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DHBR あなたを苦しめる「わたし」の正体 理想の自分に囚われていないか 中島 隆博
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投稿者 うまき 日時 2019 年 4 月 11 日 11:30:49: ufjzQf6660gRM gqSC3IKr
 


DHBR
2019.04.11

あなたを苦しめる「わたし」の正体 理想の自分に囚われていないか

中島 隆博 :東京大学 東洋文化研究所 教授 このエントリーをはてなブックマークに追加 印刷 あなたを苦しめる「わたし」の正体
企業名ではなく個人の名前で勝負する時代。SNSで自分を積極的に発信する時代。その表現はさまざまだが、現代社会では自分らしさに価値を見出し、それを武器に戦うことが要求される。しかし、「自分とは何か」という問いをいくら突き詰めても「わたし」は見つからず、その先には苦しみしか訪れない。東京大学東洋文化研究所の中島隆博教授は、そう警鐘を鳴らす。近代哲学の賢者たちは、この難題とどう向かい合ってきたのか。その歴史を読み解く過程で、マインドフルネスやセルフ・コンパッションという禅の思想が注目を浴びる背景が明かされる。
『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2019年5月号より、1週間の期間限定で抜粋版をお届けする。

現代人の心の負担は増している

中島隆博(なかじま・たかひろ)
東京大学 東洋文化研究所 教授
1964年生まれ。2000年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論助教授、2014年より東京大学東洋文化研究所教授。専門は中国哲学、比較哲学。主な著書に『ヒューマニティーズ 哲学』(岩波書店、2009年)、『共生のプラクシス』(東京大学出版会、2011年、和辻哲郎文化賞受賞)、『思想としての言語』(岩波書店、2017年)など。
編集部(以下色文字):近年、「自分とは何か」を問われる機会が増えています。「自分探し」が流行した時期もありましたが、そこにはどんな背景があると考えられますか。

中島(以下略):今日において「自分」が問題になる背景には、内面に向かう宗教としてのプロテスタンティズムが近代の強力な原理となり、世界を覆い尽くしていった影響が大きいと考えています。近代的な内面を有した「個人」がまずあって、その人々が集まって社会を構成するという想像力ができ上がり、世界の多くの場所で、人間や社会に関する認識が再編されていきました。

 前近代にも自己への問いがなかったわけではありません。「汝自身を知れ」とは、ソクラテスの言葉としてよく知られています。中国においては、仏教を経た後になりますが、朱子学が「誠」という概念を手がかりに、嘘偽りのない透明な自分であることを目指しました。この方向は、陽明学になるとさらに強固になります。

 このように、人類は昔から「自分とは何か」という問いに苦しめられてきたわけです。ところが、この問いは、プロテスタンティズムが重要な原理となった近代になって、よりやっかいになりました。自分の探求が、極めて特殊な神学的な構造の中でなされているからです。それは、個人はその内面において、本当の自分として自分を超えたもの、すなわち神に向かい合うという構造です。

 しかし、この問題は一人ひとりが引き受けて決断して解決するようなものではなく、実は近代の社会的想像力によってつくられた問題だったのです。自分だけではなく社会的な問題でもあると理解できればよいのですが、そこに思いが至らないと、けっして解決できない「自分とは何か」という問いへの回答を迫られて、苦しみ抜くことになります。

 朱子学や陽明学が中心だった前近代の中国では、社会と切り離された個人に対して「自分とは何か」が問われていたのでしょうか。

 結論をまず述べると、そうはなりませんでした。朱子学や陽明学にも「自分とは何か」という問いはあると言いましたが、さらに申し上げますと、このような朱子学や陽明学の考え方は、西洋近代哲学が形成されるプロセスに大きな影響を与えています。

 宣教師が中国を訪れた際、大きな衝撃を受けます。どうも神なしでも社会には規範があり、道徳的な秩序が保たれていること、そして聖書よりも古い歴史があるということ、これらが当時の欧州社会を大きく揺るがしました。その後、欧州で啓蒙思想が興りましたが、「中国の衝撃」なしには、いまのような形にはならなかったと思います。

 とはいえ、朱子学や陽明学は、他から切り離されて独立した個人に向かっていったわけではありません。個人と社会は切り離すことができないものであり、自分の問題がそのまま他人や社会の問題へとつながっていたのです。そのつながりが、哲学的に見ると、いろいろ問題含みだとしても、です。

 一方、西洋近代には神という超越の次元が消えることがありませんでしたから、神が担保することで、個人を単独に切り出すことができたわけです。その後、フリードリヒ・ニーチェが「神は死んだ」と述べたように、神が担保しなくなると、根無し草になった個人が彷徨するようになります。自分一人で何もかもを背負い込むことになったのです。

 ここで社会の側にも目を向けましょう。人間の共同体は歴史的に、人間の登場とともにあります。家族にしても、地域共同体にしても、あるいは国家にしてもです。ところが、近代的なソサエティやアソシエーションである「社会」や「結社」は、それらとは区別されます。どちらの語源にもソキエタス、すなわち「社交的」という意味がありますが、近代の社会には、個人がある公共空間に集まり、そこで社交的に議論をするというイメージがあるのです。

 それ以前の社会にも公共空間がなかったわけではありませんが、公共的なものと私的なものがない混ぜになっていました。近代の社会そして個人は、公共的なものと私的なものを截然と区別することで成り立っています。

 西洋近代哲学は、「自分とは何か」という問いと、どう向き合ってきたのでしょうか。

 西洋近代哲学にとって、この問いは極めて重要なものでした。

 ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」はよく知られていますよね。彼は、「わたし」「思考」「存在」という3つの鍵概念を何としてもつなげようとしました。ただ、デカルトはこの努力を神の存在証明のために行っていたのです。すなわち、まだ神が機能していたのですね。

 その後、西洋近代は、「神は死んだ」に象徴される世俗化の過程に入りました。要するに国家と宗教を分離するわけですが、宗教がまったくなくなったわけではありません。死んだはずの神は、まさに「わたし」の内面に隠れていったわけです。

 そうすると、哲学にとって「わたし」なるものが非常に重要な対象になります。いったいその「わたし」とは誰なのか。デカルトのようにあからさまに神につなげはしないにしても、何とかして「わたし」を定義したい。そうして「思考」と「存在」に関連した諸概念が導入されていきます。「意識」や「心」、さらには「身体」や「物」といったものです。

 その中で、20世紀の西洋哲学が問題にした最大の概念は「他者」でした。「わたし」を考える時に「他者」という通路を考えておかなければならない、というわけです。

 私が学生だった頃、この問題は現象学が主に引き受けていました。エドムント・フッサールの他我論がその代表的な例です。フッサールは「意識」を導きの糸にして、「わたし」と「他我」の関係を整理しようとしましたが、なかなかに難渋しました。

 この苦境を乗り越えようとしたのが、20世紀後半における、いわゆるユダヤ的転回をしたフランス現代思想です。私はその中でもとりわけ、エマニュエル・レヴィナスやジャック・デリダに影響を受けました。興味深いことに、彼らは再び神を導入します。正しくは、まさに他者こそが神なのです。自分を超越する存在なしに、「わたし」の問題は解けないことに再度戻ってきたかのようです。

 とはいえ、それは単なる回帰ではありませんでした。「神とは何か」までは具体的に明示されていませんが、彼らの言う神とは、制度化された宗教に見られる神というよりは、それから逃れてしまうような宗教性だと思われます。あるいは、精神性やスピリチュアリティと言ったほうがよいかもしれません。スピリチュアリティとは、19世紀の終わりにインドで発明された近代的な概念で、制度化された宗教の外側にはみ出し、他者との豊かな交流が可能になるような宗教性のことです。

 宗教と宗教性は異なるものですか。

 私はそう考えています。たとえ特定の宗教を信仰していなくても、宗教性への感受性を持っている人はたくさんいます。寺社仏閣に何らかの神秘性を感じて、それを大切にしなければならないという感覚は、宗教性に対する感受性から来るのではないでしょうか。仏教を信じない、キリスト教を信じないという人でも、ある種の宗教性への感受性を持っている場合はあると思います。

『論語』の中に、孔子が祖先祭祀について説く場面があります。祖先祭祀において、祖先の神霊があるかどうかを考えることが大事なのではなく、まるでそれがあるかのように祀ることが大事なのだと言うのです。

 この「かのように」こそが宗教性の次元だと思います。神が存在するかどうかを問うて、神の存在を神学的・哲学的に証明することは極めて困難です。孔子はこのアプローチを退けます。その代わりに、より実践的なアプローチとして、神があたかもいるかのように想像して、みずから振る舞うことはできるというのです。宗教性は神学の問題というよりは、実践的な礼の問題なのです。

 たとえば、「あなたは神を信じますか」という問いがあります。これは見事に近代の変化を表現する問いです。

 近代以前であれば、この問いはそれほどうまく機能しません。「わたし」が神を信じることが重要なのではなく、わたしが属している共同体が神とともにあることが重要だったからです。「わたし」個人が神と直接に向かい合うのではなく、代わりに教会という共同体において神とつながっていれば十分であり、個人はそこに参与させてもらっているにすぎません。「このわたし」が神を信じるかどうかという問いは、やや突飛な、もしくは傲慢な問いだったのではないでしょうか。

 ところが、プロテスタンティズムが登場すると、状況は大きく変わります。それは内面に向かう宗教ですから、「わたし」が心の中で神と直接に向かい合わなければなりません。「このわたし」が神を信じるかどうかが、まさに重要な問題になったのです。

 これは実に困難な問題ですね。はたして「このわたし」は正しく神を信じられているのでしょうか。それを保証するものは外にはなく、内にしかありません。そうであれば、この問題は、一人ひとりの心にかなり大きな負担としてのしかかってくることになります。

「わたし」の存在に苦しむ必要はない
 プロテスタンティズムが原理になることで、なぜ心の負担が大きくなるのでしょうか。

 冒頭でも触れましたが、自分の内面を持つことは嘘偽りのない透明で清廉潔白な自分を目指すことにつながり、それ自体が負担となります。多くの人は真面目すぎるがゆえに、真面目さというある種のイデオロギーに落ち込んでしまうのです。

 シンシアリティ(sincerity)という言葉があります。誠実さや真摯さを意味しますが、近代的な自己にとって、これはとても重要な価値です。嘘偽りのない透明で清廉潔白な内面性こそが理想的な自己なわけですから。一点の曇りもなく正直であり、真面目であれ、というわけです。

 しかし、本当にその必要があるのでしょうか。「嘘も方便」と言うように、状況によっては嘘をつかなければならない場面を、私たちはしばしば経験します。

 イマヌエル・カントが興味深い話を提示しています。友人が「殺人者に追われている。かくまってくれ」と言ってきた。その後に殺人者が来て「お前はその人をかくまっていないか」と言われたら、どうするかという問いです。嘘をついてはいけないという原則に従って、正直に答えると、結果的に友人は殺されてしまうかもしれません。ところが、カントはそれでも嘘をつくべきではないと言うのです。

 一方、『論語』にはこんな話があります。ある人が「うちの村には正直者がいる。父親が羊を盗むと、子どもがそれを訴え出た」と言ったのに対して、孔子が、「うちの村は違う。子は父のために隠し、父は子のために隠す」と言ったというものです。この議論は、近代中国においては厳しく批判されて退けられてきたものです。中国の後進性の象徴であるといわれました。

 ただ、カントと孔子のどちらに頷けるのか。私であれば、おそらく嘘をつくと思います。さすがに友人をみすみす殺されたくはありません。また、父の行為にも何か複雑な事情があるはずですので、まずはそれを考えたいと思います。

 人間が生きるうえで、シンシアリティ至上主義だけだと、なかなかにつらい場面があります。特に真面目な人であるほど、誠実でない自分を認められない場合、自分を徹底的に罰して苦しさが増してしまうと思います。

 内面につくり上げた理想の自分を追い求めても、完全には一致しない。

 絶対に不可能です。それをやろうとすると、自分が自分の審問者のようになってしまいます。そして、その審問者は、もし理想の自分に少しでも欠けることがあれば、けっして自分を許さないことでしょう。自分自身が自分を最も許すことができないという構造が生まれます。

 近年広く共有されてきたマインドフルネスやセルフ・コンパッションという概念は、シンシアリティ至上主義に対する中和剤だと理解できるかもしれません。要するに、自分をそこまで厳しく審問する必要はないのではないかという提案です。

 そして、その背景には、西洋近代哲学が問うてきた「わたし」という問いへの違和感があると思います。そもそも、真面目に「自分とは何か」などと問うことがおかしいのではないのか。どうしても問うのであれば、「そんなものはわかりません」と答えておけばよいのではないか。そんな提案ではないでしょうか。

 私がこのように述べるのも、実は自分自身がそうした問いに縛られて苦しんだ経験があるからです。問いに支配され、その渦中にいると距離が取れないものですから、本当に途方に暮れるものです。その時に少し引いたところから、誰かが問いを相対化してあげると、少しは息ができるようになります。

 中島先生ご自身も、「このわたし」を探して苦しまれたのですね。

 思春期にはよくあることだといわれるのですが、中学生の時、いわゆるアイデンティティ・クライシスに陥りました。より正確に申し上げますと、自分の苦しみの正体は「わたしとは何であるのか」というアイデンティティの問題だと思い込んで、苦しみのループに入ってしまったのですね。

 自分が抱えている不安や迷いに対して、学校の授業や教科書はただちに答えを与えてくれるわけではありません。困り果てて本を貪り読みましたが、その中に心理学の本もあり、そこには思春期はそうした悩みを持ちがちだと、さも当然のように書いてありました。しかし、私がほしかったのは、そのような一般化された答えではありません。「このわたし」という特異性の問題へのアプローチの仕方だったと、いまなら言えるかもしれませんが、私が当時読んだ限りでは、心理学の知見はそこまで届いていなかったのです。

「このわたし」の問題への対処に手がかりを与えてくれたのが、哲学、文学そして宗教でした。哲学や文学や宗教の書物を読み漁る中で、だんだんと、自分が抱えている不安は、一方で「わたし」の特異性に関わっているのだけれども、他方で個人の問題ではなさそうだということがわかってきました。ただ、それから先をどう考えたらよいのかはわかりませんでした。

 そんな姿を見かねた数学の先生が、ブレーズ・パスカルの『パンセ』を勧めてくれました。読んでみると、たしかに心に響くのですね。しかし、その魅力ある断章をしっかり理解しようとするとあまりに難解で、構造が把握できません。大事なことが書いてあることまでは理解できたのですが、それ以上の理解はいまの自分の力では難しいというもどかしい気持ちになりました。

 同時に、いつか自分で『パンセ』を理解できるようになったら、少しは楽になるのではないか、とも考えました。そのためには学問を深めるしかない。こう思い定めて、とうとう哲学の道に入ってしまいます。

 ところが、「このわたし」に対する不安は、大学どころか大学院を経ていっても、容易には解消されませんでした。

 みずからの特異性への不安が解消されたのには、どのようなきっかけがありましたか。

 本を読むだけでなく、自分で書くようになったことが大きかったと思います。論文は自分以外の人に読んでもらうものですから、自分の考えを整理する必要があります。そのプロセスを通して、自分を突き放せるようになったのはとてもよい経験でした。

「突き放す」とは、自分のことを自分ではない人間が見ているようなイメージでしょうか。

 自分を見ている別の自分がいるという感覚は10代にもよくありましたし、それを経験している人は少なくないと思います。ただ、ここで言う「突き放す」は、それとは少し違います。突き放すとは、自分への関心をみずから断ち切るということです。

 私はそれまで「このわたし」にひどく関心があったものですから、他者もまた「このわたし」に関心があるに違いないとどこかで思い込んでいた。しかし、実はまったく関心など持たれていないことに気づいたのです。それとともに、私の「このわたし」への関心も急速に冷めていきます。そうこうするうちに、20代後半の書くという行為を通して、自分を「このわたし」から切断することが意識的にできるようにもなりました。それが自分を突き放したという感覚ですね。

 私が長く誤解していたのは、「このわたし」の問題はアイデンティティの問題だということです。ところが、そうではありませんでした。実際には、それは孤独とつながりの問題だったのです。一方では、「このわたし」は、「この世界」と同じように、他人にはわからないものです。でも他方では、それは誰もが抱えている共通の問題でもありました。それを理解できた瞬間に、苦しみからずいぶんと解放されました。自分が抱えている問題は自分だけのものではなく、多くの先人が、形は違えども必死に問い続けてきたこととつながっているとわかり、深い慰めになりました。

 昨今、SNSなどを活用したつながりが説かれますが、あのやり方でつながることは難しいのではないでしょうか。なぜなら、自分のことを突き放しておらず、自分への関心がかき立てられ、あふれ返るからです。そこで生まれるつながりが自分への関心の拡大や延長にすぎないのであれば、むしろ孤独感は深まるばかりだと思います。

 シンシアリティ至上主義への中和剤であるマインドフルネスやセルフ・コンパッションは、禅を発祥とする考え方です。西洋社会が東洋的価値観に再び目を向け始めているのは、なぜだとお考えですか。

 その原因を一つに特定することはできませんが、大きな文脈としては、20世紀に全体主義を経験したことが大きいと思います。西洋的な近代化を懸命に推進した結果、2度にわたる世界大戦が起こり、「絶対悪」ともいわれるような全体主義を生み出してしまいました。私たちがこれまでやってきたことには、根本的な考え違いがあったのではないか。西洋近代とは異なる考えに目を向けるべきではないか。こうした思考の変化が20世紀後半には顕著になりました。

 たとえば、米国で仏教学者の鈴木大拙の著作が熱狂的に読まれるようになったのは、1960年代から70年代でした。まるでバイブルのように読まれたそうです。この時代の雰囲気が、マインドフルネスを実践する人々にまで流れ込んでいます。

 西洋近代のオルタナティブを考える際、そこには多くの選択肢があります。一口に東洋と言っても、それにはかなり広い幅があり、大拙のような禅、あるいはより広い意味で仏教も候補の一つですし、古代中国哲学もその一つになるでしょう。欧州の古い思想、たとえばケルトやローマ、ギリシャに求めることもあります。ユダヤ教やヒンズー教、イスラムも忘れることはできません。

 ただし、古い思想をそのまま持ってくるだけでは、ほとんど使い物になりません。必要なのは、それらを編み直し、鍛え直し、私たちがそれを生きられるものにすることです。おそらくマインドフルネスやセルフ・コンパッションは、そうしたプロセスを経たものものなのでしょう。

 もう一つ注意を向けておきたいのは、世界がいま宗教復興の時代に入ってきているということです。これは21世紀初頭の大きなトレンドです。宗教化の反対は先ほど述べた世俗化ですが、近代の原理としての世俗化が再び問い直されているのです。西洋近代の頼みの綱であった「個人」や「人間」といった概念が、そのままでは世界を支え切れなくなってきているといえるでしょう。

 宗教復興というのはやや誤解を招きかねない表現ですので、宗教性への再注目と言ったほうがよいかもしれません。マインドフルネスやセルフ・コンパッションの登場には、こうした背景もあるような気がしています。

 古い思想を現代風にアレンジする過程で、重要なことまで削ぎ落としている可能性はありませんか。

 それはたしかにあると思います。時代に合わせすぎると、自分たちの現状を維持するのに都合のよい、消化しやすい概念ばかりになってしまいます。そうならないように、自分たちが削ぎ落としたものに敏感になること、いま提示されている価値観には何らかの構造があり、歴史的につくられていると見抜くことが必要です。こうした批判的な思考の可能性をたえず残しておかないと、真面目な人ほど提示されたものを鵜呑みにしてしまい、かえって苦しくなっていきます。

 マインドフルネスにせよセルフ・コンパッションにせよ、あくまでツールだという認識を持つことが大事です。どんなツールも万能ではないと理解してほしいと思います。

個人が「このわたし」に囚われないようにするだけでなく、社会がそれを要求する構造に変化は訪れないのだろうか。その根底には、現代資本主義のシステムに起因する問題があるという。資本主義はこれから、どこに向かうのか。インタビュー全文は『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2019年5月号に掲載されています。

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◇リーダーは自分の役割を問い続ける(宮本恒靖)
◇あなたを苦しめる「わたし」の正体(中島隆博)


https://diamond.jp/articles/-/199499
 

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