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昭和天皇、戦争への「反省」表明望む 初代宮内庁長官「拝謁記」/毎日新聞・msnニュース
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/626.html
投稿者 仁王像 日時 2019 年 8 月 19 日 19:40:38: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc
 


© 毎日新聞初代宮内庁長官を務めた田島道治の「拝謁記」など=東京都渋谷区で2019年8月19日午前10時29分、梅村直承撮影

昭和天皇、戦争への「反省」表明望む 初代宮内庁長官「拝謁記」/毎日新聞・msnニュース
毎日新聞
2019/08/19 12:01
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%98%ad%e5%92%8c%e5%a4%a9%e7%9a%87%e3%80%81%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%b8%e3%81%ae%e3%80%8c%e5%8f%8d%e7%9c%81%e3%80%8d%e8%a1%a8%e6%98%8e%e6%9c%9b%e3%82%80-%e5%88%9d%e4%bb%a3%e5%ae%ae%e5%86%85%e5%ba%81%e9%95%b7%e5%ae%98%e3%80%8c%e6%8b%9d%e8%ac%81%e8%a8%98%e3%80%8d/ar-AAFZTTE?ocid=iehp

終戦後に初代宮内庁長官を務めた田島道治が在任中の昭和天皇とのやり取りを詳細に記した文書を残していたことが明らかになった。昭和天皇は戦争への強い反省の気持ちを1952年5月の独立回復式典で表明しようと考えていたほか、独立前後に再軍備や憲法改正の必要性に言及するなど象徴天皇となった後も政治的な意見を首相に伝えようとしていた。宮内庁が編さんした「昭和天皇実録」に含まれていない内容も多く、昭和史を考える貴重な資料となりそうだ。

 田島元長官の遺族から文書を提供されたNHKが19日、一部を毎日新聞などメディアに公開した。

 文書は「拝謁記」と題された手帳やノート。48年から宮内庁や前身の宮内府のトップを務めた田島元長官が、就任の翌年から5年近くにわたって昭和天皇とやり取りした内容を記録していた。

 文書によると、昭和天皇は、独立回復時に国民にメッセージを出すことを望んだ。草案作りが本格化した52年1月11日に「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島元長官に述べ、同年2月20日には「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上(げこくじょう)とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだ」と語ったとしている。「下剋上」とは、戦時中の軍に統制が利かなかったことを表現したとみられる。

 「反省」の文字が宮内庁内部の検討で削除されても、戦争を悔恨する一節を入れようとしたが、吉田茂首相(当時)から反対され、最終的には受け入れた。

 式典の草稿が変更されたことは、田島元長官の伝記を出版したフランス文学者の加藤恭子氏が文芸春秋2003年7月号で発表していたが、昭和天皇の具体的な文言は知られていなかった。

 昭和天皇の「肉声」が記された「拝謁記」には、昭和天皇が米国とソ連(当時)が対立した冷戦下の安全保障環境に危機感を募らせる内容もあった。サンフランシスコ平和条約の調印から5カ月後の52年2月11日に「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ様ニ思ふ」と再軍備と憲法改正の必要性に言及していた。旧軍の復活には反対し、独立回復後の同年5月8日には「再軍備によつて旧軍閥式の再擡頭(たいとう)は絶対にいやだが去り(原文ママ)とて(ソ連の)侵略を受ける脅威がある以上防衛的の新軍備なしといふ訳ニはいかぬと思ふ」と述べたという。

 昭和天皇はこうした考えを吉田首相に伝えようとしたが、田島元長官が「それは禁句であります」といさめたという。天皇が政治に関われないという新憲法の理念を理解していないような発言から、象徴天皇のあり方を模索していた経緯がうかがえる。

 文書では、48年11月の東京裁判の判決の際にGHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサー司令官に天皇にとどまる意向を伝えた後も退位の可能性に言及していたことも明らかになった。【和田武士】

本音、肉声が生々しく超一級の資料

 古川隆久・日本大教授(日本近現代史)の話 長期間にわたり昭和天皇の本音、肉声が生々しく書かれた超一級の資料。象徴天皇制を始めるにあたり、天皇がどうやってそれを作っていくかを模索していたことが手に取るように分かる。また、この時期に改憲や再軍備を求めていたことは知られていなかった。  

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コメント
1. 中川隆[-8760] koaQ7Jey 2019年8月19日 21:39:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3983] 報告
昭和天皇と吉田茂はアメリカのスパイだった


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。


アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。
___

ゴマすり東条さんは毎日三回は 昭和天皇の所へ顔を出して、御用聞きしてたんだ
それである日、昭和天皇が真珠湾を攻撃しろと言ったんで、へいへいとその通りにしたというのが真実


▲△▽▼

御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳です


▲△▽▼


日本人はみんな,天皇家は精神薄弱の家系で昭和天皇も自分では何一つ決められない意志薄弱の知恵遅れだと思い込まされてきた.

しかし,それは世を欺く仮の姿だったのだ:


ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」


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昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。


▲△▽▼


昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機

1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。

中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた

1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。


ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。

裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。

そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。

だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。

東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。

木戸はまた、
刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。

二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。

彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、

自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。


▲△▽▼

内閣特別顧問の石原莞爾――退役した満州戦略家――は、敗戦の説明をおこなうため、全国の津々浦々を行脚した。

彼の話す内容は、戦争を始めたのは元首相東条であり、彼以外に責任はない、という単純なものであった。

1930年代初め、石原と東条は、天皇の支持を取り付けるため互いに争っていた。だが東条が勝利していた。今、東条を犠牲者に祭り上げるにあたり、石原ほど詳細を知るものはいなかった。

出身地東京で一年以上の退役生活を送っていた東条は、その中傷を冷徹に受け入れ、戦争の責任を全面的に負うのが自分の意思であると、友人たちには内々に語っていた。

友人たちは彼の意思を尊重したが、以前の部下や下僕たちはそれに反発した。たとえば、官邸に20年間使えてきた給仕は、東条を、もっとも人間的で思慮深い人物であると述べていることが幾度も取り上げられていた。

マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、
天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。

そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、
天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。


1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に
十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。

ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて
戦争が行われているのでは無い事、

東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。

天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、
自分だけ生き延びたのである。

戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、
政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。

東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、
この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。

天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。

私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。

たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。

彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。

また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。

また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。

私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。

日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。

過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。

私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。

▲△▽▼


東京から80キロメートルほど海岸線沿いに下った山間に、節くれだった松林に囲まれ、等身大以上の観音像――慈悲の仏教の女神――が立っている。 観音の衣の背後の草むらの中に、1.2メートルほどの空地を見つけることができる。下部の通路からは見えないそこに、七枚の灰色に変色した無塗装の細板が地面に突き立ててある。

それぞれには、墨で書かれた以下の名前が見られる。

東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、広田広毅、木村兵太郎、武藤章そして松井岩根。

彼らは、日本のヒットラー、ヒムラー、ゲーリングとして、二年間の審問の後の1948年、連合軍によって絞首刑に処せられた者らである。

その近く、数百メートル下った海を見晴らす高台に、小さな神社がある。その軒先には、色とりどりの紙で飾られたしめ縄がかけられている。その周り廊下の端に置かれた台の上に記名帳があり、そうした絞首刑にあった者の家族らが、1950年初め以来、毎月一回ないし二回、そこに記名している。

おおくの日本人にとって、彼ら七人は、そう罰した国際法廷が言う意味での有罪犯ではなかった。彼らは、日本を戦争へと導いた悪い陰謀者でも、ヒットラーやその一味のような狂った者らでもなく、むしろ、天皇への忠誠な奉仕者であり、政府の責任ある官吏であり、西洋式法廷の要求を満たすため、支配階級によって白羽の矢が立てられた象徴的身代わりであった。

 日本人のほとんど誰もが、1948年の戦争犯罪法廷での判決を非難するが、だからといって、日本人は、多数の選択として戦争を行ったとも、その兵隊たちが公式の指令なくして強姦や殺人を行ったとも思っていない。


天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。

その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。

裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。

戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。


▲△▽▼

神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が命令してやらせた


[2019.7.29放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ffcFIkJDkSg


2019/07/05 藤井聡 京都大学大学院工学部研究科教授
不条理な大和特攻という大本営決定
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/257604


 この週末、ある雑誌の企画で吉田満氏の「戦艦大和の最期」という文学作品についての座談会を行った。


戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫) – 1994/8/3
吉田 満 (著)

この作品は、先の大戦末期、沖縄戦に特攻出撃した戦艦大和の、出撃命令が出てから撃沈されるまでの数週間を描いた物語だ。吉田氏はこの大和の乗船員で、上官の脱出命令を受ける形で九死に一生を得て奇跡的に生き残り、無事生還した後に、たった一日でその初稿全文を書き上げたという。

 この作品には、この大和の出撃に対して「現場」が猛反発していた様子が克明に描かれている。大和には一機の戦闘機の護衛もなく、ほぼ丸裸の状態で何百何千というアメリカの雷撃機・攻撃機の猛攻を受けることが必定であり、一切何の戦果を上げること無く轟沈することは、誰の目にも明らかだったからだ。

 しかし、そんな現場の大反対を完全に無視する形で、大本営からの大和出撃令は覆らなかった。そして案の定、誰もが予期した通り大和は徳之島沖で米軍機の猛攻を受け、攻撃開始からたった数時間であえなく撃沈した。


 一気に3000人を超える特攻死をもたらした、この史上最大の「特効作戦」の全容を記した『戦艦大和の最期』からは、現場が如何に必死に闘ったかが克明に浮かび上がってくる。そしてわれわれ読者はその戦いに対して、その初稿の最後に書かれていたという『天下に恥じざる最期なり』との結語を繰り返す他にない。


 ただし、そうした現場の兵士達の勇猛果敢な戦いぶりは、その大本営の判断を正当化する論拠にはなり得ない。そもそもわれわれは、「軍事作戦の成果」の視点から現場の幹部全員が猛反対していたという事実、そして、現実は彼らが主張した通りの顛末に終わったという事実をけっして忘れてはならない。

▲△▽▼

昭和天皇の特攻命令:戦艦大和の場合

1945年4月6日,第二艦隊司令長官・伊藤整一中将座乗の巨大戦艦「大和」は,9隻の艦艇をしたがえて徳山沖を出航,沖縄本島西部海域をめざす征途についた。連合艦隊の生き残りをあつめた最後の艦隊出撃である。作戦計画では航空機による護衛は皆無。燃料は全艦片道分しか搭載せず,生還を期さない海上特攻であった。

作戦構想の内容とは,はじめ敵迎撃機の攻撃を吸収する海上の“囮”となって特攻機の突撃を助け,次に敵上陸地点へ殴り込んで徹底的な艦砲射撃を加え,最後に銃をとって陸上戦をたたかう,というものであった。しかしこんな計画が実行できるはずはない。実際,南西海域の制空権と制海権はすでにアメリカ側に握られている。その海域を,わずか10隻の残存艦隊が航空機による護衛もなく進攻すればどうなるかは問うまでもない。出撃命令の下命以前から,伊藤・第二艦隊司令長官は断固反対との意見具申をおこなった。

伊藤中将の頑強な反対を異例の事態と認めた中央は,説得のための特使として,連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将を派遣, “説得”は成功した。しかしそれは,「一億総特攻の模範となるよう,立派に死んでもらいたい」という言葉によってであった。

本作戦発動の一週間前,及川軍令部総長が沖縄方面の戦況ついて,「航空機による特攻攻撃を激しくやります」と天皇に報告した。

すると天皇から重ねて,

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」

と“御下問”があった。及川総長はこれを

「水上部隊は何をしているのか」

という叱正の言葉と解した。

及川総長から連絡を受けた豊田連合艦隊司令長官は,さっそく

「畏レ多キオ言葉ヲ拝シ恐懼二堪エズ」

にはじまる緊急電を発し,あくまで作戦の完遂を期すべし,と呼びかけた。

「海上部隊はあるか?」

という疑問の言葉は

「あるなら使ってはどうか」

という間接的・暗示的命令として解されうる。

「海上部隊はないのか?」

という否定疑問文では,こうした間接的・暗示的命令性がいっそう強まるだけではなく,

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”のニュアンスまでが加わってくる。


こうして及川総長と海軍首脳部は

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?」

という“御下問”を深読みし,そこにまず

「あるなら使ってはどうか?」

という間接的・暗示的な命令を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。天皇に対しても,特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。

海軍上層部の空気は変化し,ついには海上特攻艦隊という構想へ到達したと推定されるのだ。それだけではない。天皇の発言を契機として生じた海軍上層部の空気のこうした変化こそが,草鹿特使の“説得”の真の内容であったと推定することによって,伊藤中将の態度急変の謎も初めて解けるのだ。

こうして,戦艦大和がひきいる10隻の特攻艦隊は,死の南西海域へ向って出撃して行った。

▲△▽▼


鬼塚英昭 昭和天皇はアメリカのスパイだった


日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_YfXIhybq5U&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=2

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=3

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=34HEcM9qvqc&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=4

日本の真相5 すべての戦争は八百長である - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kIXzkY8VtLU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=5



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

2. 2019年8月19日 21:59:23 : k3VrrzzmmY : bTA1N3B6QnNtY0k=[87] 報告
手束 正昭(てづか まさあき、1944年 - )は、日本の牧師、神学者。米国キングスウェイ神学大学名誉神学博士。 日本基督教団高砂教会主任牧師[1]、 日本基督教団聖霊刷新協議会創立者、日本リバイバル同盟評議員、日本民族総福音化運動協議会総裁[2]。日本のカリスマ運動の指導者。(大東亜戦争は殖民地開放戦争

であり、侵略戦争ではない 負けたからGHQ]がそのように国民を洗脳しただけ」


大東亜戦争
2007年 - 2009年の月刊誌『ハーザー』の連載記事「日本宣教の突破口」では、大東亜戦争(太平洋戦争)の日本悪玉論はGHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによる洗脳であるとして、大東亜戦争肯定論を唱える。また、南京事件の数字にも疑義を呈している。一年の休刊を経て復刊された2011年1月号のハーザーでもこの連載を続けており、「大東亜戦争は本当に侵略戦争だったのか」と題する記事がある。 ただし戦争とは「敗戦した側が悪い」という原則も存在している。


林房雄 東亜戦争肯定論  大東亜戦争は江戸時代末期 ペルリ来航 不平等条約

締結いらいの100年のスパンで考えるべきだ、世界中を侵略、植民地化し

日本にも不平等条約うお押し付けた 欧米白人に対する 日本植民地化防止

アジア解放の戦争であり、大東亜戦争はその仕上げである。

(大東亜戦争を契機として、現実、事実 アジア、インド アフリカ諸国は連鎖反

 応的に欧米白人から独立した、 日本は世界史に偉大な業績をのこした。

ただそのことは、欧米白人にとり屈辱であるから、その隠蔽のため、あたかも

日本が侵略したように、白人侵略歴史から目を反らせる操作。洗脳をおこなった

これはGHQが  やった)

3. 2019年8月19日 22:40:53 : k3VrrzzmmY : bTA1N3B6QnNtY0k=[88] 報告
、日本は74年間戦争をしていない、これはよかった。

 米国はいまも戦争を中東で行っている、イスラム教とキリスト教の過去の十字軍

 のような血みどろの戦争にならなければいいが。

 現在、反省すべきは、今戦争を継続している国でしょ。

4. 2019年8月20日 05:13:22 : NlGGBVn0N2 : dlNEWXlRYkprdGM=[3] 報告
>>2
>大東亜戦争は殖民地開放戦争であり、侵略戦争ではない 負けたからGHQ]がそのように国民を洗脳しただけ」

ははは。
じゃあ朝鮮併合、日清戦争、日露戦争は何なのって。
その延長でしょ。

5. 2019年8月20日 08:25:13 : k3VrrzzmmY : bTA1N3B6QnNtY0k=[89] 報告
4>>。ホ日露戦争は何なのって」

ははは。ははは ははは。 オマケ ははは

   日本の防衛戦争にきまってるじゃないか、初歩的歴史も勉強しないで

   君が無知、歴史を知らないだけだよ。

   ロシアが韓国を領土とするか、日本が領土とするか、どちらにしても

   朝鮮は独立を保てる国じゃなかったことぐらい、歴史を調べればわかる

   のさ。 もう一度教えておいてやる、バカには何度もいわないとわからん


   いいか、朝鮮半島は当時 ロシアが領土にするか、日本が領土にするか

   どちらかした選択の余地がなかったの。

   ここまでわかるか、わからないなら歴史の本を読めよ。

   で、ロシアに韓国を取られることは日本の生命線、安全保障上

   許すことができなかったから、日本の国運をかっけて、当時日本が

   勝てる見込みはなかった大国ロシアと戦わざるを得なかった。

   明治天皇は運がよかった、奇跡的に勝利して、世界中がびっくりこいて

   大変驚き、日本の勝利はアジア諸国に希望の光を与えたのさ。


   そしてこれが、日露戦争の勝利が大東亜戦争につながったと言える。
   アジア解放の最終段階だ。中国(シナ)はそれを妨害しおただけ。

 「参考資料:世界の政治指導者・歴史学者の日露戦争に対する発言集」

 〇中国の建国者:孫文
「これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア民族は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くに至った」。


〇ベトナムの王子クォン・デ侯
 「いまなお生々しく思い起すのは日露戦争に日本が勝ったときのアジアの歓びです。大東亜各国の志士と同じく、私たちもまた日本のあの輝かしい凱歌に刺激されて、独立への念願をひとしお燃え立たせたのですが、いまこの大戦争下に晴れて故国へ帰ることができますのは、全く感慨無量です。

〇インド:ジャワハルラル・ネルー首相 
 「アジアの一国である日本の勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた」。「ヨーロッパの一大強国が破れた。とすればアジアは、昔たびたびそういうことがあったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった」。「日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった


〇インド仮政府代表・チャンドラ・ボース
今から約四十年前、私がようやく小学校に通い始めた頃、一東洋民族である日本が、世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させました。このニュースが全インドに伝わり、昂奮の波がインドを覆いました。いたるところで旅順攻撃や、奉天大会戦や日本海海戦の勇壮な話で持ちきりでした。私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し尊敬しました。元帥や大将の写真を手に入れようとしてもそれができず、その代りに市場から日本の品物を買ってきて、日本のシンボルとして家に飾ったものでした。そして、インドの革命家たちは、なぜ日本が強大国をやっつけることができたのか、それを知ろうと日本に来ました。

6. 2019年8月20日 08:56:52 : k3VrrzzmmY : bTA1N3B6QnNtY0k=[90] 報告
4>>。ヨ韓国併合」  はははの続き

  韓国は当時独立国として生きていくのは難しかったと先に書いた。」

  韓国(朝鮮)は両班という特権階級が支配する、超封建社会

  両班は吸血鬼、世界一傲慢な貴族階級として朝鮮を支配していた。

 「イザベラ・バードは科挙を通じて「官」になれば、君臨と搾取に没頭するのが
  茶 飯事だったとして、1897年の朝鮮紀行「吸血鬼」に比喩した[2][1]。マ
 リ・ニコ ル・アントン・ダヴリュイは『朝鮮事情』で「世界一傲慢な貴族階
 級」として記録 に残している。」

 前近代的、封建韓国をどうしようかとなって、 日本は朝鮮と戦争したわけじゃ

 ないよ。 朝鮮の人々はどう思ったかしらないが、 当時の大韓帝国王が

 日韓併合条約をむこうから頼んできたから、条約として成立している

「日韓併合条約」話し合いで成立している、日本が脅迫したわけではない。

 日本側でも、韓国併合反対論はあったしね、伊藤博文は反対した。


(ウイキペデイアより抜粋)
1910年(日:明治43年 / 韓:隆熙4年)8月22日に漢城府(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用総理が調印し、29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」ことなどを規定した条約のこと。 

7. 2019年8月20日 09:01:53 : ZNiatgprUg : Vk1BVTJWc2J5d0E=[1] 報告
この戦争は広島、長崎の原爆の地上起爆が解明されれば何のために戦争をしたかが解明される。

8. 戦争とはこういう物[3188] kO2RiILGgs2CsYKkgqKCpJWo 2019年8月20日 10:35:15 : 9PG0M0b68Q : NGRTZWJIdFdHdFU=[120] 報告
>独立前後に再軍備や憲法改正の必要性に言及するなど象徴天皇となった後も政治的な意見を首相に伝えようとしていた。

なぜNHKが今この情報をリークしたのか。
昭和天皇については、ほかに「原爆は残酷だが仕方なかった」「戦争責任は言葉のアヤ」など大日本帝国主権者として国民を扇動した責任者らしからぬ発言が多くあったはずだが。

9. 2019年8月20日 12:55:03 : pBIeupfMUQ : ekVDQnROU2FkYlk=[63] 報告
>>8さん
>なぜNHKが今この情報をリークしたのか。
 
 
『拝謁記』では、昭和天皇が、日本の再軍備と、そのための憲法改正の必要性を、たびたび表明していたことが明らかになっています。
 
「日本の再軍備と、それを明記するための憲法改正は、昭和天皇の遺訓であった」として、安倍首相が主張する「自衛隊を明記する憲法改正」の正当性を国民に訴える狙いがあると考えられます。
 

🔴 昭和天皇、憲法改正・再軍備に言及 初代宮内庁長官の新資料

(産経新聞,2019.8.19)

初代宮内庁長官を務めた田島道治(みちじ)氏が昭和24〜28年、昭和天皇との詳細な面会内容を書き留めた記録が存在することが19日、明らかになった。

記録では、昭和天皇が当時、再軍備と憲法改正の必要性に言及していた一方、国民に対して先の大戦への「悔恨(かいこん)」や「反省」を表明したいとする考えも示していた。

記録によると27年当時、昭和天皇は度々、日本の再軍備や憲法改正に言及。

憲法については「他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいヽ」(27年2月11日)、再軍備に関しても「侵略者のない世の中ニなれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得己(やむをえず)必要だ」(同3月11日)などと述べていた。

https://www.sankei.com/life/news/190819/lif1908190024-n1.html
 

10. 2019年8月20日 16:45:12 : k3VrrzzmmY : bTA1N3B6QnNtY0k=[91] 報告
当時の朝鮮半島がどんな状況にあったのかを知る資料がある。それはイザべラ・バード(1831-1904)という英国人女性の旅行記「朝鮮紀行」㊟である。この旅行記は、彼女が1894年から1897年にかけて旅行した朝鮮半島の政治、風俗、地勢などについて克明に記したもの 日清戦争後の朝鮮の状況について、バードは次のように述べている。なお、文中の「改革」とは日本が実施したもの。

(要約すれば、朝鮮は統治能力のない、無秩序国家 でたらめな金銭汚職
 
 にまみれた国家で日本とロシアのいずれかの保護下に置かれなければ

 解決策はない)By イザベラ・バ−ド、


「官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。

このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。

日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。

無数の農家が地方行政官や両班から税を強制取り立てされたり借金を押し付けられたりして㊟年々耕作面積が減り、いまや一日三度の食事をまかなえる分しか栽培していない。搾り取られるのは明々白々の運命である階層が、無関心、無気力、無感動の底に沈みこんでしまうのは無理からぬことである。

㊟「借金の押し付け」とは、官吏や両班(貴族階級)が裕福な下層階級から借金し、返済しないこと。

要するに、当時の朝鮮は統治能力を完全に失っていたのである。日本が改革に着手しても、うまくいかなかった。その後、どのように国を運営するかについて、バードは次のような意見を述べている。

朝鮮がひとり立ちするのは無理で、共同保護というようなきわめて難しい解決策でも取られない限り、日本とロシアのいずれかの保護下に置かれなければならない。」

 で、ロシアではなく日本が保護下において、莫大なインフラ投資、教育投資を

 して近代化したにもかかわらず、 日本は悪いことした、だけしか言わない

 最悪ババを一度日本はつかまされたのですから、いまの日韓状況下で過去の

 経験から、ババをつかまないように、韓国とは距離をおく、下手に因縁付けられ

 ないよう注意すべき。

 

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