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ヴォルテールの言葉 「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命をかけて守る」
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/106.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 9 月 30 日 06:48:18: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


言論の自由についてのヴォルテールの言葉

「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命をかけて守る」

▲△▽▼

2018年9月29日
◆「新潮45」休刊で失われたのは何か 9月28日 門田隆将


彼ら新潮社の後輩には、フランスの思想家であり、哲学者だったヴォルテールの以下の言葉の意味を知って欲しいと思う。

「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命をかけて守る」

私は杉田論文を読んで、前述のように杉田氏が、「少子化無策」に対して、あるいは、それへの支援に度が過ぎている行政や、それをアト押しするマスコミに対して激しい怒りを持っている人物だと思ったが、「LGBTへの差別主義者だ」とは思わなかった。

しかし、それは「百人いれば、百人の読み方がある」という通り、私だけの感じ方であり、人に強要するつもりも、同意を求めるつもりもない。それは、私の自由だからだ。言論と表現の自由が守られている日本では、自由闊達にLGBTのことも議論すればいいだけのことである。

だが、「これはLGBTへの差別だ」と声を上げ、その自由な言論空間を圧殺しようとする勢力に、新潮社は「白旗」を掲げてしまった。かつて、どんな圧力にも負けない毅然とした社風を誇った新潮社。その中で思いっきり仕事をさせてもらった私には、「なぜ新潮社はこうも見識を失ったのか」と思うだけである。

前回のブログでも書いたように、非難の風を真っ向から受けることを恐れない新潮社には、多くのエピソードがある。元週刊文春の名物編集長、花田紀凱氏と昨年12月に出した対談本『週刊文春と週刊新潮 闘うメディアの全内幕』(PHP新書)でも、そのうちのいくつかを紹介させてもらった。

1997年、神戸の酒鬼薔薇事件でFOCUSが犯人の少年の顔写真を掲載して新潮社が日本中からバッシングを受け、店頭からFOCUSばかりか、週刊新潮まですべて撤去されたことがある。

児童文学作家の灰谷健次郎氏をはじめ、作家が作品を新潮社から引き上げる騒動に発展し、社内でも、今回と同様、出版部の編集者を中心に「大批判が巻き起こった」ものである。

しかし、その頃の新潮社には、元週刊新潮編集長・山田彦彌氏、元FOCUS編集長・後藤章夫氏という編集出身の両常務がおり、外部の作家に動かされて安っぽい正義感を振りかざす編集者たちを二人が“一喝”して、いささかの揺らぎも外部に見せることはなかった。

言論や表現の自由は、それ自体が民主主義国家の「根本」であり、たとえ反対する人間や政治勢力が大きかろうと、それをどこまでも守らなければならないという「毅然とした姿勢」が会社に貫かれていたのである。

今回、社内で「外部に向かっての謝罪」を要求する編集者たちの突き上げを食らって、役員たちが右往左往し、ついには、「休刊」という恥ずべき手段をとったことに対して、私は、ただただ呆れるだけである。

新潮社の幹部の中には、自分で判断することもできず、外部の執筆者に相談して、「謝罪の上、新潮45を廃刊にするのが適当でしょう」とアドバイスされ、そのことをご丁寧にツイッターで「暴露」までされていた人がいた。

私が気になるのは、新潮社の社員がツイッターで、あるいは、外部のマスコミで、自らを「自分は差別主義者ではない」という安全地帯に置き、「言論・表現の自由」の重さも自覚しないまま、綺麗事(きれいごと)の発信や発言をつづけている人間がいることである。

彼ら新潮社の後輩には、フランスの思想家であり、哲学者だったヴォルテールの以下の言葉の意味を知って欲しいと思う。「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命をかけて守る」

言論・表現の自由がいかに大切かということの本質を、18世紀に生きたこのヴォルテールは語っている。要は、たとえ自分の意見とは違っていても、その人の言論や思想は守らなければならないということであり、それは同時に、既述のように「百人いれば、百人の読み方がある」ということを認める、ということでもある。

言論と表現の自由が守られている日本では、LGBTのことも、今後、自由闊達に議論していけばいいのに、今回の「新潮45休刊事件」は、逆に、LGBTをタブー視するような風潮をつくってしまった。

世の中に対して「超然」としていた新潮社がその矜持(きょうじ)を捨てた今、日本のジャーナリズムが、大いなる危機に立っていることを感じる。

嬉々として今回の事件を論評する新聞の社説や記事を読むと、暗澹(あんたん)とさせられる。しかし、圧力に屈しない毅然としたジャーナリズムの本来の道を、微力ではあるが、これからも進みたいし、守っていきたいと心から願う。
http://blogos.com/article/328086/?p=1

▲△▽▼


言論の自由について - 内田樹の研究室 2018-09-25
http://blog.tatsuru.com/2018/09/25_1820.html


以前にもブログに掲載した旧稿だけれど、『新潮45』の休刊という事件を迎えて、改めて「言論の自由」についての私見を明らかにしておきたいと思って再録。

かつてマスメディアが言論の場を実効支配していた時代があった。讀賣新聞1400万部、朝日新聞800万部、「紅白歌合戦」の視聴率が80%だった時代の話である。
その頃の日本人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた。政治的意見にしても、朝日から産経まで、どれかの新聞の社説を「口真似する」というかたちで自分の意見を表明することができた。それらのセンテンスはほぼ同じ構文で書かれ、ほぼ同じ語彙を共有しており、ほぼ同じ論理に従い、未来予測や事実評価にずれはあっても、事実関係そのものを争うことはまずなかった。それだけ言説統制が強かったというふうにも言えるし、それだけ対話的環境が整っていたとも言える。

ものごとには良い面と悪い面がある。

ともかく、そのようにして、マスメディアが一元的に情報を独占する代償として、情報へのアクセスの平準化が担保されていた。誰でも同じような手間暇をかければ、同じようなクオリティの情報にアクセスできた。「情報のデモクラシー」の時代だった。

これはリアルタイムでその場に身を置いたものとしては、「たいへん楽しいもの」として回想される。

内田百閧ニ伊丹十三が同じ雑誌に寄稿し、広沢虎造とプレスリーが同じラジオ局から流れ、『荒野の七人』と『勝手にしやがれ』が同じ映画館で二本立てで見られたのである。
小学校高学年の頃、私は父が買ってくる『文藝春秋』と『週刊朝日』を隅から隅まで読んだ。それだけ読んでいると、テレビのクイズ番組のほとんどすべての問題に正解できた。そういう時代だった。

だが、70年代から情報の「層化」が始まる。

最初に「サブカルチャー系情報」がマスメディアから解離した。

全国紙にはまず掲載されることがない種類のトリヴィアルな情報が、そういうものを選択的に求める若者「層」に向けて発信され、それがやがてビッグビジネスになった。「異物が混在する」時代が終わり、「異物が分離する」時代になったのである。
たしかに、筒井康隆の新作を読むつもりで買った月刊誌に谷崎潤一郎の身辺雑記が掲載されていたら、「こんなのオレ読む気がないのに、その分について金出すのもったいない」と思う読者が出て来ても仕方がない。

そうして、メディアの百家争鳴百花繚乱状態が始まった。

そのときも「別に、これでいいじゃん」と私は思っていた。みんなも「これでいいのだ」と言っていた。それによって、社会集団ごとにアクセスする情報の「ソース」が分離するようになってきた。国民全員が共有できる「マス言論」という場がなくなった。
今の若い人はもう新聞を読まない。テレビも見ない。必要があれば、ニュース記事はネットで拾い読みし、動画はYou tubeで見る。

「必要があれば」というのは、当人のまわりで「それ」が話題になっているときに、キャッチアップする「必要があれば」ということである。まわりで話題にならなければ、戦争があっても、テロがあっても、政権が瓦解しても、通貨が紙くずになっても、どこかの国が水没しても、どこかの国の原発が爆発しても、そんなことは「知らない」。
マス言論というのは、いわば「自分が知っている情報」の価値を評価するためのメタ情報である。

マス言論の場に登録されていない情報を自分が知っていることがある。それはとりあえず私が知っているこの情報は「国民レベルで周知される必要のない情報」だという査定がどこかでなされたということを意味している。

「国民レベルで周知される必要のない情報」には二種類ある。

「重要性が低いので、周知される必要がない情報」(例えば、「今のオレの気分」)

もう一つは、「あまりに重大なので、それが周知されると社会秩序に壊乱的影響を及ぼす情報」(例えば、尾山台上空にUFOが飛来した)。
その二つである。

そして、私たちは長い間のマスメディア経験を通じて、「自分は現認したが、マスメディアに報じられない情報」はとりあえず「第一のカテゴリー」に入れる訓練を受けていた(ぶつぶつ文句を言いながら、ではあるが)。

それが揺らいできた。

マスメディアの「情報査定機能」が著しく減退した(少なくとも、「減退したと信じられている」からである)。

マスメディアの情報査定機能が低下すると、何が起こるか。

私たちは自分の知っている情報の価値を過大評価するようになる。

私が知っていて、メディアが報道しない情報は、「それを知られると、社会秩序が壊乱するような情報」であるという情報評価態度が一般的になる。「第二のカテゴリー」が肥大化するのである。

今のネット上の発言に見られる一般的傾向はこれである。

自分自身が送受信している情報の価値についての、無根拠な過大評価。

自分が発信する情報の価値について、「信頼性の高い第三者」を呼び出して、それに吟味と保証を依頼するという基本的なマナーが欠落している。

ここでいう「信頼性の高い第三者」というのは実在する人間や機関のことではない。そうではなくて、「言論の自由」という原理のことである。

言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、そうでないものは消え去るという「場の審判力に対する信認」のことである。情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待のことである。

それはさしあたりは、自分が言葉を差し出す「場」に対する敬意として示される。

根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに退けられねばならない。

それは「言論の自由」になじまない。

なぜなら、「言論の自由」とは制度でもないし、規則でもなく、「言論が行き交う場に敬意を示すことによって、その場の威信を基礎づける」という遂行的な営みそのもののことだからである。「言論の自由」は「そこにある」ものではない。私たちが身銭を切って創り出すものである。

「日本には『言論の自由』なんかない」と言い捨てたある社会学者がいた。私はこの発言は遂行的には「言論の自由」を掘り崩し、汚すものだと思う。

「責任者出てこい。『言論の自由』を整備して、ここに持って来い」という言葉を一億人が唱和しても、それによって「言論の自由」が基礎づけられ、機能するということはない。だって、その言葉には「言論の自由」に対する敬意が少しも含まれていないからである。

「言論の自由」は「場に対する敬意」を滋養にしてしか生きることができない。

だから、挙証の手間を惜しみ、情理を尽くして語ることを怠り、罵倒や呪詛を口にする者は「言論の自由」そのものを痩せ細らせている。彼らが「言論の自由」を権原に自分の行為を正当化することはできないだろうと私は思う。それは泉水に向かってつばを吐きかけ、放尿する者が「泉水から清浄な水を汲み出す権利」を主張しているさまに似ている。彼らに向かって私たちは「権利を言い立てるより前に、まずその行為を止めなさい。君たちの行為そのものが、君たちが求めているものの入手をむずかしくしているからだ」と言うべきだろう。

情理を尽くして語ることを怠る者は、その行為そのものによって、彼らが実は「言論の行き交う場」の審判力を信じていないということをはしなくも告白している。

というのは、彼らは真理についての公共の場における検証に先だって、「自分はすでに真理性を確保している」と思っているからだ。聴き手に向かって「お前たちがオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」と言い募っている人間は言論の場に集まってきた人たちに向かって、「お前たちが存在してもしなくても、何も変わらない」と告げているのである。

それはある種の「呪い」の言葉である。人間の生きていることの意味の根源を掘り崩す言葉である。私たちは呪いの言葉を浴び続けているうちに、ゆっくり、しかし確実に生命力を失う。それゆえ、「言論の自由」には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思うのである。
http://blog.tatsuru.com/2018/09/25_1820.html


ある編集者への手紙 - 内田樹の研究室 2018-09-26
http://blog.tatsuru.com/2018/09/26_1733.html


新潮社の友人たちからいろいろと内情は伺っております。

「新潮45」にも三重さんが編集長をしているころは何度か寄稿させて頂きましたので、愛着のある雑誌です。休刊ということになったのは僕も残念です。

このような事態に立ち至った責任はもちろん編集者にあります。

このような局面で、ほんらいならば公的なかたちで、その執筆意図について説明責任を果たし、批判に対して反論するなり、あるいは事実誤認について謝罪するなりして、「新潮45」とともに批判の前面に立つべきときにそれを怠って雲隠れするような人物に寄稿を依頼し、あまつさえ擁護の論陣を張ったという編集者の判断の致命的なミスの「つけ」を新潮社が払ったということだと思います。

出版の社会的使命は何か、それぞれの媒体はどのようなメッセージを、どのような文体において発信すべきか、その企図をどのような人物に託すべきかといったことの決定は編集者の権限に属することであり、それについては責任を負わなければなりません。
それがどれくらいのリスクと覚悟を伴う仕事であるかについて自覚が今回の当事者たちにはあまりにも不足していたように僕には思えました。

とりわけ、僕が気になるのは「新潮45」に掲載された文章の多くに「読者に対する敬意」が欠落していたことです。

「言論の自由について」という文章に書いた通り、出版物のクオリティを最終的に担保するのは、何よりも編集者と書き手が読者にメッセージを差し出すときの「敬意」だと僕は思っています。

できるだけ論理的に書く、ただしいデータに基づく、引用出典を明らかにする、カラフルな比喩をつかう、わかりやすい事例を引く、情理を尽くして説く、どれも「読者に対する敬意」の表現だと僕は思っています。

でも、現在の出版状況を見ると「読者に敬意を示さない」ことでビジネスが成立している場面が少なくありません。ことは出版だけに限りません。僕はテレビというものを観なくなって久しいのですが、それは「視聴者に対する敬意」というものをもうほとんど感じることができないからです。

「敬意」というのは僕の理解では「適切な距離感」のことです。

「鬼神は敬して遠ざく」というときの「敬」です。

白川静先生によると「敬」の原義は「羊頭の人の前に祝禱の器をおくかたち」だそうです。『字通』には「敬はもと神事祝禱に関する字である。それで神に仕える時の心意を敬という」とあります。

それは「親しみ」とか「なじみ」というものと隔たること遠い心意だと思います。
いまのメディアに感じる「敬意の欠如」とは、言い換えると、不適切なまでの親しみ、気持ちの悪いほどの共感(「わかるわかる。そうそうそうそうだよ。そういうことってあるよね、あるあるある」という感じ)を過剰に追及していることだと思います。

「新潮45」の末期のきわだった特徴は「読者との過剰なまでの共感と結託感」を前提に書かれていた文章が多かったことです。

僕はそれを「気持ちが悪い」と感じたのです。そして、それを「気持ちが悪い」と感じない編集者たちの感性につよい違和感を覚えたのです。

LGBTの問題では「自分とは性的指向が違う、自分とは性的アイデンティティーが違う他者」に対して、どれくらい「敬意=適切な距離感」をもつことができるかということが試されたのだと思います。

よくわからないことについては語らないというのも一つの敬意の表現だと僕は思っています。

「わからない」「よく知らないこと」について平然と断定的に語る人たちは、自分が言うことにつねに同意してくれる「自分と同じような読者」を前提にして語っているのだと思います。

「身内の語法」で語ること、それを「敬意の欠如」というふうに僕はとらえるのです。
僕はそういう人たちを表現者として評価することができません。

自分の書いたものがそこで論じられている当の人たちに読まれる可能性について想像もしていないということが「敬意を欠いた」文章の特徴です。

ネトウヨメディアの寄稿者たちの特徴は、自分の書いたものが韓国語や中国語に翻訳されて読まれる可能性についてゼロ査定している点です。
外国の読者に届くようには書かれていない。

ほんとうに彼らが真実を語っていると信じているなら、それは「身内以外」の読者たちが読んでも(韓国や中国の読者が読んでも)十分にリーダブルなものであるはずですし、せっかく書く以上、身内以外の読者が読んでも十分にリーダブルであるように書くべきだと僕は思います。

そのような配慮を僕はほとんどこれらの書き手から感じることができません。
それを僕は「敬意の欠如」と呼んでいるのです。

今のメディアが陥っているピットフォールは「読者の共感を得ること」を目的としていることだと思います。

「わかるわかる」を共有できる読者や視聴者だけに向けている、でも、そうやって「親しみ」や「なじみ」に依拠してコミュニケーションを構築しようとする限り、そのような表現を受け容れるマーケットはひたすら狭隘なものになるしかありません。
コミュニケーションを基礎づけ、それを広げてゆくのは「敬意」です。「身内の親しみ」ではありません。

そのことをこれから編集のお仕事をされる上でときどき考えてみてください。
http://blog.tatsuru.com/2018/09/26_1733.html

 

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コメント
1. 中川隆[-13514] koaQ7Jey 2018年10月02日 08:39:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18964] 報告

「ネイチャー誌、サイエンス誌の9割は嘘」 ノーベル賞の本庶佑氏は説く、常識を疑う大切さを
10/1(月) 20:40配信 BuzzFeed Japan

2018年ノーベル医学生理学賞の受賞が決まり、記者会見で笑顔を見せる京都大学の本庶佑特別教授=時事通信


ノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑・京大名誉教授が10月1日夜、記者会見で受賞の喜びを語った。本庶氏は自らの研究に対する姿勢を問われると、好奇心と「簡単に信じないこと」の重要性を強調。「(科学誌の)ネイチャーやサイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割」と語り、自分の目で確かめることの大切さを説いた。【BuzzFeed Japan / 吉川慧】

【ノーベル賞】過去の平和賞受賞者、何人わかる?日本人もいます
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冒頭発言「自分の研究、意味があったと実感」(全文)

この度は、ノーベル医学生理学賞をいただくことになり、大変名誉なことだと喜んでおります。

これはひとえに、長いこと苦労してきました共同研究者、学生諸君、様々な形で応援してくださった方々、長い間支えてくれた家族、本当に言い尽くせない多くの人に感謝致しております。

1992年の「PD-1」の発見と、それに続く極めて基礎的な研究が新しいがん免疫療法として臨床に応用され、そしてたまにではありますが「この治療法によって重い病気から回復して元気になった。あなたのおかげだ」と言われる時があると、私としては自分の研究が本当に意味があったと実感し、何よりも嬉しく思っております。

その上に、このような賞をいただき、大変私は幸運な人間だと思っております。

今後この免疫療法が、これまで以上に多くのがん患者を救うことになるように、一層私自身もうしばらく研究を続けたいと思います。

世界中の多くの研究者がそういう目標に向かって努力を重ねておりますので、この治療法がさらに発展するように期待しております。

また、今回の基礎的な研究から臨床につながるような発展というようなことを実証できたことにより、基礎医学分野の発展が一層加速し、基礎研究に関わる多くの研究者を勇気づけることになれば、私としてはまさに望外の喜びでございます。
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研究で大事なのは「自分の目で確信ができるまでやる」

会見では、報道陣から「研究にあたって心がけていることやモットーは」と問われる場面も。

本庶氏は著名な科学誌「ネイチャー」と「サイエンス」を挙げてこう語った。

------
私自身の研究(でのモットー)は、「なにか知りたいという好奇心」がある。それから、もう一つは簡単に信じない。

よくマスコミの人は「ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ」という話をされるけども、僕はいつも「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ」と言っていますし、大体そうだと思っています。

まず、論文とか書いてあることを信じない。自分の目で確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。

つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやるということです。
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子どもたちに育んでほしい「不思議だなと思う心」

将来、研究者の道に進む夢を見る子どもたちに、どんなことを伝えたいか。

本庶氏は、こんなメッセージを語った。

------
研究者になるにあたって大事なのは「知りたい」と思うこと、「不思議だな」と思う心を大切にすること、教科書に書いてあることを信じないこと、常に疑いを持って「本当はどうなっているのだろう」と。

自分の目で、ものを見る。そして納得する。そこまで諦めない。

そういう小中学生に、研究の道を志してほしいと思います。
------

あくまで「自分の目」で確かめて納得することの大切さを重んじる、本庶氏らしいメッセージだった。

2. 中川隆[-13480] koaQ7Jey 2018年10月03日 00:26:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18967] 報告

冒険する頭―新しい科学の世界 (ちくま少年図書館 74) – 1983/8
西村 肇 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%86%92%E9%99%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E9%A0%AD%E2%80%95%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8-74-%E8%A5%BF%E6%9D%91-%E8%82%87/dp/4480040749


≪なぜこの本を書いたのか≫

 私は、自分が指導した6人の学生の卒論を審査した。すると、研究者が書いた論文になっているものと、学生の書いた実験報告にしかなっていないものと出来栄えにあまりに大きな差があるのでびっくりしました。(中略)


 大学の受験技術なしに希望の大学に入ることははなはだ難しい。しかし、いったんこういう技術を身に着けてしまった人たちを、いくら大学で教育しても、自ら研究する人に育てるのは、まず不可能に近いのです。

 卒論の例では、よい論文を書いた人たちは、そうでない人たちと比べると、あくなき好奇心があるかどうかの違いでした。…大学教育で好奇心を育てることはできないのです。

 私は、研究する人に重要なのは、モノに対するセンスと、知的好奇心だと感じていますが、これは学校教育で育つものではなく、各種環境の影響が大きい。

≪総合的にものを見る目≫

 総合的な視野と考え方は、たくさんの本を読んで身に付くといったものではなく、何か目的をもって一つの事を実践する中で身に付くのだというのは確かだと思います。

 だから研究テーマを選ぶ時、実践的関心からテーマを選びます。君たちが考えたり発言したりする時、とことん具体性を要求するからです。どんな仮説を抱いても良いが、実証する努力を要求するからです。

 私が今、なぜ、環境問題を研究しているかというとー私は決められている枠を少し越えてしまったのだがーそれは東大紛争がきっかけでした。

 この東大紛争が何であったかー評価はまちまちだがー若い世代の中には、深刻な影響を受けた人たちが数多くいます。それは東大の中に限りません。東大紛争は、けっしてナンセンスな事件ではなく、一つの大きな思想的事件でした。それは、思想的影響の上では、1945年の終戦につぐ大きな事件でした。

 日本の思想的戦後というのは、東大紛争後に本格化したと思います。これで思想的解放が進み、戦後が一段と定着したのだと思います。この解放の機会をとらえて、それまでにできなかったことをやりだした人は多いのです。現在日本の活力の重要な部分を支えているのは、この人たちではなかと思います。東大紛争で2年も3年も苦しまなければ、こんなだいそれた転進をすることはなかったと思います。

≪私の転機となった日〜先輩の忠告≫

 「公害の研究はそろそろお終いにしたら。みなさんが心配しているよ」
 私は頭をガーンと殴られたように感じました。(中略)

 人から言われたからといって、意味もない後退をするのは、自殺行為だと直観しました。と同時に、常識的な助教授のコースを外れて、少し変わった道を歩き出すきっかけになった、あの日のことが思い出されました。紛争派から闘争派に変わったあの日のことです。

 それは、間違った学生処分の撤回を求めて、総長室の前に座り込んだ学生を、大学側が機動隊を導入して追い出した直後のことでした。

(総長は、話し合いに出てきたが、明らかに言い逃れをしようとしていた。著者は思わず手を挙げて、大学当局を批判した。…著者は最後に「なによりも冒険する心と頭で」と結ぶ)。

【出典】『冒険する頭〜新しい科学の世界』西村肇/ちくま書房’83年  

3. 中川隆[-13359] koaQ7Jey 2018年10月23日 20:39:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19486] 報告

「新潮45」休刊について - 内田樹の研究室 2018-10-23
http://blog.tatsuru.com/2018/10/23_1432.html


毎月ある地方紙にエッセイを連載している。今月は「新潮45」休刊について。
すでに二度本欄で触れたけれど、その総括のようなもの。

「新潮45」が休刊になった。社告によれば、「部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」を掲載してしまったことについて「深い反省の思いを込めて」の休刊である。

海外メディアもこの事件を取り上げた。英紙『ガーディアン』は発端を作った杉田水脈衆院議員をこう紹介している。

「安倍晋三首相の同盟者である杉田はまだ記事について公式には謝罪を行っていない。安倍は先週、『彼女はまだ若い』のだから、辞職圧力は加えていないと述べた。杉田は51歳である。(...)

彼女は第二次大戦前、戦中の日本兵による性奴隷利用を韓国の捏造だと主張してきた人物である。」

杉田議員を擁護してさらに問題を大きくした小川栄太郎氏の記事については

「性的少数派の権利を保証することは、列車の中で男が痴漢行為をする権利を認めるべきだということに通じるのではないかと訝しんでいる」

と要約している。

たぶんここに言及された人々は、まさか自分たちの書いたものが媒体の休刊をもたらし、その事件が国際ニュースになるとは思っていなかっただろう。

私も二人の書いたものを読んだ。それは肩の力の抜けた、どちらかと言えばリラックスした調子で書かれていた。あえて良識を逆撫でするようなことを書いて、社会問題を起こそうというような戦術的な意図は感じられなかった。おそらく「この程度のこと」はこれまでもあちこちで書いたり、話したりしてきたけれども、これまで何の「お咎め」もなかったからだと思う。むしろ、彼らの言説はしばしば拍手喝采をもって迎えられたのだろう。

『新潮45』の記事はそういう「成功体験」を踏まえて書かれた文章のように私には思われた。

彼らはそういうものを読んで溜飲を下げたいと思っている「身内」を想定読者にして書いたのであり、それを読んで傷つく人間や、憤りを感じるものは端から読者に想定されていなかった。

自分の発言に喝采を送ってくれる読者限定に書かれたものである以上、そこに事実誤認があろうと、論理の混乱があろうと、あるいは偏見が露出していようと、気にしないのは当然のことである。その後の杉田議員の沈黙や、小川氏が休刊を「社内外で連携した何らかの組織動員的な圧力」に屈服した帰結だという陰謀論を唱えていることから推して、彼らが「まさかこんな騒ぎになるとは思っていなかった」ことが知れるのである。

しかし、それはメディアにおいて論争的な発言する人間が口にしてはならないことではなかろうか。

本来、言論というのは身内限定に書かれるべきではない。
この騒動は書き手たちがこの「常識」を軽んじだことの帰結だと私は思う。

私たちがものを書く時に論理の筋目を通し、自説の根拠を挙げ、引用やデータの出どころを明らかにし、情理を尽くして説くのは読者が身内ではないからである。

自然科学の論文は精密なエビデンスと厳正な論理に基づき、主観的願望を介入させないように書かれているが、それは同じ分野の専門家たちのきびしい査定的なまなざしを想定しているからである。文系の物書きにはそれほどの学術的精密さは求められないけれども、それでも懐疑的な読者を前提にして、なお「情理を尽くして説く」というルールを忘れてはならない。

私自身は例えば中国やアメリカについて書くとき、それが翻訳されて、それぞれの国の人々に読まれる状態を(現実的可能性の多寡にかかわらず)つねに想像している。それは「身内」以外の読者が読んでも、共感も同意も期待できない読者が読んでも、なおリーダブルなものを書く以外に新たな読者を獲得する手立ては存在しないと信じているからである。

4. 中川隆[-12162] koaQ7Jey 2019年2月14日 10:49:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

言論の自由についての私見(再録) - 内田樹の研究室 2019-02-14
http://blog.tatsuru.com/2019/02/14_0903.html


安倍首相が国会で民主党政権の時代を「悪夢」と評したことについて批判を受けた。
それについて「私には言論の自由がある」という反論をした。
どうもこの人は(この人に限らず)「言論の自由」という概念を勘違いして使用している人が多いように思われる。
「言論の自由」について私の原則的な立場はいまから10年以上前に書いた以下の文章に尽くされている。
2008年6月に書いたもので、若干「それ何の話?」というような昔のことにも言及しているけれど、その辺はスルーして欲しい。

言論の自由についての私見
9年前にインターネットにホームページというものを開設したときに、一つ自分にルールを課した。それは必ず固有名で発信し、自分の発言については責任を引き受けるということである。
実利的な理由もあった。
私も学者である以上、万が一他の誰もまだ述べていないようなオリジナルな学術的知見を発見する可能性は絶無ではない。その場合、当該学術情報についてのプライオリティは私に属する。
むろん、文学研究のような浮世離れした世界では、そのようなプライオリティが現実的な利益(特許権とか)をもたらすことはほとんどない。しかし、「このアイディアを最初に思いついた人」として人に知られるのは(そのアイディアの被引用回数が増えると)なかなか愉快なことである。だから、何かアイディアを思いついたら「固有名のタグ」をつけておくことにしたのである(書き留めておかないと翌日には忘れてしまい、自分の論文にさえ使うことができないというより実利的な理由もあったが)。
紙媒体に寄稿したテクストも、ブログのテクストも、だから私の場合、原則は同じである。「自分の書いたことについては、その責任を引き受ける」、「自分が書いたことがもたらす利得については、それを占有するにやぶさかではない」。わかりやすい理屈だと思う。
ところが、この「わかりやすい話」がインターネット上ではなぜか通用しない。現在ネット上で発言している人の大部分は匿名の書き手だからである。
率直に申し上げて、私は彼らが匿名を貫く理由がうまく理解できないのである。
どうして、自分の書いたものに責任を取ろうとしないのか?どうして、自分の書いたことがもたらす利得を確保しようとしないのか?
この二つの問いのうちでは、第二の問いの方が答えやすそうだから、こちらから先に手を付けよう。
どうして、自分の書いたことがもたらす利得を確保しようとしないのか?
理由はわりと簡単である。それは書かれたテクストが書き手に利得をもたらす可能性がきわめて低いからである。
ノーベル賞級の科学的発見をした人がインターネットに匿名で自分の仮説を公開するということは考えにくい(今のところ一人もいない)。
知的所有権のもたらす利益が大きいであることが予測される場合、人はふつう匿名を選択しない。だから、匿名者が知的所有権(いやな言葉だが)を主張しないのは、合理的に推論すれば、自分が発信しているメッセージが知的に無価値であるということを彼ら自身が知っているからである。「これを書いたのは誰だろう?ぜひ、この人の書き物を本にしたい」とか「この人のアイディアでビジネスを始めたい」とか「この人にしかるべきポストをオッファーしたい」ということがありうると思っていれば、誰でも自分が何者であるかを明らかにする。それをしないのは、自分の書き物には学術的先見性であれ芸術的独創性であれ、知的価値のあるものは含まれていないという評価を本人自身が下しているからである。
にもかかわらず毎日数百万、数千万の人々が匿名での発信を続けている。だとすると、「知的に無価値なこと」を書くことによっても、やはり彼らは何らかの「利得」を手に入れていると考えなければならない。人は何の利益もないことをこれほど懸命にはやらない。
この場合に彼らが得ている「利得」はさしあたり「知的所有権」とか「知的価値」というような言葉で実定的に計量できるものではない。
では、彼らは何を手に入れているのだろう。
おそらく、彼らは「他者の逸失利得」を自分の「売り上げ」に計上しているのである。
そう考えてはじめてネット上の匿名の発言の相当数が「批判する言葉」であることの説明がつく。彼らの目から見て「不当な利益を占有している」と思われる他者が、その社会的地位や威信やポピュラリティを失うことを「自己利益の達成」とみなす奇習を身体化してなければ、こういうことは起こらない。
自分自身には直接的利益をもたらさないけれど、他者が何かを失い、傷つき、穢されることを間接的利益として悦ぶという言論のありようを言う適切な日本語がある。
「呪い」というのがそれである。
匿名の発言の多くが「呪い」の語を発しているということが知れると、「なぜ彼らは自分の書いたものの責任を取ろうとしないのか?」という問いにも自動的に答えが出る。
それは発した言葉が発信者に戻ってくると、それは発信者自身をしばしば致命的に傷つけ、損なうからである。「呪いを発信する人」として知られることは、現代のような近代社会においても、その人の社会的信用を損ない、友人や家族からの信頼を傷つけるに十分である(言葉遣いが激しい場合には刑法上の罪に問われることもある)。だから、mixiのように、発信者が誰であるかを(小さな内輪の集団内では)特定可能である場合には、公共的には匿名性が担保されていても、「呪い」の言葉はほとんど見ることができない。
呪いの発信者として名が知られるということは、現代社会においても致命的だということを彼らは知っているのである。
呪いの言葉は触れるすべてのものを侵す。だから、発信者は自分が吐き出した「毒液」から身を避けなければならない。匿名は毒から身をかわすための「シールド」である。彼らは単に刑法上の罪を問われることを恐れてそうしているだけではない、自分がそのように危険な言葉の発信者であるという事実を自分自身に対してさえ隠蔽したいのである。
しかし、匿名での罵倒中傷によって人を傷つけ、それによって他者がこうむる社会的な損失や心理的な傷をおのれの「得点」にカウントするというこの「呪い」の習慣は、今の私たちの社会では「言論の自由」の名において擁護されている。
私は「呪いの言葉」も「言論の自由」という大義において擁護されるべきかどうかという原理的な問題について考えてみたいと思う。

議論の第一の前提は私たちの社会は言論の自由が抑圧されている社会ではないということである。
むろん、「日本には言論の自由が存在しない」と主張する人もいる。ある高名な社会学者が最近そう書いていた。けれども現にこの人に潤沢に提供されている発言機会を勘定に入れると、その主張に同意することは私にはできない。少なくとも私の場合に限って言えば、これまで言論の自由を具体的に侵された経験を持たない。さまざまな機会に、私は政治家や官僚や財界人や知識人を批判してきた。学生の頃などは、さらに勢いに乗って、革命による現政権の転覆の喫緊であることなどを書いたけれど、そのときも誰からも「そのようなことは書くな」という圧力を受けたことがない。私が操觚の人となったのちでも、「そのようなことを書いてもらっては困る」ということを言ってきたのは新聞社二社だけである。これらの新聞社はつね日頃から「言論の自由」をたいへん声高に主張しているところであった。彼らもまたさきの知識人と同じく「日本には言論の自由が存在しない」と信じており、「言論の自由が存在しない」という原事実をその寄稿者にまず経験させるべきだと考えたのかも知れない。
冗談で言っているのではない。
「言論の自由は存在しない」ということを平然と言える人間は、まさにその自らの発言に呪縛されるからである。その自己呪縛のメカニズムについては、またのちに論じる。
もう一度繰り返すが、私たちの社会は言論の自由が抑圧されている社会ではない。そうではなくて、「言論の自由」という概念が誤解されている社会なのだと私は思っている。
私たちは「言論の自由」という概念をどう誤解しているのか。それを解明するために、まず言論の自由についての予備的な確認から始めよう。
私の立てる第一命題は次のようなものである。
あらゆる言葉はそれが誰かに聞き届けられるためのものである限り口にされる権利がある。
これが「言論の自由」の根本原理と私の信じるものである。およそ人間の脳裏に生じたすべての言葉は、それが人間の脳裏に生じたという一事を以て、何らかの人間的真理を表示している。そして、どのようなものであれ(それが人間の底知れぬ邪悪さや愚かさについての真理であっても)、人間にかかわる真理は沈黙に勝る。
私はそう信じている。「言論の自由」にかかわるすべての推論はここから出発する。
そんなことわかりきったことじゃないかと言う人がいるだろう。そうだろうか。それほどわかりきったことだろうか。私はそうでもないと思う。具体的な例を取り上げてみよう。
少し前にヨーロッパに歴史修正主義という思潮が登場した。その中の一人にフランスの歴史学者ロベール・フォーリソンという人がいて、ナチスのユダヤ人強制収容所にはガス室はなかった、ユダヤ人たちは伝染病で死んだという説をなしたことがあった(この説を真に受けた日本人が『マルコポーロ』という雑誌にそのことを書いて、イスラエル大使館とユダヤ人人権団体の抗議で雑誌そのものが廃刊になったことがあったことをご記憶の方もいるだろう)。当然のようにヨーロッパのメディアはこの説に烈しい攻撃を加えた。
このときアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは、「言論の自由」を擁護する立場から、人は誰であれ言いたいことを言う権利があり、とりわけ、その意見が人々の神経を逆なでするようなものの場合は、一層擁護されねばならないと書いた。
「議論の余地なく自明のことは、表現の自由の擁護は自分が賛同する意見にのみ限定されるべきではなく、すべての人がそれを耐え難いものとみなすような見解においてこそ、もっとも力強く擁護されるべきであるということである。」(Noam Chomsky, 'Quelques commentaires élémentaires sur le droit à la liberté d'expression', in Robert Faurisson, Mémoire en Défense, La Vieille Taupe,1980,p.XII)
チョムスキー自身はフォーリソンの説にはまったく同意できないと書いている。説くところには同意できないけれど、私は自分が同意できない科学的理説を公開する権利を擁護したい。チョムスキーはそう述べた。
美しい言葉だ。けれども、私はこのチョムスキーの擁護論に軽々には同意することができない。それはフォーリソンが誰に向かって、何を成し遂げようとしてその言葉を語っているのかということをチョムスキーが問わなかったからである。
ことの真偽はともあれ、それによって傷つく人がどれほどいようと、汚される価値がどれほどあろうと、誰にでも言いたいことを言う権利はあるという言葉に私は同意しない。私たちは無人の荒野で、空に向かって語っているわけではないからだ。
すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。
私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされまい。
発語は本質的に懇請である。私はそう思っている。聞き届けられることを望まないで語られる言葉というものは存在しない。そして、もし、その言葉がチョムスキーの言うように「すべての人がそれを耐え難いものとみなすような見解」であるならば、それだけ一層、それを提示するときに、受信者に対する敬意がなくてはすまされないと私は思う。
言論の自由が問題になるときには、まずその発言者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。というのは、受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。
メッセージはその正否真偽を審問される場に差し出されるとき、「その正否真偽を審問する場」の威信を認めなければならない。そこで真として受け容れられることを望み、そこで偽として退けられることを望まない、という基本的な構えを放棄するようなメッセージは「言論の自由」の請求権を放棄しているのと同じことである。
「私は誰がどう思おうと言いたいことを言う。この世界に私の意見に同意する人間が一人もいなくても、私はそれによって少しも傷つかない。私の語ることの真理性は、それに同意する人間が一人もいなくても、少しも揺るがない」という人間には「言論の自由」を請求する権利がない。私はそう考える。
「私は誰の承認も得なくても、つねに正しい」と言う人が「言論の自由」を求めるのは、「すべての貨幣は幻想であり、無価値である」と主張する人間が、その主張を記した自著の印税を求めるのと同じく背理的である。というのは、「言論の自由」とはまさに「他者に承認される機会を求めること」に他ならないからである。
「言論の自由」は、自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものか忘却に任されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名する人間だけに請求権がある。自分が発する言葉は、他者に聴き取られなくても、同意されなくても、信認されなくても、その意味と価値をいささかも減じないと言い張る人間には「言論の自由」を請求する権利がない。なぜなら、彼の言葉は他者たちの場に差し出されるに先立って、すでに真理であることが確定しているからである。もし、言論の正否真偽を審問する場の成立に先立って、すでに真理である言葉が存在しうるなら、「自由な言論の場」に存在理由はない。
言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論のゆきかう場」そのものであるという同意のことである。言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信用供与抜きに「言論の自由」はありえない。
むろん、つねに正しく言論の価値を査定する「場」が存在するというのは、ある種の「空語」である。
自由な言論の場では、すべての真なる命題は必ず顕彰され、すべての偽なる命題は必ず退けられると信じるほど私は楽観的な人間ではない。しかし、現実的に楽観的でありえないということと、原理的に楽観的であらねばならないというのは次元の違う話である。
私は「言論の自由が確保されていれば、言論の価値が正しく査定される可能性はそうでない場合よりはるかに高い」ということを信じる。
そして、この信念はそのような「場」に対する敬意として表現されるほかない。
私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど情緒的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。その原理は言語や親族や貨幣のような制度が起動する場合と変わらない。まず他者への贈与があり、それから、運動が始まる。
「場の審判力」への無償の信認からしか言論の自由な往還は始まらない。
もし、言論が自由に行き交うこの場の「価値判定力」を信じなかったら、私たちは何を信じればよいのか。
「場の審判力」を信じられない人間は、「私の言うことは正しい」ということを前件にして言葉を語り出すことしかできない。「お前たちが私の言うことを否定しようと、反対しようと、それによって私の言うことの真理性は少しも揺るがない」と言わなければならない。
しかし、もしそうだとしたら、彼には「自由な言論が行き交う場」に言葉を差し出さなければならないいかなる必然性があるのだろうか。せいぜい、洗脳、宣伝、教化のために功利的に利用することしかできまい。むろん、その場合には、彼の言葉に対するすべての疑問や異議申し立ては「真理」の名において退けられる。だが、そのような言論のありようを「言論の自由」のみごとな実現であると思う人間は一人もいない。
言論の自由とは、まさにその「場の審判力」に対する信認のことだからである。言論において私たちが共有できるのは、それぞれの真理ではない(それは「それぞれの真理」であるという時点ですでに共有されていない)。私たち「それぞれの真理」の理非が判定される「共同的な場」が存在するということについての合意だけである。
そのような「場」はレディメイドのものとして、制度的にごろりとそこにある、というものではない。それは私たちが身銭を切って、額に汗して、創り出さなければならないものである。
だからこそ、「日本には言論の自由がない」と書いた社会学者の言葉に私はつよい違和感を覚えたのである。「言論の自由」とは「場の審判力に対する信認」のことであり、「私は私が今発している当の言葉の正否真偽を査定する場の審判力を信じる」という遂行的な「誓い」の言葉を通じてしか実現しない。そのような場は「存在するか、しないか」という事実認知的なレベルではなく、そのような場を「存在させるか、させないか」という遂行的なレベルに出来するのである。「場への信認」は私が今現に言葉を差し出している当の相手の知性と倫理性に対する敬意を通じて、今この場で構築される他ないのである。「言論の自由」はどこかにかたちある制度として存在しているわけではない。そうではなくて、今ここで、私たちが言葉を発する当のその瞬間に私たちが「身銭を切って」成就しつつあるものなのである。

むろん、私の差し出したメッセージが「偽」の判定を受けて退けられる可能性はつねにある。だから、私は私の主張が相当数の人にとって「耐え難いもの」であると思われる場合には(例えば私が今主張していることは「理解し難い」ことの一つである)、できる限り論理的に、情理を尽くして、理解を得られるように言葉を選ぶことにしている。

正しさを担保するのは正しさではない(それは「私は正しい。なぜなら私は正しいからだ」という原理主義的な同語反復にしか帰着しない)。正しさを担保するのは正否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。

誤解されないように急いで付け加えるが、この付託は現に他者たちが過たず真偽正否の判定を下すという事実に基礎づけられているのではない。そうではなくて、この付託によって、真偽正否の判定を下しうるような知性と倫理性に「生き延びるチャンスを与える」ことができるという事実に基礎づけられているのである。
信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。

そのことを私は「受信者への敬意」、「受信者への予祝」、あるいは端的にディセンシー(decency 礼儀正しさ)と呼んでいるのである。
それは「呪い」の対極にあるところのものである。

私たちは今のところ言論の自由をゆたかに享受している。けれども、この事態を「言論の自由など存在しないと言い放つ自由」や「呪いの言葉を吐く自由」に矮小化する人々が「言論の自由」の基盤を休みなく掘り崩してるということについては十分に警戒的でなければならないと私は思っている。

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