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「名将」ロンメルの歯車が狂い始めた瞬間 「砂漠の狐」ロンメルの知られざる姿 第2回 
http://www.asyura2.com/19/kokusai25/msg/902.html
投稿者 うまき 日時 2019 年 4 月 03 日 10:40:56: ufjzQf6660gRM gqSC3IKr
 

(回答先: 「名将」ロンメルの名声はいかにして堕ちたか 「砂漠の狐」ロンメルの知られざる姿 第1回 2019.4.2(火) 大木 毅 投稿者 うまき 日時 2019 年 4 月 02 日 10:01:37)

「名将」ロンメルの歯車が狂い始めた瞬間
「砂漠の狐」ロンメルの知られざる姿 第2回
2019.4.3(水) 大木 毅

 日本では不世出の名将として語られることが多い第2次世界大戦のドイツ軍人、ロンメル。だが近年、欧米における評価が変化してきているのをご存じだろうか。40年近く認識のギャップが生じている日欧の「ロンメル論」を、軍事史研究者の大木毅氏が3回に分けて紹介する。前回は、1970年以降、ヨーロッパでは「名将ロンメル」という評価が変わりつつあることを紹介した。今回は、ロンメルの戦場での指揮方法に、どのような欠陥と限界があったのかを見ていこう。(JBpress)

(※)本稿は『「砂漠の狐」ロンメル』(大木毅著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

自らの師団の活躍をヒトラーにもアピール
(前回)「名将」ロンメルの名声はいかにして堕ちたか
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55860

 エルヴィン・ロンメルが、第2次世界大戦初期の西方攻勢(フランス・イギリス軍の撃破)でめざましい功績をあげると、その活躍はたちまちナチスのプロパガンダを積極的に広げるヨーゼフ・ゲッベルスらによって伝えられた。

 自ら陣頭に立ち、ときには敵の銃火を顧みずに前進するロンメルは、ナチスの理想を体現する将軍として称揚するのにうってつけだった。新聞、雑誌、ラジオやニュース映画は、ロンメルの活躍をもてはやした。たとえば『西方におけるドイツの勝利』という宣伝パンフレットでは、「もっとも勇猛な人物。総統は騎士鉄十字章を与えて、褒め称えた」などと記されている。

1917年、イタリア戦線でのロンメル(出所:Wikipedia)
 ロンメル自身も自己宣伝につとめ、とりわけヒトラーに対してはぬかりなく行った。1940年末、彼は西方攻勢における第7装甲師団の戦史をまとめ、革装の特製本にしてヒトラーに贈呈している。そのなかで、自らが率いた第7装甲師団の果たした役割を、過大に描いたことはいうまでもない。

 しかし、西方作戦におけるロンメルの功績には、のちに疑問が投げかけられるようになった。第7装甲師団は、将校48名、下士官108名、兵526名の戦死者を出していたのである。この数字は、他の師団が勝利を達成するのに払った犠牲に比べ相対的に大きい。

 たとえば、常に進撃の先鋒を務めていた第1装甲師団の戦死者は267名にすぎなかった。第7装甲師団に比べれば半分以下である。こうした事実をもとに、第7装甲師団は多くの損害を被っているとして、ロンメルの冒険的な戦法や苛酷な部隊運用を批判する者も現れた。

 けれども、この主張は必ずしもフェアであるとはいえない。たしかに、ロンメルは側背の敵を顧みずに突進した。だが、第7装甲師団は1940年のムーズ川の渡河に際しても、空軍の主力が主攻方面に割かれたために、充分な航空支援を受けられなかった。

 また、アラスの戦闘でも、イギリス軍機甲部隊の反攻を真正面から受けるという危機的状況に置かれた。第7装甲師団の損害を批判するのであれば、彼らが何度かこのような難局を経ていることを考慮しなければならないであろう。

「前方指揮」はなぜ行われたのか
 ロンメルがしばしば司令部との連絡が取れなくなるのも構わず、先遣部隊のもとに赴いて指揮を執ったことは、実は彼独自のスタイルとはいえない。当時のドイツ軍、とくに師団ないしは軍団レベルの装甲部隊にあっては、無線設備を整えた装甲車に乗った司令官が、現場で状況を掌握しつつ指示を下すという「前方指揮」が有効であることが確認されていたのだ。

 装甲部隊の出現によって、きわめて流動的になった戦場では、危急のときに重要地点で指揮官が判断を下すことが必要になったのである。前線ではなく、後方の都市に司令部を置いて指揮をしたとみられがちな陸軍将帥、エーリヒ・フォン・マンシュタインも、西方戦役ではロンメルさながらに前線を訪れ、危険を冒している。

 このような司令官の「前方指揮」を可能としたのは、ドイツ軍の参謀養成システムであった。このシステムによって、参謀将校たちはきわめて高いレベルで能力を平準化されていた。司令官が、前線で状況を把握しつつ将兵の士気を鼓舞する。その間に参謀将校は、後方の指令所で作戦参謀あるいは参謀長として、作戦遂行に必要な手はずを整えて部隊をサポートする。

戦術レベルでは適切だったが
 したがって、西方攻勢でのロンメルが取った指揮方法は、それ自体としては責められるべきではない。師団や軍団レベルの戦術次元の行動としては、むしろ適切だったといえる。けれども、こうした原則は上位の指揮階梯である軍司令官や、軍集団司令官に当てはまることではない。

 戦場での戦い方として「戦術」レベルで有効な方策を、勝利という目的を達成するために立案される「作戦」、ましてや最終的な目的達成の最重要シナリオである「戦略」に当てはめたからといって、通用するとは限らない。軍司令官の「前方指揮」という行為は、決定権を持つ者が前線に出て、わが身を危険にさらし、さらには後方司令部と連絡が取れず、麾下部隊に指示を下せないという事態になりかねない。

 つまるところ、勇敢さであるとか、前線での状況掌握能力といったロンメルの長所が発揮できたのは、第7装甲師団長時代までだった。戦術的には非の打ちどころがなくとも、より高い戦略次元レベルの指揮をゆだねられるにつれ、ロンメルの思考の乏しさは露呈していった。おそらくは、参謀教育を受けなかったことにより、その方面への知見を伸ばす機会を逸したことも作用していたであろう。

『「砂漠の狐」ロンメル』(大木毅著、角川新書)
 さような意味において、西方戦役でのロンメルの独断専行に煮え湯を飲まされた、直属の上官だったヘルマン・ホート(彼は、のちの独ソ戦で装甲軍司令官として、自らが作戦の名手であることを実証している)が作成した報告書は恐ろしいほど的を射ていた。

 ホートは「装甲師団の指揮において、あらたな道を切り開いた」と称賛しながらも、ロンメルは衝動的な行動を取りすぎるとし、「より大きな経験を積み、より優れた判断力を得たなら」軍団長に適格な人材になると断じた。

 しかしながら、ロンメルはホートのいう「より大きな経験」を積むことも「より優れた判断力」を得る機会もないまま、軍団の指揮を命じられるのであった。

(第3回に続く) 
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55864  

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