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(南京事件) 日本軍が南京入城から約2週間後の様子
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/840.html
投稿者 パイプライン 日時 2019 年 9 月 26 日 21:59:44: mqQUVKm/jkdw2 g3CDQ4N2g4mDQ4OT
 

>これが、南京入城から約2週間後の様子。
南京大虐殺が事実なら、この左の若い女性もレイプされているだろうし、その家族は虐殺されているはず。
そんな彼女の、すぐそばを日本兵が通るシーン。
彼女は、日本兵を気にしてもいない。


(opatyunichi)
2019/09/24



 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-11141] koaQ7Jey 2019年9月27日 07:42:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1666] 報告
それは有名なヤラセ映画


日本側のパフォーマンス撮影については、1月9日のマッカラムの日記にも指摘がある。

 難民キャンプの入口に新聞記者が数人やってきて、ケーキ、りんごを配り、
わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、
かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して一〇名ほどの婦人を強姦したが、
こちらの写真は一枚も撮らなかった。
(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p266)

また、この映画を元に虐殺はなかったとする者もいるが、この映画の撮影者は何を見たのか。

【白井茂 証言】
虐殺の現場は二度見た。一度はサクがあったように思う。
はるか離れているところで、銃殺していた。数は憶えていない。揚子江でない川のところで、
機関銃で撃っているところも見た。
私なら抵抗すると思ったが、彼等は従順に死を待っていたようだ。
川にとび込んで、向うに泳ぎついた者もいた。二百人ぐらいいたと思う。場所は憶えていない。

【藤井慎一 証言】
小さな川の傍の門の中で捕虜らしき者を撃っているのを見た。白井氏と一緒だった。いくつかの死体に石油をまき、火をつけた。
中に生きている兵隊がいて“早く射て”と胸を指さし、“蒋介石万歳”といったので、大変驚いたのを憶えている。
それ以外にも、銀行の裏で百人以上が殺されているのを見た。胸のあたりを銃剣で突いていたように思う。虐殺の噂はきいたように思うが、見たのはこの時だけである。
http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/d/%B5%AD%CF%BF%B1%C7%B2%E8%A1%D8%C6%EE%B5%FE%A1%D9%A4%CF%A5%D7%A5%ED%A5%D1%A5%AC%A5%F3%A5%C0%BA%EE%C9%CA

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

2. 2019年9月27日 07:58:43 : tTWtnCR5h6 : NHAxS1g3UVRWT0E=[2] 報告
ふむ、真偽不明な映像ではありますがね。
3. 中川隆[-11133] koaQ7Jey 2019年9月27日 10:57:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1677] 報告
南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった


日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。 そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。
この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、
酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。 しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには
無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。
彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。
麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。
今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。 それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、
フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。 なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は
一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。
読者がお気づきのように、これは真実ではない。

天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


▲△▽▼


南京強奪の不気味な作戦は、1937年8月15日に開始されるべく、すでに着手されていた。

その日、松井岩根大将――戦犯を祀る熱海の神社の女神官と親族であり、「南京の虐殺者」と歴史上に名を残すこととなる男――は、天皇裕仁に召喚され、宮中へと向かっていた.

その前日、松井には近衛師団長より通知があり、裕仁が中国での命令を彼に与えようとしていることを知た。それは、彼にとって大きな名誉で(10)、その召喚に直ちに応じた。

松井は、中国との友好の主唱者であったので、彼にとってこの召喚はことのほかの喜びであった。ほんの二ヶ月前には、中国との全面戦争を避けるための工作を計画していた(11)。彼はそれを知らなかったのだが、特高警察の報告により、その件は天皇のもとにも届いていた.

突然に天皇が姿を現した。松井は、めまいを感じながら、深く頭をさげ、光栄であることを表し、さらに、日本の計画をめぐって、中国人に用いられなければならない平和的方法についての自身の信念について説明を始めた。

裕仁は理解したかのようにうなずき、上質紙の公式書類を広げた。松井を一瞥し、天皇は、その甲高い声でそれを読み始めた。近衛師団長よりそっとつついて促され、松井はそこにひざまづいた。裕仁は彼に、華中日本軍司令官を命じ、彼の新たな命令を象徴する司令杖をさずけた。

二日後の中国への出発の前夜、東亜連盟の役員たちによって壮行会が開かれた席で、松井大将はこうあいさつしていた。「私は前線へ敵と戦いに行くのではありません。わが兄弟と和する志をたずさえて行くのです」。

9月の初め、裕仁は、宮中内部に人的配置計画を彼独自で監視できる大本営(17)の設立を要求した。その役務が天皇の出席――神の存在――においてなされるという、この組織の人員構成と原則は、当然にその正体を物語っており、この大本営の存在は、11月半ばまで、明らかにはされなかった。裕仁は、一部、上海の情勢の行き詰まりを、一部、9月初めに参謀本部への彼の指示が、作戦部の部長、石原莞爾少将の書類入れのなかで眠らされていたことを理由として、その設置を主張した。

鈴木は、裕仁が最もよく知り、最も信頼をおいた2、3人の若い軍人の一人であった(25)。鈴木は、南京の強奪を、京都にある第16師団本部の机上より、無線によって管理監督した。

彼はおそらく、その机上作業を、飛行機による前線との間のすばやい往復で補強していただろうが、彼の視察の回数と頻度についての〔東京法廷での〕証言(26)は、混同かつ矛盾していた。彼は、30年前、東京の参謀大学時代以来、蒋介石を知っており、過去何回か、裕仁の私的密使として(27)、蒋介石のもとへ出向いていた。加えて、彼は陸軍の経済面の指導的な専門家でもあった。

つまり彼は、二重の役割を果たす能力を備えていた。ひとつは、南京強奪が進行中、蒋介石と近衛首相との間の秘密の無線交渉における仲介者の役を演じており、他は、侵攻のコストのみかえりとして、南京での組織的略奪を行うその第16師団を指揮していた。


上陸後の三日間で、第6師団は、上海郊外へ向かう64キロの行程うちの40キロを、焼き払いそして爆破して進んた。そして三日目には、松江〔スンチャン〕の町を占領した。9週間後、ある英国の特派員は、松江に何が残されているかをようやくにして目撃することができた。そしてこう書いている。「建物は焼き尽くされ、残っている建物はほとんどない。くすぶる廃墟やひとけのない通りは、薄気味の悪い雰囲気を漂わせている。目に入る生き物といえば犬のみだが、死体を食って異様に太っている。およそ十万人が住む人口密度の高い松江だが、私が見たのはたった5人の中国人で、フランスの教会施設に涙ながらに隠れていた。」

華北から派遣されてきた「黒い」艦隊の16師団は、夜陰に乗じて揚子江河口をさかのぼり、パイモウ入江という、トーチカ線のちょうど背後の、中国軍の北の弱点に上陸した。海路を使った日本軍の挟み撃ち攻撃の「黒」側は、その勢力では敵と互角であった。かくて、南京の処刑係が到着することとなった。

この新師団は、京都の例の鈴木によって指揮されており、前線では、中島今朝吾〔けさご〕中将――55歳、小さなヒムラーといった男で、思想取締り、脅迫、拷問の専門家――がその指揮者だった(39)。この中島が、南京虐殺をめぐるその細部の監督に当たろうとしていた。

戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した

中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。

その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。

だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。

 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。

だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。

 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。

参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。

 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。

 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。
 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。

 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。

 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm

残忍な部隊が南京に接近している時、松井大将は、揚子江デルタの蘇州〔サンチョウ〕の前線本部で、結核の熱のため、寝たきりでいた。

またその5日前の12月2日、天皇裕仁は、松井の責務から、前線部隊の人的監督を除いて安心させ、華中方面の総司令官へと格上げした。そして南京地区軍の司令官としての松井の地位に代わって、裕仁は、自分のおじ、朝香宮〔あさかのみや 鳩彦〕を任命した。


朝香宮の前線への任命は、他のいかなる権威をも超越する天皇の意向によるもので、病床にある松井大将の指揮権はまさに蹂躙されようとしていた。彼は部隊を引き上げ、南京の城壁の外3、4キロの場で、三集団に再編成するよう命令した。

それは、城市内に進駐するのは、統制のとれた数大隊に限り、占領が「中国人の目にも輝かしく、日本のもとでも安心できると思わせる」ように、実行されるためであった(55)。

そして彼は、彼の管轄下の将校を蘇州の病室に呼び、通常の指揮としては極めて異例な以下の命令書を手渡した。

 帝国陸軍の外国首都への進入は、世界の耳目を集める、わが国の歴史における偉大な出来事である。しかるに、秩序を乱す部隊は、市内に進ませない。城市内に入る部隊は、この目的に沿って、所轄の師団司令官によって特別に選別されたものとさるべきである。そうした部隊には、留意すべき事項と、城市の人々の権利と利益の地位保全が前もって通知される。それらは、略奪者とはまったく縁のないものにさせなければならない。必要に応じ、見張り兵が配置される。進入部隊とともに、多くの憲兵、補助憲兵を城市内に入れ、これをもって不法行為を予防する


朝香宮は、彼の判を押し、「極秘、破棄せよ」と付記した一連の命令を発した(60)。それは単に、「すべての捕虜を殺せ」とあった。中国軍兵士は、姿勢の変化を察知し、南京の城壁内へと逃げこみ始めたが、少なくとも、四分の三の兵士が、もう一日、生きて戦った。残りの七万五千人は、南京城市内部に閉じ込められ、実質上、この首都強奪を目撃した欧米の観察者による犠牲者の統計に加わった。
 朝香宮の諜報参謀の中佐(#)は、その「殺せ」という命令を自ら率先して偽造した〔訳注〕、と友人に告げている。もしそうだとすれば、彼が軍法裁判にかけられなかったことが注目されるが、1945年6月、沖縄の洞窟壕で中将として死ぬ〔自決〕まで、軍人としての経歴をまっとうした。

 (#) 長勇(ちょう いさむ)。さかのぼる1931年、宮中の支援のもと、二件の擬似クーデタ〔1932年の三月(血盟団)事件と5.15事件〕の組織を助けた。これにより、情勢は混沌と化し、満州征服に伴う国内政治の危機の〔軍部主導による〕沈静化をもたらした。

 〔訳注〕 この命令の作成にあたり、松井総司令官はそれを制止しようとしたが、長中佐がそれを無視したらしい。

天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。

南京を占領する、武藤、中島、朝香宮によって解放された8万余りの兵士は、勝手にできる場では、強姦、殺人、略奪、放火を重ねた。上官の指揮のもとにある場合でも、酔っ払ったり規律を無視して見境なく行動したが、それも組織的であった。こうして南京の虐殺は、中島が南京に入った12月14日より始まり、6週間それは続いた。そして、世界中からの抗議にも拘わらず、近衛宮が裕仁に、もはや蒋介石を失権させる以外に希望はないと認めるまで、それは止まなかった。

日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。

南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。

 そうした犯罪においてことに南京が銘記されることとなったのは、12月15日の同じ日、それが組織的遊戯と化したことだった。言葉達者な将校に率いられたトラックが、安全地区の難民避難所を回り、「尋問」との理由で、若い女性を満載して運び去った時、集団強姦が始まった。いくつかの場面では、兵士たちが、女性がトラックに載せられる前から公衆の面前で強姦におよぶにいたって、それが口実と早くも露呈してしまっていた。

教育があったり、あるいは美貌の女性は、通常、それぞれの獲得物から選りだされ、大佐や大将のハーレムにおいて、質の異なる者らのために仕えさせられた。だが、そうと違って運に恵まれぬ女たちは、兵士たちが宿泊する公共施設や公会堂などに運ばれた。多くは、一晩に十人とか二十人とかの男に強姦され、翌朝に解放されたが、後日、幾度も他のトラックにより呼び戻された。多くは暴力を振るわれ、そのあげくに殺された。

未熟な少女は、そうした虐待に我を失い、まもなく命を絶っていった。気丈夫な人妻たちはしばしば、小隊あるいは隊全体の奴隷として使われ、昼間は洗濯をさせられ、夜は売春婦としての役目を負わされた。多くの若い女性は、ただベッドに縛りつけられ、あたかも永久の付属物かのように、やってくる者だれもの利用に供された。そして、彼女らが、欲望を果たすには余りに泣きくれたり病気であったりすると、すぐさま処分された。路地や公園には、その死後、切り刻まれたり詰め物をされるなどの屈辱を受けた、いくつもの女性の死体が放置されていた。


凱旋入城

 12月17日金曜日の朝、南京の大虐殺は、小男、松井大将の凱旋入城の式典のために、その度がゆるんでいた。慢性結核のぶり返しのため熱を出していた松井は、海軍のランチで川を遡上し、車に乗り換え、市の東側にある三重のアーチを持つ、損傷した中山門付近へ到着した。

パレードに参加していた兵士の奇声や外見、そしてホテルでの宴会で耳にした言葉などから、松井は、南京で何が起こっているかについて、深い疑念を抱いていた。選ばれた数大隊のみが市内に駐留せよとの彼のことさらの指示は、まぎれもなく無視されていた。彼は晩餐を早めに切り上げて、参謀会議を招集した。参加していた将校によると、彼は中島と武藤をしかりつけ、すべての不必要な部隊を市から出すように命令した。宿営担当の武藤は、農村地区に新たな宿泊地を設けることを言明した(116)。

 翌朝、メトロポリタンホテルで目を覚ました時、松井は憂鬱な気分にとらわれていた。彼の民間人補助役のひとりからその理由を聞かれた松井はこう答えた。「我々が知らないうちに、この都市で、もっとも許しがたいことを成してしまったことを、私はここで覚らされた。南京から避難した多くの中国の友人の気持ちや心情、そして両国の将来をを考える時、私は落胆を禁じえない。私は非常に孤独で、この勝利を祝賀する気持ちになぞ毛頭なれない。」(117)

 その朝の記者会見の場においても、彼は義務的に東京の立場を口にしたが、大言壮語の中に、悲嘆の表現を忍び込ませていた。「将来の我が軍の作戦は、蒋介石と国民政府のとる姿勢に全面的にかかっている。私は個人として、人々がこうむった悲劇を申し訳なく思う。我が軍は、中国を悔やませるようなことを続けてはならない。今は冬だが、この季節は熟考の時間を与えている。私は私の弔意と深い同情を、百万の罪なき人々にささげる。」

彼が市を去るやいなや、残虐行為は再び開始された。

上海にあって松井は、南京で毎日繰り返されているさらなる残虐行為について耳にしていた。彼は、それを止めさせる力のないまま、朝霞宮の評判について「いたく憂慮」していた。朝香宮が市内に移ったクリスマスの日、松井は、ニューヨークタイムスの特派員、ハレット・アベンドによるインタビューの中で彼の懸念を表し、同記者には、松井が「感じよく」また「痛ましい」人との印象を与えた(132)。ニューヨークタイムス紙の記事を通し、天皇裕仁へのその間接的懇願にかすかな希望を託して何らかの良き結果期待し、そして松井は、その翌日、朝香宮の参謀に以下のような文書を送った。

 「不法な行為が行われているとのうわさがある。・・・ことに、朝香宮が我々の司令官であるからこそ、軍紀はいっそう厳密に守られなければならない。誤った行為を働くものは、いかなる者といえども、厳しく処罰されなければならない。」(133)

 新年の乾杯の席で、松井は、私見としてある日本人外交官にこう語った。「私の部隊が、とてつもなく悪く、きわめて遺憾なことを行ってきている。」(134) 後年、部隊は言うこときかなくなり、凶暴化したのか、との質問に対しては、「規律は良好だが指導と行いがよくないと考えた」、と答えている。


1946年より1948年までの極東国際軍事法廷で、各国より選抜された判事による二年間の審問によって認められた数字によれば、最終的には、南京では、2万人の女性が強姦され、市の民間人の少なくとも四分の一に相当する、二十万人以上が殺された(###)。市の三分の一は(137)火災によって灰燼と帰した。価値あるもののすべては廃墟から搬出され、日本軍の倉庫に納められた。

南京での犠牲は、明らかに、偶発的なものではない。十万人の人が二十万人を殺すことは、不注意や、酒酔いや、違法行為があったとしても、容易になせることではない。

しかし、世界中からの抗議にも拘わらず、当時の日本政府によって、そうした犯罪者の誰も、何の処罰も受けなかった。戦地における部隊が狂暴となり、それには手の施しようがない、というのが東京の公的見解であった。

しかし、いったん南京から兵の帰還が始まると、その多くはそれとは異なった見方――彼らが見、そして行った、胸を悪くする話――を語った。「強姦と強盗以外に軍隊で学んだことはない」とか、ただ機関銃の効果を試すために捕虜を撃たなければならなかったとか、中国女の扱いについて、上官から「ことをすました後は、金を払うか、辺鄙な場で殺すか、とちらかにせよ」と命令されたとか、と苦言をこぼした


南京陥落の日、天皇裕仁は、皇后の大おじで陸軍参謀長の閑院宮に、「極めて満足」と表現し(143)、また、閑院宮は、松井大将に祝電を送り、「これほどの目覚しい軍事的進展は歴史上かってない」と述べ(144)、さらに、一月末、ファシスト的な皇后のいとこ賀陽宮は、南京から戻って天皇に、その地で見てきたことの全面的報告をし、そして、ひと月後の2月26日、天皇裕仁は、葉山の御用邸に、熱のある松井、王侯然たる朝香宮、そして熱血漢の柳川を迎え入れ、それぞれに銀の台に菊の紋を浮き出させた一対の勲章を授与した、ということである(145)。

 裕仁は、これらの戦争犯罪人のいずれにも、名誉を与えこそすれ、その一人をも処罰せず、今日まで、血縁、朝香宮とともに、温情厚く、生きてきている。

 そのすべての責めを一身に担ったのが、結核病みの小男、松井大将であったのは、南京における最大の逆説である。

彼は、熱海の神社に祀られている他の六人とともに、極東国際軍事法廷にかけられた。同法廷の15万ページにのぼる記録には、本章で見てきたように、その強奪における松井にかかわる論旨が発見できる。だが、松井がその強奪の秘密の命令を出したとの証拠は、そのどこにも見当たらない。その告発にあたった連合軍の検事も、決して松井の誠意について問責しておらず、一つの嘘をも指摘していない。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm

▲△▽▼


1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。

いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html


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4. 2019年9月27日 14:34:06 : TWDGzFt7DY : bXpOSzVOY09GY00=[3] 報告
動画にある爆竹は、中国の春節、元宵節、端午節、中秋節に、使用される。

日本軍の南京入城は、12月中旬頃、それから2週間だとすると、新暦の正月頃になる。

春節は、新暦の1月下旬であるから、これは当てはまらない。

動画の出所が不明。

レイプ・オブ・ナンキンが、起きなかったという証明にはならない。

5. 2019年9月27日 17:51:38 : xDyPJ0n8q6 : OVFSTlZ0Qlh5VDI=[7] 報告
今、殺人事件の被害にあってない人が殺人事件の被害遺族に殺人事件は無い
私が被害にあってないからという論理だな
6. 2019年9月27日 19:33:23 : 1hFwhl5XF6 : dXZTY1pyS01GUXM=[292] 報告
今更、極東国際軍事裁判でA級戦犯で麻薬売人だった岸信介を死刑にしろと言ってもできない相談だ。

そして、南京虐殺が有ったということで極東国際軍事裁判の判決が出ているのだから、東條英機を生き返らすこともできない。

7. 2019年9月27日 20:07:52 : yL5Gzq7kkU : VmVNM0RML3doVWc=[622] 報告
この写真がどうかしたのか? 何億人が暮らしている中国で何かの証明になるのか、阿保じゃないか。
8. 2019年9月28日 01:07:42 : ZyqAJ9EVbU : VWpKdGs5T1YvS2c=[25] 報告
何の証明にもならないでしょう。
爆竹が中国の節句だけに使用されたのかという疑問もありますが、そばを通る二人の日本兵の姿もわざとらしさの違和感もあります。(動画も滑らかですよね。)

動画の真偽は置いておいても、何らかの意味合いを探る材料にはなるのでは?

9. しんのすけ99[844] grWC8YLMgreCrzk5 2019年9月28日 03:22:49 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[606] 報告
とにかく ウヨ連中と来たら 明らかな虐殺の証拠とされる事例であっても まるで陰謀論の如くあら探し
僅かな錯誤見つけたなら なだかんだと 捏造だ信憑性なしとかって 死に物狂いで否定しまくるくせして
「虐殺が無かった証拠」 などといって こんな子供にでも判るようなワザとらしい動画を持って来る

こんなもので証明になると思ってんだから ウヨにはやっぱり馬鹿しかいない

こんな どうとでも解釈できる動画なんてものじゃなく 虐殺の命令が出た証拠は一次資料で残っている
【偕行社】が集めた証言集 「南京戦史」 これに乗っている、歩兵六六連隊第一大隊の戦闘詳報である
http://oira0001.sitemix.jp/content54.html

ちなみに、偕行社とは 旧陸軍の親睦団体で 旧軍人の立場を擁護し寄り添う目的で設立された団体で
旧軍人を貶めるような資料など 絶対に出す訳がなく 嘘や捏造である可能性は ゼロに等しいのだ

80年代 この偕行社が あくまでも 「南京事件は虚構だった」 という立場で 調査を開始したのであります
しかし その思惑に反して 虐殺を見た あるいは加わったという証言が 次々と山の如く集まってしまい
ついには偕行社も 南京事件の存在を公式に認め 中国人民に謝罪の言葉を述べているのですよ

旧軍人の 立場に寄り添って活動する偕行社だからこそ、旧軍人たちは信頼して 重い口を開いたという訳で
その証言に 信頼性は大いに認められるというものです。

10. 2019年9月28日 05:52:13 : sIEZnQLrFA : aXM4b3luYzlmVGM=[1] 報告
ナチのユダヤ人大量虐殺、ソ連によるポーランドのカッチェンにおける、ポーランド人将校二万人の虐殺、比較的最近でも、ユーゴスラビア内戦における。ボスニアでの六千人虐殺その他いつでも、証拠の決め手は、墳墓と遺体発掘なのに、南京では遺体、墳墓なしで、それをしんじろっていうほうがむりというもの。川に捨てたなどといい加減なことをいうやつもいるけど、そんなことしたら、いくら大河でも遺体だらけで、悪臭がひどく、国際的醜聞になるでしょうが。しかも、満潮時には、逆流してきますよ。でも、そのような報告は一切出ておりません。いい加減、そんな話は、なかったってことを認めるべきです。
11. 中川隆[-11117] koaQ7Jey 2019年9月28日 10:20:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1696] 報告
>>10

南京大虐殺の遺体整理過程を記録 遼寧省公文書館,満鉄極秘報告書公表


2014/01/21

中国の遼寧省公文書館はこのほど、日本軍による南京大虐殺の遺体整理記録を載せた南満州鉄道株式会社南京特務班の3冊の極秘報告書を公開した。この記録は、南京大虐殺発生後1938年3月になっても、なお毎日5、6台のトラックで、2、300人の作業員が遺体の整理にあたったことを示している。

遼寧省公文書館所蔵の満鉄公文書の中に、当時の日本軍の中国侵略機関―南京特務班が自ら書いた、南京大虐殺に参加したとの証言がある。この文書は南京特務班の1937年12月22日から38年3月までの3冊の報告書で、当時は極秘文書に挙げられていた。

http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zrdt/t1123171.htm

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12. 中川隆[-11118] koaQ7Jey 2019年9月28日 10:49:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1695] 報告
昭和天皇の虐殺命令で仕方なく強姦・虐殺した記録

日本軍の記録に残る南京大虐殺(軍命令により実施) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=20HWTlXY-Wc

南京大虐殺 日本政府が隠している史上未曾有の強姦事件の全貌を読む - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=pnU80VC2IV4&list=PLD2C309DF5CB3BFE3&index=5

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

13. 中川隆[-11137] koaQ7Jey 2019年9月28日 17:22:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1677] 報告
昭和天皇の虐殺命令で仕方なく強姦・虐殺した記録 2


鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。
つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。

反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。

するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では
「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。
だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。
中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。

その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

14. 2019年9月29日 11:26:07 : AKzfP1viYA : dUR3UUdra3BZOWc=[3] 報告
〉〉11

第二時世界大戦の死者は5千万人。君はアホだね。

15. しんのすけ99[847] grWC8YLMgreCrzk5 2019年9月29日 12:55:34 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[609] 報告
南京事件 いわゆる南京大虐殺は 有ったものである これは 日本の国家を代表する機関 三権すべてが 公式に
認めている事実である

日本政府(外務省公式ホームページに記載) 歴代自民党政権(もちろん安倍政権も公式に認めている)
最高裁判所(家永判決で明確に否定派の主張は処断されている) そしてありとあらゆるマスメディア
さらにさらに 旧陸軍軍人達の親睦団体 偕行社と、まともな団体や機関では 南京事件を否定している人など
まったく存在せず 議論の余地を残しているのは 犠牲者数だけであるのだ

そして その唯一議論の余地を残す 犠牲者数においてさえも 日本の主張はぜんぜん国際社会に響いていない
なぜならば 終戦時に 都合の悪い証拠となる関係書類を焼却処分して 世界中の誰から見ても証拠隠滅としか
映らない行為に及んでいるのは厳然たる事実であるからして

【証拠隠滅を図った側が 不利な扱いを受ける】というのは 古今東西 それこそ常識というモノであるから
中国の主張30万人説が 国際的な通説として扱われるのは仕方のない事である。


30万人が たとえ3万人であろうと三千人だったろうと 大虐殺である事には変わりはないのである。

16. 中川隆[-11131] koaQ7Jey 2019年9月29日 16:37:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1688] 報告
>>10, >>14

大量の死体を目撃しなかったと証言する人々は確かに存在する。しかしそれを全面的に受け入れると、戦闘による死体さえなかったことになってしまう。

南京戦は激戦であり、中国側の戦死者だけでも万単位に上る。大量の死体は実際に存在したのであり、虐殺がなかったと言いたいあまりに、あったはずのものまで否定するようでは説得力は皆無である。

東京裁判の証言に頼らずとも、「大量の死体」は多くの資料に登場する。
そもそも日本軍自らが入城式の直後に「敵の遺棄死体は八、九万を下らず」と戦果を発表しているのである。

詩人の西條八十も、陥落直後の市内で、中国兵の死体の山や、街路の夥しい(民間人の姿をした)死体を見たと当時の雑誌に書いている。その他の日本人記者なども同様の記述を残している。

また第六師団長の谷中将は、当時の報告に、揚子江の岸が「河岸一面死体を以て覆われた」と書いている。これは第六師団の戦史とも符合する。

さらに外国人記者、在留外国人も民間人や兵士の死体の山を目撃して、リアルタイムでそれを記録している。東京裁判になっていきなり言い出したのではない。

埋葬記録も各団体、個人によるものが日本側、中国側双方に残っている。多少の重複はあるとしても、埋葬された死体の数が万の単位に達することは間違いない。

多数の人間によって独立して書かれた資料の内容が一致している以上、「私は見なかった」という証言で大量の死体の存在を否定できないのは明らかである。その証言の場所には大量の死体はなかったのだろう、で話は終わる。

大量の死体が存在したことは間違いないとして、問題はその発生原因(戦闘、捕虜や敗残兵の処刑、市民への暴行、など)が埋葬記録だけからは確定できない点と、全体の数が確定できない点にある。

もちろん戦死も大量にあっただろうが、万単位の捕虜の殺害も実証されている以上、すべての死体が戦闘によるものではないことは明らかである。その実態は多くの資料を照らし合わせながら慎重に解明していくべきものであって、願望で無根拠に決めつけていいものではない。


燦たり南京入城式  西條八十
文芸春秋社『話』昭和13年2月号p238-240

「出かける途端に見ると波止場の筋向ふに、高い板塀があつた。その中は、支那兵の死体の山。「そろそろ始まつたな」と思ふ。」

「驚くほど厚い鉄の扉の蔭に、一河岸の米蔵の俵を寄せ集めたほど積上げられた敵の土嚢。このあたりから、往来に土民服を着た支那兵の死体やら、軍馬の屍が、夥しく見えはじめた。」
http://www.geocities.jp/yu77799/saijou.html

石川達三
「読売新聞」昭和21年5月9日

 兵は彼女の下着をも引き裂いた すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた。みごとに肉づいた、胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた …彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―

 "生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、

入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた

 また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した
http://www.geocities.jp/yu77799/bunkajin.html

前田雄二(同盟通信記者)『戦争の流れの中に』p118
 死体の門
 支局に帰ると、荒木と稲津が車で出かけるところだった。同乗して市内をまわり、下関への出口の挹江門へ行く。すると、まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている。
「何だね、こりゃ」と、まず運転手がいぶかりの声をあげた。城門の内側に、まるで土嚢でも盛ったように死体が積まれ、車はわずか一車線あけられた穴を徐行して抜けなければならない。死臭の中をだ。
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/maeda.html

第六師団長谷寿夫の軍状報告(1937年1月27日)
之より先、歩兵第四十五聯隊を十日夜揚子江岸に近く北進せしめましたが、南京より脱出せる万余の敵と各所に遭遇し、之に莫大の損害を与へ、河岸一面死体を以て覆はれたる状態を生じたのであります。
http://ww1.m78.com/topix-2/tani.html

「熊本兵団戦史」(熊本日日新聞社)
 のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。
 これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。
http://www.geocities.jp/yu77799/kyoudobutai.html

遺体埋葬の記録
紅卍字会
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/maisou/k...
南京市衛生局
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/maisou/e...
赤十字・第一隊
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/maisou/j...
赤十字・第二隊
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/maisou/j...
その他、埋葬関係資料
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/maisou.h...

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

17. 中川隆[-11130] koaQ7Jey 2019年9月29日 16:45:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1689] 報告
昭和天皇は用意周到な方だったから、虐殺命令と同時に財宝略奪と死体処理についても具体的な指示を出していたんだよ

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理
18. 中川隆[-11135] koaQ7Jey 2019年9月29日 16:49:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1684] 報告
因みに、南京大虐殺記念館は虐殺死体を何万体も埋めた墓穴の上に建てられていて、遺体を窓越しに見られる様になっている。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理
19. 2019年9月29日 22:37:37 : jUQrVb0wP2 : enJVV1pkTU5uU2c=[1] 報告
天皇の名で動員されたあの大戦で310万の日本国民が惨殺されている、
310万の日本人が、死にたくないむごい死を死んで行った。惨殺されたのだ。
今、皆ヘラヘラスマホを弄っているが足の下には苦しみながら殺されて行った310万国民の骨が埋まっている
残虐なデタラメ組織帝国皇軍は侵略したアジア各地だけでなく日本国内でも殺人・強姦・強盗などを繰り返していた、真性の鬼畜集団であった。
天皇のため御国のためと海を渡って侵略強盗殺人を繰り返した帝国皇軍の残虐な実体。
朝鮮半島・中国だけでなくアジア各地で女性を拉致強姦を繰り返し、従軍慰安婦に投げ込み非道の限りを尽くした、挙句にはボロボロに敗退し自軍同士で仲間の人肉まで食い散らした。それが天皇陛下万歳の帝国皇軍である。

日本軍は朝鮮、中国などアジア各地だけで暴虐を尽くしたのではない、
日本国内でも同胞日本国民に対して非道の限りを尽くしたデタラメ犯罪組織であった。
軍事屋の犬コロとして今頃河野談話を見直すなどと恥知らずなことを言い出す鬼畜振りは戦前のままである。
関東軍参謀・陸軍省兵務局長田中隆吉
『敗因を衝く 軍閥専横の実相』(中公文庫)
http://esashib.com/jyugunianfu01.htm
賄賂は公行した。虐殺と掠奪と暴行は枚挙にいとまがなかった。私の親友遠藤三郎中将は、漢口より兵務局の私宛に私信を送り来て、「高級将校にしてその心懸けを改めざる限り、戦争は絶対に解決の見込なし」と憤慨した。
内地においても、大東亜戦争の中期以後における軍隊の暴状は、あたかも外地に似たものがあった。暴行もあった。収賄もあった。掠奪もあった。

1930年(昭和10年代)腐り切った軍事財閥と狂った人間のクズだけを集めた凶暴組織帝国皇軍が意に沿わぬ文化人や政治家を次々に惨殺して社会の自由を奪い血税を奪い社会と文化を破壊してアジア侵略強盗に乗り出して行った。
2019年の日本と全く同じである。
いま腐敗詐欺集団自衛隊と腐り切った軍事企業が日銀までも手中に収め毎月毎月5000億円の血税をインチキ防衛費として盗み出し憲法改悪の腐敗極右暴力集団を全国に組織化し小銭を投げ与えてあらゆる自由と民主主義の芽を襲撃し続けている。

20. 2019年9月30日 10:26:22 : GE0TqWeybA : cC95RWVDSW9SSC4=[2] 報告
日本軍ザコ過ぎ。
21. 2019年10月01日 18:51:03 : yL5Gzq7kkU : VmVNM0RML3doVWc=[665] 報告
ネトウヨアホ過ぎ。

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