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<NHKが大スクープ!昭和天皇「拝謁記」入手!>NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け  天木直人 
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html
投稿者 赤かぶ 日時 2019 年 8 月 17 日 04:07:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 











NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け
http://kenpo9.com/archives/6230
2019-08-16 天木直人のブログ

 たったいま、NHKニュースウオッチ9が衝撃的な史実を報じた。

 すなわち、初代宮内庁長官が書きとどめていた昭和天皇の反省の独白が公表されたのだ。

 明日以降、あらゆるメディアが大騒ぎして報じるであろうから、ここではその詳細を繰り返さない。

 私がここで強調したい事は、ここまでの史実が見つかったのである。

 この国の政治家たちは、戦後の日本のあり方を、もう一度根本的に議論して、令和時代にふさわしい民主国家日本をつくり直す作業に取り掛からなければいけなくなった。

 そして、日本国民は、政治家たちにそれを要求し、いまこそ自分たちの手で日本をつくり直す、つまり、はじめての民主革命を起こさなければいけなくなったのだ。

 この昭和天皇の告白を日本の夜明けにつなげなければいけない。

 天皇制を、日米安保体制を、憲法9条を、そして何よりも歴史認識を、根本的に考え直さなければいけなくなったのだ。

 私は懸念する。

 冒頭で私は書いた。

 明日からあらゆるメディアが大騒ぎして報じるだろうと。

 しかし、そうならないおそれがある。

 封じ込められるおそれがある。

 いまさら市民革命が起きては大変なことになるからだ。

 安倍首相の祖父である岸信介の大罪が追及される事になるからだ。

 なによりも安倍首相の歴史認識や外交が糾弾されるからだ。

 実際のところ、NHKは古川隆久という学者を登場させて要領の得ない解説をさせていた。

 古川隆久という学者は、みずから解説するのではなく、こういうべきだったのだ。

 こんな重要な史実を、私ごときが解説などする資格はないと。

 すべての歴史学者、政治家を総動員して、国民に本当の解説をしてあげなければいけないのだと。

 私はこころから願う。

 この昭和天皇の告白について、これからどんなに時間をかけてもいいから、国民的議論を行って、最後は国民が結論を出すようになることを。

 そして国民がそれでも、これまでの戦後の日本でいいと言うなら、それが日本の市民革命の結果だ。

 私はそれに従う。

 しかし、その前に、どうしても、昭和天皇の告白の評価は、国民が審判を下さなけければいけない。

 いよいよ新党憲法9条の出番が来るかも知れない。

 歴史が動く大きな地響きを感じざるを得ない(了)



昭和天皇「拝謁記」入手 語れなかった戦争への悔恨
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190816/k10012038471000.html
2019年8月16日 19時00分 NHK


動画→https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190816/k10012038471000.html

天皇陛下の祖父、昭和天皇の実像に迫る第一級の資料です。NHKは初代宮内庁長官が5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対で、その一節が削られていたことがわかりました。分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。

繰り返し語る後悔の言葉



「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。

田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやりとりや、そのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。



その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

強くこだわった「反省」



さらに昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

削除された戦争への悔恨

当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。



田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

専門家「現代生きる者にも重い記録」



「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「戦争を回顧し、重要な局面でなぜミスをしてしまったのか、繰り返し考え話す中で、独立回復の際のおことばにも、やはり反省を盛り込みたいという気持ちが強くなっていったのだろう」と述べました。

そのうえで、「新憲法ができてから初めて、ある程度踏み込んだ発言ができるかもしれないチャンスが講和条約発効のおことばだった。反省なりおわびをして、どこかで戦争の問題にけりをつけたいということが出発点であり、一番の動機だというのははっきりしている」と指摘しました。

さらに、「象徴天皇としてどういう振る舞い方をするかということを学習した過程でもあるだろうが、昭和天皇個人にとっては苦渋の過程というか、今後ずっとこうやっていかなきゃいけないのかということを認識させられた苦い思い出の方が大きかったのではないか。その後、記者会見で、肝心なことは『言えない』で通したことが、このときの苦渋の思いを引きずっていたことの表れなのだと思う。そういう意味で昭和天皇にとって、とても重い体験だったのではないか」と述べました。

また、「拝謁記に出てくることは全部、結局は日本が無謀な戦争を起こして負けてしまったことにつながる。天皇のあり方が戦前の主権者から象徴へと変わったのも、政治関与を厳しく制限する規定ができたのも、敗戦がきっかけで、しかも形式的な責任者は昭和天皇本人だった」と話しました。

そして、「拝謁記は、昭和の戦争というものは現代に生きるわれわれにまでいろいろな意味で重くのしかかっているということを改めて認識させる記録、忘れてはいけないということを語りかけてくれている記録ではないか」と話しました。

専門家「発言をほぼそのまま記録 非常に珍しい」



日本の近現代政治史が専門で、一橋大学の吉田裕特任教授は「昭和天皇の肉声の記録は『昭和天皇独白録』のような、形を整えるために後から手を入れたものが多いので、発言をほぼそのまま記録しているというのは非常に珍しい」と指摘しました。

そして、「昭和天皇と側近の内輪のやりとりが非常に克明にかなりまとまった形で残されているという点で非常に重要な資料だ。昭和天皇の肉声が聞こえてくるし、天皇自身の考えの揺らぎみたいなものが伝わってくる」と話しました。





























 

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コメント
1. 赤かぶ[26076] kNSCqYLU 2019年8月17日 04:10:17 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16143] 報告

「生々しい肉声 超一級の資料」
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/about-diary-01.html
2019年8月16日 NHK



今回見つかった「拝謁記」は初代宮内庁長官の田島道治が、日記とは別に、昭和天皇などと面会した際のやり取りなどを記録していたもので、長年遺族の元で極秘に保管されていました。



18冊の手帳とノート

宮内府の長官に就任した半年後の昭和24年2月から長官を退いた昭和28年12月までの4年10か月余りの間の拝謁の記録が、手帳とノート合わせて18冊に記されています。

このうち6冊は小型の手帳や日記帳で、欄外や余白部分にまで細かい文字がびっしりと書き込まれていて、12冊はより大きなA5やB5サイズのノートに記されています。

手帳や日記帳の形をしているものは、いずれも冒頭部分に「拝謁記」というタイトルと記録の期間が書かれています。また、ノートの一部には表紙に赤鉛筆で「マル秘」と書かれています。一部原本が残っていない時期がありますが、遺族が「拝謁記」の内容を24冊のノートに書き写して保存していたため、こうした時期のやり取りもうかがうことができます。



昭和天皇の発言だけでなく、相対している田島長官の発言や田島長官がその時感じたことなども含めて2人の対話の流れをそのまま追える形で書かれているのが大きな特徴です。

また、拝謁の日付だけでなく、開始と終了の時間や場所のほか、同席者の有無、天皇から呼ばれた「御召し」か長官から面会を求めた「願出(ねがいで)」かなど、その時々の状況も詳しく記録されているため、長い時間をかけて昭和天皇と田島長官の間で交わされたやり取りが、その場の雰囲気も含めて手に取るようにわかります。

専門家「生々しい肉声 超一級の資料」

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「詳しくて生々しい昭和天皇の肉声がいっぱい書かれているので非常に驚いた。発言の要旨ではなくほとんど昭和天皇がしゃべったままの言葉が書かれていると思う。昭和天皇の肉声をこれほど継続的に詳しく記録した資料は他に例がなく、今後昭和史を研究する上で超一級の基本資料になる」と話しています。

拝謁の記録は600回 300時間超



「拝謁記」には合わせて622回の拝謁が記録されていて、このうち99%にあたる613回が昭和天皇への拝謁でした。そのほとんどにあたる563回は場所が明記されていて、それ以外についても他の記録と突き合わせることで場所が特定できるものもあります。

拝謁の場所で最も多かったのは、当時宮内庁の庁舎内にあり、昭和天皇が公務のために使っていた部屋「御座所(ござしょ)」で334回、次いで、戦時中に作られた防空施設で、空襲のため宮殿が焼失したあと戦後長く昭和天皇が住居として使っていた「御文庫(おぶんこ)」が175回、葉山御用邸が32回、那須御用邸が12回などとなっています。

中には、地方巡幸に向かう特別列車の車内や訪問先の宿舎などでのやり取りの記録もありました。

拝謁は短い時で数分、長いときには2時間にも及び、記録された面会時間を足し上げると330時間を超えます。

9割は「昭和天皇実録」に記載なし

「拝謁記」の発見によって今回判明した昭和天皇と田島長官のやり取りのほとんどは、これまで全く知られていなかったものです。

宮内庁は、昭和天皇の活動を後世に伝えるため、公文書をはじめ未公開の日誌や側近の日記、それに外交や防衛関連の文書などおよそ3000件にのぼる資料をもとに、24年5か月かけて61巻、1万2000ページ余りにおよぶ公式記録集「昭和天皇実録」を編さんし、5年前に公開しました。


昭和天皇実録

田島家に残されていた資料のうち、長官在任中の日記や文書などはこのとき宮内庁に提供され、昭和天皇実録のさまざまな記述の典拠として使われました。

しかし、「拝謁記」については極秘に保管されていたということです。このため、「拝謁記」に記録されている昭和天皇と田島長官の拝謁のうち実録に記載があるのはわずか1割に過ぎず、その部分も交わされた会話の詳しい内容はほとんど記されていません。

「空白期」埋める貴重な資料

「拝謁記」の分析を担当した近現代史の専門家たちは、「田島の拝謁記にはこれまで資料が乏しかった占領期の昭和天皇の肉声がこれ以上期待できないほどの質と圧倒的な量で記録されていて、今後占領期の日本や象徴天皇制の成り立ちを研究するうえで根幹をなす貴重な資料だ」と指摘しています。

昭和天皇の肉声を記録した資料は、戦前や戦中については宮内大臣や内大臣を務めた牧野伸顕の日記や、戦時中に内大臣を務め戦後A級戦犯として終身禁錮刑の判決を受けた木戸幸一の日記などがあり、研究も進んでいます。

しかし戦後のものは多くなく、このうち、戦後間もない頃に侍従次長を務めた木下道雄の「側近日誌」には、当時の宮中の状況や昭和天皇の肉声が克明に記録されていますが、その期間はわずか半年余りです。

また、戦中から昭和60年まで側近として昭和天皇を支え、侍従長も務めた入江相政が50年余りにわたってほぼ毎日つけていた日記も残されていますが、占領期については、まだ若手の侍従の1人にすぎなかったため、重要な場面に関する記述や昭和天皇の肉声の記録はほとんどありません。

このほか、昭和天皇が戦争に関する出来事を回想し、側近に書き取らせた「昭和天皇独白録」もありますが、東京裁判対策のために作られたこともあり、その内容は限定的です。


昭和天皇独白録

戦後の占領期は断片的な資料しかない、いわば「資料の空白期」で、昭和天皇の戦争責任や政治への関与に関する新事実は、アメリカ側の資料によって少しずつ明らかにされてきたのが実情です。

9か月かけ10人超える専門家と分析

NHKは、日本近現代史が専門の第一線の研究者に協力を求め、およそ9か月かけて遺族から提供を受けた「拝謁記」などの資料の解読と分析を進めてきました。



分析を主に担当したのは「昭和天皇『理性の君主』の孤独」などの著書がある日本大学の古川隆久教授をはじめ、志學館大学の茶谷誠一准教授、成城大学の瀬畑源非常勤講師、京都大学大学文書館の冨永望特定助教の4人のチームです。

それ以外に、4人の若手研究者が膨大な記述の解読作業をサポートしたほか、昭和天皇実録の編さんに関わった元宮内庁職員や政治史や軍事史などが専門の複数の研究者、それに海外の識者にも「拝謁記」や関連資料の評価などについて意見を求めました。

「拝謁記」の分析には合わせて10人を超える専門家が関わっています。



2. 赤かぶ[26077] kNSCqYLU 2019年8月17日 04:14:12 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16144] 報告



昭和天皇 語れなかった戦争の悔恨
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1
2019年8月16日 NHK


昭和天皇と田島道治宮内庁長官(右)

NHKは初代宮内庁長官が、5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対でその一節が削られていたことがわかりました。分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。

繰り返し語る後悔の言葉


田島道治宮内庁長官

「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。

田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやり取りやそのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。


昭和天皇(昭和24(1949)年)

その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

強くこだわった「反省」



さらに、昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

削除された戦争への悔恨


吉田茂首相(昭和27(1952)年)

当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。

田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

専門家「戦後も戦前・戦中を生きていたのではないか」


日本大学 古川隆久教授

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と指摘したうえで、「戦争への後悔や反省の記述が多く、昭和天皇は戦後も戦前・戦中を生きていたのではないか。戦争の問題にけりをつけたかったが、その後も苦渋の思いを引きずることになった。『拝謁記』は昭和の戦争を忘れてはいけないと語りかけている」と話しています。



3. 赤かぶ[26078] kNSCqYLU 2019年8月17日 04:29:23 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16145] 報告

繰り返し戦争を回顧 後悔語る
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-01.html
2019年8月16日 NHK



「拝謁記」には、昭和天皇が繰り返し敗戦に至る道のりを振り返り、田島長官に悔恨の念を語ったと記されています。その多くは開戦を止められなかったことに対するものでした。



昭和3年「張作霖爆殺事件」


張作霖搭乗の列車爆破現場(昭和3(1928)年)

昭和3年、中国に駐留していた「関東軍」が満州軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を乗っている列車ごと爆破して殺害した事件。


田中義一首相(昭和4(1929)年)

昭和天皇は、事件をあいまいに処理しようとした当時の田中義一総理大臣を叱責しましたが、首謀者が停職になっただけで事件の真相は明らかにされませんでした。3年後、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府もそれを追認しました。

「拝謁記」の中で、昭和天皇は軍が勝手に動く様を「下剋上」と表現して繰り返し批判したと記載され、昭和27年5月30日の拝謁では「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣の時ニ張作霖爆死を厳罰ニすればよかつたのだ。あの時ハ軍でも大して反対せず断じてやればきいたらうと思ふ」と後悔の言葉を述べたと記されています。

また、昭和26年6月8日の拝謁では「張作霖事件の処罰を曖昧ニした事が後年陸軍の綱紀のゆるむ始めニなつた。張作霖事件のさばき方が不徹底であつた事が今日(こんにち)の敗戦ニ至る禍根の抑々(そもそも)の発端」などと繰り返し事件に触れて当時の対応を悔やんでいて、田島長官は「御信念より相当繰り返し御主張ニなる」と記していました。

昭和11年「2・26事件」

陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター、2・26事件では、昭和天皇は厳罰にするよう指示し、反乱は鎮圧されましたが、軍部の台頭はさらに強まりました。



昭和25年11月7日の拝謁で、昭和天皇は「青年将校ハ私をかつぐけれど私の真意を少しも尊重しないむしろありもせぬ事をいつて彼是(かれこれ)極端な説をなすものだ」と述べ、その翌月の拝謁(昭和25年12月26日)でも、「兎ニ角(とにかく)軍部のやる事はあの時分は只々(ただただ)無茶で迚も(とても)あの時分の軍部の勢は誰でも止め得られなかつたと思ふ」と振り返ったと記されています。

昭和16年「太平洋戦争」


太平洋戦争 真珠湾攻撃(昭和16(1941)年)

昭和天皇は昭和26年9月10日の拝謁で「東條が唯一の陸軍を抑え得る人間と思つて内閣を作らしたのだ。勿論(もちろん)見込み違いをしたといえばその通りだが」と振り返り、昭和26年12月14日の拝謁では「平和を念じながら止められなかった」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」と述べたと記されています。


東條内閣(昭和16(1941)年)

また、昭和27年5月28日の拝謁では「東條は政治上の大きな見通しを誤ったといふ点はあったかも知れぬ」としたうえで、「強過ぎて部下がいふ事をきかなくなった程下剋上的の勢が強く、あの場合若し(もし)戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になったかも知れず、又東条の辞職の頃ハあのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角(とにかく)負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争ハあゝ一部の者の意見が大勢を制して了(しま)つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら」と語ったと記されています。

さらに、昭和27年4月5日の拝謁では、間接的な原因を結果に結びつけて厳しく批判する意味の「春秋の筆法からすれば」という言い回しを使って、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」とも述べ、日米開戦を防げなかった責任は開戦時の総理大臣だった東條英機の前任の近衛文麿にあるという認識を示したとされています。


近衛文麿首相

一方で、アメリカをはじめとする連合国の開戦以前の対応についても振り返っていたと記されています。

昭和天皇は昭和25年12月1日の拝謁で「之は私の勝手のグチだが」とことわったうえで、「米国が満州事変の時もつと強く出て呉れるか或いは適当ニ妥協してあとの事ハ絶対駄目と出てくれゝばよかつたと思ふ」と述べたと記されています。

また、戦艦や空母などの主力艦の保有比率をアメリカやイギリスの6割に制限した大正10年のワシントン海軍軍縮条約に触れ、「五五三の海軍比率が海軍を刺戟(しげき)して平和的の海軍が兎に角く(とにかく)あゝいふ風ニ仕舞ひニ戦争ニ賛成し又比率関係上堂々と戦へずパールハーバーになつた」と述べたと記されていて、アメリカとイギリスが中心となって日本を抑え込んだ「ワシントン体制」が太平洋戦争の遠因だという認識を示していたことがわかりました。

そのうえで、軍縮条約締結時のアメリカの国務長官の名前を挙げ、「春秋の筆法なればHuphes(ヒューズ)国務長官がパールハーバーの奇襲をしたともいへる」と述べると、田島長官が「これは此(この)御部屋の中だけの御話でございます」と決して他言しないよう釘を刺したことが記されています。

終戦工作 敗戦

さらに、なぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのかなど、終戦時のことも田島長官に繰り返し語ったと記されています。

昭和27年2月26日の拝謁では、昭和天皇が「実ハ私はもつと早く終戦といふ考を持つてゐたが条約の信義といふ事を私は非常ニ重んじてた為、単独媾和ハせぬと独乙(ドイツ)と一旦条約を結んだ以上之を破るはわるいと思つた為おそくなつた」と語ったほか、日独伊三国同盟を結んだ理由については、日本の軍閥がドイツが勝つことを信じ切っていたためだが、その予想が違ったと述べたと記されています。

昭和天皇はポツダム宣言を受け入れる、いわゆる「聖断」を行い、昭和20年8月15日に戦争が終わりましたが、昭和27年3月14日の拝謁では「私ハ実ハ無条件降伏は矢張りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたような時ニ其時を見付けたいといふ念もあつた」と語ったと記されていて、いわゆる「一撃講和論」にあたる考えを持っていたことを明かしていたことがわかりました。


東京 皇居前広場(昭和20(1945)年8月15日)

そして、昭和26年12月17日の拝謁で昭和天皇は「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或(あるい)はもつと早く止(や)める事が出来なかつたかといふやうな疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思ふし、又首相をかへる事ハ大権で出来る事故(ことゆえ)、なぜしなかつたかと疑ふ向きもあると思ふ」と述べたと記されています。

田島長官が「それは勿論(もちろん)あると思ひます」と述べると、昭和天皇は「いやそうだらうと思ふが事の実際としてハ下剋上でとても出来るものではなかつた」と答えたと記されていて、太平洋戦争を止められなかった後悔で、戦後も苦悩し続けたことがうかがえます。



4. 赤かぶ[26079] kNSCqYLU 2019年8月17日 04:35:29 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16146] 報告

「南京事件」も回顧
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-02.html
2019年8月16日 NHK



「拝謁記」には、日中戦争のさなかに日本軍が略奪などを行い、一般住民や捕虜を殺害した「南京事件」について、昭和天皇が言及する様子も記されていました。



ウス/\聞いてはゐた

昭和27年2月20日の拝謁で、昭和天皇は「私ハ反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」として、まず太平洋戦争でアメリカとイギリスに宣戦布告した際の詔勅の文言について悔いが残っていると述べたうえで、「南京事件」に言及したと記されています。

この中で昭和天皇は「支那事変で南京でひどい事が行ハれてるといふ事をひくい其筋(そのすじ)でないものからウス/\(うすうす)聞いてはゐたが別ニ表だつて誰もいはず従つて私は此事(このこと)を注意もしなかつたが、市ケ谷裁判で公ニなつた事を見れば実ニひどい。私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだ」と述べたと記されています。

専門家「軍や国の体質・あり方考える材料」

これについて拝謁記の分析にあたった歴史家の秦郁彦さんは「南京事件について当時、ちょっと聞くには聞いたというニュアンスだろう」と話しました。

また、日本大学の古川隆久教授は「これはこの段階での昭和天皇の正直な認識だと思う。うすうす聞いていたけど止めなかったというところについては、道義的な批判が出る可能性はあるが、むしろ、うすうすしか報告が上がってこないという戦前の軍や日本の国の体質やあり方を考える材料として考えた方がいい」と述べました。



5. 赤かぶ[26080] kNSCqYLU 2019年8月17日 04:56:05 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16147] 報告

こだわった「反省」の言葉
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-03.html
2019年8月16日 NHK



「拝謁記」では、戦争の道義的責任を感じ、深い悔恨の念と、二度と繰り返さないよう反省の言葉を国民の前で語りたいと強く望んだ昭和天皇と、それを語ることで再び退位論をよびさまし、戦後復興に水をさすことを避けたいという当時の吉田茂総理大臣の考えの違いが浮き彫りになっています。



国民へのメッセージ 語るべきか

最初に昭和天皇が国民へのメッセージに言及したのは講和をめぐる日米交渉が本格化していた昭和26年1月24日の拝謁でした。

この中で昭和天皇は「媾和となれば私が演説といふか放送といふか何かしなければならぬかと思ふがその事を考へてくれ」としたうえで、「演説…といふ様なものなれば政治ニ関係ハないといつていへぬ事ハないとしても矢張り政府ニ無関係といふ訳ニもいかぬ様であり政府と相談しなければならぬと思ふが」と述べ、講和成立時に国民にどのようなメッセージを語るべきか検討するよう田島長官に指示したことが記されています。

これに対し田島長官は「それは天皇は政治ニ無関係でありまするから政治ニ関しての御話の事はありませぬが政治に関連する事ハ確かでありまするから充分政府と連絡してからでないといけませんと存じます」と答えたと記されています。

このとき昭和天皇は、自らのメッセージの内容について「困る事が二つあると思ふ」と、懸念を語ったと記されています。



その1つは領土の問題だとして小笠原諸島と沖縄を返還しないというマッカーサーの方針に言及し、「そうすると徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事で たとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが同一人種民族が二国(にこく)二なるといふ事はどうかと思ふのだが此点ニ関し演説で何といふか」と述べたと記されています。



さらに、「今一つは再軍備の問題だ こゝで私の責任の事だが従来の様にカモフラージュでゆくかちやんと実状を話すかの問題があると思ふ 此点急に媾和が出来てあは(わ)てぬやうに考へておいて欲しい」と田島長官に求めたと記され、領土を失ったことについてどう触れるかや、自らの道義上の責任を明確に語るべきかどうかを気にかけていたことがうかがえます。

これに対し田島長官は「それは御演説をそういふ非常の時ニ国民に直接御話頂く事は大事のやうに思ひますがよく慎重ニあつた方がよいか、よいとしたらどういふ内容とすべきかといふ問題の研究といふ事の様に存じますから其点今日からよく研究致します」と答えたと記されています。

独立「少シモ喜ブベキデナイ」

さらに、その半年後、▽サンフランシスコ平和条約の調印が翌々月に迫った昭和26年7月26日の拝謁では、独立することになっても、敗戦の結果であることを考えれば、決して喜べないという複雑な心境を吐露しています。


ダレス米国務長官顧問(昭和25(1950)年)

この中で昭和天皇は「私ハ媾和はDulles(ダレス)等ノ配慮デ 敗戦国トシテ第一次の独ヨリモドコヨリモ 寛大ナ条件デヨロシイト思フ 又六年モ独立国デナカツタノガ 独立スルコト故(ゆえ)結構ト思フシ 国民ニモソノ感ジハアルガ 素(もと)ヨリ敗戦ノ結果デアリ 領土ノ一部ヲ失フトウフコト 戦死傷者ノコト 未帰還者ノコト等 戦争ニツイテノ 犠牲者ノコトヲ考フレバ 少シモ喜ブベキデナイ」と述べたと記されています。

吉田総理の意向

そして、国民にどう話すべきか、こうした点の「カネアヒノ処ガドウモ分ラヌ」と悩む昭和天皇の指示を受けて、田島長官は吉田総理大臣を訪ねて考えを聞きます。

その2週間後の拝謁(昭和26年8月9日)では田島長官が吉田総理大臣の意向を報告しました。

田島長官は「まけた国が条約をむすぶのに全権団等ニ大さわぎするのはどうかと思つてるらしく、軽はづみ上調子の事ハ避けたいとの意向でそれには首相としてハ米国以外の国の思惑を余程(よほど)顧慮(こりょ)致して居りまするらしく」としたうえで、「派手な事と思はれる部類の事ハ止(や)めにして例へば陛下の御放送の如きも願ハず又媾和ニ際して陛下の特別の御声明等も必要なく国会開会式のおことばニより国会を通じて国民へ御よびかけ頂きたい吉田の意思のやうでありました」と述べ、吉田総理大臣が終戦を告げた玉音放送のような特別なことをするのではなく、国会の開会式のおことばの中に盛り込むよう求めたことが記されています。


吉田茂首相

その後、しばらくは、国会開会式のおことばにメッセージを盛り込む方向で調整が進められましたが、吉田総理大臣の(昭和26年10月4日)「憲法上よりして反対党ニ議論の余地を与へ度なき」という意向によって見送られ、結局、昭和天皇のメッセージは独立回復時のおことばに盛り込まれることになりました。

こだわった「反省」の言葉

昭和26年12月9日の拝謁では、田島長官が「予(かね)ての問題でありまする平和ニ関しての陛下の御声明の事ハ兎ニ角(とにかく)田島が書いて見ます故よければ出すといふやうな点まで話が進んで参りました」と報告したと記されていて、このあとおことばの草案作りが本格化したことがわかります。

この中で、昭和天皇がこだわったのは「反省」という言葉を盛り込むことでした。



昭和27年1月11日の拝謁では、昭和天皇が「私は例の声明メッセージには反省するという文句ハ入れた方がよいと思ふ/此前(このまえ)長官は反省するといふと政治上の責任が私にあるやうにいいがかれるといけないといつたが私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と述べたと記されています。

さらに昭和27年2月20日の拝謁では「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めたうえで、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるいことがあるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しいと思ふ」と述べ、政府や国民もともに反省して二度と繰り返したくないという認識を示したと記されています。

しかし、これに対し宮内庁内部では「御弁解のような感を与える」として全面的に修正する案が出たと記されています。

その6日後の拝謁(昭和27年2月26日)で、田島長官が、検討の結果「反省」の文字を削除したことを告げると、昭和天皇は「矢張り過去の反省と将来自戒の個所が何とか字句をかへて入れて欲しい/よく字句をもう一度練つてくれ」と反省と自戒の要素を盛り込むことに強くこだわったことが記されていました。



国民に直接語りたいという昭和天皇の思いは強く、昭和27年3月6日の拝謁では「相変らず日本は旧態依然でハどうかと思ふ故 これはラヂオがよいと思ふ よく調べて研究してくれ」と述べ、もし講話条約発効の記念式典が開かれない場合でも、ラジオを通じて国民に語りかけたいという意向を示したことが記されています。



昭和27年3月10日に、田島長官が宮内庁幹部の間での推敲の結果、戦争が本意ではなかったことを伝える「事志(ことこころざし)と違い」という文言について、「何か感じがよくない」として削ったことを告げました。

田島長官や宮内庁の幹部らは、昭和天皇が戦争は自らの本意ではなかったと語ることが責任逃れのように国民に受け止められるのではないかと危惧していました。

これに対し、昭和天皇は「どうして感じがよくないだらう?」、「それをいつてどこがわるいのだろう」とか、「実際私ハそうなのだから、私ハあつた方がよいと思ふ」と不満を述べたことが記されています。

戦争への悔恨 一節全体削除

その後、昭和天皇と田島長官らとの間で文案がまとまり、最終調整が進められますが、式典が目前に迫った昭和27年4月18日の拝謁では、文案への意見を求めていた吉田総理大臣から戦争への悔恨を表す一節全体を削除してほしいと求める手紙が届いたことを昭和天皇に報告します。



田島長官は吉田総理大臣の反対の理由について「折角(せっかく)今声をひそめてる御退位説を又呼びさますのではないかとの不安がある。最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない」「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」などと説明したと記されています。そのうえで吉田総理大臣に「陛下が国民に真情を告げたいといふ思召(おぼしめし)の出発点が消えて了(しま)つては困ります」と反論したと報告しています。

さらに3日後の拝謁(昭和27年4月21日)では、昭和天皇が「あれからずつと考えたのだが、あゝいふ事ハ私ハ外国人にはいつもいつてるし、どうもわるいとは思ハないが、総理が困るといへば不満だけれども仕方ない」と述べ、総理大臣の意見の重さに理解を示しながらも、自らの深い悔恨の念をおことばの中に残したいと田島長官に伝えたことが記されています。



これについて田島長官は「今日ははつきり不満を仰せになる」と記していました。そして、田島長官は「総理の考へと致しましては終戦迄の事ハ終戦の時の御詔勅で一先ず(ひとまず)すみと致しまして、今回ハ終戦後の事で始めとしてむしろ今後の明るい方面の方の事を主としていつて頂きたいといふ方の考へであります。此際(このさい)戦争とか敗戦とかいふ事ハ 生々しい事ハ避けたいという意味であります」と重ねて吉田総理大臣の考えを説明したと記されていました。



昭和27年4月22日の拝謁で、田島長官は「職責上一人の責任をもちまして矢張り総理申出の通りあの一節を削除願つた方がよろしいといふ結論に達しました」としたうえで、その理由について「現在のまゝ御留位の御表明でありまする故、日本最高の機関と申しますか、天皇の御地位ニ何の変化もありませぬる事故、国政ニ無関係と申す訳でありますが、此事(このこと)の裏を読みますれば、多少問題となって来た御退位、即ち国政の重大事の御退位のない事の表明であります故、実ハ大きな国政問題の内容を持って居ると存じまする。そういふ性質の問題でありまする以上、国政の責任者である首相の意見は重んぜられなければならぬと思ひます。/折角静まつてる退位論の寝た子を起すの心配といふ事でありますれば、一層そうかと存じます」と説明したことが記されています。

さらに、「陛下から仰せ頂きました事志(ことこころざし)と違ひと具体的ニ戦争、敗戦、戦禍と申しませぬ迄で国是や御念願ニ反した結果ニなつた言訳的文句又ハ戦争ハしたが今更平和論者のやうな顔するといふ誤解もありまするので、思ひ切つて全文一節とつた方がよろしいかと存じまする 陛下には御不満と拝察し恐入りまするが御許しを願ひたいと存じまする。祝典のおことばで独立の喜びで将来ニ嘱目する方が似付かはしく、むしろ戦争の事を具体的に取上げ書きたてる事ハ避けた方がよいとも考へられます故」と述べたと記されています。


対日講和条約が発効し東京 上野広小路で祝賀行事(昭和27(1952)年)

これに対して、昭和天皇は「長官がいろ/\そうやって考へた末だからそれでよろしい」と述べ、田島長官が「御思召(おぼしめし)を一年近く承りながら今頃こんな不手際ニ御心配おかけし御不満かも知れませぬものを御許しを願ひ誠に申訳ございませぬ」とわびると、昭和天皇は「いや、大局から見て私ハこの方がよいと思ふ」と受け入れたと記されています。

こうして昭和天皇が強く望んだ深い悔恨の一節は削除され、国民に伝えられることはありませんでした。




6. 赤かぶ[26081] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:03:46 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16148] 報告

天皇の位にとどまるべきか 心の動きも記述
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-04.html
2019年8月16日 NHK



昭和天皇は昭和27年5月3日のサンフランシスコ平和条約発効の記念式典のおことばで、天皇の位にとどまり国民とともに歩む意向を初めて公の場で明らかにしましたが、「拝謁記」には、そこに至るまでの昭和天皇の心の動きがうかがえる記述もありました。



退位求める声も

当時、日本では、講和を機に天皇の退位を求める声が再び高まっていて、のちに総理大臣を務める中曽根康弘衆議院議員が国会の質疑(昭和27年1月31日予算委)の中で「もし天皇が御みずからの御意思で御退位あそばされるなら、平和条約発効の日が最も適当である」と述べたこともありました。


講和条約に調印する吉田茂首相(昭和26(1951)年)

こうした中、サンフランシスコ平和条約調印から3か月たった昭和26年11月9日の拝謁では、昭和天皇が「退位論者でなくても戦争防止がなぜ出来なかつたとか終戦がもつと早く出来なかつたかといふ疑問ハ持つだろう」と述べたと記されていて、退位を求める声や戦争に対する道義的な責任の問題を意識していたことがうかがえます。

「困難ニ直面する意味」

その2日後の昭和26年11月11日に近畿巡幸に向かう特別列車の車内での拝謁では、昭和天皇が「私の退位云々の問題ニついてだが」と切り出し、「帝王の位といふものは不自由な犠牲的の地位である/その位を去るのはむしろ個人としてハ難有(ありがた)い事ともいへる 現ニマ元帥が生物学がやりたいのかといつた事もある。/地位ニ止まるのは易きニ就くのではなく難きニ就き 困難ニ直面する意味である」と力説したと記されていました。

これに対して田島長官は「恐れ多くございますが/陛下は法律的ニハ御責任なきも道義的責任がありと思召(おぼしめ)され此責任を御果しになるのに二つあり、一つは位を退かれるといふ消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建の為に困難な道ニ敢て当らうと遊ばす事と存じます そして陛下は只今も色々仰せになりましたやうに困難なる第二の責任をとる事の御気持ちである事を拝しまするし 田島の如きはいろいろ考へまして その方が日本国の為であり結構な結論と存じまする」と述べたと記されています。


皇居前広場で開かれた記念式典(昭和27(1952)年)





7. 赤かぶ[26082] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:08:40 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16149] 報告


8. 赤かぶ[26083] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:09:49 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16150] 報告


9. 赤かぶ[26084] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:10:45 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16151] 報告


10. 赤かぶ[26085] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:11:53 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16152] 報告


11. 赤かぶ[26086] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:13:02 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16153] 報告


12. 赤かぶ[26087] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:14:00 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16154] 報告


13. 赤かぶ[26088] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:15:48 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16155] 報告


14. 赤かぶ[26089] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:16:51 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16156] 報告


15. 赤かぶ[26090] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:17:57 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16157] 報告


16. 赤かぶ[26091] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:18:57 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16158] 報告


17. 中川隆[-8819] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:20:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3923] 報告
April 29, 2017

天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2oRPQmn

「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」

―当時の背景は。

「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」

「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」

―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。

「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」
https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/


▲△▽▼

昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。


この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/

▲△▽▼


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。


国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。


アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/2902


対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。


マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm


真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。

 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm


負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。

日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/2873


大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった

まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/2907


日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。
あの戦争では320万人が犠牲となった。あらゆる家族で親類に戦死者がいないところはないというほど殺された。

あの戦争は天皇を頭とする独占資本集団が、国内をさんざんに搾取収奪して、
狭隘な国内市場から海外に求めて侵略につぐ侵略、戦争につぐ戦争を繰り返し、
最後に中国への全面侵略戦争を引き起こし、米英仏蘭列強の植民地争奪戦に突入して敗戦となったものであった。

 ところがアメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。

アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。

自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。


現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。

かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、
四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
https://www.chosyu-journal.jp/column/11624

5. 中川隆[-9852] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:32:25: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2506] 報告
▲△▽▼


長周新聞
第二次大戦はおかしな戦争だった ほとばしる体験者の証言 2005年11月26日
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/3064

 戦後60年をへたいま、戦争体験者のあいだで当時の苦しかった経験、目撃したほんとうのことを語りつがねばならないという思いはつのる一方である。下関で開催中の「原爆と下関空襲展」(主催・下関原爆被害者の会)では、これまで子どもや孫にも語ったことがなかったなまなましい体験が、堰(せき)を切ったように語られている。論議は、これまで疑問に思っていたことやおおいかくされてきた真実を明るみにしつつ発展している。こうしたなかで、戦争中から、戦後の今日にいたるまで一貫して、あの戦争で体験したほんとうのことを語らせぬ力が働いてきたことが浮き彫りにされている。


 米軍にも大本営にもつのる疑問

 「原爆と下関空襲展」のとりくみをとおして、市内各所で埋もれていた体験が掘り起こされ、米軍の関門海峡への機雷投下にはじまる下関空襲の全貌(ぼう)がより鮮明にされてきたことが、市民に歓迎されている。日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している。

 そのなかで、これまでかくされてきた事実、「おかしな戦争だった」という体験者の特徴的な声を、いくつか上げてみたい。

 「真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、カナダの沖で潜水艦を二隻沈めた。そんなことは戦後かくしてきた」

 「海軍は一年しかたたかえないとわかっていた。そのとおり一年は戦果があったがその後海軍の母艦は四隻とも南方で沈められていた。もう戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた」

 「ガダルカナルの海戦でも日本海軍は壊滅させられたが、アメリカは沈没して海に投げ出された兵隊たちにむかって機銃掃射して皆殺しにした」

 「硫黄島付近では、一隻に200人の兵隊を乗せて十数隻の船で移動したが、グラマンが機銃掃射し、助かったのは一隻だけだった。その一隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。必死で逃げてやっと助かった」

 「後田から石神町にかけて、民家の一軒に3、4人ずつのフィリピンにむかう兵隊を出港までのあいだ、泊めたことがあった。子ども心に表情が暗かったのを覚えている」

 「あのころは空で守る戦斗機も、護衛する戦艦もなかった。輸送船が丸裸で南方にむかうが、バシー海峡にかくれていたアメリカの潜水艦にみなやられて沈没させられた。大本営はなぜあんなことをしたのか」

 「戦艦大和に出撃命令が出たときに乗り組んだが、徳山港を出るときは片道の石油しか積まなかった。海上特攻隊と命名されて生きては帰れぬといいわたされた。豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨を降らせた。護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機は一機も飛ばなかった。沈没して油と炎が漂うなかをたくさんの日本兵が必死に泳いで助けを求めていた。米軍機が海上に浮かんでいる一人一人を狙って機銃で撃ってきた。あれは人間のやることではない」

 「山口の連隊に召集され、昭和20年はじめに中国に渡った。ほんとうの銃を持たされたのは5人に一人だけで、あとの4人は木製の銃だった。短剣は竹だった。腰に巻く弾倉の中身は空だった。戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった。米軍は中国でも焼夷弾や機銃掃射を毎日のようにやっていた。日本軍は中国人に顔を覚えられるのを恐れて、顔に墨を塗って行軍していた」

 「中国に召集されて湖南省の長沙にいたとき、米軍のB29の編隊が来て、25万都市を一夜にして焼け野原にしたことを目のまえで見た。中国人に聞くと“日本軍がいるから、アメリカは都市をみんな焼いていく”といっていた。日本は中国に侵略したが、アメリカも蒋介石をおして中国を占領しようとしていたのだ」

 「兄は関東軍だったのでシベリア送りにならずに帰ってきた。満蒙開拓団や、一般の兵隊はやられたのに、すぐ帰ってきたのはうれしかったが、おかしいと思ってきた」

 このような体験はなにをものがたるか。


  体験は何を、物語るか  気脈通じた日米支配層

 1941(昭和16)年12月の日米開戦は、日露戦争以後、中国を中心にしたアジアの広大な権益をめぐって対立していた日本とアメリカの確執が行き着いた結果であった。当時、アメリカは日本への経済封鎖による戦争挑発を強め、天皇制軍国主義は、中国侵略戦争で抗日勢力が強大化するなかで、ようやく点と線を維持するのに精一杯で面を確保することはおよびもつかず、その打開にむけて右往左往する状況であった。当時、中国本土に投入された陸軍兵力は138万人。陸軍動員総兵力の65%に達していた。

 のちに原爆投下計画の中心を担ったスチムソン米陸軍長官が40年6月までにニューヨークタイムズに送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記しており、アメリカは日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていた。

 こうしたなかで、天皇制政府は1940(昭和15)年、南進政策を強行。日独伊三国同盟を結んだが、これはアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。だが、このとき昭和天皇は、「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、敗戦を想定する状況であった。

 海軍の永野修身・軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至とみなしていた。

 一方アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、「天皇を象徴として利用」することを対日占領政策として公式に定め、空襲において皇居の攻撃を禁止することを厳命。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈をつうじて、その方向を貫いた。

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、日本の戦局は加速度的に悪化の一途をたどった。1944(昭和19)年6月、サイパンで日本軍守備隊3万人が玉砕、住民約一万人が犠牲となった。これにつづくマリアナ沖海戦でも、日本海軍は空母3隻、航空機430機を失う大敗北。日本の航空機動部隊は壊滅状態となっていた。

 中国戦線では、44年4月から40万の大軍を動員して開始した大陸打通作戦が鉄道の主要駅とその付近を一時的に占領するだけで、補給はつづかず、伸びきった戦線はいたるところで反撃にあい、守備軍をひいたあとには、たちまち八路軍、新四軍と遊撃隊が進出、解放するという状況であった。7月には、ビルマからインドへの侵攻作戦であるインパール作戦に失敗。死者3万人と戦傷病者4万5000人を出し、作戦の中止をよぎなくされた。

 こうして「大東亜戦争」の象徴的存在として一時、幅をきかせた東条内閣が倒壊するにいたった。近衛文麿は「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込み絶対なしというに一致せる者の如し。即ち、敗戦必死なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」(『近衛日記』)と記し、東条内閣のすげ替えを国外に示すことで終戦工作を有利にすすめる算段を示すまでになっていた。

 こうして45年2月、吉田茂が起草した近衛の上奏文が天皇に届けられた。「敗戦よりも敗戦によって起こりうる共産革命」を恐れ、アメリカが「国体護持」を保障していることを断定的に記したこの上奏は、近衛がグルーの名を出して天皇に説明したように明らかにアメリカの支配層と気脈をつうじたものであった。


  攻撃の対象は人民、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。
 日本は飛び立つ飛行機も軍艦も失い、武器もない状態で反撃能力を完全に喪失していた。B29は日本本土への空襲で世界の戦史上まれにみる低い損失率を誇り、七月段階では、ハルゼー提督の艦隊が日本の沿岸を自由に遊弋(よく)し、艦砲射撃と艦載機による機銃掃射など勝手気ままにふるまった。
 この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。


  「国体護持」が狙い、原爆投下も感謝

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

 海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎのように語っている。

 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」

 こうして、戦後のアメリカによる占領支配への道が開かれた。


  占領後は言論弾圧、記録映画も写真も没収

 戦争体験者はこれまで、体験が語れなかった状況について、「子どもからなんで戦争に反対しなかったのかとつめ寄られ、それから絶対に話さないようになった。戦時中は思っていても口に出していえば監獄に送られる時代だった」「戦後は、戦争のせの字でもいうとまわりから白い目で見られてきた。だからしゃべってこなかった」と共通して語っている。

 ここには、天皇制軍国主義の弾圧とともに、戦後の「民主主義」の装いをしたアメリカ賛美の風潮のもとで、ほんとうのことを語ることがはばかられてきたことが示唆(さ)されている。

 マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。
 アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
 新たな戦争の危険がさし迫るいま、戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、日本の真の平和を実現するために、ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。

 戦後60年をへたいま、戦争体験者のあいだで当時の苦しかった経験、目撃したほんとうのことを語りつがねばならないという思いはつのる一方である。下関で開催中の「原爆と下関空襲展」(主催・下関原爆被害者の会)では、これまで子どもや孫にも語ったことがなかったなまなましい体験が、堰(せき)を切ったように語られている。論議は、これまで疑問に思っていたことやおおいかくされてきた真実を明るみにしつつ発展している。こうしたなかで、戦争中から、戦後の今日にいたるまで一貫して、あの戦争で体験したほんとうのことを語らせぬ力が働いてきたことが浮き彫りにされている。

 米軍にも大本営にもつのる疑問

 「原爆と下関空襲展」のとりくみをとおして、市内各所で埋もれていた体験が掘り起こされ、米軍の関門海峡への機雷投下にはじまる下関空襲の全貌(ぼう)がより鮮明にされてきたことが、市民に歓迎されている。日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している。

 そのなかで、これまでかくされてきた事実、「おかしな戦争だった」という体験者の特徴的な声を、いくつか上げてみたい。

 「真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、カナダの沖で潜水艦を二隻沈めた。そんなことは戦後かくしてきた」

 「海軍は一年しかたたかえないとわかっていた。そのとおり一年は戦果があったがその後海軍の母艦は四隻とも南方で沈められていた。もう戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた」

 「ガダルカナルの海戦でも日本海軍は壊滅させられたが、アメリカは沈没して海に投げ出された兵隊たちにむかって機銃掃射して皆殺しにした」

 「硫黄島付近では、一隻に200人の兵隊を乗せて十数隻の船で移動したが、グラマンが機銃掃射し、助かったのは一隻だけだった。その一隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。必死で逃げてやっと助かった」

 「後田から石神町にかけて、民家の一軒に3、4人ずつのフィリピンにむかう兵隊を出港までのあいだ、泊めたことがあった。子ども心に表情が暗かったのを覚えている」

 「あのころは空で守る戦斗機も、護衛する戦艦もなかった。輸送船が丸裸で南方にむかうが、バシー海峡にかくれていたアメリカの潜水艦にみなやられて沈没させられた。大本営はなぜあんなことをしたのか」

 「戦艦大和に出撃命令が出たときに乗り組んだが、徳山港を出るときは片道の石油しか積まなかった。海上特攻隊と命名されて生きては帰れぬといいわたされた。豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨を降らせた。護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機は一機も飛ばなかった。沈没して油と炎が漂うなかをたくさんの日本兵が必死に泳いで助けを求めていた。米軍機が海上に浮かんでいる一人一人を狙って機銃で撃ってきた。あれは人間のやることではない」

 「山口の連隊に召集され、昭和20年はじめに中国に渡った。ほんとうの銃を持たされたのは5人に一人だけで、あとの4人は木製の銃だった。短剣は竹だった。腰に巻く弾倉の中身は空だった。戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった。米軍は中国でも焼夷弾や機銃掃射を毎日のようにやっていた。日本軍は中国人に顔を覚えられるのを恐れて、顔に墨を塗って行軍していた」

 「中国に召集されて湖南省の長沙にいたとき、米軍のB29の編隊が来て、25万都市を一夜にして焼け野原にしたことを目のまえで見た。中国人に聞くと“日本軍がいるから、アメリカは都市をみんな焼いていく”といっていた。日本は中国に侵略したが、アメリカも蒋介石をおして中国を占領しようとしていたのだ」

 「兄は関東軍だったのでシベリア送りにならずに帰ってきた。満蒙開拓団や、一般の兵隊はやられたのに、すぐ帰ってきたのはうれしかったが、おかしいと思ってきた」

 このような体験はなにをものがたるか。


  体験は何を、物語るか  気脈通じた日米支配層

 1941(昭和16)年12月の日米開戦は、日露戦争以後、中国を中心にしたアジアの広大な権益をめぐって対立していた日本とアメリカの確執が行き着いた結果であった。当時、アメリカは日本への経済封鎖による戦争挑発を強め、天皇制軍国主義は、中国侵略戦争で抗日勢力が強大化するなかで、ようやく点と線を維持するのに精一杯で面を確保することはおよびもつかず、その打開にむけて右往左往する状況であった。当時、中国本土に投入された陸軍兵力は138万人。陸軍動員総兵力の65%に達していた。

 のちに原爆投下計画の中心を担ったスチムソン米陸軍長官が40年6月までにニューヨークタイムズに送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記しており、アメリカは日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていた。

 こうしたなかで、天皇制政府は1940(昭和15)年、南進政策を強行。日独伊三国同盟を結んだが、これはアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。だが、このとき昭和天皇は、「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、敗戦を想定する状況であった。

 海軍の永野修身・軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至とみなしていた。

 一方アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、「天皇を象徴として利用」することを対日占領政策として公式に定め、空襲において皇居の攻撃を禁止することを厳命。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈をつうじて、その方向を貫いた。

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、日本の戦局は加速度的に悪化の一途をたどった。1944(昭和19)年6月、サイパンで日本軍守備隊3万人が玉砕、住民約一万人が犠牲となった。これにつづくマリアナ沖海戦でも、日本海軍は空母3隻、航空機430機を失う大敗北。日本の航空機動部隊は壊滅状態となっていた。

 中国戦線では、44年4月から40万の大軍を動員して開始した大陸打通作戦が鉄道の主要駅とその付近を一時的に占領するだけで、補給はつづかず、伸びきった戦線はいたるところで反撃にあい、守備軍をひいたあとには、たちまち八路軍、新四軍と遊撃隊が進出、解放するという状況であった。7月には、ビルマからインドへの侵攻作戦であるインパール作戦に失敗。死者3万人と戦傷病者4万5000人を出し、作戦の中止をよぎなくされた。

 こうして「大東亜戦争」の象徴的存在として一時、幅をきかせた東条内閣が倒壊するにいたった。近衛文麿は「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込み絶対なしというに一致せる者の如し。即ち、敗戦必死なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」(『近衛日記』)と記し、東条内閣のすげ替えを国外に示すことで終戦工作を有利にすすめる算段を示すまでになっていた。

 こうして45年2月、吉田茂が起草した近衛の上奏文が天皇に届けられた。「敗戦よりも敗戦によって起こりうる共産革命」を恐れ、アメリカが「国体護持」を保障していることを断定的に記したこの上奏は、近衛がグルーの名を出して天皇に説明したように明らかにアメリカの支配層と気脈をつうじたものであった。


  攻撃の対象は人民、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。

 日本は飛び立つ飛行機も軍艦も失い、武器もない状態で反撃能力を完全に喪失していた。B29は日本本土への空襲で世界の戦史上まれにみる低い損失率を誇り、七月段階では、ハルゼー提督の艦隊が日本の沿岸を自由に遊弋(よく)し、艦砲射撃と艦載機による機銃掃射など勝手気ままにふるまった。

 この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。

  「国体護持」が狙い、原爆投下も感謝

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

 海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎのように語っている。

 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」

 こうして、戦後のアメリカによる占領支配への道が開かれた。


  占領後は言論弾圧、記録映画も写真も没収

 戦争体験者はこれまで、体験が語れなかった状況について、「子どもからなんで戦争に反対しなかったのかとつめ寄られ、それから絶対に話さないようになった。戦時中は思っていても口に出していえば監獄に送られる時代だった」「戦後は、戦争のせの字でもいうとまわりから白い目で見られてきた。だからしゃべってこなかった」と共通して語っている。

 ここには、天皇制軍国主義の弾圧とともに、戦後の「民主主義」の装いをしたアメリカ賛美の風潮のもとで、ほんとうのことを語ることがはばかられてきたことが示唆(さ)されている。

 マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。
 アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
 新たな戦争の危険がさし迫るいま、戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、日本の真の平和を実現するために、ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/3064




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18. 中川隆[-8818] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:25:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3924] 報告
昭和天皇は何故負けるのがわかっている太平洋戦争に突き進んだのか?


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元 訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm#mokuji
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80+%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%9F%E3%83%8B&i=stripbooks&adgrpid=52019632743&gclid=EAIaIQobChMIssrhk7DJ4gIVCwYqCh2RjwzYEAAYASAAEgIyRvD_BwE&hvadid=338580746102&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=b&hvrand=831006335091229886&hvtargid=kwd-334760778916&hydadcr=4073_10899429&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_3otvhjudwd_b


ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


▲△▽▼


私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。

たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。

彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。

また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。

また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。

私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。

日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。

過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。

私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


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19. 中川隆[-8817] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:26:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3925] 報告
櫻井ジャーナル2019.05.02

日本で天皇の代替わり儀式が行われる中、米政府はベネズエラでクーデターに失敗

 日本のマスコミは天皇が退位する、即位すると騒いでいる。彼らにとって天皇とは「至高の存在」なのだろう。日本は第2次世界大戦で降伏する前と同じように天皇制官僚国家であり、その元首は天皇だということである。


 しかし、徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。


 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。


 徳川から明治へ移行する時期、つまり明治維新の頃、イギリスはビクトリア女王が君臨していた。心霊術にのめり込んでいた人物として知られている。


 女王は夫のアルバート(ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男で、夫妻はいとこの関係)からアドバイスを受けていたとされているが、それ以上に影響力を持っていたと思われるのがネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)など。


 言うまでもなくロスチャイルドは強大な金融資本の支配者でローズのスポンサー。ステッドはジャーナリストで、ブレッドはビクトリア女王の相談相手だ。後にブレッドはエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。


 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。


 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。


 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。


 ちなみにチャーチルは貴族階級の家に生まれたが、父親のランドルフ・チャーチルは甘やかされて育ったプレーボーイで、46歳のときに梅毒が原因で死亡している。


 生前、ランドルフはネイサン・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。いくらでも借りられたという。ランドルフがロスチャイルドを裏切らない限り、借金は返済する必要がなかったようだ。


 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。


 この銀行が中心になり、アメリカでは1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒し、ファシズム体制を樹立させようというクーデターが計画されている。


 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。本ブログでは繰り返し書いてきたが、グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ


 要するにイギリスとアメリカの金融資本はつながっているのだが、その金融資本を中心とする支配層がベネズエラの石油を狙っている。


 4月30日にもクーデターが試みられたが失敗、フアン・グアイドと反政府派の象徴になっているレオポルド・ロペス(2014年のクーデター未遂で自宅軟禁中だったが、クーデター派によって解放されていた)はスペイン大使館へ逃げ込み、クーデターに参加した兵士25名はブラジル大使館へ逃げ込んだ。


 クーデタの失敗を受け、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官はメディアに対し、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は航空機でキューバへ逃げようとしていたが、ロシアの説得で留まったと主張している。実際はごく狭い地域で混乱があっただけで、基本的に国内は安定、逃亡するような状況ではなかった。ポンペオは失笑を買っただけ。


 アメリカ支配層が発する嘘の質が急速に劣悪化している。アメリカを中心とする支配システムの崩壊は早いかもしれない。アメリカの支配システムが崩れれば、日本の天皇制官僚制も維持できなくなる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010001/


櫻井ジャーナル 2019.04.24

米支配層が維持しようとした天皇制官僚体制の恥部がひとつ明らかに

 インドネシアのバンカ島で日本軍の兵士は1942年2月、22名のオーストラリア人看護師を銃殺したという。海の中を行進させ、機関銃で射撃、ひとりを除いて殺害したのだが、その前に看護師は兵士から性的暴行を受けていたことを示す証拠の存在が明らかにされた。(​英語​、​日本語​)証拠を隠滅し、なかったことにするという手法は今でも使われている。NGT48のケースもその一例だが、隠しきれないこともある。


 日本のアジア侵略は1872年の琉球併合から始まるが、アメリカとの戦争は1941年12月7日の真珠湾攻撃から。1942年6月のミッドウェー海戦で日本の艦隊が敗北するまで日本側は勝ち戦だと考えていたようだ。そうした中、バンカ島での虐殺は引き起こされたことになる。


 外国へ攻め込んだ軍隊の兵士が女性に性的に暴行するという話はしばしば聞く。日本軍に限った話ではない。日本軍の特徴はブレーキがきかなくなることにあると言えるだろう。性的暴行への対策として日本軍が作り上げたのが慰安婦の仕組みだ。戦争経験者は次のような文章を残している。


 「日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと『慰安所』の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。」(高見順著『敗戦日記』)


 「あえて言いますが、ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を強姦することも許し、南京では虐殺もした。そのにがい経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そうしたことはやるな、と逆に戒めた。」(むのたけじ著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、2008年)


 「そこで、出てきたのが『慰安婦』というものです。その主体は朝鮮から来た女性たちでした。日本の女性も来ましたが、これは将校専用です。』(前掲書)


 「女性たちにここへ来た事情を聞くと、だまされた、おどされた、拉致された、というように、それは人によってさまざまだった。」(前掲書)


 「何人もの女性たちを船に乗せてインドネシアまで連れてくるためには、軍の了解が絶対に必要です。・・・やはり、慰安婦は軍部が一つの作戦としてやったことで、まったく軍の責任だった。」(前掲書)


 敗戦後、日本の将兵が戦場で行ったことを批判的に語るおとなもいたが、多くの「元兵士」にとって身に覚えのある話であり、口にすることはできなかっただろう。勿論、事実を否定することもできない。1945年に20歳代だった人は1975年でも50歳代だ。日本社会には戦場の記憶が鮮明に残っていた。荒唐無稽な話はできない。


 戦争経験者が少なくなるに連れ、妄想を平然と口にする人が増えてくる。メディアもそうした妄想の拡散に協力した。


 それでも慰安婦の存在を否定できないため、商売として行っているのだから問題がないと言う人もいるが、その考え方は日本人の堕落、退廃を示している。


 第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。


 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/


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20. 赤かぶ[26092] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:30:22 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16159] 報告


21. 2019年8月17日 05:35:46 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[2593] 報告
〖⁅Front Japan 桜⁆〗特攻隊員を笑いものにしたトランプ / 国を護る者達の精神を知る〖⁅桜R1/8/16〗⁆
.
SakuraSoTV
7 時間 前に公開済み
https://www.youtube.com/watch?v=8n7j9rMS7WY

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22. 中川隆[-8816] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:40:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3926] 報告
鬼塚英昭 昭和天皇による日米戦争策謀論

日本の真相1 明治天皇すりかえ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=igJ12gwRtvQ&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-

日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_YfXIhybq5U&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=2

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=3

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=34HEcM9qvqc&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=4

日本の真相5 すべての戦争は八百長である - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kIXzkY8VtLU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=5

日本の真相6 操り人形がリーダーをする日本 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wlfyvOL-OVg&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=6


日本の真相7 超天才の悪魔 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1ToSe8A7_wE&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=7

日本の真相8 中曽根、正力工作員の原発 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TuVjmXdufS4&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=8

日本の真相9 原発・使い捨て人形からの反乱 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3glGABd52fk&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=9

偽天皇と田布施システム【The False Emperor】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BNLdWvMNSuU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=10


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23. 中川隆[-8815] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:41:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3927] 報告
【我那覇真子「おおきなわ」#70】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[桜R1-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E

【我那覇真子「おおきなわ」#71】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
戦争の黒幕「国際金融資本」とは?[桜R1-5-31] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU

司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
ゲスト:林千勝(戦史研究家)


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24. 中川隆[-8814] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:43:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3928] 報告
要するに、昭和天皇「拝謁記」は天皇の戦争責任を誤魔化す為に意図的に流したデマなのです

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25. 赤かぶ[26093] kNSCqYLU 2019年8月17日 05:46:10 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16160] 報告


26. 赤かぶ[26094] kNSCqYLU 2019年8月17日 06:05:47 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16161] 報告



昭和天皇 拝謁記「国民が退位希望するなら躊躇せぬ」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190817/k10012038711000.html
2019年8月17日 3時57分 NHK

昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」から、敗戦後の退位をめぐる問題が決着したとされる東京裁判の後にも、昭和天皇が「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と語るなど、退位の可能性にたびたび言及していたことがわかりました。分析にあたった専門家は「本当に皇室が国民に認められるかどうかがすごく気になっていて、存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘しています。

「拝謁記」を記していたのは民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。



昭和天皇の退位をめぐる問題は、これまでの研究で、昭和23年11月の東京裁判の判決に際し、昭和天皇が連合国軍最高司令官のマッカーサーに手紙を送り、退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えたことで、決着したとされてきました。



しかし、「拝謁記」には、判決から1年が過ぎた昭和24年12月に、昭和天皇が田島長官に、「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ又退位等ノ論が出テイロイロノ情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」と退位の可能性に言及し、そのためには当時皇太子だった上皇さまを早く外遊させてはどうかと述べたと記されていました。

また、サンフランシスコ平和条約の調印が翌月に迫った昭和26年8月には「責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易である」と、退位したほうがむしろ楽だと語ったと記されています。

さらにその4か月後の拝謁でも「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と述べたと記されています。

分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「辞めたほうが気が楽になるというのは昭和天皇の偽らざる本心だったと思う。位にとどまることが本当に皇室が国民に認められていくことにプラスになるかどうかがすごく気になっていて、存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘しています。






27. 赤かぶ[26095] kNSCqYLU 2019年8月17日 06:06:18 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16162] 報告


28. 地下爺[8074] km6Jupbq 2019年8月17日 07:09:16 : Fd9Ykl4EEQ : WThTTmlRY1p4N2s=[191] 報告

  昭和天皇に関しては 申し訳ないが 戦争を止められる 唯一の人間だった。

  それを 止めることが できなかった その一点だけで 許すことが

  できない。。。。


                       by 右翼な地下爺

29. 2019年8月17日 07:52:17 : KEIEWv0WoQ : UVN2Y2o3SGJOV3M=[4] 報告
個人的には戦犯として裁かれるべきだったが、裁かれたら、岸、吉田という悪党コンビをのさばらせることになるので、死ぬに死ねなかった。

そして象徴となって奴等を邪魔することが、昭和天皇なりの罪滅ぼしだったのだろうか?

30. 2019年8月17日 08:06:41 : QAbVsrd2RU : dXl2SUFZaktmeVk=[1] 報告
昭和天皇の人となりは、これまでの記録でも類推できたこと。

残念ながら軍国主義に利用され、ストップできなかったことは、もちろん彼の重大責任ではあるが、

決して悪人そのものではないし、戦争を積極的に煽った人物でもない。

仮に、他の人物が天皇でも、戦争(特に日米開戦)をストップさせることは相当難しかったろう。

もちろん暗殺覚悟でなければできなかった。

それだけ、財閥=軍部=右翼連中の「下克上」の欲望が巨大化していた。

今の安倍派ウヨの動きを見れば、よくわかるじゃないか?

それより、南京事件を証言していることについて、

ウヨ勢力はどう言い訳するのか?

詳細はともかく、天皇が同時期に現地からの深刻な情報を得ているのであり、中国人の作り話などではもちろんない。

31. 2019年8月17日 08:39:34 : QAbVsrd2RU : dXl2SUFZaktmeVk=[3] 報告
それから、「だから天皇制が悪い」とか、すぐに短絡させるバカサヨが湧くと思うが、

もちろん、明治憲法を基礎とした戦前の体制に欠点が多数あったと思うが、

ナチスドイツはドイツ皇帝がいなくなってから出現したのであり、

現在の軍事侵略大国、米国も、大統領制だ。

軍国主義=帝王制 では決してない。

32. スポンのポン[11993] g1iDfIOTgsyDfIOT 2019年8月17日 08:56:25 : XdUfstgVAw : RTJPWTdMWVh0Y1E=[558] 報告
 
 
■特攻という名の愚行の本当の目的

 『私ハ実ハ無条件降伏は矢張りいやで、
  どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、
  それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたような
  時ニ其時を見付けたいといふ念もあつた』と語ったと記されていて、
 いわゆる「一撃講和論」にあたる考えを持っていたことを
 明かしていたことがわかりました。

 特攻の目的は国を守るためでも戦争に勝つためでもなかった。

 『ちょっとこちらが勝ったようなその時』を作って
 講和の条件を少しでも良くする、
 すなわち天皇自身の命を救うためがその目的であった。

 ポツダム宣言が発表された1945年7月26日から
 受諾する8月14日までのその約二十日間に
 特攻という名の愚行を強いられ多くの若者が空に命を散らし、
 2発の原爆を落とされ数十万の罪なき国民が命を失った。

 天皇一人が己の命に執着せずあと2週間早くポツダムを受諾していれば
 ただそれだけで数十万の国民の命が救われていた。

 すべての日本国民が知るべき紛れもなき厳然たる事実である。
 
 
 

33. 2019年8月17日 08:58:46 : myJmO9sK9c : QnZLQmppeUlwMDI=[393] 報告

 まあね 安倍を信用できるのなら 昭和天皇も 信用できるだろう
 
 ===

 信用できない物が 人間なんじゃ〜〜 なかろうか??
 
 ===

 NHKが 信用できない 今日この頃!!
 
 ===

 専門家が 正しかったら 戦争なんて 起きないよ〜〜
 

[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員コメントはスレ主が処理可能)アラシ。過去に場違い多数でアラシ認定。

34. 2019年8月17日 09:02:22 : GirhQxaYmw : V2pXUzVGL3BCU1U=[2] 報告
天皇の身をなげうっても、天皇制度の危機をまねいても、
あの戦争は止めさせるに値するものだった。
残念ながら吉田総理に多少反対されたくらいで、
新憲法を言い訳にして、反省の二文字もお言葉に入れられないようでは、
何度やっても昭和天皇はあの戦争は止められないだろう。
今回の報道をNHKよくやったという論評で、
とらえている向きがあるが、
今回の報道の最終的な肝は、
お言葉の中の反省の二文字においても、
新憲法下で天皇が首相に従ったという事実。
このことを台替わりの今日明確にすること。
新天皇には平成天皇とは違って、首相の許しを得ず勝手なことは
言うなということ。
NHKやそれを操る人たちの思惑を勘違いしてはいけません。


35. 2019年8月17日 09:10:55 : myJmO9sK9c : QnZLQmppeUlwMDI=[394] 報告

 戦争で 人が死んで 原爆まで落とされて 

 昭和天皇が 反省したら 戦争で死んだ人は 癒されるの〜〜

 ===

 日本は 核廃絶の協定にも賛成しない 出来ないの〜〜〜

 今から 更に 戦争に行く 準備なんか しちゃってさ〜〜
 
 日本人は 今でも 狂ってるぜ〜〜 

 ===

 どうするんだよ〜〜〜〜
 
 天木なんて 甘いんだよ〜〜
 

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36. 2019年8月17日 09:20:08 : QAbVsrd2RU : dXl2SUFZaktmeVk=[4] 報告
>>32

エセ野党のスポンのポン、

野田が大統領なら、

おまえはあいつが何をやっても万歳、万歳だよな。

37. 2019年8月17日 09:28:02 : QAbVsrd2RU : dXl2SUFZaktmeVk=[5] 報告
36つづく

工作員コメントの特徴

批判対象 … すべて×

賛美対象 … すべて〇

「スポンのポン」の場合、

松下政経塾出身の右翼政治家にあれだけマンセーできて、

一方で共産党支持者じみたコメントをするのは、

「すべて〇」の仕事のために、あえて他のサヨク阿修羅読者に媚びを売っているんだろうと推測する。

38. 2019年8月17日 09:31:16 : 1hFwhl5XF6 : dXZTY1pyS01GUXM=[198] 報告
NHKのマトリクス的天皇史観の作り方として秀逸でございます。
がしかし、現在も含めて登場人物たちの関係性がはっきり分かりますね。

https://ameblo.jp/8828jn/entry-12389060474.html
http://davidroknich.com/2014/05/post-70.html

39. 2019年8月17日 09:34:47 : axHiCq3DwE : L21CRURiYWN6NC4=[219] 報告
なかなか、日本人は根本的に馬鹿なので、いつの時代も苦労することにはなる。人が良くて騙されやすい上、世の中の流れや物事を真剣に見ようとせず他人任せにする習性がある。自分で考えて行動するという習慣がないのだ。長い物には巻かれろ、忖度、付和雷同、泣く子と地頭には勝てない。痛い目にあって初めて気がつくという鈍感さ。馬鹿につける薬は無いので仕方がないだろう。
40. 楽老[1019] inmYVg 2019年8月17日 09:39:17 : QHkUDaloVM : ZjhxY3RmLkFlOU0=[731] 報告
>35.QnZLQmppeUlwMDI=:昭和天皇が 反省したら 戦争で死んだ人は 癒されるの〜〜  日本は 核廃絶の協定にも賛成しない 出来ないの〜〜〜 今から 更に 戦争に行く 準備なんか しちゃってさ〜〜

その通りです。
昭和天皇を平和主義者などという輩も居るが
摂政となった1921年から日本の戦争の大半を率いてきたことを忘れてはならない。
戦争反対者だと強調されもするが、それは負ける戦争に際してのみ。
敗戦直後、「戦争責任者裁判ニ関スル緊急勅令案」をものにしながら、発布しなかった。

    

41. 2019年8月17日 09:52:06 : QAbVsrd2RU : dXl2SUFZaktmeVk=[6] 報告
>>40

いやいや、

昭和天皇はああいう人物だったから、

日本は最終的には経済大国にのし上がれたのだと見るべきだと思うよ。

彼はもちろん、お坊ちゃまで大人しく、戦争を否定できない人物として育てられ、

周囲も戦争を後押しこそすれ、諫める人物などいなかったろう。

一方、お坊ちゃまだから、戦後も大人しく「象徴」に収まった。

もしヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東みたいな「下克上」的カリスマが「大統領」になっててごらん、

率先して国を振り回し、共産主義国になっていた可能性もあるね。

現代の王制のメリットは、「おぼっちゃまで大人しい紳士」が国の形式的トップに立つことだと思うね。

42. 2019年8月17日 09:56:51 : myJmO9sK9c : QnZLQmppeUlwMDI=[395] 報告

 日本は いいとして 世界中の人たちは 昭和天皇の戦争責任について 

 どう考えているのだろうね〜〜〜

 ===

 インドの牧師?? だったか無罪 って主張だったかね〜〜??
 

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43. 2019年8月17日 10:07:59 : myJmO9sK9c : QnZLQmppeUlwMDI=[396] 報告

 ほとんど 世界中の人たちが 昭和天皇に戦争責任がない などというものはいたいだろう

 ===

 日本人でも 戦争で子供を奪われた家では 昭和天皇を 忌み嫌っていたはずだ
 おそらく 半数以上は 戦争責任を肯定するものだったのだろうが

 その 日本においてのみ 戦争責任を 否定するものたちが 必死に挽回しようとしていて
 
 このNHKの スクープ(???)だって 昭和天皇を 美化するだけのものだろう?

 ===

 ま〜〜 やってられね〜〜の あほらしくて 戦後80年にもなって
 
 更に 日本の歴史を 改竄しようとしている   by   おおうその 日本史
 

[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員コメントはスレ主が処理可能)アラシ。過去に場違い多数でアラシ認定。

44. 2019年8月17日 12:03:54 : WJfBckkeXQ : bEJvblA2S2Z5QTI=[123] 報告
>昭和天皇 「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」

つまり、戦争については反省するが、それは「下剋上を根絶」しなかったためであって、もっと厳格に明治憲法体制、すなわち天皇主権を徹底するべきだった、と言っている。
素直に読めば、昭和天皇は、新憲法体制、すなわち国民主権には反対だったのではないか、と受け取れる。(現実には、従わざるを得ないわけですが。)

何でそれが
>民主革命を起こさなければいけなくなったのだ
になるのか、天木さんの論理は謎ですね。もう少し丁寧に書くべきだと思います。


>小笠原諸島と沖縄を返還しないというマッカーサーの方針に言及し、「そうすると徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事で たとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが同一人種民族が二国(にこく)二なるといふ事はどうかと思ふのだが此点ニ関し演説で何といふか」と述べた

ここは興味深い。
昭和天皇は、「徳川時代以下となる」という自分のメンツに拘っていただけかもしれないが、少なくとも「同一人種民族が二国(にこく)二なるといふ事はどうかと思ふ」と言っているのは、必ずしも沖縄が民族差別を受けたわけではなかったというふうに読み解けるのではないか。
単に米国側にとって、「地上戦で占領した」ということが絶対的事実だったということだ。
 

45. 2019年8月17日 12:11:38 : gwXGxXyINo : WGtPa1U3UmRWN1k=[12] 報告
> この昭和天皇の告白を日本の夜明けにつなげなければいけない。
 天皇制を、日米安保体制を、憲法9条を、そして何よりも歴史認識を、根本的に考え直さなければいけなくなったのだ。
 
天木直人の天皇の政治的利用は、憲法に違反する。
主権は国民にあり、天皇には無い。

> その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対で、その一節が削られていたことがわかりました。

フーバー大統領は第二次大戦と日米戦争はルーズベルト大統領の陰謀で引き起こされた、ルーズベルト大統領は第二次大戦と日米戦争を引き起こした『狂気の男』だと書いている[1]。
つまり、日米戦争開戦の責任はルーズベルト大統領にある。

[1] 裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症 単行本 2017/7/13
https://www.amazon.co.jp/%E8%A3%8F%E5%88%87%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%87%AA%E7%94%B1-%E4%B8%8A-%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BE%8C%E9%81%BA%E7%97%87-%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88-%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC/dp/4794222750
ハーバート フーバー (著),? ジョージ・H. ナッシュ (編集),

46. 斜め中道[7452] js6C35KGk7k 2019年8月17日 12:16:50 : 460ZVzz1ys : SDZ2LjR6cm1sVk0=[1410] 報告
天木がはしゃぐようなことではあるまい。

[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:他のコメント者、投稿者への文句を書いてあるだけのコメント(アラシや工作員コメントはスレ主が処理可能)
47. 2019年8月17日 12:50:37 : rwTrWcntPQ : dnV0QVhwanQ0NnM=[2] 報告
またNHKが「独自」と称して宮内庁長官田島道治が昭和天皇の肉声をメモしていていた膨大なメモが見つかったとするニュースを長々と流していたが、今日のニュースを見る限り、加藤恭子『昭和天皇と田島道治と吉田茂』(人文書院、2006年)ですでに明かされたこと以上の発見はほとんどなかった。

またNW9で「初めて明らかになった」として、田島のメモに昭和天皇の悔恨と反省を意味する「勢の赴くところ〜寝食為めに安からぬものがあります」という一節があったことを大々的に取り上げているが、これとほぼ同じ文章が前掲書の182頁に出ている。吉田がこれに反対したことも記されている。

れっきとした先行研究があるのに、それに全く触れず、あたかも今回の史料で全く新しい事実が発掘されたかのように報道するのは、研究倫理に照らしてもいいとは思えない。またこのことに全く言及しようとしない学者のコメントにも疑問を感じた。

https://twitter.com/haratetchan

48. 赤かぶ[26115] kNSCqYLU 2019年8月17日 13:23:50 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16182] 報告


49. 赤かぶ[26116] kNSCqYLU 2019年8月17日 13:24:35 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16183] 報告


50. 斜め中道[7456] js6C35KGk7k 2019年8月17日 13:27:03 : 460ZVzz1ys : SDZ2LjR6cm1sVk0=[1415] 報告
NHKの昔の「シルクロード」以来
(俺がバグダッドに居た頃、取材班が来てた・・・)

・特別な許可を得て・・・・
・始めて取材班が・・・なんてのは、信用しない。

色んな学説がある中で、「絵」になりやすいもんを選択し
過度な表現をするしにゃ〜♪


その意味では、俺の愛する「チコちゃん」すら、信用してないよ〜♪

51. 赤かぶ[26117] kNSCqYLU 2019年8月17日 13:29:27 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16184] 報告


52. 赤かぶ[26118] kNSCqYLU 2019年8月17日 13:30:14 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16185] 報告


53. 2019年8月17日 14:38:31 : sIEk2edIV2 : cWlVdkZLR2wxWlE=[15] 報告
『拝謁記』を遺した田島道治さんが宮内庁長官だった時期は、1948年(昭和23年)6月5日から、1953年(昭和28年)12月16日までの期間である。

この間、極東国際軍事裁判(1946年5月3日〜1948年11月12日)と、朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日)が、おこなわれている。

極東国際軍事裁判での昭和天皇の不起訴は、1946年4月3日に極東委員会(FEC)が決定している。

英国は、第二次世界大戦終結と同時にソ連を敵国視する政策を始め、さらに現実に朝鮮戦争が勃発したことにより、日本の再軍備がGHQの政策
として浮上した頃から、天皇の利用価値が高まり、天皇の戦争責任論を回避し、極東国際軍事裁判での天皇不起訴の正当性を補強するために、旧海軍を通じて、日本政府とGHQとの間で口裏合わせがおこなわれて、「戦争の原因は陸軍の暴走のため」「天皇は陸軍を掌握できていなかった」とする「陸軍主犯説」が固まっていったのだと推察できる。

『拝謁記』は、既に「天皇は陸軍を掌握できていなかった」という「陸軍主犯説」が固まった時期以降の、昭和天皇の見解を述べている。

私は、昭和天皇は、張作霖爆殺事件から太平洋戦争中に至るまで、一般に流布されているよりは、ずっと強く、個別の作戦を含めて戦争指導に関与していたのではないかと疑っている。

この点を解明するために、終戦前までの昭和天皇の作戦指導に関する記録や、終戦後から極東国際軍事裁判での昭和天皇の不起訴決定に至るまでの、1946年4月3日以前の軍の資料や外交文書の発掘や開示が待たれる。


🔴 菊地史彦『昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理』
 
(論座,2019年04月30日)

「退位」への意向は敗戦後、3度示されたと言われている。1度目は連合軍の進駐直後。木戸幸一内大臣に対し、自身の退位によって戦争責任者の引き渡しを避けえないかと相談したという記録がある。木戸はこれに反対している。2度目は、1948(昭和23)年10月から11月にかけて、東京裁判の判決の前後である。宮中・政府内でも退位問題は頻繁に論議されたが、次第に沈静化した。退位によって高松宮や貞明皇后が浮上する可能性を天皇が警戒したためともいわれる。

 3度目が講和条約の発効した1952(昭和27)年4月28日だった。天皇は吉田茂首相にその意向をもらしたが、吉田はとりあわなかった。また退位に代えて皇祖皇宗と国民に対する「謝罪」の言葉を述べるという案もあったようだが、吉田はこれにも反対した。

 以後、天皇が「退位」について語ることはなかった。
 
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019043000002.html


🔴 第二復員省

《極東国際軍事裁判対策》

極東国際軍事裁判では、旧海軍軍令部出身者の豊田隈雄元大佐らを中心に昭和天皇への訴追回避、旧海軍幹部への量刑減刑に秘密裏に奔走した。

裁判開廷の半年前には、永野修身元帥以下の海軍トップを集めて、天皇の責任回避のための想定問答集の策定を行い、米内光政をGHQ側と折衝させるなどの工作を行った。

そうした結果、昭和21年3月6日にはGHQのボナー・フェラーズ(英語版)准将から米内に対して、天皇免責のために裁判では日本側が証言をするなどの努力が欲しいこと、陸軍に開戦の責任の大部があるなど、裁判についての内々の回答を得たという。

また、BC級戦犯裁判においては、中央への責任問題の波及を避けるため、現地司令官レベルで責任を完結させる弁護方針を立てて証人を隠すなどの工作も行っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%BE%A9%E5%93%A1%E7%9C%81

#NCC


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54. 2019年8月17日 14:42:44 : k3VrrzzmmY : bTA1N3B6QnNtY0k=[77] 報告
反省は74年もしたんから、 今後のことが重要ですぞ。

日月神示に預言されていることは、大東亜戦争は序の口で、今後世界の立て直し

では、こんなことでは済まない「どえらい」出来事がでてくるようです。

世界情勢をみても混乱は続いてますね、

「日月神示」は天地創造の神からの予言です。
 昭和の時代の第二次世界大戦の頃、昭和19年に神界から知らされた、地球と人類の次元上昇の予言で、人間の生き方までを示した神からのメッセージです。
 昭和19年6月10日に、岡本天明が千葉県成田市台方にある麻賀多神社を参拝した時。その境内末社天之日津久神社を参拝した後に、自動書記(手が自動的に動いて書かされる)を通じて知らされた。地球浄化のための大異変についての予言とともに、人間の生き方まで含めた、神(真の神)からのメッセージです。その後16年もの間、断続的に続けられました。
内容の要約は以下のとおり 
 @地球人類、地球も含めて次元の上昇が起こる。つまり、今までよりは神に近い次元になる。
 A@の実現のために、今後地球規模の大異変が起こる。これは地球に蔓延した物質中心の、自己の欲望ばかり追及する心を改め、人類全体の幸せを願う心の世界に直すため。大地震、火山の爆発、地殻変動など。大勢の人間が死ぬことになる。最初に日本で起こり、その後世界へと波及する。この大異変は根源的な絶対神と人類の力により行われる。
 B次元上昇後はミロクの世界であり、争いのない天国の世界である。
 C今までの科学は、物質ばかりを追及したものであったが、真実は魂(心)を加えなければ分からない。霊界とこの世とは表裏一体であり、神と人間も同じく表裏一体で存在しているものである。神(既存の宗教の言う神ではなく、真の神)を信仰し、己の欲ではなく、全ての幸せを願い生きる心が重要である。

 結論は 物質中心主義ではなく、 自己中心的ではない

     自己の欲望追求 だはなく みんなで仲良くする心がないと

     平和な世の中なんてきませんよてことだろな。


 いつまでも、恨みつらみをクドクド言ったり、 米国のように自己中心的

 な行動をする国がある限り 平和は無理です。

55. 2019年8月17日 15:42:43 : 7TH8eUAwak : M3AyVmJXMXlremM=[2] 報告
昭和天皇が戦争を深く後悔していることは、本人の言葉や側近の回顧録などでもすでに明らかになっている。陸軍の横暴を「下剋上」と表現したところが新しいかもしれないが、それも表現の問題で本質ではない。
むしろ、なぜ「下剋上」を絶対権力者として止められなかったかが問題だ。
太平洋戦争は天皇の命令で開戦した。現地軍に引きずられた日中戦争も、少なくとも天皇の事後許可がなければ一歩も進められなかった。大元帥命令で戦争拡大を禁じて、従わない司令官を統帥権無視の大罪で処刑すれば止められたはずだ。
ぐちゃぐちゃと昭和天皇は弁解しているが、要するに「気が弱く」「決断力にかけ」「責任意識が軽かった」からだ。天皇はやった以上は本土決戦まで貫くべきだった。「聖戦」を信じて戦って死んだ兵士は浮かばれない。「国民の命を守るために降伏した」というのなら初めから戦争してはいけなかったのだ。
昭和天皇は二重三重に国民を裏切った。南北朝動乱を招いた後醍醐天皇に並ぶ悪徳天皇といえよう。

「南京のこと」を薄々聞いたのなら、なぜ徹底的な究明を命じなかったのか。無責任な話しだ。ともあれこれでも、河村名古屋市長らバカウヨは「南京虐殺はなかった」と言い続けるのだろうか。言い続けるだろう。馬鹿に付ける薬はないのだ。

56. 2019年8月17日 15:47:53 : aRgWENoWVg : RzZUQW9lTWUycjI=[17] 報告
>>53(補足)
>昭和天皇は、張作霖爆殺事件から太平洋戦争中に至るまで、一般に流布されているよりは、ずっと強く、個別の作戦を含めて戦争指導に関与していたのではないか

例えば、1939年5月11日から1939年9月16日に起きたノモンハン事件では、大きな被害を出しながらも、関東軍の現場の指揮官たちは戦闘続行を強く望んでいたが、陸軍の参謀本部が出した作戦の終結を命じる『大陸命第343号』に従っている。

重光葵元外相が巣鴨獄中で書いたという『昭和の動乱』には、「勅命」により、ノモンハン事件の停戦がおこなわれたと記されている。

収監中の重光葵が、昭和天皇へのGHQや国民への心証が良くなるよう、昭和天皇が平和主義者であることを印象づけるために、「ノモンハン事件」の停戦命令が昭和天皇の指示で出されていたことを強調しているように見える。

たしかに、陸軍に、「結果良ければ全て良し」の気風があり、結果が天皇が喜びそうな作戦であれば、独断で無謀な作戦にも独断専行で挑む傾向があったとは考えられるが、「勅命」である『『大陸命』に公然と逆らう気風があったとは考えにくい。

「ノモンハン事件」に限らず、陸軍が、停戦命令の時だけは、天皇の作戦の指示通りに動き、作戦開始時は全て陸軍の独断専行でおこなわれたと考えるのは、不自然ではないだろうか。

今日、陸軍の独断専行でおこなわれたとされている無謀な作戦のいくつかは、昭和天皇が作戦立案時に関与していたと考える方が自然ではないだろうか。
 
 
🔴 ノモンハン事件
 
《停戦成立までの戦闘》

関東軍は、ソ連軍の総攻撃に対し、8月26日に第7師団の主力をチチハルからノモンハンに増援として向かわせた。しかし関東軍は意外なほどに戦局を楽観視しており、日本軍最後の拠点バルシャガル高地がソ連軍の猛攻を受けていた8月26日には「ノモンハン方面の敵盲進のを捉え、一大鉄槌を加うる」、バルシャガル高地が事実上陥落した8月29日には「冬季前速やかに敵に徹底的打撃与うること絶対に必要」との認識で、第6軍に第2師団、第4師団、第1師団主力、第8師団の一部と関東軍の持つ全速射砲をつぎ込んで大攻勢を目論んでいた。

参謀本部は、戦局を関東軍を通して報告を受けていたので、実情を十分に把握できていなかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートでノモンハンの戦況を掴み、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハンは総崩れ」という報告がなされるなど、8月29日頃には戦局はかなり厳しいということをようやく把握した。そのため、8月30日には方針を転換した『大陸命第343号』を起案し、趣旨説明に参謀次長の中島らが関東軍に出向いた。

参謀本部の意図は中島が持参した『大陸命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す」とノモンハン事件の早期収束であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
  
🔴 重光葵(著)『昭和の動乱』

重光葵元外相が巣鴨獄中で書いた、貴重な昭和の外交記録である。上巻は満州事変から宇垣内閣が流産するまでの経緯を世界的視野に立って描く。
http://www.chuko.co.jp/bunko/2001/10/203918.html


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57. 2019年8月17日 15:55:43 : 1gfy8eT9pc : ZkQ4VHBvd01mdjI=[277] 報告

ネトウヨ脱糞中 💩

58. 2019年8月17日 16:02:39 : gwXGxXyINo : WGtPa1U3UmRWN1k=[13] 報告
>>55. 2019年8月17日 15:42:43 : 7TH8eUAwak : M3AyVmJXMXlremM=[2] 報告
> ぐちゃぐちゃと昭和天皇は弁解しているが、要するに「気が弱く」「決断力にかけ」「責任意識が軽かった」からだ。

息を吐くように嘘を吐く朝鮮人の考え。

ハミルトン・フィッシュ下院議員は「日本との戦争は対ドイツ参戦の前段にすぎず、チャーチルとルーズベルトこそがアメリカをこの戦争に巻き込んだ張本人である」[1]
と書いている。

[1] ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫) 文庫 – 2017/4/4
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4794222661/ref=pe_5765152_378792022_em_1p_3_im
ハミルトン フィッシュ (著),
 ニューディール政策を厳しく批判し、米国伝統の非干渉主義の立場から、第二次大戦への関与に反対していた著者ハミルトン・フィッシュ下院議員(当時)は、フランクリン・ルーズベルト大統領が最も恐れ、かつ最も憎んでいた共和党の重鎮である。
 フィッシュは真珠湾攻撃後のルーズベルトの対日宣戦布告に同調するも、のちに大統領が日本への最後通牒を隠していたことを知り、日本との戦争は対ドイツ参戦の前段にすぎず、チャーチルとルーズベルトこそがアメリカをこの戦争に巻き込んだ張本人であると確信するに至る。本書は、大戦前夜の米政権の内幕を知る政治家が自ら書き残した、現代史の相貌を根底から覆す驚くべき証言である。

59. 2019年8月17日 16:03:01 : 5pxlM1CShg : NXJMYUZ2NzNJLnc=[14] 報告
「自分は全く知らなかった」と嘯き、責任を逃れようとする企業経営者が、如何に多いことか。

さらに、現在の日本の政府の内閣総理大臣も、「自分は全く知らなかった」と嘯き、いくつもの政府の不祥事の責任を逃れようとしている。
 
 
🔴 西田厚聰元会長・東芝のドンの告白「戦犯と呼ばれて」
「僕は悪者。だが、メディアも悪い」
(週刊現代,2017.12.06) 
 
企業の社会的責任については「生命」「安全」「コンプライアンス(法令順守)」をあらゆる事業活動の最優先するとして、これをどの現場でも言ってきたし、IR(投資家向け広報)で海外に行った時も言ってきたし、国内でいろいろな工場で訓示する時も必ずこれを言ってきた。

そんなコンプライアンス重視を言い続けてきた男がね、2008年(のリーマン・ショック時)にあれだけ大きなロスを出すとわかっていた時に、100億や200億のロスを知っていて隠していたと――。

そんなバカなことがあるかと言うわけですよ。僕が知っていて、そんなものを隠しているなんてバカげた結論をどうして出せるんだ、ということですよ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53482?page=3


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60. 2019年8月17日 16:13:58 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[596] 報告
暗殺の可能性がある絶対権力者なんていないよ。
その当時の裕仁は絶対権力者ではなかったということ。
名目上はそうであったかもしれないけどね。
実質は軍部が専横していた裏付けにもなるね。

日本の戦後の総理大臣は期間の長い人ほど売国であると確定している。
(吉田、中曽根、小泉、安倍は全員売国奴)

61. 2019年8月17日 16:25:57 : QUN9jnHBkE : YWEwZjhoQlhMa1U=[12] 報告
>>53(補足)
>日本の再軍備がGHQの政策として浮上した頃から、天皇の利用価値が高まり、天皇の戦争責任論を回避し、極東国際軍事裁判での天皇不起訴の正当性を補強するために、旧海軍を通じて、日本政府とGHQとの間で口裏合わせがおこなわれて、「戦争の原因は陸軍の暴走のため」「天皇は陸軍を掌握できていなかった」とする「陸軍主犯説」が固まっていったのだと推察できる。
 
 

昭和天皇が3度目に退位の可能性について言及した1951年から1952年にかけての時期は、朝鮮戦争中であり、サンフランシスコ講和条約が締結され、発効する時期に相当する。

1951年頃、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAの協力者に対して、平和条約が効力を発する1952年に昭和天皇が退位し、陸軍は旧陸軍大将の下村定、海軍は旧海軍大将の野村吉三郎、政治は元朝日新聞社副社長の緒方竹虎、出版・ラジオのメディア戦略を旧同盟通信社の古野伊之助を中心にして担当させるという内容の日本の再軍備計画について言及していた。

1951年は朝鮮戦争中の時期であり、野村吉三郎、緒方竹虎は、広く知られているCIA工作員であったことから、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAからの働きかけによって日本の再軍備構想に関与したものと推察される。

戦後の皇室とGHQ・CIAとの関係は深く、天皇の「お言葉」ですら、米国政府の意向により形づくられていったように思う。
 
現在の安倍政権で自民党が掲げている憲法改正案も、戦後に、CIAから皇族の高松宮宣仁親王に働きかけた『日本の再軍備構想』の延長線上のものである。
 

◆ 野村吉三郎
(Wikipedia, 2019/05/11 閲覧)
CIAとの関係

有馬哲夫は、野村が1947年に設立されたCIAの協力者であり、戦後に対米協力によって日本に陸だけではなく海軍の再建をするためになったとアメリカ側に海上戦力の再建許可を求めていたことから考えている。1954年の参院選では、CIAが資金提供および選挙対策で支援しており、CIA日本支局長ポール・ブルームが当選を祝福する手紙を送っている。なお、選挙資金は、藤村義朗元海軍中佐が管理した。また、野村とアレン・ダレスとの連絡役だったアメリカ対日協議会のハリー・カーン(『ニューズウィーク』外信部記者)は、CIAにも関係していた国務省企画部長フランク・ウィズナーに、野村をポスト吉田の首相候補とみなしてその当選を喜んだ。また、「われわれの機関の政治問題の情報提供者だった」として、野村がCIAや国務省への情報提供者であることを報告した[5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%90%89%E4%B8%89%E9%83%8E


◆ NOMURA, Kichisaburo (III)
(CIA, U.S. Gov.)

Following the lines of SHIMOMURA Sadamu's plans for the Army and NOMURA's for the Navy, HATTORI's draft calls for, in general, an Army of 150,000 men, a Nary of 250,000 tons, and an Air Force of 2060 planes.. .Formal overall leadership of the advocates of rearmament is exercised by SHIMOMURA for the Army and NOMURA for the Navy. (ZJL-769, 3 Jan 52, [ ] "Japanese Rearmament" folder).

SHIMOMURA sadamu is the leading candidate for chief of the NPR, and NOMURA for chief of the MSB, (ZJL-797, 31 Jan 52, [ ] CE File III-32.3)

Acting on a directive from Prince TAKAMATSU, advised former Naval colleagues in October 1951 that the Emperor would abdicate when the Peace Treaty comes into effect in 1952. TAKAMATSU stated to NOMURA that the following would serve as nuclei of the rearmament movement in their respective spheres of influence: (1) Naval: NOMURA; Military: SNIMOMURA Sadamn; (3) Political: OGATA Taketora; (4) Press and Radio: FURUNO Inosuke. (ZJL -799, 2 February 1952, [ ] ??????? GC A -10.30)

On 14 Mar. 52 the Gov't announced the supplementary depurge of 843 persons.

Prominent in this seventh supplementary depurge announcement is former Adrimal NOMURA Kiehsaburo, ex-ambaesador to the U. S, at the time of the outbreak of Woad War. II. (No. FEC Daily, 15 Mar. 1952.)

https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/NOMURA,%20KICHISABURO_0007.pdf


[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員コメントはスレ主が処理可能)アラシ。過去に場違い、多重、デマ、工作コメント多数でアラシ認定。

62. しんのすけ99[692] grWC8YLMgreCrzk5 2019年8月17日 16:34:03 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[454] 報告
貴重な資料となる証言ではありますが これまで語られてきた昭和天皇の人間像への 従来の見解とそう大差はない
特にそう目新しいモノなかったとも言えるが 一点だけ 特筆すべき点もある

それは

「また、戦艦や空母などの主力艦の保有比率をアメリカやイギリスの6割に制限した大正10年のワシントン海軍軍縮条約に触れ、「五五三の海軍比率が海軍を刺戟(しげき)して平和的の海軍が兎に角く(とにかく)あゝいふ風ニ仕舞ひニ戦争ニ賛成し又比率関係上堂々と戦へずパールハーバーになつた」と述べたと記されていて、アメリカとイギリスが中心となって日本を抑え込んだ「ワシントン体制」が太平洋戦争の遠因だという認識を示していたことがわかりました」

↑ この部分は 私も参考になった 陸海軍の高級軍人達 軍の指導層と言われる人間達を間近に見続けてきた
昭和天皇ならではの見解とも言える いかにあのワシントン軍縮条約が 海軍の軍人達を過剰に刺激したのか
平和主義的な気風だった海軍が 好戦的に変わっていく様を 長期的に見続けることが出来るのは 昭和天皇をおいて
他には存在しない訳でもあるのだから

そう あの ワシントン軍縮条約は 後に日米開戦に強硬に反対して 右翼から命を狙われる程で マスコミからは
海軍左派三羽烏 とまで揶揄される事になる、山本五十六でさえ ワシントン軍縮条約には激高している事実がある
この時期に もしかしたら山本は 「いつの日か あいつらの根拠地(真珠湾)を 思い切り叩いてやりたい」
こう考えるようになったとしても不思議はない 

ワシントン軍縮条約が 太平洋戦争への “遠因” との昭和天皇の見解は 私も初めて知りました。

とは言え やはり 遠因は遠因 昭和天皇が 軍部の暴走を 止められなかった責任は やはり大きいと
言わざるを得ない 何と言っても あの馬鹿どもを 止める事の出来た唯一の存在 それが天皇なのですから。

63. 2019年8月17日 19:14:20 : kv64bMghp2 : VFgvQzlLa21hMnc=[4] 報告
スクープかもしれない。

しかし、どんなに反省しようが昭和天皇もやはり戦争戦犯であると思う。
そのように総括すべきで、そうしないといつまでも戦後の整理ができない。
それは譲ってしまってはいけないところだと思う。

このスクープが変な方向で憲法改正の議論につながらなければよいが...
昨日の日大の専門家としての解説の違和感があったことも否めない。

NHK内部でもいろいろなパワーバランスがあると思うが、やはりNHKは信じられないところがある。

64. TondaMonta[1343] gnOCj4KOgoSCgYJsgo@CjoKUgoE 2019年8月17日 19:41:52 : z7tgVvYtVI : cTI5a3pIZlJoWEU=[22] 報告
天皇を辞めるか辞めないかは,天皇家の問題。
日本国民一般と世界特に、東南アジアの人々にとって重要なのは天皇制を廃止すること。天皇在位と天皇制とは異なる。
なぜなら、天皇も時に判断を誤り、場合により嘘をつくからではない。天皇制が侵略に利用されるからである。ナポレオン以来、軍隊を侵略のために必要といった国はない。自衛のための自衛戦争こそが他国を侵略する理由であってきた。

天皇が判断を誤った例は内乱予備罪で関東軍を懲らしめなかったことであると、平野貞夫元参議院議員は語っていた(デモクラシー・タイムズ)。トランプと同様最高軍司令官である以上、何でもできたはずである。暗殺が予感されたとしても天皇は天皇で身を護ればよかったのである。三代将軍源実朝ではない。

まあああああ、ロシアが原子炉推進の核搭載ミサイルを開発したようだから、自衛隊=軍隊は不必要になる。核の灰で地球はお終い。また原始時代に戻るだけ。
昭和天皇に関する第一級の資料だろうと何だろうと、百済ない。クダラナイ。森友学園激安払い下げ事件の方が重要だ。財務省全体が告発されなければならない。それができなくて何がノモハン事件だ。野球をして野茂氏にでも聞いてみろ。

福田元財務次官の「おっぱい触っていい」発言を思い出し、触っている間に地球は核の冬が来るだろう。乳繰り合っている場合ではない。森友事件を解決できないで何が超一級の史料だああああああ?
馬鹿言ってんじゃないよ。馬鹿言ってんじゃないよ。カバ言ってんじゃないよ。

トンダことを言って御免ちゃアい。ドンナモンダと胸を張って上級国民よ、皇居を一周してみよ。れいわ新選組の安富歩教授が馬さんと回ったように。威風堂々とやれ。

65. 地下爺[8082] km6Jupbq 2019年8月17日 20:21:26 : Fd9Ykl4EEQ : WThTTmlRY1p4N2s=[199] 報告

 私は 普段猫派の右翼を気取っているけど にほん の 進む方向を

 真剣に考えなければ いけないと 思っている。


 上皇様が 祈っておられた 国民の安寧と幸せと世界の平和 に 危機が訪れている

 ように思います。


 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
浜田省吾 『J.Boy (ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend")』
https://www.youtube.com/watch?v=7dUfaCD5Y0A

 Show me your J.boy

 仕事終りのベルに
 とらわれの心と体 取り返す 夕暮れ時
 家路たどる人波
 おれはネクタイほどき
 時に理由もなく叫びたくなる 怒りに

 J.Boy 掲げてた理想も今は遠く
 J.Boy 守るべき誇りも見失い J.Boy
 J.Boy

 果てしなく続く生存競争 走り疲れ
 家庭も仕事も投げ出し 逝った友人
 そして おれは心の空白 埋めようと
 山のような仕事 抱えこんで凌いでる

 J.Boy 頼りなく豊かなこの国に
 J.Boy 何を賭け何を夢見よう
 J.Boy…I'm a J.Boy.
 J.Boy…
 J.Boy…

 午前4時 眠れずに 彼女をベッドに残し
 バイクにkey差し込み 闇の中 滑り込む
 すべてが消え去るまで 風を切り 突走る
 J.Boy.
 Show me your way!
 水平線 昇る太陽の中 突き抜けたい

 J.Boy 打ち砕け 日常ってやつを
 乗り越えろ もう悲しみってやつを
 J.Boy J.Boy
 J.Boy 受け止めろ 弧独ってやつを
 J.Boy 吹き飛ばせ その空虚ってやつを
 J.Boy J.Boy…?

66. 2019年8月17日 20:41:22 : MVFKOYKFv6 : enpWN1hKLnFlMGc=[5] 報告
真偽を判断するのは難しいけど、

この時代、表に出てきてる人間にどうこうする力はほとんど
なかったと思う。

間違いなく何らかの黒幕がいた。一人、あるいは複数。
その証左が現上皇の平和に対する言動だと思う。

子どもだけは何とか育てあげた、と見る。

67. 2019年8月17日 20:51:52 : Fi2hsao1Rw : SjZ4bjVZclZCMmc=[14] 報告
2.26事件の海軍の記録も出てきたが、
なんだか一気に出した!って感じがする。

なにか年号が変わったから出してきたのか?
としか思えない。


68. 2019年8月17日 22:17:29 : x9oBjpHjAc : ZnBkVzFOb1BESTY=[14] 報告
フン、犬HKか
こんな書物なんぞ、後から「見つかった〜」といくらでも出せる。
昭和天皇は平和を願っていたとか悔恨とか、責任逃れの言い訳でしかない。
歴史修正主義者の偽書である、そう断言しておこう。

昭和天皇はダメだ
自身の意志にしろそうでないにしろ「敗戦の責任を取っていない」のだから。
東京の都市部は全て焼け野原なのに、その中心にある皇居には一発も弾丸・爆弾が落ちていない。
大日本帝国の最高責任者である昭和天皇が、なんのお咎めもなかったし戦犯にもならなかった。
こんなインチキな戦争、インチキな終わり方はないっての。
違うか?厄人脳と落選グセが沁みついた人徳のない甘木さんw

過去はしょうがない
昭和天皇なんか、いまさらどうでもいい。
上皇様と今上天皇様に期待するしかない。

69. 周回する人[92] jvyJ8YK3gumQbA 2019年8月17日 23:12:39 : Bmfud5tJQk : TFo1bTE4WmQvbnM=[6] 報告
天皇制について…

小室問題あたりから東宮家から秋篠宮気へとマスコミのバッシングが180度変わってしまいました。
その根底にあるのは愛子様の女性天皇待望論なのだと思いますが、先ごろの対日韓貿易問題でも露呈したようにマスコミは基本反日傾向にあるようですので、
テレビ番組でも女性天皇マンセーとした番組は、女性天皇制と女系天皇制をゴッチャにしているし、反論の有識者も圧力なのか何故か掘り下げて語らない。女系天皇は問題ないが、女性天皇は明らかに特亜のミスリードだと思います。

男系男子の天皇制は、その歴史観よりも生物学的にこそ意味を有しているもので、男子だけが持つY染色体遺伝子の代々の継承にこそ真の意味があります。
具体的には、紀子さまのご子息、悠仁親王のもつY染色体遺伝子は理論上、神武天皇のY染色体遺伝子と同等ということが科学的に成り立つので、この追跡可能な遺伝子の継承こそが「万世一系」なんです。
愛子様主体の女系天皇でも旧皇族から配偶者を選ぶ場合はY染色体遺伝子の継承は問題なしです。

そうでなく愛子様が女性天皇になり、お婿さんが一般人にでもなった暁には、反日マスコミはこぞって手のひら返しに「ひっかかったニダ、これで日帝もただの馬の骨に等しいニダ」などと特亜の学者は国際社会に向かって発言しますよw

仮に、アインシュタインのような天才と潜在的に同等のYAP遺伝子を持つ純血日本人の天皇と好戦的な一部の朝鮮民族特有の火病症候群的なY系遺伝子を持つ天皇。
安倍政権でなくても天皇制存続を考えるのであればどちらを選ぶかは明白だと思います。何か問題もないのに悠仁様をすっとばして愛子様を選ぶはずはありません。

百歩譲って無理やりの女性天皇継承なら生物学的にはミトコンドリアの継承ということになるかと思いますが、そうすると全ての女性のミトコンドリアはアフリカ大陸で生まれた「イブ」に行きつきます。「ミトコンドリア・イブ」というわけですね…

私見ですが、そうであるなら地球上の女性は誰もが天皇継承候補となりますから、例えば伊勢神宮の式年遷宮に合わせて二十年に一度、日本国民から無作為に抽選で女性天皇を決めてもよいということになったとしても特に私は違和感を感じません。
どういう事かというと、そこまでいったら女性天皇制に対する価値観を何も見いだせず、めんどくさいから天皇制など止めてしまえばいという事に自然といたるのではないかと危惧しますorz

70. 赤かぶ[26207] kNSCqYLU 2019年8月18日 00:02:57 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16274] 報告

公開された「昭和天皇拝謁記」蘇る天皇の言葉、後悔と反省 20190816 NHK ニュースウォッチ9





71. 2019年8月18日 00:15:24 : uQwMJi8LPY : SlBsMUVSU2JUYVk=[23] 報告
マスコミが基本反日傾向だって?
おかげでしゃっくりが止まったよ。

そう言えば立花もNHKが半日だと言ってるね。
政府広報メディア(東京新聞・赤旗・日刊ゲンダイ・一部地方紙を除く)を反日と
する思考回路は学術的に関心を禁じえない。

染色体、ミトコンドリア、たっぷり笑わせていただきました。ありがとう。

72. 周回する人[94] jvyJ8YK3gumQbA 2019年8月18日 00:36:12 : Bmfud5tJQk : TFo1bTE4WmQvbnM=[8] 報告
>>71
染色体、ミトコンドリアのどこが可笑しかった?

では貴方は天皇制についてどう考えるのか?
在日じゃないのなら建設的なレスができるはずだよ。

在日で天皇制問題に関心がないのなら祖国へ帰ったらどうか?
文在寅は2045年には朝鮮半島が一つになって日本を追い越すそうだから、
このチャンスをのがす手はないよw

73. 2019年8月18日 01:01:39 : rwTrWcntPQ : dnV0QVhwanQ0NnM=[3] 報告
原武史氏のツイートより


またNHKが「独自」と称して宮内庁長官田島道治が昭和天皇の肉声をメモしていていた膨大なメモが見つかったとするニュースを長々と流していたが、今日のニュースを見る限り、加藤恭子『昭和天皇と田島道治と吉田茂』(人文書院、2006年)ですでに明かされたこと以上の発見はほとんどなかった。
またNW9で「初めて明らかになった」として、田島のメモに昭和天皇の悔恨と反省を意味する「勢の赴くところ〜寝食為めに安からぬものがあります」という一節があったことを大々的に取り上げているが、これとほぼ同じ文章が前掲書の182頁に出ている。吉田がこれに反対したことも記されている。

れっきとした先行研究があるのに、それに全く触れず、あたかも今回の史料で全く新しい事実が発掘されたかのように報道するのは、研究倫理に照らしてもいいとは思えない。またこのことに全く言及しようとしない学者のコメントにも疑問を感じた。

この後に加藤さんが発見したとする文書が、いくつか前掲書に入っています。その一つが、NHKのNW9で紹介された「勢の赴くところ〜寝食為めに安からぬものがあります」とほぼ同じ文章が入った昭和27年3月23日付「おことば案」です。

今日のNスぺ。もちろん天皇と田島の間の細々としたやりとりが初めてわかったという意義は認めるが、「おことば」をめぐる天皇と田島のやりとりの推移自体は前掲書の165〜166頁に出ているし、反省にこだわる天皇の意向が拒絶されてゆく過程も同書に掲載された「おことば」案の変化からわかる。

そう考えると、やはり「新たな事実が発見された」とまで言えるかどうかは微妙ではないかと思う。大枠としてすでに知られている事実を補強し、精緻化しただけではないかというのが、偽らざる実感である。


https://twitter.com/haratetchan


NHKの大本営放送なり!

74. 2019年8月18日 02:38:10 : WcVpcMSZsY : NWRWalpSSzhNaEU=[1] 報告

当時から戦況・状況把握がしっかりとしていて、かつ様々な影響力も持っていたことが図らずも言葉の端々に明確に出ている。※当時、内閣擁立に昭和天皇の意向を踏まえるのは必須だった。

  >>昭和天皇「東條英機を総理にしたのも、軍を止められるのは彼しかいないと思ったからだけど、それも間違いだったと。」

75. 2019年8月18日 02:40:10 : WcVpcMSZsY : NWRWalpSSzhNaEU=[2] 報告
全体的には、かなり饒舌に語っており、
これを心理学的に見れば自分の罪の軽減を多くの人に理解してもらいたいという心情へと行き着く。

多面的かつ精度ある分析ができる人間であるにも関わらず、
当時主体的に関わったことを傍観者的に語っており、当事者意識が希薄である点も心理学的には見過ごせない。

自己および世間の価値観の変遷も大きい。
世間の価値観、自己の価値観が変遷する中で、後世の歴史に対して自己を負ではなく正の投影として残したいという心理も垣間見えてくる。


分かり易く言えば、言い訳の多い人ほど、自己愛が強く、責任を他者に転嫁し易いという傾向にマッチしている。

76. 2019年8月18日 02:46:50 : WcVpcMSZsY : NWRWalpSSzhNaEU=[3] 報告
国民に対しても「反省しなければならない」旨もいってるが、
情報量が絶対的に足りず、だから選択肢を持ち得えず、その中で懸命に生きた国民と、
様々な情報と権力を持っていた軍部&天皇自身を同一視点で語ることは、
意識的・無意識的どちらであるにせよ、
天皇自身の責任を軽減したい心理の表れであるのは明らか。

NHKは天皇の話を美談にしようとしているが、よくよく精査して観なければらない。

77. 前河[2608] kU@JzQ 2019年8月18日 07:49:02 : AtkcS53V0w : WXdFYm52ZVBycms=[48] 報告
人間というのは周りに流される。日本人は特にノリや空気を重視するから、尚更その傾向が強いだろう。

昭和天皇に戦争責任があるか?当然あるだろう。天皇の戦争責任は大変重いと思う。戦後、ご本人も自覚されたのだろう。だからこそ、反省のお言葉は当然ながら出てくると思う。

しかし、当時は形だけのトップであり実際に周りを動かす実行力や行動力がない。なのに「天皇陛下バンザイ!」と言えと若者を洗脳した。

戦後にも日本にはどうしても天皇制が必要だと判断された背景から今のような流れになったのだろう。

ある意味、仕方がないというか、しかし、筋は通ってない。日本人のジレンマとして葛藤が続くのだろうか?

地下爺さんのように許しがたいと気持ちもあるし、あれだけ周りに煽られたら誰でも周りに流されるのはやむを得ない的な同情をしてしまう面も自分の中にちょっとはある。

天皇であろうが政治家であろうが、周りに流されない真の正義感がある人間が、当時も今もどれだけいるだろうか?

「信念を持ち日本を本当に良くしようと励み、平和主義を貫く」こんな政治家は滅多にいない。こんな孤高奮闘する稀に見る偉い政治家。⬇

斎藤隆夫……大正・昭和の政治家。立憲国民党・立憲同志会・憲政会・民政党に所属。1940年2月に反軍演説を行って議会から除名された。

尾崎行雄……明治〜昭和の政治家。立憲改進党の結成に参加。立憲政治の擁護につとめ「憲政の神様」といわれる。第二次大戦中も反軍国主義をつらぬいた。


また、ニュース23の星さんは先日、テレビでこんな事を言われた。

私が直接取材した政治家の中で、私の質問「何のために政治家になったんですか?」に対して三人の政治家が同じ答えを言われました。

それは「日本が戦争をしないような国にするためだよ」

その三人とは、

後藤田正晴、宮沢喜一、野中広務

どれだけの偉業を行ったかは置いとくとしても、安倍とは全く真逆の政治家だ。鳩派と言うのか。

己の信念を持ち続き、平和主義を貫く政治家や権力者、知識人……こういう偉い人の方が数が少ない。権力にのまれる政治家や知識人が多いのは昔も今も同じか。

悲しいかな昭和天皇もまたこういった状況の中にのみこまれたひとりであろう。


78. 2019年8月18日 11:05:08 : 8OmLBqbYio : dFN4QS91VjU0amM=[3] 報告
70、80年も経って、極秘文書が発見された云々と大騒ぎをやらかすのは、怪訝で、奇異なことだ。

バーガミニは、当時一級の資料を用いて、裕仁の陰謀を余すことなく、描き出した。

戦後、マッカーサーは、関係者を脅迫して、戦争の責任が、裕仁ではなく、偏に当時の政府・軍にあるように、半ば強制した。

来たる東京裁判では、すべての責任を、東條に押し付けることで一致していた。

> Fellers and MacArthur employed
simple intimidation. All Japanese officials and military
officers were expected to take the line that responsibility
for the war lay exclusively with the government and the
military; the emperor was not in any way to blame.・・・・
It would be best to blame all responsibility on Tojo.'

同時に、米国内向けに、平和主義者で、民衆と交わる裕仁のイメージアップ作戦が行われた。

> Starting in February 1946, the emperor was
put on the public relations
circuit, promoting his new image as a great
pacifist, touring Japan and shaking hands with the people.
(以上、Yamato Dynastyからの引用。)

記事の内容から、拝謁記も、この線にそって書かれていることは明白だ。

79. 赤かぶ[26251] kNSCqYLU 2019年8月18日 16:36:42 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[16318] 報告


80. 2019年8月18日 17:11:55 : hHRyrQsPsY : Nk5rVnVxSUM2Vk0=[190] 報告
78さん、同感だ。
天皇が「後悔している」と言うのは「後悔していない」と言うよりもその方が自分の安全に繋がるからであって、何も驚くことではない。本当に心から悔いているのであれば、もっともっと沢山の闇の中の真実を告白する筈だ。
バーガミニも「ヒロヒトが操り人形で真珠湾攻撃を12/2まで知らされていなかったというのは嘘だ」と暴露している。

「大海令第一号」(真珠湾作戦計画書)は天皇、2~3の皇族、永野、杉山、山本と数人の腹心だけが知っていた。
天皇「海軍は何日を(攻撃)メドにしているのか」
永野「12月8日」
天皇「それは月曜日ではないのかね」(ハワイ時間では7日、日曜日)
永野「休みのあとは誰でも疲れているでしょうからその日を選びました」
以上杉山メモより。

81. 2019年8月18日 17:32:49 : UiOd73SM7Q : TEZkUVRnaGZCMFE=[3] 報告
あの時ああしておけばよかったと後悔し反省していたなら、
この時ばかりは吉田茂に逆らうべきだった。
同じ過ちを繰り返してはいけないという言ってる傍から同じ過ちを繰り返してしまった
82. ぢっとみる[731] gsCCwYLGgt2C6Q 2019年8月19日 09:56:47 : LLC16YRhF6 : ZGEwWi9qMFkwMms=[145] 報告
寺崎英成 『昭和天皇独白録』は、
GHQに提出した自己弁護のためのものだったそうだし、
初の天皇インタビューもアメリカ人向けだった。

この昭和天皇「拝謁記」は如何なるものか…
民間初の初代宮内庁長官が書き留めたもの…
宮内庁長官は云わば“身内”。
(寺崎英成だって、云わば“身内”。だから記録が残ったのだとしても、“身内”は“身内”)
民間初といえば、大抜擢に思えるかもしれないが、
皇太子の教育掛の、小泉信三だって大抜擢だった。
小泉信三は頑固な反共主義者(それゆえの抜擢)。
というより、
“国体”を取り巻いて、敗戦後も自分達“だけ”を守りたかった側だった。
そのためだけに“国体”護持にしがみついた。
そのための反共なんだ。見境なく。
(そうだ。民間初のお妃も、その次のお妃もその側からだった)
おまけに小泉信三は頑迷な戦争推進派だった…

この昭和天皇「拝謁記」は如何なるものか…
“対応”を内々で相談し合った経過のようにも(読めば)読める。

83. しんのすけ99[698] grWC8YLMgreCrzk5 2019年8月19日 12:23:09 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[460] 報告
私も 昭和天皇にだって極めて大きな責任はある と言う立場だ が しかし >>75のように穿ちすぎなものの見方に
賛同する事は出来ない なにが 「自分の罪の軽減を多くの人に理解してもらいたいという心情」 などと
唯の知ったかぶりであろう、彼の言うように 「言い訳」 として使いたいのならせめて昭和30年代には
この 「拝謁記」 世に出ていなければ、何の役にも立たないだろう 戦後74年も経って 昭和天皇が世を去って
もう30年も経っていまさら 言い訳をする意味もなければ価値もない 

こんな遅れて 言い訳する馬鹿がいるか?

戦後10年くらいで世に出たならば、「言い訳だ」「自己弁護だ」 という批判は当然の反応だっただろう
だが 昭和天皇は 最後まで語らずに 墓場へ持っていった、本当は そしりを覚悟の上で語るべきだったと
私も思うが、とにかく あのマッカーサーとの会談で何を話したのか 「誰にも言わないと言う男の約束」
として とうとう語らなかった それが昭和天皇の人間性なのか その奥ゆかしさが あの戦争への道を
止めることが出来たのに止めなかった とも言えるのです。 


● 言い訳だの自己弁護だの 言われても良いから もっともっと早く出すべきだった ●

84. 霞ヶ関に原爆を落とせ[476] ieCDlorWgsmMtJSagvCXjoLGgrk 2019年8月19日 21:53:51 : Iye4FetDP1 : ZWFkYmxpbDhUMGc=[26] 報告
昭和天皇よりも朝香宮のほうが
極悪だ。南京で自らの兵団に
対して最高責任者の松井石根よりも
先に指令を下して市民虐殺を挙行したからな。
85. 世のすねものから[204] kKKCzIK3gsuC4ILMgqmC5w 2019年8月20日 22:41:25 : FL2WgtHR8s : UUwxLmtEMEhveDI=[2] 報告
 45氏らネトウヨは米国でしょうのない回想録がでたりすると、すぐ飛びついて「ロウズヴェルトの陰謀」などでさわぎ、もっとアホウを煙に巻いて喜ぶ。

 民主党のロウズヴェルトに大統領選で惨敗したフーヴァ前大統領(共和党の成り上がり大ブルジョワ)の負け惜しみなど信じるバカは、河村たかし並の「つける薬のない」やつだ。そもそも本当の歴史研究は何千何万の検証を経た定説・通説の上に成り立っている。
 今回のNHKの発表もそれほど新奇なものはなく、日本近現代史の専門家らによる「定説」の延長線上にあった。
 勿論ウソのでっち上げをこととするバカウヨ系「偽専門家」や安倍官邸には不都合なものがあり、サンケイや正論の反応が見ものだ。
 バカウヨの「N国」が騒ぎ、同調する愚民どもがボロクソに言うNHKとしては必至ぶりのヒットで見返ししてやれただろう。

86. 世のすねものから[205] kKKCzIK3gsuC4ILMgqmC5w 2019年8月20日 23:22:10 : FL2WgtHR8s : UUwxLmtEMEhveDI=[3] 報告
 第一次世界大戦で「火事場泥」のように東アジアにおける権益を拡大させた日本帝国を、英米が抑え込もうとして、ワシントン会議を開催した。昭和天皇は主力艦保有比問題が発火点だと指摘しているが、翌年の「9か国条約」の縛りの方が重大だったはず。諸悪の根源とされる張作霖爆殺事件も原因は9か国条約そのものにあった。その後の満州事変に対し、米国はスティムソンドクトリンで「事後追認拒否」原則を宣明し、中国の行政的統一破壊行為を一切認めない方針を明確にした。ハルノートもその再確認を迫るもので、米国の対日中政策は一貫していた。
 ロウズヴェルトが突然日本を標的に好戦性を高めたかのごときネトウヨ的解釈は成り立たない。彼の真の敵は英国を征服せんとするドイツで、米国内の反戦勢力を納得させるため、日本に第一撃を撃たせたのだ。ドイツの参戦確約を日本が確認するのを確かめ、挑発したのだが、第一撃は英領マレーに対して撃たれるはずだった。実際、真珠湾より先に日本軍はタイ南部に上陸し、タイ軍と交戦している。
87. 赤かぶ[27270] kNSCqYLU 2019年8月25日 00:04:04 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[17337] 報告

NHKスペシャル▽昭和天皇は何を語ったのか〜初公開・秘録“拝謁(はいえつ)記」〜20190817


日本の占領期の第一級史料が発見された。初代宮内庁長官として昭和天皇のそばにあった田島道治の『拝謁記』である。1949(昭和24)年から4年10か月の記録には、昭和天皇の言動が、田島との対話形式で克明に記されていた。敗戦の道義的責任を感じていた昭和天皇は、当初「情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」としていた。さらに、1952年の独立記念式典の「おことば」で戦争への反省に言及しようとする。しかし、吉田茂首相からの要望で、最終的に敗戦への言及は削除されていく。その詳細な経緯が初めて明らかになった。番組では、昭和天皇と田島長官の対話を忠実に再現。戦争への悔恨、そして、新時代の日本への思い。昭和天皇が、戦争の時代を踏まえて象徴としてどのような一歩を踏み出そうとしたのか見つめる。



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