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中国北部の人口史
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 6 月 03 日 08:45:13: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 「血の川」の記述 古代ルーシへのモンゴル襲来 「誇張」ではない事実を考古学者らが解明 投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 03 日 05:51:33)


2020年06月03日
新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_3.html

 新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史に関する研究(Ning et al., 2020)が公表されました。中国は近東の次に独自に穀物栽培の始まった地域で、南部の長江流域では天水稲作農耕が、北部の黄河(YR)流域では乾燥地帯雑穀農耕が行なわれました。中国北部は、黄河中流から下流の中原を含む広大な地域で、世界でも比較的古い都市文化の起源地として知られています。しかし、中国北部は中原を越えて広がっており、異なる生態地域にいくつかの他の主要河川系が含まれます。とくに、中国北東部の西遼河(WLR)地域は、雑穀農耕の採用と拡大において、黄河地域とは異なる重要な役割を果たした、と今では一般に受け入れられています。アワ(Setaria italica)とキビ(Panicum miliaceum)の両方が、少なくとも紀元前6000年以降、まず西遼河地域と黄河下流地域で栽培されました。その後の5000年間、中国北部の雑穀栽培はユーラシア東部全域とそれを越えて拡大しました。雑穀は、とくにトウモロコシとサツマイモが紀元後16〜17世紀に導入されるまでは、アジア北東部において主要な基本食糧の一つでした。

 黄河と西遼河はともに、雑穀農耕に大きく依存した豊富な考古学的文化で知られています。中期新石器時代(紀元前4000年頃)までに、雑穀農耕へのかなり依存を伴う複雑な社会が、西遼河流域では紀元前4500〜紀元前3000年頃となる紅山(Hongshan)文化として、黄河流域では紀元前5000〜紀元前3000年頃となる仰韶(Yangshao) 文化として発展しました。紅山文化では、多くの翡翠装飾品を含む重要な供物を備えた公共儀式用の祭壇が発見されており、その中でも牛河梁(Niuheliang)遺跡の「女神神殿」が最も有名です。中期新石器時代の複雑な社会の確立は、急速な人口増加および文化的革新と関連していたようで、二つの主要な語族である、黄河流域のシナ・チベット語族と西遼河流域のトランスユーラシア諸語の拡散と関連していたかもしれませんが、後者の系統的統一性に関しては議論もあります。

 中期新石器時代までに支配的な生計戦略として作物栽培が確立していた黄河地域と比較して、西遼河地域の作物栽培への依存水準は、気候および文化の変化と関連して頻繁に変わりました。たとえば、古植物学と同位体の証拠から、西遼河地域の人々の食性への雑穀の寄与は、興隆窪(Xinglongwa)文化から紅山文化を経て紀元前2200〜紀元前1600年頃となる夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化まで着実に増加しましたが、その後の紀元前1000〜紀元前600年頃となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では、遊牧に部分的に置換されました。考古学者の多くは、この生計戦略の変更を気候変化への対応と関連づけましたが、かなりのヒトの移動がこれらの変化を媒介したのかどうか、まだ調べられていません。

 西遼河地域は北東部でアムール川(AR)地域と隣接しており、アムール川地域では有史時代まで、雑穀・オオムギ・マメ科植物のいくらかの栽培と組み合わせた狩猟や漁労や畜産への依存が続いてきました。中国北部と周辺地域での雑穀農耕の拡散に影響を及ぼした、黄河社会と西遼河社会との間の接触と相互作用の程度はほとんど知られていません。一般的には、これまでの古代ヒトゲノムの限定的な利用可能性を考えると、先史時代のヒトの移動と接触は、現代集団への影響と同様にこの地域に関してはまだよく理解されていません。本論文では、中期新石器時代以降の中国北部全域の主要な文化を表すさまざまな遺跡で発見された55人の古代ゲノムの遺伝的分析を提示します。その遺伝的構成の時空間比較により、中国北部における過去のヒトの移動と混合事象の概要を提供し、生計戦略の変化と比較します。

 中国北部全体で19遺跡の古代人107個体のDNAが解析されました。内訳は、アムール川地域では紀元前5525〜紀元後250年頃となる3遺跡、西遼河地域では紀元前3694〜紀元前350年頃となる4遺跡、黄河地域では紀元前3550〜紀元前50年頃となる10遺跡、中間的な地域である陝西省の紀元前2250〜紀元前1950年頃となる1遺跡と内モンゴル自治区の紀元前3550〜紀元前3050年頃となる1遺跡です。このうち、DNAがじゅうぶんに保存されている55個体でゲノムデータが得られました。常染色体ゲノムの網羅率は0.03〜7.53倍です。集団に基づく分析では1親等の関係は除外されました。以下、本論文で対象となった遺跡の地理的関係と年代を示した図1です。

画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41467-020-16557-2/MediaObjects/41467_2020_16557_Fig1_HTML.png


●中国北部古代個体群の遺伝的分類

 2077人の現代ユーラシア人の主成分分析では、中国北部の古代個体群は異なる集団に別れます。PC1軸では、中国北部の古代個体群はユーラシア東部現代人に分類され、アジア東部現代人に特徴的で適応的表現型に関連しているかもしれない、派生的アレル(対立遺伝子)を有しています。しかし、中国北部の古代個体群はPC2軸では異なる位置にあり、それはユーラシア東部現代人をほぼ南北で分離し、頂点はシベリア北部のガナサン人(Nganasan)、底は台湾のオーストロネシア語族集団です。

 本論文で対象となった古代個体群は3つの大きなクラスタを形成し、頂点がアムール川地域個体群、底が黄河地域個体群、西遼河地域個体群はその中間で、ほぼ地理的起源を反映しています。アジア東部人の多様性に焦点を合わせるため、高地チベット人を多数含むアジア東部現代人9集団が対象とされました。最初の2つの主成分分析では、オロチョン人(Oroqen)やホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)やシーボー人(Xibo)といったツングース語族と、チベット人、低地アジア東部集団が分離されました。ADMIXTURE分析では類似したパターンが示され、全古代個体群は3つの祖先的構成を有し、同じ河川流域の古代個体群は類似した遺伝的構成を共有しており、主成分分析と一致します。


●アムール川地域集団の長期の遺伝的安定性

 ユーラシア人とアジア東部人両方の主成分分析で、アムール川地域の前期新石器時代の2人および鉄器時代の3人と、西遼河地域の遊牧文化の青銅器時代の1人は、ほぼツングース語族話者であるアムール川地域現代人集団の範囲内に収まる密集したクラスタを形成します。アムール川地域の鉄器時代の1人は、アムール川地域集団クラスタの範囲外となり、主成分分析ではPC1軸でわずかにモンゴル語族話者に移動していますが、この個体のゲノムの低網羅率(0.068倍)と少量の汚染に起因する歪みの可能性があります。古代および現代のアムール川地域集団は、ADMIXTURE分析でも類似した遺伝的構成を示します。

 アムール川地域集団の組み合わせでは、アムール川下流地域の古代人も現代人も同様に、密接な遺伝的類似性が示されます。さらに、これらの集団が相互にほぼクレード(単系統群)であることも確証されます。例外的にアムール川地域集団に近い外部集団はシベリアのガナサン人とイテリメン人(Itelmen)で、この2集団は歴史的にアムール川地域集団関連遺伝子プールとの遺伝的交換を経てきました。またqpWave分析では、アムール川地域集団の組み合わせを外群との類似性の観点から区別できません。アムール川地域集団はアムール川地域外の集団との類似性に関して、時間の経過に伴う実質的な変化を示しませんが、厳密な意味での遺伝的連続性に関する既知の検証では、本論文の古代アムール川地域集団が現代アムール川地域集団の直接的祖先である、という仮説は棄却されます。これは、アムール川地域集団遺伝子プール内の層別化と、おそらくは現代アムール川地域集団形成期におけるアムール川地域集団間の遺伝子流動を示唆します。


●黄河地域個体群の遺伝的構成の経時的変化

 主成分分析では、中原の古代黄河地域個体群は、アムール川地域個体群と異なるクラスタを形成し、ADMIXTUREでは類似した遺伝的構成を共有します。しかし、古代黄河地域個体群間で、小さいものの有意な違いも観察されます。後期新石器時代の龍山(Longshan)文化個体群は、それ以前となる中期新石器時代の仰韶文化個体群よりも、中国南部およびアジア南東部の現代人集団の方と遺伝的により密接です。これは、中期新石器時代の仰韶文化期と後期新石器時代の龍山文化期の間の、黄河中流および下流地域における稲作農耕の顕著な増加の観察との遺伝的並行現象を示します。

 この後の青銅器時代と鉄器時代の個体群では、さらなる変化は検出されません。アムール川地域とは異なり、黄河地域の青銅器時代および鉄器時代個体群とクレードを形成する現代人集団は見つかりませんでした。現在中原において優勢な民族集団である漢人は、明確に中国南部およびアジア南東部集団との追加の類似性を示します。中国南西部のチベット・ビルマ語派のナシ人(Naxi)は、古代黄河地域集団から、大きく減少しているものの、依然として有意な違いを示します。これらの結果は、黄河地域集団間の長期にわたる遺伝的関連を示唆しますが、中国南部、たとえば長江流域の集団の移動による稲作農耕の北方への拡大と関連しているかもしれない、外因性の遺伝的寄与の重要な軸を有しています。

 中原の周辺地域の新石器時代個体群のゲノムは、黄河地域個体群の遺伝的構成が地理的に広範に分布していた、と示します。中期新石器時代となる内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡と、後期新石器時代となる陝西省の石峁(Shimao)遺跡の個体のゲノムは両方、黄河地域と西遼河地域の個体群の間に位置し、遺伝的に相互および古代の黄河地域集団と類似しています。黄河上流の後期新石器時代個体群は斉家(Qijia)文化と関連しており、類似の遺伝的パターンを示します。黄河地域農耕民とアムール川地域狩猟採集民の混合としてこれらの集団をモデル化すると、80%程度は黄河地域集団に由来します。黄河上流鉄器時代個体群のゲノムは、より高い黄河地域集団系統の割合を示し、ほぼ100%(94.7±5.3%)となります。

 考古学的研究は、紀元前1600年頃後のチベット高原の恒久的なヒトの居住において、斉家文化が存在したチベット高原北東周辺の中程度の標高地域の重要な役割を示唆します。最近の言語学的研究は、シナ・チベット語族の北部起源を支持しており(関連記事)、仰韶文化起源の可能性が高い、と示唆します。混合モデリングを利用して、現代のシナ・チベット語族集団と古代黄河地域集団との間の遺伝的つながりが調べられました。チベット人は、シェルパ人(Sherpa)と黄河上流後期新石器時代集団の混合としてモデル化されますが、他の起源集団も機能します。これは、以前に報告された混合兆候の在来起源の可能性を提供します。本論文のデータセットにおける他のシナ・チベット語族集団間では、ナシ人と中国南西部のイ人(Yi)は、本論文の解像度では黄河地域中期石器時代集団と区別できませんが、雲南省のラフ(Lahu)人と湖南省や湖北省のトゥチャ人(Tujia)や漢人は、中国南部およびアジア南東部集団と関連する遺伝子プールからの影響を示します。本論文の結果は、上述の言語学的および考古学的仮説適合的ですが、他のモデルも本論文の遺伝的データの解決にわずかに機能します。

●西遼河地域の遺伝子と生計の相関する変化

 西遼河地域は黄河地域とアムール川地域の間に位置し、頻繁な経時的遺伝的変化を示します。中期新石器時代の西遼河地域個体群は、主成分分析ではアムール川地域クラスタと黄河地域クラスタとの間に位置します。西遼河地域中期新石器時代となる紅山文化の3人(WLR_MN)は黄河地域クラスタにより近く、その近くの遺跡の1個体(HMMH_MN)はアムール川地域クラスタのより近くに位置します。f4統計では、この両集団は前期新石器時代個体群で表されるアムール川地域集団と中期新石器時代個体群で表される黄河地域集団の中間と確証されます。

 WLR_MNとHMMH_MNの両集団をアムール川地域集団と黄河地域集団の混合としてモデル化すると、アムール川地域集団の寄与はHMMH_MNで75.1±8.9%、WLR_MNで39.8±5.7%となります。同時代となる内モンゴル自治区の廟子溝遺跡の中期新石器時代個体群を考慮に入れると、中期石器時代の600kmの範囲内では、中原からの距離に比例して、おもに黄河地域集団関連構成からアムール川地域集団関連構成への急激な移行が観察されます。言語学的には、西遼河流域はトランスユーラシア諸語の起源と関連づけられてきており、アムール川地域集団と黄河地域集団の間の混合は、青銅器時代以降ますます強くなる、トランスユーラシア諸語下位集団と中国語下位集団との間の借用語の相関を見つけるかもしれません。

 中期石器時代西遼河地域のこの遺伝的不均質性に加えて、西遼河地域内の経時的比較も、遺伝的変化の興味深いパターンを示します。まず、夏家店下層文化関連の後期新石器時代個体群のゲノムは、主成分分析では古代黄河地域クラスタと重なり、西遼河地域中期石器時代個体群と比較して、シベリア集団との類似性は低くなっています。QpAdmモデリングでは、主要な黄河地域集団の寄与は、第二のソースとして、アムール川地域前期新石器時代集団を用いると88%、西遼河地域中期石器時代集団を用いると74%と推定され、中期新石器時代と後期新石器時代の間で、黄河地域関連集団からのかなりの北方への流入が示唆されます。

 興味深いことに、夏家店上層文化と関連する青銅器時代西遼河地域個体群は、再度遺伝的変化を示しますが、それは中期新石器時代から後期新石器時代の変化とは反対で、そのうち1個体(WLR_BA_o)は古代アムール川地域集団と区別できなくなります。WLR_BA_oはアムール川地域前期新石器時代集団と比較して、後の鉄器時代アムール川地域個体群および現代の複数のツングース語族集団と遺伝的類似性が高くなっています。WLR_BA_oは、アムール川地域集団関連遺伝子プールから西遼河地域集団への比較的近い過去の移動を表しているかもしれません。じっさい、西遼河地域青銅器時代の残りの2人は、西遼河地域後期新石器時代集団とWLR_BA_o(21±7%)の混合としてモデル化されます。以前の考古学的研究では、夏家店下層文化から夏家店上層文化への移行は、雑穀農耕により適さない乾燥した環境への気候変化と関連づけられ、西遼河地域内での南方への移動につながった、と示唆されていました。本論文の結果は、この過程の他の側面を強調します。それは、気候変化が牧畜経済をより有利として、すでに牧畜を営んでいた人々の流入につながったかもしれない、という可能性です。以下、中国北部における各地域個体群の遺伝的構成の変化を示した本論文の図2です。

画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41467-020-16557-2/MediaObjects/41467_2020_16557_Fig2_HTML.png


●まとめ

 本論文は、中国北部の全てではないにしても主要な遺跡のヒト遺骸の古代ゲノムの大規模な調査結果を提示します。とくに、黄河流域の仰韶文化や西遼河地域の紅山文化といった中国北部最初期の複雑な社会に生きた人々の最初のゲノムデータという点で、注目されます。これらの地域でゲノムデータの時系列を示すことにより、各地域の経時的な遺伝的変化が検出され、外部の遺伝的起源や社会経済的および環境的変化と関連づけることができました。

 限定的な食料生産を行なっていたアムール川地域集団の遺伝的構成の長期の安定性と対照的に、黄河地域と西遼河地域という複雑な雑穀農耕社会の二つの中心地では、過去6000年の頻繁な遺伝的変化が観察されます。西遼河地域の遺伝的構成は時間の経過に伴い、生計戦略の変化と密接に関連して変化します。より具体的には、中期新石器時代から後期新石器時代の間の雑穀農耕への依存の増加が、後期新石器時代西遼河地域集団におけるより高い黄河地域集団との遺伝的類似性と関連している一方で、青銅器時代の夏家店上層文化における牧畜への部分的移行は、黄河地域集団との類似性の低下と関連しています。また中期新石器時代には、西遼河地域で黄河地域集団関連遺伝的構成からアムール川地域集団関連遺伝的構成への地理的に急激な移行が観察されます。そうした空間的な遺伝的不均質性は、青銅器時代と鉄器時代の西遼河地域で持続したかもしれませんが、本論文のデータはそのように仮説を検証するのに充分ではありません。

 黄河地域における中期新石器時代から後期新石器時代への遺伝的変化もまた、中原における稲作農耕の強化と関連しており、人々の拡散による生計戦略変化の別の事例を提供するかもしれません。本論文のデータセットには、中原に稲作農耕をもたらしたかもしれない集団、とくに山東省と長江下流地域の新石器時代の人々の古代ゲノムが欠けています。中国全域の将来の研究、とくに最初の農耕民のゲノムが、本論文で報告されたゲノムの代表性の検証、精細な遺伝的・考古学的・地理的規模で検出された遺伝的変化の理解、考古学的文化と言語と遺伝子の間の進化的相関の検証に重要となるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。上述のように、本論文のデータセットには、中原に稲作農耕をもたらしたかもしれない、山東省と長江下流地域の新石器時代集団のゲノムが欠けています。最近公表された研究では、山東省と福建省の新石器時代個体群のゲノムデータが報告されています(関連記事)。しかし、稲作農耕の起源地と考えられる長江流域の新石器時代個体群のゲノムデータはまだ公表されていません。今後の課題はそこですが、アジア東部集団のさらに詳細な起源の解明には、旧石器時代個体群のゲノムデータが必要となるでしょう。

 山東省と福建省の新石器時代個体群のゲノムデータを報告した研究でも、アジア東部現代人が中国南北のさまざまな混合により形成された、と指摘されていますが、その主要な混合は新石器時代後に起きただろう、と推測されています。一方、本論文では、中国南部から中国北部への遺伝子流動が新石器時代に起きた、と推測されています。あるいは、新石器時代のこの遺伝子流動は現代人の遺伝的構成には大きな影響を与えていないのかもしれませんが、この問題の解明には、さらに地域と時代を拡大した古代ゲノム研究が必要となるでしょう。

 最近公表された別の研究(関連記事 )でも、漢人が中国南北の新石器時代集団に由来する集団間の混合で形成されていった、と指摘されています。アジア東部の古代ゲノム研究は、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたのですが、最近になって相次いで大規模で重要な研究が報告されており、今後の研究の進展が楽しみです。現時点では、新石器時代の中国には、アジア東部現代人により近い遺伝的構成の集団が北部に、オーストロネシア語族現代人集団と密接な遺伝的構成の集団が南部に存在した、と考えられます。これらの集団がどのように形成されたのか、また現代人集団はこれら祖型集団からどのように形成されていったのか、今後はより詳細に解明されていくでしょう。

 また、魏晋南北朝時代や唐代後期から五代十国時代やモンゴル帝国の拡大期などで、中国北部住民の遺伝的構成がどのように変わっていったのか、あるいはどの程度継続性があるのか、という問題も注目されます。現時点の解像度では、この期間の違いは検出されにくいかもしれませんが、今後の研究の進展で、より詳細に解明されていくのではないか、と期待されます。アジア東部における現代人集団その形成過程はかなり複雑と予想され、理解は困難でしょうが、すこしでも追いついていきたいものです。その形成過程はかなり複雑と予想され、理解は困難でしょうが、すこしでも追いついていきたいものです。


参考文献:
Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2


https://sicambre.at.webry.info/202006/article_3.html
 

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