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グスタフ・マーラー 交響曲第10番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/892.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 05 日 20:34:24: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: グスタフ・マーラー 交響曲第9番 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 03 日 01:08:56)

グスタフ・マーラー 交響曲第10番


Mahler's 10th Symphony [MIS/Cooke III] (Audio + Handwritten Score)


1st movement (Mahler International Society version)
Vienna Philharmonic cond/ Leonard Bernstein


2nd-5th movements (Cooke)
SWR Sinfonieorchester cond/ Michael Gielen


0:00 - Andante – Adagio: 275 bars drafted in orchestral and short score
26:11 - Scherzo: 522 bars drafted in orchestral and short score
38:03 - Purgatorio. Allegro moderato: 170 bars drafted in short score, the first 30 of which were also drafted in orchestral score
42:13 - [Scherzo. Nicht zu schnell]: about 579 bars drafted in short score
55:07 - Finale. Langsam, schwer: 400 bars drafted in short score


Leonard Bernstein / Wiener Philharmoniker Oct.1974


レナード・バーンスタイン指揮ウイーン・フィル(1974年録音/グラモフォン盤) 


これはウイーンでのライブ演奏です。バーンスタインがこういう曲をウイーン・フィルと演奏すれば最高なのはわかりきっています。ひとつひとつの音符に深い意味が込められていて真に感動的です。録音のせいか金管が弦楽と溶け合わずに分離したようにも感じますが、反面音の動きは聞き取りやすいです。それにしても何という悲しみに満ちた音なのでしょうか。死を覚悟した(し切れない?)マーラーの悲痛な心の叫びが痛々しく思えてなりません。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-2cee.html


ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団
ヘンスラー。2005年3月17-19日、フライブルクでの録音。クック版第3稿第1版による。
ギーレンは下記のように、第1楽章アダージョだけは以前に録音しており、それはヘンスラーからの全集セットにも収録されている。
このクック版第10番は、(全集完成記念というわけではなかろうが)、そのマーラー自身の手になる曲の全集とは別個に発売されたものである。第5楽章のハンマーのすごさは、ラトル盤以上のものがある。上記全集の最後のほうの何曲かの録音では「ギーレンも丸くなったな」と感じたものだが、この演奏を聴くとやはりギーレンのゲンダイものは凄いと思わざるを得ない。
http://classic.music.coocan.jp/sym/mahler/mahler10.htm


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Gustav Mahler - Symphony No. 10 "Adagio" | Vienna Philharmonic, Leonard Bernstein [HD]




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Leonard Bernstein "Adagio Symphony No 10" Mahler


New York Philharmonic
Leonard Bernstein, conductor


レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(1975年録音/CBS SONY盤) 


僕が昔LP盤で聴いていたのはこの演奏です。ウイーンライブの翌年のスタジオ録音です。二つの演奏にテンポ、表現の差はほとんど有りません。なので、このニューヨーク盤も素晴らしいのですが、やはりウイーンフィルの管や弦の持つ独特の柔らかさを望むことはできません。どちらもマーラーゆかりの楽団とはいえ、長年の間その土地の風土文化に育まれてきた音は異なります。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-2cee.html


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テンシュテット指揮:マーラー:第10交響曲よりアダージョ(1983年ライヴ)


K.Tennstedt / Vinna Philharmonic Orchestra 29/Aug/1983 Live in Salzburg


クラウス・テンシュテット指揮ウィーン・フィル
Altus。2CD。1982年8月29日、ザツルブルク祝祭大劇場におけるライヴ録音。
このコンビの一期一会の記録。
http://classic.music.coocan.jp/sym/mahler/mahler10.htm


クラウス・テンシュテット指揮ウイーン・フィル(1982年録音/TIENTO盤)
これはザルツブルク音楽祭のライブ録音ですが、演奏はバーンスタイン以上に広がりがありスケールが大きく、まるで大波にのみ込まれるようです。全ての音符が繊細に扱われて深い意味が込められているので、最初から最後まで心底惹きつけられます。弦と管が柔らかく溶け合った録音も素晴らしいです。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-2cee.html


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Mahler - Adagio from Symphony No.10 Maazel Vienna Philharmonic


Conducted : Lorin Maazel
Vienna Philharmonic Orchestra
October 3, 1984
Vienna Musikverein Saar


ロリン・マゼール指揮ウイーン・フィル(1984年録音/CBS SONY盤) 


この曲の演奏に関してはウイーン・フィルの魅力は絶大です。やはりマーラー自身が作った響きの歴史を継いでいるわけですから、このオケでなければ出せない音が有ります。悲痛さではバーンスタイン、広がりではテンシュテットですが、美しさでは遜色ありませんし、むしろ良い意味で平常心に近いまま音楽を鑑賞したいと思う時には最適かもしれません。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-2cee.html


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デリク・クック補筆、全5楽章版
Mahler "Symphony No 10 (Cooke) Kurt Sanderling




Symphony No 10 by Gustav Mahler
(completed by Deryk Cooke)
1. Adagio
2. Scherzo
3. Purgatorio
4. Scherzo: Allegro pesante
5. Finale


Berliner Sinfonie Orchester
Kurt Sanderling, Conductor
1979 Deutsche Schallplatten


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Mahler “Symphony No. 10” (Daniel Harding ・ Vienna Philharmonic)


ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィル
DG。2007年10月、ムジークフェラインでの録音。クック版第3稿第1版による。(ハーディングはクックの死去した1976年の生まれである。)
ハーディングは、マーラーの曲の中ではこの曲をもっとも多く指揮しているという、またこの曲でウィーン・フィルにデビューした。それはまたウィーン・フィルにとっても5楽章版でこの曲を演奏する最初の機会であった。
ウィーン・フィルから極めて透明な響きを引き出した名演。(ライヴではなくセッション録音である。)
http://classic.music.coocan.jp/sym/mahler/mahler10.htm


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RUDOLF BARSHAI conducts MAHLER - SYMPHONY N. 10




Junge Deutsche Philharmonie / Rudolf Barshai
*Reconstruction and Instrumentation after Mahler's sketches by R. Barshai


ルドルフ・バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィル
BRILLIANT。2001年9月12日、ベルリンでのライヴ録音。
「バルシャイ編」となっているが、その実態は「クック版」に大量の打楽器を導入したりして改変を加えたものである。
演奏は、カップリングの第5番ともども、かなり素晴らしいものになっている。
http://classic.music.coocan.jp/sym/mahler/mahler10.htm


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交響曲第10番(ドイツ語名:Sinfonie Nr. 10)嬰ヘ長調はグスタフ・マーラーによる未完成の交響曲である。マーラーは1910年に本作の作曲を開始したが、翌1911年、マーラーの死によって完成させることができなかった。


楽譜は第1楽章がほぼ浄書に近い段階で、他の楽章は大まかなスケッチがなされた状態で残された。


国際マーラー協会は第1楽章のみを「全集版」として収録・出版しており、これに基づいて第1楽章のみ単独で演奏されることが多かったが、第二次世界大戦後、補筆によって数種の全曲完成版が作られている。なかでもイギリスの音楽学者デリック・クックによるものが広く受け容れられており、補筆完成版の演奏機会が近年増加傾向にある。


マーラーの遺稿は 5楽章からなり、第3楽章を中心とする対称的な構成として構想されている。スケルツォ楽章を中心とする5楽章構成はマーラーが好んで用いているが、第10番では第3楽章に「プルガトリオ(煉獄)」と題する短い曲を置き、これを挟む第2楽章と第4楽章にスケルツォ的な音楽が配置されている。


第1楽章は交響曲第9番につづいて緩徐楽章だが、速度はさらに遅く、形式感は薄れてソナタ形式の痕跡はほとんど認められない。


純器楽編成によるが、第3楽章「プルガトリオ」で自作の歌曲集『少年の魔法の角笛』から第5曲「この世の生活」が引用されている。これを始めとして、第9番や『大地の歌』などを想起させる楽句が随所に現れる。


調性的には交響曲第9番からさらに不確定な印象を与え、無調に迫る部分が見られる。極度の不協和音が用いられており、第1楽章で1オクターブ12音階中の9音が同時に鳴らされ、トランペットのA音の叫びだけが残る劇的な部分は、トーン・クラスターに近い手法である。アルノルト・シェーンベルクはこれを和声の革新とみなした。


演奏時間は第1楽章のみの場合約18.5 - 28分。 補筆全曲版の場合約85分。


遺稿の完成度
マーラーは4段ないし5段譜表による略式総譜を全5楽章の最後まで書いており、そのうち第1楽章と第2楽章(スケルツォ)については一応のオーケストレーションを施した総譜の草稿を作り終えていた。


このうち第1楽章は、管弦楽に薄いところがありながらも楽章を通して演奏可能である。


第2楽章は構成と拍子が複雑で、遺稿に一部欠落もあったために、そのままでは演奏不能であった。


第3楽章は、最初の30小節について第1楽章、第2楽章に準じてオーケストレーションがなされていた。短く単純な形式であるため、補筆は第2楽章よりも容易であった。


第4楽章以降については、略式総譜の各所に楽器指定が書き込んであるものの、声部には濃淡があり、どうにか最後までつづいているという状態であった。


楽曲構成や楽章順については、過去の自作で迷った経緯もあって、これがマーラーの最終判断とはいえないものの、略式総譜の順及び作品の完成度によって、構想段階のものとしてはほぼ確定可能である。


マーラーの書き込み
この曲のスケッチには第3楽章以降、いたるところに妻アルマへ対する言葉が記されており、以下に主なものを挙げる。


第3楽章の標題ページの下の部分が切り取られており、アルマが切り取ったとされる。ここにはアルマにとって不都合なことが書かれていたと推定される。


第3楽章にはこのほか


「死! 変容!」、
「憐れみ給え! おお神よ! なぜあなたは私を見捨てられたのですか?」、
「御心が行われますように!」


などと書かれている。後の二つはマタイによる福音書から、十字架上のイエスの言葉の引用である。


第4楽章の表紙には
「悪魔が私と踊る、狂気が私にとりつく、呪われたる者よ! 私を滅ぼせ、生きていることを忘れさせてくれ! 生を終わらせてくれ、私が……」、


楽章の末尾には


「完全に布で覆われた太鼓、これが何を意味するか、知っているのは君だけだ! ああ! ああ! ああ! さようなら、私の竪琴! さようなら、さようなら、さようなら、ああ、ああ、ああ」


と書かれている。


第5楽章のコーダには


「君のために生き! 君のために死ぬ! アルムシ!」


と書かれている。アルムシ(Almschi)はアルマの愛称。


作曲当時、マーラーとアルマの関係はヴァルター・グロピウスの登場によって一気に緊張したものとなったが、これらの書き込みは、夫婦の危機に直面したマーラーの衝撃の大きさを示すとともに、このことが第10番の音楽にも反映されていると考えられる。とはいえ、作曲はグロピウスの事件までにもすすんでいたのであり、第10番の構想をすべてこの事件に結びつけることはできない。


作曲の経緯


第10交響曲の構想、アルマとの危機


1910年、妻のアルマは6月から湯治療養先のためトーベルバート(ドイツ語版)に滞在していたが、この地で建築家ヴァルター・グロピウスと出会う。
同年7月3日、マーラーは休暇先トブラッハ近郊のアルトシュルーダーバッハで第10番を構想、スケッチを始める。
アルマがトブラッハのマーラーの元に戻ると、グロピウスはアルマに求愛の手紙を書く。7月29日にマーラーはグロピウスの手紙(マーラー宛になっていたという)を読んで二人の関係を疑う。


8月5日、アルマを追ってトブラッハまでやってきたグロピウスをマーラーは自分の別荘に招き入れる。このときマーラーは聖書を読んでいたが、アルマに「君が好きなようにしてもいい。君が決めたまえ」といったという。


アルマはマーラーの元にとどまったが、グロピウスとの関係はつづき、マーラーの死後、画家オスカー・ココシュカとの関係を経て1915年、アルマはグロピウスと結婚する。


8月22日、扁桃腺炎? のために別荘で昏倒する。


8月25日、マーラーはオランダのライデンを訪れ、ジークムント・フロイトの診断を受ける。この診療以降にマーラーが第10交響曲の作曲を進めたという記録は全くなく、死ぬまで放置される事になる。


第8交響曲の初演、最後のシーズン


9月12日、ミュンヘンで交響曲第8番を初演。マーラーの生涯の頂点ともいえる記念碑的成功を収める。
10月25日、ニューヨークに戻る。
12月、ニューヨーク・フィルハーモニックと演奏旅行。ピッツバーグ、バッファロー、クリーブランド、ロチェスター、シラキューズを回る。
1911年1月17日及び20日、ニューヨーク・フィルを指揮して自作の交響曲第4番を演奏。これが自作を指揮した最後となる。


ウィーンへ、死
2月21日、ニューヨーク・フィルと48回目にして最後の演奏会。プログラムはフェリックス・メンデルスゾーンの交響曲第4番、フェルッチョ・ブゾーニの『悲歌的子守歌』など。この直後に敗血症のため重体となる。


4月8日、ヨーロッパへ向かう。同じ船にはシュテファン・ツヴァイクやブゾーニが乗船していた。パリで治療を受けて5月12日にウィーンへ移るが、すでに瀕死の状態であった。


5月18日、マーラー死去。51歳。
最後の言葉は「モーツァルト!」だったという。
(妻アルマの回想によると「モーツァルトル!」という愛称を表すマーラーの生まれた地方の方言だったという。)


5月22日、グリンツィング墓地に葬られる。


主な補筆と演奏の経緯


クルシェネク版の成立
『マーラー伝』の著者リヒャルト・シュペヒトによれば、マーラーは、完成することのできなかった第10番のスコアを焼却するように、妻アルマに言い残した。しかし、アルマは楽譜を形見として所持していた。


1924年、アルマは作曲家である娘婿のエルンスト・クルシェネクに第10番の補筆完成を依頼、ウィーンのパウル・ソルナイ(アルマの娘アンナ・ユスティーネの結婚相手)社からマーラーの自筆楽譜をファクシミリ版として出版する。クルシェネクは第1楽章をほぼ草稿のまま演奏譜に仕立て、第3楽章のオーケストレーションを補筆して完成させた。これにフランツ・シャルクや、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーも協力した。


同年10月14日、クルシェネク版による第1楽章と第3楽章がウィーンでフランツ・シャルク指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演。
1942年、音楽学者ジャック・ディーサー(英語版)がドミートリイ・ショスタコーヴィチに補筆依頼するが、ショスタコーヴィチは断った。


第二次大戦後、初版の出版、全曲補筆版の完成


1946年、クリントン・カーペンター(Clinton Carpenter)が補筆に着手(カーペンター版)。ディーサーを通じてアルマがアルノルト・シェーンベルクに補筆依頼するが、シェーンベルクは断った。
1949年 カーペンター版第1稿完成。
1951年、クルシェネク版がニューヨークのアソシエイテッド・ミュージック・パブリッシャーズ(AMP社)から出版。
1953年、ジョー・フィーラー(英語版)が補筆に着手(フィーラー版)。
1954年、ハンス・ヴォルシュレーガー(英語版)が補筆に着手。しかし1974年に断念する。
1955年、フィーラー版第1稿完成。
1959年、デリック・クックがマーラーの自筆楽譜の研究を開始。


クック版などの全曲版の初演


1960年、マーラー生誕100周年を記念し、BBCがラジオ放送でゴルトシュミット指揮フィルハーモニア管弦楽団によるクック版(第1稿)全曲初演。この時点では第2楽章と第4楽章に一部欠落があった。この放送は事前にアルマの承諾を得ておらず、アルマはラジオの再放送や補筆版総譜の上演・出版を差し止める。
1963年、クック版の放送録音を聴いたアルマが態度を軟化。アルマの娘アンナが欠落していた部分のコピーを提供する。12月11日、アルマ没。


1964年8月13日、欠落を補填したクック版(第2稿)全曲をゴルトシュミット指揮ロンドン交響楽団によって初演。
1964年、国際マーラー協会がエルヴィン・ラッツ(ドイツ語版)監修による「全集版」(第1楽章のみ)をウニヴェルザール出版社から出版。
1965年、フィーラー版第3稿、ニューヨークで初演。
1966年、フィーラー版第4稿完成。カーペンター版改定稿完成。
1972年、クック版(第3稿)をウィン・モリス指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が初演。
1976年、クック版(第3稿)をファーバー社が出版。10月26日クック没。
1983年、レモ・マゼッティが補筆に着手(マゼッティ版)。カーペンター版初演。
1989年、クック版第3稿(第2版)出版。マゼッティ版全曲初演。


楽曲構成


短い第3楽章を中心とした対称的な5楽章構成である。各楽章についての演奏楽器などの記述は、基本的に「クック版」に基づく。


第1楽章 「アダージョ」
アンダンテ-アダージョ 嬰ヘ長調 4/4拍子 自由なソナタ形式。


虚無的で謎めいたヴィオラの序奏主題(譜例1)によって開始される。調記号は嬰ヘ長調だが、ヴィオラの旋律は調性があいまいで嬰ヘ短調にも聞こえる。この部分はアンダンテで、冒頭に書かれた「アダージョ」は、速度表示というより、音楽の一種の性格を示すものと見られる。

アダージョになると弦を主体とした第1主題(譜例2)が柔らかく歌われる。この主題は、ブルックナーの交響曲第9番の第3楽章主要主題との類似が指摘されるが、雰囲気的には自作の交響曲第9番の終楽章とも近い。つづいてこの主題の反行形が示され、楽章を通じて重要な働きを示す。

テンポをやや上げ、皮肉でおどけた調子となり、弦によって半音階的に上下行する第2主題(譜例3)が現れる。この動機はワーグナーの『パルジファル』から、クリングゾルの動機との関連が指摘される。

やがて序奏主題が再現し、第9番の第1楽章同様、変奏を受けながら提示部が反復される。


序奏主題がまた現れると展開部。これに第2主題が結合され、皮肉な調子が支配的となる。アダージョ主題(主として第1主題の反行形)が登場するが、これも次第に第2主題に誘導され、各種の動機が渾然となる。展開部は短いが、これは第2提示部で十分両主題が変奏されているためであると考えられている。


やがて再現部となり、第1主題によって弦楽によって神秘的な浮遊感をたたえた部分となる。交響曲第9番の終結部分を暗示する。第2主題も変形されて再現される。そして、序奏主題が再現すると、これに導かれるように突然金管によってコラール的な絶叫“カタストロフィ”が吹き上がる。第2主題が示されるが、動揺は治まらず、不協和音(譜例4)が次々に重ねられるなかをトランペットのA音が貫くように奏される。

この劇的な場面が静まると、テンポを落とした長いコーダとなる。アダージョ主題(第1主題の反行形)が慰めるように繰り返され、穏やかな気分の中で、柔和に結ばれる。


第2楽章 「スケルツォ」
Schnelle Vierteln 嬰ヘ短調 変拍子 二つの部分による自由な形式


交響曲第6番や交響曲第9番の第3楽章を思わせる、反抗的なスケルツォ。 主部(A)はほとんど1小節ごとに拍子が変動する。ホルンのリズム、木管の軽快な動機につづいて、荒々しい弦の主題が登場する(譜例5)。これらの素材に基づき、多声的で激しい部分がつづく。徐々に曲調は明るさを帯びてきて、弦の下降音型が曲の進行をさえぎるように出ると、中間部となる。



中間部(B)は変ホ長調、3/4拍子。レントラー風の主題(譜例6)は第1楽章のアダージョ主題(B)と関連がある。

その後、この二つの部分が繰り返し変奏・再現されるが、両者の間隔が次第に短くなり、後半は頻繁に交替する。構造的にはABABABABAとなる。3回目のAからはBの動機が絡むようになり、コラージュ的で混沌としてくる。最後はAの上昇音型とBの下降音型が重なり合い、嬰ヘ長調で楽章を終える。


第3楽章 「プルガトリオ(煉獄)」
アレグレット・モデラート 変ロ短調 2/4拍子 三部形式


マーラーの楽譜には「プルガトリオ(煉獄)またはインフェルノ(地獄)」と書かれ、「またはインフェルノ」の部分が消された跡がある。マーラーがこの楽章にプルガトリオと名付けたのは、マーラーの友人が書いた裏切りの詩とも、ダンテの神曲に基づくともいわれている。


この標題の下の部分は切り取られていて、ここにはアルマに対する言葉が書かれていたと推測される。


簡潔な三部形式で4分程度と、マーラーが書いた楽章として最も短いため、エルヴィン・ラッツのように、さらに拡大される予定だったとする説もある。


主部は、ヴァイオリンによるもの悲しげな主要主題(譜例7)と、これにつづく木管の愛らしい対句からなる。これらは間断なくつづくヴィオラのリズムに乗ったもので、『少年の魔法の角笛』から第5曲「この世の生活」が引用されている。主要主題を構成する3音動機(譜例8)は、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』との関連が指摘され、この楽章以降、至る所に姿を現す。この楽章においては、大地の歌や交響曲第9番等で用いられたewig主題がサロメ主題によって高らかにあざ笑われる箇所が印象的である。


中間部は同一の素材によるが、付点リズムを伴う順次下降の動機が弦に繰り返し現れ(譜例9)、この動機も後の楽章で重要な働きを示す。この部分にマーラーは「死! 変容!」などと書き込んでいる。



第4楽章
アレグロ・ペサンテ 急がずに ホ短調 3/4拍子


明記されていないが、内容は力強く激情的なスケルツォである。ABABABAと、二つの部分が交錯する。


マーラーは楽章の最初のページに「悪魔が私と踊る。狂気が私にとりつく」などと書き込みしている。


主部A(譜例10)は強烈な響きで開始される、荒々しい舞曲。随所に第3楽章の三音動機が現れる。

Bはワルツ風で明るく、交響曲第5番の第3楽章スケルツォが引用される。Aの再現では『大地の歌』の第1楽章が引用される。Bの再現を経てテンポが落ち、Aの3回目は長調となる。Bももう一度再現する。


Aが最後に出ると、三音動機を境にして音楽はだんだん静かになり、バスドラムが弱々しく連打されるコーダに入る。一瞬の静寂の後、バスドラムが今度はミュートをかけて強烈に打たれ、そのまま次の楽章に続く。


マーラーはこの部分に「これが何を意味するかは、君だけが知っている」と書き込んでいる。アルマによれば、これはニューヨークのホテルの窓からアルマとともに見た、殉職した消防士の葬送の行列で叩かれた太鼓の記憶だという。


第5楽章
終曲 ニ短調 3/4拍子 - 4/4拍子 - 2/2拍子


第4楽章から休みなくつづき、緩-急-緩という、大きく三つの部分からなっている。これを序奏・ソナタ主部・コーダとする見方もできるが、「主部」の部分が前後と比較して短く、十分な発展がないうちに結尾に至るため、一般的なソナタ形式とはいえない。


バスドラムの連打とチューバによる不気味な響きではじまる。第3楽章の三音動機がこれに加わり、付点リズム・順次下降の動機も姿を見せる。フルートが印象的な旋律(譜例11)を奏で、次第に高く昇っていく。全曲の白眉ともいえる美しい場面で、主題の後半には付点リズム・順次下降の動機が示される。この主題は弦に受け継がれるが、高揚したところで再びバスドラムが強打され、冒頭部分が再帰する。

アレグロ・モデラートにテンポを速め、三音動機と付点リズム・順次下降の動機が現れて両者が争うように展開される。いったんテンポが落ちて、フルートの主題が出るが、再び速くなり、ここで第1楽章の不協和音が再帰し、三音動機も荒々しく付加される。ホルンと弦に第1楽章のA主題が大きく現れ、音楽は次第に静まっていく。


ハープの分散和音に乗って、フルート主題をヴァイオリンが再現し、フルートも加わる。三音動機が柔らかく出ると、音楽は感動的に高まり、やがて静かになっていく。最後は嬰ヘ長調となり、名残惜しそうな響きのなかを、付点リズム・順次下降の動機がくっきりと示され、余韻のような交響曲第9番の二度下降動機(ただしここではミ-レでなくレ-ドと主音に至る)によって終わる(譜例12)。


マーラーはこの結尾部分に、「君のために生き! 君のために死ぬ! アルムシ(アルマの愛称)!」と書き込んでいる。

なお、このコーダ部分には嬰ヘ長調と変ロ長調の2種類のスケッチがあり、クック版を含め、ほとんどの補筆完成版は嬰ヘ長調を採用して、第1楽章と照応させている。


全集版(第1楽章のみ)
国際グスタフ・マーラー協会は、作曲者以外の手の加わらないスコアを正統とし、クックらによる補筆に否定的な立場をとった。したがって、協会が出版した「全集版」の第10番は、補筆なしで演奏可能な第1楽章のみである。現在も「全集版」による演奏・録音機会は多い。


オーケストレーションは、補筆完成版がスコアの空白部分などに楽器を充填しているのに対し、「全集版」は空白部分をそのままにしてあるので、比較的響きが薄いという特徴がある。 また、「全集版」第1楽章は、嬰ヘ長調(シャープ記号6個)という調号の上にさらに追加されるダブルシャープなどの煩雑な臨時調記号が、自筆譜を尊重するという立場からそのまま採用されており、演奏時にわかりにくい面がある。このためクルシェネク版やクック版などの補筆版は異名同音処理によってこの煩雑さを避けているが、これらを「全集版」と比較すると、実際の音程が半音ずれてしまっている箇所がある。


1964年、エルヴィン・ラッツ監修によりウニヴェルザール出版社から出版。


なお、国際グスタフ・マーラー協会から、概略版として清書された楽譜がウニヴェルザール出版社から出版される予定となっている。[1]


補筆版
以下のとおり、多くの版が存在する。このうちクルシェネク版は補筆版としてもっとも古いものだが、第1楽章と第3楽章のみである。


クルシェネク版
エルンスト・クルシェネクによる第1楽章と第3楽章の補筆版である。
補筆にはフランツ・シャルク、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー、アルバン・ベルクも加わったとされる。ただし、ベルクの注釈は、出版譜には生かされなかったという。


クックによる全曲版以降、クルシェネク版が演奏されることはほとんどない。


1951年に出版された版は、1924年にツェムリンスキーがプラハで演奏を計画した際に用意したスコアが元になっていると考えられ[2]、クルシェネクがほぼマーラーの草稿のまま演奏譜に仕立てたとされる第1楽章にも補筆が見られるが、これはシャルクとツェムリンスキーによるものと見られている[3]。ツェムリンスキーなどクルシェネク以外の人物の手も加わっていることから、校訂者オットー・ヨークルの名を取ってヨークル版、ヨークル稿などと呼ばれることもある。


1924年10月14日、ウィーンでフランツ・シャルク指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演。
1951年、ニューヨークのアソシエイテッド・ミュージック・パブリッシャーズ(AMP社)から出版。
録音 1953年、フレデリック・チャールズ・アドラー(英語版)指揮、ウィーン交響楽団 (Music & Arts)
1958年、ジョージ・セル指揮、クリーヴランド管弦楽団 (ソニー・ミュージック)
1966年頃、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮、モスクワ放送交響楽団*第1楽章のみ。


カーペンター版
アマチュア音楽家クリントン・カーペンターの手による。着手は1946年で、補筆完成版のなかでは最も古い。第1稿は1949年に完成。改定完成版は1966年に年完成、1983年初演。


後述する「クック版」とは対照的に、より補筆者の意思を反映した補筆が行われている。第1楽章及び第3楽章にも手が入っており、むしろ編曲に近いと言える(レナード・バーンスタインはこの補筆版を良しとせず、全集録音に加えなかった。)。最近は新版が出ていてジンマンにより録音されている。


録音 2001年、アンドリュー・リットン指揮、ダラス交響楽団(DELOS)
2010年、デイヴィッド・ジンマン指揮、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団 (Rca)


フィーラー版
「ホイーラー版」とも。イギリスの音楽愛好家、ジョー・フィーラーによるもので、着手は1953年とクック版より古い。補筆完成版のなかではオーケストレーションがもっとも地味とされる。第1稿の完成は1955年。


フィーラーが1966年に第4稿まで完成させた後、ロバート・オルソン、レモ・マゼッティ(マゼッティ版の編者)、フランス・ボウマンの3名によって1997年に改訂版が出版されている。


録音 2000年、ロバート・オルソン指揮、ポーランド国立放送交響楽団(NAXOS)


クック版
イギリスの音楽学者、デリック・クックによる。クックはこれを「第10交響曲の構想による実用版」と位置づけており、マーラーの構想を音として聴ける形にすることを目的とした。したがって、補筆部分は抑制的である。補筆総譜の下段にマーラーが残した略式総譜を併記して参照可能とし、詳細な校訂報告によって、補筆材料を提供している。


この補筆はアルマを始めとして、当初は反発を買ったが、のちにアルマの承認を得て、次第に広く受容されつつあり、補筆版として代表的な存在となっている。


第1稿
第2楽章と第4楽章に一部欠落がある。マーラーの妻であったアルマや、弟子のブルーノ・ワルターらははじめこれに気分を悪くしたという。
1960年、BBCがラジオ放送でゴルトシュミット指揮によって初演。この初演はアルマの承諾を得ておらず、アルマによって総譜の上演・出版を差し止められた。


第2稿
アルマの承認を得て、新たに見つかった資料によって欠落が補填されたもの。1964年発表。


初演:1964年、ゴルトシュミット指揮、ロンドン交響楽団
アメリカ初演:1966年、ユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団。これは録音されレコード化された。CDでも復刻され、現在では第二稿唯一のCD録音として知られるものである。一般にはあまり流布しなかったが、当時このクック版の最初の全曲レコードであった。


第3稿
クックがコリン・マシューズ・デイヴィッド・マシューズ(英語版)兄弟、ゴルトシュミットの協力を得て、1972年に発表、1976年に出版したもの。クックはこれを「最終稿」と呼んだ。


初演:1972年、ロンドンにて。


著名な録音
1973年、ウィン・モリス指揮、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(Philips)
1979年-1980年、ジェームズ・レヴァイン指揮、フィラデルフィア管弦楽団(RCA)
1980年、サイモン・ラトル指揮、ボーンマス交響楽団(EMI)。
1979年、クルト・ザンデルリング指揮、ベルリン交響楽団(Eterna)打楽器を追加するなど独自の校訂を行っている。
1986年、リッカルド・シャイー指揮、ベルリン放送交響楽団(Decca)
1993年、エリアフ・インバル指揮、フランクフルト放送交響楽団(Denon)
2005年、ミヒャエル・ギーレン指揮、南西ドイツ放送交響楽団(hänssler)。第2楽章コーダのシンバルなど、一部に後述の第2版も取り入れられている。


第3稿(第2版)
この校訂はクック没後のもので、実質ゴルトシュミットとマシューズ兄弟の3人による。1975年完成、1989年に出版された。


著名な録音


1999年、サイモン・ラトル指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(EMI)。
なお、ラトルは第10番をもっとも多く演奏している指揮者である。
第10番研究の本場・イギリス出身であり、校訂に関わったゴルトシュミットらとも親交があった。


2007年、ダニエル・ハーディング指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(DG)。
2007年、ジャナンドレア・ノセダ指揮、BBCフィルハーモニック(CHANDOS)。


マゼッティ版
レモ・マゼッティによる。1983年着手、1989年完成。
マゼッティは「フィーラー版」の改訂にも加わり、この成果をもとにして2000年に「マゼッティ版」第2稿を出版している。この第2稿は第1稿に比べオーケストレーションがやや控えめとなっている。


著名な録音


1994年、レナード・スラットキン指揮、セントルイス交響楽団。第1稿による。マゼッティ版による世界初録音(RCA)
2000年、ヘスス・ロペス=コボス指揮、シンシナティ交響楽団。第2稿によるが「1997年版」。(TELARC)


サマーレ/マッツーカ版
ブルックナーの交響曲第9番の第4楽章の補筆完成版を作成したニコラ・サマーレ(英語版)とジュゼッペ・マッツーカによる版。
2000年に完成され、2001年にペルージャでマルティン・ジークハルト(ドイツ語版)指揮、ウィーン交響楽団によって初演された。

録音
2007年、マルティン・ジークハルト指揮、アルンヘム・フィルハーモニー管弦楽団(オランダ語版)(Exton)


バルシャイ版
2001年のルドルフ・バルシャイによる補筆完成版。
クック版の最終稿を基にしながら、より大規模な編成をとり、打楽器が重視されている。コルネットやチューバ2本・マリンバ・カスタネット・シロフォン・トムトム・ウッドブロックなどのマーラーの様式に入らないロシア風の楽器編成も見られるが、テノールホルン・シンバル付きの大太鼓・ギター・チェレスタなどの過去の交響曲に出てきた楽器はすべて使われ、派手なオーケストレーションが施されている。演奏時間は約80分。


録音
2001年、ルドルフ・バルシャイ指揮、ユンゲ・ドイチェ・フィルハーモニー(ドイツ語版) (Brilliant Classics)


出版 ウィーンのウニヴェルザール出版社から出版されている。


ガムゾウ版
イスラエルの若手指揮者ヨエル・ガムゾウ(ドイツ語版)による版、校訂者の指揮で2011年11月21日にヴィースバーデンでインターナショナル・マーラー管弦楽団によって初演された。ユダヤ風のしつこいオーケストレーションが特徴的である。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC10%E7%95%AA_(%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC)



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マーラー 交響曲第10番
http://classic.music.coocan.jp/sym/mahler/mahler10.htm


 以下は、金子建志著「こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲」、および「レコ芸」2001年12月号読者相談室コーナーを参照した。
 この曲は第9番を書き上げたのち1910年に作曲されたが、死によって未完となった。


一応全曲にわたって総譜になっているのは「第1楽章アダージョ」だけである。
それにつぐ完成度なのが「プルガトリオ(煉獄)」(クック版第3楽章)、次が「スケルツォ」(同第2楽章)だが、この2つは補筆なしでは演奏できない。


残りの2つの楽章も、とりあえずは4〜5段の略式スコア状態でほぼ全曲通せるような資料は残されているらしい。
(欠落はクック版の第2と第4楽章展開部に時間にして5〜6分のみ。)


 ちょうどこの曲を作曲していた1910年におきた、マーラー(当時50才)の妻アルマ(31才)と建築家ヴァルター・グロピウス(26才)との不倫が、この曲の背景にある。


 マーラーはアルマに「君の好きなようにしなさい」と言い、この時はアルマはマーラーを選んだ。しかし、マーラーの死後、アルマは、画家オスカー・ココシュカ(後にスイスでのフルトヴェングラーの隣人となる)との恋愛が破れたあと、1915年に再びグロピウスとよりを戻して再婚する。
(この2人の間に生まれた娘マノンは、18才で小児麻痺で亡くなる。
ベルクがヴァイオリン協奏曲を捧げた少女でもある。
アルマはさらにのちに、詩人フランツ・ヴェルフェルと3度目の結婚をし1964年12月に死去。マーラーの墓と背中合わせに、アルマ・マーラー・ヴェルフェルの墓とマノン・グロピウスの墓は同一区画にある。)


 この曲の残された草稿には、妻の不倫に苦悩しながらも、それを許す言葉が随所に書き込まれているという。


 この曲の楽譜は、次の3種類ある。


1. エルンスト・クルシェネク補筆「アダージョ」「プルガトリオ」(1924年)


 クルシェネクは補筆当時、短い間(1923-25)だったがマーラーの次女アンナと結婚していた。
この版は、1924年10月14日にフランツ・シャルク指揮で初演され、ついでプラハでアレクサンダー・ツェムリンスキー指揮でも演奏された。この時、2人の手も加わったのだが、のちにアルバン・ベルクがその加筆に誤りや不要なものを見つけ訂正したらしい。ところが1951年に楽譜が刊行された時には、ベルクの訂正が無視されてしまったという。ジョージ・セル指揮の第1・第3楽章の1958年録音は年代的にこの版のはずである。


 全曲補筆の試みは、1942年にニューヨークのマーラー協会会長ジャック・ディーサーがショスタコーヴィチに依頼するが断られ、1944年にはディーサーとアルマがシェーンベルクに依頼したがこれも断られた。


2. 「マーラー協会全集版(第1楽章のみ)」(エルヴィン・ラッツ編、1964年刊行)
ラッツは国際マーラー協会会長で、クック補筆に反対していた。
この版はマーラーの書いたそののままの状態のものである。1967年にはマーラーの手稿のファクシミリ出版も手がけている。


3. デリク・クック補筆、全5楽章版 (後述)


クック版
 イギリスの音楽学者デリク・クックは、1959年にBBCから、翌60年のマーラー生誕100周年を記念する放送番組の企画を依頼されたことがきっかけで、第10番の補筆にとりかかった。ナチに追われてイギリスで活動していた作曲家ベルトルート・ゴルトシュミットの協力を得て、上記欠落部分以外の全曲スコアを仕上げ、1960年12月19日にゴルトシュミット指揮フィルハーモニア管が番組で初演した。欠落部分は解説で補った。これが言ってみれば「クック版第1稿」であるが、欠落部分があるため、これは演奏されることはその後2度とない。


 当時、マーラーの妻だったアルマはニューヨークで存命であった。上のクックの試みは彼女の承諾なしに行ったことだったため、彼女は放送を聴いていなかったにもかかわらず、ひどく心証を害し、BBCの再放送や楽譜出版を禁止した。しかしクックは、放送の反響の大きさと、マーラー次女アンナから送られてきた新発見資料も得て、全曲総譜を完成した(クック版第2稿)。


1963年4月に、指揮者ハロルド・バーンズとディーサーらがアルマを訪ね、クックの第2稿総譜を見ながら、以前のBBCの第1稿録音テープを聴かせた。この時、アルマは全曲を聴き終わったあと、終楽章をもう一度聴きたいと言い、それも終わって「Wunderbar!」と言った。そしてクックに「第10番を世界のどこででも演奏してよい、との全面的な承認を与える」と手紙を書いた。


この第2稿の初演は、1964年8月13日にゴルトシュミット指揮ロンドン交響楽団により、ロイヤル・アルバート・ホールのプロムナード・コンサートで行われた。
(同年12月11日、アルマ死去)。
1965年11月にオーマンディ指揮フィラデルフィア管が第2稿をアメリカ初演し、直後にCBSが録音した(唯一の第2稿録音)。
 クックはさらに、コリン・マシューズ、ディヴィッド・マシューズの兄弟の協力を得て、1972年にクック自身が最終稿と呼んだ「第3稿」を完成させ、同10月15日にウィン・モリス指揮ニューフィルハーモニア管で初演。同じコンビでPHILIPSが録音。
この版(=第3稿第1版)はのちにレヴァインの録音で有名になる。(インバル盤、シャイー盤もこの版である。)


 1976年10月26日、クックが死去したため、本来ならこれで打ち止めのはずだが、のちにマシューズ兄弟とゴルトシュミットの3人がクックの作業過程を見直して微修正を加えた。これは「クック版第3稿第2版」とでも呼ぶべきものである。
ラトル指揮BPOの新録音は、この版によっている。


ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィル
DG。2007年10月、ムジークフェラインでの録音。クック版第3稿第1版による。(ハーディングはクックの死去した1976年の生まれである。)
ハーディングは、マーラーの曲の中ではこの曲をもっとも多く指揮しているという、またこの曲でウィーン・フィルにデビューした。それはまたウィーン・フィルにとっても5楽章版でこの曲を演奏する最初の機会であった。
ウィーン・フィルから極めて透明な響きを引き出した名演。
(ライヴではなくセッション録音である。)
DGへの移籍第1弾で、08年2月の東京フィル客演(マーラー第6)にあわせての日本先行発売国内盤。


ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団
ヘンスラー。2005年3月17-19日、フライブルクでの録音。クック版第3稿第1版による。
ギーレンは下記のように、第1楽章アダージョだけは以前に録音しており、それはヘンスラーからの全集セットにも収録されている。
このクック版第10番は、(全集完成記念というわけではなかろうが)、そのマーラー自身の手になる曲の全集とは別個に発売されたものである。第5楽章のハンマーのすごさは、ラトル盤以上のものがある。上記全集の最後のほうの何曲かの録音では「ギーレンも丸くなったな」と感じたものだが、この演奏を聴くとやはりギーレンのゲンダイものは凄いと思わざるを得ない。


サイモン・ラトル指揮ボーンマス交響楽団
EMI。1980年録音。ラトルのデビュー録音。オランダ・エディソン賞受賞。
クックの第3稿1972年版に独自のアレンジを加えたものらしい。(ザンデルリンク盤も同様)


サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル
EMI。1999年9月24,25日、ライヴによる新録音。
ちょうど、ベルリン・フィルのアバドの後任シェフに選出された頃の録音である。
上記のように、マシューズ兄弟とゴルトシュミットによるクック版第3稿第2版を使用した初録音である。ラトル自身もこの校訂に助言者として加わったという。


ルドルフ・バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィル
BRILLIANT。2001年9月12日、ベルリンでのライヴ録音。
「バルシャイ編」となっているが、その実態は「クック版」に大量の打楽器を導入したりして改変を加えたものである。
演奏は、カップリングの第5番ともども、かなり素晴らしいものになっている。


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※第1楽章アダージョのみ


クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィル
EMI。ART処理。1978年5月10-12日,6月8日,10月5-7日録音。
LPでは第5番とカップリングされて発売されたマーラー全集第2作である。
第9番とカップリングのART処理forte2CDで入手。


クラウス・テンシュテット指揮ウィーン・フィル
Altus。2CD。1982年8月29日、ザツルブルク祝祭大劇場におけるライヴ録音。
このコンビの一期一会の記録。2枚組で同日に演奏された「英雄」とカップリング。


ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
DG。1968年12月7〜8日録音。ということは第6番と同時録音ということになる。(6日に第6のライヴ)。
2005年分売された国内盤で第3番とカップリングされている。


ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団
ソニー。1958年録音。第1楽章の他、第3楽章「プルガトリオ」も収録している。
セルのマーラーは他に第6番のライヴ録音、および第4番がある。
ストラヴィンスキー「火の鳥」とカップリング。



ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団
インターコード。1989年録音。トリスタン「前奏曲と愛の死」とのカップリング。


カール・アントン・リッケンバッヒャー指揮バンベルク交響楽団
ヴァージンクラシックス。1988年録音。
カップリングが、交響詩「葬礼」(第2番「復活」の第1楽章の初稿)、
もう1つは「花の章」(第1番「巨人」の第2楽章だったが後に削られたもの)
ということで、実におもしろい企画のCDである。演奏・録音とも悪くない。


レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル
ソニー。1975年録音。旧全集の第9番とのカップリング。


クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィル
DG。1985年録音。第9番とのカップリング。


ヴァレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団
LSO Live。SACD Hybrid。2008年6月、バービカンでのライヴ録音。
同年4月の「復活」とのカップリング。


レイフ・セーゲルスタム指揮デンマーク放送交響楽団
CHANDOS。1994年録音。第8番とのカップリング。


ヘルマン・シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウェストミンスター。1952年モノラル録音。
2001年、同レーベルがドイツ・グラモフォン傘下に入ったため、OIBP化された輸入盤で発売された。「巨人」とカップリングである。


ヘルマン・シェルヒェン指揮ライプツィヒ放送交響楽団
TAHRA TAH 147。1960年10月4日、ライヴ・モノラル録音。
同日の第6番、及び10月1日の第3番・亡き子を偲ぶ歌とのカップリング。


http://classic.music.coocan.jp/sym/mahler/mahler10.htm



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2010年6月 8日
マーラー 交響曲第10番から「アダージョ」 名盤: ハルくんの音楽日記http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-2cee.html


マーラーの「未完成」交響曲第10番です。
マーラーは交響曲第9番完成後の1910年の夏に、続く第10番に着手しました。再び創作に意欲を燃やしたのです。けれども彼は翌年の2月に病に倒れてしまい、5月にはこの世に別れを告げました。ですので第10番は僅かに第1楽章のアダージョがほぼ完成していたほかは、断片的なスケッチにとどまります。


この曲は後年、音楽学者によって復元が行われていますが、マーラー自身はこの曲は公表をしないように言い残しています。ですので、個人的にはマーラー以外の手による復元曲を聴こうという気にはなれないのです。


鑑賞するとすればアダージョのみです。


この曲は、調性がかなり失われていますし、響き自体も現代曲に近づいています。ですので、よく「シェーンベルクたちの先駆けとなった」という解説を目にしますが、僕はむしろ逆のように思っています。


マーラーはウイーンに居た時に、シェーンベルクやツェムリンスキーをよく自宅に呼んでは好物の黒ビールを飲みながら、音楽について激論を交わしたそうです。時には大喧嘩にもなったそうです。けれども、マーラーはアルマに


「私には彼の音楽はわからない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのかもしれん。私は老いぼれで、彼の音楽にはついてゆけないのだろう。」


と語ったそうです。この言葉から、決してマーラーが先駆けていたのではなくて、むしろ彼は新しい音楽に置いて行かれないように必死だったのだと思います。同業のブラームス爺が、新しい音楽家のことを「まったく最近の連中はなってない!」と、さんざんこきおろしていたのとは大きな違いです。


このアダージョも「生への別れ、死への旅立ち」という雰囲気が一杯ですので、「大地の歌」の終楽章や第9番の両端楽章とその点で共通しています。しかし無調による冷たい響きと不協和音で表現されるマーラーの痛切な心の叫びは、それまでの曲以上と言えます。


この曲は美しいとは思いますが、ここまで悲痛な音楽は普段はそうそう聴けるものではありません。同じ「未完成交響曲」といってもブルックナーの9番とはだいぶ異なります。でも、でも、やはりこの曲は限りなく美しく、悲しく、素晴らしい!


この曲の初演は、マーラーの死から14年後にウイーン・フィルにより行われました。
その指揮をしたのはマーラーから「才能が無い」と言われていたフランツ・シャルクです。
この曲を公表するなと言い残したマーラーは墓の中でどう思ったことでしょう。


ちなみに、マーラーは生前自分の墓について、「飾りのない墓石を置いて、ただ“マーラー”とだけ書いてくれ。僕の墓を訪ねてくれるほどの人なら僕が何者かはわかっているだろう。そのほかの人には用はない。」と言ったそうです。実際にウイーンの郊外に建てられた墓はその通りになっています。


それでは僕の愛聴するCDをご紹介します。


レナード・バーンスタイン指揮ウイーン・フィル(1974年録音/グラモフォン盤) 


これはウイーンでのライブ演奏です。バーンスタインがこういう曲をウイーン・フィルと演奏すれば最高なのはわかりきっています。ひとつひとつの音符に深い意味が込められていて真に感動的です。録音のせいか金管が弦楽と溶け合わずに分離したようにも感じますが、反面音の動きは聞き取りやすいです。それにしても何という悲しみに満ちた音なのでしょうか。死を覚悟した(し切れない?)マーラーの悲痛な心の叫びが痛々しく思えてなりません。


レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(1975年録音/CBS SONY盤) 


僕が昔LP盤で聴いていたのはこの演奏です。ウイーンライブの翌年のスタジオ録音です。二つの演奏にテンポ、表現の差はほとんど有りません。なので、このニューヨーク盤も素晴らしいのですが、やはりウイーンフィルの管や弦の持つ独特の柔らかさを望むことはできません。どちらもマーラーゆかりの楽団とはいえ、長年の間その土地の風土文化に育まれてきた音は異なります。


クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィル(1978年録音/EMI盤) 


手兵のロンドン・フィルは大抵の場合でオケの力不足を感じてしまいます。けれどもこの曲では余り不満を感じさせません。弦楽中心の単一楽章だからでしょうか。全体にゆったりとしていて、バーンスタインほどの痛切さは感じさせません。どちらかいうと9番の終楽章に近い雰囲気に聞こえます。この演奏だけ聴いていれば素晴らしいと思いますが、実は後述のウイーン・フィルのライブがある為に、自分にとってはどうしても影が薄くなります。


クラウス・テンシュテット指揮ウイーン・フィル(1982年録音/TIENTO盤) 


これはザルツブルク音楽祭のライブ録音ですが、USAの海賊CD-R盤です。音が良いのでマスターテープ使用だと思います。演奏はバーンスタイン以上に広がりがありスケールが大きく、まるで大波にのみ込まれるようです。全ての音符が繊細に扱われて深い意味が込められているので、最初から最後まで心底惹きつけられます。弦と管が柔らかく溶け合った録音も素晴らしいです。


これを聴いていると、ウイーン・フィルでテンシュテットの9番を聴きたかったとつくづく思ってしまいます。
<追記> Altusから発売された正規盤はTIENTO盤よりも更に音が良いので、初めて聴かれる方はAltus盤を購入すべきです。


ロリン・マゼール指揮ウイーン・フィル(1984年録音/CBS SONY盤) 


この曲の演奏に関してはウイーン・フィルの魅力は絶大です。やはりマーラー自身が作った響きの歴史を継いでいるわけですから、このオケでなければ出せない音が有ります。悲痛さではバーンスタイン、広がりではテンシュテットですが、美しさでは遜色ありませんし、むしろ良い意味で平常心に近いまま音楽を鑑賞したいと思う時には最適かもしれません。


以上から、僕の好きな順番を上げますと、


1位はテンシュテット/ウイーン・フィル、
2位はバーンスタイン/ウイーン・フィル、


ここまではダントツです。
そして3位にはマゼール/ウイーン・フィルとなります。


結局全部ウイーン・フィルですが、これはまあ仕方がありませんね。


コメント


この曲、泣かせますね。
私が聴いて記事にしたのは、ちょっと変わっていて、
ギドン・クレーメル+クレメータ・バルティカのです。
これはこれで良いと思います。
バーンスタイン/ウィーンフィルのが
全集に入っているのですが、
まだ聴いていません。
楽しみです。
投稿: 四季歩 | 2010年6月 9日 (水) 19時33分



四季歩さん、こんばんは。
マーラーの醍醐味は重厚な管弦楽の響きですが、室内合奏というのは意表をついたアプローチですね。
投稿: ハルくん | 2010年6月 9日 (水) 22時14分


マーラー10番…バーンスタイン/ウィーンフィルの8番とカップリングで収録されていたので、改めて聞いてみました。
ハルさんの言う通り悲しく美しい。そして、迷路に入り込んでしまった様な危うい不安定さがあって…いろんな表情を見せてくれる曲ですね。
マーラーの人生を投影しているのでしょうか?
人間の顔だって人生を映し出しますね。良い人生を送ってきた人は良い顔になる訳で…
オダチューさんがピカチューさんになっても、それが名指揮者としての味になっていくんですよね。
投稿: From Seiko | 2010年6月13日 (日) 02時06分


Seikoさん、こんにちは。
この曲は自身の死を意識したマーラーの最後の心境の表現でしょうし、それまでの人生の投影とも言えるでしょうね。この痛切さ、哀しさに心を揺さぶられてしまうのです。
投稿: ハルくん | 2010年6月13日 (日) 17時51分


非難覚悟でコメントします。
マーラーに興味をもったならば一度はクック版による5楽章形式の演奏も聴いて欲しい。
そして聴いてダメと思ったらそれでいい。
第1楽章のアダージョだけ聴けば良い。


クック版による録音はクルト・ザンデルリンク指揮ベルリン響の録音のみ気に入っています。(国内盤・ドイツ・シャルプラッテン)
解説もたいへん丁寧で、この作品の理解を深めるのに充分なものがあります。この解説を読まなかったら私もクック版を無視していたかもしれません。


なおアダージョのみの演奏ではバーンスタイン指揮ウィーンフィルの演奏が最高であるのは異論ありません。けっして誤解しないで下さい。
投稿: 敷居が高いアサヒナファン | 2010年6月14日 (月) 00時36分


敷居が高いアサヒナファンさん、こんばんは。
そうですねー、復元版を実際に耳にしてみてからダメ出しするのもマーラーファンの本来の姿なのかもしれませんね。多くのマーラーCDを聴いているくらいなら、1枚ぐらい復元版が有っても良いでしょうしね。
まあ、これは単なる感覚的なものですが、弟子に完成を託して死んだモーツァルトのレクイエムの場合は作者公認の復元ですが、マーラーの場合は作者禁止の復元を行っているわけですから、自分としてはどうしても抵抗感が拭えないのです。
でも、「一度は聴くべき」というのは貴重なご意見だと思います。
投稿: ハルくん | 2010年6月14日 (月) 01時06分


>個人的にはマーラー以外の手による復元曲を聴こうという気にはなれないのです。鑑賞するとすればアダージョのみです。


同意です。
一時期はクック版に入れ込みましたが
やはり第5楽章は「作り物」でしかありません。
今はもうアダージョだけで十分です。
これだけでもうお腹一杯。
それだけ優れた曲だと思います。
マゼール盤は録音も含めかなりいいですね。
ウィーン・フィルの弦の美しさが印象的です。
投稿: 影の王子 | 2013年5月 5日 (日) 11時37分


影の王子さん、コメントありがとうございます。
色々な考え方は有るのでしょうが、この曲に対する意見にご同意頂けて嬉しいです。
正に絶筆の名にふさわしい、美しくかつ壮絶なアダージョですね。
この曲に関してはウイーンフィルの演奏は別格ですね。マゼールもバーンスタインも素晴らしいですし、記事中に記載は有りませんが、アバドとウイーンPOの演奏(グラモフォン)も極めて美しいです。
個人的にはやはりテンシュテット/ウイーンPOが最も気に入ってはいますが。
投稿: ハルくん | 2013年5月 6日 (月) 10時11分


マーラーという映画ご存じでしょうか?
冒頭に第一楽章のトランペット全合奏が効果的に使用されていてすごく印象的です。この曲は色々と紆余曲折しているみたいで、クック全曲版で聞くとマーラーの当初の意図とは異なった方向に曲が導かれていくような気がします。


アルマへの惜別として聴くのなら全曲版、第9番とは別世界として聞くのなら第1楽章までと思います。


手許にはオーマンデイ(第2版?)セル(第3楽章付)クック全曲版(レバインとウインモリス)があります。いずれも一長一短です。前述した映画をみてこの曲の奥深さをしりました
投稿: k | 2014年9月24日 (水) 06時49分


Kさん
ケン・ラッセル監督の映画でしたら観たことはありません。DVDがもっと安いと良いのですが。
第10番の全曲版は面白いことは面白いのですが、マーラー自身の筆では無いことがどうしても受け入れられません。ですので10番は自分にとってはやはりアダージョのみの曲なのですね。
投稿: ハルくん | 2014年9月24日 (水) 23時23分


こんにちは。
 ハルくんさんは、補筆版に抵抗があるようですが、補筆版の演奏を第1楽章だけ聴かれたりはしないんですか。
投稿: t2 | 2015年3月22日 (日) 16時15分


t2さん、こんにちは。
そもそも補筆版のCDは所有していません。一つぐらい有っても良いかなと思いますが、結局聴くことはほとんど無いだろうと思いますので。
必ずしも補筆が全て嫌いと言うことでも有りません。そんなことを言うと、モツレクなんか聴けなくなってしまいますからね。
投稿: ハルくん | 2015年3月23日 (月) 23時49分


こんばんは。
アバド&ウィーン・フィル盤も良いですね。
やはりマーラーはウィーン・フィルの響きを想定して
作曲したのではないか?と思わせます。
他にはクーベリックのDG盤もなかなかです
(メインの第3はイマイチでしたが)。
テンシュテットは同年にFMで聴いたのですがCDではまだです。
FM誌によるとバーンスタインの代役だったそうです。
投稿: 影の王子 | 2016年2月 9日 (火) 19時55分


影の王子さん、こんばんは。
アバド/ウイーン盤ですが、ウイーン・フィルの響きは他の楽団とはまるで違いますね。ウイーンそのものの艶とでもいうものなのでしょうかねぇ。
また中間部の現代音楽的な音のからみ合いなど本当に惹き付けられます。
ただ、バーンスタインやテンシュテットに比べると「この世の終わり」のような深刻さはいま一つですね。テンポも速過ぎに感じられます。
ですのでカップリングの9番のほうが好きな演奏ではあります。
投稿: ハルくん | 2016年2月 9日 (火) 21時00分


こんばんは。
私ももうすぐマーラーが亡くなった年齢に達しようとしてます。
そうしてこの曲を聴くと「マーラーって深刻な人だったんだなぁ」
と思ってしまいます。
私自身は世俗的なR.シュトラウスの方に共感を覚えます
(二人と違い、私は独身ですが)。
音楽にではなく、生き方としてです・・・
もう補筆完成版は聴く気になりません。
バーンスタイン&ウィーン・フィル盤で聴くと
アダージョで「完結」していると思います。
投稿: 影の王子 | 2016年3月25日 (金) 20時26分


影の王子さん、こんにちは。
マーラーは気の毒な性格だとは思いますが、あの性格がなければマーラーの音楽は音響だけのそれこそ空虚な音楽に成りかねなかったですね。我々ファンにとっては有り難いことでしたが。
自分にはとても芸術家のような生き方はできません。聖なるものにあこがれはしてもやはり世俗的ですから。
私も補筆完成版はまず聴かないですね。面白くはありますが。
投稿: ハルくん | 2016年3月27日 (日) 09時46分


10番については私がマーラーの交響曲の中でも最も好きな曲であるので少しだけ持論を語らせてください。
何よりもまず、「未完成だから」などの理由で1楽章しか聞かないのは勿体ないです。私自身もクック版しか聞いたことはないのでその他の版については何も言えませんが、そもそもクック版は「補筆完成版」ではありません。クック自身も完成を目指したものではないと明言しているので、マーラー以外の人が完成させようとするなどおこがましいといったことを理由に聞かないというのは、見当違いであるし勿体無いです。また、クック版のスコアを見ていただければわかるのですが、スケッチだけとは言え曲の流れ自体は本人によりほぼ完成されています。


そして、10番をアダージョのみ聴くという方には「10番は9番の続きで死が関連している」と言われる方が多いです。確かに1楽章にはそのような雰囲気が多大にありますが、5楽章まで聞いて頂ければ、決してこの10番はそのような曲ではなく、むしろ「苦難を乗り越えてそれでも生きる」という生命力に満ち溢れた曲であると感じられるのではないでしょうか。
投稿: テンシュテットにはまってる | 2018年9月11日 (火) 13時54分


テンシュテットにはまってるさん、こんにちは。
確かに昔の作曲家の作品で自筆譜が残されていない曲も多々有りますし、それらを全部否定するつもりは毛頭ありません。
しかし私がひっかかるのはマーラーが公表するなと言い残した点です。真意は分りませんが、それは恐らく後年に他人の手によって復元されるのを嫌がったのだろうと自分は推測します。
ですのでもちろんクック版を何回か聴いたことは有りますし面白くは感じますが、他の曲のように心から没入しては聴けないのですね。
「そういうものだ」とこの復元版を楽しめる方に異議を唱えるつもりは無いですし、むしろ羨ましく思います。仰る通りに、今後割切って楽しめるようになれたら良いなとも思います。
投稿: ハルくん | 2018年9月12日 (水) 11時19分


http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-2cee.html




 

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