
14. 中川隆[-14399] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:52:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1313] 報告
タカーチ四重奏団
Bartók: String Quartet No.6, BB 119 (Sz.114)
https://www.youtube.com/watch?v=Vtz7S5FTDaE
https://www.youtube.com/watch?v=Y9WEc_HtrxM
https://www.youtube.com/watch?v=sY6TYlwSeQo
https://www.youtube.com/watch?v=09efiLibS88
15. 中川隆[-14398] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:54:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1312] 報告
バルトーク自作自演
Allegro Barbaro by Bela Bartok

16. 中川隆[-14397] koaQ7Jey 2020年1月17日 21:58:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1311] 報告

バルトーク自作自演
Béla Bartók at the piano Allegro Barbaro



17. 中川隆[-14396] koaQ7Jey 2020年1月17日 22:01:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1310] 報告
バルトーク・シゲティ
Bela Bartok and Joseph Szigeti play Beethoven Kreutzer Sonata


https://www.youtube.com/watch?v=AZG2iKESTLk
https://www.youtube.com/watch?v=QSflm15fKPs
https://www.youtube.com/watch?v=u3adLvwIm8Y

18. 中川隆[-14394] koaQ7Jey 2020年1月18日 09:46:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1308] 報告

バルトークはベーゼンドルファーを弾いていた

スタインウェイとベーゼンドルファーの弾き比べ



久元祐子ピアノリサイタル『ベーゼンドルファー いま 昔』



★ベーゼンドルファーにつきましては、意外に思われるかもしれませんが、私は、バルトークをベーゼンドルファーで弾くことで、理解することができました。

現在は、もうそのようなことはございませんが、一昔前は、バルトークのピアノ作品は、ピアノを打楽器のように扱い、“荒々しい民俗音楽風の作品だ”と思っている頭の固い先生方が、結構いらっしゃいました。

私は、高校生の時、バルトークのオーケストラ作品を聴き、彼を大好きになり、ピアノ曲も8分の7拍子などの変拍子をつかった、踊りだしたくなるような曲が大好きでした。



★バルトークは、ベーゼンドルファーのグランドピアノを持っていました。

ベーゼンドルファーで、彼の曲を弾きますと、ベーゼンのもっている豊かな倍音、意識的に聴くことはできなくても、確かに鳴っているその倍音が、限りなく音の広がりを感じさせ、安らぎを与えるのです。

まるで、ベッチャー先生のチェロのような音の響きです。

バルトークが求めていた音は、ぶっきらぼうで、乾燥した非人間的な音ではなく、このような音だった、と実感できました。



★「ミクロコスモス」を弾いても、なんて優しい愛情に満ちた曲なのだろう、と感動します。

同じことは、シューマンの作品をベーゼンで弾いてもよく分かります。

シューマンの天才的な耳は、ピアノ作品の和音の中に、倍音による限りない広がりを求め、また、聴いていたのです。

「謝肉祭」の冒頭の和音は、ルービンシュタインが弾くスタインウェイの剛毅で豊かな響きも素敵ですが、ベーゼンで弾きますと、もしやシューマンは、この豪華で、そして、どこか夢の中の世界のような、現実を超越したプラトンの言うところの「イデアの世界」を聴いていたのかもしれません。



★間違っても、現代の電子楽器では、決して聴くことのできない、体験することのできない「芸術としての音の世界」です。

この音の世界を作り出せるピアノ「ベーゼンドルファー」が、商業主義の犠牲にされず、人類の美しい英知の一つの結晶として、設計変更されることなく、同じ質を保ちつつ、作り続けられることを、心より願ってやみません。
http://blogs.yahoo.co.jp/nybach321/53495740.html
19. 中川隆[-14393] koaQ7Jey 2020年1月18日 09:48:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1307] 報告

バルトークの家(ブダペスト旅行記1) 2012-09-11


先週、ブダペストに4泊5日、賞味、丸3日の、小旅行に行ってきました。

電車だったので、片道、1日、かかったのでありました。。。。

もちろん、飛行機も考えたけど、乗り換え、待ち時間などいれると、結局1日かかるだろうし、窓から見える景色も楽しいかな、と期待したのでした。。。。

ドレスデンから、プラハに行き、スロバキアを通って、ハンガリーに到着、
その間、全くパスポート検査なし、
シェンゲン条約により、一度、EUに入ってしまえば、中は自由に行き来できるのですね。

そして、電車の切符の安かったこと、
ユーロ・スペシャル・ハンガリーという切符があって、往復で約1万円、、バスより安かった


私は、バルトークを、まだ深く勉強したことがないのですが、そのうち、夢中になるだろうな、と思っていたので、まず、家を見ておこう、という気持ちで行ったのですが、

バルトーク、、、

好きになった、、、ドキドキ

なぜかというと、家の近所が、私の実家の近所と、そっくりだったからです。
これが、ハンガリーだという気がしなかったなー、、、、、、

実家に帰ったような気がした

バルトークの家は、ブダペストの中心、ドナウ川から、ちょっと離れた、住宅街の、丘の上にあります。
まず、バスで丘のふもとまで行きます。

左の教会が、ふもとの目印

そして、丘を上がります、それでは

ここで、右の道を行っても着くけど、左の方が近い^^
(ykは、カンが当たって、間違えなかったのだ!!!)


途中、こんなにモダンな家が一戸ありました。

ココです、この車庫が、バルトークのお家


ドアが開いているのは、私が、ベルを鳴らしたからですが、、

このドア、実は、自動でしか開かず、ものすごくゆっくり開くのです。
私がどんなに力を込めて押しても、ゆっくり、じわりじわりとしか、動かなかった。。。。。

(少し、待ってください、なーんて、アナウンスが、かかっているし。。。。)


これ、恨みのドア

ドアを開けて、すぐ、またちっちゃい階段を上がって、家はさらに丘の上に


バルトークがいるよ

こんなお家

バルトークが、アメリカに行くまで住んでいたお家です。

一階は、受付と、おトイレ

2階は、サロンホール


今は新しい大きなスタインウェイが置いてありますが、バルトークは、ベーゼンドルファーを3台所有していました。

3階が、バルトークの部屋

この椅子が、ものすごく大きいのだ
お相撲さんのお尻でも、余裕で座れるよ

普通の大きさの椅子もあるけど

ハンガリーの白地に赤の模様のカーテン、すてきです

これが、バルトークのベーゼンドルファー、ですが、なんと、数年前に、このピアノの中から、バルトークの煙草の吸殻、がでて来たのです、
(4階に展示があります、のちほど)

ベーゼンドルファーに、煙草を落とすなんて、あー、信じられない
バルトークの性格が、思いやられます

奥にある机は、コダーイの家の書斎にある、コダーイの仕事机を作った家具職人と同じ人が、作ったもの。
(コダーイの書斎が、また、立派だった、、、、バルトークは、羨ましかったのかな)

このピアノの部屋は、小さいです。こんな風だったら、日本でも可能。
私の将来の日本のピアノの部屋、こんなふうにしたいなー、、、と思った、、、
ひひひニコニコ

そして、さらに屋根裏部屋があって、そこには、バルトークの収集品が展示されています。

綺麗な階段を上がると


バルトークのサンダル

バルトークがピアノの中に落とした、煙草

ハンガリーの服と陶器

バルトークが集めた、貝殻

お金

生涯にわたって、いろんな場所で集めた昆虫

針にブスッと刺さって、かわいそうな、虫の死骸でした、、
そして、葉っぱ

そして、眼鏡、
右端のサングラスと、左端の老眼鏡が一番最後に使われていたものですが、相当、レンズの度は、きつい

真ん中の眼鏡は、耳にかける部分がない、
どうやって、鼻の上にのっていたのだろうか

そして、この鉛筆の中にフォークが混じっている、、、と思ったら、フォークではなく、インクをつけて五線を書くためのものだったらしい。。。。
良いアイディアですね^^

旅行に持ち歩いたメトロノーム、、
私は、時計かと思ったんだけどナー


椅子と箪笥

民謡のための楽器

お風呂用のタオルなどを入れて置く、箱らしい、、
そして、スキー用の靴下、

この辺り、そんなに雪は積もらないと、説明して下さったお姉さん、おっしゃっていたけどナ、、

窓から見える、山の景色

というわけで、

私の実家の近所と、大して、違いが分からなかったので、親近感が非常に湧いてきて、バルトークが好きになってしまったのでした。

世界は遠かれど近しですね。

マゼッパが一段落ついたら、今度は、バルトーク、始めようかな、
何の曲、やろうかな

ドキドキ

コメント


バルトークの住い、見せて頂いてありがとうございました。彼の秘密のいくばくかがチラッと分かるような気もします−−

たとえばあの収集品ですけど、民謡を収集しただけでなく何でも収集する癖があったかのようで、そういう性格だったんですね、なるほど。

それにその住いはとても快適で心なごむ感じがします。彼がアメリカで不適応を起したのも当然、という気がします。アメリカの環境はとてもガサガサした生きつらいものだったこと、感覚的によく理解できました。(ちなみにその五線を描くペン、バッハもそんなの使っていませんでした?)

その環境がykさんの日本のお宅の辺りに似てるとは、横浜近くでそんなとこと言えば・・・ 山手? それとも子供の国? どこでしょう? もしかしたら偶然ではないのかもしれませんね。
tomato-pia 2012-09-13 19:08:34

10. Re:無題

ハンガリー人って、身体が太短くて、丸顔でブス、(アジア系のせい?)、ヨーロッパ人の顔ですが、、、、、

長距離国際電車に乗っていて、おもしろかったのは、プラハに着いてから、急に色白、長身で、顔もビーナスやダビデ像みたいな美男美女がドタドタっといっぱい乗ってきて、ブラスチラバ(スロバキアですね)で、みんな降りて、かわりに、ものすごいブス族(お腹出てるし、日焼けして褐色)が、ドタドタっと、いっぱい乗ってきて、ブダペストで降りた。。。。
(^@@^)


ヨーロッパ内、言葉も違うけど、人種もちょっと違うんだなーと思いました。

ブダペストでは、英語とドイツ語が同じくらい重要視されていて、どちらかといえば、ドイツ語の方が、みんな得意だよ。。。。そんな歴史だったっけ、、、、
?、、でした^^

ドナウ川近辺の中央は、重厚で規模の大きなヨーロッパ建築、まさにドナウの真珠でしたが、バルトークの家の辺りは、日本と同じような、、、、
この辺に、日本大使館もあるよう^^、、

ykは、京都の伏見で生まれて、今も、亡き祖父母の古い家が伏見にありますが、両親は横浜に住んでいるんです。さすがに、バルトークの家の近所に、5重の塔はなかったけど、山の形とか、道路や木の感じが、日本と全く同じ。空気が、ぬる〜っと温かいし(暑い)、、日本にも、洋風の家はポツリポツリと建ってるのだからネ、、、、ここにお寺建てても良さそうです^^、お坊さん、いるかな(0?0)
yk 2012-09-13 19:47:44

http://ameblo.jp/727yk/entry-11352039575.html

20. 中川隆[-14392] koaQ7Jey 2020年1月18日 09:50:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1306] 報告
Bartók - Piano Concerto No.2 - Géza Anda
Radio-Symphonie-Orchester Berlin Ferenc Fricsay 1959
http://www.youtube.com/watch?v=cJeAv-CWOzo
http://www.youtube.com/watch?v=fkfXJzFciNk
http://www.youtube.com/watch?v=4Tjy6deUDSI


Great Piano Concertos - Geza Anda plays Bartók Concerto 2
Recorded: Royal Festival Hall, London, 5 December 1973
BBC Symphony Orchestra, Pierre Boulez



 演奏家には、作曲家のスコアを再現する義務がある。もちろん、音楽の内容をより高めるためのスコアの改変は禁忌というわけではなく、伝統的になされたきた経緯がある。しかし、作曲家が「この楽器で演奏しなさい」という指定がある場合は、もし可能であればそれに従うのが筋であろう。

 しかし、さまざまな事情でそれができない場合がある。今回取り上げるのは、1931年に完成したバルトークによるピアノ協奏曲第二番である。第一次大戦の後に作曲され、フルトベングラーと作曲者本人のソロによって初演された本作品の再現が、なぜ不可能なのか。

 本作品の録音はいくつかある。筆者は入手可能な演奏はほとんど聴いたが、唯一合格点を与えられる演奏は、古典となったゲザ・アンダ&フレンツ・フリッチャイのものくらいで、あとは感心しない演奏ばかりだ。なぜこのようなことが起きるのか考えてみよう。

 本作品のスコア上いわれていることは、この作品はベーゼンドルファー・インペリアルのために書かれている、ということである。スタインウェイでは弾けない音符が存在する。ほとんどのピアニストはスタインウェイで本作を弾くため、オクターブ移調されるのがふつうである。しかし、それでいいのだろうか。

 バルトーク本人による自作の録音はこんにちでも聴くことができる。彼はルービンシュタイン・コンクールでウィルヘルム・バックハウスに次ぐ二位入賞を果たしたほどのピアニストであったから、彼のピアノ独奏作品は自分の演奏能力の枠内で書かれているはずである。そして、録音の技術的なもののせいもあるかもしれないが、たとえば有名な「アレグロ・バルバロ」の演奏にしても、バーバリズムと縁遠い、優雅なタッチで弾かれていることがわかる。

 すると、この協奏曲の演奏がことごとく失敗している(ように筆者には思われる)のは、根本的にピアニストが弾き方を間違えていることが一因なのではないかと考えられるのだ。実は、この曲に、唯一ベーゼンドルファーで弾かれた録音がある。ゾルタン・コチシュ/イヴァン・フィッシャーによるフィリップスの全集の中の録音である。しかしこの演奏は失敗だ。なぜなら、コチシュはベーゼンドルファーをあたかもスタインウェイのように弾いているからである。まったくベーゼンドルファーの楽器としての性格を活かしていない。

 もうひとつの理由は、この曲の舞曲としての性格を指揮者が掴みきれていないところにある。アンダ/フリッチャイが成功しているのは、ピアニストが打楽器的な奏法に徹していないこと、指揮者がリズムを的確に把握していることによる。

 この曲の理想的な再現は、おもうに、「ベーゼンドルファーの特質を活かした柔らかい演奏」だと筆者は思っているが、もはやそれは現代では不可能になってしまった。なぜなら、ベーゼンドルファー社から指輪を贈られたバックハウスが理想的な弾き手であったはずだが、彼はすでに亡く、バックハウスの次にベーゼンドルファーを弾きこなせたフリードリヒ・グルダも鬼籍に入り、現存のピアニストで彼らに匹敵するベーゼンドルファー弾きはいなくなってしまったからである。

 おそらく、この曲は、これからも筆者的には「間違って」演奏されつづけてゆくことであろう。コチシュの試みが失敗に終わった今、誰もこの曲をバルトーク本人のタッチで弾いてみようとは思わないからだ。こうして、作曲家の意図は失われてゆく。「オリジナル楽器による演奏」など、所詮は幻想なのではないだろうか。


バロック・チェロの鈴木秀美氏に「バルトークにとっては(バイオリンの)スチール弦の響きはオリジナルでない」という一文があるのを知った。戦前のオーケストラではガット(羊腸)弦が一般的であったらしい。「ガット弦のオーケストラ+ベーゼンドルファーのピアノ+本曲の舞曲としての性格を把握した指揮者」というのが、この曲の筆者が考える理想的な再現、ということになる。
http://out-of-date.info/blog/archives/entry/2011/001523.html
21. 中川隆[-14391] koaQ7Jey 2020年1月18日 09:51:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1305] 報告

私の好きなベーゼンドルファーについて書きます。


Model 290 インペリアル 

170年以上に及ぶ歳月の中で数々の名器を作りつづけてきたベーゼンドルファー、そのステイタスモデルとして誰もが思い浮かべるのが゛290Imperial"ではないでしょうか。このピアノを中心に歴史の紐を解くとともに、現在のベーゼンドルファーの魅力を探ってみたいと思います。

この“インペリアル”と言う称号がピアノに与えられたのは1880年に遡ります。当時,オーストリアは国交の際、相手国の国王に対する贈物のひとつとして、ベーゼンドルファーピアノを献上していました。

現在、ウィーン本社に残されているデッサンを見ますと、ドイツ、フランス、イギリス,スペイン,ベルギー,ロシア等々、それぞれ一台一台が全て異なったデザインで彫刻,装飾の贅が尽くされた逸品です。日本にも1869年に日墺両国の国交が開かれた折に,1台のベーゼンドルファーが皇室に納められています。

つまり、そのような経緯からオーストリア皇室御用達の製作会社であったベーゼンドルファーの最上級モデルが,皇帝(Imperial)と呼ばれるようになったのです。


モデル290は、長さが290cm、鍵盤数が,97鍵と大きく、その堂々たる風格は正にピアノの皇帝と呼ぶにふさわしいものですが,御覧になればそれと同時に、まるで美術工芸品のような細部に至る仕上げの美しさと、全体を包む気品と優雅さに気づかれる事と思います。例えば,250本に及ぶ弦の一端は全て、手間暇を惜しまぬ熟練工によって小さなループ状に巻かれ、1本ずつ独立してフレームのヒッチピンに掛けられます。

そのフレームは,他に類を見ない独特な深みを持つ金銅色に光り(これは例えば、ピアノコンチェルトの際に、弦楽器群のニスの色とマッチするようにも考えられています)、また、漆黒のボディーの横に埋め込まれたBosendorferの花文字も、ただ社名を誇示するのではなく、見事なバランスとコントラストに支えられています。

これらは、ほんの一例ですが、現代のピアノがその機能を追及するあまりに忘れかけている、楽器本来の美しさと趣味性を保ちつづけているベーゼンドルファーのポリシーのひとつの現れだと思います。


鉄骨(フレーム)の組み込み作業

ベーゼンドルファーの持つ低音は、そのボリューム、深々とした音色,オルガンのような響き、どれをとっても他のピアノでは得られない充実感が有ります。

これは西洋音楽の土台である通奏低音と言う概念を、我々に認識させてくれます。

特に、290,275のサイズになると、そのエクストラ・ベースの共鳴効果、響板とフレームの余裕から圧倒的なものとなります。

では、いったいいつ頃からこの8オクターブのピアノが存在したのか調べてみますと、歴史は古く、既に1907年にはその1台が作られています。これは、当時活躍していたイタリアのピアニスト兼作曲家であるブゾーニの要望が取り入れられたとのことです。かれは、J.S.バッハのc-mollのパッサカリアをピアノ版に編曲しましたが、以前は果たせなかったパイプオルガンの16フィートのCを、このピアノがかのうにしたわけです。

この他にも,バルトーク,ラヴェル等の曲の中にも何曲か有りますが、1965年までの間、年に2〜3台の割でしか作られなかったことから考えても、実際にベーゼンドルファーの97鍵をフルに使った演奏は少なかったことと思います。

むしろ、現在の演奏家や作曲家の方々にその可能性を探ってほしいと思います。


インナー・リム(外装内部・・スプルース材です)

大きな体格ににあわず、薄いボディー(親板)をしています。これは,親板にも響板と同じドイツ唐桧(とうひ)をムク材のまま使用するという贅沢の現われなのです。

ピアノ全体を鳴らすという設計思想は、ベーゼンドルファーの特徴である減衰の長い歌うような音゛シンギング・トーン"をもたらしますが、チェンバロやハンマーフリュ−ゲルの時代から、作曲家達の要望とともに歩んできた考え方であり、打楽器的な奏法や効果のみ強調されがちな他の現代のピアノとは、一線を画するものです。

といって、ベーゼンドルファーは、決して保守的では有りません。常に一流のアーティストとの交流からその意見を積極的に取り入れ、より明解なレスポンスが得られるアクションを開発するなど、伝統的な手法を重んじながらも、随所に革新的な改良を積み重ねています。

また、小さな調整ネジ1本に至るまでその機能と使い易さを考え,アフターケア−する技術者に対する心配りも忘れていません。


スタインウェイ物語よりの抜粋ですが・・

高城 氏曰く・・

「属啓成さんのヨーロッパの楽壇(音友)という本を読んだことがある。その中にベーゼンドルファーにまつわる忘れ難いエピソードが載っていた。・・

彼が、ハンブルグのスタインウェイ社を訪れた後、ウィーンのベーゼンドルファー社の工場を参観した。

古色蒼然とした工場に入り、写真をとらせてもらおうとしたら、どうしても承知してくれない。そこで、スタインウェイは写真をとらせてくれた、日本に帰って本を書くとき、スタインウェイの写真がでて、ベーゼンドルファーの写真が出なかったら、スタインウェイの宣伝しかならないではないか、と再び頼んだら、その返事が面白い。

そのほうが良い、わが社はいくら宣伝されても一ヶ月に12台(当時)しかできないのだから、と答えたそうである。 

名ピアニストの演奏旅行に無料サービスの調律師まで同行させて、宣伝につとめている会社とはわけが違うのだ。

また、属さんがピアニストのエリ・ナイに会った時、彼女の家には、三つの部屋にそれぞれ1台づつグランドピアノを置いてあったそうだが・・

それは、スタインウェイ、ベッヒシュタイン、ブリュートナーだった。

どのピアノが一番好きですか、との問いに対し、一番好きなのはスタインウェイだけれど、一番優秀なピアノはベーゼンドルファーで、高音部はメロディーを弾くように、低音部は伴奏を弾くようにできている、スタインウェイは微妙さに欠けていて、伴奏を弾くのに苦労する、と答えたそうです。

彼女は残念ながらベーゼンドルファーが買えなかったのであろう。」

ベーゼンドルファーがいかに貴重視されているかは、私(高城氏)が最近ヨーロッパ旅行をした時にも見せつけられた。

ミュンヘンのヘラクレスザールを訪れたとき、案内してくれた係りの人が、このホール用に備えたスタインウェイ、ベッヒシュタイン、ベーゼンドルファーの3台の中、特にベーゼンドルファーを指して、これはドイツにたった3台しかない(当時)、と誇らしげに説明した。それは、ベーゼンドルファーの最大型97鍵をもつインペリアルだった。

やはり、彼らもベーゼンドルファーは他のピアノとは格が違うと考えているように見えた。
http://www5.ocn.ne.jp/~ss-piano/C13_1.htm

22. 中川隆[-14390] koaQ7Jey 2020年1月18日 09:53:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1304] 報告
スタインウェイとベーゼンドルファー 2013年03月08日


たとえば、ワルター・クリーンとかイェルク・デームスとかヴィルヘルム・バックハウスとか、ベーゼンドルファーをメインに弾いているピアニストがいる。

そういう人たちの録音はよく「音質がいまいち」「紙臭い」やら散々な表現でケナされることがよくある。いやいや、それはベーゼンドルファーの音なんですが…と思うんですが。

こうどうして、「音が悪い」と判断されるのだろう。どうして、元の音が違うという発想まで至らないのだろう。考察してみた。

録音、というものが発明されて、100年近くたとうとしている。その技術を発展させるために、いろんな音が基準となっただろう。ピアノの録音も、何のピアノを基準にしたかが結構大事になってくる。

そこで、スタインウェイのピアノが一つの基準とされたのではないかと思った。

スタインウェイのピアノがきれいに録れている、つまり高音部がキラキラしてるような音、それが「いい音」という価値観の刷り込みを私たちは無意識のうちにされてしまっているのかもしれない。「Hi-Fi」という言葉自体「High」という言葉が入り「高音域」が強調されているではないか。その反対の低音質が「Low-Fi」というのも解せない。

そういう録音法でベーゼンドルファーを録ったり編集されていたら、やはり歪曲した音になるだろうし、きれいにとても、「Hi-Fi」に慣らされている私たちは「音が悪い」と判断されてしまう。

こうして、文化というのは淘汰されて行ってしまう。何かでっかいものが「反対」を表明しない限り。
http://ryotaito.doorblog.jp/archives/51992150.html

うわ!ちがう。

 これが私たちの店で、ピアノを弾き比べた方のほとんどの方が発する第一声です。国産から輸入品までいろんなメーカーの商品が並ぶ店内では、同じメーカーのものだけを並べた店と比べると、音やタッチのよしあしよりも1台1台の違いがまづ強烈に印象づけらるようです。それでは、なぜそんなに違うのでしょうか、というよりもどのようにしてピアノの音色は決められるのでしょうか。
 
政治的な概念としての国家とは別に、世界は多様な民族、またはそれによって育まれてきた文化圏によって彩られており、それぞれが永い歴史によって培われてきた文化や価値観によって特徴付けられます。
 
私は、食いしん坊なので、ものを考えるときにいつも食べ物に置き換えて考える癖があります。食べ物も同じで、自然によって条件付けられながらも、1つ1つの民族が互いに影響されながらも、長い歴史の中で培って、引き継いできた食べ物は、それぞれに代えがたい味わいがあります。したがって、それらに甲乙をつけることはできず、それぞれが真実そのものなのです。

フランス料理も中国料理も美味いし、イタリア料理もロシア料理も美味いのです。もちろん日本料理が美味いのはご存知の通りです。ただ、アメリカ料理というものがあるのかどうか、それが美味いかどうかは私にはわかりませんが、これはまた、別に論じなければならない問題です。
 
音や音楽に対する感覚もまた同じで、それぞれの民族の美意識は、互いに影響されながらも独特のものが形成され引き継がれてゆきます。

 ピアニストがピアノを選ぶ場合、自分の音楽性にあった、もっと砕いていうと自分が表現したいものを、確実に表現してくれるピアノを選ぶのです。その選択の根幹にあるのは、やはりそのピアニストの美意識です。

その美意識は、根底において自分を育て培ってきた民族や文化圏に深く根ざしており、他からの文化的影響を受けながらその人独特のものとなってゆくのです。その美意識が演奏を聞く聴衆の持つ美意識と共鳴しあうとき最大の賛辞がおくられるのだと思います。そこにまさに大地にしっかりと根をおろした大樹のような文化的な真実があるからではないでしょうか。

その真実が、また違う文化圏の聴衆をも感動させ、魅了するのではないでしょうか。

 ピアノメーカーは、どんな世界的名器であろうと、自らを育んできた文化的なエリアを一番主要なマーケットと考えているはずです。したがって、そこの聴衆、ピアノ愛好家しいては個々のピアニストや作曲家の美意識にかなうピアノづくり、音づくりに励むのです。STEINWAYのピアノが、ニューヨークとハンブルグであれだけ違うのはそのためではないでしょうか。同じヨーロッパでも、フランスのピアノとドイツのピアノも明らかに違います。ドイツのピアノでもメーカーやその製作された時代によってかなり違います。
 
結論を言えば、美しさとか、真実は一つではなく、その文化圏やまた時代によって変化し、多様なものだということでしょうか。この世に、ピアノメーカーが一つしかなく、世界中のピアノが全部同じ音がしていたのでは、多様な美を奏でることはできず、音楽は成り立ちません。

確かめてください。1台1台違うことを。見つけ出して下さい、あなたと一番響き合えるピアノを。
http://www.imported-piano.com/?gclid=CIPrzYHr8rcCFQxepQodpxwArg


輸入ピアノ.com
♪スタインウェイ、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー,グロトリアン、ペトロフ等のあこがれの輸入ピアノに出会えるサイトです。
http://www.imported-piano.com/column.html

23. 中川隆[-14389] koaQ7Jey 2020年1月18日 09:55:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1303] 報告

タンノイはいぶし銀か(その4)

なぜだか、タンノイの音こそがいぶし銀のように語られる。

それに、タンノイといえば、ある年代以上のオーディオマニアにとって、
五味先生と強く結びつくわけだが、
その五味先生はどういう音をいぶし銀と表現されているのかというと、
タンノイの音のことではなく、ベーゼンドルファーのピアノの音である。

ステレオサウンド 52号のオーディオ巡礼で
《拙宅のベーゼンドルファーは購入して二十年になる。今以ていぶし銀の美音を響かせてくれている》
と書かれている。

ベーゼンドルファーはいうまでもなくスピーカーではなく、ピアノのこと。
スピーカーだったら、わかりにくい。

A社の○○というスピーカーがいぶし銀の美音を響かせてくれる──、
そんなふうに書いてあっても、スピーカーはどんな部屋で聴くのか、
どんなセッティングがなされているのか、組み合わされるアンプやその他の機器は……、
そういった諸々のことで、音は大きく変ってくるのだから、
スピーカーの型番を持ち出されても、何の参考にもならないが、
ピアノであれば、そうではない。

スタインウェイほど聴く機会は多くはないかもしれないが、
ベーゼンドルファーは名の通ったピアノであるから、聴く機会は少なくないはずだ。

ただベーゼンドルファーのピアノであっても、必ずしもいぶし銀の美音を響かせてくれるわけでもない。
そのことも52号には書かれている。

五味先生はベーゼンドルファーのピアノを、
ベーゼンドルファーの調律師ではない人に調律してもらわれている。
そのことを書かれている。

同じことを「西方の音」におさめられている「大阪のバイロイト祭り」でも書かれている。

     *

 大阪のバイロイト・フェスティバルを聴きに行く十日ほど前、朝日のY君に頼んであった調律師が拙宅のベーゼンドルファーを調律に来てくれた。この人は日本でも有数の調律師で、来日するピアニストのリサイタルには、しばしば各地の演奏会場に同行を命ぜられている人である。K氏という。

 K氏はよもやま話のあと、調律にかかる前にうちのピアノをポン、ポンと単音で三度ばかり敲いて、いけませんね、と言う。どういけないのか、音程が狂っているんですかと聞いたら、そうではなく、大へん失礼な言い方だが「ヤマハの人に調律させられてますね」と言われた。

 その通りだ。しかし、我が家のはベーゼンドルファーであってヤマハ・ピアノではない。紛れもなくベーゼンドルファーの音で鳴っている。それでもヤマハの音がするのか、それがお分りになるのか? 私は驚いて問い返した。一体どう違うのかと。

 K氏は、私のようにズケズケものを言う人ではないから、あいまいに笑って答えられなかったが、とにかく、うちのピアノがヤマハの調律師に一度いじられているのだけは、ポンと敲いて看破された。音とはそういうものらしい。

(中略)

 ピアノの調律がおわってK氏が帰ったあと(念のため言っておくと、調律というのは一日で済むものかと思ったらK氏は四日間通われた。ベーゼンドルファーの音にもどすのに、この努力は当然のように思う。くるった音色を──音程ではない──元へ戻すには新しい音をつくり出すほどの苦心がいるだろう)私は大へん満足して、やっぱり違うものだと女房に言ったら、あなたと同じですね、と言う。以前、ヤマハが調律して帰ったあとに、私は十歳の娘がひいている音を聞いて、きたなくなったと言ったそうである。「ヤマハの音にしよった」と。自分で忘れているから世話はないが、そう言われて思い出した。四度の不協和音を敲いたときに、音がちがう。ヤマハに限るまい、日本の音は──その調律は──不協和音に、どこやら馴染み合う響きがある。腰が弱く、やさしすぎる。

 ベーゼンドルファーはそうではなかった。和音は余韻の消え残るまで実に美しいが、不協和音では、ぜったい音と音は妥協しない。その反撥のつよさには一本一本、芯がとおっていた。不協和音とは本来そうあるべきものだろう。さもなくて不協が──つまりは和音が──われわれに感動を与えるわけがない。そういう不協和音の聴きわけ方を私はバルトークに教えられたが、音を人間にかえてもさして違いはあるまいと思う。

     *

そういうベーゼンドルファーの音を、いぶし銀の美音と表現されている。
http://audiosharing.com/blog/?p=26956

24. 中川隆[-14370] koaQ7Jey 2020年1月18日 18:33:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1282] 報告
アルゲリッチ
Argerich plays Bartók - Piano Sonata, Sz. 80 Audio + Sheet music



25. 中川隆[-14369] koaQ7Jey 2020年1月18日 18:36:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1281] 報告
アルゲリッチ
Kremer & Argerich Bartok violin sonata No.1 1989

26. 中川隆[-14368] koaQ7Jey 2020年1月18日 18:38:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1280] 報告
アルゲリッチ
Béla BARTOK Sonata for 2 Pianos & Percussion

27. 中川隆[-14001] koaQ7Jey 2020年2月06日 13:31:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-670] 報告

クラシック音楽 一口感想メモ
バルトーク・ベーラ(Bartók Béla Viktor János 1881 - 1945)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF

管弦楽曲

•交響詩『コシュート』 (1903年) Sz.21◦3.5点


まだバルトークらしい前衛的な音楽ではなく、Rシュトラウスや、さらにいえばチャイコフスキーみたいに感じる部分もある。でもなかなかの力作でいい曲。22歳でこんなに本格的な曲を書けたバルトークはやはり天才作曲家だった。

•管弦楽のための組曲第1番 (1905年、1920年改訂) Op.3 Sz.31◦2.8点


まだ初期の作品で音楽的にはほぼ完全に19世紀末のロマン派の内容であり、たまに変な音の使い方が出てくるがほんの一瞬であり、前衛的な世界は殆ど無い。洗練されていない土泥臭さや牧歌的なユルさを感じる所が魅力。たまに出てくる運動会みたいなノリも楽しい。長い曲であり、個々の場面は悪くないのだが、やや散漫で冗長なので全体として長さに見合った効果を挙げているとは思えない。晩年の管弦楽のための協奏曲と類似する所がある。

•小管弦楽のための組曲第2番 (1905年-1907年、1943年改訂) Op.4 Sz.34

•『舞踏組曲』(1923年)Sz.77 ◦3.5点


舞踏的ということで、民族的なフレーズやワイルドさも聴きやすくまとめられており、なかなか良い。

•弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 (1936年) Sz.106◦3.8点


バルトークの作曲技術の高さや、不思議な東洋的神秘などの民族的要素や前衛など多くの要素を取り込んだ、作品としてがっちりと構築され、交響曲のような規模の作品として結実している。メロディーや和声は分かりやすいので十分に聞きやすく、しかし平明過ぎず刺激的であり、曲の長さも適切で楽しみやすい。

•弦楽のためのディヴェルティメント (1939年) Sz.113◦3.0点


1楽章と3楽章は調性が明確で楽しく分かりやすい音楽。2楽章は晦渋でバルトークらしさを記憶に残す。バルトーク入門には良いかもしれないが、明快過ぎて特段の素晴らしさがなく、あまり面白くない。

•管弦楽のための協奏曲 (1943年) Sz.116◦3.0点


一般的な曲のような平明な聴きやすいフレーズと不思議な雰囲気をバラエティー多く用意し、各楽器に活躍をさせる曲ということで、バルトークの中では人気のある曲になっているのだろうか。正直なところ、単純化のせいでバルトークの特長が消えており、普通の曲として聴くと別にそれ程魅力的な音楽というわけでもない。音楽の密度も低いし、高い評価は出来ない。恐らくバレエ音楽のような聞き方をするのが正解。

協奏曲

•ピアノと管弦楽のためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.27◦3.0点


まだ前衛的になる前の作品。ピアノのためのラプソディーSz.26の編曲。音楽的には平明ではあるがメロディーが全然印象に残らず心に響かないため、平凡な作品だと思う。しかしながらピアノ書法が素晴らしい。非常に華やかに活躍しており重すぎず軽すぎず使われる技巧も的確で見事である。ピアニストとしても一流だったので、ピアノの機能と特徴を知り尽くしていたのだろうなと思う。個人的にはピアノ独奏版の方が印象的。

•ピアノと管弦楽のためのスケルツォ(ブルレスク)(1904年) Op.2 Sz.28◦2.3点


初期の作品であり後期ロマン派の語法の範疇で書かれている。しかし、内容に冒険が少なくて個性の発揮も少なく、ありきたりと感じる場面が多い。ピアノも地味であまり活躍しない。大作にしてはあまり面白くない。駄作一歩手前と思う。

•ヴァイオリン協奏曲第1番 (1907年-1908年) Sz.36◦2.8点


2楽章しかない。死後に発見された曲。1楽章は悲嘆の感情をゆったりと歌っており、しんみりとさせられる。2楽章も叙情的でテンポが遅い場面が多く、1楽章と割と近い雰囲気。終わりの方はちゃんと盛り上げて終わるが。聴きやすい曲ではあるが総合性が足りない。

•ピアノ協奏曲第1番 (1926年) Sz.83◦3.3点


1楽章は明快でピアノが全面に出ている。2楽章は民族音楽的な要素が非常に強く、ほとんど完全にアジア音楽の世界である。3楽章はバルトークらしい前衛性を持っているが、基本的に快速で明快で軽やかな気持ちいい音楽。

•ピアノ協奏曲第2番 (1930年-1931年) Sz.95◦3.8点


1楽章は弦楽が使われていないせいか、多面的で多層的な印象であり、ピアノの技術的に特殊な箇所が何カ所も出てきて驚かされる。ピアノが全面に出て活躍する。2楽章は亜空間のような不思議な神秘的な雰囲気。高速な中間部分のピアノがかっこいい。3楽章はワイルドで力強く、ピアノもオケもとても格好いいしセンスが良い。

•ヴァイオリン協奏曲第2番 (1937年-1938年) Sz.112◦3.0点


調がはっきりしている分かりやすい音楽になったり、無調になったり、雑多な音楽がどっさりと混ざっていて、どのような曲なのか把握しにくいと感じる。ヴァイオリンを様々なやり方で歌わせる事に長けたバルトークの良さは独奏において出せているとともに、大作に見合った内容の豊富さはあるかもしれないとは思う。しかし録音で聴くせいだからか各場面の印象が弱く、そこそこの魅力の音楽が繋げられているだけのように聞こえる。正直に言うとあまり面白いと感じない。

•ピアノ協奏曲第3番 (1945年) Sz.119◦3.3点


1楽章は強い捻りが随所に大量に入ってあるとはいえ、アメリカ的気分を感じるロマン派協奏曲で驚く。2楽章も都会的な所が20世紀のアメリカ的なロマン派協奏曲。3楽章はほとんどガーシュインの世界である。全体的にロマン派の音楽に近すぎるが、アメリカ的なので陳腐すぎず楽しめるといったところか。

•ヴィオラ協奏曲 (1945年) Sz.120◦3.3点


ヴィオラの落ち着いた艶めかしい音を楽しむ曲。この曲において引き出されている中音域を主体とし幅広い音域で魅せられるヴィオラの魅力はなかりのものであり、じっくりと堪能できる。ただし、メロディーは耳につかないので、なんとなくいいなあと思いながら聴く曲ではある。管弦楽は本人作でなく控え目なのでなおさらヴィオラが大活躍である。


舞台作品

•バレエ音楽『かかし王子』1914年-1917年、Op.13 Sz.60 BB.74◦3.8点


色彩感の豊さに驚かされる。リヒャルト・シュトラウスを彷彿とさせる豪華なオーケストレーションであり、その中で鋭角的なメロディーセンスを披露しているところがバルトークらしい。おとぎ話のような可愛らしい曲調であり、その雰囲気だけでも楽しいが、場面の移り変わりや、踊れるバレエ音楽らしさもあるところがさらに良い。エンターテインメント音楽として、かなりの出来だと思う。

•パントマイム『中国の不思議な役人』(1918年-1924年、1931年改訂) Op.19 Sz.73◦4点


バルトークらしいワイルドさと、管弦楽の色彩の豊かさ、リズムの多彩さ、テンポと楽想の表情の豊かさが合わさっている。明らかに影響を受けているストラヴィンスキーの有名バレエ音楽に匹敵する素晴らしい出来映えである。抽象的で思弁的なバルトーク作品の中で、例外的に華やかで情景を音を描くような作品なので、聴いていてとても楽しい。

室内楽曲

•弦楽四重奏曲第1番 (1908年-1909年) Op.7 Sz.40◦4.0点


まだ1908年の作品とは思えないほど前衛的で異様に緊張感の高い響き。1作目から既に完成度が高く、まさに新たな表現の地平を切り開いて20世紀の弦楽四重奏の礎となった感が強い。鋭い不協和音や、対等な四つの楽器がうねってぶつかり合う、テンションの上げ下げ、音の間の活用、独奏と合奏やユニゾンの対比など、弦楽四重奏ならではの柔軟な表現力や手法を効果的に使っている。

•弦楽四重奏曲第2番 (1915年-1917年) Op.17 Sz.67◦4.0点


2楽章の終わり近くの高速部分はかっこいい!1楽章は悪く言えば民族的音楽と無調の折衷的音楽にも聞こえてしまう曲で、中間の展開部の力強さ以外はまあまあという感じである。2楽章で段々ボルテージを上げて極限に達し、そのあとに3楽章の汚れた浄化と呼びたいような、荒廃した静寂世界へのつなげ方が非常に秀逸で見事である。

•ヴァイオリン・ソナタ第1番 (Vn.&Pf) (1921年) Sz.75◦4.0点


無調的な凄い作品。1楽章は研ぎ澄まされた鋭利な刃物で構えているような、異常な緊張感で貫かれている。2楽章のアダージョも同様の緊張感で、さらに本当に人を襲おうとしているかのような狂気と恐怖感を感じる。3楽章は速度を上げる。相変わらずの緊張感でテンションが上がり凄いが、ヴァイオリンソナタの限界かバルトークがやりすぎを抑えたのか、異常を維持出来ない箇所が所々あると感じる。

•ヴァイオリン・ソナタ第2番 (Vn.&Pf) (1922年) Sz.76◦3.3点


ヴァイオリンソナタ1番と同じ系統の無調的で音の鋭利さを主な特徴とする音楽である。しかし1番で見せた圧倒的な緊張感や異常性は薄れ、切れ味がやや鈍り、所々でまとまりが悪く中途半端な印象を持ってしまう。勝手な印象だが1番のソナタとの内容の重複を避けた結果のように感じた。

•弦楽四重奏曲第3番 (1927年) Sz.85◦4.0点


バルトークの弦楽四重奏曲で一番短い。単一楽章だが部分の区切りは割と明確である。無調的だが、聞きにくく無い。簡素だが緊密で無駄が無く、特殊奏法の使い方、音の重ね方、音響やフレーズなど、前衛的だが非常に高いセンスと閃きの良さに感心する。

•ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.86◦2.8点


尖った民族性ともいうような、少しきつめの雰囲気。あと一押しの雰囲気だけでない何かがほしい。

•チェロとピアノのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.88

•ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第2番 (1928年、1944年改訂) Sz.89◦3.0点


1番と雰囲気も感想も同じだが、後半パートの野蛮性が好きな感じなので少し評価は上。

•弦楽四重奏曲第4番 (1928年) Sz.91◦3.5点


特殊奏法が多く登場する。簡素な3番とは1年しか違わないが、かなり異なる曲。音自体の面白さを楽しめる点では素晴らしいが、音世界を尖鋭化し過ぎてやり過ぎになり、精神的には少し殺伐とし過ぎていると感じた。アーチ型ではあるが、曲のストーリーが追いにくいと思う。

•44のヴァイオリン二重奏曲 (1931-32年)Sz.98 Op.104 ◦3.3点


民族音楽を素材にしている。渋みとコクのある断片的な小品の曲集。教材として書かれた名曲があるわけではないし、本格的な曲もない。ヴァイオリンは音数が少なく簡素の書法である。しかし、気楽に聴けるのと、低音のない地に足の着かない響きのせいか、不思議な民謡の魔力を秘めたかのような魅力が心を捉える。

•弦楽四重奏曲第5番 (1934年) Sz.102◦4.0点


最初の方はあまり緊張感が高く無いのだが、後半になるに従い緊密度を増して先鋭的になり、おぞましい恐怖の世界を構築していく。最終楽章は魑魅魍魎の飛び交う世界のようである。耳に刺さるような音の痛さは少ないが、まさに天才が狂気をさらけ出した音楽。

•2台のピアノと打楽器のためのソナタ (1937年) Sz.110◦4.3点

全3楽章。特殊編成であるが、バルトークの良さを引き出すのに実に適切と感じる。神秘的で東洋的な雰囲気を出す打楽器、2台のピアノは分厚く、豊富な音数を使って自由な表現を実現している。先鋭的な音使い、充実したリズム、夜の歌など様々なバルトークらしい要素がよくまとめられており、音楽的に充実しているとともに詩的な情緒の面でも充実している。聴きやすさもあり、代表作の一つとして楽しめる作品。

•弦楽四重奏曲第6番 1939年 Sz.114◦3.5点


内省的な印象が強くなり、尖鋭性や強烈さは抑えられている。悲しみの主題が曲を覆い、時代背景を象徴しているのだが、分かりやすいエレジーの類ではない。古典的な印象があり、割と正気を保っており毒の少ない内容は、やや物足りない感じがする。

•無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 1944年 Sz.117◦3.3点


バルトークらしい強烈な緊張感をベースにヴァイオリンの音に強い意味と存在感を持たせる音楽は、無伴奏ヴァイオリンに向いているのだろう。しかし、無伴奏なので音の繋がりを簡単に把握出来ないため、難解な音楽であり、4楽章以外は簡単には聴けない。すごい何かを聞いた気分にはなれるが、それが何なのか分かりそうにないもどかしさがある。

ピアノ曲

•ピアノのためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.26◦3.3点


24分の大作でものすごい力作である。ハンガリー風の動機をふんだんに活用しながら自由に音楽が展開していく。曲としては、力作ぶりに圧倒されるものの、分かりやすくないし感動する感じではない。しかしながらピアノ書法が見事である。技術を駆使して華やかで幅広いピアノの能力を引き出しており、その点でピアノ音楽が好きな人なら、上位にランキングされるだろう。

•アレグロ・バルバロ (1911年) Sz.49◦3.5点


まさに野蛮なアレグロである。ゴツゴツした無機質で異質な音の岩の塊を並べたような曲。ごくみじかい曲だが、密度が濃すぎてもっと長く感じる。

•ソナチネ (1915年) Sz.55◦3.5点


3楽章合計4分の短い曲。ソナタ形式が使われておらず、どちらかというと3曲の小品集に近い。ただ、民謡が使ったこの曲はインパクトがあり出来も良いため、アピールの観点ではソナチネという命名は正しい気もする。

•ピアノのための組曲 (1916年) Op.14b Sz.62◦3.5点


小さな小品4曲。演奏会用の曲なので華々しい技巧が使われている。バルトークが民族音楽の研究の結果を自分の中で消化して生まれた本格的で意欲的な作品であり、かなり聴き映えがする。前衛性はほどほどであり、適度に耳を突き刺す音の痛さが心地よい。

•戸外にて (1926年) Sz. 81◦3.5点


全5曲。この時期に書かれたにしては調が明確で曲想もわかりやすく聴きやすい。激しいのは最後の曲だけであり静寂を主体としている。ドビュッシーの後継者と呼びたい程の詩情がある。

•ピアノ・ソナタ (1926年) Sz.80◦3.3点


ピアノを打楽器的に扱う語法が目立ち、ゴツゴツして野蛮な印象で迫力がある。バルトークらしい異質で鋭角的で前衛的な音楽を本格的に聴かせるピアノ曲として貴重な存在。しかし、ソナチネと呼んでもよいような小さな規模であり、総合性の観点では少し物足りない。

•ミクロコスモス (1926年から1939年)◦N/A


教育用の小曲の集まり。抜粋して少し聴いた印象だと、教育用の大部分は鑑賞するにはつまらないが、後半の難易度が高い曲になると鑑賞に耐える曲になる。

•6つのハンガリア舞曲◦3.0点


ミクロコスモスの最後の6曲。短くてかなり軽い。ごく短いピアノ曲。


https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF

28. 中川隆[-12781] koaQ7Jey 2020年5月03日 08:36:32 : ISw2X8iTps : RFI5OGR2ODdoVjI=[9] 報告

バルトークのアメリカ生活
https://brj広告文字列により全部置換/資料室/バルトーク-in-アメリカ/バルトークのアメリカ生活/


 ここでは地図やリンクを使って、バルトークの生活が「見える」ようにしてみました。写真は村上泰裕が2013年8月に撮影。


1940年 新天地への第一歩

フォレストヒルズのアパート


 4月〜5月18日、2度めの訪米(演奏会、講義、亡命の下調べ。シゲティ、グッドマンとの《コントラスツ》の録音はこの時)。
 ===========
 10月8日、ブダペスト音楽院大ホールでお別れ演奏会。

 10月12日、ディッタとチャラーン通りの家を後にする。列車利用。ベーラJr.は家族と共にハンガリーに残る。ペーテルは全寮制の高校に卒業まで在学する予定。

 10月19日、ポルトガルのリスボンに到着。4個のトランクのうち2個を紛失し、失望。

 10月20日、エクスカリバー号でリスボンを出航。

 10月30日、ニューヨーク着、エルネー・バローが出迎え。しばらくマンハッタン西57丁目のザ・バッキンガム・ホテル(現ザ・クイン)に滞在。

 11月3日、ニューヨークのタウンホールで演奏会。衣装は紛失したトランクに入っていたので借り物でしのぐ。妻とピアノデュオで演奏旅行開始

 11月25日、コロンビア大学から博士号を受ける。

 12月8日、フォレストヒルズの新築アパート(現ニューハンプシャー・アパート)に落ち着く。夫妻の部屋はクイーンズ大通り(ブールヴァード)に面した6階。大通りからの車の騒音に加え、その下を走る「壁を揺らすような地下鉄の轟音が5分おきに聞こえた。」下の階の住人から料理の音がうるさいと抗議を受ける。

 12月、リスボンでトランクが発見されるが、米国への発送が滞る。

 《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》を《協奏曲》に改作。



Google:フォレストヒルズのアパート。110-31, 73rd Road, Forest Hills, Queens, NY

 アパートの入口は建物の東側。すぐ東側に地下鉄75丁目&クイーンズ通り駅。マンハッタンまで30分ほどだが、コロンビア大学には乗り換えが必要。


1941年 新たな生活への適応

リヴァーデイルの家


[住居は引き続きフォレストヒルズのアパート]
 1月12日、トランクがリスボンから未発送の件で、イギリスのレイフ・ホークスに電報で援助を求める。

 2〜3月、ディッタとのピアノデュオ演奏旅行。

 3月、コロンビア大学での勤務開始。ミルマン・パリーが残した民謡録音の整理。3〜8月で1,500ドルの報酬。地下鉄の乗り換えが苦痛。

 4月、リヴァーデイルの物件情報を知る。

 5月1日、リヴァーデイルの家の2階に転居。1階はイタリア人家主、3階は空き室。月75ドル。地下鉄の乗り換えなしにコロンビア大学に通勤可能。ブダペストの家に似た雰囲気で、フォレストヒルズよりずっと満足。ガスレンジ、冷蔵庫、ボールドウィンのピアノあり。家財はフリーマーケットで購入。通りでは子どもたちが元気に遊んでいる。

 7月26日〜9月4日、ディッタと共にヴァーモント州リヴァートンのアガサ・ファセットの別荘で過ごす(関連映像)。この別荘の建物は現存しない。この別荘でディッタは何度か過ごしたが、バルトークはこの1回限りだった。リヴァートンでアガサから2匹のネコをもらい、連れて帰る。

 9月、コロンビア大学の契約が半年延長。9月〜2月で1,500ドルの報酬。

 冬、発熱が始まる。
 12月、《組曲第2番》を2台ピアノ用に編曲する。

 12月26日、ペーテルがブダペストを出発する。



Google:リヴァーデイルの家。3242 Cambridge Avenue, Bronx, NY

 ブロンクス区リヴァーデイル地区。家はケンブリッジ通りに面している。ストリートビューでは街路樹に隠れがち。家から南側のユーウェン公園(『父・バルトーク』にイーウェン公園と書きましたが、その後現地で正しい発音を教えてもらいました)内の坂道を下り、231丁目を東に進むと、徒歩10分ほどで地下鉄231丁目駅に着く(ストリートビューで辿るとおもしろい。公園内は通れないので外周を迂回します)。

 同じケンブリッジ通りで少年時代を過ごした指揮者デイヴィド・ジンマンは、近所の変な音がする家に石を投げ、後日それがバルトークの家だったと知って後悔しているとインタビューで振り返る。


Google:コロンビア大学の職場。420 West 118th Strreet, NY

 1941〜43年にバルトークが勤務したレンガ作りの建物は、1960年代に新校舎建設のために取り壊された。現在、その場所(マーカー右)は国際関係・行政大学院(School of International and Public Affairs)になっている。
 バルトークが1940年11月に名誉博士号を受けたのは、大学のシンボルマークとなっているローマ風のドーム型建築物ロウ・ライブラリー。大学西門をブロードウェイに出ると、通勤に利用した地下鉄の116丁目コロンビア大学駅がある。


1942年 体調不良の始まり

ペーテルと再会した231丁目駅


[引き続きリヴァーデイルの家]

 新年早々のインフルエンザ(?)以降、微熱が続く。

 3月、シカゴでデュオ演奏会。不評。コロンビア大学の契約が半年延長、3月〜8月で1,500ドル。教え子に「経験のしたことがない惨めな状況がまもなく」と書く。

 4月1日以降、毎朝発熱(37度8分ほど)がある。
 4月、ペーテルがブダペストから4ヶ月かけてニューヨークに到着し、231丁目駅を出た時に父と再会する。

 6月、ボールドウィン社が貸与ピアノを引き上げる。

 7月、ペーテルがマサチューセッツ州コンコードの養鶏場で体験労働を開始。

 9月、飼っていた2匹のネコとの別れ。コロンビア大学の契約が12月末まで延長される。

 10月、研究書『ルーマニア民謡全集』が完成。

 冬、発熱が深刻になり、ペーテルが電気ヒーターを自作して部屋を暖める。

1943年 闘病と作曲家しての再起

セイジマン・コテージ


[引き続きリヴァーデイルの家]

 1月1日、コロンビア大学から解雇通告

 1月21、22日、ニューヨークフィルと共演。ライナー指揮、カーネギーホール。ディッタと共に《2台ピアノと打楽器のための協奏曲》の米国初演。初日、途中で即興を始め、演奏を混乱させる。翌日は楽譜通りに演奏。これらが最後の演奏会となった。

 2月、ハーヴァード大学で連続講義を開始。大学があるケンブリッジ市まで片道5時間の列車通勤で疲労困憊。半年間の予定を3回で断念。

 5月、ASCAPが医療を提供し始め、ドクターズ病院に再入院。結核の仮診断で退院(白血病と判明?)、ASCAPは転地療養を勧める

 6月、研究書『トルコ民謡集』の原稿を完成する。

 7月、レコーディングを制限していた音楽家ユニオンを退会するが、体調が悪くレコーディングはすでに困難。リヴァーデイルの家を契約解除、荷物は貸倉庫に預ける。

 ASCAPの費用で保養地サラナクレイクのセイジマン・コテージに滞在。結核患者と共に検査や看護を受けながら生活。

 7月31日、ペーテル19歳の誕生日。メッセージ「神はもう世界から手を引いた」。

 8月15日、《管弦楽のための協奏曲》の作曲を開始。意欲的に創作を進める。



Google:セイジマン・コテージ。32(現60) Park Avenue, Saranac Lake, NY

 サラナクレイクはニューヨーク市の北部、アディロンダック山脈にある村。大小の湖沼に囲まれ、フラワー湖畔に町がある。家並みはヨーローパ風。20世紀の初め頃から結核の療養施設が多く建てられた。
 セイジマン・コテージは村の中心街から北に歩いて10分ほどの高台。バルトークの部屋は玄関の右側の部屋で過ごした。現在はアパート。


 10月11日、ニューヨークでの滞在先が二転三転して決まり、サラナクレイクを後にする。

 10月12日、ASCAPの費用でニューヨークのホテル・ウッドロウ(現レストラン・ピッチョリーネ)にしばらく滞在する。

 10月13日、スピヴァコフスキーとニューヨークフィルによる《ヴァイオリン協奏曲(第2番)》を聴く。15, 17日も。

 10月18日、サラナクレイクでやり残した《管弦楽のための協奏曲》完成する。

 11月26日、メニューヒンがカーネギーホールで《ヴァイオリンソナタ第1番》で演奏し、《無伴奏ヴァイオリンソナタ》の作曲を委嘱。

 冬、ASCAPの費用でアッシュヴィルのリゾートホテル、アルベマール・インで過ごす。
 ペーテルに米国政府から徴兵通知があり、家族で相談のうえ拒否する。


1944年 ヨーロッパの動向を憂慮

セイジマン夫妻宅(現ベーラ・バルトーク・コテージ)


[アルベマール・インで年を越す]

 1月、ペーテルが徴兵に応じる方向に転じる。《管弦楽のための協奏曲》のボストン初演が延期。体温計が不良品と分かる。熱が下がっていなかったことが判明。

 2〜3月、《無伴奏ヴァイオリンソナタ》を作曲。ペーテルが米国海軍に入隊、基礎教育始まる。

 4月末、アルベマール・インを去る。ニューヨークで再びホテル・ウッドロウに滞在。

 7月、ASCAPの費用で再びサラナクレイクのセイジマン・コテージに滞在。といっても、実際の部屋は、裏にあるセイジマン夫妻の住居の一室。「結核でない」ことが内々に伝わっていたのだろうか(現ベーラ・バルトーク・コテージ)。



Google: セイジマン夫妻の自宅。61 Park Avenue, Saranac Lake, NY

 ベーラ・バルトーク・コテージと呼ばれながら、現在は民家。
 バルトークが表のセイジマン・コテージ(療養施設)と裏のセイジマン夫妻宅のどちらに住んだか、長年混乱していた。2012年に私が問題提起し、ヒストリック・サラナクレイクとペーテルの間で記録を整理し、2年めの住まいは裏のセイジマン夫妻宅だったとほぼ推定されている。

マンハッタン西57丁目のアパート


 10月4日、サラナクレイクを後にする。

 10月5日、ニューヨークに到着。アパート探しが不調に終わり、ディッタのマンハッタン西57丁目のアパートに同居する。503号室(右の写真は6階まで写っている。5階左端の窓に室外機がある部屋)。

 11月28日、ディッタと共にボストンに出発。

 12月1日、クーセヴィツキー指揮とボストン交響楽団による《管弦楽のための協奏曲》の世界初演を聞く。好評。

 12月3日、ニューヨークに戻る。

 12月、ミルマン・パリーを引き継いだ『セルボ・クロアチア民謡集』が完成(IMSLPでも閲覧可)。

 12月30日、 《管弦楽のための協奏曲》がボストンからラジオ放送。同じアパート内のケチケメーティの部屋で聞く。



Google:マンハッタン西57丁目のアパート。309 West 57th Street, NY

 地下鉄59丁目駅があるコロンバスサークルやセントラルパークのすぐ近く。1928年建築、16階建て、100室。57丁目を東に5分も歩けば7番街のカーネギーホール。


1945年 創作の再開と急逝

ハール氏の山小屋(現バルトーク・キャビン)


[マンハッタン西57丁目のアパートで年を越す]

 1月10日、ニューヨークで《管弦楽のための協奏曲》再演。13日にも。

 1月16日、夕方、雪で交通機関が麻痺し、歩いて帰宅する。
 1月17日、ラジオ局でドラティ指揮《組曲第2番》に立ち会う。放送時間を優先したテンポ設定に失望。
 1月19日、マークス出版社と『初期のピアノ曲集』出版で契約(当時は実現せず。BR708)。
 友人の支援を得られず、官庁街を一人で巡る。外国税控除が受けられないと知って落胆。

 この頃、3人から作曲委嘱。
 2月、『ライフ』誌で戦後のハンガリーの状況を知る。

 4月28日、『ニューヨーク・タイムズ』紙で、自分がハンガリーの新議会議員に選出されたことを知る。
 5月、『ルーマニア民謡全集』の改訂を終える。

 メニューヒンからカリフォルニアの別荘を提供されるが、費用と距離を考えて断念する。
 6月、1946年のハーヴァード大学での講義を引き受ける。食糧配給券の理解を誤り、無駄にする。

 6月25日、3度めのサラナクレイクにディッタと出発。自費でマックス・ハール氏の山小屋に滞在し、《ピアノ協奏曲第3番》と《ヴィオラ協奏曲》に取り組む。

 7月3日、プラッツバーグ経由でカナダのモントリオールに行き、米国の移民ビザを手にする。
 7月中旬、ハンガリーに残した親戚、仲間の生存情報を得る。

 8月上旬、ペーテルのアレルギー症状が悪化し、疾病除隊が決まる。

 8月10日、ペーテルが除隊する。
 8月11日、サラナクからペーテルへ最後の手紙。山小屋への道順を知らせる。
 8月15日、ペーテル、ニューヨークに到着。その後、サラナクレイクに向かい、両親と過ごす。



Google:ハール氏の山小屋。89(現58) Riverside Drive, Saranac Lake, NY

 母屋も同じ住所だが、地図上のマーカーは山小屋を示してある。建物はヒストリック・サラナクレイクが1999年にペーテルの寄付で修復し、バルトーク・キャビンとして管理・公開している。

最後の住居に掲げられた像とプレート
最後の住居に掲げられた像とプレート


 9月初旬、高熱が続き、サラナクレイクからニューヨーク市の西57丁目のアパートに戻る。

 9月中旬、アパートの家主からの立ち退き要求に憤慨。

 9月22日、救急車でドクターズ病院に入院する。アパートを出る前に《ピアノ協奏曲第3番》の最後17小節の小節線をペーテルに引かせる。

 9月26日、死去。ニューヨーク到着から1,793日め。

 9月28日、ブロンクス北部のファーンクリフ墓地に埋葬される(1988年にブダペストのファルカシュレーティ墓地に再埋葬)。

【参考文献】

 Bartók, Bela (Ifj.): Apám Életének Krónikája, 1981, Zeneműkiadó Budapest.(長男ベーラJr.著、父の記録日誌、ハンガリー語)

 Bartók, Peter: My Father, 2002, Bartók Records.(ペーテル・バルトーク著/村上泰裕訳『父・バルトーク』2013、スタイルノート)
 Fassett, Agatha: The Naked Face of Genius, 1958; Béla Bartók, American Years, 1960, Dover Publications.(アガサ・ファセット著/野水瑞穂訳『バルトーク晩年の悲劇』1973、みすず書房)

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29. 中川隆[-12780] koaQ7Jey 2020年5月03日 08:41:00 : ISw2X8iTps : RFI5OGR2ODdoVjI=[10] 報告
1941年 7月26日〜9月4日、ディッタと共にヴァーモント州リヴァートンのアガサ・ファセットの別荘で過ごす(関連映像)。



WCAX: "Bela Bartok visits Vermont" Air Date 8/9/2011




この別荘の建物は現存しない。この別荘でディッタは何度か過ごしたが、バルトークはこの1回限りだった。リヴァートンでアガサから2匹のネコをもらい、連れて帰る。

 9月、コロンビア大学の契約が半年延長。9月〜2月で1,500ドルの報酬。

 冬、発熱が始まる。

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