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原武史「平成は天皇制を強固にした」(朝日新聞社 論座)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/584.html
投稿者 肝話窮題 日時 2019 年 5 月 10 日 16:03:05: PfxDcIHABfKGo isyYYouHkeg
 

原武史「平成は天皇制を強固にした」
奉祝ムードに染まった日本社会。国民は「平成流」を支持し、天皇の求心力は増大した
 
石川智也 朝日新聞記者
論座 2019年05月10日

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019050500002_1.jpeg
橿原神宮前駅に到着した上皇、上皇后=2019年3月26日、奈良県橿原市
 
 たったひとりの老人の引退劇が、過去を洪水のように押し流し、人々に時代の転換を強烈に印象づけるとともに、過去をよりいっそう刻みつける――この奇妙な磁場と時間軸を抱えた空間は、いったいどのようにできあがったのか。
 
 「平成最後」との合言葉が乱舞し、天皇への感謝親愛と新時代への「期待」の声が吹き荒れたこの1カ月。喧噪から遠く引いた視点で、「象徴」と「国民」の政治的関係性を読み解いてきたのが原武史・放送大教授だ。3年前の「おことば」表明から退位特例法成立、そして代替わりに至る一連の流れに異を唱え続けてきた数少ない専門家でもある。
 
 このところメディアに引っ張りだこだが、その発言は大方マイルドに編集されている。あらためて、この国最大の禁忌である天皇というシステムの今後の姿について、タブーを超えて語ってもらった。
(ちなみに、原教授は天皇について語る際、敬称や敬語をいっさい用いない。客観的、学術的に対象を扱うためだ。敬語使用と批判、批評は両立が難しいものであり、こうした姿勢は本来ジャーナリズムにも求められていた。だが敗戦後の1947年、主要メディアは宮内府(当時)と「普通のことばの範囲内(「玉体」は「おからだ」、「宸襟」は「お考え」に)で最上級の敬語を使う」という方針で合意。この考えは国語審議会にも受け継がれた)

原武史(はら・たけし) 1962年生まれ。専門は日本政治思想史。『大正天皇』(毎日出版文化賞)、『昭和天皇』(司馬遼太郎賞)、『皇后考』など著書多数。近著に『平成の終焉――退位と天皇・皇后』(岩波新書)


■ 「奉祝」ムード一色、極めて異様

 ――昭和が終わる際には不健全な「自粛」が世を覆う一方で、天皇の戦争責任や政教分離など直球の議論も盛り上がり、自粛に抗う催しも各地で開かれました。今回は逝去が伴わない改元ということもあってか、祝賀を強いるような「右ならえ」の空気をより濃厚に感じます。

 まさに「奉祝」ムード一色で、極めて異様だと思います。言論状態が閉塞していますね。「おことば」に批判的なことを言ってきた僕が日本のメディアで長いコメントを求められるのは、ほとんどネットメディア。そういうところでしかタブーをぶつけることができなくなっている。むしろ海外メディアの方が客観的で、こちらの意図を汲んで本質的なことをきちんと質問し、報じています。

 一番の問題は、このお祝いムードと新上皇への「ありがとう陛下」という感情の渦のなかで、「おことば」によって露わになった天皇制の問題と今後のあり方を、国民がまったく議論しようとしていないことです。言うまでもなく、憲法第1条に明記されているように、象徴とされている天皇の地位は、主権者である国民が論じて決めていくべきものです。

 ――「おことば」から退位までの経緯は、日本国憲法で規定された象徴天皇制の矩を超えた疑いがありますが、国民の圧倒的支持でかき消された感がありますね。

 「おことば」は象徴天皇制が抱える様々な問題を噴出させたし、その内容も大きな問題を抱えたものでした。

 現憲法下で、天皇は国政に関する権能を有しません。にもかかわらず、2016年のあの「おことば」は、事前に「8月8日の午後3時から」と放送日時を指定した上で、天皇自らがビデオメッセージで11分にもわたって、政府や国会を通さずに国民にダイレクトに語りかけました。そこから急に政府が動きだし、国会が議論を始め、特例法が成立した。結果として法の上に天皇が立ち、露骨に国政を動かしたのです。

 戦後、このように天皇が意思を公に表し、それを受けて法律が作られたり改正されたりしたことはありません。

 さらに言えば、明治憲法下で「大権」を持っていた明治天皇や大正天皇、戦前の昭和天皇の時も、こんなことはありませんでした。もはや権威どころか、はっきりと「権力を持っている」と認めなければならない事態です。

 にもかかわらず、この「おことば」に対する世の反応は、「厳粛な気持ちになった」とか「陛下の決断を温かく見守ろう」という受け止めが大半でした。天皇が持つ政治性や権力について突き詰めて考えようという姿勢があまりに欠けていました。結果、「一代限りの例外」ということで問題を先送りし、主権者として吟味すべき本質に触れぬまま、代替わりを迎えた。そしてそのことへの反省すらない状況です。

 しかも、特例法の第1条には「おことば」への言及はなく、あたかも国民が高齢の天皇の気持ちを理解し気遣って立法したかのように構成されている。憲法との整合性を気遣って、あたかも「民意」が反映しているかのように取り繕っている。でも、これはあきらかにまやかしです。

■ 「おことば」にはもっと疑義が呈されてしかるべきだった
 
 ――明仁上皇は以前から退位の意思を示していたものの政治がその声にこたえず、「おことば」はやむをえず意向をにじませたものとされていますね。日本の超高齢社会の問題にも触れ、あらためて国民への相互の信頼と敬愛を示したということで、「第二の人間宣言」と評価する人もいます。

 それは、政府内にも国民にも「天皇に退位をすすめるのは畏れ多い」というタブー意識がいまだに根強く残り、天皇制について自由に意見を言える空気自体がないからです。

 あの「おことば」は、1946年元日に昭和天皇が「現御神」であることを否定したいわゆる「人間宣言」よりもむしろ、1945年8月15日の「終戦の詔書」つまり「玉音放送」に類比できるものです。

 当時の鈴木貫太郎内閣は終戦に向けて政府をまとめることができず、非常手段として「ご聖断」を仰ぎ、ようやくポツダム宣言受諾に至った。玉音放送が流れるまでは、たとえこの戦争は負けると思っていても、公然と言える空気ではありませんでした。

 ところが、天皇が肉声で臣民に直接語りかけたあの放送が流れるや、絶大な効果によって、圧倒的多数が敗戦を受け入れました。その流れは、今回の退位をめぐる動きとよく似ています。

 終戦の詔書には「常ニ爾臣民ト共ニ在リ」「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」との言葉がありましたが、「おことば」にも「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり」「国民の理解を得られることを、切に願っています」という、よく似た言い回しがあります。

 上皇明仁が玉音放送を意識していたことは明らかだと思います。でも、それが天皇の持つ強大な権力が端的に現れたものだということを、どこまで自覚していたでしょうか。

 もう一つ着目すべきは、東日本大震災から5日後に天皇がテレビで述べた「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」です。震災に続いて津波や原発事故が起こり、人心が極度に動揺する最中に発せられたこの「おことば」は、人々の不安を和らげる絶大な効果を発揮しました。天皇が首相よりも大きな影響力をもっていることが明らかになったのです。

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JP東京駅で、安倍晋三首相の見送りを受ける上皇、上皇后=2019年4月17日
 
 2016年8月8日の「おことば」は、この前例を多分に意識しつつ、退位に向けて国民の圧倒的支持を獲得するために発せられたと見ることもできます。

 こうして見ると、「おことば」に対しては憲法学者や政治学者たちからもっと疑義が呈されてしかるべきですが、一部の左派以外に問題提起する人がほとんどいない。それどころか「天皇が個人、当事者として発言することは憲法上許容される」という趣旨の発言をした学者もいました。驚きです。

 ――「おことば」の内容で重要な点はもう一つ、「象徴としてのお務め」の内容に具体的に触れている点です。これについても、憲法に規定された国民主権の原則との矛盾を指摘していますね。

 憲法は「象徴」の定義についてなんら触れていません。一方、第4条は、天皇は憲法が定める国事行為のみを行うと定めている。実際にはそれ以外に様々な「公務」を行っており、この公務の位置づけをどうするかについては、ながらく議論されてきました。

 ところが、天皇明仁は「おことば」のなかで、「象徴としてのお務め」について自ら定義づけを行い、「国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を、二本柱として位置づけました。

 これは、宮中祭祀と行幸を指しています。ご存じのとおり、上皇明仁と上皇后美智子は天皇皇后時代、いや皇太子と皇太子妃時代から、この二つにまさに「全身全霊をもって」取り組んできました。

 特にこの行幸啓は、昭和天皇がほぼ手をつけなかった被災地訪問と慰霊の旅を通じて国民に寄り添う姿勢を印象づけ、天皇制の新たなスタイルを確立しました。全国津々浦々をくまなく歩き、避難所に作業着姿で分け入って自らひざまずき、目線を下げ、被災者一人ひとりの顔を見てじっくりと言葉をかける。これが「平成流」と呼ばれるもので、明治大正昭和にはあり得なかったものです。

 かつての行幸は、イデオロギー教育を施したうえで、多くの人々を動員して君が代斉唱や万歳や分列行進などをさせるものでした。天皇は抽象的なマスとしての臣民あるいは国民にのみ対し、具体的な一人ひとりの顔を見ていません。しかし平成の天皇皇后は、個々の国民との関係性をつくろうと努力してきたように見えます。

 このスタイルは、カトリック的な教育の背景を持つ上皇后美智子が皇太子妃時代から方向性を形作ってきたものだと僕はみています。

 ただ、そこに本当の意味での「交流」はない。声をかけるのは常に天皇の側からであり、国民が天皇に向かって意見を表明することはあり得ません。そのことじたい、象徴の地位を「主権の存する日本国民の総意に基く」と規定した憲法第1条と矛盾しています。その矛盾が、天皇が象徴の振る舞いとは何かを自ら定義してしまった「おことば」に表れています。

■ 国民は「平成流」を支持し、天皇の求心力は増大した

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東日本大震災直後、7週連続で被災者を見舞った=2011年4月、宮城県南三陸町歌津
 
 ――しかも、この新たな行幸啓のスタイルは、また別の意味で、天皇がダイレクトに国民とつながるチャンネルを開いてしまった。
 そうです。北は宗谷岬から南は与那国島まで、かつてないほどの数の地方訪問を通じて、戦前とは違うかたちで天皇・皇后が国民一人ひとりと結びついた。行幸啓を記念する石碑が全国各地に建てられ「聖蹟」化し、新たな「国体」が国民のなかで内面化されていく。僕は「国体のミクロ化」と呼んでいますが、その意味では、天皇制はより強固になったのです。

 そして、これは一朝一夕に成立したものではありません。1959年の結婚直後から60年間にわたって積み上げられてきたものです。

 現上皇・上皇后のふたりが災害直後にそろって被災地入りしたのは、平成の幕開け間もない1991年の雲仙普賢岳の大火砕流のときです。被災者が避難する体育館でふたりは二手に分かれてひざまずき、被災者と同じ目の高さで一人ひとりに語りかけた。その姿が繰り返しニュースで流されました。

 その後、北海道南西沖地震、阪神・淡路大震災、中越地震と大災害のたびに同じ行動が繰り返されます。

 右派にとって、こうした姿はあってはならないものでした。天皇は人々が仰ぎ見るべき神格化された存在でなければならない。皇后美智子が存在感を示し、ミッチーブーム以来の天皇を上回る人気を背景に、昭和とは異なるスタイルを築いていったことも、受け入れがたかったでしょう。

 江藤淳は阪神・淡路大震災後、「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない」と、その行動を批判しています。また、新聞にも「天皇訪問よりも仮設住宅を早く造ることに政府は全力をあげろ」「被災地に警備の負担をかけ、迷惑」といった声が載っていました。

 しかしそうした疑問の声は、東日本大震災を機にいっさい消えます。

 発生から5日後の3月16日午後4時35分、前述した「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」がテレビで放映されました。人心が激しく動揺するなかで、テレビを通じて直接国民に語りかけ被災者や防災関係者を励ましたそのメッセージは、人々の心に強く響きました。

 天皇はこの「おことば」を自ら実践するかのように、その後7週間連続で皇后とともに被災地を訪問し続けます。都知事の石原慎太郎が「皇太子や秋篠宮を名代にしては」と進言したものの天皇明仁はそれを断り、強い意志で被災地に赴いたといわれています。

 実際には皇太子や秋篠宮も被災地を訪れましたし、政治家や宗教者も数多く行っています。にもかかわらず、メディアは天皇皇后が被災者の前でひざまずく姿を繰り返し流しました。ふたりの存在感が突出し、「国民に寄り添う」天皇のイメージが強く国民に刻印されたのです。

 「陛下がいらっしゃる限りはこの国は大丈夫」といった空気が社会に広がっていく様子は、ある意味で、世俗権力が持たない宗教的な力、天皇の「聖性」が発揮されたとすら感じさせるものでした。

 以来、ふたりの行動には右派からの批判も消え、称賛一辺倒になります。国民は「平成流」を支持し、天皇の求心力は増大しました。

■ 皇室の政治的発言に、国民とメディアの受け止め方が甘くなった
 
 ――平成流のあらたな「国体」をつくるのに、メディアが大きく貢献したということですね。

 上皇明仁本人も宮内庁も、それに自覚的だったと思います。「平成流」の象徴天皇像が国民に浸透しているという確信があった。それは、東日本大震災のときのビデオメッセージのインパクトという「成功体験」があったからです。

 この第一の「おことば」が、2016年8月8日の「おことば」につながっている。政府や国会をとびこえて国民にダイレクトに語りかければ、その手法も含めて国民は確実に支持する。そう十分予測したうえでやったと思います。結果そのとおりになって、「民意」がつくられたのです。

 こうした流れは、秋篠宮の「大嘗祭は皇室の私費で」発言にもつながっています。あの宮内庁批判は、明らかに国民を意識し政治的意図を持ったものだと言えます。皇室の政治的発言に対し、国民とメディアの受け止め方が非常に甘くなったのです。

 ――明仁上皇はむしろ、統治権の総覧者として明治以降に強大化した天皇制を否定し、権力が極小化されていた江戸以前の姿に立ち返ろうとしてきたように見えます。一方で、権威が高まった明治以降のあり方や方法を踏襲しているとも指摘していますね。

 上皇明仁が天皇の象徴の務めの二大柱に位置づけた宮中祭祀と行幸は、いずれも明治以降になって新たにつくられたり大々的に復活したりしたものです。つまり「つくられた伝統」です。

 明治天皇は京都から東京に移ると、江戸期には京都とその周辺以外にはほとんど忘れられていると言ってもよい存在だった天皇の威光と新時代の到来を臣民に知らしめるため、北海道から九州まで全国を巡幸します。これは9世紀初めの桓武天皇以来途絶えていた古代・上代の天皇巡幸を復活させたものです。昭和初期には、宮中祭祀も行幸も新聞などで大きく報道されることで、天皇の神格化が強まりました。

 敗戦で皇室祭祀令は廃止されたものの宮中祭祀そのものは私的行為としてほぼ残り、行幸も昭和天皇の戦後巡幸として復活します。そして平成になると、天皇と皇后がセットで動く行幸啓が、かつてないほど盛んに行われます。

 上皇明仁は退位することを通して天皇の権力が弱かった江戸期以前への回帰を目指しながら、実は強大な天皇制の残滓を受け継ぎ、天皇の務めの中核にしたのです。その矛盾に気づいているでしょうか。

*『原武史「米国は皇室に深く入り込んでいる」』へ続きます。5月11日公開予定です。
  
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019050500002.html  

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コメント
1. 中川隆[-10361] koaQ7Jey 2019年5月10日 16:21:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1743] 報告

美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイだった

私が学生の時だが、友人は、

[美智子妃殿下は皇太子が知的障害があるので、それに絶望して自殺未遂を二回した]

と言い張っていたよ。


[皇太子(今上天皇)は知的障害なのは公然の秘密]と言っていたな。

理由は[近親婚]を繰り返したから。

____

匿名 より: 2019年5月8日 4:47 PM


ガールズちゃんねる からの引用

35624. 匿名 2019/05/07(火) 17:51:11

知り合いがかなり中の仕事していたんだけど

上皇はまるで会話が成り立たないので
美智子さん頼みだったみたい

それで窓口が全部美智子になり
牛耳られたし女帝と化した


____


美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか?

2016年03月10日
やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1983268.html

BBの覚醒記録。さんのサイトより
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

<転載開始>

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で
永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。皇后陛下とGHQとの
癒着の根っこが明らかになりました。現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の
極めて具体的な体現者です。


要保存◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

要保存◆なんと、社会党が支援していた美智子さま 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

要保存◆皇后陛下は「アカ」でした 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室
弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために
日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教を
そのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を
次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、
愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の
擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より
高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って
歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の
低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは
自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、
GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との
親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが
残っています。女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから
追放されていた時代です。
外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに
反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては
相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、
平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)

日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを
追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの
ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。
ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1
1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用
1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立
1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得
1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社

この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?
なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました


http://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。

 そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。

【正田稲荷神社】
 もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。
  以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

  ・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている
祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの
移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた
白山神社さんと勘違いされた? 

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だという
ことではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?
何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。


皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に
再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面が
こういうふうである、と。


一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・


もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。
普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の
娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。
こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は
不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。


http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。
国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが
その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 - 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?
気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、
美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。
足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために
群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、
過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が
美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、
それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、
「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について
発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが
(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが
更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ


国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為があった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。
皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま
即位させないと、計画が成就しないわけです。


いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、
潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、
個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに
反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。
そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに
母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。


そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。
皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方で
すでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に
難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている
「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が
入り込みます。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

2. しんのすけ99[415] grWC8YLMgreCrzk5 2019年5月10日 17:10:05 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[177] 報告
まーまーまー タイトルに 天皇と付くと ストーカーのように現れる馬鹿が どうせすぐ削除の憂き目に遭うのに
まったく懲りずに妄想 振りまいておりますな

馬鹿はほおっておいて 確かに 平成の天皇は 国民の目線に 意識して降りてきた と言えましょう

なにせ 昭和天皇に対しては 国民は 「御真影」 でしか見た事はなく あの玉音放送でさえ 戦地の連合軍が
日本の謀略を疑い、日本兵の捕虜に 玉音放送を聞かせて 本当に昭和天皇の声なのかどうか確かめようと
何人もの日本兵に聞かせたはいいが、誰一人として 天皇の肉声を聞いた事はなく 昭和天皇の声であると
証言する事ができた捕虜は 一人もいなかったという

そして

「それでは 私の考えを言おう 私は(和平すべきという)東郷外相の意見に同意である」(日本の一番長い日より)

つまり 初めて 日本の国の行く末に 自らの意思で大きな影響を与えたのは この ポツダム宣言受諾である
ここから この言葉から 戦後の日本 新生日本が始まったと言えましょう

しかし いくら後に人間宣言をしようとも 国民にとってやはり昭和天皇は あくまでも雲の上の人であった
阪神淡路や東日本震災の被災者たちに ひざを曲げて腰を下ろし同じ目線に降りてきて語りかけるその姿に
ようやく 昭和天皇が望んだ 人間としての天皇 が、実現したのだと思う。

3. 2019年5月11日 19:14:59 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[73] 報告
強くなる だから怖れる 悪用を

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