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我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ 教育勅語が復活すれば子どもが追い込まれる  前川 喜平(東洋経済オンライン)
http://www.asyura2.com/19/senkyo256/msg/784.html
投稿者 赤かぶ 日時 2019 年 1 月 28 日 22:25:55: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ 教育勅語が復活すれば子どもが追い込まれる
https://toyokeizai.net/articles/-/260699
2019/01/26 6:20 前川 喜平 : 現代教育行政研究会代表、元文部科学事務次官 東洋経済オンライン



教育勅語を美化する風潮は危険だ(写真:ALLIE/PIXTA)


安倍晋三首相が政権復帰してから6年を迎えたが、文部科学省で事務次官を務めた前川喜平氏は安倍政権に蠢く教育勅語「再生」への野望を憂慮する。前川氏が全3回にわたって、なぜ教育勅語がダメなのか解説する。第2回のテーマは「道徳の教科化は教育勅語復活の始まり」。


安倍首相は第一次政権で「教育再生会議」を、第二次政権で「教育再生実行会議」を設置した。「再生」とは、「過去に生きていたが、現在は死んでいるものを、未来に向けて再び生き返らせること」だ。では、教育における再生とは一体何を生き返らせることなのか。それは結局、教育勅語であり、そこに込められた國體(こくたい)思想である。

第一次安倍政権が2006年に実現したのが教育基本法の抜本改正だ。学校教育、社会教育、家庭教育を通じた教育の目標を法定した第2条には「道徳心を培う」「公共の精神に基づき(中略)社会の発展に寄与する態度を養う」「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する(中略)態度を養う」といった文言が盛り込まれた。

学校教育について規定した第6条では「学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」ことという文言も加えられた。そして第16条で、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」とする文言が入れられ、法律の根拠さえあれば政治がいくらでも教育を支配することができるかのように考えられるに至った。

もともと、学校の「教育課程に関する事項」は、学校教育法33条(及びそれを準要する条項)により「文部科学大臣が定める」とされている。この法律の根拠に基づいて、学校教育法施行規則(省令)や学習指導要領(告示)の形式で文部科学大臣が教育課程の国家基準を定めている。

教育勅語復活への狼煙

2018年度から小学校で実施されている「特別の教科 道徳」も、2015年3月の学校教育法施行規則の改正によって従来の「道徳の時間」を「教科化」したものだ。道徳の教科化は2019年度から中学校でも始まる。

「道徳の教科化」は戦前回帰勢力が永らく求めてきた教育政策である。なぜ彼等は「教科」にこだわったのか。それは、戦前の道徳教育が「筆頭の教科」とされた「修身科」で行われていたからだ。

現在、学校の教育課程には「教科」と教科ではない「領域」とがある。特別活動や総合的な学習は教科ではない領域だ。1958年、岸信介内閣の松永文部大臣の下で導入された「特設道徳」も教科ではなかった。

「教科」と言えるためには、@専門の教員免許状、A検定教科書使用義務、B児童生徒の学習成果の評価、これら3つがそろっていなければならないが、従来の道徳の時間については、専門の免許状を要さず、検定教科書も存在せず、児童生徒の評価も行われていなかった。

道徳の「教科化」を求められた文部科学省は、中央教育審議会で議論した結果、国語や数学と同じような「教科」にするのではなく、「特別の教科」だということにした。つまり、教科そのものにはしていないのだ。

専門の免許状は設定しない。児童生徒の評価はするが、数値による評価はしない。児童生徒同士を比較するような相対評価もしない。できる評価は「個人内評価」。つまり、一人ひとりの児童生徒が学ぶ前と学んだ後とで、どのように成長したかを記述式で評価するという方法だけだ、ということになった。一方、検定教科書使用義務は、教科と同じく課されることになった。

「特別の教科 道徳」について、文部科学省は「学習指導要領解説」の中で、「特定の価値観を児童に押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育の目指す方向の対極にある」「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、自立した個人として、また、国家・社会の形成者としてよりよく生きるために道徳的価値に向き合い、いかに生きるべきかを自ら考え続ける姿勢こそ道徳教育が求めるものである」「答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童が自分自身の問題と捉え、向き合う『考える道徳』、『議論する道徳』へと転換を図る」と説明している。

また、「多様な価値観の存在を前提にして、他者と対話したり協働したりしながら、物事を多面的・多角的に考えること」を求め、「価値観を一方的に教え込んだり……した授業展開とならないよう」にも求めている。「二つの概念が互いに矛盾、対立しているという二項対立の物事を取り扱う」工夫や「迷いや葛藤を大切にした展開」「批判的な見方を含めた展開」などの工夫も求めている。

このような文部科学省の姿勢は、個人の尊厳から出発する憲法の精神に合致し、思想・良心の自由とも矛盾しないと考えられる。「自ら学び、自ら考える力を育てる」という30年来の方針の線に沿っており、今回の学習指導要領改訂が目指すアクティブ・ラーニング(主体的、対話的で深い学び)の方向性にも合致する。

もはや教育ではなく洗脳

ところが、実際の検定教科書を見てみると、「考え、議論する道徳」のための教材だとは到底考えられないような読み物であふれている。

一例を挙げれば、2018年4月から小学校で使われている8社の教科書のうちの1つ、教育出版の教科書「小学どうとく」には、「れいぎ正しいあいさつ」と題する教材が載っている。「つぎのうち、れいぎ正しいあいさつはどのあいさつでしょうか。」と設問を掲げ、3つの選択肢が示されている。


(1)「おはようございます。」といいながらおじぎをする。
(2)「おはようございます。」といったあとでおじぎをする。
(3)おじぎをしたあと「おはようございます。」という。



正解は2、1と3は不正解、だそうだ。

この教科書の監修に当った貝塚茂樹武蔵野大学教授によれば、正解の2は「語先後礼」という礼儀の基本に沿ったものなのだそうだ。私は60年以上日本の国で生きてきたが、「語先後礼」という言葉は初めて聞いた。

貝塚氏によれば、このことは明治時代に文部省が刊行した「小学校作法教授要綱」以来の基本なのだそうだ。しかし、あいさつの仕方について「これが正解だ」と教えることは、子どもたちを1つの型にはめ込む指導であり、子どもたちの主体性を育てるどころか、それを阻害してしまうことになるだろう。文部科学省が求める「考え、議論する道徳」とは正反対の教材だと言わざるをえない。

ちなみに、中央教育審議会の専門委員を務め、文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇談会」の委員でもあった貝塚氏は、日本教育再生機構(2006年に「新しい歴史教科書をつくる会」から分かれて発足した団体)の理事を務めるなど、日本会議系といわれる学者だ。

貝塚氏は、「考えたり、議論するという過程を経なければ、自分の問題として道徳的価値を自覚し、内面化できない」(『特別の教科道徳Q&A』ミネルヴァ書房、2016)と言うが、彼が言う「考え、議論する道徳」は、それ「自体が目的なのではなく、道徳的諸価値を“自覚”するための方法である」(『「考え、議論する道徳」を実現する!』図書文化、2017)と言う。

彼の論においては、道徳的価値は絶対的なものとして子どもたちの「外」にあり、それを「考え、議論する」という方法によって「自覚」させ「内面化」させることが道徳教育なのだということになる。「考え、議論する」過程を経ることにより、子どもたちは外から注入される価値を、あたかも自ら見いだした価値であるかのように思い込む。

これは、単なる教え込みよりもさらに巧妙な教化であり、洗脳といっても過言ではない。

教育出版などいくつかの教科書では、子どもたちに個々の徳目に沿った自己評価をさせている。この「自己評価」も外在的な価値を子どもたちが「内面化」する効果的な手段になるだろう。

「絶対的な価値」を「内面化」した子どもは、その価値観を他者にも押し付けるようになるに違いない。そのような子どもが多数を占めるに至ったとき、その価値観に納得できない少数者は否定され、排除され、敵視される危険にさらされるだろう。

「考え、議論する道徳」がこのような考えの下に行われた場合、それは徳目の注入方法として単なる「刷り込み」以上に強力な方法になる。それよりはまだ個々の徳目を「教師が抱く正解」として認知する「いい子」になるほうがましである。

また、貝塚氏の論に拠れば、「道徳の上にさまざまな学問・科学が乗っている」のだという。道徳を基盤にして哲学、政治、経済、科学、文学などが成り立つというのだ。これは国語、理科、社会などすべての教科が道徳を基にして教えられなければならないということであり、修身科を「筆頭の教科」と位置付けていた戦前の教育課程の考え方を復活させるものだと評価できよう。

徳目の教化が全教育課程を覆い尽くすというのだ。歴史教育は愛国心教育の上に行わなければならないということになる。これでは科学的思考や批判的精神はまったく育てられないだろう。

血統を重んじる姿勢が強まっている

道徳の教科書は、一つひとつの徳目を教化する内容になっているが、それは学習指導要領が徳目を列挙するものになっているからだ。

道徳の内容項目(徳目)は、小学校1・2年で19個、3・4年で20個、5・6年で22個、中学校で22個となっている。学習指導要領は、これらの「各学年段階の内容項目について、相当する各学年において全て取り上げることとする」ことを求めており、各検定教科書もこれらの徳目を一つひとつ追う形式になっている。

学習指導要領がこのような「徳目主義」の構成をとっているのは、1958年に道徳の時間が創設されて以来のことであり、歴代保守政権の道徳観を反映しているものだと言える。

道徳の学習指導要領においては、「個人の尊厳」や個人の「自由」「権利」の扱いが極めて小さいのに対し、「家族」「学校」「郷土」「国」という集団への帰属意識や「節度」「礼儀」「規則」「公共の精神」「国を愛する心」など、集団を維持するための規範はずらりと並べられている。

国への帰属意識については、「我が国や郷土の伝統と文化を大切にし、先人の努力を知り、国や郷土を愛する心を持つこと」「他国の人々や文化について理解し、日本人としての自覚を持って国際親善に努めること」と記述されている(小学校5・6年)。

法を守ることについては、「法やきまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り、自他の権利を大切にし、義務を果たすこと」とされている。1958年版では「自分たちで作るきまりの意義を理解し、進んでこれを守る」とされていたのだが、現在は「自分たちで作る」という文言が消え、子どもたちはきまりを作る主体ではなく、きまりを守らされるだけの客体となってしまっている。

「家族」については、1958年版では「家族の人々を敬愛し、よい家庭を作りあげようとする」となっていたが、2015年版では「父母、祖父母を敬愛し、家族の幸せを求めて、進んで役に立つことをすること」と記述が変わっている。「敬愛」の対象が「家族」から「父母、祖父母」に絞られ、直系尊属という縦の血統を重視する姿勢が強まっている。

さらに「生命の尊さ」という徳目の中でも「祖先から祖父母、父母、そして自分、さらに、自分から子供、孫へと受けつがれていく生命のつながり」に言及しており、縦の血統を重んじる道徳観が打ち出されている。

このように学習指導要領に列挙される徳目を見ると、個人の尊厳や自由の価値についてほとんど触れられていない。また、地球規模の課題に国境を越えて取り組もうとする姿勢、すなわち地球市民意識のようなものもまったく現れていない。私はこれを「個と地球の欠如」と呼んでいる。

重視されているのは「我慢する」「わがままを言わない」「自己抑制・自己犠牲を厭わない」「国を愛する」「日本人としての自覚を持つ」「法やきまりを守る」「父母、祖父母、祖先を敬う」といった徳目ばかりである。

個人や自由の価値には触れず、自己抑制や自己犠牲を美化し、国家や全体への奉仕を強調する道徳は、国家主義、全体主義へと子どもたちの精神を追い込むものになるだろう。

こうして見ると、学習指導要領道徳編はすでにかなり教育勅語に近いものになっており、教育勅語に代わる国民道徳を定めるものとして機能していることがわかる。

自己抑制は「恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持シ」、自己犠牲と国家への奉仕は「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」に表されている。父母、祖父母への敬愛は「父母ニ孝ニ」、教育勅語の重要な柱である「孝」を意味するものだ。自分の命につながる祖先を敬うことは「爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スル」という徳目として勅語に記されている。

しかし、教育勅語を復活させようとする立場から見れば、現在の学習指導要領には1つ重要な徳目が抜けている。それは「忠」、すなわち天皇に対する敬愛である。

道徳の教科化はやっぱり問題がある

実は「天皇への敬愛」はすでに学習指導要領に書かれている。だが、それは道徳ではなく社会科の中でだ。

小学校学習指導要領では、第6学年の社会科で憲法について学ぶことになっているが、その「内容」として「国民としての権利及び義務」などと並んで「天皇の地位」が特記されており、その「内容の取扱い」として「歴史に関する学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」とされているのである。

日本国憲法第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定めているが、この条文からは国民が「天皇への敬愛の念」を持てという規範は導かれない。

だから、そもそもこのような記述が、学校における教育課程の基準として国が定める学習指導要領に存在すること自体がおかしいのだが、社会科の中で記述される限りは、憲法学習の一環としての学習に留まる。

ところが、これを道徳の中に記述するとなると、話はまったく別である。

私は、日本会議のような戦前回帰を志向する勢力がさらに力を持つようになると、道徳の学習指導要領に「天皇に対する敬愛の念を深めよ」という徳目を加えよという声が高まるだろうと思う。その際には、「すでに社会科に記述されているのだから、それを道徳科に移すだけのことであって、何ら問題はない」という理屈が用いられるだろう。

道徳は社会科と異なり、子どもたちの思想・良心の自由に直接関わる。天皇を敬愛するか否か、天皇制を望ましいと考えるか否かは、専ら個人の内心の自由に属することである。日本国憲法第1条について学ぶということとは、本質的に次元が異なる。

天皇を敬愛すべきかどうかを児童生徒が議論すれば良い、という論は確かに成り立つが、そのような授業ができる教師がどれだけ存在するだろうか。

しかし、そのような授業ができる教師がどれだけ存在するだろうか。

































 

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コメント
1. ぢっとみる[554] gsCCwYLGgt2C6Q 2019年1月28日 23:38:15 : LLC16YRhF6 : 2yUQTAqpjc8[554] 報告
> (1)「おはようございます。」といいながらおじぎをする。
> (2)「おはようございます。」といったあとでおじぎをする。
> (3)おじぎをしたあと「おはようございます。」という。

(1)「バカヤロウ。」といいながら殴る。
(2)「バカヤロウ。」といったあとで殴る。
(3)殴ったあと「バカヤロウ。」という。

正解はCMの後で…♪

[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員コメントはスレ主が処理可能)アラシ。

2. 2019年1月28日 23:52:08 : 2FOSukKJfI : rRlUD7YvIXs[59] 報告
口でああしろ、こうしろと言わなくても、下位の者が上位の者に「忖度」して、こうしたいと思うようなことをしてくれる人間に育てること。
それが道徳教育の目的である。
3. 2019年1月28日 23:56:34 : gBmUr6tRY2 : bFHzqXA_pNA[4] 報告
たしかに教育勅語は、天皇中心の国体を押し付けるものだ。小生も今の世には則していないと思う。

しかし、修身のほうはいいことがたくさん書いてある。(修身の冒頭にも教育勅語が載っている)
もちろん天皇中心に国家を為すための文章も散見されるが、これをハブれば、非常によい道徳の教科書として活用できるだろう。
特に現代のような殺伐とした他人との関係を、もっと潤いのある地域社会へ転換する展望の手がかりなるものだと思われる。

主軸が大多数にある場合は、平和な解決法で世の中が推移し、主軸がほんの一部のためだけにしか機能しない場合は、不平不満の歪んだ世の中が人々を不自由な立場に追いやるものと言えるだろう。

だからその対処法として古典に学ぶのは、少しも道から外れていない。
修身というのは、古臭く国体のためだけに利用されたなどとは、その文章を読めば思えないだろう。上にも書いたが、天皇を神格化して書いてるのは戴けないが、それ以外の記述は現代人が読んでも、忘れていた良き日本の慣習を思い出させてくれるに違いない。

今を生きる人たちのほとんどが息苦しいのは、当たり前なのかもしれない。
天皇でさえ今の政権は省みないで、ファシストの道を邁進しているのだから。
 

4. 2019年1月29日 00:20:55 : 2FOSukKJfI : rRlUD7YvIXs[60] 報告
「修身」を教科として教育を受けた経験があるのはもはや、八十代以上の人たちだろう。
教科書だけではどんな内容であったかはわからないが、教師向けの指導書も当然あったろう。
当時は他の教科が良く出来ても修身の評価が悪いと上級学校へ進学できなかったとかもあったと、誰か有名な人が書いているのを読んだ記憶がある。

私は評価のない「道徳」しか受けたことがないが、小学校時代の担任教師がのんきでズボラな人だったので、教室の教師の机の上によく、いろいろな教科の教師用の指導書が放置されてあった。本文は生徒用と同じなのだが、脇に赤文字で指導内容が書いてあるのを読んだものだ。

たしか「道徳」の本にも(「教科」ではなかったので「教科書」ではなかったのかな?)「○○であることに気づかせる」とか「持っていくべき方向性」は書いてあったような気がする。でも、実際には自習が多かった。w

内容的には児童文学的で良いものが多かった。押しつけがましくもなかった。
「パン屋が和菓子屋になる」ようなことも当時はなかったと思う。

だから「道徳」の時間が自習になっても、よく一人で「道徳」の本を読んでいたものだ。

今思えば、なんてマジメだったかと。w

5. 2019年1月29日 00:30:33 : mrlI2OpSis : HM1TbK7kgrY[209] 報告
教育勅語を暗唱すれば点数が上げる。これは森友学園の教育方針と全く同じ。
6. 2019年1月29日 00:31:02 : 2FOSukKJfI : rRlUD7YvIXs[61] 報告
そういえばね、たしかその「道徳」の本に宮沢賢治の「よだかの星」もあった気がする。

そう、あれは国語じゃなくて道徳の本だったな。

あれは良かった。
賢治の童話には「道徳」の本に載せたらいいようなのがたくさんあるが、きっと安倍さんや今の自民党の偉い人たちは好みじゃないだろうな。

なぜだかわからないが、そんな気がするわ。w

7. 2019年1月29日 02:33:18 : o3QrDJ9g1w : 4hlkJk4rXAQ[637] 報告
教育勅語とは一言で言えば教祖様の発したありがたいお言葉、カルトの教義なんだよな。
8. 2019年1月29日 04:00:42 : w1hQr44FEc : 6Rh6I@OhPL0[9] 報告
だが、我慢と自己犠牲の精神がないと、野党共闘もおぼつかない。
みんな好き勝手気持ちよく主張して何もまとまらないから。

9. 2019年1月29日 07:35:54 : FAwI7Qok7s : Q6Z_opNzwoY[2] 報告
>>8

そういう話じゃないでしょ
権力が国民に我慢と自己犠牲を強要するという話

10. 2019年1月29日 07:39:30 : FAwI7Qok7s : Q6Z_opNzwoY[3] 報告
野党を批判するなと叫いている奴の頭がパーだとこういうことでバレる
11. 人間になりたい[926] kGyK1ILJgsiC6IK9gqI 2019年1月29日 08:34:53 : Igew9LiSCV : jX5tMsGMxX4[750] 報告

教育勅語を美化、復活させたい勢力の振る舞いを見れば、それがどんなものか一目瞭然だろう。
安倍晋三、稲田朋美、櫻井よしこ、嘘吐き、レイシスト、差別主義者、助成金詐欺師、強姦魔、
宮司尊属殺人犯、売国利権屋、似非右翼、皇室芸人、カルト、低能ネトウヨ……etc
要するに、社会の汚物、排泄物である。

教育の目的は人間性を育むことであり、道徳は人間の振る舞いを身に付けることである。
人間とは、隣人愛を社会的行動規範の根底として受入れ行動する人のことである。
愛を成長させた人間が自分を愛し育んでくれた郷土の人たちへのおもいやりが愛国心である。
したがって人間になれなかった安倍晋三とその同類は、そもそも愛国心を持つことができないのだ。
この連中のいう、教育とは人間性の欠落したゴロツキを作ることであり、
この連中のいう道徳とは、目先の損得、好き嫌い、今だけカネだけ自分だけであり、
この連中のいう愛国心とは偏狭なナショナリズムのことである。

現在の教育基本法は第一次安倍政権下、改悪されて、すでに教育勅語化されている。
教育勅語も発言者である天皇が、国民に危急存亡が迫った時には、
命をかけて国民を護ると言えば道徳になる。
教育基本法も、改悪部分の国民は国を愛せよではなく、
発言者である国が国民を愛すると言えば、道徳になる。
人間の愛とは私があなたをおもいやることであり、お前がオレの喜ぶことをしろよというのは、
愛とは真逆の自己愛の突出でありゴロツキの愛である。
ストーカーがいいわけする時に、彼女を愛していたからと言う時の愛と同じものである。
安倍晋三とその同類は、この違いが理解できず、愛ではないものを愛だと思い込む、
偶像崇拝という人類最悪の病気の重症患者なので全てがアベコベになる。
 
 

12. 2019年1月29日 08:58:00 : yS5XGtozkA : mklQijw2vE4[-4623] 報告

教育勅語を=読みもせず^^

批判するのは=やめなさい^^



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

13. 2019年1月29日 09:56:08 : ONAO9IxM06 : I3v6IoprKkw[5] 報告
政治家、経営者、官僚は毎日音読してね
14. 2019年1月29日 11:29:17 : FytmC8zYcS : RW51_JCnY4Y[7] 報告
> 我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ 教育勅語が復活すれば子どもが追い込まれる  前川 喜平

金将軍様を賛美する朝鮮学校のヤバさ 憲法違反の朝鮮学校への公金支給を公然と主張する前川 喜平

前川 喜平は、朝鮮学校を対象から外す不指定処分を「忸怩たる思い」と言っている[1]。
しかし、憲法 第89条には、公金その他の公の財産は、公の支配に属しない教育に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない、と明記されている。
 金将軍様を賛美する朝鮮学校が日本の公の支配に属しないのは明らかであり、それ故、朝鮮学校へ公金を支給するのは明らかに憲法違反である。

[1]【朝鮮学校無償化訴訟】古巣に反旗? 前川喜平氏、朝鮮学校無償化裁判で証人出廷は実現するか
https://www.sankei.com/premium/news/180521/prm1805210003-n1.html
前川氏「司法に期待」
 九州朝鮮中高級学校(北九州市)の卒業生ら68人が国に損害賠償を求め、同支部に起こした訴訟は、関係者の間で重大な関心事となった。前川氏が国家公務員を辞めて1年と経たないうちに、その組織に反旗を翻した衝撃は大きかった。
 証人尋問の申請に伴い提出された陳述書で、前川氏は「朝鮮高校が対象になることは、文科省内では当然と考えられていた」「排除するという議論はなかった」などと主張し、無償化を肯定した。
同陳述書では「(自民党への)政権交代により、朝鮮学校が不指定になったことについて、忸怩(じくじ)たる思い。あとは司法判断に期待するしかない」と司法救済を求めている。
 「忸怩たる思い」とは、朝鮮学校を対象から外す不指定処分を、前川氏が自ら決裁したためとみられる。前川氏の願いと組織の決定は違ったということだ。

15. 2019年1月29日 11:59:27 : Ye6rWhFDQo : v8dy46oHNgs[94] 報告
昔(1970〜1975)読んだ本で、戦後の公職追放から官僚の人手不足で復帰した文部官僚たちの野望は、「教育勅語の復活である」と記していた。

脈々と引き継がれていることの意味は分からない。

16. 2019年1月29日 16:27:46 : 2LlJic733Y : XZ7ibbBihRo[4] 報告
礼儀とか常識とかは普通?親や身の回りから、何となく、身につくものであって、‟道徳”とは違うんだよね。
我々の世代は「道徳の時間」が確かにあったが、その前に戦争世代の親や親類に育てられているが、今の時代のように登校拒否するような子も、殺す迄、いじめをやるような子もいなかった。
愛が、又、守るよ!という意識に厳しさがあるのならいいが、
こんな軍隊のようなものを学校で教えてどうなる。
礼儀とか常識とかのしつけは家とか、親のいない子は何となく、周りで教えられたらよくないか?

どこへ行っても、自分の頭で考えられる、生きて行かれる子に育てる。
そうすれば、羊的従属でない!いい意味でだ、善き人間になるんじゃないか?

嘘つきヒットラー安部陣営がよく!言うよ。

17. 2019年1月29日 19:05:30 : slX0CB0Bqw : s6Q5dwQASc4[175] 報告
他人に強い 上は貪る 贅沢を
18. 2019年1月29日 22:27:40 : PtqL8BGGcU : GB9r75d47Sw[193] 報告
だいたい「国民の生活が第一だなんて間違っている」なんて演説に拍手喝さいする自民党が、子供の教育に携わることじたい間違っている。

国民主権や基本的人権や平和主義を謳っている憲法を否定する自民党が、子供の教育をすることが間違っている。

文部科学大臣である下村博文が「中学を卒業したら誰でも自衛隊の訓練を6か月間受けてくることを高等学校入学の条件 にすることを自民党は考えておりそうすることで有事の際誰でも即兵隊になれます」などと演説したが、教育のトップに立つ文部科学大臣が子供を国防に使う演説をするなど、どういう神経をしているのだ。

子供は戦争の道具ととして使うために教育するのではない。
教育のトップに立つものが、子供に自衛隊の訓練をしてくることを高等学校入学の条件にするという事は、子供全員に、将来兵隊になれなければ教育を受ける資格がないと言っている言ってに等しい。
それは教育の機会均等と言う憲法に反する事だ。
子供は戦争の為の消耗品ではない。

何で教育のトップに立つものがそんな馬鹿気た演説をし、出席していた300人もの自民党議員は拍手喝さいしたのだ?
自民党は頭がおかしいとしか思えない。
それではまるでナチではないか!

19. 2019年1月29日 22:52:07 : 2FOSukKJfI : rRlUD7YvIXs[69] 報告
要は教育勅語を復活させたがってる人々自身がどれだけ道徳的か?はたして「清廉の士」であるのか?ってことですよ。

同じことでも「言ってる人の人間性」が違えば、本当に国民のためになるから、みんなの幸せにつながると思うからそう言っているのか?
それとも何か、他に含むところがあってそう言っているんじゃないのか?って疑いたくなる場合があっても当然でしょ?

みんなが認める「私心のない清廉の士」が言うならそこにもあるんだけれども。
「どんな人たちが言っているのか」は大事ですよ。庶民として、国民として「信頼できる人たち」が言っているのかそうでないのかは。
(そのあたりはどうでもいいという人が、もしいるなら、その考え方は私にはわかりませんね)

難しいことが分からない私みたいな者には、やはり「それを言ってる人の誠実さ」を感じられるかどうかですからね。

20. 2019年1月29日 23:45:37 : PtqL8BGGcU : GB9r75d47Sw[194] 報告
たとえその教育勅語を言っている人の人間性がどうだろうと、過去にその教育勅語を子供を戦争に駆り出す為の洗脳の道具として使われた経緯があるのだから、教育勅語は復活すべきではない。

働きながら学校へ行かせる、その間給料ももらえ、卒業したら立身出世も約束すると言うニンジンを目の前にぶら下げて、国は入学試験で優秀な人材ばかりを合格させ、そのクラス全員を14歳で教育勅語で脅して海軍に強制的に志願させた。

教育勅語を子供を戦争に駆り出す為の洗脳の道具として国が使ったのだ。

父や母を護りたくはないのか!
幼い兄弟姉妹を護りたくはないのか!
お国を護ろうと言う気概はないのか!
毎日お国を護る為に命を懸けている兵隊さんに済まないとは思わないのか!

と。

それこそがまさにまさにいわば教育勅語そのものなのだよ。

何も間違ったこを言ってない。

子供は父や母に孝行する事、守るべき事。
幼い兄弟を姉妹を護る事。
家を護る事、そしてそれは国を護ることなのだ。

と。

だが戦争となれば、教育勅語は子供を戦争に駆り出す洗脳の道具と化す。
間違っていないからこそ、子供はそれに反論などできない。
むしろ子供は学校でそれを叩きこまれることで世間をたきつける役割すら演じてしまう。

戦争に行って死ぬことは国の誉れ。
戦死する事は家の誉れ。
家族が戦死したことを嘆くことは非国民だ。
出征する事は本当にはおめでたい。「ばんざーい!」。
と。

教育とは、間違って使われるとまことに恐ろしい事になる。

森友幼稚園の教育勅語を暗唱している子供達を見て、そのすさまじさに狂気さえ感じた。

教育は、使い方によっては、武器と同じ。
子供は純真だから、学校の教育で何色にでもすぐに染まるのだ。

親のいう事より友達の言う事の方が正しい。
友達のいう事より学校の先生の言う事が正しい。

と。


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