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「拝謁記」にあったのは「昭和天皇の反省」じゃない 戦争責任回避、侵略への無自覚、改憲再軍備主張、沖縄切り捨て…(リテラ)
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/784.html
投稿者 赤かぶ 日時 2019 年 8 月 24 日 23:50:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

「拝謁記」にあったのは「昭和天皇の反省」じゃない 戦争責任回避、侵略への無自覚、改憲再軍備主張、沖縄切り捨て…
https://lite-ra.com/2019/08/post-4921.html
2019.08.24 「拝謁記」昭和天皇は「反省」していたか 改憲再軍備、沖縄切り捨ても リテラ

   
   NHK NEWS WEB「昭和天皇『拝謁記』戦争への悔恨」より


 昭和天皇の「肉声」を伝える新史料が話題となっている。アジア・太平洋戦争での敗戦後、初代宮内庁長官・田島道治が昭和天皇との面会の際のやり取りを記録した「拝謁記」だ。

 長年、田島の遺族の間で極秘に保管されていたものをNHKが入手、『NHKスペシャル』でスクープしたのだが、そのNHKと新聞各紙が、拝謁記の内容としてこぞって大きく取り上げているのが、昭和天皇が戦争への反省を表明しようとしていたというくだりだ。

 1952年5月3日のサンフランシスコ講和条約発効を祝う式典での「おことば」を巡って、田島長官に「ともすると昔の軍にかえる様な気持をもつとも思えるから、私は例の声明メッセージには反省するという文句は入れたほうがよいと思う」「私は反省というのは私にも沢山あるといえばある」と、繰り返し戦争への反省を自らの口で語りたいとの希望を伝えていた(引用者の判断で旧字体等を改め句読点を付した。以下同)。

 しかし、田島が天皇からの聞き取りをもとに草案を作ったところ、時の首相・吉田茂から、「反省」の一節全体を削除するよう要請されたのだという。

 周知のように、昭和天皇は公の場で自らの戦争責任について一切言及してこなかった。1975年の昭和天皇訪米後の記者会見(10月31日)で、ロンドン・タイムズの日本人記者から「戦争責任について、どのようにお考えになっておられるか」と予定にない質問を受けたときも、昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」とはぐらかした。

 昭和天皇が側近らに「戦争への悔恨」を度々口にしていたということはこれまでの研究でも明らかになっていたが、いま、マスコミは拝謁記報道でわざとらしく「やはり昭和天皇は戦争責任を感じていた」「反省の意を国民に表そうとしていた」と驚いて見せているのだ。

 だが、この拝謁記で明らかになった事実は、そこまで評価すべき話なのだろうか。そもそも、声明に「反省の意」を込めようとして削除されたというが、天皇の意向を踏まえて田島が作成し、吉田茂から削除を要請されたくだりは以下のようなものだ。

〈勢の赴くところ兵を列強と交へて破れ、人命を失い、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡に顧みて悔恨悲痛、寝食為めに安からぬものがあります〉

 ようするに、列強に無謀な戦いを挑んで、敗戦し、自国の国民の命と領土を失ったことに悔恨の念を述べているだけで、アジア諸国への侵略や虐殺への加害責任、反省を述べているわけではない。

 そして、吉田茂からの削除要請に対して、昭和天皇は当初、「私はそこで反省を皆がしなければならぬと思う」と抵抗していたものの、田島から「国政の重大事 政府の意思尊重の要」「祝典の祝辞に余り過去の暗い面は避けたし」「遺憾の意表明 即ち退位論に直結するの恐れ」という3点を説得された結果、「長官がいろいろそうやって考えた末だからそれでよろしい」「いや、大局から見て私はこの方がよいと思う」と、削除を了承しているのだ。

■宮内庁内部で削除を進言されていた天皇の「事志と違い」という戦争責任回避の言葉

 しかも、「拝謁記」によれば、昭和天皇は戦争責任を背負うどころか、自らの責任を否定するような発言もしていた。

 実は草案の作成過程では、吉田茂に見せる前に、宮内庁に反対された箇所があった。それは「事志と違い」、つまり、開戦が「私の意志ではなかった」という天皇のエクスキューズの文言だった。

 報じられている拝謁記の内容からは、これが天皇の強い希望で入れられたものであることがわかる。それは、田島がその削除を昭和天皇に進言した際のことだ。田島が宮内庁内部の意見として「何か感じがよくないとの事であります」と説明すると、昭和天皇は、「どうして感じがよくないだろう。私は『豈、朕が志ならんや』といふことを特に入れて貰ったのだし、それをいってどこが悪いのだろう」「私はあの時東條にハッキリ、米英両国と袂を分かつということは実に忍びないといったのだから」と抗弁。開戦が自分の本意ではなかったこと、開戦の詔勅にも「豈、朕が志ならんや」という文言を入れさせたことなどを強調していた。

 拝謁記には、これに対して、田島が「陛下が『豈、朕が志ならんや』と仰せになりましても結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故、表面的には陛下によって戦が宣せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければよいではないかという理屈になります」と諌めたことも記録されている。

 他にも、拝謁記には、昭和天皇の責任転嫁や保身としか思えないような発言が出てくる。

「私の届かぬところであるが、軍も政府も国民もすべて下克上とか軍分の専横を見逃すとか、皆反省すればわるいところがあるから」

「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうする事も出来ぬという事になっていた」

「事の実際としては下克上でとても出来るものではなかった」

■天皇の開戦の責任、そして、無条件降伏の決断を引き延ばした責任

 改めて指摘しておくが、昭和天皇がいくら戦争は本意ではなかったと主張しても、その責任を免れることはできない。戦後、保守派は「天皇は戦争を避けたがっていたが、軍部が暴走した」などというロジックで、天皇の戦争責任を回避しようとしてきたが、これは戦中日本の加害性を矮小化するためのまやかしにすぎない。

 なぜなら、天皇は大日本帝国憲法において〈国の元首にして、統治権を総覧〉し〈陸海軍を統帥〉する存在であり、最終的に天皇の承認なしには開戦も終戦もできなかったからだ。実際、対米英戦争は1941年12月8日の昭和天皇による「米国及び英国に対する宣戦の詔書」で始まり、1945年8月15日の「大東亜戦争終結の詔書」で終わっている。

 天皇を擁護する人たちは、昭和天皇が立憲君主制に則って、ただ天皇を輔弼する内閣の決定を追認しただけのように言うが、その追認こそが問題なのだ。しかも、天皇は内奏を通じ、政策決定の過程に自らの主体的な意見を反映させることができた。関東軍による張作霖爆殺事件に激怒し、田中義一首相に辞任を勧告した(田中内閣の総辞職)ことは、国政における天皇の影響力発揮の最たる例だろう。しかし、開戦時も戦争中も、そうした大権を行使することなく、戦争遂行を「追認」したのである。

 また、巷間では昭和天皇の“超立憲主義的行為”のうち無条件降伏の決断(いわゆる「聖断」)ばかりが着目されがちだが、その「聖断」を引き延ばしたことによって、本土空襲の激化や広島・長崎への原爆投下など大被害を招いたことも忘れてはならない。

 1945年2月、すでに敗戦濃厚のなか、時の首相近衛文麿は昭和天皇に早期の講和実現を訴えた(近衛上奏文)。が、その進言を昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい」として否定した。局地的であれ戦闘に勝利をおさめることで、皇統維持などの「条件付き講和」へ持っていこうという「一撃講和論」であり、同年の無謀な沖縄戦はその結果として行われたと言っていい。「無条件やむを得ず」の早期講和論へようやく舵を切ったのは5〜6月頃とみられている。要するに、どこをどうとっても、天皇の戦争責任は明らかなのだ。

 しかし、昭和天皇は在位中、こうした戦争責任を公の場で認めることはなかった。そして、今回、明らかになった拝謁記のなかでも、天皇はけっして自らの戦争責任を認めてはいない。

 それどころか、逆に、戦争は自分の本意ではなかったことを強調し、止めることができなかったのは、東條英機や軍部が暴走し、どうすることもできなかったのだと繰り返し弁明している。

 マスコミは今回の拝謁記報道で「天皇が戦争の反省にこだわったことがうかがえる」と評していたが、その戦争への言及を見ると、昭和天皇が本当に「反省」していたとはとても思えない。

■改憲「侵略者がある以上軍隊はやむを得ず」沖縄米軍基地も「犠牲はやむを得ぬ」

 その印象は拝謁記の戦後体制をめぐる天皇の発言を知ると、ますます強くなる。拝謁記には、天皇が日本国憲法に不満を抱いている発言がいくつも出てくる。サンフランシスコ講和条約祝賀式典での「おことば」をめぐって、「憲法の総ての条項に賛成ととれぬように書いて貰はないと困る。それかといって憲法自体わるいという事ではないから」と注文をつけていたことが記録されている上、以下のような改憲による再軍備も主張していた。

「私は憲法改正に便乗して、外のいろいろの事が出ると思って否定的に考えていたが、今となっては他の改正は一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいい様に思う」
「軍備といっても国として独立する以上必要である。軍閥がわるいのだ。それをアメリカは何でも軍人は全部軍閥だという様な考えで ああいう憲法を作らせるようにするし」

 そして、1951年3月には「侵略者のない世の中になれば武備は入らぬが、侵略者が人間社会にある以上、軍隊は不得已(やむをえず)必要だといふ事は残念ながら道理がある」と発言し、田島から「その通りでありまするが憲法の手前そんな事はいえませぬし、最近の戦争で日本が侵略者といわれた計りの事ではあり、それは禁句であります」と諌められている。

 これは、天皇には戦後も相変わらず自分たちが「侵略」をはたらいていたという意識が希薄だったことの表れ、というしかない。

 さらに決定的なのは、沖縄米軍基地について語った発言だ。「拝謁記」によれば、サンフランシスコ講和条約発効後の1953年11月24日、昭和天皇は田島に対し、こう述べている。

「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一応もっともと思う理由もあろうが、全体の為に之がいいと分れば一部の犠牲はやむを得ぬと考える事、その代りは一部の犠牲となる人には全体から補償するという事にしなければ国として存立して行く以上やりようない話」

 戦前・戦中は本土を守るための捨て石にされ、本土の「主権」が回復してもなお、米軍の占領下に置かれる沖縄を「一部の犠牲はやむを得ぬ」と斬って捨てる昭和天皇。ここからわかるのは、結局、昭和天皇は戦前と何も変わっていないということだろう。

 そこにあるのは、「豈、朕が志ならんや」と言いながら開戦の詔勅に署名をしたのと同じ、「やむを得ぬ」と大勢に従い、現状を追認し続けている姿だ。

 作家の保阪正康は昭和天皇の行動原理について、〈よく、天皇は平和主義者か好戦主義者か、といった質問が発せられるが、それは質問自体が間違っている。天皇はそのどちらでもなく、皇統を守ることが第一の責務であり、戦争か平和かというのはそのための「手段」と考えていたのである〉(『昭和史のかたち』岩波書店)と書いていたが、これは正しい分析と言えるだろう。

■戦争責任を問わなかったことが歴史修正主義と戦前回帰思想を温存させた

 昭和天皇はおそらく、大元帥だった戦前・戦中も、自らが開戦に詔勅をあたえた戦争で日本国民に未曾有の戦渦をもたらし、他国に多大なる被害を与えた後も、変わらず「万世一系の皇統の存続」を最大目的として行動し続けてきた。

「戦争への反省」の意を表そうとしたのも、その「反省」削除に応じたのも、当時、国内にあった退位論を抑えるためだったと思われるし、「改憲による軍隊保持の希望」も「沖縄の米軍基地容認」も共産勢力の日本進出で皇統が保障されない事態を恐れていたからこそのものだろう(実際、拝謁記からも共産主義への強い警戒心が見て取れる)。

 そう考えると、昭和天皇個人に「反省」を期待することも自体が、そもそも無意味なのだ。

 それよりも、私たちが考えなければならないのは、私たち自身の姿勢のことだろう。日本国民は天皇が戦争責任を自ら表明するか否かに関わらず、自分たちの手で、天皇の戦争責任を検証し、追及すべきだったのだ。しかし、国民もメディアもそのことから逃げたばかりか、一緒に自分たちの戦争責任にも蓋をしてしまった。

 その結果、安倍首相の祖父である岸信介をはじめ戦争に加担した政治家がなし崩し的に復権し、戦前回帰を目指し、大日本帝国と戦争を肯定する思想が温存されたのだ。

 もし、あの時にきちんと天皇の戦争責任を検証し、自分たちの戦争責任に向き合っていたら、1990年代の歴史修正主義の台頭や安倍政権の露骨な戦前回帰を許すことはなかったはずだ。

 昭和史と天皇制研究で知られる吉田裕は、日本の戦争責任に対する姿勢を「ダブル・スタンダード」と評して、こう分析している。

〈具体的に言えば、対外的には講和条約の第一一条で東京裁判の判決を受諾するという形で最小限の戦争責任を国家として認める、しかし、国内的には、日本の戦争責任を事実上、否定する、あるいはこの問題を棚上げにする、という形での対外的対応と国内的な処理の仕方とを使いわけるようなやり方である。
 当然のことながら、このようなダブル・スタンダードの成立は、日本人の戦争観や戦争責任観のあり方をも大きく規定することになった。一つには、国内的に戦争責任の問題が不問に付されたことの結果として、日本国家と日本人の対外的な戦争責任・加害責任の問題が曖昧にされただけではなく、国家あるいは国家指導者の自国民に対する責任の問題まで、事実上、封印されてしまったことである。〉(『現代歴史学と戦争責任』青木書店)

 しかし、今からでも遅くはない。戦争をめぐる天皇の「肉声」が明らかになったこの機会に、「天皇の言葉」に頼るのでなく、国民が自分たちの手で戦争責任の問題を検証し、追及する作業を開始すべきではないのか。

(エンジョウトオル)


















 

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コメント
1. 赤かぶ[27267] kNSCqYLU 2019年8月24日 23:51:10 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[17334] 報告


2. 赤かぶ[27268] kNSCqYLU 2019年8月24日 23:51:47 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[17335] 報告


3. 赤かぶ[27269] kNSCqYLU 2019年8月25日 00:00:08 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[17336] 報告

NHKスペシャル▽昭和天皇は何を語ったのか〜初公開・秘録“拝謁(はいえつ)記」〜20190817


日本の占領期の第一級史料が発見された。初代宮内庁長官として昭和天皇のそばにあった田島道治の『拝謁記』である。1949(昭和24)年から4年10か月の記録には、昭和天皇の言動が、田島との対話形式で克明に記されていた。敗戦の道義的責任を感じていた昭和天皇は、当初「情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」としていた。さらに、1952年の独立記念式典の「おことば」で戦争への反省に言及しようとする。しかし、吉田茂首相からの要望で、最終的に敗戦への言及は削除されていく。その詳細な経緯が初めて明らかになった。番組では、昭和天皇と田島長官の対話を忠実に再現。戦争への悔恨、そして、新時代の日本への思い。昭和天皇が、戦争の時代を踏まえて象徴としてどのような一歩を踏み出そうとしたのか見つめる。



4. 2019年8月25日 06:13:52 : 3csOCwWWr2 : WTl6YnpiR3JkNlU=[3] 報告

まあ、昭和天皇は、卑怯で臆病者だがバランス感覚はあったということだろう。

 安倍バカ総理は、バランス感覚どころか 卑怯で臆病者で、金に汚くて・・・(書くに耐えない)、

5. 赤かぶ[27293] kNSCqYLU 2019年8月25日 08:05:12 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[17360] 報告


6. 赤かぶ[27294] kNSCqYLU 2019年8月25日 08:06:03 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[17361] 報告


7. 2019年8月25日 09:18:57 : ExxjdhsB4w : SjdPQUV2UGV1SVU=[12] 報告
ヘタレだけど、保身術は人一倍優れていた・・・・・・。

まあ、昭和天皇に限らず、日本の上層部には、こういう奴ばっかになってしまった。

8. 2019年8月25日 10:10:15 : zXPiiG6x2Q : VjMvZUtpd3VpQ0U=[1] 報告
 大日本帝国憲法は、例えば江戸幕府のような旧支配勢力の復活を阻止する目的で天皇主権とされた経緯があったにもかかわらず、開戦当時「東条幕府」とも言われた体制ができるに至り、事実上機能しなかったとも言われる。この検証と反省に立脚し、同じく旧支配勢力復活阻止の目的をも持つ日本国憲法は、その原則に国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を掲げる以上、その成立意義を確認するためにも、我々国民が継続して自主的に、かつ同時代の国内及び国際状況に鑑み、最新の学説等を踏まえながら、旧憲法とその時代について、現代への連続を大いに議論すべきであろう。歴史を区切って論じるところでは、常に区切る側の意図が厳しく査証されねばならぬ。そのような不断の努力により、旧憲法下の出来事をかいつまんで味付けしがちな大手商業メディアと公共放送の欺瞞を見抜くことができよう。
9. 霞ヶ関に原爆を落とせ[492] ieCDlorWgsmMtJSagvCXjoLGgrk 2019年8月25日 10:22:36 : z8EHuRbpFM : Qi5kcXVNRnVCWE0=[8] 報告
陸軍の責任者だった松井石根よりも
先に命じて軍と自分の部下たちに
南京虐殺を命じた昭和天皇の親類の朝香宮の
ほうがもっとタチが悪いだろう。
また昭和天皇はなぜ日米開戦に最後まで反対した
広田弘毅首相を戦犯にして狡猾に戦犯回避
をして逃げ回った岸信介に対してGHQに
強制的に身柄を引渡さなかったのか疑問が残る。
10. 乳良〜くTIMES[1198] k_uXx4Fggq1USU1FUw 2019年8月25日 13:49:08 : EYUUWCplc2 : djJZRnFhVm5VdEE=[3] 報告
昭和天皇に多かれ少なかれ戦争責任はあるだろうと思っていましたが、此処までの責任回避をしていたとはショックですね。

古典的な右翼は昭和天皇に戦争責任がある、と聞くと激昂するようですが、事実って冷酷なものですね。

11. 2019年8月25日 18:08:35 : POZjRfxucw : ekFCQW1YY1U2Lmc=[13] 報告

「拝謁記」に記されている1951年頃の昭和天皇の「反省」とは、単なる「悔悛の念の表明」ではなく、日本の独立後の「日本の再武装」に向けての世論工作という面があった。

1950年、朝鮮戦争勃発後に、日本国内の治安維持のために警察予備隊が組織された。

サンフランシスコ講和条約が締結された1951年頃、GHQの参謀第二部(G-2)と、G-2およびCIAの活動に協力する公職追放中の旧日本軍の中枢にいた人物たちを中心に、サンフランシスコ講和条約が発効し日本が独立する1952年以降は、日本国憲法の九条を改正して、日本が海外
の共産主義勢力と戦える独立した軍隊を持つべきだという考えが醸成されていった。

このようなG-2およびCIAの活動に協力する公職追放中の旧日本軍の中枢にいた人物の代表としては、服部機関を率いる、服部卓四郎が挙げられる。

皇室の高松宮宣仁親王も、こうした考えに同調し、日本の独立後、昭和天皇が退位した後に、警察予備隊とは別に、全く新しく陸軍と海軍を作り直し、陸軍は下村定(元陸軍大臣)、海軍は野村吉三郎をトップとして、日本の再軍備を行なう構想をCIAに伝えていた。

昭和天皇の「反省」の表明は、独立を機会に、このような憲法九条の改正と、陸海軍の再編成をおこなう前に、日本の再軍備をおこなうことを国民に理解し、納得させるための、世論工作として準備されていたと考えられる。

一方、吉田茂と、その参謀の辰巳栄一は、G-2およびCIAが考えているような日本の再軍備には反対で、日本の独立後は、今日の自衛隊の元になる警察予備隊を拡充する方向の軽武装路線で考えていた。

孫崎によると、ダグラス・マッカーサーは、吉田茂の考えを支持していたという。

Wikipediaの記述によると、吉田茂や辰巳栄一と対立していた、CIA側の服部卓四郎は吉田茂の暗殺を企てていたという。

「拝謁記」によって、昭和天皇は、戦後の日本の再軍備について、吉田茂や辰巳栄一らと反目していて、CIAや服部卓四郎、高松宮と考えを共有していたことが伺われる。
 
昭和天皇は、吉田茂に対しては、改憲・再軍備について、直接的に意見を述べなかったと思われるが、高松宮を始めとして、CIAの協力者らに対しては、重武装路線を提唱した服部卓四郎らの考えに賛成していることを述べていたと推察される。
 
 
◆ 服部卓四郎

終戦後は、参謀本部時代の経験と知識を買われ、第一復員庁史実調査部長(後に資料整理部長)となった。(その後公職追放)

GHQ参謀第2部 (G2) 部長チャールズ・ウィロビーの下でマッカーサーによる太平洋戦争の戦史編纂に協力した。

戦史編纂業務が一段落した1948年末、ウィロビーは戦史調査部を中心に裏の業務として日本再軍備の研究を託し、再軍備研究のための「服部機関」が発足した。

1952年(昭和27年)10月31日付のCIA文書によると、児玉誉士夫の支援を受けた服部ら旧陸軍将校は、自由党の吉田首相が公職から追放された者や国粋主義者らに敵対的な姿勢を取っているとして、 同首相を暗殺して民主党の鳩山一郎を首相に据える計画を立てていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%8D%93%E5%9B%9B%E9%83%8E


◆ 辰巳栄一

辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。

警察予備隊の幹部人選に駐英武官当時からの上司であった吉田茂の腹心として関与(吉田内閣で軍事顧問)、同期の木村松治郎、宮野正会ら旧陸軍の将官クラスをまとめてその基礎を作った。一方で中央情報局(CIA)の協力者「POLESTAR-5」(他にも「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」等と呼ばれた)として内閣調査室(現在の内閣情報調査室)や後の自衛隊の設置に関わる資料をアメリカ政府に流していた事が2009年10月、有馬哲夫・早稲田大学教授のアメリカ国立公文書記録管理局における機密解除資料調査で確認された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%B7%B3%E6%A0%84%E4%B8%80


◆ FEASIBILITY OF JAPANESE REARMAMENT IN ASSOCIATION WITH THE UNITED STATES
(CIA, US.GOV, March 5, 1951)

https://www.cia.gov/library/readingroom/document/0000010668

12. 2019年8月25日 18:31:52 : ourNnilU9I : bUw3OUIzWlJzcXc=[1] 報告
この記事は、拝謁記と戦後の状況分析に基づいた客観的に正しい見立てで
非常に優れ論考だ。戦中、不敬とされ頭を上げて顔を見ることも許されな
かった昭和天皇が反国民的な卑劣漢だったことが明らかになった。

このリテラの執筆者の知的レベルの前には忖度犬HKや忖度マスゴミの記
者や執筆者はゴミクズ同然である。

13. 2019年8月25日 18:44:08 : ourNnilU9I : bUw3OUIzWlJzcXc=[2] 報告
昭和天皇を擁護する言論は、支配者崇拝奴隷根性に基づいた詭弁以外の何者でもない。
14. 2019年8月25日 21:57:59 : aw1AlALyoI : T1hHQ1JwbGFNeU0=[1] 報告
リテラ>1945年2月、すでに敗戦濃厚のなか、時の首相近衛文麿は

こういう小さなミスが付け入る隙を与えるので、
リテラさんの厳密な校正作業を期待したい。

15. 2019年8月25日 23:49:07 : NafHccBqIw : ZVpvNFBpTi5Hdy4=[1] 報告
まあ、戦後すぐは確かに、ソ連、中国、北朝鮮など共産国が勢いづいていた。
昭和天皇がそれに対し、たとえ動機のほとんどが自分と皇室を守るためであったとしても、再軍備と9条改正の必要性を内々に漏らしていたとしても、共産主義国のその後を思えばそんなに誤っていたとは言えないだろう。
で、自衛隊創設はともかく、憲法については結局、変わらなかったし、昭和天皇が積極的に動いたという記録もない。
崇拝はダメだが、全否定も天皇制否定などに持っていきたい、偏った見方だと思うね。

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