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コメントを削除、拒否する理由。(谷間の百合)
http://www.asyura2.com/18/senkyo252/msg/423.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 10 月 18 日 13:05:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

https://taninoyuri.exblog.jp/29801503/
2018-10-18 10:50 谷間の百合


わたしは基本わたしへの反論、批判のコメントを削除したり投稿を拒否することはありません。

議論なら読者の考えるヒントにもなるのですが、議論になる要素がない上にマナーに欠けるコメントは削除するしかありません。

こちらが何も知らないかのような、だから教えてやるみたいな、想像ですが、女は黙ってろという女性蔑視のこころの持ち主なのかなと思ったりします。

こういうところは、「日本会議」と体質が同じなのかもしれません。

安倍政権批判することと天皇を肯定するのが矛盾するように思っているところが、浅はかというか、きれいに色分けされてないと頭が混乱するようなレベルの人間とは議論にもならないのです。

あらためて思ったのが、わたしは天皇を擁護するのではなく、日本人のこころを問うことが目的であり主眼だったということです。

だから、天皇は保身のために沖縄を売ったとか、マッカーサーに命乞いに行ったという言葉に接したときは大きな衝撃を受けたのです。

天皇云々ではなく、日本人がそんなことまで言うようになったのかという衝撃です。





たとえば、ブータンのワンチュク国王、タイの先のプミポン国王は国民から慕われ尊敬されているということですが、わたしはそれを想像するだけで国王と国民の麗しい関係に自分でも顔が幸せな気持ちに輝くのを感じるのです。

そう思いませんか。

それともそれは両国王が立派だからだが、天皇は違うと思いますか。

ブータン国王は自国の主にネパール系の住民10万人を強権で以って国外に追放しましたが、国はそれぞれさまざまな歴史を抱えているということです。

普段、国民は天皇の存在を思ったり考えたりすることはなく、それでいいのです。

国民のなかには、戦前「天皇のために」とあまりにも言われ過ぎたために拒絶反応や悪感情を持っている人がいます。  

2.26に繋がる人にもそういう人はいるでしょう。

しかし、そういう人であっても天皇を口汚く罵ったりはしません。

忖度でも同調圧力でもなく、それが人間(日本人)としての嗜み、慎みだからとは思えませんか。

これがわたしが言いたことです。

天皇憎しでいまや原爆を落としたのも天皇であるかのように言い振らされています。

わたしは、やはり、シベリヤのラーゲリでの凄まじい非人間的な赤化教育による洗脳がいまに影響を及ぼしていると思っています。

そこで徹底的に天皇を憎むように洗脳されたのです。

方々に貼られている陰謀論系のコピペはそこで叩きこまれたものが基になっているのだろうと思っています。

プーチン大統領には、本人が生まれていなくても、終戦の6日前に突然参戦して60万近い日本兵をシベリヤに連行したことについて説明してほしいと思います。








 

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コメント
1. 中川隆[-13334] koaQ7Jey 2018年10月18日 13:23:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19312] 報告
>わたしは天皇を擁護するのではなく、日本人のこころを問うことが目的であり主眼だったということです。


そもそも天皇は日本人じゃないからね:

日本の大和朝廷は朝鮮に住んでいた漢民族が武器を持たない縄文人・弥生人を征服して作ったカースト制国家(氏姓制度というのはカ−スト制を定めたもの)

日本はカースト制の多民族国家だから下のカーストの人間は昔から お上には絶対に逆らえないんだ:

現代日本人は

縄文人の末裔
弥生人の末裔
朝鮮から渡来した漢民族
アイヌ人
在日朝鮮人

から構成される


日本を支配していた天皇家や武家は朝鮮から渡来した漢民族(Y染色体O2系統)で、
縄文人・弥生人系の日本の一般民とは殆ど混血していない。

現代の日本の政治家や資産家は殆どが渡来漢民族:Y染色体O2系統(旧 O3系統)
地主や自作農は 弥生系: Y染色体O1b系統(旧 O2系統)
貧農や小作人や部落民は 縄文系「D2」

太平洋戦争で最前線に送られて死んだのは縄文人・弥生人系の日本人だけ
これから中国人移民と競争させられて搾取され食っていけなくなるのも縄文人・弥生人系の日本人だけなんだな

縄文人・弥生人系の日本人の問題は羊より従順でかつ自分が搾取されて滅ぼされる劣等民族だという自覚が無い事だな
お上には絶対に逆らわないもんな


____


昔、三宅久行さんから聞いた話 2012/11/16 03:24
あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。高速道路を走りながら車中で、昭和天皇の話になった。

三宅さんが、日本史の江上さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。

そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、昭和天皇に質問したそうだ。
天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。

三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。

現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。

____

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。

古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。

当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。
日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、
天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、
それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。
この話はあるメディアに流れました。


38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、仮にこの付近が関連する村であると、
南だけではなく北とも天皇は接点を持つ可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係していなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、
気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、

平成一桁の時代において戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではないといえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

2. 中川隆[-13333] koaQ7Jey 2018年10月18日 13:26:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19312] 報告

天皇は朝鮮に住んでいた漢民族で、日本人を人間だと思っていなかった

日本の支配階級になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった

6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0

貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ


17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ

28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0

平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した


37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0

藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな


45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/


収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…

暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち〜平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html


暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。

 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


@収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。

A地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html

暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。


■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。


■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。


■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html

暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)


今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ〜清少納言危機一髪〜」からです。

●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。

●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。

●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。

   任地に赴く受領

●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 

以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。

●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。

●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。


・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html


暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち

前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

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朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。

 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

結論から言えば、有常殺害事件に関する事実は、常材が捨て身で告発した通りであった。
すなわち、同年七月二十一日の『小右記』によると、維衡の後任の常陸介となった藤原信通(のぶみち)が、朝廷の指示に従って事件の捜査をやり直したところ、かつて犯人断定の決め手とされた被害者の妻の証言は、維衡によって捏造されたものだったのであり、また、そうして常材を殺人犯に仕立て上げた維衡こそが、有常殺害の真犯人だったのである。

 
常陸介は自分に都合の悪い人間を殺しておきながら、それを他の人間、しかも親縁に罪をなすりつける
 
○書生に帳簿を改ざんさせ口封じのために殺した悪徳受領『日向守』
 

 地方諸国の国府に勤める下級事務職員として「書生(しょせい)」と呼ばれた人々も、その本来の姿は、それぞれの国に根づいた豪族であった。それゆえ、任国の豪族たちから富を吸い上げようとする悪徳受領にしてみれば、公式には彼の下僚ということになっている書生たちも、けっして信頼できる部下などではあり得なかっただろう。いや、それどころか、現に国府の事務処理に携わっていた如くに読み書きに長じていた書生たちは、いつ受領国司の不正を告発しないとも限らない、どうにも厄介な存在であったにちがいない。

 一方、その書生たちの側でも、任国で蓄財に励むことしか考えていない悪徳受領に対しては、けっして気を許すわけにはいかなかったはずである。とくに、何らかの事情で受領国司の不正行為に手を貸してしまった書生ともなれば、不正の露見を未然に防ごうとする悪辣な上司に消されてしまわないよう、つねに警戒していなければならなかったことだろう。

 そして、実際のところ、日向国の国府に勤務していた一人の書生が、若くして生命を落とさねばならなかったのは、強いられてのこととはいえ、悪徳受領である日向守(ひゅうがのかみ)の不正の片棒を担いでしまったがゆえのことであった。

 その日向守某が手を染めていた不正の多くは、おそらく、「尾張国郡司百姓等解」が弾劾する違法行為や脱法行為と同じものであったろう。すなわち、問題の日向守もまた、尾張守藤原元命と同様、さまざまな機会に不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領といった悪事を働き、郡司や百姓として任国に暮らす豪族たちから、多くの財を巻き上げていたと考えられるのである。

 それにもかかわらず、この日向守の場合、受領国司としての任期を全うすることができたわけだが、任期満了を迎えた日向守某は、後任者の下向を待つ間、それまでに多くの不正が行われてきた痕跡を消し去ることに余念がなかった。すなわち、自身の行った不正が次の日向守によって暴かれることのないよう、何か辻褄の合わないところのある書類を徹底的に洗い出し、それらを全て整合性のあるものへと書き直していったのである。当然、それは、かなり根気の要る作業であったろう。

 そして、この困難な隠蔽作業のために重用されたのが、かねてより日向国府に出仕していた一人の書生であった。機転が利くうえに字も上手かったという彼は、国府の一室に監禁され、二十日ほどもの間、書類を改竄する作業を続けさせられたのである。


もちろん、切れ者であった書生は、自身が悪事に関与していることに気づいていた。が、日向守某の従者たちに厳しく監視されていたため、逃亡することもかなわず、命じられるままに偽装書類の作成を続けるしかなかったという。

 しかも、こうして意に反して不正行為に荷担することになった書生は、その役割を終えるや、彼に不正への関与を強いた悪徳受領の勝手な都合により、あっさりと殺されてしまう。『今昔物語集』巻第二十九第二十六の「日向守口口□□の書生を殺す語」という話によれば、書類の改竄を完了した日のうちに、日向守某の郎等に射殺されたのであった。

日向守某が私利私欲のためにまったく非のない書生の生命をを奪ったというのが、正真正銘の史実であったとすれば、やはり、『今昔物語集』の編者としては、「日向守□□□□」の氏名を明かすわけにはいかなかったにちがいない。

 
このように、平安貴族達は自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じしまくっていたようです。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002575.html

うーん、漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。


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3. 中川隆[-13338] koaQ7Jey 2018年10月18日 13:37:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19318] 報告
そもそも天皇は日本人じゃないからね
天皇は朝鮮に住んでいた漢民族で、日本人を人間だと思っていなかった


縄文人と弥生人は全員二重瞼

昔、華北にいた漢民族は全員一重瞼

日本の近くで一重瞼の民族は古代漢民族だけなんだ

天皇一族は一重瞼だから古代漢民族で間違いないよ




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4. 中川隆[-13337] koaQ7Jey 2018年10月18日 13:45:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19318] 報告
今も昔も漢民族は残酷で人を殺したり拷問するのが大好きなんだ

縄文人と弥生人は武器すら持って居ない平和で優しい人達だったから、漢民族に簡単に征服されたんだ

日中戦争での残虐行為は残酷な漢民族の昭和天皇が命令してやらせたんだ
心優しい日本人は覚醒剤を飲まされて、残虐行為を無理やりやらされたんだ
虐殺を拒んだら殺されるから仕方無かったんだ

戦争犯罪の責任はすべて昭和天皇一人にある
日本人には責任は全くない

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5. 中川隆[-13342] koaQ7Jey 2018年10月18日 13:48:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19324] 報告

日中戦争での残虐行為は残酷な漢民族の昭和天皇が命令してやらせたんだ
心優しい日本人は覚醒剤を飲まされて、残虐行為を無理やりやらされたんだ
虐殺を拒んだら殺されるから仕方無かったんだ:

非戦闘員の組織的・無差別的虐殺の新証言

 ・・・
 長勇は、独断で一般市民大虐殺の命令を発しただけでなく、実際に現場で、実行をひるむ兵士を非常手段でもってけしかけたことを、やはり自ら語っている。長はその事実を藤田勇に秘話し、藤田がまた、これを徳川義親に語っているのでる。徳川義親は1973年に著した自伝『最後の殿様』(1973年、講談社)で、その伝聞をこう述べている。

 《ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮をおこなった。殺戮の内容は、10人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時僕が聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であることを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。
 藤田君は、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青帮との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、10月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ2人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。

 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。

そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。

中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して

 「人をころすのはこうするんじゃ」

と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、
 「長、その話だけはだれにもするなよ」
 と厳重に口どめしたという》(172〜173ページ)

 ここに語られているのは、前記の18日の夜におこなわれたと推測される草鞋峡辺における一般住民の大虐殺とは別個の事件であろう。おそらくこの事件は、12月13日・14日におこなわれた掃蕩戦の際に起こった事件と推測される。
https://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/7ab687849fc75420c26361665a40bef2

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6. 2018年10月18日 14:18:23 : SKI2GjWrn6 : KoIpEdXzMXE[268] 報告
シベリヤ抑留、巷で言われていることは戦後瀬島隆三がどうぞ自由に使って下さいと言って日本兵は抑留されたとのことです。私もきっとそうだと信じている一人です。
7. 2018年10月18日 14:31:07 : SKI2GjWrn6 : KoIpEdXzMXE[269] 報告
天皇は男系男子万世一系の日本人の持っている宝だと思っています。もちろん血に染まった家系だしその間紆余曲折があって色が薄くなっていることがあったりしても日本人が持っている唯一の宝です。自分が持っているものには気が付きませんが、他の国から見れば日本人は立派な宝を持っているとうらやましがられます。その宝があるだけで日本はどんな状態になっても立ち上がれるのです。敗戦後の日本がそうです。でもそれは日本人には分からないことです。今皇族のことが検討されようとしており男系女系関係ないという意見もありますが、もし女系を認めれば天皇の価値はなくなるでしょう。そういう意味で天皇家に手を付けたのが小泉でした。たまたまその時後継者が誕生し事なきを得ました。もし絶えそうなときは昔したようにたとえ遠くても男系男子を見つけて天皇にしなければなりません。
8. 中川隆[-13344] koaQ7Jey 2018年10月18日 14:34:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19327] 報告
>天皇は男系男子万世一系の日本人の持っている宝だと思っています。

だから天皇は日本人じゃないと言ったろ

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9. 2018年10月18日 15:02:20 : BeaD9ZP45A : fbKjPd@Pvoo[16] 報告
⇒《たとえば、ブータンのワンチュク国王、タイの先のプミポン国王は国民から慕われ尊敬されているということですが、わたしはそれを想像するだけで国王と国民の麗しい関係に自分でも顔が幸せな気持ちに輝くのを感じるのです。そう思いませんか。》

「国民の97%が「幸せ」と回答する。"幸福の国"ブータン
しかし、私たちのイメージとは大きく異なる現実があります。
ブータンは就職難で、政府が発表する失業率より実際ははるかに悪く、大学を卒業した人でも仕事を持つことができません。兄弟が数人いても「誰も仕事をしていない」ということは稀ではありません。首都では薬物が蔓延しています。覚せい剤などのようなハードなものではないですが、行き来が自由なインドから手軽に入手できてしまいます。」
https://readyfor.jp/projects/199309tools

「国連はタイの厳しい王室不敬罪について、改正を求めている。国連人権高等弁務官事務所は、起訴率の高さや罪状に不釣り合いな厳罰に懸念を示した。」
https://www.bbc.com/japanese/video-40351083

本当に慕われ尊敬してるんですかねぇ…
疑わしいものです。
ブータンでは「諦め・絶望」から、タイでは「恐怖」から王室批判をしないだけじゃないでしょうか。

私は国民主権が好きです。

10. 2018年10月18日 15:45:38 : jb26QalMVE : 9108YF661UA[2] 報告
 世界にはいろいろな認識があり、日本とは違うことがままある。

 日本では終戦が8月15日の認識。
 アメリカ等連合国側は9月2日の認識。

 つまり、ソ連の対日参戦の8月9日は終戦6日前ではなく、ソ連側にすれば終戦のおよそ3週間前となる。
 8月15日以降もソ連は関東軍を攻めていたが、ソ連側にすれば、まだ戦争は終わっていないと認識していた、ということ。

 日本は8月14日にポツダム宣言を受諾し、15日に昭和天皇のいわゆる玉音放送があった。で、日本は戦争が終わったと思ったが、連合国は違った。

 15日以降にも戦闘はあった。ソ連軍の樺太、千島侵攻が強調され、「ソ連はけしからん」の思いが日本では強いが、日本の潜水艦がアメリカ艦船を攻撃したケースもある。もちろん、アメリカ側はこの潜水艦攻撃に対して当然、逆襲をしている。
 アメリカは一応、15日以降の本土空襲はやめたけれどね(厳密にいえば、玉音放送後は空襲していない。15日午前は千葉を空襲している)。

 これって、教育なのでしょうね。

 日本の教科書では太平洋戦争の終結は8月15日だが、諸外国の教科書では9月2日が「終戦日」。9月3日のところもある。
 韓国、北朝鮮が8月15日を祝うのは、日本が「負けた」と認めた日で、植民地化されていた日本からの解放が約束された日だから。

 ロシアに対して、8月15日以降も日本を攻めるなんて卑怯だと罵ったところで、ロシア側にすれば「はぁ〜、終戦は9月2日でしょ」ってことになる。

 終戦日に関して、日本の認識であ〜だこ〜だ言っても、世界からは「はぁ〜」と言われるよ。

 日本の現代史の教育はなっていない。だいたい三学期のごちゃごちゃしている時期がこのあたりの時代の授業になるから、いい加減なのかも。

11. 2018年10月18日 16:12:07 : Elio0nEowE : h2RZrOIR1F8[-570] 報告
>>6. 2018年10月18日 14:18:23 : SKI2GjWrn6 : KoIpEdXzMXE[268] 報告
> シベリヤ抑留、巷で言われていることは戦後瀬島隆三がどうぞ自由に使って下さいと言って日本兵は抑留されたとのことです。私もきっとそうだと信じている一人です。

つまり、瀬島隆三がどうぞ自由に使って下さいと言わなかったら、シベリヤ抑留は無かった思っているのですか?

スターリンは日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下している[1]。

シーボルト(対日理事会の米代表)は、「夥しい数の日本人捕虜がシベリアで虐殺されたとして、日本側の資料を用い、次の数字をあげている。1945年だけで、27万2349人が死んだ。1945年から1949年までの4年間で、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、実に37万4041人にのぼる」と言っている[2]。

[1] 抑留の決定[編集]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[13]。

[2]【コピペ】【シベリア抑留】ソ連軍による拉致強制労働の実態 [歴史コピペ【日本-ソ連編】]
【シベリア抑留】ソ連軍による拉致強制労働の実態
●今立鉄雄氏ー「日本しんぶんー日本人捕虜に対するソ連の政策」
・「終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約2百72万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後、僅か9ヶ月間にソ連の為、シベリアに送られた。推定ながら、シベリアの野に失った40万人の人々とその遺族の胸中を思いやっている」

●ウイリアム・ニンモ(米国の研究者)著ー「検証ーシベリア抑留」
 ・「1945年8月ソ連の管理下にあった日本人の人数は、272万6千人、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡・その他は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人がソ連によって殺された」
 
●アルハンゲリスキーの解明
 ・マリクがモロトフに宛てた文書では、「1946年12月4日付け政府決定に従い、ソ連からの日本人の本国帰還が緒に就いた。本国帰還該当者105万2,467人のうち既に10万  1,075人が送還された」

●1947年3月5日付けの対日理事会でビジョン米代表が、日本捕虜帰国の現状に言及し、ソ連領内にまだ105万301人の日本人が残留していると述べたところ、1947年3月27日付けのマリクからモロトフ宛ての書簡では、ビジョンに反論するため「1947年3月5日現在ソ連内にいた軍人及び民間人の日本人は総計約70万人」としたのである。折りしも東西冷戦が本格化した時期で、以後、鉄のカーテンに阻まれ、抑留者の数、死者の数とも曖昧にされていく。なぜ、こんな隠蔽工作をしたのかといえば、1945年から1947年にかけて大量の日本人がシベリアの地で死亡したからだ。とくに1945年から46年にかけての冬、シベリア全土を異常な寒気が襲い、日本人抑留者の命を次々と奪った。防寒服も防寒用の靴もなく、布テントに収容され、しかも食料も十分に与えられなかった日本人捕虜たちはひとたまりもなくシベリアの冬将軍の餌食をなった。

●スターリンの罪はいくら告発しても告発しきれない。悪質かつ最大の戦争犯罪人は
  スターリンである。
 ●許せぬ日本人墓地破壊命令
 ●ソ連による抑留日本人105万人、虐殺40万人の衝撃
 ●満州で無法の限りを尽くしたソ連軍
 ●在満法人を襲った生き地獄

●シーボルト(対日理事会の米代表)
・夥しい数の日本人捕虜がシベリアで虐殺されたとして、日本側の資料を用い、次の数字をあげている。1945年だけで、27万2349人が死んだ。1945年から1949年までの4年間で、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、実に37万4041人にのぼる。
 37万人を超える日本人捕虜がシベリアで殺された。死亡原因は疾病、野外留置、衣服の不足、栄養失調、極寒時の強制行進、過酷な労働とされている。広島、長崎の原爆を上回る我が同胞が、まさにスターリンによって虐殺された。

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12. 新共産主義クラブ[-2574] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月18日 16:28:01 : kcpTJ8oMrE : NRGtxPBoAp8[70] 報告
>>6さん
シベリヤ抑留、巷で言われていることは戦後瀬島隆三がどうぞ自由に使って下さいと言って日本兵は抑留されたとのことです。
 
>>11さん
>つまり、瀬島隆三がどうぞ自由に使って下さいと言わなかったら、シベリヤ抑留は無かった思っているのですか? 
 
 
 ご参考まで。  
 
 「ソ連経済のための強制労働に服させるために日本人捕虜を抑留する考え(後にシベリアの労働収容所により実行されることになる)は、ソ連だけのものではなく、実際に天皇の側近の人物にその起源があったのである」(H.ビックス)
 
 
◆ エレーナ・カタソーノヴァ『ソ連指導部による日本軍将兵抑留決定の動機』
(Review of Asian and Pacific Studies 特別号 pp.41-47,2014)
 
 1945年夏に近衛文麿はモスクワに交渉に向かうつもりで、腹心の酒井鎬次中将とともに「和平交渉の要綱」を作成したが、そこには対米英戦争の和平を仲介してもらうための対ソ譲歩案が示されている。

 「海外にある軍隊は現地において復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」「賠償として、一部の労力を提供することは同意す」と。
 
 アメリカの研究者H.ビックスは、自著『裕仁と現代日本の形成』に同案を紹介して、直裁にこう記した。

 「ソ連経済のための強制労働に服させるために日本人捕虜を抑留する考え(後にシベリアの労働収容所により実行されることになる)は、ソ連だけのものではなく、実際に天皇の側近の人物にその起源があったのである」。
 
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/488/1/asia-2014t_41-47.pdf
 


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13. 新共産主義クラブ[-2573] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月18日 16:51:56 : Yu2et2k4VY : Z2RRhWP2XTQ[13] 報告
>>12(追記) 
 
 ご参考まで。
 
────────────────────────────────
  
 「ソ連軍に対する瀬島(龍三)参謀起案陳情書」では、日本の兵士が帰還するまでは「極力貴軍の経営に協力する如(ごと)く御使い願いたいと思います」と書かれています。
 
 さらに背景となった近衛文麿元首相作成のソ連に対する「和平交渉の要綱」(45年7月)
 
 天皇制の「国体護持」を絶対条件とするかわりに、ソ連に領土の一部を引き渡すこと、「満州」の軍人・軍属を「兵力賠償の一部として労働」の提供をする内容でした。
 
────────────────────────────────
 
◆ 2016 とくほう・特報 シリーズ 未完の戦後補償 シベリア抑留とは何だったのか 軍に裏切られ 異国に眠る
(しんぶん赤旗,2016年8月24日) 
 
 《 対ソ交渉 》
 
 シベリア抑留で“謎”とされてきた問題がありました。
 
 スターリン秘密指令の直前の命令では「日本・満州軍の軍事捕虜を、ソ連邦領土に運ぶことはしない」とあったのです(8月16日のべリア文書)。これがなぜ正反対の命令に変わったのか。
 
 白井氏は「日本の参謀本部が、日本の捕虜をソ連軍の経営にお使いくださいという申し出をしていた。その関東軍文書を戦後、斎藤六郎氏がソ連の公文書館から発見し、当時大きく報道された」といいます。
 
 斎藤氏(故人)は全国捕虜抑留者協会の初代会長で、この事実を著書『シベリアの挽歌 全抑協会長の手記』(1995年、終戦史料館出版部)で明らかにしました。巻末資料で発掘した関東軍文書、ソ連対日戦文書、労働証明書関連などを掲載しました。
 
 その一つ、「ソ連軍に対する瀬島(龍三)参謀起案陳情書」では、日本の兵士が帰還するまでは「極力貴軍の経営に協力する如(ごと)く御使い願いたいと思います」と書かれています。
 
 「朝枝(繁春大本営)参謀報告書」は今後の処置として「在留邦人および武装解除後の軍人はソ連の庇護(ひご)下に満鮮に土着せしめて生活を営むごとくソ連側に依頼す」「土着するものは日本国籍を離るるも支障なきものとす」と書かれています。
 
 大本営と関東軍の対ソ交渉が「捕虜50万」のシベリア移送への転換点だったのです。
 
 白井氏はさらに背景となった近衛文麿元首相作成のソ連に対する「和平交渉の要綱」(45年7月)をあげます。天皇制の「国体護持」を絶対条件とするかわりに、ソ連に領土の一部を引き渡すこと、「満州」の軍人・軍属を「兵力賠償の一部として労働」の提供をする内容でした。要綱の考え方が対ソ交渉の基本として終戦直後に生きていたことを関東軍文書が示しています。
 
 斎藤氏は著書で「終戦時、軍による居留民置き去り事件や根こそぎ動員、労務提供は過誤といって済まされる問題ではない。明らかに関東軍参謀らによる意図的な行為である。…彼ら(=抑留者)は、彼らをそこに追いやったものが何であったかも知らずに異国の丘に無言の眠りについている」と怒りを込めて糾弾しています。
 
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-08-24/2016082403_01_0.html
 



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14. 2018年10月18日 17:44:21 : Elio0nEowE : h2RZrOIR1F8[-572] 報告
>>12. 新共産主義クラブ[-2574] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月18日 16:28:01 : kcpTJ8oMrE : NRGtxPBoAp8[70] 報告
> 「ソ連経済のための強制労働に服させるために日本人捕虜を抑留する考え(後にシベリアの労働収容所により実行されることになる)は、ソ連だけのものではなく、実際に天皇の側近の人物にその起源があったのである」。

> ソ連指導部による日本軍将兵抑留決定の動機 エレーナ・カタソーノヴァ*
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/488/1/asia-2014t_41-47.pdf

上記の論文は大層有益である。
p.45 から次の文がある。

引用開始
<ファクター 7:日本側の発意>
研究者の中には、関頭軍将兵捕虜のソ連領内移送の要請が関東軍首脳から発し、8月19日に沿
海地方ジャリコーヴォ村で行われた極東ソ連軍首脳との停戦条件交渉の際に提示されたという見
方がある。しかし、目下のところこれを証明する文書は存在しない。
それでも、かかる要請があった可能性を示す重要文書が、ロシア連邦国防省中央公文書館の関東軍捕獲文書フォンドに保存されている。1945 年8 月21 日付の関東軍総司令部の極東ソ連軍
総司令官A. M. ワシレフスキー元帥宛書簡である。書簡に記された日本側申し出の中に、「日本人将兵を極力貴軍の経営のため帰国までの間お使い下さい。・・・国籍を失うも可なり」とあった17。

17 斎藤六郎『シベリアの挽歌』(終戦史料館出版部、1995年)、208-209 頁。
〔訳者註・これはカタソーノヴァさんの思い違いで、8月29日付である。つまり、8月23日国家防衛委員会決定より後の文書ゆえ、同決定に影響を与えたものではない。〕 引用終わり

この文書には「1945 年8 月21 日付の関東軍総司令部の極東ソ連軍総司令官A. M. ワシレフスキー元帥宛書簡」の日付は著者カタソーノヴァさんの思い違いで、8月29日付である。つまり、8月23日国家防衛委員会決定より後の文書ゆえ、同決定に影響を与えたものではない、とある。

すなわち、
「シベリヤ抑留、巷で言われていることは戦後瀬島隆三がどうぞ自由に使って下さいと言って日本兵は抑留されたとのことです。」
「大本営と関東軍の対ソ交渉が「捕虜50万」のシベリア移送への転換点だったのです。」
は根拠のない嘘であることが分かる。

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15. 新共産主義クラブ[-2571] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月18日 17:48:41 : zIKJFfMPX6 : hpYq3XtFQSs[8] 報告
 
 終戦直前、大本営は、本土決戦に敗れた後は、皇室とともに、満州へ逃亡する計画を立てていた。
 
 これは陰謀論の範疇に属する仮説かもしれないが、連合国は皇室の満州逃亡計画を事前に察知しており、天皇の逃げ道を塞ぎ、本土決戦を回避させ、無条件降伏以外の選択肢を日本に与えないように、米国とソ連は示し合わせて、原爆投下と満州侵攻とを同時におこなったのではないかと推察している。
 


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16. 新共産主義クラブ[-2570] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月18日 17:54:45 : e6XXr1MIng : j6lqw80R55M[19] 報告
>>15(参考) 
>終戦直前、大本営は、本土決戦に敗れた後は、皇室とともに、満州へ逃亡する計画を立てていた。
 
 
 「大本営は本土決戦に敗れた場合には、天皇とともに満州に移動して、大陸で徹底抗戦をつづける方針であった。
 
 それがソ連の侵攻にあい、その死命を制せられてしまったのである。」(鏑木清一)
 
 
■ 鏑木清一(著)『日本政治家一00選』(秋田書店,1972年)
 
 《鈴木貫太郎(1867−1948)》 pp.156-157.
 
 アメリカは戦争の終結を早めるため、原爆投下の命令を下した。かくして八月六日午前八時十五分、世界最初の原子爆弾は広島に投下された。
 
 宣戦を布告したソ連の軍隊は、八月九日ソ連国境を全線にわたって突破した。この日さらに二発目の原爆が長崎上空に投下され、日本は遂に無条件降伏をきめなければならなかった。
 
 原爆投下とソ連の参戦は、大本営の本土決戦の構想を一挙にくずしてしまった。
 
 すなわち、大本営は本土決戦に敗れた場合には、天皇とともに満州に移動して、大陸で徹底抗戦をつづける方針であった。それがソ連の侵攻にあい、その死命を制せられてしまったのである。
 
 日本政府は、八月十四日の御前会議で無条件降伏をきめ、中立国スイスを介して、連合国にこのことを通告した。そして八月十五日正午、天皇はポツダム宣言をうけいれて、無条件降伏すると録音放送をなし、全国民を泣かせた。
 
 そして鈴木内閣は、
 
「国民はことごとく敗戦のよってきたることを深く反省し、ザンゲするとともに、戦争終結の大詔の聖旨を奉戴して、道義に徹し、忍辱精進、もって国運を辛辣のうちに打開せざるべからず」
 
 と公布した。これによると戦争責任はなく、敗戦の責任のみが強調され、しかも敗戦の責任は国民の努力の不足にあるのだから、全国民は深く反省してザンゲせよ、という論理であった。
 
 これは天皇制国家機構のよってきたる論理で、天皇の詔勅によって開始され、多くの国民を流血におぼれさせた戦争責任を完全に回避したものであった。
 
 この告諭を発したあと、鈴木内閣は総辞職した。
 
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001196368-00
 


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17. 2018年10月18日 18:03:29 : YGVUEYG27s : NTj5BGMb1es[5] 報告
“万世一系”だそうですが、これからどうなるんでしょうね。
愛子様には影武者が“いる”あるいは少なくとも“いた”という説には根拠がありそうです。
週刊誌かなんかのグラビアに、小さい頃の愛子様と愛子様そっくりの子供が写っているのあがありますね。その写真を見ると、どちらが本物の愛子様か分かりません。
その他小さい頃の逸話としては、スキー場でスキーの練習の写真を撮り終わって帰ろうとしたら、皇太子がスキー場で愛子様と思って写した女の子と同じ服装の子供を抱っこしてホテルから出てきた。等々
最近では、激やせで健康は大丈夫か? と誰でも心配する様子の写真が出回ったにもかかわらず、ダイエットの結果として宮内庁などで心配している様子も見られない。
かと思うと、数か月で元のふくよかな体形に戻られる。
次期皇嗣となられる秋篠宮と現皇太子の顔つきがまるで似ていない。
18. ぢっとみる[289] gsCCwYLGgt2C6Q 2018年10月18日 18:08:38 : LLC16YRhF6 : 2yUQTAqpjc8[289] 報告
>>10.さん

> 日本では終戦が8月15日の認識。
> アメリカ等連合国側は9月2日の認識。

> 日本は8月14日にポツダム宣言を受諾し、15日に昭和天皇のいわゆる玉音放送があった。

はい。
戦争を始める時は、こっちの都合で勝手に始められたから、
終わりも、こっちが止めますと言えば、それで向こうも即座に止めてくれるべきだと思っているのでしょうかね。
天皇陛下の言うことは、当然、世界も聞くべきだとでも。

1945年8月14日は、ポツダム宣言を受諾しますと連合国に返事をした日。
15日は、戦争を止めますと、天皇が国民に発表した日。
9月2日は、日本全権代表が降伏文書に調印したので、正式に日本の敗戦が決定した日。

19. あおしろとらの友[1896] gqCCqIK1guuCxoLngsyXRg 2018年10月18日 18:48:28 : EpRuNJkppI : NnZgl7MyJQA[1] 報告
>>16 新共産主義クラブさん
本の紹介ありがたいですね。自分で調べる労が省けました。この鈴木貫太郎氏の著書によると鈴木内閣は ”敗戦責任” を国民に問うて総辞職したわけですね。それでこの後、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれるわけですね。それで ”敗戦責任” は ”戦争責任(戦争を開始した責任)”へと意味を変えられていったのだとわかりました。
20. あおしろとらの友[1897] gqCCqIK1guuCxoLngsyXRg 2018年10月18日 19:38:23 : EpRuNJkppI : NnZgl7MyJQA[2] 報告
>>19
訂正   鈴木貫太郎(誤) 
     鏑木清一(正)
21. 2018年10月18日 20:08:24 : unmDdSE1Kw : 0Li2ztWJn@g[8] 報告
>>1,2 同意できる。

太平洋戦争で最前線に送られて死んだのは縄文人・弥生人系の日本人だけ
これから中国人移民と競争させられて搾取され食っていけなくなるのも
縄文人・弥生人系の日本人だけなんだな
縄文人・弥生人系の日本人の問題は羊より従順でかつ自分が搾取されて
滅ぼされる劣等民族だという自覚が無い事だな
お上には絶対に逆らわないもんな

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、 として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。 例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。

古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。 それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。 終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。 宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。 当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、 それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。

日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。 日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で 生み出された概念に過ぎません。 現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。

今も昔も漢民族は残酷で人を殺したり拷問するのが大好きなんだ
縄文人と弥生人は武器すら持って居ない平和で優しい人達だったから、漢民族に簡単に征服されたんだ
日中戦争での残虐行為は残酷な漢民族の昭和天皇が命令してやらせたんだ
心優しい日本人は覚醒剤を飲まされて、残虐行為を無理やりやらされたんだ
虐殺を拒んだら殺されるから仕方無かったんだ

天皇は朝鮮に住んでいた漢民族で、日本人を人間だと思っていなかった
日本の支配階級になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった


22. あおしろとらの友[1898] gqCCqIK1guuCxoLngsyXRg 2018年10月18日 21:10:06 : 6DQBPiGsvQ : llSJqgbesmI[1] 報告
>>19 (続き)
日本の中世には ”喧嘩両成敗” という法理論があり、これは騒動を起こした両者にその責任を等分に分担させ、復讐の連鎖を防止しようとしたものである。これは大変にすぐれた人間の知恵だと言える。現代の裁判においても加害者、被害者双方の責任の割合が争われ、その量刑がなされるようになっている。となると、この ”東京裁判” において ”侵略者” に100%の責任ありとしてしまったことが逆に、後に関係国間に禍根を残してしまったと言えるのではないか。
23. 2018年10月18日 21:54:06 : Elio0nEowE : h2RZrOIR1F8[-574] 報告
新共産主義クラブさんに尋ねたい。

>>13 に書いてある
「斎藤氏は著書で「終戦時、軍による居留民置き去り事件や根こそぎ動員、労務提供は過誤といって済まされる問題ではない。明らかに関東軍参謀らによる意図的な行為である。…彼ら(=抑留者)は、彼らをそこに追いやったものが何であったかも知らずに異国の丘に無言の眠りについている」と怒りを込めて糾弾しています。」
は、>>14 に書いたように真っ赤な大嘘である。

斎藤氏が書いているのは、「1945 年8 月21 日付の関東軍総司令部の極東ソ連軍総司令官A. M. ワシレフスキー元帥宛書簡」の日付は著者カタソーノヴァさんの思い違いで、8月29日付である。つまり、8月23日国家防衛委員会決定より後の文書ゆえ、同決定に影響を与えたものではない」
である。

新共産主義クラブさんは斎藤氏が「・・書簡の日付は・・8月23日国家防衛委員会決定より後の文書ゆえ、同決定に影響を与えたものではない」と書いていることを知りながら、「斎藤氏は・・・と怒りを込めて糾弾しています。」と嘘を書いたのですか?

それとも、斎藤氏が「・・書簡の日付は・・8月23日国家防衛委員会決定より後の文書ゆえ、同決定に影響を与えたものではない」と書いていることを読まない(知らない)で書いたのですか?

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

24. 2018年10月19日 22:40:29 : RLRvWaOozg : zdJmYNDwZWs[112] 報告
スレ主が女性だということは知らない人がほとんどで女性蔑視とか被害妄想にすぎない。いまだにコミンテルン陰謀論を信じる無知さには脱帽するが。
25. 2018年10月19日 23:03:25 : RLRvWaOozg : zdJmYNDwZWs[113] 報告
シベリア抑留者のほとんどは帰国後反ソ反共主義者となり左翼勢力には大きなマイナスとなった。
26. 新共産主義クラブ[-2610] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月20日 18:35:06 : NGGf04B0nw : zKwKlHSbApA[1] 報告
>>19 「あおしろとらの友」さん 
 
 >>16 の鏑木清一の著書は、「大本営は本土決戦に敗れた場合には、天皇とともに満州に移動して、大陸で徹底抗戦をつづける方針であった」に関する記述の引用のために紹介した。
 
 鏑木清一が言及している鈴木貫太郎内閣の昭和二十年八月十四日内閣告諭号外を下記に引用する。
 
 「敗戦の責任は国民の努力の不足にあるのだから、全国民は深く反省してザンゲせよ、という論理」の「一億総懺悔論」は、1945年8月14日の鈴木貫太郎内閣の内閣告諭よりも、鈴木貫太郎の次の内閣総理大臣になった東久邇宮稔彦王が、さらに強く主張して拡めた。
 
 
◆ 昭和二十年八月十四日内閣告諭号外
  
本日畏クモ大詔ヲ拜ス帝國ハ大東亞戰爭ニ從フコト實ニ四年ニ近ク而モ遂ニ 聖慮ヲ以テ非常ノ措置ニ依リ其ノ局ヲ結ブノ他途ナキニ至ル臣子トシテ恐懼謂フベキ所ヲ知ラザルナリ
 
顧ルニ開戰以降遠ク骨ヲ異域ニ暴セルノ將兵其ノ數ヲ知ラズ本土ノ被害無辜ノ犧牲亦玆ニ極マル思フテ此ニ至レバ痛憤限リナシ然ルニ戰爭ノ目的ヲ實現スルニ由ナク戰勢亦必ズシモ利アラズ遂ニ科學史上未曾有ノ破壞力ヲ有スル新爆彈ノ用ヒラルルニ至リテ戰爭ノ仕法ヲ一變セシメ次イデ「ソ」聯邦ハ去ル九日帝國ニ宣戰ヲ布告シ帝國ハ正ニ未曾有ノ難關ニ逢著シタリ 聖コノ宏大無邊ナル世界ノ和平ト臣民ノ康寧トヲ冀ハセ給ヒ玆ニ畏クモ大詔ヲ渙發セラル 聖斷旣ニ下ル赤子ノ率由スベキ方途ハ自ラ明カナリ
 
固ヨリ帝國ノ前途ハ之ニ依リ一層ノ困難ヲ加ヘ更ニ國民ノ忍苦ヲ求ムルニ至ルベシ然レドモ帝國ハ此ノ忍苦ノ結實ニ依リテ國家ノ運命ヲ將來ニ開拓セザルベカラズ本大臣ハ玆ニ萬斛ノ淚ヲ呑ミ敢テ此ノ難キヲ同胞ニ求メムト欲ス
 
今ヤ國民ノ齊シク嚮フベキ所ハ國體ノ護持ニアリ而シテ苟モ旣往ニ拘泥シテ同胞相猜シ內爭以テ他ノ乗ズル所トナリ或ハ情ニ激シテ輕擧妄動シ信義ヲ世界ニ失フガ如キコトアルベカラズ又特ニ戰死者戰災者ノ遺族及傷痍軍人ノ援護ニ付テハ國民悉ク力ヲ效スベシ
 
政府ハ國民ト共ニ承詔必謹刻苦奮勵常ニ大御心ニ歸一シ奉リ必ズ國威ヲ恢弘シ父祖ノ遺託ニ應ヘムコトヲ期ス
 
尙此ノ際特ニ一言スベキハ此ノ難局ニ處スベキ官吏ノ任務ナリ畏クモ至尊ハ爾臣民ノ衷情ハ朕善ク之ヲ知ルト宣ハセ給フ官吏ハ宜シク 陛下ノ有司トシテ此ノ御仁慈ノ 聖旨ヲ奉行シ以テ堅確ナル復興精神喚起ノ先達トナラムコトヲ期スベシ
 
   昭和二十年八月十四日
 
         內閣總理大臣 男爵 鈴木貫太郎
 
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%B9%B4%E5%85%AB%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%86%85%E9%96%A3%E5%91%8A%E8%AB%AD
 
 
◆ 東久邇宮内閣 
 
 東久邇宮内閣(ひがしくにのみやないかく)は、皇族、陸軍大将の東久邇宮稔彦王が第43代内閣総理大臣に任命され、1945年(昭和20年)8月17日から1945年(昭和20年)10月9日まで続いた日本の内閣である。
 
 皇族が首相となった史上唯一の内閣である。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E5%86%85%E9%96%A3
 
 
◆ 東久邇宮稔彦王
 
 《 一億総懺悔のラジオ放送 》
 
 東久邇宮は玉音放送が行われて翌々日の1945年(昭和20年)8月17日に開かれた日本人記者団との初の記者会見において、国体護持の方針、敗戦の原因論に触れるとともに、「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた。9月5日に国会で行われた施政方針演説においても次の様に発言した。

 「事ここに至ったのは勿論政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。
 
 この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。(中略)敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります」
 
 このいわゆる「一億総懺悔論」発言は、「国家政策の誤り」を認めるとともに、「国民の道義的責任」についても言及するものだった。その発言は、日本の戦争責任の所在を曖昧にするための理論だとして国民の間で反発を招く一方、問題への関心を高めた。
 
 すでに敗戦直前の時期に内閣情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない」との通達がなされていた。また、敗戦後に各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを回避するため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。9月12日の終戦処理会議においては、戦争犯罪に関してあくまでも日本による自主的な裁判を開廷することが決定された。
 
 一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを用いて「一億総懺悔論」の伸張を抑え[4]、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判(東京裁判)の準備にとりかかっている。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
 
 
◆ 第八十八回帝国議会 衆議院議事速記録 第二号 東久邇宮首相 施政方針演説
(官報号外,昭和二十年九月六日)
 
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/088/0060/0881006000210905.html
 



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27. あおしろとらの友[1906] gqCCqIK1guuCxoLngsyXRg 2018年10月20日 23:25:41 : 1h8fZbWNAM : QxL0A3sUDew[1] 報告
>>26  新共産主義クラブさん
当然、ご自分のある意図でもって資料を用いたのだということは分かっています。が、当方はそれを自身の理解のために用いさせてもらったので、”ありがたい” と言ったわけです。なので、この鏑木清一氏の著書もまたそれ自身が歴史資料ということになります。戦後の学者はどう考えていたのかという資料です。戦後70年をへて我々はさらに戦前、戦後というものを相対化できる視点を持てる、あるいは持たなければならないと思うのですが。
28. 新共産主義クラブ[-2626] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月21日 13:58:19 : kcpTJ8oMrE : NRGtxPBoAp8[71] 報告
>>27 「あおしろとらの友」さん
>この鏑木清一氏の著書もまたそれ自身が歴史資料ということになります。戦後の学者はどう考えていたのかという資料です。
 
 
 鏑木清一は「学者」ではなく、「実業家」兼「情報員」兼「政治評論家」といったところだろう。
 
 鏑木清一(著)『日本の政治家一00選』のカバーには、著者略歴が以下のように記されている。
 
 なお、略歴中に記されている「RAA」とは、「特殊慰安施設協会」である。
 
 
◆ 鏑木清一(かぶらぎ・せいいち)
 
一九0六年生まれ。慶応義塾大学在学中より文芸春秋社「映画時代」キネマ旬報の映画・演劇批評担当。満州演芸協会東京支社長、南洋映画協会(のちに日本ニュース)連絡課長、陸軍報道班員、戦後はRAA情報課長、教育映画社長などを経て現在「政界」会長、千葉興産K.K.社長。政治評論家。著書「非情都市」「女の防波堤」「進駐軍慰安作戦」その他。
 
  
◆ 特殊慰安施設協会 (RAA)
 
 特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい)は、第二次世界大戦後、連合国軍占領下の日本政府によって作られた慰安所である。連合国軍兵士による強姦や性暴力を防ぐために設置された。
 
 日本政府は最大で5万5000人の売春婦を募集し、短期間の間設置した。
 
 英語では Recreation and Amusement Association と言い、RAA の頭字語で知られた。直訳は「余暇・娯楽協会」であり、日本語の名称との間で意味が大きく異なる。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E6%85%B0%E5%AE%89%E6%96%BD%E8%A8%AD%E5%8D%94%E4%BC%9A
 
 
◆ 鏑木清一(著)『秘録進駐軍慰安作戦 : 昭和のお吉たち 』(番町書房,1972年)
【東京12チャンネル1971/09/07放送】
 
 昭和20年8月15日の敗戦の直後、「特殊慰安施設協会」(Recreation and amusement Association 略称RAA)が設立された。
 
 日本に占領軍が進駐してくるという事態は、まさに有史以来のことであり、国内にはあらぬ噂が流れた。働き盛りの男は重労働を強制され、年頃の女はすべて犯されるというものであるが、そんな混乱をバックに、占領軍向き慰安施設の要請が、時の政府から出された。これに呼応して、東京料理飲食業組合をはじめとする東京都七団体の接客業者が、その任に当たることとなった。
 
 協会の運営に当って、政府からは都合3300万円の融資、警視庁からは行政上の特例、東京都からは諸物資の優先的給付を受けるという、実質は国策慰安組織がここに発足した。
 
 8月29日、宮城前で宣誓式が行われたが、その声明書にはこうある。
 
“同志結盟して信念の命ずるところに直往し、『昭和のお吉』幾千かの人柱の上に狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純血を百年の彼方に護持培養すると、共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす。我らは断じて進駐軍に媚びるものに非ず。節をま[*1]げ、心を売るものに非ず。社会の安寧に寄与し以て大にしてこれを言えば、国体護持に挺身せんとすることを重ねて直言し以て声明となす”
 
 鏑木清一さん(明治39年生)は、元RAA情報課長。その実態をつぶさに目撃した証言者である。
 
□ どうしてRAAにお入りになったのですか

【鏑木】 わたしはちょうど終戦までは日本ニュースの海外局の方の連絡部の仕事をしておりました。終戦と同時に解散になりまして、ぶらぶらしておりました。たまたまわたしの遠い親戚みたいな筋に当る山下茂氏の呼びかけがございまして、「お前、今まで渉外事務をやっていたから、今度こういう協会が出来たのでGHQの方の渉外を担当したら」という話で、それでまあ情報課長。その当時では非常に好条件で。
 
□ GHQとの折衝が主なお仕事ですか

【鏑木】 GHQの中にスペシャル・サービス・オフィスというのがございまして、主にこうした進駐軍の慰安施設の方を担当している。それの折衝をやっておりました。
 
□ RAAが出来ましたのはGHQの要請にもよるのですか。
 
【鏑木】 ではないんですね。敗戦と同時にですね、警視庁あたりでも婦女の対処を非常に重要視したわけです。警視総監の発案で防犯部長が業者に呼びかけをしました。わたくしもですね、戦争中報道班員で満州とか南方を見て、それで日本軍が進駐した時にしたことを見聞きしているものですから、ある程度意義ある仕事じゃないかと思いまして。
 
□ ずいぶん早手回しだったのですね。先手を打った形ですか。
 
【鏑木】 そうですね。8月19日にはスタートしたんですから。[*2]

□ 内容としては慰安施設というのですから、キャバレーだとかダンスホールだとか。
 
【鏑木】 最初は膨大な計画でございましたね。ダンスホール、キャバレー以外にも、いわゆるゴルフ場だとか。構想としては膨大なものだったですけどね。

□ しかし、いわゆる慰安所、これがやっぱりいちばん大きな…
 
【鏑木】 まあ、主目的はそこにあったわけです。
 
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001292048-00
http://d.hatena.ne.jp/dempax/20130606
 


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29. あおしろとらの友[1908] gqCCqIK1guuCxoLngsyXRg 2018年10月21日 15:08:19 : q6CCHNLys2 : zoBboa6DkHA[2] 報告
>>28 新共産主義クラブさん
「GHQの中にスペシャル・サービス・オフィスというのがございまして」。思わず吹き出してしまいますね。鏑木清一氏の本ぜひ読んでみたくなりましたね。
30. 新共産主義クラブ[-2791] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月21日 15:41:53 : OcftOMiJMY : cxE5BXCC_sk[6] 報告
>>29 「あおしろとらの友」さん
>GHQの中にスペシャル・サービス・オフィスというのがございまして、
 
 脳や生殖器を含めて、人体の構造は、日本人もアメリカ人も、基本は、あまり変わらないということだろう。
 


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31. 新共産主義クラブ[-2790] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月21日 16:12:42 : FSpTrKvLFI : @QMgjFKfdPM[14] 報告
>>26(補足)
 
 鈴木貫太郎内閣を引き継いだ東久邇宮稔彦内閣は、国体を護持し、昭和天皇への問責を阻止するための「一億総ザンゲ論」の主張をさらに一層強く押し進めた。
 
 鈴木貫太郎は昭和天皇の元・侍従長であり、東久邇稔彦は、昭和天皇の皇后であった香淳皇后の父・久邇宮邦彦王の兄弟であった。
 
 
■ 鏑木清一(著)『日本政治家一00選』(秋田書店,1972年)
 
 《東久邇稔彦(1887─    )》pp.157-159.
 
 天皇の戦争終結放送があって、鈴木貫太郎内閣は総辞職したあと、重臣たちは、時局収拾の切札皇族内閣の計画をたてた。
 
 そして敗戦日本の最初の内閣は、東久邇が担当することとなり、組閣参謀には近衛文麿と緒方竹虎があたった。そして成立した内閣の閣僚は、政治的に有能な人たちだが、新進気鋭の人物とはいえず、平凡な保守的内閣であった。
 
 東久邇首相は、まず天皇の国体護持に全力を傾注した。敗戦による国民の自由が、そして連合軍が、国体護持にいかなる考慮をもつか、一抹の懸念をもっていたからである。
 
 国民の動向は、天皇の放送後、多数の国民が宮城前広場で地に伏したことによって、首相を安心させた。東久邇首相はさらに、放送を通じて第一声を放ち、
 
「聖断ひとたび下らば、われら臣民、おのれをすてて翕然これに帰一し奉ることこそ、わが国体の精華である。挙国一致、陛下の思召しを奉戴して難局の打開にすすむとき、全世界は勝敗をこえて、わが国体の偉大さに驚嘆の眼をみはるであろう」
 
 と国体護持の意義を説いた。
 
 そして国体護持に国民の足なみをそろえさせる、一億総ザンゲ論を強調した。
 
 東久邇首相は「全国民総ザンゲすることが、わが国団結の第一歩であり、再建の第一歩でもある」と、内外記者団に語った。
 
 彼は、天皇の命令で開戦となり、多数の国民が犠牲となったうえ、全国土が灰燼に帰したこと、軍閥、官僚、財界の戦争責任など、すべて不問に付して、ただ国民に総ザンゲをもとめる、天皇制独自の論理を展開した。
 
 この一億総ザンゲ論に対する批判の声は、たちまち国民の間に波紋をえがいた。
 
 作家の菊池寛は、「総ザンゲなんていうことは、戦争責任の連中をかばうためのカモフラージュだ」と吐きすてるようにいえば、鳩山一郎は、「総ザンゲとは、一人もザンゲしないということで、滑稽きわまる話だ」と笑った。
 
 東久邇首相は機会あるごとに、天皇に戦争責任のないことを主張し、天皇に対するGHQの意向をひきだすために、天皇とマッカーサー元帥の会見を計画した。
 
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001196368-00
 



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32. 2018年10月22日 11:51:35 : SKI2GjWrn6 : KoIpEdXzMXE[276] 報告
>31
戦後占領時代の歴史がすっぽりと日本の歴史の中から消えている、ここが重要でありこれを掘り起こして客観的に正しく評価しなければなりません。つまり、闇の時代に戦後の日本の支配体制が確立しそれが今も生きているように思えます。朝鮮同和が活躍しているのも日本が未だに占領されたままであるのも国民にとっては大問題です。いつまでもアメリカの奴婢を続けるわけにはいきません。世界がひとつになるなら別ですがそうでないなら日本は独立しなければなりません。それが憲法でうたう国民の幸福につながる唯一の道です。
33. 新共産主義クラブ[-2849] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2018年10月23日 16:46:42 : 2xFsmDi72Y : VpeSxyctzx8[25] 報告
>>32 さん
 
 天皇崇拝者の『真正右翼』たちは、ただ「朝鮮同和」という言葉を使いたいだけで、「阿修羅掲示板」にコメントを落としているのだろう。
 
 「阿修羅掲示板」が、『真正右翼』たちによって運営されていることは、もう分かっている。
 


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