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民主主義をめざさない社会 - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/971.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 28 日 01:36:28: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 22 日 12:42:02)


民主主義をめざさない社会 - 内田樹の研究室 2020-03-26
http://blog.tatsuru.com/2020/03/26_1503.html


「サンデー毎日」に不定期連載という欄を持っている。三月に一度くらい思い立ったことを書く。5000字ほど頂いているので、わりとややこしい話が書ける。今回3月29日号に寄稿したのは民主制論である。「存在すべきもの(ゾルレン)」が「存在するもの(ザイン)」を律するという、宗教や武道では当たり前の話は政治にも当てはまるよという話である。

 統治機構が崩れ始めている。公人たちが私利や保身のために「公共の福祉」を配慮することを止めたせいで、日本は次第に「国としての体」をなさなくなりつつある。
 誰かの怠慢や不注意の帰結ではない。過去30年ほどの間、日本国民一人一人の孜々たる努力の成果である。

 私はこの現象をこれまでさまざまな言葉で言い表そうとして来た。「反知性主義」、「ポピュリズム」、「株式会社化」、「単純主義」などなど。そして、最近になって、それらの徴候が「民主主義をめざさない社会」に固有の病態ではないかと思い至った。その話をしたい。

 過日、「表現の自由」について講演を頼まれた。頼まれてから、「表現の自由」とはそもそも何のために存在するルールなのか考えた。

 たしかに、私たちの民主主義的な憲法は「表現の自由」を保証し、「公共の福祉」に反しない限りその自由を抑制することはできないとしている。でも、「表現の自由」を保証することでどのような「善きもの」がもたらされるのか? 人を憤激させるような表現や、人が大切にしているものを踏みにじるような攻撃的な表現にも自由は保証されるべきなのか? 表現してよいものといけないものを公的機関が判定することは許されるか? こういう問いに即答するのはむずかしい。

 なぜ「表現の自由」は守るに値するものなのか? 

 残念ながら、その問いに対する答えは憲法本文には書かれていない。書かれていないのは、それが自明だからではない(自明なら「表現の自由」をめぐって論争が起きるはずがない)。書かれていないのは、その答えは国民が自分の頭で考え、自分の言葉で語らなければならないことだからである。

 表現の自由にしろ、公共の福祉にしろ、民主主義にしろ、それにいかなる価値があるのかを自分の言葉で語ることができなければ、「そんなものは守るに値しない」と言い切る人たち(それはすでにわが国民の相当数に達している)を説得して翻意させることはできない。

 憲法の定める「表現の自由」はいかなる「善きもの」をもたらすのか? 

 それを語らない限り、民主主義を語ったことにはならないと私は思う。
 というのは、「民主主義とは何を目指した制度なのか?」を愚直に思量し、条理を尽くして語る努力そのものが民主主義の土台をかたちづくると私は考えているからである。だから、「民主主義とは何のためのものか?」という問い手離した人々はもう民主制国家を維持することはできない。

 民主主義というのはどこかに出来合いのものがあって、それを「おい、民主主義一丁おくれ」と言えば誰かが持って来てくれるというものではない。それは私たちが今ここで手作りする以外にないものなのである。いま日本の民主主義が崩れつつあるのは、私たちがそのことを忘れたからである。

 第二次世界大戦が終わった後に、ウィンストン・チャーチルは下院の演説において民主主義についてこう述べたことがある。

「この罪と悲しみの世界では、これまでに多くの政治体制が試みられてきたし、これからも試みられてゆくであろう。民主主義が完全で全能のもの(perfect and all-wise)だという人はいない。事実、民主主義は最悪の統治制度(the worst form of Government)だとこれまで言われてきた。これまで試みられてきたすべての統治制度を除けばだが。」

 広く人口に膾炙したフレーズであるが、この言葉を引用する人たちは「民主主義は最悪の制度だ」という点を強調し過ぎるように私には思われる。民主主義は「ろくでもない制度」である。だが、それ以外の政治体制は「さらにろくでもない制度」である。それゆえ、われわれは民主主義をいやいや採用している。多くの人はそういうふうに論を運ぶ。なんだかシニカルで頭よさそうである。だが、私はその解釈を採らない。チャーチルはこの時に「民主主義は最も実現することが困難な政体である」ということを言いたかったのではないかと思うからである。

 民主主義はまだ存在しない。私はそう思っている。「まだ」というか、たぶん永遠に存在しない。民主主義は「それをこの世界に実現しようとする遂行的努力」というかたちで、つまりつねに未完のものとしてしか存在しない。
 それでいいのだと思う。

 高い目標をめざす努力というのはどれも「そういうもの」だからだ。こちらの目の黒いうちに民主主義を実現することがかなわなくても、それを目指して前のめりに息絶えたということなら私の方には特段文句はない。

 この世界には一神教徒が25億人ほどいる。彼らは世界の終わりの時にわれわれを救うために現れる救世主(メシア)の到来を信じている。だが、預言者がそう説いてからそろそろ3000年ほど経つのに救世主はまだ来ない。これまで一度も起きたことがない出来事は、帰納法的に推論すれば、これからも起きない。だが、一神教の信者たちは彼らが生涯ついに出会うことのなさそうな救世主の到来を勘定に入れて今ここでの彼らの生活を律している。

 ある概念の持つ指南力はそれが現実化する蓋然性とは関係がない。メシアが永遠に到来しなくてもメシアニズムは今ここで機能する。それと同じである。「完全で全能の民主主義」が永遠に到来しなくても、その概念が今ここにおける政治的指南力を持つことはあり得る。「民主主義」は一神教における「メシア」に比すべき超越的な概念なのだ。というのが私の仮説である。そんな変ちきなことを言う人は他にいないと思うが、そう考えると現代日本における民主主義の空洞化の説明がつく。

 民主主義あるいは民主制(democracy)とはどういう制度なのか? 

 定義はそれほど難しくない。これは主権者が誰であるかによる政体の分類だからである。民主制の他には、君主制(monarchy)、貴族制(aristocracy)、寡頭制(oligarchy)、無政府(anarchy)などいくつかの政体が同列に並ぶ。チャーチルが「これまで試みられたすべての統治制度」と呼んだものがそれだ。だから、「私は民主主義に反対である」と言う人は、これらのうちのどれかの政体を選択したと見なされる。

 では、「主権者」とはどういう人間のことか。私はこれを「自分の個人的運命と国の運命の間に相関がある(と思っている)人間」と定義したいと思う。これもまた個人的な定義であり、一般性を要求するわけではない。とにかくこの定義で話を進めさせてもらう。
 帝政や王政においては皇帝や国王が主権者である。だから、明君賢帝であれば国は治まり、暗君愚帝であれば国は乱れる。貴族政や寡頭制でも話は変わらない。主権者の賢愚や善悪がそのまま国運を決する。それなら民主制でも話は同じはずである。民主制は国民が主権者である政体、すなわち国民ひとりひとりが「自分の個人的運命と国の運命の間には相関がある(と思っている)」政体である。そして、実際に国民ひとりひとりの賢愚や善悪が国運の帰趨を決するのである。

 アンドレ・ブルトンがどこかで「『世界を変える』とマルクスは言った。『生活を変える』とランボーは言った。この二つのスローガンはわれわれにとっては一つのものだ」と書いていたが、私はこれはそのまま民主制国家の主権者の条件として使えると思う。つまり、「自分の生活を変えることと国を変えることが一つのものであると信じられること」それが民主制国家における主権者の条件である。

 自分のただ一言ただ一つの行為によって国がそのかたちを変わることがあり得るという信憑を手離さない者、それが民主主義国家における主権者である。だから、主権者は「自分が道徳的に高潔であることが祖国が道徳的に高潔であるためには必要である」「自分が十分に知的な人間でないと祖国もまたその知的評価を減ずる」と信じている。遠慮なく言えば、一種の関係妄想である。だが、このような妄想を深く内面化した「主権者」を一定数含まない限り、民主制国家は成り立たない。

 そのことは「主権者のいない民主制国家」というものを想像してみれば分かる。
 主権者のいない民主制国家では、国民は自分の個人的な生き方と国の運命の間には相関がないと思っている。自分が何をしようとしまいと、国のかたちに影響はないと思っている。公共的圏域はあたかも自然物のように自分の外に存在しており、自分が汚そうと傷つけようと蹴とばそうと盗もうと、いささかも揺らぐことはないと思っている。今の日本人はまさにそれである。

 主権者であることを止めた国民というのは「高速道路が渋滞しているときに、路肩を走るドライバー」に似ている。彼以外のすべてのドライバーが遵法的にふるまい、彼一人が違法的である時に彼の利益は最大化する。しかし、それを見た他のドライバーたちが彼を真似て路肩を走り出すと、彼のアドバンテージはゼロになる。これが民主制国家の抱える根本的なジレンマである。

 公共の秩序が整っているときにこそ私利私欲の徒は大きな利益を得る。だが、私利私欲の徒が増え過ぎると秩序は崩壊する。だから、私利私欲の徒を根絶することはできないが、その人口比は「受忍限度」を超えてはならない。どうやって「公共の福祉を配慮する人」と「自己利益だけを追求する人」の比率をコントロールするか? それが民主制国家の直面する最大の現実的問題である。

 一定数の主権者(あるいはもっと平たく「大人」と言ってもよい)、つまり「自分の利害と国の利害は結びついていると思っている人」を民主制は含んでいなければ立ち行かない。それは上に申し上げた通りである。だが、社会の民主化が進み、「大人」の数が増えるにつれて、公共の福祉を顧みず利己的にふるまう人間(すなわち「子ども」)が得る利益は増大する。社会が民主化されるほど非主権者的=非民主主義的にふるまう者はより大きなアドバンテージを享受できることになる。つまり、民主制とは、その構成員たちに絶えず「他の連中には法と倫理を守らせ、常識に従わせ、公共の福祉に配慮させておいて、自分ひとりは抜け駆けして利己的・違法的・非民主的にふるまう」ように誘いかけるシステムなのである。

 ややこしい仕組みである。「最悪の統治制度」だとチャーチルが言うのも当然である。
 しかし、それでも民主制はそれ以外の政体よりも「まし」だと私は思う。
 民主制国家においてはとりあえず一定数の国民が、自助努力がそのまま国力の増大、国運の上昇に結びつくと信じているからである。自分がまず大人にならなければならないと信じているからである。

 史書によれば、名君である尭が五十年王位にあった後、自分の統治がうまくいっているかどうかを知るために変装して街を歩いたことがあった。子どもたちは「万民が幸福なのは皇帝の徳治のおかげだ」という童謡を歌っていたが、一人の老人は腹鼓を打ちながら「帝力なんぞ我にあらんや」とうそぶいていた。皇帝の資質といまの自分の生活の間には相関があることを子どもは信じており、老人は信じていない。いずれが現実を正しく見ているかということは別にして、このあと「公共の福祉」のために汗をかく気があるのはどちらかかは誰にも分かる。

 帝政王政の国では統治者一人が賢明であれば善政は行われた。でもそれは君主以外のすべての民が何の判断力も持たない愚鈍な幼児であっても機能する制度、むしろそうである方がよりよく機能する制度であった。だから、それらの制度は廃棄されたのだと思う。
 私が民主制を支持するのは、それが「できるだけ多くの国民が適切な判断力を具えた大人であることの方がそうでないよりよく機能する制度」だからである。民主制国家は一定数の国民が大人であることを要求する。それが民主制の手柄である。

 私が表現の適否を公的機関が判断することに反対するのは、その機関がつねに誤った判断を下すと思っているからではない(多くの場合、その判断は正しいだろう)。それが国民の適切な判断力の涵養に資するところがないからである。国民の市民的成熟を目指さないからである。それは「未成年者のために大人が決定を代替する」仕組みである。そして、そのような仕組みが整備された社会では子どもが大人になる動機づけは傷つけられる。「あなたが判断しなさい」と権限を委ねない限り、人は自分の判断力を育てようとはしない。「あなたが決めるのです」と負託しない限り、人は主権者としての自己形成を始めようとしない。

 民主制はそのような「賭け」なのである。今の日本で民主制が衰微しているのは、私たちにその覚悟がなくなったからである。

http://blog.tatsuru.com/2020/03/26_1503.html  

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コメント
1. 中川隆[-13021] koaQ7Jey 2020年4月22日 13:06:17 : 13OAtnQgho : d2VxeFFzSXBVMTI=[18] 報告

コロナ後の世界 - 内田樹の研究室 2020-04-22
http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html


『月刊日本』にロングインタビューが掲載された。「コロナ後の世界」について。


■「独裁か、民主主義か」という歴史的分岐点

―― 世界中がコロナ危機の対応に追われています。しかしたとえコロナが収束しても、もはや「元の世界」には戻らないと思います。内田さんはコロナ危機にどんな問題意識を持っていますか。

内田 新型コロナウイルス禍は、これからの世界のあり方を一変させると思います。「コロナ以前」と「コロナ以後」では世界の政治体制や経済体制は別のものになるでしょう。

 最も危惧しているのは、「新型コロナウイルスが民主主義を殺すかもしれない」ということです。こういう危機に際しては民主国家よりも独裁国家の方が適切に対処できるのではないか・・・と人々が思い始めるリスクがある。今回は中国が都市閉鎖や「一夜城」的な病院建設や医療資源の集中という、民主国家ではまず実施できない政策を強権的に下して、結果的に感染の抑制に成功しました。逆に、アメリカはトランプ大統領が秋の大統領選での再選という自己都合を優先させて、感染当初は「まったく問題ない」と言い張って初動に大きく後れを取り、感染が広がり出してからは有権者受けを狙った政策を連発しました。科学的で巨視的な対策を採れなかった。

 この差は、コロナ禍が終息した後の「アメリカの相対的な国威の低下」と「中国の相対的な国威の向上」として帰結すると予測されます。パンデミックを契機に、国際社会における米中のプレゼンスが逆転する。

 中国は新型コロナウイルスの発生源になり、初期段階では情報隠蔽や責任回避など、非民主的体制の脆さを露呈しましたが、党中央が仕切るようになってからは、強権的な手法で一気に感染拡大を抑え込んだ。それだけではなくて、中国は他国の支援に乗り出した。中国はマスクや検査キットや人工呼吸器や防護服などの医療資源の生産拠点です。どの国も喉から手が出るほど欲しがっているものを国内で潤沢に生産できる。このアドバンテージを利用して、習近平は医療支援する側に回った。

 イタリアは3月初旬に医療崩壊の危機に瀕しました。支援を要請しましたがEUの他のメンバーは反応してくれなかった。中国だけが支援を申し出た。人工呼吸器、マスク、防護服を送りました。これでイタリア国民の対中国評価は一気に上がった。知り合いのイタリア人も「いま頼りになるのは中国だけだ」と言っていました。

 もちろん中国も国益優先です。でも、トランプは秋の大統領選までのことしか考えていないけれど、習近平はこれから5年先10年先の地政学的地位を見越して行動している。短期的には「持ち出し」でも、長期的にはこの出費は回収できると見越して支援に動いた。この視野の広さの差がはっきりした。コロナ禍への対応を通じて、中国は国際社会を支える能力も意志もあることを明示し、アメリカは国際社会のリーダーシップを事実上放棄した。コロナ禍との戦いはこれから後も場合によっては1年以上続くかも知れませんが、アメリカがどこかで軌道修正をしないと、これ以後の国際協力体制は中国が指導することになりかねない。

―― 今回、中国の成功と米国の失敗が明らかになった。それが「コロナ以後」の政治体制にもつながってくるわけですね。

内田 そうです。今後、コロナ禍が終息して、危機を総括する段階になったところで、「米中の明暗を分けたのは政治システムの違いではないか」という議論が出て来るはずです。

 米中の政治システムを比較してみると、まず中国は一党独裁で、血みどろの権力闘争に勝ち残った人間がトップになる。実力主義の競争ですから、無能な人間がトップになることはまずない。それに対してアメリカの有権者は必ずしも有能な統治者を求めていない。アレクシス・ド・トクヴィルが洞察した通り、アメリカの有権者は自分たちと知性・徳性において同程度の人間に親近感を覚える。だからトランプのような愚鈍で徳性に欠けた人間が大統領に選ばれるリスクがある。トクヴィルの訪米の時のアメリカ大統領はアンドリュー・ジャクソンでインディアンの虐殺以外に見るべき功績のない凡庸な軍人でしたが、アメリカの有権者は彼を二度大統領に選びました。さいわいなことに、これが中国だったら致命的なことになりますが、アメリカは連邦制と三権分立がしっかり機能しているので、どれほど愚鈍な大統領でも、統治機構に致命的な傷を与えることはできない。

 少なくとも現時点では、アメリカン・デモクラシーよりも、中国的独裁制の方が成功しているように見える。欧州や日本でも、コロナに懲りて、「民主制を制限すべきだ」と言い出す人が必ず出てきます。

 中国はすでに顔認証システムなど網羅的な国民監視システムを開発して、これをアフリカやシンガポールや中南米の独裁国家に輸出しています。国民を監視・管理するシステムにおいて、中国はすでに世界一です。そういう抑圧的な統治機構に親近感を感じる人は自民党にもいますから、彼らは遠からず「中国に学べ」と言い始めるでしょう。


■なぜ安倍政権には危機管理能力がなかったのか

―― そのような大勢のなかで日本の状況はどう見るべきですか。

内田 日本はパンデミックの対応にははっきり失敗したと言ってよいと思います。それがどれくらいの規模の失敗であるかは、最終的な感染者・死者数が確定するまでは言えませんが、やり方を間違えていなければ、死者数ははるかに少なく済んだということになるはずです。

 東アジアでは、ほぼ同時に、中国、台湾、韓国、日本の4か国がコロナ問題に取り組みました。中国はほぼ感染を抑え込みました。台湾と韓国は初動の動きが鮮やかで、すでにピークアウトしました。その中で、日本だけが、感染が広まる前の段階で中国韓国やヨーロッパの情報が入っているというアドバンテージがありながら、検査体制も治療体制も整備しないで、無為のうちに二カ月を空費した。準備の時間的余裕がありながら、それをまったく活用しないまま感染拡大を迎えてしまった。

―― なぜ日本は失敗したのですか。

内田 為政者が無能だったということに尽きます。それは総理会見を見れば一目瞭然です。これだけ危機的状況にあるなかで、安倍首相は官僚の書いた作文を読み上げることしかできない。自分の言葉で、現状を説明し、方針を語り、国民に協力を求めるということができない。

 ドイツのメルケル首相やイギリスのボリス・ジョンソン首相やニューヨークのアンドリュー・クオモ州知事はまことに説得力のあるメッセージを発信しました。それには比すべくもない。

 安倍首相は国会質疑でも、記者会見でも、問いに誠実に回答するということをこれまでしないで来ました。平気で嘘をつき、話をごまかし、平気で食言してきた。一言をこれほど軽んじた政治家を私はこれまで見たことがありません。国難的な状況では決して舵取りを委ねてはならない政治家に私たちは舵取りを委ねてしまった。それがどれほど日本に大きなダメージを与えることになっても、それはこのような人物を7年間も政権の座にとどめておいたわれわれの責任です。

 感染症対策として、やるべきことは一つしかありません。他国の成功例を模倣し、失敗例を回避する、これだけです。日本は感染拡大までタイムラグがありましたから、中国や台湾、韓国の前例に学ぶ時間的余裕はあったんです。しかし、政府はそれをしなかった。

 一つには、東京オリンピックを予定通り開催したいという願望に取り憑かれていたからです。そのために「日本では感染は広がっていない。防疫体制も完璧で、すべてはアンダーコントロールだ」と言い続ける必要があった。だから、検査もしなかったし、感染拡大に備えた医療資源の確保も病床の増設もしなかった。最悪の事態に備えてしまうと最悪の事態を招待するかも知れないから、何もしないことによって最悪の事態の到来を防ごうとしたのです。これは日本人に固有な民族誌的奇習です。気持ちはわからないでもありませんが、そういう呪術的な思考をする人間が近代国家の危機管理に当るべきではない。

 先行する成功事例を学ばなかったもう一つの理由は安倍政権が「イデオロギー政権」だからです。政策の適否よりもイデオロギーへの忠誠心の方を優先させた。だから、たとえ有効であることがわかっていても、中国や韓国や台湾の成功例は模倣したくない。野党も次々と対案を出していますが、それも採用しない。それは成功事例や対案の「内容」とは関係がないのです。「誰」が出した案であるかが問題なのです。ふだん敵視し、見下しているものたちのやることは絶対に模倣しない。国民の生命よりも自分のイデオロギーの無謬性方が優先するのです。こんな馬鹿げた理由で感染拡大を座視した国は世界のどこにもありません。

 安倍政権においては、主観的願望が客観的情勢判断を代行する。「そうであって欲しい」という祈願が自動的に「そうである」という事実として物質化する。安倍首相個人においては、それは日常的な現実なんだと思います。森友・加計・桜を見る会と、どの事案でも、首相が「そんなものはない」と宣告した公文書はいつのまにか消滅するし、首相が「知らない」と誓言したことについては関係者全員が記憶を失う。たぶんその全能感に慣れ切ってしまったのでしょう、「感染は拡大しない。すぐに終息する」と自分が言いさえすれば、それがそのまま現実になると半ば信じてしまった。

 リスクヘッジというのは「丁と半の両方の目に張る」ということです。両方に張るわけですから、片方は外れる。リスクヘッジでは、「準備したけれど、使わなかった資源」が必ず無駄になります。「準備したが使用しなかった資源」のことを経済学では「スラック(余裕、遊び)」と呼びます。スラックのあるシステムは危機耐性が強い。スラックのないシステムは弱い。

 東京五輪については「予定通りに開催される準備」と「五輪が中止されるほどのパンデミックに備えた防疫対策策の準備」の二つを同時並行的に行うというのが常識的なリスクヘッジです。五輪準備と防疫体制のいずれかが「スラック」になる。でも、どちらに転んでも対応できた。

 しかし、安倍政権は「五輪開催」の一点張りに賭けた。それを誰も止めなかった。それは今の日本の政治家や官僚の中にリスクヘッジというアイディアを理解している人間がほとんどいないということです。久しく費用対効果だとか「ジャストインタイム」だとか「在庫ゼロ」だとかいうことばかり言ってきたせいで、「危機に備えるためには、スラックが要る」ということの意味がもう理解できなくなった。

 感染症の場合、専門的な医療器具や病床は、パンデミックが起きないときにはほとんど使い道がありません。だから、「医療資源の効率的な活用」とか「病床稼働率の向上」とかいうことを医療の最優先課題だと思っている政治家や役人は感染症用の医療準備を無駄だと思って、カットします。そして、何年かに一度パンデミックが起きて、ばたばた人が死ぬのを見て、「どうして備えがないんだ?」とびっくりする。


■コロナ危機で中産階級が没落する

―― 日本が失敗したからこそ、独裁化の流れが生まれてくる。どういうことですか。

内田 日本はコロナ対応に失敗しましたが、これはもう起きてしまったことなので、取り返しがつかない。われわれに出来るのは、これからその失敗をどう総括し、どこを補正するかということです。本来なら「愚かな為政者を選んだせいで失敗した。これからはもっと賢い為政者を選びましょう」という簡単な話です。でも、そうはゆかない。

 コロナ終息後、自民党は「憲法のせいで必要な施策が実行できなかった」と総括すると思います。必ずそうします。「コロナ対応に失敗したのは、国民の基本的人権に配慮し過ぎたせいだ」と言って、自分たちの失敗の責任を憲法の瑕疵に転嫁しようとする。右派論壇からは、改憲して非常事態条項を新設せよとか、教育制度を変えて滅私奉公の愛国精神を涵養せよとか言い出す連中が湧いて出て来るでしょう。

 コロナ後には「すべて憲法のせい」「民主制は非効率だ」という言説が必ず湧き出てきます。これとどう立ち向かうか、それがコロナ後の最優先課題だと思います。心あるメディアは今こそ民主主義を守り、言論の自由を守るための論陣を張るべきだと思います。そうしないと、『月刊日本』なんかすぐに発禁ですよ。

―― 安倍政権はコロナ対策だけでなく、国民生活を守る経済政策にも失敗しています。

内田 コロナ禍がもたらした最大の社会的影響は「中間層の没落」が決定づけられたということでしょう。民主主義の土台になるのは「分厚い中産階級」です。しかし、新自由主義的な経済政策によって、世界的に階級の二極化が進み、中産階級がどんどん痩せ細って、貧困化している。

 コロナ禍のもたらす消費の冷え込みで、基礎体力のある大企業は何とか生き残れても、中小企業や自営業の多くは倒産や廃業に追い込まれるでしょう。ささやかながら自立した資本家であった市民たちが、労働以外に売るものを持たない無産階級に没落する。このままゆくと、日本社会は「一握りの富裕層」と「圧倒的多数の貧困層」に二極化する。それは亡国のシナリオです。食い止めようと思うならば、政策的に中産階級を保護するしかありません。

 野党はどこも「厚みのある中産階級を形成して、民主主義を守る」という政治課題については共通しているはずです。ですから、次の選挙では、「中産階級の再興と民主主義」をめざすのか「階層の二極化と独裁」をめざすのか、その選択の選挙だということを可視化する必要があると思います。

―― 中産階級が没落して民主主義が形骸化してしまったら、日本の政治はどういうものになるのですか。

内田 階層の二極化が進行すれば、さらに後進国化すると思います。ネポティズム(縁故主義)がはびこり、わずかな国富を少数の支配階層が排他的に独占するという、これまで開発独裁国や、後進国でしか見られなかったような政体になるだろうと思います。森友問題、加計問題、桜を見る会などの露骨なネポティズム事例を見ると、これは安倍政権の本質だと思います。独裁者とその一族が権力と国富を独占し、そのおこぼれに与ろうとする人々がそのまわりに群がる。そういう近代以前への退行が日本ではすでに始まっている。


■民主主義を遂行する「大人」であれ!

―― 今後、日本でも強権的な国家への誘惑が強まるかもしれませんが、それは亡国への道だという事実を肝に銘じなければならない。

内田 確かに短期的なスパンで見れば、中国のような独裁国家のほうが効率的に運営されているように見えます。民主主義は合意形成に時間がかかるし、作業効率が悪い。でも、長期的には民主的な国家のほうがよいものなんです。

 それは、民主主義は、市民の相当数が「成熟した市民」、つまり「大人」でなければ機能しないシステムだからです。少なくとも市民の7%くらいが「大人」でないと、民主主義的システムは回らない。一定数の「大人」がいないと動かないという民主主義の脆弱性が裏から見ると民主主義の遂行的な強みなんです。民主主義は市民たちに成熟を促します。王政や貴族政はそうではありません。少数の為政者が賢ければ、残りの国民はどれほど愚鈍でも未熟でも構わない。国民が全員「子ども」でも、独裁者ひとりが賢者であれば、国は適切に統治できる。むしろ独裁制では集団成員が「子ども」である方がうまく機能する。だから、独裁制は成員たちの市民的成熟を求めない。「何も考えないでいい」と甘やかす。その結果、自分でものを考える力のない、使い物にならない国民ばかりになって、国力が衰微、国運が尽きる。その点、民主主義は国民に対して「注文が多い」システムなんです。でも、そのおかげで復元力の強い、創造的な政体ができる。

 民主主義が生き延びるために、やることは簡単と言えば簡単なんです。システムとしてはもう出来上がっているんですから。後は「大人」の頭数を増やすことだけです。やることはそれだけです。

―― カミュは有名な小説『ペスト』のなかで、最終的に「ペストを他人に移さない紳士」の存在に希望を見出しています。ここに、いま私たちが何をなすべきかのヒントがあると思います。

内田 『ペスト』では、猛威を振るうペストに対して、市民たち有志が保健隊を組織します。これはナチズムに抵抗したレジスタンスの比喩とされています。いま私たちは新型コロナウイルスという「ペスト」に対抗しながら、同時に独裁化という「ペスト」にも対抗しなければならない。その意味で、『ペスト』は現在日本の危機的状況を寓話的に描いたものとして読むこともできます。

 『ペスト』の中で最も印象的な登場人物の一人は、下級役人のグランです。昼間は役所で働いて、夜は趣味で小説を書いている人物ですが、保健隊を結成したときにまっさきに志願する。役所仕事と執筆活動の合間に献身的に保健隊の活動を引き受け、ペストが終息すると、またなにごともなかったように元の平凡な生活に戻る。おそらくグランは、カミュが実際のレジスタンス活動のなかで出会った勇敢な人々の記憶を素材に造形された人物だと思います。特に英雄的なことをしようと思ったわけではなく、市民の当然の義務として、ひとつ間違えば命を落とすかもしれない危険な仕事に就いた。まるで、電車で老人に席を譲るようなカジュアルさで、レジスタンスの活動に参加した。それがカミュにとっての理想的な市民としての「紳士」だったんだろうと思います。

「紳士」にヒロイズムは要りません。過剰に意気込んだり、使命感に緊張したりすると、気長に戦い続けることができませんから。日常生活を穏やかに過ごしながらでなければ、持続した戦いを続けることはできない。

「コロナ以後」の日本で民主主義を守るためには、私たち一人ひとりが「大人」に、でき得るならば「紳士」にならなけらばならない。私はそう思います。
http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html

2. 中川隆[-13020] koaQ7Jey 2020年4月22日 13:07:50 : 13OAtnQgho : d2VxeFFzSXBVMTI=[19] 報告

『山本太郎から見える日本』から - 内田樹の研究室 2020-04-10
http://blog.tatsuru.com/2020/04/10_1141.html

山本太郎の起こしているムーヴメントは、たとえばスペインのポデモスや、アメリカのバーニー・サンダース、オカシオ゠コルテスなどが巻き起こしているオルタナティヴな運動とリンクしていると考えていいでしょうか?

内田 リンクしていると思います。ただそれは、よそでこういう実践があったから、それを模倣しようということではないと思います。世界同時多発的に起きるんです、こういうものは。

いま世界のどこも反民主主義的で、強権的な政治家が成功しています。アメリカのトランプも、ロシアのプーチンも、中国の習近平も、トルコのエルドアンも、フィリピンのドゥテルテも。非民主的な政体と市場経済が結びついた「政治的資本主義」が成功している。

 中国がその典型ですけれど、独裁的な政府が、どのプロジェクトにどんなリソースを集中すべきか一元的に決定できる。民間企業も軍部も大学も、党中央の命令には服さなければいけない。巨視的なプランを手際よく実行するためには、こちらの方が圧倒的に効率がよい。

民主国家では、民間企業や大学に対して、政府のプロジェクトに全面的に協力しろというようなことは要求できませんから。非民主的な国なら、政府のアジェンダに反対する人たちは強権的に黙らせられるし、人権も制約できるし、言論の自由も抑え込める。だから、短期的な成功を目指すなら「中国モデル」は魅力的です。日本の安倍政権も、無自覚ですけれど、中国やシンガポールのような強権政治にあこがれている。だから、国内的にはそれに対するアンチが出て来る。日本の場合は、それが山本太郎だったということなんじゃないですか。

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