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今年を明治維新の再評価議論活発化の元年にしたいー(天木直人氏) 
http://www.asyura2.com/18/senkyo238/msg/116.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 1 月 05 日 16:10:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

今年を明治維新の再評価議論活発化の元年にしたいー(天木直人氏)
http://www.twitlonger.com/show/n_1sqct9q
5th Jan 2018  市村 悦延 · @hellotomhanks


きょう1月5日の毎日新聞のオピニオンコラム「論点」は、

明治150年を考えると題して識者三名の意見を掲載していた。

 私が紹介している雑誌記事ではワーストNO3に挙げられてる大久保利通の

ひ孫にあたる人物がその一人として登場していた。

 大久保利通に対する厳しい評価が昔はもっとひどかったことを認めた上で、

歴史は一面的ではない、と語っているところが印象的だ。

 しかし、私が注目したのは、原田伊織という作家が語っていた要旨次の評価だ。

 原田氏は、2012年に発表した「明治維新という過ち」という本で、

明治維新論争に火をつけたと言われている人であると紹介されている。

 「ネトウヨは私を『左翼の反日主義者』と呼び、

一方で(左翼からは)『右翼の軍国主義者』とも批判される。

中には脅迫まがいのものもある。どうしてこうも短絡的になるのか・・・

こんな寛容性のない国になった元凶を作ったのが長州藩士たちだ。

長州出身の元老たちによる明治の『長州藩閥』政治は大正以降も今に至るまで

『長州型』政治として日本の政治風土の中で続いている。

特徴は、憲法をはじめとする法律よりも、天皇を重視し利用してしまうこと。

幕末には・・・倒幕の御旗として利用したが、

明治以降はまさに『天皇原理主義』となり、国家を破壊に導いた。

それ以前の日本には天皇を神聖化した『原理主義』などは存在しなかった。

 もう一点は、富国強兵、殖産興業の名の下で政治と軍部、軍事産業でもあった

財界とが癒着する社会を生み出した事だろう。

これが私のいう『長州型』政治である。

明治50年は寺内正毅、100年は佐藤栄作、そして150年は安倍晋三と、

いずれも山口県(長州)出身の首相の下で祝典が営まれるのは

ただの偶然と思いたいが、

戦後の自民党政権は一貫してこの長州型から抜けきれなかった。

 最大の問題は歴史の『検証』が行われなかったことだ。

『明治維新至上主義者』である司馬遼太郎氏は敬愛する大学の大先輩ではあるが、

『それだけは違いますよ』と言いたい。

どれほど無駄な命があの原理主義の名の下に葬り去られたか。

その『過ち』の検証も反省もなく、日本は二度目の破滅(敗戦)を迎えたのだが、

戦後も検証は行われず、ずるずると今も明確な外交方針すらなく、

業界との癒着がニュースになる・・・

 150年前は私たちの祖父や曽祖父が生きていた時代であり、

そう遠い時間の流れではない・・・まだ手の届くところにあり、検証は間に合う。

勝者に都合のいい歴史に洗脳されることなく、少々歯切れが悪くとも、

史実は史実として真面目に向き合う勇気を持ちたい・・・」

 私はこの原田氏の著書を読んではいないが、

鈴木荘一氏にの書いた「明治維新の正体」(毎日ワンズ)の本で

明治維新に対するひとつの見方に触れ、明治維新に対する自らの無知と、

明治維新の複雑さに認識を新たにした。

 あの当時はすべてがテロリストであり、

また明治維新のすべてが長州藩士で作られたわけではない。

 我々は今の政治を知るためには幕末・維新の歴史を知らなければいけない。

 そして我々は幕末・維新の歴史をあまりにも知らなさすぎる。

 その意味で、原田氏が指摘するように、史実を検証し、

正しく向き合うことは重要だ。

 今年は、このような記事がどんどんとあらわれて、

明治維新の再評価議論が活性化する元年になって欲しいと思う。










論点 「明治150年」を考える
https://mainichi.jp/articles/20180105/ddm/004/070/028000c
毎日新聞 2018年1月5日

 今年は1868年の明治改元から150年。政府は「明治の精神に学び、日本の強みを再認識する」と記念行事を計画中だ。呼応するように保守層の一部から「明治の日」制定を求める動きも浮上している。近代日本の出発点となったとされる明治維新だが、維新称揚を「復古主義」と警戒する声も。歴史の中でどう位置づけるべきか。

歴史は地続き評価は多様 大久保利泰・歴史民俗博物館振興会副代表理事

 
 大久保利泰氏

 父利謙(としあき)は歴史学者でしたが、明治維新の指導者の一人だった私の曽祖父の大久保利通について改まって家族に語ることはありませんでした。ただ、歴史資料というのは公のものだという考えで、研究機関に寄贈してきました。私も手元に残された利通関連の文書、遺品などを2015年までに国立歴史民俗博物館などに収めました。

 これらの資料は利通の長男利和(としなか)(元貴族院議員)、次男の牧野伸顕(のぶあき)(親英米派の重臣で吉田茂の岳父)、三男で私の祖父に当たる利武(大久保家の家督を継いだ元内務官僚)が収集、整理したものです。自分たちが利通を顕彰するためではなく、利通の実像を後世に伝えたい一念だったと思います。1878(明治11)年に利通が凶刃に倒れたとき、利和は18歳、利武は12歳。検視書をみると無残な姿だったようです。利和にとっては生々しい記憶で、遺品に触ることは避けていたと聞いています。

 歴史は一面的ではありません。たとえば忠臣蔵。敵役の吉良家や上杉家に同情の目が注がれることは少ない。そして、利通は西南戦争(77年)で(敵味方に分かれて戦い)自刃した(かつての盟友)西郷隆盛との関係で語られがちです。「利通が殺されたのは当然」という空気も時に感じます。祖父の時代はもっと強かったでしょう。鹿児島に隆盛像が建ったのは1937(昭和12)年、利通の像は42年後の79年のことです。

 明治政府に反乱を起こして斬首された江藤新平について利通は日記に「醜態笑止なり」と書き留めました。「笑止」とは<気の毒なこと。同情すべきこと>という意味もあるのに、論文などでは「あざ笑い」にねじ曲げられる。何か特定のイメージを作り出そうとしているような感じもします。

 昨秋、西南戦争140年にあたり鹿児島市内で薩軍と官軍の犠牲者を弔う慰霊塔の除幕式が行われ、私も出席しました。ここまでくるのにそれだけの時間がかかるのですね。現代は幕末からの地続きなのだと感じました。同時に弁明せずに黙々と資料を集め守った祖父、父が思い出されたのです。

 福島・郡山には大久保神社があります。安積疏水(あさかそすい)の建設による開拓事業に道筋をつけたのが利通ということで、その功績をたたえていただいています。その縁はいまも受け継がれ、わが家の食卓には郡山産のお米と野菜が並びます。

 利通の評価がそうであるように、歴史にはさまざまな見方があります。維新を疑問視する声があるのも承知しています。ただ、日本の近代化の重要な節目です。「明治の日」を定める意味はそれなりにあるのではないでしょうか。

 利通は晩年、農学校の創設や紡績工場の操業など殖産興業の先頭に立ちました。亡くなった後に残ったのは巨額の借金だけ。私財を投じていたわけです。暗殺の報は事件の翌々日に英紙「タイムズ」に掲載され、こう論評されています。「大久保は改革の推進者であり、旧態の援護者から憎まれていた。彼を失うことは日本国の不幸である」。自身が残した「為政清明」の言葉通りの生き方を貫いたと思います。【聞き手・隈元浩彦】



寛容性のない国になった 原田伊織・作家

 
 原田伊織氏

 拙著「明治維新という過ち」には各方面からいろいろな反応を頂いた。「ネトウヨ」は私を「左翼の反日主義者」と呼び、一方で「右翼の軍国主義者」とも批判された。中には脅迫状まがいのものもある。今風の言論「テロ」と言えよう。どうしてこうも短絡的になるのか。幕末、政局の主導権争いで問答無用に「天誅(てんちゅう)(テロ)」に走った伝統が今も残っているのか。こんな寛容性のない国になったのは「いわゆる明治維新」以降のことでしかない。

 元凶を作ったのが長州藩士たちだ。長州出身の元老たちによる明治の「長州藩閥」政治は大正以降も今に至るまで「長州型」政治として日本の政治風土の中で続いている。特徴は、憲法をはじめとする法律よりも、天皇を重視し利用してしまうこと。幕末に長州藩は孝明天皇や幼い明治天皇を担いで攘夷(じょうい)、倒幕の御旗(みはた)として利用したが、明治以降はまさに「天皇原理主義」となり、国家を破滅に導いた。それ以前の日本には天皇を神聖化した「原理主義」などは存在しなかった。

 もう一点は富国強兵、殖産興業の名の下で政治と軍部、軍事産業でもあった財界とが癒着する社会を生み出したことだ。これが私が言う「長州型」政治である。明治50年は寺内正毅、100年は佐藤栄作、そして150年は安倍晋三と、いずれも山口県(長州)出身の首相の下で祝典が営まれるのはただの偶然と思いたいが、戦後の自民党政権は一貫してこの長州型から抜け切れなかった。

 最大の問題は歴史の「検証」がほとんど行われなかったことだ。「明治維新至上主義者」である司馬遼太郎氏は敬愛する大学の大先輩ではあるが、「それだけは違いますよ」と言いたい。どれほど無駄な命があの原理主義の名の下に葬られ去ったか。その「過ち」の検証も反省もなく日本は2度目の破滅(敗戦)を迎えたのだが、戦後も検証は行われず、ずるずると今も明確な外交方針すらなく業界との癒着がニュースになる。武家の倫理観はどこに行ったのか。

 「江戸は遅れた貧しい時代だった」という、江戸を全否定する官軍教育の影響も大きかった。私たちは遅れた江戸が文明開化で豊かに、幸せになったと教科書で習ってきたが、これは捏造(ねつぞう)された歴史だろう。250年も平和が続いた「徳川の平和」に今、世界が注目している。平和や人々の倫理観に加えて、日本古来の自然観の中で、世界一の大都市ながら循環型で持続可能な社会を営んできた時代の存在は、世界史上でもみられない、日本の宝と言っていい。

 150年前は私たちの祖父や曽祖父が生きていた時代であり、そう遠い時間の流れではない。まだ手が届く所にあり、検証は間に合う。勝者に都合がいい歴史に洗脳されることなく、さらなる悲劇を繰り返さないために、少々歯切れは悪くとも史実は史実として真面目に向き合う勇気を持ちたい。少なくとも「隠蔽(いんぺい)」と「捏造」を許してはならない。まるで軍国に狂奔した「昭和維新」そのままの発言を続ける現政権はかなり危険だが、「明治150年」を検証の契機とするのなら、意義はあるだろう。【聞き手・森忠彦】



変革期の立役者は若者だ 町田明広・神田外語大准教授

 
 町田明広氏

 大学で日本の近現代史を教えていると、最近の日本人、特に若者が明治維新以降の150年の日本の歴史をあまりにも知らないと実感する。むしろアジアの他の国の人たちの方が知っていたりする。グローバル化で身の回りに外国の人が大勢いる時代だからこそ、私たちはきちんとした知識と自分なりの歴史観を持っていたい。

 幕末から始まる動乱は、長らく鎖国状態にあった日本が世界史に入っていく時代であった。この激動期のキーワードが「攘夷(じょうい)」(外敵を撃退しようとする思想)だ。ナショナリズムが高まる中、外国船の到来が相次ぐようになる。影響が大きかったのがアヘン戦争だ。大国の清があっけなく英国に敗れたことは当事者以上に日本人の方が過剰に反応した。日本国内で一斉に「攘夷」が時流となった。

 ただし、攘夷には、積極的に開国した後、富国強兵の上で欧米列強に対峙(たいじ)する路線を取った老中・阿部正弘らの「未来攘夷」と、現行の通商条約を認めず、武力行使を重視する長州藩などの「即時攘夷」とがあった。開国路線だった幕府は後の薩長藩閥政府に「弱腰外交」と悪評されることになるが、優秀な開明派の幕臣たちがいたことはもっと評価されていい。阿部が行った「安政の改革」は、史上初の「オールジャパン」的な発想で、岩瀬忠震(ただなり)ら有能な人材の登用を図った。画期的な改革だった。

 明治維新に向かう対立軸として、「(天皇を尊ぶ)尊王攘夷」VS「(朝廷と幕府が手を組む)公武合体」と言われるが、「尊王」「攘夷」「公武合体」は対立する概念ではない。ある時期までは誰もが「尊王+公武合体」論者であり、「攘夷」をいつどのように行うかの違いだった。

 私たちはステレオタイプの歴史観で幕末や維新をとらえがちだが、最近の研究調査でそう単純ではなかったと分かってきている。日本が高度経済成長期の中で迎えた「明治100年」(昭和43年)を前に司馬遼太郎が描いた坂本龍馬は経済成長の象徴で、事実以上の「巨像」となっていった。歴史ファンが増えたのはありがたいが、何が事実か創作かは意識してほしい。

 1865年10月の孝明天皇の(開国に同意する)条約勅許によって「攘夷」は名実ともに終わりを告げた。大政奉還、さらに明治4年の廃藩置県で時代が変わり、日本はわずか20年ほどで近代国家の仲間入りを果たした。中心となったのが、幕府や薩長が欧米に送った若き留学生たちだ。彼らの海外体験が原動力だった。彼らは進んだ西洋社会と日本の落差に衝撃を受け、猛然と学んだ。新しい国をつくるために必死だったのだ。その経験があってこそ日本は短期間で成長することができたのである。

 好奇心や柔軟性があるのは日本人の特徴であり、良い意味でその「変わり身の早さ」が奏功したのが明治維新だ。維新の立役者となった当時の留学生たちには、今の大学生にあたる20歳前後の者も多かった。世界へ出て、実際に自分の目で見て、体験することの重要性は今も変わらない。若い人たちには「明治150年」を、日本を学び直すきっかけにしてほしい。【聞き手・森忠彦】

維新とはいつか?

 明治維新は幕末から明治初期にかけて19世紀後半の日本で起きた政治・社会大変革。「いつからいつまでか」は諸説ある。主な出来事に(1)ペリー浦賀来航(1853年6月)(2)日米修好通商条約調印=開国(58年6月)(3)大政奉還(67年10月)(4)王政復古の大号令(同年12月)(5)五箇条の誓文(68年3月)(6)明治改元(同年9月)(7)東京遷都(69年3月)(8)版籍奉還(同年6月)(9)廃藩置県(71年7月)=以上は旧暦での月表記(10)西南戦争終結(77年9月)などがある。

 ■人物略歴
おおくぼ・としひろ
 1934年生まれ。慶応大卒後、横浜ゴム勤務。97年から「霞会館」(旧華族会館)の理事、常務理事を歴任し、「会館百四十年の歩み」などを編集。監修・著書に「大久保家秘蔵写真」。

 ■人物略歴
はらだ・いおり
 1946年生まれ。滋賀県彦根市育ち。大阪外語大卒。2005年作家デビュー。12年に発表した「明治維新という過ち」で長州藩の「テロ」行為に着目し、明治維新論争に火をつけた。

 ■人物略歴
まちだ・あきひろ
 1962年生まれ。上智大、慶応大卒。佛教大大学院博士後期課程修了。2016年から現職。専門は日本近現代史(明治維新史・対外認識論)。著書に「攘夷の幕末史」など。


 

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コメント
 
1. 2018年1月05日 16:44:43 : 0CejVRban6 : urcdmA9xc1s[6475]
縮めて言えば「絶対視はやめよう。すべてを相対視しよう」ということだと思うけど…
それには賛成です。

コチラもどうぞ。
布施祐仁氏
「中国を100%信用しないのとアメリカを100%信用してしまうのはコインの表裏か。どちらからも主体的な外交が生まれるわけがなく、これが一番日本の安全を脅かすと思う。」
https://twitter.com/yujinfuse/status/949181770544463872

自分の国の外交政策は自分たちでつくる。
「アメリカにお任せ」ではダメ。「反中なら正しいだろ」でもない。


2. 2018年1月05日 19:00:36 : LJ1o3ewPTc : 7FY_QxJUShw[3]
学校では、決して習わないことは、明治憲法下では、天皇が、どんな決断をしようと、結果がどうであれ、その責任を、一切問われることがなく、身代わりに、臣下たちが、取ることになっていた。

そして、日本憲法に変わっても、密かに、その権限は、温存されている。

最高裁判決によれば、現憲法下でも、天皇は、民事裁判の対象とはならない。

類推すれば、たとえ刑法を犯しても、その責任を問われることはない。

天皇が、日本国・国民の象徴と言っても、日本国籍を有していないので、日本国民でさえない。

日本国籍を有していない者が、国事行為をすることなど、そもそもあり得ない。

元首であれば、このような事は、起こりえない。


3. 2018年1月06日 00:24:33 : 8NiIeh8d9g : FZsyoriKx58[55]
佛教徒の一人として言わせてもらえれば明治維新の最もあかんとこは廃仏毀釈にある。

以上


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