ブログ 「法螺と戯言」より http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/52129451.html この日、公表された元号は「令和」とのこと。学者さんの博覧強記の産物ではなく安倍氏の「生臭さ」、後世に安倍氏の名前(呼称)を遺したいとの思惑が露骨です。 解説によれば、「令」は万葉集五巻、815歌〜846歌にまたがる梅の花特集の序文で「令月」(めでたい月の意)として使われています。そこで、この序文を見ます。万葉集五巻815-846歌群の序文 "梅花歌卅二首[并序] / 原文: 天平二年(西暦730年)正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠" この序文について、黒路よしひろ氏が解説を施しています。 %%%%%梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序 万葉集入門(解説:黒路よしひろ) 天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述※1(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。 ※1:「述」は原文では「手」遍+「慮」 ----------------------------------------------- 天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。 ----------------------------------------------- この漢詩風の一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、書き手は不明ですがおそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)の作かと思われます。 その内容によると、天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたとあります。 このころ梅は大陸からもたらされたものとして非常に珍しい植物だったようですね。 当時、大宰府は外国との交流の窓口でもあったのでこのような国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもありました。 この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での梅の華やかな様子を記し、ついで梅を取り巻く周囲の景色を描写し、一座の人々の和やかな様を伝えています。 そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいます。 我々からすると昔の人である旅人たちが、中国の古詩を念頭にして「いにしへと現在と何の違いがあろう」と記しているのも面白いところですよね。 この後つづく三十二首の歌は、座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。 後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ、当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌と言えるでしょう。 %%%%%序文解説おわり さてそこで、巻五の32からなる歌群を眺めて見ます。確かに梅の花を愛でる歌が連なっています。その中で目についたのが、下にあげる831歌です。 巻五・0831歌 原文: "波流奈例婆 倍母佐枳多流 烏梅能波奈 岐美乎於母布得 用伊母祢奈久尓 作者: [壹岐守板氏安麻呂]", 訓: "春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐も寝なくに 仮名: "はるなれば うべもさきたる うめのはな きみをおもふと よいもねなくに" この歌についても上掲黒路よしひろ氏の解説を転載させていただきます。 %%%%%春なれば宜(うべ)も咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝(ね)なくに 壱岐守板氏安麿(いきのかみはんしやすまろ) 巻五(八三一) ----------------------------------------------- 春になってなるほどよく咲いた梅の花よ。君を思うと夜も眠れないよ。 ----------------------------------------------- この歌も大宰師の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で開かれた宴席で詠まれた「梅花(うめのはな)の歌」三十二首の歌のうちのひとつ。 この「梅花(うめのはな)の歌」三十二首の歌は三十二人が八人ずつ四つの集団に分かれて詠んだもので、この歌は第三集団の最初の一首。 板氏安麿(はんしやすまろ)は、板持安麿(いたもちのやすまろ)のことでしょうか。 そんな板氏安麿が詠んだ「春になってなるほどよく咲いた梅の花よ。君を思うと夜も眠れないよ。」との、梅の花への呼びかけが素敵な一首ですよね。 四句目の「君」は梅の花を擬人化したものですがどことなく想い人への恋歌のようにも読めて、この歌から始まる第三集団の歌が第一集団、第二集団の歌とはまた違った自由な広がりを見せてくれるようなそんな予感も感じさせてくれます。 %%%%%(831歌解説紹介 了) 新元号が決まる直前まで、「安倍」又は「晋」なる漢字が使われるであろうとの憶測なり噂なりが広がっていました。一見、その噂ははずれているかのごとくですが、実は、そのとおりになったのです。序言をかぶせた梅の花に関わる32首の十七番目の歌の作者名に「安」があり、歌には[倍]が使われているのです。つまり、「安倍」なる文字が潜んでいたのです。そして、それに気づいて欲しいかのごとく、“万葉集五巻の32歌群の序文”から取ったとの解説が付されます。あからさまであります。 本ブログでしばしば書いてきたように、日本語では「マ」行の音と「バ」行の音はしばしば相互に転換します。たとえば「木」(ぼく)は「モク」に、美(び)は「ミ」に、馬(ば)は「マ」という具合です。従って歌中の「宇倍」は、「うべなる」という副詞と「梅(ウメ)」の両方を連想させる技巧です。万葉集初期歌群には目を見張るようなこうした技巧が使われていますが、万葉学者はそれには気づかないようです(たとえば万葉集二十二歌、2009年9月30日記事) 因みに「万葉集」には「令」なる漢字は「律令」など頻繁に出現します。「令」の出典に、わざわざ万葉集五巻を示唆することには、それなりの意図があったからです。「阿倍」なる漢字表記も出現しますが、それらは阿倍女郎(いらつめ)といった女性の呼称であったり、短命を恐れた安倍廣庭(万葉集六巻)など、新元号にはふさわしくありません。それらの歌の意は元号にこじつけるには相応しくない。と、考えたのでしょう。 そもそも「安倍」なる漢字列がそのまま登場したのでは、あからさま過ぎます。実際、828歌には「阿蘇倍](あそべ)なる表現が登場しますが、残念ながら「安」ではなく「阿」です。 国文学者が安倍氏の意に沿うべく必死に見つけてきたのがまさに831歌であったのです。単一の歌にこの[安倍]の二文字が登場する歌を国文学者は丹念に探したのでしょう。分厚いめがねを掛けて舐めるようにして4500余の歌に登場する漢字を探す学者さんの姿を思い浮かべると滑稽というよりは哀しくなります。 こうして、新元号への経緯こそが、安倍氏にとってはまさに歴史に名を残したいという願望にそっていたというわけです。しかし、元号というものは所詮そんなものだとは言え、いかにも安直ですな。その意味では軽佻なる安倍首相には相応しいといえるのかもしれません。
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